マックde記号論(言語学のお散歩)

ミレニアム欧州旅行〜子どもたちは何を学んだか?

はじめに〜準備
12月21日(木)■成田⇒パリ⇒ジュネーブ
12月22日(金)■ジュネーブ⇒インターラーケン
12月23日(土)■インターラーケン:ユングフラウヨッホ
12月24日(日)■インターラーケン⇒ミラノ⇒フィレンツェ
12月25日(月)■フィレンツェ:ピサ/フィレンツェ
12月26日(火)■フィレンツェ⇒ローマ⇒パリ
12月27日(水)■パリ:エッフェル塔→オルセー→ルーブル→バスツアー
12月28日(木)■パリ:帰路
12月29日(金)■成田着
終わりに〜その後

12月26日(火)


「人生はお祭りだ。共に生きよう」(フェデリコ・フェリーニ『81/2』)

 サン・ステファノの日でまたまた休日。フランス語ではエティエンヌとなる。

 6時にモーニングコール。45分までにスーツケースを廊下に出してくれといわれている。

 朝食を食べて7時半にシェラトン・フィレンツェを出てバスでローマへ向かう。

 途中、ツアコンの井上さんがクイズを出す。10問で2名にはワインをもらえるという。いろいろ気をつかって大変だ。「今日は何の日でしょうか?」、「この人はどうして死んだでしょうか?」(石をぶつけられて頭にいっぱいこぶができて死んだ)など。

 結局、もらえなかったが、もらっていたら重いといって飲んでしまっていただろう。飲んだら観光どころではなくなっていただろう。

 北陸の空のように曇ってばかり。太陽の国だというのは南イタリアだけの幻想らしい。それでも、ときどき、羊が見えてうれしい。

 トイレ休憩でワインや素材のお店Umbria Market ORTEに連れていかれる。ワインの試飲をしていたので、ゆっくり飲む。そのおかげで理性を失って、いろいろ買うが、結構高い。指定のお店はやっぱりダメだ。

 カードで払おうとすると5%追加になります、といわれ、少なくなったリラを出す。

 そうだ、ローマ、私はようやくにして世界の首都に到着したのだ。もしもよき道連れと共に、立派にもののわかった人に案内されて今から十五年も前にこの都が見られたのだったら、自分は大した果報者だと思う。しかし案内者もなく、自分ひとりで訪れねばならぬものだとすれば、その喜びがかくも遅く与えられたことを私はかえってよかったと思わなければならない。
     -----ゲーテ『イタリア紀行』(岩波文庫)

 途中、バスの許可所に入る。2000年からローマ市内に入る時は税金を払わなければならないのだ。この制度はフィレンツェから始まったといわれる。物を買っても消費税が20%(内税)と厳しい国だ。

 早く着いて、昼食までに時間があるというのでスタジオ・オリンピコに連れてこられる。スタジオ・オリンピコは中田英寿がいるローマのホームである【このシーズン、ローマは18年ぶりに優勝し、優勝を共にした中田はパルマに移籍した】。

 少し、日が出ている。

 外に出ると、変わった彫刻がいっぱい並んでいる。

 シーフード・レストランに入る。ボンゴレ・ビアンコが出て魚のフィレが出る。

 外に出ると変わったデザインのアパートが並んでいてどんな人生が隠されているんだろうと思う。

 いきなり宮本さんが話しかけてきて「若い奥さんやね」という。妻も日吉さんから「旦那さんといくつ違うの?ずーっと気になってしようがない」といわれたそうだ。宮本さんは職場結婚で、奥さんが上だという。ショッピングの仕方も旦那が買ってあげるというのではなくて、奥さんが主導権をとって買っている感じだった。うちは子どもが3人いるようなものだから大変で、宮本さんが羨ましい、と話す。

 ライセンスガイド(日本人ガイド)は来たもののローカルガイドが来なくて出発できない。ようやく来てヴァチカンに出発。日本人ガイドはヴァチカンの制服はミケランジェロがデザインしたものだとか、衛兵はスイス人に決まっているとかベラベラ喋り続ける。

 雨が降り始めた。

 ローマ市内を回る。過去の遺跡の中に現在が生きている不思議な街だ。永遠の都ローマだ。

 第二次世界大戦の時にローマ法王は「だれであれローマを攻撃する者は、文明世界全体に対する母親殺しの罪を犯すことになり、永遠に神の審判を受けるだろう」と警告していた。 ローマを占領していたドイツ軍の将軍らはある夜、オペラ見物に出かけた。幕が下りてから彼らは撤退を始めた。1944年6月3日のことである。オペラ見物は、市民の目をごまかすためだった(C・ヒバート『ローマ』朝日選書)。

 撤退開始の翌日、連合国軍がローマに入った。激しい戦闘はなく、文化遺産はほぼ無傷で生き延びることができた。ローマが無防備都市(ロッセリーニ監督に同名の映画がある)を宣言していたことも戦火を逃れた一因である。

 今回のツアーの目玉はサンピエトロ寺院で25年(昔は50年)に一度開かれる聖なる扉のご開帳見学だった。ジュビレオ(大聖年)に合わせて大きくされたという駐車場から歩いて、サンピエトロ寺院の前に出る。ヒッチコックの『海外特派員』みたいに傘が並んでいる。

 傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、傘、…………。

 日本人ガイドが「ごらんになったように人がいっぱいで中に入ることができません」とここに至って急にいうので腹が立った。この扉さえ通れば罪が許されるというから参加したのに一体!もっと前から状況を伝えるべきである!

 他の人も憤懣やるかたない状態だったが、時間がないというので諦める。ちょっと並んでみたが、途中抜け出せなくなりそうなので断念する。どうせおいらはカトリックじゃなくて浄土真宗だ【聖なる扉は1月6日に閉じられた】。

 土産物屋で記念コインなどを買うが腹が立つ。雨の中、本当に腹が立ってくる。また、日本人ガイドのしゃべり方が突き放したような話し方なので余計に怒りたくなる。せめて、ヨハネ・パウロ2世を出せ!

 どうして日本女性はイタリアが好きなのだろう?

 四方田犬彦は『狼が来るぞ!』(平凡社)の「出羽の守」の中で次のように批判している。

…たいがいは勤めていた職場をやめて、なにか新しい未知のものに憧れてイタリアにやってきていた。当座は言葉ができないから語学学校通いだ。でもそのコースが終わってしまうと、なにをしたらいいのか、たちまち路頭に迷ってしまう。日本では怖い横断歩道をいっしょにわたってくれたお友だちとやらがいっぱいいたわけだが、この異国の地ではなにもかも一人で決めなくてはいけない。自分で考える習慣をもたなかったことのツケが回ってくるのは、このときだ。

 わたし、ここで何をしたらいいんでしょう。僕の出会った元アナウンサーは友だちもできず、一日中アパートに閉じこもってクロスワードパズルばかりしていた。もう一人はたまたまつきあった職なし男の子供を妊娠してしまい、故郷から送金してもらって出産を終えた。さらにもう一人の元銀行OLは、たまたた知り合った男のパーティについていって、あいつにいくらもらってヤラせているんだとその友人にいわれ、頭に来たといっていた。イタリアでは日本人の女の子はモテモテだという奇怪な噂があるが、そうした形で接近してくるイタリア男がどのようなタイプの連中であるかは、誰でもおよそ想像がつくだろう。ところが悲しいことに、なにをしていいのかわからなくなっている女の子は、それこそが自分の人生を決定的に変えてくれる天のお告げだと信じてしまうのである。やれやれ。

真実の口

 市内観光の最初としてコロッセオ(コロシアム)に向かう。真実の口(元はマンホールの蓋だったから大うそつきなのだ)の前を通って、『ベン・ハー』のモデルになった競技場、チルコ・マッシモを見る。祐貴は『スター・ウォーズ1』のポッド・レースを思い出して大喜び。

 コロッセオの近くでバスをおりる。坂にも既視感があったが、『黄金の七人』のエンディングに出てくる場所だ。コロッセオに着くと今度は「中を見学されますか、どうしますか?料金は10000リラです」という。リラがないのでローカル・ガイドに20ドルに替えてもらう。

 中に入る。急な階段で嫌がるかと思ったが二人ともちゃんと付いてくる。紀元80年に建てられて5万人も入る競技場というのは大変なものだ。日本は1964年の東京五輪の国立競技場まで待たなければならなかった。珍しく馬鹿ップルが「ここは何をしたんですか?」と僕に聞いてきたので『スパルタカス』『グラディエーター』【2001年にアカデミー作品賞に選ばれた】の話をして「パンとサーカス」の政治について簡単に語る。「これが本当の殺し合ム」。

 ニーチェは『善悪の彼岸』(信太庄三訳)でこの問題を取り上げている。何もローマ人だけではない。

…われわれが〈高い文化〉と呼ぶもののほとんどすべては、残忍の精神化と深化に基づいてなりたっている、──これが私の命題である。あの〈狂暴な野獣〉はけっして殺されてしまったのではない。それは生きており、栄えている。ただそれは──神化されただけのことだ。悲劇における悲痛な悦楽をつくりだすのは残忍にほかならぬ。いわゆる悲劇的同情なるものにおいて、なおまた根本的にはついに形而上学の至高至妙な戦慄にいたりつくような一切の崇高感において、こころよい気分をかもしだすところのものは、その甘美な情調を、もっぱらそこに混和している残忍の要素からえてきているのである。闘技場におけるローマ人、十字架に狂喜するキリスト教徒、火刑や闘牛の情景を見守るスペイン人、悲劇へと突進する今日の日本人、血なまぐさい革命に郷愁を感ずるパリの場末の労働者、見かけは殊勝なふりをしながらもじつは「トリスタンとイゾルデ」を〈我慢して〉聞いているヴァーグナー狂の女たち、──これらすべての者たちが享楽し、ひそかな欲情を燃やして飲みこもうとねがっているものは、〈残忍〉という大魔女キルケの美酒である…。

 コロシアムでは人間同士、人間と動物が戦ったが、イギリスやフランスでは「熊いじめ」(bear-baiting)という王侯貴族の愉しみができた。シャルル9世は熊が犬になぶり殺しになるのを見て愉しんだという。

 雨の中に一人しっかり歩いている人は中学の英語の先生で顧問のハンドボールのスタジアムジャンパーを着ているのだという。レストランで話しかけられてアメリカにしようか迷ったとけれどやっぱりヨーロッパの文化を子どもたちに見せたくて、と話すとしきりに感心して、私も小さい頃、外国を体験していたら人生が違っていたという。

 外に一緒に写真を撮ろうという、ローマ兵の格好をした人がいるが、聞けば相当ふっかけるという。

※2002年末から免許制が導入されることになった。市当局によると、ローマの「歴史的なアイデンティティー」の保護が狙い。剣闘士は英語などの試験を受け、合格すると公式のバッジが与えられる。撮影料の相場は2−5ユーロだが、中には10ユーロもの高額を要求する者もおり、免許制導入後は料金も市が決める。

 次はトレビ(トレヴィ)の泉。「ここはスリの名所中の名所ですから、コインを投げようと財布を出してはいけません。ここで用意していってください」といわれ、慌てて小銭を出す。

 雨の中歩いていくと立派な噴水があった。もっとしょぼいのかと思っていたが、これを真似したところがどこもちゃちなせいで偏見をもってしまったのだ。後ろを向いて左肩越しに投げるのが正しいのだそうで、一人ずつ投げる。写真にはちょうど投げているコインが見えた。明石家さんまは大竹しのぶと新婚旅行でトレビに来て、大竹がコインを投げたのだが、泉に入らなかったという。それが原因で離婚…?

 トレビの泉は『ローマの休日』で大きくは映らないが、オードリーが髪の毛をカットするお店がすぐ横にある。今は鞄店になっていた。トレビは『甘い生活』でアニタ・エクバーグが中に入る所だし、マストロヤンニが根城にしているベネト(ヴェネト)通りも近い(『フェリーニ・オン・フェリーニ』キネマ旬報社の中にエクバーグのインタビューが残っていて、とても寒い3月だったが、北国出身のエクバーグはものともしなかったという---僕らは寒かった)。エットーレ・スコラ監督の『あんなに愛しあったのに』では『甘い生活』のリハーサルシーンが再現されてフェリーニとマストロヤンニが特別出演している。

 ガイドの説明は『ローマの休日』が中心になっていて、映画を見ていない人は訳が分からないだろう。

トレビ

 スペイン階段には映画のようにはジェラート売場がない(食べることも禁止)が、トレビの横の鞄店の右の方にジェラートのお店があった。ドルで払えたので買うが、子どもたちは「ナカタ・スペシャル」というのを所望。薄い赤紫色をしていてヨーグルト味にラズベリーなどがいっぱい入っている。オードリーはジェラートのコーンの部分を食べないで捨てていたが、王女じゃない未蘭はポリポリとおいしそうに食べる。

 ここで日本人ガイドが「サンピエトロ寺院に戻りたい人はどうぞ、それともスペイン階段に行きますか」という。まだ2時間ほどあるのだ。しかし、一旦諦めてしまったところへ子どもを連れて帰ることはできない。雨も降っているし…。

 ツアコンに後で聞くと、日本人ガイドとローカルガイドの契約の問題で、ヴァチカンで時間を費やせなかったのだという。そんな!

 結局、スペイン階段にいくことにする。『ローマの休日』で最初にヘップバーンがたどり着く所だし、ジェラートを食べる所でもある。『太陽がいっぱい』のリメイク?である『リプリー』でもスペイン階段が効果的に使われている。ちなみにスペイン階段の左手にはイギリスの詩人キーツが二十代で肺病にかかり、亡くなる前に転地療養した家があるという。

 キーツ!あのアン王女が朦朧としながら一節を諳んじる詩の詩人だ。新聞記者のジョーはシェリーだと反論するが、本当はジョーが正しくて、シェリーの“Arethusa”という詩なのである。

Ann: Do you know my favorite poem?
Joe: You already recited that for me.
Ann: "Arethusa rose from her couch of snows in the Acroceraunian mountains" - Keats.
Joe: Shelley.
Ann: Keats!
Joe: Now, you just keep your mind off the poetry and on the pajamas, and everything'll be all right, see.
Ann: It's Keats.
Joe: Now, I'll be - it's Shelley - I'll be back in about ten minutes.

 解散後の集合を上にするか下にするかといわれたので、下の方がわざわざ上がらなくていいからと主張したのだが、後で飛んでもないことが分かる。

 雨の中、どうしようもないので、困っていると子どもたちがマクドナルドに行きたいという。スペイン階段の右に50メートルのところにローマ一号店があることを見つけていたのだ。

 仕方がないので、マクドナルド。マークがあるのに様子が変なのでよく見ると2階がマクドナルドになっていた。

 リラがないのでここでもドルを使う。

 しかし、ローマのようなところでマクドナルドはありがたい。すぐに出てきて、清潔なお店、明るい店内、チップなしの支払、無料のトイレなどがあれば天国だ。

 後で知ったが、1986年にマクドナルド第1号店となったこの店ができる時にイタリアで反対運動が広まったという。スローフード運動はこの反対運動をきっかけに、トリノ郊外のブラという村からスタートしたもので、1989年にフランスに広まって国際性を帯びてきたものである。ただし、この北イタリアでは「北イタリア独立運動」というものがあって、貧しい南イタリアを切り離してしまおうという政治運動にもなっているので、眉にツバをつけて聞かなければならない。だって、おいしいマクドナルドを排撃することは誰にもできないことだ。それに、スローって誰が食べ物を作るのか?ゆっくり作ることになったら、(交替で料理していない限り)女性が犠牲になるだけじゃないか。

image

 じっくり休んでスペイン階段に登る。中段にはキリスト生誕のデコレーションがされている。一番上までいくが眺めもいい。時間が来たので降りていく。

 降りていって、みんなが集まったところでツアコンが「ではホテル・エデンまで行きましょう」と登っていく。つまり、バスのあるところは上だったのだ。きちんと説明してほしかった。

 雨の中、疲れが出ているのに必死に登っていく。上までいくと商店街の中をずっと歩いて行かなければならなかった。

 10分ほど歩いてホテル・エデンがあった時には本当に楽園にみえた。

 「ローマは一日にしてならず」だが半日で見ようというのはあまりにも無謀だった。

 ちょっと早めにローマ空港、いわゆるレオナルド・ダ・ヴィンチ空港に到着。「ローマ空港はクリスマスでポーターが捕まらないので自分でスーツケースを運んでください」といわれる。早めに荷物検査を終えて免税店に入る。ジュースやお菓子で2002年には使えなくなるという細かいリラを使い切ってしまう。

 3人を休ませて、免税店で姉や甥の恋人に贈るためにランコムのパレットを物色していたら、馬鹿ップルが近づいてきて男の子の方が「またまたぁ、愛人に化粧品を贈ろうと思っているんでしょ」と馬鹿丸出しで話しかけてきた。

 ローマ空港は複雑でぐるぐる回廊を通ってバスに乗って飛行機に乗らなければならない。

 乗る飛行機はマクダネル・ダグラススーパー80という代物で、往年のダグラスに乗れるとは思っていなかった。お尻から乗り込んだ。2席と3席が並んだ、左右対称じゃない飛行機は傾いて飛ぶんじゃないかしら。

MD80.GIF

 20時55分初のアリタリア航空(AZ-332便)でド・ゴール空港へ向かう。アテンダント(スチュワーデス)は年配の女性ばかりで「なるほど老婆空港か」などと独り言をいう。

 ミラノの上空あたりで大きく揺れた。ミラノは大雪になっているという。

 揺れる。飛行機があんな重たい金属の塊なのに飛んでいるのはおかしい。誤解して飛んでいるだけで、飛行機がそれに気づいた時には落ちると桂枝雀が語っていた。

 食事はハムの料理が出たが特においしいものでもなかった。子どもたちは眠っているので、食べなかったが、飛行機恐怖症になるよりはいいかと、そのままにしておいた。東海林さだおは『昼メシの丸かじり』(朝日新聞社)で機内食のことを「おびえつつする食事である」「こぼさない、はずさない、倒さない(ビン類)、たらさない、ということに精力の七〇%を費消しつつ、残りの三〇%の余力でする食事、それが機内食なのだ」と書いている。

 ド・ゴール空港に23時5分に到着。僕には2度目、妻には3度目のパリだ。新婚旅行の記録で「いつの日か、まだ見ぬ子どもたちを連れてパリに来たい!」と書いていたが、12年後にようやく実現した。

 荷物を受け取ってバスに乗り込む。両替のためにフランス人が入ってきてビニール袋に1万円単位で入ったものと交換していく。いろんな商売があるものだ。現地のスタッフが乗ってきて説明が始まる。

 イビス・ポルト・ド・クリシーへ向かう。Bランクのホテルでイビス(“IBIS”は「朱鷺」の意味で篠田節子に『神鳥 ―イビス』という小説がある)というのはチェーンになっていてパリにもたくさんある。クリシーはヘンリー・ミラーの『クリシーの静かな日々』しか思い出さないが、繁華街なのでくれぐれも気をつけるように、どの本にも書いてあるがポルト・ド・クリシーは少し離れているようだ。

 日程説明や部屋割りを聞いてそれぞれの部屋に入る。キーはクレジットカードのような磁気テープ式のを2枚ずつ渡される。縦にスッーといれないとうまく緑のサインが出ない。出てもうまく開けないと終わりになってしまう。疲れている時は辛い。

 262号室に入るとテレビに名前と歓迎の文字が出ていた。都市型のビジネスホテルなのだ。

 お風呂も小さいし、ビデもない(なくても構わないのだが…)。

 お風呂に入って体を沈めるとお湯が外にこぼれそうになったので、びっくりして264号室の妻たちに気をつけるように祐貴に伝えに行かせた。

 未蘭は既に鍵と一緒に渡された日本語の説明書に「すぐにお湯があふれるので注意」の項目を読んでいたという。

 1時になって疲れ果てて寝る。明日のモーニングコールも自分でセットしなければならない。

次に


Back Home     please send mail.