マックde記号論(言語学のお散歩)

決定版イタリア2001

はじめに〜準備
12月24日(月)■成田→ミラノ
12月25日(火)■ミラノ→ヴェローナ→ヴェネツィア
12月26日(水)■ヴェネツィア→フィレンツェ
12月27日(木)■フィレンツェ
12月28日(金)■フィレンツェ→ローマ
12月29日(土)■ナポリ→ポンペイ→ローマ
12月30日(日)■ローマ→機内泊
12月31日(月)■成田着
終わりに〜その後

地図

 フィレンツェ!

 最近では『冷静と情熱の間』(ルルーシュの『男と女』みたいな映画)ですっかり有名になってしまった街だが、僕にとっては『眺めのいい部屋』の街で今でもポスターを大切にもっている。

 今日はゆっくり8時15分に出ることになるが、母子が遅れてくる。30分だと間違っていたのだという。ようやくホテル・イ・チリエギを出る。予定を書いたスリップがもらえないが、ツアコンの久保田さんは「コピー機が壊れていて作れませんでした」。コピーも動かないホテルなんて!

 バスで30分。ミケランジェロ広場に行く。ドゥオーモなどフィレンツェが一望できる丘だ。前回は雨だったので行かなかったのだが、今回は快晴でとてもよく見える。アルノ川もよく見える。子どもたちも気持ちよさそう。ここにもダビデ像のコピーがある。

 高級住宅街を通ってアルノ川沿いで止まる。現地ガイドさんと日本語のヒビノさんが入ってくる。ヒビノさんはここよりももっと近い所で降りましょう、というので、北に向かう。予約していたアカデミア美術館が近いのでラッキーという気分になる。

ダヴィデ
《拡大》

 北側で降りてアカデミア美術館に向かう。ここはダビデ像が何と言ってもメイン。自治の国であったフィレンツェの象徴として、元々はシニョーリア広場に置かれていたのだが、公害がひどくなって疎開してきたのだ。フローレンスアートで予約していた保証書を出すとチケットが発行されて、ネットが機能していることを(当たり前だが)確認。ダビデ像は思ったよりも大きい。外のコピーは比べるものがないので小さく見えるが、こちらは美術館の中に入っているので、より大きく見える。それもそのはずで、ダビデ像はどの本にも410センチと書いてあって、長い間信じられてきたのだが、1999年にスタンフォード大学のチームが特殊カメラを設置する櫓を組んだら高さが足りなくて焦ったという。実は517センチあって、1メートルも間違ったままだったのだ。いかにもイタリアらしい話だ。ダビデの目はハート形になっているが、当時は「ハート形」自体がなかったという。ミケランジェロはきっと日本の少女マンガみたいな目に星を入れたかったのだ。

 ダビデは青銅のヨロイに身を固めたゴリアテのひたいに石つぶてを撃ち込んで倒した。肩からかけているのは投石用具のヒモだ。民衆のために巨大な怪物ゴリアテを射抜くような鋭い眼光。正義感と強靱な意志と勇気。手には、武器としての石つぶてが、しっかりと握りしめられている。「ミケルアンヂェロは、いま、生きている。うがたうひとは、“ダヴィデ”を見よ!」という文で始まる羽仁五郎『ミケルアンヂェロ』(岩波新書)で語られているように、都市国家フィレンツェ市民の自由と勇気の象徴である。

 ちなみに、オチンチンが小さい理由は『ペニスの歴史』(作品社)に書いてあった。つまり、「古代ギリシャ人にとって、男性美の理想とは、小さいペニスと筋肉の引き締まった尻であった」という。なるほど。

 ドゥオーモに向かうがママはサンマルコ修道院でフラ・アンジェリコの受胎告知を見なければという。アカデミアの横だったのに忘れていたのだ。子どもたちはまた戻って美術館に行くのは嫌だという。喧嘩しながらドゥオーモの前。ママだけサンマルコに向かわせて二人を連れてドゥオーモ。暗くて雨が降っていた前回と違って快晴になったのでドゥオーモの綺麗さがよく分かる。同じ建造物には見えないくらいだ。

 まだ開場していないのだが、入り口に久保田さんと同行の女性がいた。旦那さんがはぐれたのだと言う。久保田さんは旦那さんの海外経験や性格を聞いたり、忙しそうにしていた(後でシニョーリア広場で発見される)。

 時間になってドゥオーモ(花の聖母マリア大聖堂)に入る。前回は25日のミサの最中だったので、人がいっぱいいてよく分からなかったのだが、内部は異常なほどあっさりしている。ミラノのドゥオーモとは対照的だ。よく見ると中からもクーポラに登っている人たちが見える。『冷静と情熱の間』を思い出してしまう。400段も昇るのは子どもたちが大きくなった時にしよう!

辻仁成 『冷静と情熱の間 blu』
第一章   人形の足

この街はいつだって光が降り注いでいる。
ここに来てから、ぼくは一日たりと空を見上げなかった日はない。
青空はどこまでも高く、しかも水で薄めた絵の具で描いたように涼しく透き通っている。
霞のような雲はまるで塗り残した画用紙の白い部分みたいにその空の中を控えめに漂い、風や光と戯れるのを喜んでいる。
こうしてドゥオモの袂に立ち、大聖堂の壁面沿いに光の源を見上げて、中世の人々の意識の背伸びを想像するのが日課となってしまった。
ドゥオモはフィレンツェの街の真ん中に従耳えており、大抵どこからでも見ることができる。
天才建築家ブルネッレスキによって掛けられた半球状の円蓋クーポラは、スカートを膨らませた中世の貴婦人を見るようで微笑ましい。チェントロ(街の中心地)の方角を確認するにはいい目印になる。
花の聖母教会とも呼ばれるこの大聖堂の、白と緑とピンク色の大理石で装飾された外観は、威厳と優雅さに溢れ、見上げる者を圧倒する。

 二人は2000年5月25日にドゥオモの頂上で会うことになる。「頂上にはまだ誰も登ってはいなかった。展望台をぐるりと回り、三百六十度のフィレンツェを上から見下ろした。歴史をそのまま背負った街。二十一世紀という新しい千年期に突入した今もまだ中世を大切に留めている街」と書いているが、2000年はまだ21世紀ではない。

 電池がなくなったというのでコダックの店に入る。ウフィッツィのスクリーンセーバーも15000リラで売っていたので買う。外に出て、クーポラを眺める。澄み切った空とドゥオーモのコントラストが見事だ。見上げると上まで登っている人がいっぱいだ。入り口は行列になっている。子どもを連れて436段も登るのはちょっとしんどいので、ドゥオーモをぐるっと回るだけにする。

 ママが戻ってきたので、洗礼堂のギベルティの天国の門を見る。古代ローマの遺跡だったもの。

 馬車がいっぱいいたので、時間つぶしに乗ろうかと値段を聞いてみると100000リラ(7千円くらい)という。約30分で思い出になるからと子どもたちを誘うが、嫌だという。

 ディズニーストアなどを物色したり、ベンチに腰掛けたりしながら、シニョーリア広場に行く。ここはダビデ像のコピーとネプチューンの噴水があり、ヴェッキオ宮がある。

 お昼をどこで食べるか考えるが、目の前にあるのは日本語のメニュー付きのレストランでいかにも日本人目当てらしくて止める。

 レストランを探していたらオモチャ屋があって中に入る。子どもたちは悩んだ揚げ句、ハリー・ポッターのカードを買う。お金を払って出ようとすると祐貴が「オスカー像だ!」というのでウィンドーを覗くとオモチャのオスカーが置いてあった。アカデミー賞は取れそうもないので、買うことにする。最後の在庫だそうで(本当か分からないが…)、綺麗に包んでもらう【後に番組で使えたので元が取れた】。

 近くの本屋さんに入るが、めぼしいものはない。言語学者のノーム・チョムスキーの『9・11』のイタリア語訳が既に出ているのには驚いた。

 ウフィッツィを横目に見てヴェッキオ橋に行く。カップルも多いし、高校生たちがいっぱいたむろしている。平気で路上キスをしている。立木鷹志『接吻の博物誌』(青弓社)という本を読んだら、欧米でも接吻は禁止されたことがあるという。1924年、ソヴィエト連邦の人民委員会は、非衛生的という理由で禁止したというし、スペインでも白昼の接吻は違法とされていた。1926年、イギリスで「婦人接吻反対同盟」というのが設立されたし、米ニュージャージー州の衛生局も伝染病を予防するという理由で、接吻を制限する訓示を出したという。欧米人だからキスは当たり前だと思ってはいけないのだ。

ヴェッキオ

ヴェッキオ橋(祐貴撮影)

 橋を渡ると宝石屋がいっぱい並んでいて綺麗だ。昨年は閉まっていて何となく屋台の宝石屋さんだと思い込んでいたが、銀座のような賑わいなのに驚く。

 戻って歩いていたらL'Orogioというピザ屋さんが目に入る。カットしたピザやケーキがいっぱい並んでいて、注文するとレンジで温めてくれる。日本のコンビニ弁当みたいな感じ。コーンサラダや飲み物なども注文して席に座る。温め具合が少し足りないが美味しい。イタリアの女子高生たちもいっぱい入ってくる。どの子もリカちゃん人形みたい。

 2時近くまでふらついて、ウフィッツィ美術館に入る。

 2時間も3時間も待っていた人が多いと聞いたので予約したが、久保田さんの話の通り、冬場はがらがらで、予約の方がむしろ時間がかかったし、何よりも予約時間までがムダだった。3階まで上っていって、鑑賞を始める。

 祐貴は「キリスト教の絵なんか大嫌いだ。どれも血が出ていたり、釘が刺さっていたり…」と抵抗する。確かにキリスト教美術にはマゾヒスティックな部分がある。ローマ時代の信仰だった時には復活した“健康な”キリストが描かれていたのがマゾになってきた。

 この答えが酒井健の『ゴシックとは何か 大聖堂の精神史』(講談社現代新書)に書かれている。紀元11世紀の北フランスでは鬱蒼たる森に覆われた大自然の中で暮らす農民のほとんどはケルトやゲルマンの森の地母神を信ずる異教徒だった。やがて、森を恐れないシトー会の修道士たちの大開墾運動が始まると、森林はどんどん伐採され、三圃制農法や農具のおかげで農地が拡大し、食料事情は2倍に好転したが、逆に3倍の人口増加をもたらしたため、余剰人口は都市に集まった。根無し草(デラシネ)だった彼らの森の代理物として聖母マリア信仰に基づく大聖堂が建てられた。林立する尖塔、ステンドグラスからの光が彼らに深い森林を呼び起こした。シトー会の影響でマリア崇拝は頂点に達し、修道士の制服はマリアの白百合の象徴の白になった。マリア信仰と大聖堂の建立は民衆の地母神崇拝と森への畏怖をキリスト教的に解釈し直すことで、自分たちの権威を強化しようと考えたカトリック教会と国王が生み出した表象的代理物だったという。

 そこ【大聖堂】は深い森の世界である。身廊から内陣にかけて左右に立ち並ぶ高さ二十メートル有余の石の柱たちは、大開墾運動のなかで消えつつあったブナ、ナラ、カシワなどの高木の形象化にほかならない。【…】堂内の薄暗く、不気味で、神秘的な気配は、昼なお暗い平地林の雰囲気を伝えている。

 ゴシック様式の聖堂の登場と同時にキリスト像のイメージも変わった。「勝利のキリスト」から、脇腹から血をしたたらせる「苦悩のキリスト」にイエス像は変容を遂げた。「目は閉じられ、頭は横に倒れ、手足から力が抜けて、身体全体が釘打ちの個所に吊るされている痛々しい姿なのだ。衣服といえば、越からわずかに布をまとっているだけで、脇腹の傷口と出血は露(あらわ)である」(酒井)という、「苦悩のキリスト」は、大地母神に生け贄を捧げたケルト人にとっては、神に捧げられた犠牲であり、彼らはキリストの苦悶に自分たちの苦しみを重ね合せることで、 魂の救済が可能になると感じたのである。磔刑のキリストの上に“INRI”と書いてあることが多いがこれはラテン語の“Iesus Nazarenus Rex Iudaeorum”(ユダヤの王、ナザレのイエス)でイエスが告発された時の罪状を書いてある。また、イエス以外の罪人は釘付けされていない。

 ちなみに「ゴシック美術」というレッテルを作ったのは『美術家列伝』の著者でルネッサンスの画家兼建築家だったヴァザーリで古代ローマ美術を破滅に導いたゴート人の建築様式を過小評価しようとする一種の偏見だった。だから「ゴシック」という言葉は「ゴート族の」という意味を離れて「野蛮な」という意味を持っているし、「ゴシック小説」というのは「怪奇小説」を意味するようになった。

 若桑みどりは『クアトロ・ラガッツィ』(集英社)で、イタリアの芸術は「ボッティチェッリは女の裸を描き、…ミケランジェロときたら、そのダビデにしても全部素っ裸で広場に立っていたから、神父たちは、おお、マンマ・ミーア(なんてこった)と思って少年【天正遣欧少年使節団】の目を覆ったにちがいない。なんとこの花のフィレンツェで、彼らがわざわざ見にいった芸術といえば奇蹟を起こすマリア様の絵だけだった。マンマ・ミーア」と書いている。

春

 昨年入れなかったためのリベンジだったのだが、ようやく念願が叶った。“Uffizi”というのは英語の“office”で元々、国政の機関だった所をそのまま美術館にしたものだ(英語のパンフレットにもそのまま“The Office”としているものがある)。外もそうだが、内装も美術館にしてはあっさりしすぎている。ボッティチェリの部屋に行くまでに子どもたちは食傷気味になってしまう。「ヴィーナスの誕生」と「春」が飾ってある、この部屋には同行の人たちがいっぱいいて、ソファがあるので、座っていた。ソファっていいものだ。ずっと雰囲気に浸っていたい。ただ、2作品ともこんなに暗い感じだとは思わなかった。確かこれでも修復して明るくなったはずだ。「春」の右の男は「西風」(Zephyr)、ギリシャ語でゼフュロスだが、左端の男はヘルメス(Hermes英語でマーキュリーMercury)、フランス語でブランド名になっている「エルメス」である。知的なので、天を考えていることになっている。ウフィツィにはボッティチェリの「ユーディットの帰還」もある【若桑みどり『象徴としての女性像』筑摩書房「女英雄ユーディットの変容」が詳しい】。

 「これも有名」「これも見ておきなさい」といっているうちに子どもたちはすっかり食傷してしまう。ちょっと並べるとジオット「荘厳の聖母」、マルティーニ「受胎告知」、フランチェスカ「ウルビーノ公爵夫妻の肖像」、フラ・フィリッポ・リッピ「聖母子と二天使」、ボッティチェリ「ヴィーナスの誕生」「春」、ダ・ヴィンチ「受胎告知」、デューラー「三王礼拝」、ラファエロ「ひわ鳥の聖母」、ティツィアーノ「ウルビーノのヴィーナス」、ティントレット「レダと白鳥」、カラヴァッジオ「イサクの犠牲」、レンブラント「老人像」などなど。そうそう、マニエリスムの傑作、パルミジャニーノ「長い首の聖母」もある。

 岡倉由三郎(天心の弟で英語学者)の講義がすばらしかったと福原麟太郎が回顧している(「古典と人間の知恵」『福原麟太郎全集7』研究社出版)。ブラウニングの「アンドレア・デル・サルトー」という独白詩である。サルトーはルネサンス期の画家なのだが、ラファエロについて、おかみさんにくどいている。

---見な、あれはラファエロという五年前に死んだ男の描いた画だ。腕のつけかたなんか間違っている。チョークをよこしな、直してみせる。こういうふうにならなくちゃいけないんだ。だが、精神というやつ、心、魂、これはどうにもならない。おれあやつに、かなわない。やつの画は天へ昇っている---。

 そう、どの作品にも魂が感じられる。

 ミケランジェロ「聖家族(と幼児洗礼者ヨハネ)」の額縁の立派さにも驚いた。額縁がなくて絵だけという画集も多いからだ。ヨセフはどの「聖家族」の絵でも不機嫌な顔をしているが、ジオットはその理由を聞かれた時に、「そりゃあ、そうだろう。自分のカミさんのお腹の子どもに心当たりがないんだから」と答えたという。

ミケランジェロ

 ヴィーナスのギリシャ語名アフロディテは「泡から生まれた」を意味していて、この絵では西風がやさしく吹いてヴィーナスを岸へと運び、ニンフはミルテの花冠をつけている。「春」が板に描かれているのに対して、「ヴィーナスの誕生」はキャンバスに描かれているので、描写力が増して、明るく見える。

ヴィーナス

 ダリオ・アルジェント監督映画の『スタンダール・シンドローム』(作家スタンダールが1817年にフィレンツェの教会で美しいフレスコ画の前に立ったとき、そのあまりの崇高さ、すばらしさに触れたことによって興奮し、目眩に襲われ失神という出来事とそうした心理状態から)で女捜査官アンナがブリューゲルの「イカルスの墜落のある風景」を前に、絵の中に吸い込まれた気分になって失神する場所ともなっている。

 ようやくウフィッツィを出る。

 どこへ行きたいかと聞くと「駅のマクドナルド」と二人とも答えたので、遠いけれど向かうことにする。ブランドショップを回りながら駅に向かう。駅ではインターシティなどの急行が見える。中に入って子供たちはハッピーセットを注文する。ディズニーの『アトランティス』の潜水艦がおまけについてくる。落ちついてハンバーガーを食べながら未蘭が「故郷に戻ったよう」という。昨年、まずい料理に悩まされてようやくたどり着いたサンクチュアリだからだ。

 ママがトイレに行くが、女子は長い列ができている。水が流れず、もめていたらしい。ようやく別の閉めていたトイレを開けることにしたという。ママの後ろの男の子が二人、たんたんを踏んで「ファイナルアンサー?」って言うときの、みのもんたみたいな視線をしていたので譲ってあげたら、ダンケ・シェーンと母親から感謝されたという。ドイツ人だったのだ。二人は同時に入って一緒に便器に向かったという。

 1時間ほど粘って色々観察するが、イタリアの女子高生は本当にきれいだ。ベアトリーチェだらけだ。フィレンツェはダンテの生まれた街だった。祐貴にはイタリアに留学するように言おう。

 ゲーテは『イタリア紀行』で「彼らは…単に生活せんがためでなく享楽せんがために働いており、労働をしているときでも生活を享楽しようとしている」と書き、その仕事ぶりは「あたかも用事を言いつけられた快活な子供のよう」だ、という。イタリア語で労働、仕事、作品のことを「オペラ」というが、まるでいまにも歌い出さんばかり、踊り出さんばかりにして働く姿にゲーテは目を丸くしたのだろう。

 駅を出る。地下には色々なお店があって物色。インターネットカフェもあって「日本語のメールが使えます」という表示も出ている。お金が少なくなってきたので2万だけ両替する。他の所よりレートが高くて嬉しい。係の女の子が偽札じゃないか、しっかりとチェックしていた。そういえば、イタリア小話で持っていった1万リラが偽札だと言われた女の子が「大変、私、強姦されたんだわ!」と叫んだというのがあった。

 ファボーラというデパートみたいなところがあったので入る。イタリアデザインの電卓やオペラグラスがあったので買う。未蘭はヒョウ柄の時計を所望。

 マルテッリ通りのPizzeria e Ristoranteと書いてあったお店(名前失念)に入ってトスカーナ料理を食べる。スープを頼んだのだが、どちらもリゾットのように煮詰まっている。イタリアン・ソーセージ・ピザも食べる。屋台のお店を覗くが、ネクタイを10000リラ(700円位)で売っている。柄のいいのがあったので買うが、こういうところでお土産を買えばいいことが分かるが、気づいたのはかなり遅かった。

 シニョーリア広場に戻ると同行の人が集まってきた。

 オプショナルでピサへ行った人の中でスリにあった人がいたという。警察が張っていて、捕まったのだが、本人は全然分からなかったという。クレジットカードだと思って盗んだのがテレフォンカードだったというからドジなスリだったらしい。ピサは11年間の安全化工事を終えて1週間前から上ることが解禁されている。でも、予約でいっぱいだったという。また、ピサのバス停から路線バスに乗り換えたというから昨年からシステムが変わったようだ。

 結局、全員が集まって(タクシーで帰る距離ではない!)広場からバスまで向かう。20分ほどアルノ川沿いを歩いて、疲れてバスに乗る。途中、昨年泊まったシェラトンが見えてきた。

 カンツォーネが聞こえてきた。後で聞くと久保田さんが日本から用意してきたテープだという。

 イ・チリエギに戻って2泊目。


※フィレンツェを旅する人は山口俊明『フィレンツェ 旅の雑学ノート』(ダイヤモンド社)が役に立つかも知れない。もちろん、若桑みどりの『フィレンツェ』(文春文庫)が最高だが…。

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