決定版イタリア2001
はじめに〜準備
12月24日(月)■成田→ミラノ
12月25日(火)■ミラノ→ヴェローナ→ヴェネツィア
12月26日(水)■ヴェネツィア→フィレンツェ
12月27日(木)■フィレンツェ
12月28日(金)■フィレンツェ→ローマ
12月29日(土)■ナポリ→ポンペイ→ローマ
12月30日(日)■ローマ→機内泊
12月31日(月)■成田着
終わりに〜その後
まだ世界中を見たわけではないので、もしかしたらもっと好きな場所があるかもしれないが、今のところ私はベニスが一番好きといえる気がする。美しい場所は他にもいろいろあるが、街の色気、個人的趣味、食べ物の味など、総合点でいくとベニスはなかなか他に負けずに勝ち残るのだ。水の都なので交通手段がボートだったりして不便な点が、住むことを考えるとマイナスなのだが、別に住むわけじゃないとなると、この欠点さえ趣という長所に変わる。それでベニスはなかなか他に負けないわけだ。
それで何回も行きたくなる。できれば毎年1回は行きたい。あの石畳、車や自転車さえ通らない道、サンマルコ広場に流れる生演奏、陽のあたるカフェに咲く花、ベネチアングラスが夢々しくきらめく街角、ゴンドラから見る水に映る景色、アイスクリーム、スパゲッティ…ああ、もうダメ。私はどうしてもベニスが好きだ。
さくらももこ『またたび』(新潮社)
1980年にヴェネツィア・サミット (第6回)がサン・ジョルジョ・マッジョーレ島で行われた。
この年、うちのおじいちゃんの友達が「ヴェネツィアちゃ、いいところやいうけど、あんた行ったこと、あるがけ?」と聞いた。するとおじいちゃんは「いいとこや言うけど、わし、行ったことないがいちゃ、ベニスなら行ったことがあっけど」……のベニスにやってきた。ヴェネツィア、ヴェネチア、ベネティア、ヴェニス、ベニスなどと表記に揺れがあるのでややこしい(僕などヴェネティアと書いてしまうことがある)。ミュンヘンはイタリア語で「モナコ」と書くし、セーヌ川は「センナ川」となって便通が良さそうな名前になってしまう。
三島由紀夫は「どんなことをしても訪れるべき街」と称しているし、何よりもトーマス・マン(1912年、そしてビスコンティの1971年の映画)『ベニスに死す』の舞台でもある。ポーランド人の美少年は冥界への案内者ヘルメスの化身で主人公は作曲家マーラーの風貌を備えている。滞在中にインドのコレラが襲ってきたという噂を耳にするが、未練にかられて、留まるうちに悪疫に倒れるというストーリーだ。この映画の舞台のリド島はベニスの目の前に浮かぶ長さ12キロ、幅は最大でも4キロという細長い島で、アッシェンバッハの泊まる豪華ホテル「グラン・オテル・ド・パン」がある。「金獅子」で有名なヴェネツィア国際映画祭もこのリド島で開かれる。『ベニスで恋して』(Pane e Tulipani)という主婦がベニスに取り残されて生活を取り戻す映画もある。同じく、グルジア出身の監督オタール・イオセリアーニに『月曜日に乾杯!』があって、こちらは生活に飽きてベニスに行った男がベニスにも日常はあるのだと悟って戻っていくお話だった。
須賀敦子に『ヴェネツィアの宿』や『地図のない道』(こちらの方にヴェネツィアが多く登場する)という、素晴らしいエッセーも残っている。マーラーがマザコンだったことは有名で、足の悪かった母親を無意識にまねて、軽く足を引いて歩いていたとされる。フロイトの治療も受けているはずだ。
ダンテもフィレンツェから永久追放処分を受け、ラヴェンナに移り、招いた公爵の使節としてヴェネツィアに訪れた帰りにマラリアにかかり、ラヴェンナの自宅で亡くなっている。「アドリア海の真珠」とか「アドリア海の花嫁」と呼ばれて華麗な美があると同時に、死のイメージも強い街なのだ。
□ 隣の部屋から朝、お湯を入れている音がした。お湯が出ない時は朝沸かせばいいのに気づいた。
朝食はアメリカンスタイルでハムまで出た。
□ 7時30分にホテル・アンバシアトリを出て、バスでリベルタ橋を渡る。『旅情』はこの橋を渡る列車のシーンから始まる。ヴェネツィアは江ノ島を大きくしたようなものでもある。キャサリン・ヘップバーンが涙の別れをするサンタ・ルチア駅近くに着く。
駅の近くのトロンケット船乗り場に着く。ヴェネツィアの裏玄関から船で表玄関まで行くのだ。20分ほど乗って、左手にサンタ・マリア・デラ・サルーテ教会、右手にサン・ジョルジョ・マジョーレ教会とテレビでよく見る景色が見えてきた。
『ベニスに死す』でトーマス・マンはベニスへは海から訪れるべきだと書いていた。ベニスの表玄関は海に面しているのだから、ヘップバーンのように汽車で着くのは裏口から入るようなものだ。『眺めのいい部屋』ではペンションで一緒になったイギリスの女性作家(ジュディ・デンチ)がいう。「イタリアに来たらどんな堅物もロマンチックになる」。
サンマルコ広場を始め、いたるところにライオン像があるが、福音書記者にはそれぞれ象徴があって、聖ルカが雄牛、聖ヨハネが鷲で、マタイが羽根の生えた人間=天使、聖マルコはライオンとなっていて、ヴェネツィアの守護神になっているからだ。
島に降りるが、風が強くて寒い。雨も降りそうだ。フリースの上にしっかりとコートを着てきたのに寒い。歩いていると最初に有罪人が渡ったという「ため息橋」(嘆きの橋)が説明される。法廷と地下牢をつないだ橋で、有罪人はここでため息をついたのだ。元々、橋というのは天国と地上とのつながりを示すもので、生と死、死から不死への通路を意味しているた。
この「ため息橋」はジョージ・ロイ・ヒル監督の『リトル・ロマンス』に出てくる。13歳のフランス人少年ダニエル(ハンフリー・ボガートに憧れていて“Call me Bogey.”が口癖)とアメリカ人少女ローレン(ダイアン・レイン)をお茶に誘ったイギリスの老紳士(サー・ローレンス・オリヴィエ)が亡くなった奥さんとの想い出とともに「ため息橋」の伝説を語る。
“Well, there is an old Ventian legent which says that a ...if two loves kiis in a gondola under the Bridge of Sighs at sunset...when the bells of Campanile tolle, they will love each other...forever.”
ヴェネツィアには古い伝説があってな…夕暮れにため息橋の下で、ゴンドラに乗った二人が口づけをすると…カンパニアの鐘が鳴り響く時にな、その二人は…愛しつづけるというんだ…永遠にな。
サンセットキスを求めて、二人の冒険旅行が始まる。ヴェローナからどうやってヴェネツィアに行くのか迷っている時に、老紳士がいう。「必要なのは、ふつうの人の起こす奇跡が伝説につながっていること。その時、勇気(courage)と想像力(imagination)が必要なのだ」。
この映画ではブラウニングの詩“How do I love thee?”がひとつのモチーフになっている。
「ため息橋」についてはバイロンの次の詩が最もよく知られている。
I stood in Venice, on the Bridge of Sighs;
A palace and a prison on each hand:
I saw from out the wave her structures rise
As from the stroke of the enchanter's wand:
A thousand years their cloudy wings expand
Around me, and a dying Glory smiles
O'er the far times, when many a subject land
Look'd to the winged Lion's marble piles,
Where Venice sate in state, thron'd on her hundred isles!
(Childe Harold's Pilgrimage)ベニスのため息橋の上に立った
両側には大法廷と牢獄がある
波間には街の建物がそびえ立つのが見える
まるで魔女の杖が一振りされたように
一千年が雲の翼を上に拡げ
悠久の時に薄れいく栄光が微笑む
昔むかし多くの民が
翼を拡げた獅子の大理石の碑を見た
ベニスが国として百あまりの島に君臨していた時のヴェネツィアはシェイクスピアの『ヴェニスの商人』や『オセロー』に出てくるし、『チャタレー夫人の恋人』のコニーが最後の方で旅行する町でもある。
□ ガイドはモリノさん。トイレに行きたい人は連れていきます、といわれて、残りの人はたむろすることになった。その間に電池とフィルムがなくなったので、買いに行く。屋台の人々もようやく集まり始めたようだ。
サンマルコ広場(“カンポ”と呼ばれる)はナポレオンが「ヨーロッパで最も美しいサロン」といったところだ。世界中の人が集まっていると思ったのに、時間が早いし、冬場は寒いせいか、誰もいない。
ドゥカーレ宮の前に水が出ていてモリノさんの話によれば、アクア・アルタ、つまり高潮で明日はもっとひどい高潮になりそうなので通路を用意しているという。水浸しになったサンマルコ広場は広島の宮島みたいなものだ。モリノさんが説明している時に、鐘楼の鐘がなる。「だんだん大きくなる」といわれた通り、大きくなって説明が聞こえなくなる。
大雨で水がいっぱいになったサンマルコ広場(2002年) 休日で閉店しているブランドショップのある狭い路地(“カッレ”)を通ってリアルト橋に向かう。迷路のようなヴェネツィアの様子は多くの映画に出てくるが、中でも『ウディ・アレンの世界中がアイ・ラブ・ユー』が面白い。ジュリア・ロバーツをくどくためにアレンが街中をジョギングして回るからである。時間があればティントレット(理由は映画の中で出てくる)の絵画も楽しみたいところだ。
リアルト橋はヴェネツィアを両手を向かい合わせて大運河(“カナル・グランデ”)を逆S字形にしたものと考えると、ちょうどど真ん中にある橋だ。迷子になりそうだが、お店の上の方に案内板が出ている。自由時間にするというので橋に行って写真を撮る。ヴァポレットと呼ばれる水上バスが橋の下を通っていく。
大運河とそれに懸かっているリアルトー大橋は容易にそれとわかった。この橋は白い大理石でできている一個の弓形のものである。橋の上から眺めおろした光景はすばらしい。運河は、各種の必需品を大陸から運んできて、大抵はここに碇泊して積荷をおろしてしまう船舶で一杯である。そしてその間をゴンドラが蠢動している。---ゲーテ『イタリア紀行』(岩波文庫)
16世紀末のアントニオ・ダ・ポンテの作品といわれる。大理石造りのアーチ橋で、アーチ部の支間は26メートルであるが、橋の全長は50メートル以上ある。アーチ頂部に向けて傾斜した橋上は美しく装飾されたアーケードになっていて、階段状に店舗が軒を連ねるはずなのにサン・ステファーノの日で休日なので、ほとんど開いていない。屋根付きの橋で、とても綺麗だし、眺めもいい。仮面がいっぱい飾ってあって、ヴェネツィア土産として有名なことを初めて知った。そういえば、フェリーニの『カサノバ』はヴェネツィアから始まり、仮面の人がいっぱい出てきた。
リアルト橋近くには美味しそうなパン屋さんがある。
ヴェネツィアン・グラスの工房に案内される。どこもムラノ工房となっていて、ムラノ島から取っているのだが、ヴェネツィア共和国(697〜1797年)政府が1292年に全てのガラス職人とその家族を本島から1〜2キロ沖合に浮かぶムラーノ島へ移住させたことに由来する。ガラスの技法が外部に漏れることを防ぐためだった。発祥は10世紀といわれる。鹿島茂『上等舶来・ふらんすモノ語り』(文藝春秋)によれば、カトリーヌ・ド・メディシスがフランスにもたらしたものの一つがブドウ酒用グラスだという。「これはヴェネチアのムラノ島で創られたヴェネチアン・グラスをカトリーヌが嫁入り道具として持ってきたもので、以後、フランス人たちは、微妙な色を味わいながらブドウ酒を飲むという楽しみを得る。それまでは、銅や錫で創ったコップでブドウ酒を飲んでいたのである」。
中に入ると、いきなり日本語を話すイタリア人が出てきて職人さんが実演して見せる。もっとヴェネツィアン・グラスの作り方を見せてもらえると思ったが、フツーのガラスの作り方で終わって、何だかウソ臭い。祐貴も「去年、富山の工房でガラスを作ったのと変わらないね」という。
3階まで案内されると、更に日本語が上手なイタリア人が説明を始める。駄洒落があったり、「あっと驚く、為五郎」なんて文句が出てきたり、いきなりグラスを落として「落としても丈夫だから大丈夫です。今度は投げてみましょう」といって投げる仕草をするが「でも、ガラスは投げるものじゃないですね」といって収める。イタリアで寅さんばりの口上を聞くとは思わなかった。『旅情』のロッサノ・ブラッツィみたいに「18世紀のもの」とはさすがに言わなかった。保険付きで日本に送るという。「大阪に支店があるので壊れてもそこに連絡すれば大丈夫です」。
博物館のようにいっぱいあって、目移りする。映画では「18世紀のもの」が1万リラ(現在の日本円で700円!)で売られているが、値段も高かった。従兄弟の子が伊藤賢治というガラス工芸作家で家にもいっぱいガラス製品がある。それでも、土産にと思ってヴェネツィアン・グラスのブローチを買う。イタリアの三大工芸はヴェネツィアン・グラスとカメオとモザイク(サン・マルコ寺院のような)だという。革製品は柔らかさが違うという。カメオはナポリが名産地なので、待つことにする。他にヴェネツィアン・レースも有名だが、ものすごく高いものらしい(ブラノ島が名産)。
ちなみに『旅情』で骨董店としてロケされた店舗は、サンバルナバ広場の一角にあり、現在はベネチア名物の仮面を販売する店になっているそうだ。目の前を流れる運河は、ジェーンが8ミリカメラの撮影に夢中になって落ちる場所である。
笑ったのは『100万回生きたねこ』の佐野洋子が何歳の時か知らないが、ナンパされたと『問題があります』(筑摩)に書いていたことだ。ナンパは本当にイタリア男の文化らしい。その意味ではうらやましい。
ベニスで一人で歩いていた時、十歳くらいの男の子にナンパされた。夜の八時に教会の噴水のところで待っていると言った。十二時近くに一人でベランダに出たら月が出ていた。海のこまかいしわのように光がさわさわ映っていた。本当にあの子は教会の前で待っていたのだろうか。何だか笑いたかった。満月だった。
ほら、月は昔を思い出すためにあるのだ。
辻仁成も『黄昏のアントワープ』(海竜社)でミラノの男たちについて書いている。
ただ、このかっこいいミラノの伊達男たち、外見の素晴らしさとは亜hん体に、会話の内容は驚くほどにつまらない。
あくまで私的な意見であって、とはいえ、ミラノは北イタリア独立運動を起こすほどの、文化、政治の中心地、頭のいいれんちゅうもわんさかいるはず、まあ、いることはいるのだろうが、彼らが霞むおどに、ミラノのぷんぷん伊達男たちが目立つのだから、しょうがない。
パリジャンの方が哲学的で面白いことを考えているというのか、会話が弾むことの豊かさ、という点では断然に上。話題には事欠かない知性に関しては、嫌みなくらい、面白い。【…】
結局、知性ってものは語ったらお終いだ、と気づかされる。語らずに動物的な野性で、じとっと微笑まれると、適わないな、と思ってしまうのはわたしだけだろうか。
理屈って、実はとってもダサいもので、本当に頭のいい連中は頭のよさを普段は隠して生きているように思う。能ある鷹は爪を隠す、という日本の古いことわざのとおりだ。
途中の道で係員らしい人が何かを撒いている。何だろうと思って見ると岩塩らしい。寒くなってきたので、凍結防止のためだ。
□ 海岸に戻って、いよいよゴンドラ遊覧。塗装が黒と金色のゴンドラを見て何かに似ていると思ったのだが、言うのは止めにした(後にマーク・トウェインが霊柩車みたいだ、と言っていたというのを知って皆いっしょだと思った)。しっかり雨だが、フード付きなので傘を差さずにすむ。
ゲーテがイタリアに憧れることになるきっかけは父親が大事にしていたゴンドラの模型だった。運河の都で本物を見て、ゲーテはその模型を思い浮かべる。「ぴかぴか光る鉄板の船首や、黒いゴンドラの船体や、すべてのものが昔馴染のように私に挨拶をした」。そして乗ってみると「私はたちまち、すべてのヴェネチア人がゴンドラに乗るとき感じるように、アドリア海の支配者の一人であるかのように思えてきた」という(『イタリア紀行』岩波文庫)。
ゴンドラは6人乗りで長野夫婦と一緒になる。祐貴に「君が船頭さんに指図すればいいよ。“apprentice”(弟子)になればいい」というのでそんな言葉を知っている人は珍しいと思って話を聞くと貿易の仕事をしていて、奥さんをヨーロッパに連れて来たのは初めてだという。「本当の“Merchant of Venice”ですね」という(merchantは「商人」ではなく「貿易商」)。
波がなくても揺れるので、子どもを乗せる時には緊張する。『旅情』では汚物が平気で運河に捨てられていたが、今はどうだろう。
僕らのゴンドラが最初に出て、他のゴンドラを待っている。先に行かせてから後ろから大きな声で色々と指示を出しているから頭領なのだろう。ゴンドリエはカンツォーネを歌ってくれるのかと思っていたら、携帯電話をかけながら片手で漕いでいる(ゴンドラの舟歌はバルカロールBarcarolleと呼ばれることがあり、バーンスタイン『カンディード』でも歌われる)。仕方ないので「いのち短し、恋せよ少女【おとめ】」と「ゴンドラの唄」でも歌おうかと思ったが、オジサンに思われるだけなので、止めた。後に未蘭と話していて、黒澤の『生きる』を無理矢理見せられた時に、聞いたけど、どう関係があるの、といわれた。これはアンデルセンの鴎外訳の『即興詩人』の中に出てくる「ヱネチア【ヴェネツィア】の俚謡」という詩を吉井勇が翻案したものなのである(『スバル』昭和6年9月)。だから、2曲目には「…いざ手を取らん、彼の舟に」というのが出てくるのである。
朱(あけ)の唇に觸れよ、誰か汝の明日(あす)猶在るを知らん。戀せよ、汝の心の猶少(わか)く、汝の血の猶熱き間に。白髮は死の花にして、その咲くや心の火は消え、血は氷とならんとす。來れ、彼輕舸(けいか)の中に。二人はその蓋(おほひ)の下に隱れて、窓を塞ぎ戸を閉ぢ、人の來り覗(うかゞ)ふことを許さゞらん。少女(をとめ)よ、人は二人の戀の幸を覗はざるべし。二人は波の上に漂ひ、波は相推(あひお)し相就(あひつ)き、二人も亦相推し相就くこと其波の如くならん。戀せよ、汝の心の猶少(わか)く、汝の血の猶熱き間に。汝の幸を知るものは、唯だ不言の夜あるのみ、唯だ起伏の波あるのみ。老は至らんとす、氷と雪ともて汝の心汝の血を殺さん爲めに。途中、フェニーチェ歌劇場を再建していた。ヴィスコンティの『夏の嵐』(原題は“SENSO”"「官能」)の冒頭シーンはこの劇場だ。ベルディの「椿姫」などが初演されたオペラの殿堂として知られるが、常に悲劇がつきまとってきた。もともと火災で焼失した歌劇場を受け継いでの建設だったが、フェニーチェ自体が完成前、火災に遭った。1792年に開幕したが、1836年に再び火災に。1年後に再開すると「まさにフェニーチェ(不死鳥)だ」と驚かれたという。 3度目の火災が起きたのは96年1月。豪華な建物は廃屋同然になった。原因は放火。電気工事を担当した会社の経営者ら2人が、工事の遅れによる罰金を恐れて火を付けたとされる。火災後も、入札時の問題や、修復にあたる建築家の交通事故による死亡など悲劇は続いた【2003年12月14日に再開】。
須賀敦子『ヴェネツィアの宿』(文春文庫)のタイトルになった「ヴェネツィアの宿」ではフェニーチェ劇場でコンサートが催されていて足を止めたいとふと考える。でも、一日の疲れから思いとどまり、ホテルで眠りにつこうとした時、すぐ近くの劇場から音楽がどっとが流れ込んでくる。
ずっと、自分は音楽には入りこめない、音楽がこっちを向いてくれない、と思いこんできた。いや、音楽のもっている感動があまり純粋で、言葉にも色にも形にもすることができないのを、ひたすら恐れていたのかもしれない。言葉の世界に近づけば近づくほど、音楽からは遠ざかった。だから、音楽好きの人にとってはひとつのメッカみたいなミラノに十年以上も住んでいたときも、スカラ座に行くことはめったになかった。自分たちとは別な世界だと考えていたのだろうか。心のゆとりがなかったのか。たぶんその両方だった。そして、いまとなっては、もうおそい、と感じているその音楽が、小さな四角い窓から、満月の光といっしょにはいってきて、私を眠らせてくれない。起きてよ、起きてよ、と私を揺すっている。まだ間に合うよ。そうかもしれない、と私は渋々返事をする。でも、今夜はだめよ。おねがいだから、眠らせて。この地点で赤信号になっていたが、無視して進む(『旅情』では運河の信号がとても新鮮に映し出されている)。昔々、ゴンドラの渋滞が問題になった。水路の混雑や事故を減らすため、政府は16世紀、ゴンドラの大きさや形を定めたという。車検制度と同じ考え方が既にあったのだ。
長野夫妻と(祐貴撮影) デジカメ係の祐貴は一生懸命にあちらこちらと写真を撮る。ほとんど最短コースで「ため息橋」の方へは行かなかった。あっと言う間にゴンドラ観光が終わる。雨が降っていて寒かったから30分以内でよかった。
□ 自由時間になって土産を物色する。ブラノ島が名産の刺繍もいっぱい売っているが西江雅之先生の『異境をゆく』(清流出版)によれば、今は中国製の刺繍ばかりだという。祐貴は友達にキーホルダー、未蘭はブレスレットを買いたいというが、説得力のある土産が見つからない。「どこでも買える」と説得して96.8メートルの大鐘楼に登ることにする。大パノラマが見えた。ヴェローナもきれいだったが、ヴェネツィアの水との調和が最高だ。
ビザンチン・ロマネスク様式のサンマルコ寺院の中に入る。黄金を使った天井は貿易で栄えた街だということを思い出させる。
昼食はLA VALIGIAというレストランでイカスミスパゲティが出るが、子どもたちは気持ち悪がって食べない。「スパゲティーに対するものの見方が狭すぎる」(@村上春樹「ファミリー・アフェア」『パン屋再襲撃』)のだ。
村上龍の小説の話をしてあげるが、関心を持たない。『村上龍料理小説集』(集英社文庫)の中でイカスミのスパゲティを食べるシーンがある。離婚した男が、1ヶ月に一度、息子と食事をするのだが、どのように語りかけていいのかわからない。息子も、一言もしゃべらない。イカスミのスパゲティが最後に出る。
「このスパゲティを食うと、まっくろなクソが出るんだぞ」
というと、息子が初めて口を開いて、
「えっ、本当?」
と目を輝かせる。実に半年振りの会話だった。翌日、息子からの、
「おとうさん、本当だったよ、クソがまっくろだったよ」という報告の電話に、男は涙する(subject21)。
未来派のマリネッティのようにスパゲッティを食べるとイタリア人は馬鹿になると公言してパスタ撲滅運動(更にイタリア文化を否定)をやった人間もいるので、無理に食べることもないかもしれない!?
子供のころの雑誌の付録などで「消えるインク」というおもちゃがあった。ちなみにイカ墨を「セピア」というが、ラテン語でコウイカのことである。そのイカ墨を使ったインクがギリシャ、ローマで使われた。後の時代にも画家レンブラントが愛用し、レンブラント・インクとも呼ばれた。レオナルド・ダ・ヴィンチも愛用者で直筆ノート「レスター手稿」もイカ墨のインクで書かれたものである。江戸時代の人はイカ墨を時がたつと「消える墨汁」だと思ったようだ。悪人が借金の証文をイカ墨で書いて踏み倒す話がある。書いた文字が何かで消えるというものだったが、実際にイカ墨の文字は古い写真のようなセピア色になる。ちなみに、レオナルドはスパゲティも発明したとされる。鹿島茂『上等舶来・ふらんすモノ語り』によれば、カトリーヌ・ド・メディシスの嫁入りによって、「海に近いイタリアで盛んに食されていた魚が、肉だけしか知らなかったフランス人の食卓にのぼるようになった」という。「さらにフランス人の見たこともないような新大陸の珍奇な素材がカトリーヌと一緒にフランスに現れた。唐辛子、南瓜、トウモロコシ。さらに、これは新大陸の産ではないが、アスパラガスにブロッコリーに赤キャベル。これで、豆類ぐらいしかなかった付け合わせが一挙に豊富になった」という。
次のチキンでつなぐ。大きなテーブルなので同行の人と話す。双子で参加だと思ったのは兄弟で兄は医学部、弟は薬学部で、建築家のお父さん、お母さんと一緒に参加していた。小林一郎さんは銀行を45歳で辞職して、1年間充電するのだという。奥さんの町子さんは大人しく付いていくタイプ。この時初めて、子どもは子ども料金で来ているのだとみんなに思われていることを知る。「子ども料金なのに大人と同じものを食べていると思っていたんでしょ」というと大笑いされる。
韓国人のツアー客も入ってきたのだが、1、2歳の子がいっぱいいて、ベビーカーで来ているのには本当に驚いた。「カムサ・イカスミダ」とか何とか言いながら食べていた。
欧州一美しいと評されるサンマルコ広場に戻って自由時間。ジョルジョーネの「嵐」【のちにサルヴァトーレ・セッティス『絵画の誕生―ジョルジョーネ「嵐」解読』が出版された】などの傑作があるアカデミア美術館に行く時間はないので、みやげ物を物色。未蘭の好きなガラスの動物があった。僕はぐい呑みみたいなグラスを買う。イタリアで最初にできたカフェ(1720年)である“カフェ・フローリアン”の横を通る。バイロンやディケンズに愛された老舗だ。
『旅情』ではレース編みで有名なブラーノ島に行って愛しあうのだが、「ここはイタリア語では『リゾラ・ドーブ』(虹が落ちる島)」と説明される。ジェーンが情事のことを「叶えられなかった夢」といって、最後に「パーティの帰り時が今分かったの」というセリフを残してヴェネツィアを去っていく。
僕らのヴェネツィア観光もあっと言う間に終わった。
再び船でトロンケットに戻ってバスに乗る。
□ ポー川を3時15分に通過。雪がどんどんひどくなってくる。今年のイタリアは寒いそうだ。4時10分に世界で最古の大学街・ボローニャのコンビニに入る。ここの自動車模型がいいのよ、というおばさんがいて、イタリアは4度目で孫が楽しみにしているのだという。ボローニャは元々、職人の街で、ボローニャ大学は世界最古の大学として1088年の創立である。『神曲』のダンテや天文学者のガリレオ・ガリレイらを輩出しているし、映画『にがい米』の舞台でもあるし、何よりも記号論のウンベルト・エーコが1971年以降、教授を務めている。ノーベル文学賞をとったダリオ・フォーが活躍して「ボローニャ方式」と呼ばれる都市再生で生活芸術都市が生まれた(佐々木雅幸『創造都市の経済学』勁草・『創造都市への挑戦』岩波)。ティーバッグや薬品などの包装技術の集積はシリコンバレーではなく、パッケージングバレーと呼ばれる。「国という抽象的な存在ではなく、目に見える赤煉瓦(あかれんが)の街、そしてそこに住む人たちのために働く、それがボローニャ精神なのだ」と井上ひさしは『ボローニャ紀行』(文藝春秋)で語る。
子どもたちは富山でボローニャというパン屋さんの真似でボロニヤというパン屋さんがあることを思い出して大笑い。僕は今年の9月に漫画専門店「まんだらけ」のヨーロッパ一号店がボローニャにできたというのを思い出す。
雪のアペニン山脈を越える。立派な高速なので驚くが、世界中から見学に来るような有名な道路だという。ただ、雪で暗くて、気分まで暗くなってくる。みんなぐったりしている。
エンポリウムというアウトレット(との説明だったがエンポリウムはローマ空港などでもあるお店の名前)に行く。日本人スタッフからの説明を受けてから買い物。見るべきものがない。昨年買った革のごみ箱を売っていた。ここは革製品が有名なお店だ。
そのうち、館内放送がなって「井上さんのグループはお集まりください」と言われて、なぜか体が行かなければならない、と反応してしまう。変だなぁと思っていたら、未蘭が飛んできて「去年のツアコンの井上さんがいたよ」という。入り口の方へ行ってみると井上さんがいた。久保田さんは十数年ツアコンをしていて同じお客さんと会ったことがないと話していたが、偶然というのは恐ろしいものだ。阪急の別の号車のツアコンをしているという。
エンポリウムを離れてフィレンツェに向かう。街に近づいたと思ったら、どんどん離れていく。
□ 30分ほど走ってイ・チリエギが近づいてきた。
高速を出てすぐにイ・チリエギがあった。日程表に「イッチリユギ」と書かれていて韓国系のホテルかと思ったが誰かがI CILIEGI「イ・チリエギ」の「エ」を「ユ」と間違えてそのままになっているらしい。名前なんかどうでもいいホテルだ。ネットで調べるとフィレンツェの地図の外になっていて場所も分からなかった。郊外というものの30キロも離れていたら「郊外」といえるかどうか。
ネオンのHOTELのOが消えている。近くにRistoranteのanteの消えたレストランもある。「お風呂もなくてシャワーだけなので、その代わりに一人に1本ずつミネラル・ウォーターが置いてあります」といわれても嬉しくない。
塩野七生の『ローマ人への20の質問』(文春新書)によると、古代ローマ人と日本人の共通点は入浴好きなことという。シャワーだけでは満足せず、「浴槽に張った湯にどっぷりと身体全体」を沈ませた。浴場には皇帝や元老院の議員もやってきて「裸の付き合い」が成立していた。水着姿でつかるなどはしなかった。大変な温泉好きであって皇帝や有力者寄贈の公衆浴場が、各地に建てられたそうだ。 その楽しみ方も「古代のローマ人の伝統を継承するのは、ヨーロッパ人ではなくて日本人としてよい」という。後にヤマザキマリのタイムスリップ漫画『テルマエ・ロマエ』(THERMAE ROMAE「ローマの温泉」)が描かれるのだが、そのまま日本のお風呂がローマで成立するのである。
部屋に入ってから夕食の時間になる。ペンネ・アラビアータの後にポークカツだが極薄なのでハムフライみたい。パンは口の中のおいしいものまで奪われそうなまずさ。後でパーネ・トスカーノ(トスカーナ風パン)には塩を入れないでスープの方で塩分を摂るということを知る。『ローマの休日』でグレゴリー・ペックが飲んでいたキャンティワインはフィレンツェの名物だそうだ。
部屋は汚くはないが、場末の民宿に連れられてきた気分。この時間に外に出ることもできないし、10万だから諦めるが、それにしても…。
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