ミレニアム欧州旅行〜子どもたちは何を学んだか? 12月27日(水)
パリで実質的に最後の日。『クリシーの静かな日々』ではなく「苦しー日々」になってしまった(←苦しいのは駄洒落だって…)。まさかこんな展開の一日になるとは思わなかった。
祐貴はベッドから2度も落ちたそうだ。壁にちゃんとベッドを付けなければならない。
朝食は10時までというので9時半頃、食べに行く。ルーブルと半日市内観光(昼食付)の人は9時頃出て行っているはずだ。参加も考えたが昨日、遅くて子どもたちが疲れていると思ったし、値段も一人1万と高い!半日ヴェルサイユ観光とセーヌ川クルーズ(夕食付)の両方に参加している人もいる。
10時半ごろ、ホテルを出て、RER(メトロみたいなもの)のポルト・ド・クリシー駅に行く。カルネ(10枚綴りの回数券)を買って乗り込む。
でも、未蘭はレーモン・クノー『地下鉄のザジ』みたいにメトロに乗ることをとても楽しみにしていた。田舎者のザジはパリのガブリエル伯父さんのところに遊びにくるのだ。伯父さんはLe Cave(穴蔵)という酒場の二階に済んでいて、マルスリーヌという奥さんがいる。徐々に伯父さんの正体が分かるのだが、女装してキャバレーの舞台で『白鳥の湖』を踊ったりしている。ザジは露骨に「伯父さんはホモなの?」と菊野だが、あくまで仕事なので、その証拠に奥さんがいるではないかと説得される。最後の3日目になってママが迎えにくるのだが、伯父さんは酔いつぶれ、マルスリーヌがザジを駅まで連れていく。別れる時にマルスリーヌ伯母さんに「さよなら小父さん」と挨拶をする…。
楽しみだったのだが、犯罪の温床だと既に知っているので、二人とも緊張している。映画『望郷』では犯罪を重ねたパリを逃げ出し、アルジェリアに潜伏している男ペペ・ル・モコ(ジャン・ギャバン)が、パリから観光に来たミレーユ・バランと出会う。彼女に心を奪われたギャバンが言う。「メトロの匂(にお)いがする」…。今やメトロは犯罪の匂いがしている。
エッフェルもオルセーも一本で行けるのでどちらを先にするか迷ったが、子どもにはやっぱりエッフェル塔だと思った。
□ エッフェル駅に着いて、塔に向かう。雨模様。途中、ピサと同じようにアジアやアフリカ系の人たちが傘や土産物を売っている。
エッフェル塔は大革命からちょうど100年後の1889年に開かれた万国博覧会の際に建てられた。パリでの万博は何度も開かれたが、1900年の博覧会では英国留学の途上にあった夏目漱石が3回も見物し、エッフェル塔にも上った。漱石はイタリアのジェノヴァ(英語でジェノア)から汽車で10月21日の朝にパリへ入って28日にサン・ラザール駅からイギリスに向かうまで1週間滞在したのだ。鏡子への手紙に次のように書いている。
今日ハ博覧会ヲ見物致候ガ大仕掛ニテ何ガ何ヤラ一向方角サヘ分リ兼候名高キ『エフエル』塔ノ上ニ登リテ四方ヲ見渡シ申候是ハ三百メートルノ高サニテ人間ヲ箱ニ入レテ綱條ニ(テ)ツルシ上ゲツルシ下ス仕掛ニ候。
ロラン・バルトは1964年に『エッフェル塔』という評論を書いていて、次のエピソードから始めている。
モーパッサンはしばしば塔のレストランで昼食をとった。とはいえ彼は塔を好きではなかった。「パリで塔が見えないのはこの場所だけだ」と彼は言ったものだった。
とても有名なな皮肉で『放浪生活』の中でもエッフェル塔が原因でパリを離れるというのだが、手間ひまを考えたらきっと大好きだったのだろう。
エッフェルはその前に自由の女神の骨組みを担当していたのだが、誰も評価してくれず、いっそむき出しの鉄で勝負しようとしたという。セーヌ河の橋として使う計画もあった。完成前の1887年2月には芸術家たちがエッフェル塔に反対する公開状を発表した。モーパッサン、デュマ、ユイスマンス、ヴェルレーヌや建築家ガルニエ、作曲家のグノーまでが署名したのだが、塔の高さに合わせて300名というのは笑える。石の時代から鉄の時代へというのが受け入れられなかったのだと思う。
エッフェル塔が認められるには、アポリネールやエッフェル塔と同年に生まれたコクトーなど新しい詩人が出てこなければならなかった。アポリネールの「アルコール」には冒頭にエッフェル塔が出てくるし、コクトーには「エッフェル塔の夫婦」というバレエ用の戯曲がある。バルトは『エッフェル塔』で「まなざし」を強調している。「見られる」ことと「見る」ことのためだけに造られて、有用性を持たないこの塔が建築物や景観の概念、これらに関する人間の想像力のあり方そのものを劇的に変えたのだという。「見られる」存在でもあり、「見る」存在でもあったというのは日本人には富士山を思い起こせばよく分かる。どこからでも「見られる」し、登山して「見る」こともできる存在なのである。だからこそ、リヴィエールは北斎の「富嶽三十六景」にちなんで「エッフェル塔三十六景」を描いた。エッフェル塔が残ったのは電波塔として使える時代になったからだ。
蓄音機2 エッフェル塔は左岸のノートルダム寺院です。
蓄音機1 パリの女王です。
蓄音機2 昔はパリの女王でした。今は電話交換嬢です。
蓄音機1 生きていくのはつらいよね。エッフェル塔よりもピサの斜塔のほうが多くの人を惹きつける、というモーパッサンの「予言」は当たらなかったが、両方を今回見ることができた子どもたちは幸せだと思う。
アンリ・リヴィエール「エッフェル塔三十六景」 鹿島茂も『フランス歳時記』(中公新書)で次のように言う。
世界の多くのモニュメントの中で、エッフェル塔はかなり特殊な位置を占めている。なぜなら、これだけ徹底して意味を欠いている塔も珍しいからだ。つまり、エッフェル塔は寺院でも宮殿でも祈念碑でもなく、ただの塔なのである。しかも、それ自体がなにかを象徴しているというわけでもない。無意味にそこにある。そして、そのことが逆に意味をもつようになったのである。
【…】一言でいえば、エッフェル塔は意味を欠いていたがためにパリと一体化することができたのである。
3階(最上階)までのチケットを買う。2階で周りを見る。子どもたちも感動している。2階の2階にあがって、どこから3階行きのエレベーターがあるのか探すが実に分かりにくい。
3階に上がると外は真っ白の霧。未蘭が「何も見えないよぉ」というので「そうだよ、霧だから」というと「眼鏡がない」という。眼鏡をかけてないことにようやく気付く。これでは「Drスランプ」でアラレちゃんが生まれた時のエピソードそっくりだ。未蘭はなくてもいいのだが、2年の秋から時々かけている。ママがバッグの中を探すが、ない。これからオルセーに行くのに眼鏡がないと楽しめない。昨日遅く帰ってから部屋のテーブルの上に忘れたかもしれないという。
そこで、妻と子どもたちは先にオルセーに行って、僕はホテルに戻って探してくることになった。入場料などのお金を渡して、メトロで反対方向に別れた。
ポルト・ド・クリシー駅へはサン・ドニ行きだけは乗ってはいけないといわれていたので、しっかり確認する。サン・ドニというのは大聖堂もあったが、大杉栄がメーデーに行って演説をして捕まった街でもある(もっと長く拘留されていたら日本で甘粕正彦大尉によって惨殺されることもなかった)。
ホテルに着いて、部屋を開けて、周りを見るが眼鏡はない。スーツケースの中を調べたが、何もない。何度探しても同じこと。
すっかり消沈して駅に戻る。改札の機械が壊れていて入れなかったが、こちらから入れ、といわれて入る。
乗っていると女性と男性がやってきて切符を見せろという。検札だ。切符を見せると、印が押してないというので、“マルフォンクシオン”(故障)だったというと納得して何か裏に書いて去った。
オルセー駅に着いて、美術館に向かってびっくりした。長蛇の列なのである。3時までに戻らない場合はタクシーで帰るようにと話していたのだが、3時になっていた。会えなくて「君の名は」状態になっても困る。焦ってしまった。
そこで、裏口から入ることにした。団体と一緒に裏から入って、裏口のところにいる女性に「迷子の家族を捜しているのです」と話す。あっさり「どうぞ」といわれる。この時ほどフランス語を話せてよかったと思ったことはなかった。
中に入って妻に似たようなセーターを見つけたので追いかけたのだが、すごい人波で見失った。困っていると妻の方が僕を見つけてようやく再会できた。子どもたちも座って待っていた。
未蘭がお望みのモネの睡蓮はどこかの美術展に出張していて見れなかったという。それでも、一つひとつの絵の大きさ、構図に感動していたというので安心した。他の美術館に真似のできない「マネ展」も開かれていた。二人とも「駅だったのにすごいねぇ」と建物自体にも感心していた。眼鏡の方は“Tant pis.”(仕方がない)だ。
フランスの社会学者ブルデューは「家庭」で習得した文化資本と、「学校」で習得した文化資本との差はゆとりだという。どんなに素晴らしいものをみてもぽわんとしていられることだという。僕らが初めてオルセーに行った時は、頭の中に既にカタログができていて、絵を見ないでカタログとつきあわせる作業しかできなかった。うちの子どもたちは名画を目の前にしても、どれが有名なものだというカタログなしに見ることができる。羨ましい限りだ。
外に出てみると、ミラノで見たようなツタンカーメン男がいた。
□ お腹がすいたというのでとりあえずルーブルの様子を見てからと歩き始める。途中、色んな人に「ルーブルはどこですか」「オルセーはどこですか」と聞かれる。木村尚三郎は初めてパリに着いたその日に地下鉄に乗ってフランス人から地下鉄の乗り換えについて聞かれたという。誰もがパリ市民という感覚があるからだという。でも、僕は誰もがおのぼりさんだからだと思う。
セーヌ川をバトー・ムーシュがゆったりと流れていく。ルーブルの後は『シャレード』みたいに船に乗ってすごすかどうしようか迷う。
ガラスのピラミッドが見えてきた。ハネムーンの時にはまだ工事中だった。中国生まれのアメリカ人建築家I・M・ペイの設計だ。なぜピラミッドかというと、玄関ホールが「ナポレオンホール」と名前がついていることから分かる。つまり、ナポレオンがエジプト学を推進させたという記念碑なのである(ロゼッタストーンを持ち帰り、ヒエログリフの解読につながったが、コンコルド広場のオベリスクはエジプトの感謝の気持ちで寄贈されたもの)。このネオモダンの建築に対して「黒板を引っ掻く爪」と悪口を言う人がいる。フランス人は概して地下が嫌いだ。カフェのように明るい所でなければ生活ができない。だから地下街も発達していない。エッフェル塔だって文句たらたらだったから、そのうち批判は消えることだろう。
ルーブルの前はオルセーよりも長蛇の列!どうしても見せたいと思っていたのだが、火曜が休みで余計に混んでいるらしい。
諦めるかどうするか困ってしまうが、とりあえず前で写真を撮る。コンコルド広場の方にはもうすぐなくなるという光の観覧車が見える。とても綺麗なのに担当者が変わって廃止するという。木村尚三郎『歴史の風景』(山川出版社)によれば、パリで初めて電動観覧車が営業をしたのは1898年10月8日で、1900年のパリ万博をにらんで建設されたものだという。1893年のシカゴ万博で初めて出現して以来、5年後のことだった。当時のは空飛ぶ列車という感じだったという。
ビデオも撮った後、レストランを探す。どこも混んでいたりしていいところが見つからない。子どもたちが「あった!」というので見るとパリにもマクドナルドがあった。
お腹も空くし、トイレにも行きたいし、子どもたちが一番食べるのはハンバーガーなので、入ることにする。
注文を妻に任せて、パリビジョンに向かう。パリ市内観光の便利なのを探そうと思ったのだ。
パンフレットを見ると、昼間の観光は終わっていて、7時からイルミナシオン(イルミネーション)というコースが書いてあった。一人150フランで11歳までは無料と書いてあったので申し込む。6時45分には来て下さいといわれる。
子どもたちはまたハッピーセットを買っている。『ダイナソー』のカルノタウルスとイグアノドンのブルートンが入っていたと大喜び。
こんなにもマクドナルドにお世話になるとは思わなかった。逆にいえば、チップもいらず、トイレも無料で、清潔なお店というのは文化を超えるのだと思う。「マクドナライゼーション」マクドナルドはグローバル化の象徴と簡単にいうが、どこでも同じ味で似たような値段で同じサービスを提供できるというのはすごいことだと思った。危ないのはマクドナルドでもコカコーラでもなくて、インターネットで見たり聞いたりがもたらす影響の方が食べたり飲んだりする方に比較にならぬほど大きいと思う。
9月26日 (火曜日) 雨のボンダイ・ビーチ
オリンピックの商業主義に関する笑えないエピソードは、じつに数多くある。【…】
コカ・コーラもライバルにたいしてはきわめて神経質だ。コカ・コーラが会場のソフトドリンクを仕切っているので(というかシドニーの町中全部がコカ・コーラで埋まっていて、ペプシを見つけることすらほとんど不可能だ)、それを面白く思わない人々が、こっそりとペプシを会場に持ち込んでわざと見せつけるように飲んでいる(らしい。見たことないけど)。それでコカ・コーラ側は頭にきた。オリンピック委員会に、入口でペプシを持って入ろうとする人間を阻止してくれとねじ込んだ。だから入口で所持品検査にあたっている人々は、危険物の他にペプシの缶にも注意を払うようにというお達しを上から受けることになった。彼らは苦笑している。こうなると喜劇だね。
僕は一度バッグの検査のときに「これはラップトップだね?」と尋ねられて、「ノー、これはペプシだ」と答えた。その場で撃ち殺されたりはしなかった。大笑いされただけだった。村上春樹『シドニー!』(文藝春秋)
正確にいうと同じ味というのは違っていて、ある社会学者によれば、日本のが一番まずくてフランスのが一番おいしいという(僕はイギリスのが一番まずいと思う)。原料によって微妙に出来具合が違うからである。日本のはどうもパサパサしていておいしくない。驚いたことにフランス人は大阪人のようにマクドナルドを「マクド」と発音していた。フライドポテトはさすがに「フレンチフライ」とは言わず、「フリット」か「フライドポテト」である。フリットはステーキとともにフランスの国民食で、冷凍のをジャガイモ揚げ器にセットするのは日本の炊飯器みたいだという。
また、「ビッグマック指数」というのが購買力平価でもっとも有名だ。英国の経済誌「エコノミスト」が発表したのが起源で、エコノミストがビッグマックを選択した理由はマクドナルド社が世界百か国以上で、様々な材料を含んだハンバーガー(肉、小麦粉、野菜など)を販売しているので、比較しやすかったからだ。
『アメリカを知る事典』(平凡社)によれば、ホットドッグをしのぐ国民食になったのは、1930年代終盤からだという。誰よりもたくさんの国でマクドナルドのハンバーガーとフレンチフライを食べていると自負するニューヨーク・タイムズ記者のトーマス・フリードマン『レクサスとオリーブの木』(草思社)も思い出す。マクドナルドを有する任意の2国は、マクドナルドができて以来、戦争をしたことがない、という「黄金のM型アーチ理論」だ。 タイトルのレクサスはトヨタの高級車セルシオのことで、グローバリゼーションのシンボルで、オリーブの木は帰属をめぐって民族どうしが争うヨルダン川岸の土地とか領土とか民族的アイデンティティとかに執着する立場を表していている。世界の半分がレクサスのような高級車に向かって、少なくともレクサスを完成させるほど輝かしい技術に向かって邁進する一方、もう半分の世界では、どちらがオリーブの木の所有者かを巡って争っているとは…?というものだ。この「紛争防止の黄金のM型アーチ理論」は99年のコソボ紛争をめぐるNATOの空爆で、一斉に反論を浴びた。NATO諸国にはもちろん、空爆されたベオグラードにも既にマクドナルドはあったからだ。これを「例外」とするかどうかについては議論があろう。フリードマンの主張は、マクドナルドの展開を支えられるほどに中流階級が現れた国では、もはや国民は戦争をしたがらない。ハンバーガーを求めて列に並ぶ方を選ぶ、というものだった。現在、世界120カ国に3万店近くを展開するが、フリードマンも「どこのもまったく同じ味だと証言することができる」という。そして、この均質さ、画一性が問題にされ、米国主導の画一化に抵抗する反グローバル化運動の標的にもなっている。
リッツアの『マクドナルド化する社会』(早稲田大学出版部)によれば、マクドナルド化というのは「効率化、計算可能性、予測可能性、制御情報システム工学専攻」の4点だという。こうして、英語でMacというと「型にはまって簡便な」「粗悪で安直」という意味だし、MacEducationというと「画一的な教育」、MacNewsは「うわべだけのニュース」、MacJobというと「賃金が安くて昇進できない袋小路的な仕事」を指す。
2002年にマクドナルドを襲撃した反グローバル化の闘士ジョゼ・ボベをフランスの前大統領夫人ダニエル・ミッテランが訪問した。同氏への支持を表明し、激励の手紙を差し入れた。夫人はジュルナル・デュ・ディマンシュ紙に「マクドナルドを壊す程度で禁固3カ月は重すぎる。世の中にはもっと重大な犯罪がたくさんある」と述べた。
マクドナルド化を批判する伝統的食文化愛好家はオリーブの木の戦略、つまり、地域主義、排外主義の戦略にそれと知らぬうちにコミットしているのである。
フリードマンの説を補強すれば、「共食」で家族というものを得た人間がマクドナルドを通して、バーチャルに「共食」をしている、つまり、バーチャルな家族を演じることによって、戦争を回避していると考えられるのである。
ちなみに、木村尚三郎は『ヨーロッパ思索紀行』(NHKブックス)で次のように語っている。
田舎ではおいしいものが食べられるが、都会ではそうでなかったという現実が、一八世紀までのヨーロッパでは、一般的に存在しました。修道院のなかで事実上、もっとも大事なところがレフェクトリウム(ラテン語、英語ではレフェクトリー、食堂)です。食堂のなかで修道士が食事をする場合、たいてい沈黙が命ぜられていますが、修道院は一番おいしいものを食べてきました。同じくおいしいものを食べ合い、おいしいワインを飲み合うときに、自然に心が開けていく。そこから、たとえ出身地が違い、あるいは元の職業が違い、年齢が違っても、お互いに兄弟であるという実感が生まれてきます。
その意味では、修道院のレフェクトリウムは日本のお茶室と同じ効果を持ったといえましょう。おいしいと思う、あるいは美しいと思う、その感覚が人の心と心を結び合わせます。これが今、いかに大事かということです。
□ マクドナルドで元気になって、霧雨の中、ルーブルに戻る。僕らの後にいた男の人と男女の子ども連れがいたのだが、未蘭と同じくらいの女の子がだんだん帰りたいと泣き始めた。実際、ぴたっと入場が止まったきり、動かない。見ていると団体はどんどん入っているようだ。国際化でルーブルもオルセーも見る人が圧倒的に増えてしまっていて、対応できなくなっているようだ。見るならツアーでと思ったが、もう遅い!
女の子がぐずり始める。男の子は3冊もぶあつい画帳をもっていて、周りの景色を細かく描いている。傘の中に入れてあげて、話をするとボストンから来たのだという。子どもたちへのクリスマスプレゼントとして連れてきたのだという。うちも似たようなものだと話す。子どもは二人ともリッチなコートを着ていて、暮らしぶりが想像できる。
風も吹いてきたので、囲むようにして守ってあげる。
50分近く待たされてようやく列が動き始める。途中で列を止められそうになってみんな慌てて入る。これでは『シンドラーのリスト』だ。
ガラスのピラミッドの中に入ると、そこはガス室ではなかったが、びっくりした。チケットを買うためにまたまた大勢の人が並んでいる!
仕方がないので、妻と二手に分かれて並ぶ。ボストンの人の選んだ列の方が早く進んでいる。スーパーでもそうだが、空いていると思って並んだ列は必ず遅い。
イライラしているとボストンの男の子がやってきて、「お父さんがあなたたちの分のチケットも買ったよ」という。びっくりしているとお父さんがやって来て、「どうぞ受け取ってください」という。そんなというけれど“マイ・グレイト・プレジャー”と言われたので素直にありがとうと感謝して別れる。未蘭の眼鏡がなくて焦燥していたのに救われた気持ちになった。ちなみに入場料は子どもと失業者はタダ(どうやって証明するのだろう?)。46フランだが、3時以降は30フランになっていた。
ルーブルですべてを鑑賞しようとしたら5週間はかかるのだから目標が決まっていた。ミロのビーナスとサモトラケのニケとモナリザのビッグ・スリーだ。初めて行った時にモナリザを探して慌てている人を見て笑っていたが、今になって気持ちがよく分かる。『ダ・ヴィンチ・コード』に出てくる批評家ラングトンはこの3点を「ルーヴル・ライト」と呼んでいる。アメリカのコラムニストであるアート・バックウォルドは三大傑作を5分56秒で駆け抜けたと書いている。1938年に「スウェーデンの韋駄天」と呼ばれたストックホルムの男が、スニーカーを採用して6分25秒という新記録を樹立した。そして、6分を切ろうとする
【ピーター・】ストーンはルーヴルが観光客用に入口に用意している松脂の箱にトラック・シューズを突っこんでから、タクシーに乗りこんだ。やがて号砲一発、彼はタクシーからとびおりて館内に突進した。ルールでは走ることが禁じられており、挑戦者は歩くことを義務づけられていた。彼はまっすぐ前方に視線を向けながら、ドノンの間を急いで通りすぎた。ダリュ階段の下で、「翼ある勝利の女神」にちらと一瞥をくれて左に曲がり、短い階段を二つおりて円形広間を抜け、一直線に「ミロのヴィーナス」に向かった。ヴィーナス増を完全に一回りしてから「翼ある勝利の女神」のほうへとってかえし、ローマとギリシアの古美術陳列室を通って近道をした。「ミロのヴィーナス」までの所要時間は一分五十八秒という好タイムだった。
ストーンは階段を一度に二段ずつのぼって、「翼ある勝利の女神」の前で二秒間立ちどまった。それから先は二つのルートがあった。まずナポレオン一世の戴冠式がおこなわれているダリュの間を通るか、イタリア派の作品が展示されている七巨匠の間を通るかである。彼はダリュの間を選び、ナポレオンの絵の前に一秒間だけ足を止めてから、「モナ・リザ」が待っているグランド・ギャルリーへと急いだ。三十秒後にはこの絵の前に達していた。ルールによれば、挑戦者はこの絵についてなにか観光客らしい月並みな台詞を口にしなければならない。
ストーンはいった。「この絵のどこがいいのかさっぱりわからんよ」それから、くるりと回れ右をして今度は七巨匠の間を通り抜けた。大急ぎで階段をおり、帰りは「翼ある勝利の女神には目もくれずドノンの間を通り抜けると、レオナルド・ダ・ヴィンチと発音する間もあらばこそ、通りを出てタクシーに乗り込んだ。タクシーが走りだすと同時に号砲が鳴り響き、ストーンのタイムは五分五十六秒の世界観光新記録と認定された。かくて栄誉はアメリカに奪回された。
-----「六分間ルーヴル」(『だれがコロンブスを発見したか バックウォルド傑作選1』文藝春秋)ドゥノン翼に走り、サモトラケのニケを探し、モナリザを探し、ミロのビーナスを探した。何しろ、45分までにパリビジョンに行かなければならない。
モナリザとその近くにあるダ・ヴィンチの作品を見せるが子どもたちは満足そうだ。それに、ルーブルの作品のすごさは探し回っている時に充分伝わっているはずだ。
■パリのアメリカ人
アメリカ人に関しては、わたくしの好きな小咄が一つある。尤も、これはジョークだと断らないと誰でも本気にしてしまう。それほど描写的なのです。
即ち、パリのルーヴル美術館を訪れたアメリカ人が、モナ・リザの前で、
But, it's so small!
と叫んだというのです。ローマの遺跡を見て、「ローマは戦災からまだ復興していない」と洩らした代議士の話は有名だがパリやローマに溢れているアメリカ人観光客の、まず九十パーセントはこの類だと思ってよい。現に、ポムペイの廃墟を見て、「こりゃまた徹底的に爆撃されたものだな」と叫んだアメリカ人の話は、これまた有名なもんだ。
-----伊丹十三『ヨーロッパ退屈日記』(文春文庫)
僕が好きなジョークというか、いたずらはルーブルの別館に、ある画家が自作をこっそり持ち込んで「展示」し、2日後にバレて撤去されたことだ。当時の「天声人語」は「美の殿堂で、感に堪えぬ面持ちでこの絵を鑑賞した人もいたわけだ」と書いていた。「万引き」をshopliftというが、こういうのをshopdropというらしい。
ミロのビーナスもきれいさに驚いていた。
19世紀半ばにエーゲ海のサモトラケ島で出土した、紀元前のギリシャ美術の傑作であるニケに子どもらがこんなに反応するとは思わなかった。スポーツ用品のナイキの語源はこの勝利の女神ニケだというと納得する。ルーブル美術館にあるニケについての詩人リルケの言葉だ(『筑摩世界文学大系』)。
ニーケーの像を思い起こせば足りる。この彫像は、恋人にむかってすすんでゆくうつくしい娘の動きをわれわれに伝えたというだけではない。それは同時にギリシャの風、その拡がりとかがやかしさとの永遠の像なのだ。
20世紀になってイタリアでマリネッティらの「未来派」が生まれた(スパゲッティを食べるとバカになるといって、その背後のイタリア文化を否定した)が、その「宣言」は「世界の華麗さが新しい美によってゆたかになったことをわれわれは宣言する。それは速度の美だ……咆哮をあげて機銃掃射のうえを走りぬけるような自動車は、『サモトラケのニケ』の像より美しい」(塚原史『言葉のアヴァンギャルド』講談社現代新書)。果たしてどうだったのか?
□ ギリギリ45分にパリビジョンに到着。誰も慌てて来ていないようで気が抜けた。トイレをしておこうかなぁ、と“Ou sont les toilettes?”と聞いた。ちなみに、1個しかなくても複数形にするのは「羞恥の複数」といわれるもので、朝倉季雄の『フランス語文法集成』(白水社)には“aller aux toilettes 「化粧室に行く」, Ou sont les lavabos? 「手洗いはどこ
ですか」. 【Marcel】COHENはこの複数形を羞恥の複数(pluriel pudique)と呼んでいる”と書いてある。日本語でも「お手洗いみたいなものはどこにありますか?」などと非常に婉曲にいうのに似ている(日本の若者だけが曖昧表現をするという結論にはならない)。ただし、イタリア語では単数形でもかまわないようだが、“bagno”(浴室)と婉曲的な言い方をするのは同じだ。
なお、『研究社新和英辞典』には次のように書いてある。
a toilet は 1 人分の区画を意味する. したがってそれがいくつかある公衆便所は toilets となる. 【…】《文例》 トイレはどこですか. 〈家庭で〉 Where is the bathroom? 【…】|〈デパートなどで〉 Where are the toilets, please?
ところが、受付の女性は「カフェに行ってくれ」という。さすがに、この時は驚いた。日本のはとバスのターミナルというか本店にトイレがないということはあるだろうか。子どもも年寄りも利用するはずなのにトイレを開放していないというのはすごい文化の違いだと思った。
米原万里『ガセネッタ&シモネッタ』(文藝春秋)の「なぜ、よりによって外出時に」というエッセーの中でも疑問が出ている。外に出たとたん、必ずトイレ、トイレと騒ぐ日本人をベルギー人ガイドがバスの運転手にぼやいている話だ。冗談で日本人の平均的膀胱の容積は小さいうえに締まりが悪いという結論を出したものの米原は「わたしは、しかし、かかる現象を合理的に説明できる理由が思い当たらずに絶句してしまった。それにしても、なぜなんだろう」…。
鹿島茂の『デパートを発明した夫婦』(講談社現代新書)にはプシコー夫婦が近代的なデパートを作った時に無料トイレを作ったことが成功の一つの理由だったと書いてある。それまでは有料のトイレしかなかったし、ブティックに入ったら何かを買わなければお店を出ることも許されなかったのだ。もちろん、トイレだけ使われては採算がとれないので多くのデパートで一階にトイレがないし、他の階でもわざと分かりにくいところに設置して、商品に目が行くように工夫されている。
もしかしてパリのカフェ文化なんていうのも幻想で、トイレを借りたい人だけが入っているのかもしれない。
中村うさぎ『パリのトイレでシルブプレー〜〜!』(角川文庫)は有料トイレの恐怖を描いたエッセイだ。パリでお腹をこわしてトイレに入ったのだが、ドアのロックが突然解除されてムキになって開けようとされた。何か言わなければと思っても知っているフランス語は「ボンジュール」と「メルシー」と「シルブプレー」だけ。「焦った私は、もう意味も考えずに、うわずった声で叫んでいた。『シルブプレー〜〜!』」。すると相手は「パルドン」といって、ドアから手を離した。「やれやれ……。だが、用を足し終わって、よぉーく考えてみると『シルブプレー』ってのは『どうぞ』とゆー意味なのだった。【…】うーむ、恥ずかしい!」。
子どもたちと話してみるとヨーロッパには自動販売機もないし、あまり水を飲まないからトイレもあまり利用しないのではということだった。そうかもしれない。スイスにはアパートの住民は午後10時以降にトイレの水を流すのは違法だという法律があるようだが、日本人には絶対不可能だ。
玉村豊男の『パリ 旅の雑学ノート』には「タダションの方法論」と題して次のように書いてある。
カフェに入り、だれか待ち合わせの相手を探すようなフリをして店内をきょろきょろ見まわし、そのうちにスッと、何食わぬ顔で地下に降りて、用を済ませ、また何食わぬ顔をして、カフェを出ていってしまう……というのもひとつの手だが、ちょいと演技力を必要とするし、うしろめたさが伴う。
で、玉村推薦のスマートなトイレ利用法は次の通りである。文章は携帯の時代にもう古びている!
ごく普通にカフェに入り、カウンターのレジのところへ行き、《Un jeton, s'il vous plait.》(ジュトンを一枚ください)といい、地下に降りて、電話室のとなりに入り、すがすがしく用を済ませ、帰りがけにレジに寄り、ジュトンを払い戻してもらうのである。
※その後、色々調べたら、トイレがこんなに近いのは日本人とエスキモーだけだという噂があった。ドイツ人などはあれだけビールをがぶ飲みしていてもトイレは1日1回だという。個人差があるにしろ、日本人がおしっこ世界一だということは間違いないらしい。鹿島茂の『パリ・世紀末パノラマ館』(角川春樹事務所)によれば、フランス人が排泄する大便の量は日本人のそれの半分だという統計が新聞に出ていたという。ガルニエのオペラ座がこけら落としした時も、トイレは目立たない場所に一個所しかなかった。清水義範は『世にも珍妙な物語集』の中で海外旅行中に2時間ごとにトイレに行かなければならないという、日本人の強迫観念のことを茶化して「トイレットシンドローム」と呼んでいる。
※パリの街角にある有料トイレが2006年2月から無料になった。 「サニゼット」の商標を持つ有料トイレは男女共用で、0・4ユーロ(約60円)分の硬貨を投入するとドアが開き、使用者が外に出た後に自動洗浄する。パリでは観光地や大通りなどに420ある。浮浪者などの立ちション対策だという。
□ バスが来て乗り込むが、最初から狙っていた人が多くて2階席はたちまちいっぱいだ。何とか空席を見つけて座って、イヤホンをつけようとするが壊れている。他の客も聞こえないとか壊れているとかいって席を移動している。係員にいうとなかったら1階にしてくれとにべもない返事。
二人分だけ確保したが、子どもたちは僕たちの解説を聞いているうちに眠ってしまう。コンコルド広場や凱旋門では何とか起こすが、どこまで覚えているのだろう?
しかし、パリの夜景がこんなに綺麗だとは思わなかった。“AN2000”の文字と頂上からのサーチライトが輝くエッフェル塔の下へも行き、サン・ルイ島にも渡り、ノートル・ダム寺院も見えてきた。二人とも見たいと言っていたのに起こしてもあまり反応がない。
河盛好蔵の『新装版 人とつき合う法』(人間と歴史社)に鹿島茂がこんなエピソードを書いている。
晩年、さすがの河盛先生も、せっかくパリに行きながら、昼間から居眠りされていることが多かった。そこで奥様が「あなた、パリに来て、寝てばかりじゃしょうがないじゃないの」とおっしゃると、先生は「いや、目が覚めたときに、パリにいると思うと、こんなにうれしいことはない」と答えられたという。
仕方がないなぁと思っているうちにパリビジョンの前に戻る。10時20分だ。二人を必死に起こす。祐貴は眼鏡を取っていたので渡して「落とすなよ」というと「分かったちゃよ」と不機嫌そうに答える。むかつきながらも二人を連れて、バスを降りて係員に「タクシーはどこ?」と聞くと「乗り場まで連れていってあげる」という。
それで乗り込んで動き始めたのだが、祐貴が「眼鏡がない!」と叫ぶ。道に落としたかもしれないが、動き始めたので2階に上がって探す。妻が「見あたらない!」というので、子どもを連れてパックツアーをするということはこういうことだったかと観念する。大半の空母を失ったミッドウェイの日本海軍のような気持ちになった。
二人とも眼鏡がなかったら、日本に帰ってからどうしようと悲嘆にくれた。ちょっと落ち着いて妻が探している座席を見ると僕らが座っていた席の一つ後ろだった。深呼吸してから前の座席の下を見ると祐貴の眼鏡が落ちていた。どっと疲れが出たが、まだ未蘭の眼鏡の所在はわからない。
バスはオペラ座の前に降ろしてくれた。ランセル本店の前の方に“TAXI”と書いてある。
写真を撮ってから乗り場に。乗ろうとすると「4人は法律で禁じられているんだけれど」という。実際は追加料金を払えばいいと聞いていたので、頼むと運転席の横の書類をどけている。
□ 「コンセルバトワールやエコル・ノルマルに妻の友達が何人も来ている」なんて話をしながらイビス・ポルト・ド・クリシーに到着。45フランだったので50フラン渡して降りる。
部屋に戻って、今度は妻が未蘭の眼鏡を探すがやっぱり出て来ない。
諦めて、保険がきけばいいけれど…と話していたら祐貴が水を飲みたいという。こんな時に!と思ったが、明日まで水がないのも辛いのでエレベーター横のエビアンの自動販売機に行った。故障中と書かれていたので、グラウンドフロアに降りる。
自動販売機を探していたら祐貴が「未蘭、こんなところに落としてないかなぁ」というので昨晩座っていた椅子の下を見てみるが全然ない。
でも、もしかしたら誰かが拾って届けてないだろうか?そこで、フロントに行ってみた。受付嬢に事情を話すと「聞いていないが確かめます」と言って後ろの事務所に引っ込んでいった。
そして、小さなスヌーピーの眼鏡を持ってきた!
受付嬢に何度も“メルシー・ボクー”を繰り返し、握手をして部屋に戻った。
こうしてヨーロッパ旅行の、子どもたちには初めての外国旅行が終わった。さすがに今日は疲れた。
きょうは、自ゆう行どうです。パリは、いろいろなところがあります。朝食を食べてから、地かてつのメトロのえきへ行きました。
さいしょに、エッフェルとうへ行きました。ろう人形が、すごくじょうずでした。つぎに、オルセーびじゅつかんへ行きました。どうぶつのぞうが、いっぱいありました。中へ入る時、いっぱいならんでいてなかなか入れませんでした。ならんでいる時、何かふいている人がいて、うまかったから、みんな、お金を入れていました。
入り口にやっとついて、チケットを買って、中に入りました。マネの絵がいっぱいかざってありました。おくへおくへとすすんでいくと、ちょうこくや絵が、いっぱいかざられていました。オルセーびじゅつかんは、むかしえきだったそうです。二かいへ行って、モネの絵はあったけど、すいれんの絵は、かし出されていましたので、がっかりしました。
つぎに、ルーブルへ行きましたが、人が多かったので昼食を食べに行きました。昼食はマクドナルドで食べました。
また、ルーブルへ行きました。そしたら、人が、へっていましたのでならんでいました。すると、後ろの人が、絵がうまかったです。その子のコートは、はででした。スケッチブックをいっぱい手にかかえて、すらすらと、絵をかいていました。ルーブルびじゅつかんで、チケットを買いに来たら、あの、絵がうまかった子が、おとうさんがチケットを買ったと言いつたえてくれました。それで、絵を見に行きました。最初に、ニケを見て、つぎにモナリザを見に行きました。いっぱいの人がしゃしんをとっていました。すごいきれいな絵でした。つぎに、ミロのヴィーナスを見に行きました。ここにも、人がたくさんいました。やっぱりしゃしんをとっていました。
帰る時、パリ・ビジョンのバスにのって、パリをぜん体見ました。イヤホンで、せつ明も聞けました。また、パリ・ビジョンへもどって来たけど、バスの人が「つぎのタクシーのり場まで行きます。」と、言ったので、またのりました。
タクシーのり場について、タクシーにのって、ホテルへ帰りました。トイレをして、テレビを見て、カギをかけて、テレビをけしてねました。きょうでさい後で、明日ひ行きにのって帰ります。帰ったら、明日は、二十八日です。ですが、日本は、もう、二十九日です。
また、外国へ来たいなあ。
金川 みらん
担任のG先生のコメント
わたしも一どパリへ行ったことがありますが、ルーブル美じゅつかんはいっぱいでざんねんですが、入れませんでした。二年生なのに、すばらしい作品をいろいろ見ることが出きてちょうしあわせですね。これから絵をかくときのさんこうになったのではないでしょうか。
21せいきにかつやくする金川さんたちは、どんどん外国へ行くチャンスが出てくると思います。そんなとき、二年生のときの外国りょ行のけいけんが、きっといかされてくるでしょう。
楽しみですね!
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