●ゆー
「柚子(ゆず)」で「ユウ」「ユ」というのは方言とはいえない。庄川町の金屋地区は日本最北のゆず「金屋柚子」の栽培地として知られる。原種は弘法大師によって伝えられたという伝統の特産品。夜から朝にかけて吹く「庄川嵐」という南風が木の露を払うため、温暖な地を好むユズも育つといわれる。こうした気象条件が、香り高く果肉も厚く、酸味の強いゆずを育てる。観賞用で直径20センチほどの獅子柚子もある。「モモクリ三年、カキ八年」の後は、地方によってさまざまだが「ユズは九年で成り下がる」「ユズの大ばか十八年」「ユズのあほう二十年」などと言われる。ゆずみそやマーマレードなどの加工品も多い。毎年11月に「ゆず祭り」が開催される。
●結納品
結納品には東西の違いがある。東日本型(関東式)では全ての結納品を一つの台に載せるが、西日本型(関西式)では一品ごとに別々の台に載せる。具体的な結納品も地域によって違うのだが、富山は金沢や福井に比べて多い。
金沢出身の泉鏡花の戯曲「海神別荘」で、海神の貴公子が美女を妻にめとる。儀式を取り仕切る執事が貴公子の前で、花嫁のもとへ贈る結納の品々を読み上げる場面がある。「真鯛(まだい)大小八千枚、鰤(ぶり)、鮪(まぐろ)、ともに二万疋(びき)、鰹(かつお)、真那(まな)鰹、各一万本…」。以下、真珠、鶴の卵、砂金の包み、花とつづくが、筆頭はやっぱり鯛である。考古学者の森浩一の『食の体験文化史』(中央公論社)によれば、正倉院文書などに出てくる「多比売(たひめ)」「多比麻呂(たひまろ)」といった人名は魚の名から取られているという。海に囲まれて生きる日本人にとって鯛は、遠い昔から自然の恵みの象徴であったようだ。美女は貴公子に問う。「一歩(ひとあし)に花が降り、二歩(ふたあし)には微妙の薫り、いま三あしめに、ひとりでに、楽しい音楽の聞こえます。ここは極楽でございますか」。
●夕刊
北日本新聞に夕刊があったが、2009年12月28日で休刊となった。
●悠久紙【ゆうきゅうし】
五箇山平村東中江組合のブランド和紙。伝統工芸の和紙で耐久性に優れ、桂離宮や国指定重要文化財の古文書の修復などに使われる。春の楮畑の手入れに始まり、夏の草刈り、 秋の刈り取り、そして冬は皮剥ぎから雪晒しが行われる。コウゾに含まれる葉緑素を抜いて、白くするのが目的だ。 雪の上に1週間から10日間さらして日光に当てると、品質も良くなると言う。雪が多い地域性を生かし、伝統的に行われてきたという。
●有形文化財
高岡市が保管する高岡鋳物の関係資料を国の有形民俗文化財に登録。高岡市金屋町を中心に江戸期から続いてきた高岡の鋳物製作の伝統が、全国の銅器生産の9割以上を占めると言われる現在につながっている点が特色として評価。有形民俗文化財の登録は県内初となる。
●勇助【ゆうすけ】
五箇山の平村相倉(あいのくら)集落にある、合掌造りの民宿。五箇山で最初の民宿といわれる。この勇助の見事な模型が大阪民族学博物館にあって庭には洗濯物まで干してある。
蛇足だが、僕は高校生の時、ここに泊まって五箇山の教師になろうと思った(山の教師になりたいと思ったのだ)。
●融雪
融雪装置。「消雪装置」ともいう。
●ユースホステル
富山市が1963年、浜黒崎にオープンさせ、目の前に海水浴場がある抜群の立地環境と、清潔さがなどが認められ、日本ユースホステル協会からは最高の「四つ星」の評価も受けていた。2001年に閉鎖された。
●ゆーにもほどかいて〜ゆーにもことかいて
「言うにも程があるのに(それを越えて)」「それをいっちゃおしめえよ」。
「ぎんぎんぎらぎら 夕日が沈む…」は高岡出身の室崎琴月(1891年〜1977年)の作曲。作詞は葛原(くずはら)しげる。葛原は最初「きんきんきらきら」にしていたのだが、子どもが「ぎんぎん」の方が夕日らしくていい、といったので変えた。また、最後の「…日が沈む」は室崎が加えたものである。
この「ぎんぎん」について榊原昭二は『だから言葉は面白い』(三省堂)で次のように書いている。
…目を射るような夕日を表現してなかなかに適切なものがある。色として見るとき、夕日の輝きは、銀より金の感じだ。しかし、目を射るような輝きとしては濁音の「ギ」の方が適切である。虫の声がうるさいという「ぎんぎん」、頭痛で頭が「ぎんぎん」という表現は、この童謡以前にすでにあり、これらをうけつつ、この童謡に「輝き」の表現を得たのではあるまいか。一九八一年(昭和五十六)近藤真彦が「ギンギラギンにさりげなく」(松本隆・詞)を歌った。大正の童謡がここで大きく息を吹き返し、若者→女性→ファッションの線でギンギンが定着してきた。
琴月に関しては室崎信子編『この道一筋〜童謡「夕日」作曲家室崎琴月追想集』(室崎信子)などがある。筆名の由来を「琴を楽しみ月を愛するのが私の生活」と語っていた(生誕百年追想集『この道一筋』)。一人きりで数時間もじっと月を眺めていることがあったという。
なお、葛原しげる(1886年〜1961年)は葛原勾当(くずはら こうとう 1812年〜1882年)の孫で「とんび」も有名。琴の名手として知られる葛原勾当は、名を重美(しげみ)といい文化9年(1812年)広島県安那郡八尋村(現在の広島県深安郡神辺町八尋)に生まれた。3才で痘瘡のため失明するが、後に筝曲の教授を受け、16才からは自ら弟子の稽古に当たった。
夕暮れが出てくる童謡は「赤とんぼ」「夕焼け小焼け」をはじめ、しんみりとした曲が多いが、「夕日」は元気で明るく、親しみやすい。関東大震災(大正12年)後に流行し、被災者を勇気づけたとされる。実は日本の童謡には「月」が多い。アメリカは「太陽」が圧倒的に多い。日本の太陽を賛歌した童謡はおそらくこの「夕日」の他二、三が目立つだけで、あとはほとんど月の歌で占められている。日本人には満ち欠けのある月の方が感性に合うのだ。
黒川伊保子『怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか』(新潮新書)
商品名の音
実は、音のサブリミナル効果の影響が認められるのは、企業名やブランドマントラだけではない。
「車の名前にはCがいい」(例・カローラ、クラウン、セドリック、シビック等)
「女性雑誌はNとMが売れる」(例・ノンノ、アンアン、モア等)
「人気怪獣の名前には必ず濁音が入っている」(例・ゴジラ、ガメラ、キングギドラ等)
企画の現場で語られる、ことばの経験則がある。これらもまた、ことばの音のサブリミナル効果が大衆を動かす現象である。
ことばの音の響きには、潜在的に人の心を動かす力がある。発音の生理構造に依拠した、人類共通に与える潜在情報があるのだ。
たとえば、Kの音を出すとき、私たちは、喉を硬く締め、強く息を出して喉をブレイクする。喉をブレイクスルーした息は、最速で口腔内を抜ける。最速で抜ける息は唾液と混じらないので、ことばの音の中で最も乾いている。
K音を発音する度に、私たちは、自分自身の身体で、硬さ、強さ、スピード感、ドライ感の四つの「感性の質」を体験しているのだ。その単語が、これらの質と直接関係のない意味を持っていても、いやおうなく脳裏には、硬さ、強さ、スピード感、ドライ感の四つの質が浮かぶのである。
この感覚は、洋の東西を問わない。気管から送り出される息と喉、口腔、鼻腔、舌、歯、唇を使って音声を出す人種であれば(私はそれ以外の人種を知らないが)、同じ方法で同じ音を出し、同じ音について同じ潜在情報を共有している。
つまり、ことばには、意味とは別に描かれる潜在意識の印象があり、それは世界共通の印象なのである。
ちなみに、K音を発した直後、喉は丸く緊張する。遅れてやってくるこの感性の質を、わざわざ取り出すための文字がCである。C表記を使うと、Kの発音から、硬い曲面や速い回転のイメージを優先的に引き出せる。すなわち、車に使えば、金属の流線型のボディと、エンジンの回転を想起させることになる。
だからこそ自動車の名前にはCが効果的に使われているのだ。カローラ、クラウン、コロナ、カムリ、コルベット、カマロ、シビックなどなど。音はS音ながらも、流線型のイメージを文字Cに託した車名も含むなら、セドリック、セフィーロ、シトロエン、シボレーなども挙げられる。
「車の名前にはCがいい」という経験則は、発音の生理構造が脳に送り込んでくる感性の質の演算によって、科学的に説明できるのである。
「それはコジツケだ。あえて理屈を付けるならば、最初にCを使った車がヒットしたので、皆が追随したに過ぎない」とおっしゃるかもしれない。ことばの「意味」にのみ囚われている人ならば誰もがそう思うことだろう。
しかし、そうでもないのである。大脳には、「感じる半球(右脳)」と、「考える半球(左脳)」がある。硬く締めた喉に、強く息をブレイクスルーさせる快感は、膨張と放出のイメージを持つ生殖期間中の男性脳を興奮させる。左脳が意味をうんぬんする前に、右脳は勝手に興奮するのだ。だからこそ男たちは、「採算性を考えれば、自転車とタクシーで十分じゃない?」という妻を蹴散らして、輝く流線型のボディを手に入れるわけである。
もちろん、男性脳を興奮させる音は他にもある。C以外の車も、上手に男たちを興奮させている。●雄峰【ゆうほう】高校
空飛ぶ円盤を研究している、単位制高校。というのは冗談で、富山にある単位制高校。昔、飲み会の案内状に「有峰高校近く」と書いてしまい、なかなか来ない奴がいて、聞いたら「有峰ダム(立山にある)近くで探していた」などとぬかした。アルペンスタジアムも富山市の飯野で探さないで、アルペンルートまで間違って行く人が多い。
●雪
エマソンは『文明』(American Civilization1862)で次のように書いている。
The highest civillity has never loved the hot zones. Wherever snow falls there is usually civil freedom. Where banana grows, man is sensual and cruel.
熱帯地方には最高の礼節はない。雪の降る地方には礼儀正しき自由があるのに、バナナの育つ熱帯の人間は官能的である、残酷である。
今は温暖化で雪の振り方が違うが、昔は雪が降り始めると、ずっと春まで雪だったものだ。今は雨が降ったり、雪になったりである。確実に雪の量も少なくなってきている。それでも、鉛色の雪雲の下に閉じこめられた生活を送るのは苦痛だ。僕の同僚で奥さんが富山の気候に合わないという理由で他県の大学に移っていった。モーパッサンの短編「初雪」を思い出してしまう。ノルマンディの城館に嫁いだパリジェンヌが城の寒さに耐えきれず、ようやくカンヌへ行くことになったのに、死んでいく、いじらしい若妻の話である。
富山地方気象台の初雪の平年値は11月28日。遅い観測記録の1位は1957年12月の19日。続いて63年の18日、59年の17日、90年と2003年の16日になる。2002年は富山地方気象台の観測史上最速の11月4日に記録した。
「クラゲがたくさん捕れる年は大雪あり」という言い伝えがある。南利幸『ことわざから読み解く天気予報』(NHK出版)によれば、クラゲが多いのは海水温が高いため。海上には水蒸気もたっぷりある。そこに冬の寒気が流れ込むと、多量の水蒸気を材料に雪雲が発達して例年より多くの雪を降らせる理屈という。
宮本輝のお母さんも合わなかったようだ。公式ホームページに次のように書いてある。
富山市豊川町に転居。
富山市立八人町小学校に転入。
父の事業のための転居。しかし、事業は思わしくなく、夏には父一人、大阪に戻った。母と二人、富山市大泉本町に転居。都会育ちの孤立しがちな少年であったが、やさしい荒井先生との出会いがあった。母は気候が合わず、喘息になる。宮本輝『天の夜曲 流転の海・第四部』には主人公の妻・松坂房江が喘息になって富山の風土と合わないのではと思うシーンがある。
冬は深い雪。春は雪解けのぬかるみ。初夏は日本海と立山連峰に挟まれているせいらしい異常な蒸し暑さ。夏の粘りつく湿気……。それがこの私に喘息という病気をもたらしたのだ。
『天の夜曲』では倉田百合という女性も富山から離れていく。「自分には富山での一人暮らしは、やはり無理であった。退屈で、毎日が息苦しく、頭が変になりそうで、このままでは何か大きな過ちを犯してしまいそうな気がして」大阪に帰っていく。
絲山秋子『不愉快な本の続編』(新潮社)では次のような言葉が出て来る。
昼間に働くようになってから北陸の冬の暗さをはじめて気にした。夜の仕事やってた頃は張れても曇っても変わらないし、新潟市内は富山と違ってゆきなんて対して積もらなかったんだ。
瀬戸内でぬくぬく育ったボクにはちょっと憂鬱だった。いや瀬戸内のせいじゃない。ユミコのこと【浮気からの離婚】以来ボクはずっと憂鬱だったから、濁った色と湿った雪が自分にのしかかって来るように感じたのかもしれない。いろんなことに麻痺していたなかで、天気が気になったことだけは覚えている。気象予報士の福井敏雄はどんなに晴れても「いい天気」とは言わなかった。晴れたら困る農業の人もいるからだ。「西高東低の気圧配置」だって、東京の人には「いい天気」かもしれないが、北陸の人間にとっては「悪い天気」でしかない。渡辺淳一は文部省唱歌の「雪」で「雪やこんこ霰やこんこ」と歌うのが嫌で、雪なんか嬉しくもありがたくもない、といっていた。
□ もしかしたら、気候が合わないと思っている人は三浦哲郎『忍ぶ川』の読み過ぎかもしれない。初夜で男は妻となったばかりの志乃にいう。
私は、二つならべて強いた蒲団の一方を、枕だけのこして手早くたたんで、
「雪国ではね、寝るとき、なんにも着ないんだよ。生まれたときのまんまで寝るんだ。その方が、寝間着なんか着るよりずっとあたたかいんだよ。」
さっさと着物と下着をぬぎすて、素裸になって蒲団へもぐった。志乃は、ながいことかかって、着物をたたんだ。それから、電燈をぱちんと消し、私のもとにしゃがんでおずおずといっ
た。「あたしも、寝間着を着ちゃ、いけませんの?」
「ああ、いけないさ。あんたも、もう雪国の人間なんだから。」志乃はだまって、暗闇のなかに衣ずれの音をさせた。しばらくして、「ごめんなさい。」ほの白い影がするりと私の横にすべりこんだ。
これって青森県の南部地方の話なんだけどなぁ。
僕の好きな俳句に橋本多佳子のものがある。多佳子には雪の俳句が多いが、息がつまるというのはとてもいい。
雪はげし抱かれて息のつまりしこと
雪はげし夫(つま)の手のほか知らず死ぬ
雪はげし書き遺すこと何ぞ多き□ 富山に赴任していた大伴家持には雪の歌が多い。
「雪の上に照れる月夜(つくよ)に梅の花折りて贈らむ愛(は)しき児(こ)もがも」は「雪の上に月が照っているきれいな夜に 梅の花を折って贈るような愛しい娘がいたらなぁ」という意味で、勝宝元(749)年12月に家持が宴席で詠んだ歌だ。
「この雪の消残(けのこ)る時にいざ行かな山橘(たちばな)の実の照るも見む」は天平勝宝2(750)年12月に作ったとある。「この雪が消えてしまわないうちにさあ出かけよう。やぶこうじの実が雪に照り輝くさまも見よう」と。山橘とはヤブコウジのこととされ、マンリョウの仲間だ。常緑小低木で夏に白い花を咲かせ5、6ミリの赤い実を数粒つける。実は赤く熟し、平安時代以降、正月の飾りに用いられるという。
「消残りの雪にあへ照るあしひきの山橘をつとに摘み来な」(消え残った雪に合わせ、照り輝くやぶこうじを土産に摘んで来たい)という歌は天平勝宝8(756)年11月で、都に戻っていた家持が雪を見て、感興を覚え詠んだという。
「新(あらた)しき年の初の初春の今日降る雪のいや重け吉事(よごと)」は『万葉集』最後の歌は天平宝字3(759)年正月一日、因幡国庁での詠だが、悲しいことばかり続いている大伴家にとっては切ない願望としか思えない。『徒然草』第三十一段には次のような話が載っている。
雪のおもしろう降りたりし朝(アシタ)、人のがり言ふべき事ありて、文(フミ)をやるとて、雪のこと何とも言はざりし返事(カヘリコト)に、「この雪いかゞ見ると一筆(ヒトフデ)のたまはせぬほどの、ひがひがしからん人の仰せらるゝ事、聞き入(イ)るべきかは。返(カヘ)す返(ガヘ)す口をしき御心(ミココロ)なり」と言ひたりしこそ、をかしかりしか。
今は亡き人なれば、かばかりのことも忘れがたし。
小林一茶は雪のない江戸から豪雪地帯の信州柏原に帰郷した。「是(これ)がまあつひの栖(すみか)か雪五尺」。いかんともしがたい雪にあきらめの境地だ。一方で「むまさうな雪がふうはりふはりかな」と、明るい空からふわふわと落ちてくるのを楽しんでいる。「雪とけて村一ぱいの子ども哉(かな)」では雪の間閉ざされて暮らしていた子どもたちの様子がよく出ている。
江戸末期の雪国の暮らしと自然を記した名著、鈴木牧之(ぼくし)の『北越雪譜(ほくえつせっぷ)』は越後魚沼の縮(ちぢみ)仲買商だったが、暖国と雪国との「初雪」への思いの落差を次のように述べている。「江戸には雪の降らざる年もあれば、初雪はことさらに美賞し、雪のために種々の遊楽をなすことあげてかぞえがたし。雪国の人、これを見、これを聞て羨(うらやま)ざるはなし。我国(越後)の初雪を以(も)って、これを比れば、楽(たのしむ)と苦(くるしむ)と雲泥のちがいなり」。雪見の遊興の楽しみを夢にも知らず、初雪を悲しむ雪国の暮らしは、よほど江戸の人々の心を打ったようだ。この本を置いていない貸本屋は客が来ないといわれるほどの評判をとった。「されば暖国の人のごとく初雪を観(み)て吟詠遊興のたのしみは夢にも知らず」ともいう。5センチくらいで大騒ぎする都会が信じられない。「雪中に在(あ)る事凡(およそ)八ケ月、一年の間雪を看(み)ざる事僅(わずか)に四ケ月なれども、全く雪中に蟄(こも)るは半年なり」。今は雪下ろしというが、この本では雪掘りと言う。雪中から家を掘り出す。
毎日新聞「余録」に次のようなエッセイが載った。
六角形の雪の結晶を配した着物の柄は「雪華模様」、あるいは「大炊(おおい)模様」ともいわれる。天保年間に刊行された雪の結晶の顕微鏡による観察記録「雪華図説」からの命名とされ、その著者である古河藩主、土井利位(としつら)の官位が大炊頭(おおいのかみ)だったためという▲雪が降りそうになると黒い繻子(しゅす)を広げ、落ちてきた雪片を肉眼あるいは顕微鏡で観察する。この際、息や体温で溶けぬよう注意し毛抜きを用いる‐‐こんなことをしていたのだからヒマな殿様と思ったら、幕府の大坂城代として大塩平八郎の乱を鎮定し、老中首座にもなった人だ▲観察記録は正続の2度にわたり刊行され、計183枚の結晶図が掲載された。これがファッションデザインとして注目され、雪華模様の流行をもたらしたという。「図説」は日本の科学史とともにファッション史にも記されることになった▲雪の研究で知られた小林禎作は利位が今の茨城県や大阪で結晶図のような詳細な観察ができたのは当時の寒冷さを示すという。観察の様子から時に氷点下10度に及んだことが推測できるそうだ。温暖化の進んだ今では思いもよらぬ気温だ▲雪のないスキー場のニュースにまた暖冬かと思わせたこの12月だが、ここにきての寒波襲来である。北日本上空には氷点下40度以下の寒気が流れ込み、日本海側は場所により記録的な大雪に見舞われた。なかなかほどよくとはいかぬ天気だ▲やはり天保年間、雪国の厳しい暮らしを描いた越後人の鈴木牧之の「北越雪譜」も「雪華図説」を引き、図を写して「雪を六(むつ)の花といふ事、御説を以(もって)知るべし」と書いた。六の花が列島に美しく、そして厳しく舞う年の瀬である。
毎日新聞「余録」 2009年12月19日冬の季語に「風花」(かぜばな、かざはな)というのがある。風に飛ばされた桜ではない。晴天にちらつく小雪片や降雪地から風に吹かれて飛来してくる小雪を指す。
舞い散る雪を雪花という。
雪はひっそりとしている。戸板康二は子供時代の雪の朝を回想して「戸一枚向こうにだれかが息をころして立っている、そんな感じで、今まで眠っていた子ども心に、外の雪が確認された」(「雪」)と書いている。
堀口大学は「白き翼の聖天使」に喩えた。「美しくてつひにとらへ難き」と高村光太郎は詠んだ。宮沢賢治は「あんなおそろしいみだれたそらからこのうつくしい雪がきた」と表した。三好達治は「太郎の屋根に…」と歌った。
俳人の中村草田男は一時期を過ごした小学校を二十年ぶりに訪ねると、雪が降ってきた。すると金ボタンの黒の外套をまとった児童が校庭に走り出てきた。自分の時と同じ黒絣の着物の子どもが出てくると思っていた中村草田男は歳月の経過を思い知ったのである。「降る雪や明治は遠くなりにけり」はこの時生まれた(山本健吉『定本現代俳句』)。
夏石番矢(なついしばんや)は「降る雪を仰げば昇天するごとし」と歌った。
室生犀星『抒情小曲集』の「序曲」の一節に<雪のしたより燃ゆるもの/かぜに乗り来て/いつしらずひかりゆく/春秋ふかめ燃ゆるもの>とある。金沢で生まれ育った犀星は暖炉にあたるなどして「恐ろしい吹雪の夜」を送っていたと記す。そして雪明かりの窓際で「子どもらしくない」ことを考えていたという。「雪の下では春の浮動するものが生き初めるころは、わけても悩ましい力がからだに湧いてくるのであつた」。
三島由紀夫は『金閣寺』の中で次のように書いている。
どうして雪は吃らぬのか? と私は考えた。それは八つ手の葉に障るときなど、吃ったように降って、地に落ちることもあった。しかし遮るもののない空から、流麗に落ちてくる雪を浴びていると、私の心の屈曲は忘れられ、音楽を浴びていりように、私の精神はすなおな律動を取戻した。
宮本輝『天の夜曲』の冒頭では富山に初めて来た房江が「雪て、白いもんやとばっかり思てたけど、灰色やねんねェ……」と嘆くシーンがある。そうなのだ。北陸の雪は鉛色をしているのだ。熊吾は「太陽が照ったら白うなりよる」というが、太陽が照ることは稀である。
作家の井上靖は、どこかの少年が書いたという短い詩を雑誌で読み、深く感じ入ったという。「雪」と題する自身の散文詩に少年の詩を引き、書いている。「雪が降って来た/鉛筆の字が濃くなった」。そして「雪が降って来ると、私はいつもこの詩のことを思い出す。ああ、いま、小学校の教室という教室で、子供たちの書く鉛筆の字が濃くなりつつあるのだ、と」(『井上靖全詩集』新潮文庫)。降り出した雪が、鉛筆を握った指先に伝わる。その精神の弾力性を、井上は「豊饒」と評した。
三八豪雪の当時、金沢大学の教官だった作家、古井由吉は雪下ろしでの「際限もない反復」作業を小説「雪の下の蟹」に書いている。「全身が快く汗ばんでいる。久しぶりのことだった。血行が健やかになってゆき、神経がやさしい獣のようにまどろんでいた」(筑摩現代文学大系)。雪下ろしが「私」に解放感をもたらすという印象的な場面だが、北陸の雪の重さを知るものにとってはとんでもない話である。
小学生の頃、恩田陸『ユージニア』も金沢が舞台になっていて、金沢の蒸し暑さを冒頭で丁寧に描いている。その中で、富山が次のように描かれている。
雪はそんなに降らないわ。ここ【金沢】に来る前、富山のほうにも少し住んでいたけど、たいして遠くないのに、向こうは雪ばかり。水を含んで重たい雪。雪玉をぶつけられるととても痛かった。すぐに家の襖(ふすま)が動かなくなった。ここは、ああいう雪にはならない。
でも、人間って不思議。喉元(のどもと)過ぎれば、というけれど、この蒸し暑さの中にいるとあの雪の感触が懐かしいし、あんあものが数カ月前まで街を覆っていたなんて信じられないわ。
暑いわねえ。恩田陸は「月世界」という文を『小説以外』(新潮社)でも書いている。富山を「関西圏」といわれるとちょっと驚く。
初めての関西圏は、イントネーションの違いと肌にまとわりつく湿度に違いを感じた。雪も湿って重く、雪合戦をすると雪玉は痛いし、すぐに手袋がびちゃびちゃになった。
新沼謙治の演歌「津軽恋女」によれば、津軽地方に「こな雪、つぶ雪、わた雪、みづ雪、かた雪、ざらめ雪、こほり雪」があるというがこれは太宰治の『津軽』の本の扉裏に書いてある雪の名前(「東奥年鑑より」と書いてある)である。青森県では実際にこんなふうに区別してきたという。富山で「わた雪」「みづ雪」はよくあるが、「こな雪」になることは少ない。乾燥の度合いが違うからだ。富山の雪の代表は「ぼたん雪」だ。地表の温度が高いから、上空から落ちてくる雪の結晶が途中でくっつき合い、大きな塊になるためだ。「風花」(かざはな〜かざばな)という空中を漂う雪の美しい呼び名もある(「晴天にちらつく小雪片。降雪地から風に吹かれて飛来してくる小雪」大辞林)。
「雪恋い」という言葉もある。青年期まで石川県加賀市で暮らした高田宏による造語で『雪日本心日本』(中公文庫)で「私は雪恋いである。東京という町を私は年々好きになっているのだが、雪のないことだけが不満である」と書き、『北国のこころ』(NHK出版)では「雪の降りしきる海辺に立って時の溶解してゆく感覚にとらえられていたものです」と書いている。大雪に降り込められるのは辛いが、雪がないと物足りない。雪国に生まれ育った者の、雪に対する思いのディレンマがある。
ちなみに「雪中花」と呼ばれるのはスイセンである。
『おもしろ金沢学』(北國新聞社)によれば、金沢には「ユキガミナリ」(雪を伴う雷)「ユキゲ」(雪の降りそうな気配)「ユキシタジ」(雪の降る前の雨)「ユキカゼ」(雪の降りそうな冷たい風)という言葉があるというが、富山では使わない。「ユキガミナリ」は「ブリオコシ」のことである(こちらは金沢でも富山でも使う)。「コワブキ」「ミズアラネ」「ザラメユキ」「ハッシャイダユキ」「ゴボル」「ゴッボ」「キンカンナマナマ」など理解不能である。
北原白秋編『日本伝承童謡集成(第一巻子守唄篇)』には「ねんねのお山を越えるとき、東をみても松ばかり、西を見ても松ばかり、北も南も松ばかり、雪に降られた松の葉は、銀のぬひ針しかけ針、ふりの小袖のしやなしやなと、ねんねのお山をとろとろと、ねんねこさんよいらつしやい」という子守歌が載っていて富山で採取されたという話が書かれている(北日本新聞2004年2月5日朝刊「天地人」)が、これは竹久夢二『童謡 凧』に載っている「ねんねのお山──お人形への子守唄──」の一部である。
積雪も区別される。地方によっては、新雪、こしまり雪、しまり雪、ざらめ雪の4つに分類されるが、富山では新雪とざらめ雪だけだ。富山の雪は重いと岐阜の人に言われたことがあるが、日本海の湿気をたっぷり含んだ雪は本当に重い。だから、雪下ろしが必要になる。屋根に一メートルの雪があれば、一平方メートル当たりの重さは約三百キログラムとなる。
積もった雪 金子みすず
上の雪
さむかろな。
つめたい月がさしていて。下の雪
重かろな。
何百人ものせていて。中の雪
さみしかろな。
空も地面(じべた)もみえないで。富山県に平屋の家が少ないのは、雪が積もった時に二階から出るなんてことができないからである。
富山のお墓が立派なのは雪に埋もれないためだという説もある。
2002年に東京書籍発行の中学公民の教科書が新潟県中里村の「雪国はつらつ条例」を「雪国はつらいよ条例」と誤記していたことが明らかになった。雪国での生活は本当につらいか。中里村のホームページに全国から励ましのメッセージが殺到したと聞くと、誤記は無理からぬ話と思えてくる。富山県はご親切にも「親雪」「克雪」などという言葉を作ったのだが、こんな雪を親しめ、といわれても困る。
「雪 イトド深シ/花 イヨヨ近シ」---柳宗悦(やなぎ・むねよし)。
宮澤賢治は「雪渡り」で次のように書いているが、雪が固くなって、始末に悪い、ということを都会の人は知らない。
雪がすっかり凍ってまるで大理石のやうに堅くなりました。
空も冷たい滑らかな青い石の板で出来てゐるらしいのです。お日 様がまっ白に燃えて雪をぎらぎら照らしました。
木はみんなザラメを掛けたやうに霜でピカピカしてゐます。
●「雪」
1911年年の『尋常小学唱歌(二)』が初出の童謡。「雪やこんこ」が正しいが、「雪やこんこん」と思っている人も多く。金谷武洋の『主語を抹殺した男』(講談社)に外国人に雪に降る音はないでしょう、といwれて、「こんこん」とも「しんしん」とも降るんだよ、オノマトペだよと説明するところがあるが、断じて違う。これを呉智英が『言葉の煎じ薬』(双葉社)で書いている。
『日本の唱歌』では、国文学者の池田弥三郎の説として「雪よ来う来う」(雪よ来い来い)を紹介している。子供が空に向かって呼びかけているのだ。そうだとすれば、擬声語でも擬態語でもないことになる。
産経新聞のコラム『唄いつぐ』(二〇〇六年十月十四日付)に、射水市の大島絵本館の前館長高井進が書いているところによれば、『雪』の原型は、平安末期の日記文字【ママ/「文学」】『讃岐典侍(さぬきのすけ)日記』の中にある「降れ降れこゆき」だという。子供たちが雪にはしゃぎ、もっと降れと呼びかけているのだ。その結果として雪が「ずんずん」積もるのhあ、これは確かに擬態語なのである。
●雪売り
氷売りとも呼ばれた(一茶『七番日記』の句に「八文で家内が祝ふ氷かな」というのがある)。冬期氷室(ひむろ)の中に雪を固めて貯蔵し、8月末頃まで主に魚の冷蔵用に使われた。夏にはこれを用いて砂糖水などをかけて売る行商人が出た。田中冬二の「ふるさとにて」の中にも「山の雪売り」という言葉が出てくる。
●雪下ろし
地域によって違うと思うが、富山の雪はかなり重いので、放っておくと家が倒壊する。おおむね1メートル積もると雪下ろしを考えなければならない。今はビニールの波板を置いて、その上をすくった雪を滑らす。危ないのは転落事故で、更に下を通る人にも注意しなければならない。また、下ろした雪をまたどかせなくてはならない。
●雪掻き
富山では「雪すかし」ということが多かった。東京で大雪になった時、みんなちり取りで雪をのけていた。富山ではスコップやママさんダンプが必需品である。
朝から雪掻きをする音がする。家の前に雪があると迷惑だからということなのだ。ちょうど落語の「鹿政談」を思い出す。早朝のまだ暗い、彼(か)は誰(たれ)時。起き出した豆腐屋が、表に出しておいた商売物の雪花菜(きらず)、つまり、おからを、むしゃむしゃ食べている黒い影に気づく犬だと思い、追い払おうと薪を投げつけると、それが当たって影はばったり。見れば、こときれていたのは犬ではなく鹿。そこは、鹿を神鹿(しんろく)として大事にしている奈良、誤って殺しても死罪になる土地だ。豆腐屋はお縄となり、奉行所へと引っ立てられる…。
●雪囲い【ゆきがこい】
雪が降る前に雪囲いをした。富山の雪は重くて、横に圧力がかかるからである。昔は板だったので、雪囲いをすると家中真っ暗になった。九谷焼きはそうした暗さをはねのけるために、あの明るさを持っているといわれる。
陽光が入らなかくて、ビタミンDが不足したので、昔は「佝僂病」(くるびょう)といって、骨の発育が不十分で湾曲・変形をもたらす病気になる子どもが多かった。
●雪形【ゆきがた】
雪絵とも呼ばれ、残雪を動物や文字などに見立てるものもあれば、残雪に浮かび上がる山肌が形をなすものもある。富士山には農鳥(のうどり)というのが現れる。雪形には農作業にまつわる伝承が多い。雪形が消えれば、川遊びが解禁されたという。
富山の僧ケ岳(そうがたけ)では。大入道と猫のように見える模様が一つになって馬の形になる。最終的には尺八を吹きながら馬を引く僧の形へと変化する。魚津市に伝わる昔話によると「昔、田植えの最中に大風が吹き、道を歩いていた旅の僧が馬もろとも吹き飛ばされ、山に張り付けられた。以来、田植えのころになると山肌に馬を引く僧が現れるのだ」と伝えられている。僧ヶ岳の雪形の僧は、背に袋をかつぐという。地元の人は袋の大小で、その年の作柄を占った。大きければもちろん豊作である。
県内では宇奈月と魚津境の駒ヶ岳(2002メートル)や五箇山の人形山の雪形もよく知られる。人形山には手をつないだ姉妹の姿が現れる。病気の老母の回復を白山権現に祈願しようと山頂目指して登り、そのまま帰らなかったという伝説に由来する。立山には「女」という文字が、雪形で描かれる。中央峰の「大汝山」の名はこれに由来する。地獄谷にはライチョウの雪形が出現するという。
多くの雪形は農作業や山菜つみを始める目安とされてきた。長野県の白馬村(はくばむら)は春になると馬の雪形が現れる白馬岳(しろうまだけ)にちなんで名付けられた村である。ちょうど苗代づくりの時期にあたるので、この馬を「代掻き(しろか)き馬」にたとえて山名の「代馬岳」(しろうまだけ)が生まれた。これがいつの間にか「白馬」という好字(こうじ=人名や地名などに多く使われる、縁起のよい文字)があてられるようになって、村の名前も音読するようになったのである。
:)がスマイルマークに見えるのは、人間が記号や形をひとまとまりに見ようとするからだ。これを「ゲシュタルト知覚」というそうだが、そのせいで月にウサギが見えたり、天井板の木の節が何かの顔に思えたりする▲この季節、信越地方や東北地方などの新緑の向こうには残雪が複雑な模様を描く山々が広がる。その残雪がちょうど人や動物の形に見える「雪形(ゆきがた)」は、昔は農作業の時期の目安になったばかりでなく、その形によって作柄を占う「雪占(ゆきうら)」でもあった▲「雪形はわが国特有の民俗に培われ、育てられてきた山の文化財である」とは雪形の研究などで知られたナチュラリスト田淵行男さん(1905〜89)の言葉だ(「山の紋章 雪形」)。田淵さんは居住地の信州をはじめ、愛媛県から北海道まで311の雪形をリストアップしている▲多いのはやはり農作業をする人に見立てたもので、「種まき爺(じい)さん」「粟(あわ)まき婆(ばあ)さん」「豆まき小僧」など。動物では駒ケ岳、白馬岳などの名を残す馬が圧倒的に多く、次いで牛、ウサギ、犬、ニワトリ……。人は暮らしに身近なものの形を混とんとした模様から読み取るのが分かる▲雪形には白い雪の形を見るものと、雪のとけた黒い山肌に注目するものがある。前者は標高の低い東北の山、後者は残雪の多い信州の高山に多いのも彼の発見だ。これも白黒どちらが「地」かで、見えるものが一変するゲシュタルト知覚の面白さだ▲田淵さんは古い伝承のある「由緒正しい雪形」と、近年の「ニューフェース」を混同せぬよう力説していた。それから20年以上を経て地元で忘れられた雪形も多いと思えば残念だ。雪形をかけがえのない文化遺産とみて記録したナチュラリストの着眼に改めて敬意を表したい。
毎日新聞「余録」 2007年5月10日「残雪や故郷を離るる薬売」青柳志解樹(しげき)。
米原万里『心臓に毛が生えている理由』(角川学芸出版)には「雪占い」というエッセイがあり、ロシア人も真冬の雪の多さが春先つまり種まき時の湿気の多さを意味するのでとても気にするという。「雪の量は穀物の量」「畑に雪がないと、倉に穀物が多くなる」という諺が山ほどあるという。
●雪国
富山は「ぎりぎり雪国」といわれることがある。つまり、雪国の最南端なのである。そのせいで、雪が重い。重いから丈夫な家を建てることになった。
ただし、最近は雪は降らなくなって「雨国」になったといわれる。とはいっても、降らない年はないし、このまま冬がすぎれば…と期待していると、空から白いものが落ちてくる。「雪国はつらつ条例」というのが「雪国はつらいよ条例」と誤植した教科書会社の人の気持がよく分かる。
●雪ざらし
五箇山地方に伝わる漂白方法。天気の良い日に五箇山和紙の原料となるコウゾの皮を雪の上に広げ、日光を当てることで漂白させる作業で、新雪の上で日光に当てることで皮の葉緑素が抜けて白くなる。一束あたり一週間から十日間さらすという。旧平村東中江では大寒近くの晴れ間に行われる。
●雪地蔵
阪神大震災追悼イベントで作られた“鎮魂の雪地蔵”。「富山県ボランティア市民の会」が1995年1月の震災発生直後、炊き出しなどの救援に現地へ向かったボランティアで結成。翌2月には、意気消沈する子どもたちを元気づけようと、五箇山地方の雪をトラックで運び、雪合戦や雪像づくりなどを楽しんでもらった。2005年の10周年で終えた。
●雪すかし
雪を「透かす」から「雪かき」。北陸ではこちらが一般的。例:「近所の人、みんな雪すかししてっしゃっぜ」(近所の人はみんな雪かきをしているよ、早くうちもしないと)。
●雪ちゃんの歌
日本海味噌のCM。富山の人はほとんど知っている。関西でも流れている。
「雪ちゃんの便り【香りだと思いこんでいたが…】は糀味噌〜あーあ越中、日本海味噌」というもので、きたろうじゃなくて、きだたろうが作詞。
●雪吊り
冬になると雪国では木の枝が折れないように縄で上の方から吊るす。素人がやるとみっともないが、職人技を感じる雪吊りがあちこちに見られる。一番有名なのは金沢・兼六園の雪吊りで11月になると始まる。春になると虫のついた藁ごと燃やされる。なお、建物などを守るために「こも掛け」が行われることもある。
●雪の大谷【おおたに】
高さが20メートル近くになる雪の壁がつくられる絶景だ。アルペンルートが4月末に開通すると雪の大谷(標高2390メートル)が開放される。約500メートルにわたり、巨大な雪の壁に挟まれた高原道路を散策できる。作業員が美女平(標高977メートル)の近くの冬季休業中のホテルに泊まり込み、除雪作業を始める。その後、約40日間、山にこもって雪を掘り下げてできる。昔は道路沿いに建てられた9メートルのポールを目安に熟練とカンで除雪したが、98年から人工衛星を利用した最新鋭の全地球測位システム(GPS)を駆使しての作業になっている。
台湾や韓国からの観光客が増えている。
●雪の小谷
室堂ターミナル屋上と立山自然保護センター3階を結ぶ全長約70メートルの歩行者専用通路。毎年、立山・黒部アルペンルートの全線開通日に通れる。「雪の大谷」には及ばないものの、雪壁の迫力は十分。
●雪ばんば→ばんば
●雪踏み当番
山根基世アナウンサーの『「ことば」ほどおいしいものはない』(講談社)に出てくる。五箇山を訪ねた時に「雪踏み当番」というのがあって、順番に当番が回ってきて、人が歩きやすいように雪を踏んでおく、というものだ。ここから山根は自分も後輩の女性に対する雪踏み当番になろうと決心する。
●雪見橋
富山市中心部を流れるいたち川に架かる橋で富山平野から仰ぎ見る立山連峰の雪を指すという。江戸時代中期に活躍した文人画家の池大雅が、橋の上から雪の立山を描いたとの伝説にちなんで、明治25年に命名された。大雅の2度目の立山登山を記録した『三岳記行』(京都国立博物館所蔵)には、立山や称名滝のスケッチが残されている。
●雪掘り
「雪を掃(はら)ふは落花(らくくわ)をはらふに対(つゐ)して風雅(ふうが)の一ツとし和漢(わかん)の吟詠(ぎんえい)あまた見えたれども、かゝる大雪をはらふは、風雅の状(すがた)にあらず」。越後の大雪や暮らしぶりを描いた鈴木牧之の『北越雪譜』(岩波文庫)の一節だ。雪下ろしは、土を掘るようだから「雪掘(ゆきほり)」と呼ぶともあるという。「(雪)掘(ほら)ざれば……力強(ちからつよき)家も幾万斤(いくまんきん)の雪の重量(おもさ)に推砕(おしくだかれ)んをおそるゝゆゑ、家として雪を掘(ほら)ざるはなし」とも記している。ただ、富山では聞いたことがない。
●雪もよい
雪模様。もうすぐ雪が降ってきそうな、鉛色の雲で覆われた天気。
●雪ん子劇団
「雪ん子劇団」は宇奈月町浦山の善巧寺住職だった雪山隆弘が、のびのびと明るく、自己表現ができる子どもを育てようと、1979年に設立した。隆弘が亡くなってからは、妻の玲子が引き継いでいる。
●ゆず塩ぽん酢
庄川町の「トナミ醤油」が製造している「ゆず塩ぽん酢」でかつお節と昆布から取れたダシに、地元・庄川町や氷見市などのゆずと、ミネラルが豊富な富山湾の海洋深層水から精製した塩などをブレンド。塩はまろやかさが出るように、焼いてから混ぜる手間をかけた。2009年に欧州の食品品評会「国際味覚品質機構(iTQi)」のコンテストで一つ星を受賞した。県内から初めての受賞で、コンテストは欧州各地のシェフやソムリエらが審査員として採点。最高の三つ星から入賞外まで4段階で評価する。
●湯たんぽ
病気になると湯たんぽを入れてもらったのが思い出になっている。宮本輝『天の夜曲 流転の海・第四部』では大阪から引っ越してきた一家が凍えて湯たんぽを探すがないといわれる場面があって主人公の熊吾が叫ぶ。
「富山では、湯タンポは、年寄りと病人以外は使わんやと?そんなアホなことがあるかや。わしは南国の南宇和の生まれでなァ、寒さには弱いんじゃ」
●ゆべし
「べっこ」の別名で柔らかさが似ているからだろう。柚餅子は、中身をくり抜いたユズの中に、水あめやしょうゆ、ユズの皮などで味付けをしたもちを入れ、ほど良い硬さに乾燥させた和菓子で能登の名産。主にお茶うけとして薄く切って食べる。
●弓の清水【ゆみのしょうず〜ゆんのしょうず】
高岡市常国の清水。木曽義仲が寿永2年(1182年)源平合戦の際に兵たちがのどの渇きを訴えたので「南無八幡大菩薩」と唱えながら、地元の松原大助の進言によって矢を崖下の地に放った所、そこから清水が湧き出た。その水で兵たちののどの渇きを癒し、士気が大いに上がったと言う。「弓の清水」の名称はこの故事によって命名された。近くに清水亭があり、流し素麺が楽しめる。
●夢航海
「とやま夢・航海」。2001年からNHK富山放送局で午後5時5分(後に10分)から6時まで放送された番組。当初は安田真理、斉藤孝信だったが、05年から吉田一貴に代わる。最初の2年間「金川欣二の何でもカルチャー」が毎週水曜日に「富山文化探検」として放送され、04年からは「金川欣二のこだわり見聞録」が月1回月曜日に放送される。途中からテーマ音楽が諌山 実生(いさやま・みお)の作詞・作曲・歌「優しい風の吹く街へ」、タイトル映像制作が上田 大樹(うえだ・たいき)となる。2002年から竹田公美が「北陸ぶらり散歩」に出演など、いくつかのコーナーが生まれた。
●ゆるキャラ
ご当地キャラも増えてきた。
ウォー太郎…黒部市の名水を紹介するもの。藤子不二夫Aのデザインで1993年に生まれた。 利長くん…2007年の高岡市立博物館の常設展リニューアルの際に誕生し、2009年までは開町400年の記念マスコットとなった。全国のミュージアムキャラクターの人気投票1位になったこともある。 きときと君…富山県のキャラ。「スポレクとやま2010」のために誕生した。 ムズムズ…射水市ブランドキャラクター。王冠がかわいい。2005年の射水市誕生の際に生まれた。 ●ゆんべ〜よんべ
「夕べ」で「昨日」。
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