マックde記号論(言語学のお散歩)

決定版イタリア2001

はじめに〜準備
12月24日(月)■成田→ミラノ
12月25日(火)■ミラノ→ヴェローナ→ヴェネツィア
12月26日(水)■ヴェネツィア→フィレンツェ
12月27日(木)■フィレンツェ
12月28日(金)■フィレンツェ→ローマ
12月29日(土)■ナポリ→ポンペイ→ローマ
12月30日(日)■ローマ→機内泊
12月31日(月)■成田着
終わりに〜その後

地図

朝のリレー 谷川俊太郎(『これが私の優しさです』集英社文庫=詩集『祈らなくていいのか』)

カムチャッカの若者が
きりんの夢を見ているとき
メキシコの娘は
朝もやの中でバスを待っている
ニューヨークの少女が
ほほえみながら寝がえりをうつとき
ローマの少年は
柱頭を染める朝陽にウインクする
この地球では
いつもどこかで朝がはじまっている

ぼくらは朝をリレーするのだ
経度から経度へと
そうしていわば交替で地球を守る

眠る前のひととき耳をすますと
どこか遠くで目覚まし時計のベルが鳴ってる
それはあなたの送った朝を
誰かがしっかりと受けとめた証拠なのだ

 フォーポインツシェラトンを7時30分に出る。プリンツィペの人はレストランが開いてないので弁当をもらってくる。

 今日は14000円のオプショナルツアーでポンペイ・ナポリ。他のツアー客と同乗ということも多いようだが、1号車だけで運航される。

 シェラトンから現地ガイドの加藤さんが同乗。話が面白い。

 イタリアで日本のアニメが人気だということは知っていた。高橋留美子は『らんま1/2』や『めぞん一刻』などが放映されていて音無響子さんはジュリエッタだという話を聞いたことがある。フランスでも「愛しのジュリエット」という名前で放送されていて、ジュリエットのイメージがないのだが、心理的なすれ違いが多いからだということに気付く。

 加藤さんによれば『巨人の星』(Tommy la stella dei Giants)が人気で何度も放映されたそうだ。星飛雄馬がトミー、花形がアレッサンドロ、伴がチャーリーで出ているそうだ。一徹は「パパ」と呼ばれる。イタリアのスポーツチームは好きな時に来て、好きな時に帰って、チームプレイも感じられず、そのギャップが好かれるのだという。とはいえ、『サザエさん』は無理だろうなと思う。だって、「カッツォ」というと「オチンチン」だからだ(“Testa di cazzo”「ペニス頭」という罵り言葉もある)。

 田丸公美子によれば、『風とともに去りぬ』のスカーレット・オハラはロッゼッラだという。「スカーレット」=「緋色」=「薔薇色」ということなのだろうが、「桃子」というイメージはスカーレットにはない。

 南へ行くほど貧しいことは十分知っていたが、便器に便座がないのが不思議だった。加藤さんによれば、便器と便座は別売で、便座を買う余裕のない人が多いので、そのままなのだそうだ。是非、TOTOが販売を伸ばしてほしい地域だ。【何と後で知ったことだが、便座がないのは貧しさではなかった。ヨーロッパの多くの国で、便座は自分で買う物で、他人の便座に座りたくないと考えている人が多いのである。そして、便座がないところでは中腰で用を足している!】

 フィレンツェ人は「鼻が臭い」と他の街の人からいわれる。自分たちの文化を自慢して鼻を高くしているから臭いのだという。

 イタリア人は友達を大切にするが、これはコネの世界だからで、友達がいればどんな書類だってすぐに出てくるが、下手をすると何日も役所に通わなければならないという。大西克寛『イタリア・ジョーク集』にあったジョークを思い出した。ある役所への電話で「ビアンコ部長いますか」「いません」「午後は働かないの」「いいえ働かないのは午前中で、午後は出勤しません」。まあ、日本でも立川志の輔が話していたが、談志の弟子になって間もなく、急いでくれといわれて急いだらスピード違反で捕まってしまって、元防衛庁長官の秘書に話をつけてやるからといいながら違反になってしまったという。最後には「元防衛庁長官が、スピード違反くらいもみ消せなくて国を守れるか」と毒づいたという。

 肩書きがものをいう社会で、大卒は「ドットーレ」「ドットレッサ」と尊称で呼び、自宅の玄関に看板を出しているそうだ。大学卒はイタリアで超エリートで高校でも大学でも口頭試問が行われていて、卒業試験などは家族が見に来ているという。どうりで「ミリオネア」のような番組がいっぱいある訳だ!と思った。試験で「オーディエンス」や「テレフォン」が可能かどうか聞き忘れた。

 イタリア人は15、6歳でもう婚約するという。

 イタリアの男は48パーセントが結婚してからも毎日母親と会いたいというマザコン。“シモネッタ”として有名な田丸公美子が『パーネ・アモーレ』(文藝春秋)で書いていた話を思い出した。スキー回転競技の三冠王で、金メダリストのアルベルト・トンバ【トンバ・ラ・ボンバ=爆弾トンバと呼ばれた】はテレビで「アルペン競技の“滑降”には挑まれないのですか」と聞かれて答えた。「ママが危ないから駄目だって」…。そう言えば、イタリアのプロサッカー選手がゴールを決めたとたんにテレビカメラに走り寄り、「マンマ、マンマ」と大声を上げ、投げキッスをしたことがあった。「お母さん、やったよ」ということなのだろう。イタリアの男性は社会人になっても「マンマのパスタを食べたいから」と昼休みに家に帰る息子たちは多いという。

 イタリアの男性が初めての子を持つのは平均33歳で、父親となる年齢としては世界で最も高い。30〜34歳の男のうち4割が親元で同居し、自立が遅れている。30代から40代の比較的高所得のホワイトカラーで実家に住み続ける男性を「マモーニ」というが、自立できないのは何も日本だけではなさそうだ。

 「イタリアで1分待ってといわれたら、5分、10分は当たり前、1時間といわれたら2時間、3時間は当たり前」……。

 20年前に初めて来た時、ポンペイの遺跡は5分の2が発掘されていたが、今も5分の2発掘されているという。

 失業率が高いが、例えば500万儲ける人は500万の税金を払わなければならないので、闇の仕事が多いのだという。これは後に財政破綻するギリシャも同じである。

 四月十二日の日曜日、パーム・サンデー、ウサコとウビさんの夫婦とぼくと女房の四人でメータ村に遊びに行く。メータ村はローマから車で北西に向けて二時間か三時間行ったところにある小さな村である。かなり詳しい地図にも載っていない。……どうしてわざわざこんな村に行くかというと、ここがウビさんの生まれた故郷だからである。十六の年までここで育った。両親は健在でまだここで暮らしている。「なにしろ家賃がやたら安いからね」とウビさんは言う。「一年の家賃がなにしろ3700リラなんだもの」
 3700リラといえば、約400円である。
 聞き違いだと思って、もう一度確かめる。でもやはり400円。
「父はずっとこの役場に勤めていてね。もうずっと前に退職したんだけど、その後でも公務員用の家にずっと住んでるんだ。死ぬまで住んでいいんだよ。そういう点ではこの国はすごく恵まれているんだ。そうおもわない?」
「たしかに」と僕は言う。
「なにしろ、僕の父の年金の額が僕の基本給より多いんだもの。ひどい国だよ。そんなことしてるんだもの、財政赤字で破産するわけさ。国民が国から金をむしりとっているようなもんだから」
「日本と逆だな、そういうのは」
「そうそう。逆だよ」とウビさんは肯く。「そういう点では日本の人はかわいそうだと思うな。日本は国自体は金持ちなんだけど、国民生活はそれに比べたらあまり豊かとは言えないものね。休暇も少ないし、土地も高いし、税金も高いし、自慢じゃないけどイタリア人は税金なんてほとんど納めないんだよ。ちゃんと税金払ってるのは僕ら公務員くらいのもんだよ(彼は外務省勤務である)。あとはもうホント無茶苦茶だね。

  「メータ村までの道中 1987年4月」(村上春樹『遠い太鼓』講談社文庫)

 加藤さんがバスの後ろの方を見て「眠くなられたのでは」と話を中断しそうになるのだが、どんどん続けてほしかった。

 遊んでいる子どもを見ないが…という質問に対して誘拐が多いから、だとの答え。小学校などでも親が迎えに来ないと渡さないという。マフィアが暗躍していて商売になっているのだという(アメリカも多いが離婚と親権の問題が多いようだ)。

 ポンペイへ行ったら「娼婦」という言葉を使うが大丈夫かと聞かれて、「きれいなお姉さんたち」と言い換えてもらえれば幸いですと答えた。

 ヴェスヴィオ山が見えてくるが、雨が降っていて頂上には雲がかかっている。1943年以来噴火していないというが、今度噴火したら大噴火だといわれていて、溶岩が住宅地に流れてこないように処理もしてあるのだそうだ。

 ヴェスヴィオはポンペイが埋まる79年の噴火はことのほか凄かったようだ。『博物誌』を著した大プリニウスはヴェスヴィオに近づこうとして火砕流とそれにともなう有毒ガスで窒息死した。「きのこ雲」のような噴煙が見え、人は落下物を防ぐため頭に枕を縛り付けたと、おいの小プリニウスが書いている(『素顔のローマ人』河出書房新社)。澁澤龍彦は「火山に死す」(『唐草物語』)で、プリニウスの最後の姿を想像力たくましく描いている。ただ、OEDではPlinyism「大プリニウス(西暦23年から79年)の『博物誌』に散見されるような、正確性、事実性が疑わしいと思える発言や説明、報告」という単語が記載されているから、全てを信じるわけにはいかないだろうが…。

 14歳のモーツァルトも姉のナンネル宛てに「今日はヴェズーヴィオ火山が猛烈に煙を噴いています。やあ、すごい閃光。いつまでもきりがありません」と書いている(『モーツァルト書簡全集II』)。

 ゲーテも『イタリア紀行』(岩波文庫)でヴェスヴィオを訪れた時のことを書いていて、まだまだ噴火が続いていたことが分かる。「われわれは円錐形の火口の下方から噴き出している物凄い噴煙めがけて、元気よく進んで行った【…】地面はますます熱くなってきた。堪えがたいような濃い烟が渦を巻いているので、太陽も暗くなり、息も詰まりそうである」。さすがに案内人が引き留めたので「そこでわれわれは地獄の釜から逃れた」 。

 「その、なんだな、エンペドクレスってのは、例のイオニア派のあれだな。」
 「イオニア派?」と、とたんに彼女の声が険しくなった。無理もないけれど。
 「うん、ほら、万物は火と風と水と土からできていて、愛と憎しみの力でくっついたり離れたりするって言ったやつだ。火と風と水と土がだよ。」
  ぼくはできるだけ陽気に言ったのだが、彼女はもう氷のように冷たくなってしまった。もういけない。
 「へえ、あなたよく知ってるわね。」
 「だって受験生だからね。まあ、八百屋がキャベツ売るようなものだ。」
 「ほんとによく知ってるわ。」
 「つまらないことをいっぱい、ね。」
 「あたしをからかってんの?」
 「ちがうよ。しまった、と思ってんだ。分るだろ?」
 「そう。」と彼女は素っ気なく言って、それから改めてきめつけるような調子で「じゃ、分ったのね。」と、ゆっくりと言ってきた。
  これじゃ、ぼくだってちょっと頭にきてしまう。
 「なにが? つまり、サンダルがきちんとそろえて脱いであったんだろう?」
 「そうよ、ヴェスヴィオスの火口にね。」
 「世界最初の、純粋に形而上的悩みで自殺したんだな。」

庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』

 塩野七生『ローマ人の物語X すべての道はローマに通ず』(新潮社)によれば、「すべての道はローマに発す」といった方が正確で、主要道路は可能な限りまっすぐで計8万キロも建設されたという。中央に幅4メートル強、対向2車線のシャドウがあり、その両側には排水溝と幅3メートルの歩道があった。車道は4層の基礎の上に70センチ四方の大石を隙間なく張りつめ、排水のために真ん中が高くて緩やかな弓形になっている。樹木も切って根が道を痛めたり、見通しを防ぐこともなかった。脇には石のベンチや墓やマイル塚がおかれ、その外側に松や杉が植えられたという。街道沿いには馬の交換所、飲食店、旅宿が配置され、立派な地図も用意されていたという。軍事や郵便だけでなく、一般の人も利用したという。

 ムッソリーニが作った高速道路もひたすらまっすぐだ。日本人は名神高速のように単調だと眠ってしまうが、イタリア人は単調さを何とも思わないものらしい。

 4時間近くたって高速道路から離れると海が右手に見えてきた。ナポリ湾だ。「帰れソレントへ」のソレント半島とひょっこりひょうたん島のようなカプリ島が見えてきた。

 10時30分に雨の中、駐車場に着いて、『ジュラシックパーク』の入り口みたいなポンペイ遺跡に入る。

 いうまでもなく、ポンペイは西暦79年にヴェスヴィオ火山の爆発で封印された街だ。東西1.3km、南北700mで市民広場を中心とする旧街区、碁盤目状に整備された新街区とで構成されている。ローマもそうだが、最初からしっかりした都市計画があった。噴火で6メートルもの火山灰の下にまるごと埋もれた。18世紀に始まった発掘で、地中からは舗装された道路や公共広場、闘技場などが次々と姿をあらわした。

 塩野七生の『ローマ人の物語VII 危機と克服』は「誰もが、いつもの地震と思いこみ、ゆれが収まるまで、屋内にひそんでじっと待ったからである」と書いているが、いつもの震動だけでは終わらず、熱した火砕石が降ってきた…。ポンペイ人も日本人も「ゆでカエル」のように危機には気づかないものらしい。

 子どもたちは夏に東京で世界遺産ポンペイ展を見ていて、不評だったので、本当の遺跡を見せればいいかなぁと思ったのである。ところが、ただの遺跡で、ガイドがいなかったら何がなんだか分からないようになっている。出土品も博物館にあるようで、どの家も迫力がない。

ポンペイ展のフレスコ画「パン屋の夫婦」

 娼婦の館で加藤さんはしっかり「娼婦」と話していた。もちろん、ベッドがある訳ではない。絵とトイレがあるくらい。道には男性器の彫刻がしてあって幸運を示したという。

 人の遺体の石膏が飾ってある。ロッセリーニ監督が離婚寸前の妻イングリッド・バーグマンで撮った『イタリア旅行』(Viaggio in Italia)という映画を思い出した。既に冷え切った夫婦がナポリやポンペイを旅行するのだが、知り合いの招きでカタコンベを見た後、ポンペイの発掘現場を見物する。調査員が手際よく遺体を発掘するのだが、出てきたのは固く抱き合った男と女の遺体だった。映画のラストではナポリの殉教者の行列を見物する時に熱狂した観衆で二人は引き離されてしまう。二人は必死に人を押しのけて走り寄り、しっかりと抱き合う…。ちなみにゴダールはこの映画を見て、一台の車と男と女がいれば映画ができるということを学んで『勝手にしやがれ』を撮ったと証言しているように、ヌーベル・バーグに大きな影響を与えた。撮影する分の脚本を前日に用意するという即興スタイルに、夫役のジョージ・サンダースはすっかり参って、連日、電話で分析医の診断を仰いでいたというから、「勝手にしやがれ」感いっぱいの撮影現場だったのだ。

 横断歩道や道の立派なことには驚いた。映画『チップス先生、さようなら』で出てきて、恩師の松本克己先生も音がよく聞こえると話していた円形劇場はちょっと離れているので連れていってもらえなかった。最後にお金持ちの家というのでヴェッティの家に連れていってもらう。キューピッドを描いた壁画が当時の文化水準の高さを物語っていた。

 ゲーテは18世紀後半に訪れた。「吾々は日曜にポンペイへ行つた。――世界にはこれまで色々の災禍が起つたが、後世の人々をこれほど愉快にするものは余り他に類がないだらう」(『伊太利紀行』岩波文庫) と書いている。愉快とは不謹慎に思えるが、昔の暮らしを、街路や店の様子もそのまま、壁画の色も鮮やかに知ることができる奇跡という意味に考えればいいだろう。

 雨の中、2時間くらい、散歩してゲートに戻る。

 時がすぎて、〈廃墟〉になぐさめを得ているじぶんに気づいたのは、比較的最近のことだ。それは、あるとき、古代についての本を読んでいて、廃墟は、もしかしたら、物質の廃頽によってひきおこされた空虚な終末などではないかもしれない、と考えたことがきっかけだった。それにつづいて、人も物も、〈生身〉であることをやめ、記憶の領域にその実在を移したときに、はじめてひとつの完結性を獲得するのではないかという考えが、小さな実生のように芽ばえた。かつては劣化の危険にさらされていた物体が、別な生命への移行をなしとげて あたらしいく物体〉に変身したもの、それが廃墟かもしれない。そう考えると、私はなぐさめられた。
廃墟はまた、人びとが歩いてきた、そして現に歩いている、内面の地図のようにも思えた。迷路に似た廃墟の道をたどりながら、私たちは死んでしまった人たちの内面をなぞったり、あるいはまだ生きているじぶんの内面に照合したりすることができた。そう考えてくると、なにも幼稚園の遠足みたいなよそよそしさで廃墟を歩くことはなかった。廃境は私たちの内面そのものであり得たかもしれないのだから。

須賀敦子『ユルスナールの靴』

 お昼はバスで3分くらいのモンテ・カッシーノというレストランに入る。ローストポークが出る。「キリストの涙」というワインをボトルで飲む。ここでは二人組で歌を歌っている。昨日の人に比べて上手ではなかったが、ママが「カタリ、カタリ」を歌ってくれ、というと10000リラだという。「だったらいい」というといきなり5000リラにまけてくる。歌ってもらうが、10000リラという値段は「騙り、騙り」だ!

 ナポリに向かう。途中、カメオのジョバンニ・アーパという工場に寄る。マエストロを紹介されるが、手にタコがいっぱいできている。高いものと安いものでは彫りが全然違うという。実際に中に入ってみて、色々な製品を比べるとはっきり分かる。『旅情』の教えに従って値切ろうと考えた。ロッサノ・ブラッツィが最初10000リラといって、ヘップバーンがその値段で買おうとすると「イタリアでは値切るものだ」といって自分の方から8300リラに値段を下げるシーンがある。

 12万位のを11万にしろ、というと店員の一人が大丈夫といって幹部を呼ぶ。ところが、幹部は11万5千円から譲らない。「日本ではカメオのいいのを持っていても誰も評価してくれないから買える値段はこれだけだ」というが結局、商談は成立しなかった。後で本当に高いものを見ると、とても買えるものではない。土産物としては10万が限度だと納得した。

「ナポリを見て死ね」という言葉はイタリア人は言わないそうだ。田丸公美子『シモネッタの本能三昧イタリア紀行』(講談社)によれば、18世紀から19世紀初頭、英、仏、独の貴族の子弟の間で流行ったイタリア・グランドツアーの口コミ情報として生まれた言葉だそうだ。そして、今のナポリは「やくざの抗争に巻き込まれて死ぬ危険もある」くらい無秩序な無法地帯になっているという。

 でも、やっぱりナポリに行きたい。ある初老のアメリカ人実業家がナポリの絶景を前にして「あー、何という美しさ、艱難辛苦働いて成功し、やっと夢をかなえられた。俺はなんて幸運なんだ」と幸せに浸っていると、彼の足元の海岸に寝そべっていたナポリのおやじが「俺はここで生まれて、ほとんど働かないで毎日この景色を見ているんだ、俺の方がはるかに運がいいやね」と答えたという小話がある。

 こんなジョークを思い出した。飛行機の機長がアナウンスする。「『ナポリを見て死ね』といいますが、それほどナポリの夜景は素晴らしいものです。ところで、本機はただいまナポリ上空を通過中ですが、残念ながら故障が見つかりました。まもなくエンジンが止まります。どうぞナポリをお楽しみください」。

 ずっと雨だったのに、近づいてきて晴れ間が見えてきた。ナポリはど田舎だと聞いていたが、立派な高速道路の立体交差があって、丹下健三の高層ビルもあって大都会だ。漁村だと思い込んでいた。でも、加藤さんのいう通り、アパートには洗濯物が干してある(他の都市では許されない)。車も窓やドアが壊れてなければナポリの車といえないそうだ。

 塩野七生『イタリアからの手紙』(新潮文庫)には塩野自身が、ナポリでクルマごと盗まれた話が書いてある。サンタ・キアラ教会の前でハンドルが動かないような鍵まで掛けていたのに、盗まれたという。この本には第二次世界大戦直後に、ナポリ湾に入っていたアメリカの戦艦が消えてしまった事件も紹介してある。ほとんどの乗組員は上陸していたのだが、残った者も、艦長が呼んでいると言ってきた一人のナポリ人の言葉を信じて下艦して、一夜を楽しく過ごし、港に帰ってきてみれば、自分たちの艦が跡形もなくなっていたという。恐らく、どこかで密かに解体されて鉄板の山に化したのだろう。

 こんなに治安が非常に悪いから、観光客が止まれる所は3カ所しかないそうだ。「カモッラ」と呼ばれるナポリのマフィアもうろうろしている。戦後書かれたクルツィオ・マルパルテの『皮』(村山書店)にしても、ナポリの街は空腹をしずめるために漁りあるき、さまよいまわる人間と、焼け跡の残骸の下に埋められた死んだ人間との住む街と描かれている。そして、それはナポリだけでなく、どの街もナポリと変わらないことを教えてくれる。

 バスが町中に入ろうとしたら、規制されていて入れないという。観光都市なのに観光バスを規制するとはどういうことだろう。ドライバーは海岸線を迂回して行ってみるが保証はできないという。ぐるーっと回って、10分した高級住宅街の道の途中で降りて下さいと言われる。「5分だけ!」という。ソドムとゴモラかと思う。

 しかし、晴れ間に見えたヴェスヴィオ山やナポリ湾、ソレント半島、カプリ島のコントラストは見事だ。今回は本当に天候に恵まれた。観光客としてナポリを見るのではなく、イタリア文化をぎゅっと凝縮したようなナポリに生まれ育つことが、もしかしたら、最高なのかもしれない。

「海を近くに」   茨木のり子(『鎮魂歌』)

海がとても遠いとき
それはわたしの危険信号です

わたしに力の溢れるとき
海はわたしのまわりに 蒼い

おお海よ! いつも近くにいてください
シャルル・トレネの唄のリズムで

七ツの海なんか ひとまたぎ
それほど海は近かった 青春の戸口では

いまは魚屋の店さきで
海を料理することに 心を砕く

まだ若く カヌーのような青春たちは
ほんとうに海をまたいでしまう

海よ! 近くにいて下さい
かれらの青春の戸口では なおのこと

 5分間だけ写真撮影をしてバスに乗る。

 ヴェスヴィオ山のあるナポリは桜島との関係で鹿児島と姉妹都市だという。鹿児島にはナポリ通りがあって、ナポリには鹿児島通りがある。ドライバーがわざわざ、鹿児島通りの横を通ってくれた。ナポリ通りは立派だそうだが、こちらはただの裏通りだった。

 漱石もナポリに来ている。

明治33年10月18日(木) 地中海の船上にてイタリーに寄港
Naplesに上陸して cathedrals を二つ、 museum 及 arcade Royal Palace を見物す。寺院は頗る荘厳にて、立派なる博物館には有名なる大理石の彫刻無数陳列せり。かつ Pompeii の発掘物非常に多し。 Royal Palace も頗る美なり。道路は皆石を以って敷きつめたり。この地は西洋に来て始めて上陸せる地故それほど驚きたり。

 途中、ドライブインに入ってトイレ休憩。

 ローマに入ると、修道士のような糸杉をたくさん見かける。

 郊外から来たからシェラトンに直行のはずだが、コロッセオ付近の免税店オリベリに行く。

 トイレも入ったし、何の用もないのに入るのは阪急の仕掛けたものだ。何もオプショナルツアーに免税店をつけることはないのにと思うし、連れていく添乗員も嫌だろうなと思う。未蘭が寝込んでしまったので祐貴と二人出かける。既にいっぱい買っているし、予定外だったので、みんなも早めに出る。

 他の人を待ちながら旅行の感想を話し合う。

 誰かが「10万円だから人が多いのも免税店も仕方がないが、安くてもいいツアーだった」という。僕が「そう、10万円だからといって手抜きがなくて、ツアコンも本当は新人で僕らの方が詳しかったりしても文句もいえないと思っていたのに、久保田さんみたいなベテランで、びっくりした。お客が2、3人いなくなっても文句がいえない(笑)」という。「ホテルだってイ・チリエギ以外はよかったし…」「そう、ルックJTBの人は最後のレオナルド・ダ・ヴィンチが一番いいくらいだったといっていた」と僕。「10万は安くないよ、フツーだよ」という人もいたが、「別の日なら分からなくもないけど、12月24日発で10万はやっぱり安い」というと、みんな納得。

 そこへ久保田さんが帰ってきて「どんな旅行社でもいいですが、是非また、イタリアに来て下さい」というので「どんな旅行社でもいいですが、久保田朋子と行くツアーだったらどこへでも行きます」。

 中心街に来ていたのでプリンツィペに戻って、真実の口があるサンタ・マリア・イン・コスメディアン教会の前で少し止まってそれから郊外のシェラトンに戻る。

 子どもたちはお腹をすかしていると思ってシェラトンのレストランに入る。ここでも久保田さんがメニューを読んであげたりしている。僕らのところにも「お手伝いしましょうか?」と来てもらったが、「そんなことより早く食べて下さい」といった。

 でも見ていたら、いきなり「ビール」と注文した人がいて、ボーイさんが困ってしまっていた。いきなり「勘定」と言われるようなものだからだ。飲むまねをしたら、分かったようだった。フランスでレストランに入り、何もわからないので、隣の婦人の食べているフライを見てボーイに指さし、そっとフライと言ったら婦人の勘定まで“とんできて”つけられたという話が小林健『日本初の海外観光旅行 九六日間世界一周』(春風社)に出てくる。

 注文したのは未蘭がビフテキで祐貴がチキンだったが、来たら替えっこして食べていた。スープは水分が少なくて塩辛かった。僕らはラビオリを頼むが、これも塩分が多くて、おかげでミネラルウォーターをみんなで2本飲んだ。『ニキータ』で初めてのスーパーでラビオリの缶詰めを買って、軟派した男の子と一緒に食べるのが印象深かったのだが、こちらはちょっと期待外れ。快適なホテルなのにクレジットの処理機がうまく作動せず、時間がかかった。

 レストランを出るとシェラトンのショップは全部閉まっていた。免税店に寄ったおかげでせっかくのホテルでの楽しみがなくなった。

 明日は4時起きだ。


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