金川 欣二:マックde記号論(言語学のお散歩)


 

笑説 越中語大辞典



●やー

 「いや」。例:「そんながやーが」(そんなのは嫌ですよ)。

●やーらし

 「いやらしい」。例:「あっちゃ、やーらっしゃ、何すっがね」(あれあれ、いやらしい、何をするんですか)。

●やいと

 「お灸」で6月1日、7月1日に開かれる瑞龍寺の「一つやいと」が有名。例:「悪いことばっかしとったらやいとやぞ」(悪いことばかりしてたらお灸をすえるよ)。

●やうち〜やうつ

 「あいつ」。大田栄太郎『とやま弁にしひがし』では「川魚業者相互の呼び名」となっているが、少なくとも新湊では一般的に使う。

●八重桜まつり

 小矢部市と石川県津幡町の県境にまたがる倶利迦羅不動寺で4月に行われる祭。「倶利迦羅さん八重桜まつり」。厄除けの霊験あらたかな念仏赤餅を食べる。赤餅の餅つきでは、白装束の餅つき役が住職のお清めを受けた後、四つの臼で赤く染めたもちをつく。見守る参拝客は住職のの主唱で「ざーんげ(懺悔)ざんげ、六根清浄(ろっこんしょうじょう )」と唱える。

●弥栄節【やがえふ】

 鋳物の町、高岡市金屋町に伝わる作業歌で、昔の鋳物職人が溶鉱炉に風を送り込む装置「たたら」を踏むときに歌った。毎年6月19日に開かれる御印(ごいん)祭の弥栄節街流しが行われる。御印祭は利長から手厚く保護された町人らが、恩に報いるため、命日に霊を慰めたのが始まりという。郷土民謡として歌いやすいように、過去に編曲されている。「弥保(ヤッホー)の会」という保存会もある。2003年にはこの元歌が、朝鮮半島の民謡に多い八分の六拍子であることが分かった。

●焼畑

 焼畑は水田耕作の不可能な山間部で、山を焼いて粟や稗、蕎麦などの雑穀、芋や蕪などを栽培する農法である。稲作以前の形をとどめているともいわれるが、確かではない。焼畑の地域では「餅なし正月」が行われることが多い。先祖の困窮や平家の落人伝説、異人虐待などを原因とするような伝説も多いとされる。富山県では五箇山に焼畑があったが「餅なし正月」などは確認していない。

 平村には高草嶺(たかそうれい)というところがあって、草嶺とは焼畑をする土地をいう。標高が高く焼畑に適するこのところを高草嶺と呼ぶようになったのであろう。

 報恩講で出される大豆と小豆、里芋、大根などは共に稲作以前の焼畑農業の産物である。いとこ煮は焼畑農民の感謝祭の名残りが親鸞の命日の行事に結びついているともいわれる。

 なぎ畑ともいうが、この焼畑でつくる赤かぶは、冬場の漬物としても使われ、芯までしみこんだ赤色が食卓を彩る。

※山口隆治『白山麓出作りの研究―牛首村民の行方』(桂書房)【牛首峠は飛越国境にある】などがある。

●やかましい

 「有名な、評判の」。例:「あらぁ、テレビでやまかっしい女やろ」(あの人はテレビで有名な人だろう)。

●やくせんもん

 「役に立たないもの」の意味だが、僕は使わない。

●薬膳【やくぜん】

 「医食同源」ということで薬膳料理が富山では盛んだが、有名なのは富山市東町にある料亭「川柳」である。新湊蒲鉾には薬膳蒲鉾というのもあるし、榎松雄という人は薬膳ラーメンまで作った。

●やくちゃもない

 「益体もない」で「めっそうもない」。例:「やくちゃもこくちゃもないちゃ」(どうしようもない)。

●やくっしゃ

 「薬師屋」で「薬屋」。

●役人ごろし

 富山の川崎磯信という人が食管法に反対して、ヤミ米を販売した事件があった。手作りのどぶろくも売っていた。お店の名前が「ヤミ米城」、お酒の名前が「役人ごろし」だった。『食糧庁殿わたしはヤミ米屋です』(現代書林)がある。

●焼き飯

 「チャーハン」は「焼き飯」と言っていたが、これは関西圏の言葉である。「綿飴」とはいわないで、「綿菓子」だった。「とんじる」ではなく「ぶたじる」だった。

●薬師岳

 立山連峰の南に位置する山。夕焼けでピンクに輝くことがあって、富山に生まれてよかったと思う。1963年(昭和38年)に愛知大学生13人が犠牲になった。新田次郎の小説「薬師岳遭難」に詳しく書かれている。その死を悼んで「十三重の塔」(とみえのとう)が建てられている。

●薬膳

 薬の富山だけに薬膳料理が盛ん。富山市の川柳が最も有名な料亭である。

 新湊蒲鉾からは薬膳かまぼこも出ている。

 広貫堂も和漢生薬原料と27種類のスパイスをブレンドしたレトルトカレー「やくぜんカレー〈ポーク〉」を発売した。ウコンやウイキョウ、チョウジなど、体に優しい生薬素材を使い、地元の洋食店との協力で開発。薬臭さを感じさせないまろやかな味に仕上げた。豚も東北地方で漢方素材を飼料にして育てたものを使うなど、素材にこだわった。

●厄払い鯉

 「厄払いコイの放流」は砺波市庄川金屋地区に伝わる奇習で1月に行われる。この奇習は1816年(文化13年)に行われた金屋神明宮が現在の血に移った遷宮祭の際に、神前に備えられたコイが、長時間の神事が終わっても生きていたことから、その生命力にあやかろうと始まったとされる。厄年(数え25歳、33歳)の男女が神社でおはらいを受けた後、羽織はかま姿の数え年25歳と33歳の男女が放流場に集合し、体長約30センチの黒鯉8匹を1匹ずつ桶から取り出しては、順番に鯉の口を開いて酒を注ぎ込み、身の厄を託して庄川に放つ。鯉にはいい迷惑だ。

 神前に供えた魚介や鳥類を放生池に放つのを「放生」といい、功徳の一つと考えられる。

●やこい

 「柔らかい」。例:「こんなやこい飯、食っとったがけ」(こんなに柔らかいご飯を食べていたのですか)・「すぐ、駄洒落出てくっちゃあ、よっぽど頭やこいがいやろ」。

●屋号

 町屋では未だに屋号で呼ばれることがある。うちの近所には「たろきっつぁ」「またきっつぁ」「ちょうちんや」「かんじゃ」「いんきょ」「くらんちょ」などがある。

 ちなみに、『赤毛のアン』の原題は“ANNE of GREEN GABLES”だが、プリンスエドワード島には同姓世帯が多いので、どこのアンなのか、屋号として使われていたものから取った。

●香具師【やし】

 「夜店」などという言葉は使わなかった。例:「でかいとやし来とるぜ」(たくさん夜店が来てるよ)。

●安田講堂

 99年春に学校関係者を驚かすことがあった。東大合格者数が31人で史上初めて34人の石川県に負けたのである。東大合格者はかつて御三家で占められ、「わしの教え子、東大入ったがいちゃ」という自慢だけで余生を暮らす教師が多かった。

 東大信仰の原因はいくつかある。(1)官尊民卑の県民性でその頂点をめざした(2)成績がよければ何が何でも東大という教育風土があった(3)実学志向が強く、東大は理系の定員が多い(4)数を誇ることが好きだった(5)石川県へのコンプレックスがあった。

 安田講堂は富山出身の実業家・安田善次郎が匿名を条件に寄付したものだ。でも、その土地は加賀藩のものだった。シンボルだけで目立とうとした富山県人の姿が見えてくる?

 ちなみに日比谷公会堂も善次郎の寄付でできた。

 なお、善次郎は1838年富山城下・鍋屋小路の下級武士の家に生まれた。少年時代、藩主に金を貸す商人が武士を伴ってかごに乗っているのを見て「金の力」を知ったという。青年期に江戸に出て、両替商に奉公したのち独立し、1866年日本橋小舟町に安田商店を開業した。慶応年間には古金銀を買い付け、維新後は新政府の紙幣「太政官札(だじょうかんさつ)」を積極的に売買して資本を蓄積した。金融業務を拡大し、1876年に第三国立銀行を設立し、80年には安田商店を安田銀行(のちの富士銀行)に改組した。以後、生命保険、損害保険会社を興し、金融中心の安田財閥を築く。「金は使えば減るが、精力は使えば使うほど鋭敏に、豊富になる」と夜昼なく働いた。モットーは「他人を頼らず」「虚言を言わず」「収入の八割をもって生活し、他は貯蓄する」。1921年、大磯の自宅で「営利に没頭して」と国粋主義者に暗殺される。11月4日、原敬首相が東京駅で暗殺されるが9月28日に起こった善次郎暗殺の刺激を受け、原の政策が党利党略によるもので国民を無視しているとして、襲撃したものであった。オノ・ヨーコの母方の曽祖父でもある。

●…やぜ〜いぜ

 「…のだよ」。例:「それ、欲しいがやぜ」(それ、欲しいのだよ)。

●…やちゃ

 「…だよ」。福井などでは「やっちゃ」を使う。

●八尾【やつお】

 大阪にあるのは八尾市(やおし)だが、こちらは「やつお(まち)」で現在は富山市。風の盆の町、坂の町。和紙の町でもある。昭和初期に八尾町を訪れた俳人の前田普羅は「橋を渡ると、道は急に坂となり、街の両側の溝は滝のごとく、雪解水が走り、道路の半分は踏み固めた石の様な雪が寝ている」とつづった(『早春の八尾』)。

●八尾和紙

 越中和紙の一つ。和紙製造会社「桂樹舎(けいじゅしゃ)」)が伝統を残していて、1995年頃から和紙の鯉のぼりも手がけている。サイズは体長約90センチ、約80センチ、約60センチの3種類ある。布製品とはひと味違った和紙特有の温かみが特徴で、従業員たちは赤や青、黒などに色づけした後、切り取ってふちをのりづけしていく。主に室内装飾用として全国に出荷される。

●やっとかっと

 「やっとのことで」。例:「やっとかっと時間に間におうたがいね」・「なーん、やっとかっと生きとっちゃ」。

●やっとのことで

 「やっとの思いで」。例:「やっとのことで『や行』まで来たちゃ」。

●…やと

 「…だそうだ」「…だって」。不平がある時などに語尾に使う。例:「そんながやと」(そうなんだそうだ)・「なんやと!」(何だってぇ!)。

●宿

 「泊めること」。例:「今日、宿せんにゃんならんから布団出して」(今日、泊めてあげなければならないから布団を出して)。

●柳沢敦【やなぎさわ・あつし】

 富山第一高校出身のサッカー選手。「ヤナーギサーワ」というコールが有名。小杉出身なので小杉駅には応援の看板が多い。2003年にイタリアの名門チーム・サンプドリアにレンタルの形で移籍。サンプドリアはジェノバを本拠としリーグ優勝の実績を持つが、1999年に2部(セリエB)に降格したが、この年からのセリエAへの昇格が決まっていた。

 2003年のシーズンには1ゴールもできなかったが、12月に人生のゴールインを果たした。入籍した人気モデル・小畑由香里は神奈川県綾瀬市出身。女性ファッション誌のモデルのほか、歌手やCM出演など多方面にわたって活躍している。

 柳沢はイタリアを転々とする。2006年のドイツW杯では2試合出たが活躍できず。

柳沢
2002年ワールドカップの時の富山県の広告

●ヤブツバキ

 氷見にはヤブツバキ巨樹群があって樹齢二百年を超えるものが100本以上もある。

 幹周り3.87メートル、樹齢800年近い「老谷の大ツバキ」や「長坂不動の大ツバキ」が有名である。

●やぶらかす

 「破く」。

●ヤポニカ

 富山ヤポニカ。外国人に日本語を教えている団体。うちの留学生もお世話になっています。

●やま

 「山車」だが「だし」とはあまり言わない。室町時代の絢爛豪華さを伝える高岡の曳き山が一番。でも、新湊の山車が一番楽しい。昼は大きな飾り、夜は提灯山と2度楽しめる。

●山

 「故郷やどちらを見ても山笑ふ」という子規の俳句があるが富山の山は笑うような山ではない。

●やまいあぐるしい〜やまいぐるしい

 「病気に忙しい、病気だと煩い」。例:「病あぐるっしいもんなぁ、長生きすっといね」(いつもここが痛い、あそこが痛いと煩い人間は長生きするよ)。

●やまいづく

 「病気になる」から「病的に固執する」とか「メマイがする」のように軽い意味でも使われる。

●山神様

 入善町舟見の山神社で行われる神仏混淆の行事。近くの藤保内(ふじほない)神社と十三(じゅうそう)寺が担っており、神仏混交の祭礼は珍しいという。一年の山仕事の無事を祈る祭礼。参加者たちは、笛や太鼓の演奏が行われる中、神職の前で玉ぐしをささげた後、僧侶が読み上げるお経を聞いた。祭りの後は、炭火で酒を温め、焼いたイワナの骨酒が振る舞われた。

 同神社での祭礼は年に2回。2月9日に仕事始めの安全祈願を行い、11月15日に仕事納めの感謝祭があり、山の恩恵を与えてくれる山神様に感謝する祭りも行われる。神社は、町南部の林道沿いにある権現山の尾根伝いに建てられている。

 山神社は、林道から山道を五十メートルほど上った権現山(230メートル)にある。ご神体は山中にあった自然石で、本殿には石の観音像も安置されているという。神仏混交は江戸時代まで珍しくなかったが、明治時代に神仏分離政策がとられて以来、神社と仏閣が別々に祭礼を営むようになった。山神社は、分離政策の影響を免れたらしい。

●山崎覚太郎

 工芸家。富山市東岩瀬町に、父山崎政次郎・母チヨの長男として生まれる。富山県立高岡工芸学校漆工科卒業、東京美術学校漆工科助手になる日本芸術院会員となる。文化功労者に列せられる社団法人日展理事長、事務局長に就任。勲二等梯瑞宝賞を授与される。岩瀬公民館に胸像が建てられている。

●山崎カール

 お菓子みたいな名前だが、立山にある、氷河によって作られた「圏谷」と呼ばれるU字谷のこと。山崎直片が発見したことから。

●山崎賞

 山崎賞は、県内で毎年夏に「草刈り十字軍」運動を続けている農業開発技術者協会代表の足立原貫が、師で哲学者の故山崎正一・東大名誉教授から1973年に退職金を託され創設した。当初は哲学系研究者を対象にした「哲学奨励山崎賞」だったが、11回以後、人文、自然科学全般に範囲を広げて「山崎賞」となっている。

●山田シンキロー

 イッセー尾形がつくった一人芝居のキャラクターの一人でストリートミュージシャン。街を離れた若者に「ほたるイカ 大漁ねがう 富山湾 朝日が光る」で始まる。都会にあこがれる若者たちに「かえれふるさと 魚津をすてるな」と呼び掛けるフレーズもある。初めて魚津を訪れたのは、1990年にNHKで放映された、川原田政太郎がモデルの連続テレビ小説「凛凛と」の撮影だった。

●山田孝雄【やまだよしお】

 富山市生まれの国語学者、国文学者、歴史学者。1875年、今の富山市総曲輪で生まれた。家が貧しくて富山尋常中学を中退して、東京の油屋に丁稚奉公に出されたが、あわず、歩いて富山まで帰ったという。以後独学の人となり、検定で小学校教員の免状を得て、小学校の先生を務めるかたわら、中学校・女学校の免状を取得した。兵庫県の学校の先生をしている時に「“は”は主格の助詞ではない」と生徒にいわれ、文法研究を始めた。1902年に日本の代表的な文法論である『日本文法論』を出版した。その後、国語・国文の研究を続け、国語調査委員会補助委員、日本大学講師などを経て、東北帝国大学教授。退官後、神宮皇学館大学学長、貴族院議員、国史編修院長。1957年に文化勲章を受章。『日本文法論』(1908)、『日本文法学概論』(1936)などや『奈良朝文法史』(1913)、『平安朝文章史』(1913)、『平家物語につきての研究』(1911、13)などの他に国粋的な書物も多い。1958年に亡くなるが、いつも故郷・富山を思っていたといわれる。富山市の長慶寺に静かに眠っている。

 孝雄の長男が山田忠雄で、いわゆる「新解さん」(『新明解国語辞典』の語釈を書いた人)である。東京帝国大学国文科卒。同期の見坊豪紀さんに誘われて辞書編纂の道に。日本大学教授など歴任した。

 三男は新解さんの敵である『新潮国語辞典』を編んだ山田俊雄(成城大学元学長)である。俊雄は『ことば散策』(岩波新書)の「追憶の中のことば」で「おんぼりと、はがやしい、飯台【はんだい】、はだこ、しぞこない、おとっさん、せっせっせ、十銭ストア、日光写真」を取り上げている。

※2002年5月29日には「国語辞典にみる富山」という番組を作った。

●日本武尊【やまとたけるのみこと】

 日本武尊像が金沢の兼六園にある。これが日本で最初の銅像だとされる。作ったのは高岡だった。無関係だけど、それだけ。

●ヤマブシタケ

 富山で特産にしようとしているキノコで球形の白くふさふさした形が、山伏が着る服の飾りに似ていることからその名がある。免疫力の向上や認知症予防の薬効を持つ。味も収量も向上する栽培法を、県林業試験場の研究員が突き止めたという。中国ではフカヒレやクマの掌などと並ぶ四大山海珍味の一つとされる高級食材だ。群馬や長野でもヤマブシタケの大量生産に取り組んでいる。岐阜では薬用キノコ普及のための組織を立ち上げている。

●山室あさつき

 アサツキの一種。

●山姥【やまんば】

 世阿弥の作った能。都で山姥の山巡りする様を曲舞(くせまい)にして名をあげた百万(ひゃくま)山姥という名の遊君(遊女、女芸人)一行が善光寺詣のため上路越という険路を行く。にわかに日が暮れ、山の女が一行を呼び止め宿を貸す。山姥の曲舞を聞かせてほしいと願い、そして自分こそが真の山姥であり、この山姥の曲舞で有名になりながら、真の山姥の自分を心にかけないと恨みをのべて消え失せる。ここまでは前場。後場では、百万山姥一行が待つうちに、真の山姥が現れ出た。その姿の恐ろしいこと、自然の力を越えたおどろおどろしい姿。山姥は自然の秘めた深く壮大な哲理を見せ、行方をくらましてしまう、という曲。

 1938年初冬、上路に入った前田普羅は「山姥の里」と題する連作46句を作ったが、その一句。

一掴(つか)み姥が投げたる霰(あられ)かな

 不意にバラバラと落ちて来て人を驚かせるものの、すぐにやむ霰の降り方の特徴を、上路の山姥の怪異に擬してみごとにとらえている。この時普羅は、上路から二本松峠を越して海岸線の風波に出ている。

 『奥の細道』の市振宿でひとつ家に遊女も寝たり萩と月」というが、曽良の日記に記述がなく、実在しそうもない遊女が出てくるのは山姥の故事を踏まえたものだという説がある。

●やめる

 「病める」から「痛い」。方言ではないがよく使う。例:「足ぃ、病めて病めて、やくちゃもこくちゃもないちゃ」(足が痛くてどうしようもない)。

●やらかす

 「破る」。

●やらける

 「破ける」。例:「なん、やらけてしもとんがけ、いつやらかしたがいね。学生時代け?」。

●…やれど

 「…だけど」。例:「そんながやれど、でっきんがいちゃ」(そうなんだけれどできないのです)。

●やわやわ

 「ゆっくり」。例:「やわやわ始めんまいけ」。

●やわらか

 「はべん」「すり身」で柔らかな蒲鉾。

●やんさんま

やつぱり牛はのろのろと歩く
牛は急ぐ事をしない
牛は力一ぱいに地面を頼つて行く【…】
ふみ出す足は必然だ
     高村光太郎「牛」

 5月4日に開かれる下村・加茂神社の「流鏑馬」(やぶさめ)が訛ったもの。加茂神社は1066年に現在と同じ場所に創建。京都・下鴨神社の荘園であった倉垣庄(くらがきしょう)(現在の新湊市東部、小杉町北部、下村、富山市西部など)の総社として、人々の信仰の対象となってきた。「下村のかっけの宮」として、かっけに苦しむ人々を全国から多く集めてきた。祭りの時に本殿から神を移動させるという「御旅所(おたびしょ)」も新築された。ここの「競馬(くらべうま)」神事が変化した。

 やんさんまの前には次の7つの行事が行われる。「3」が大切な数字である。

走馬(そうめ)…村の西端から東端まで決まりの盛装をした騎馬が3往復する。宵祭(前日)にも行われる。

神幸式(しんこうしき)…ご神体3体が神社の前庭を3回渡御し、宮司や氏子総代らも供奉する。神幣(しんぺい)をもぎとってお守りにする人がいっぱいいるが、祟りがないので、しんぺえなく。

神馬式(しんめしき)…3頭の神馬を神にお披露目するため手綱を持って神社前庭を3回駆けさせる。

牛乗式(うしのりしき)…この神事はこの春の大祭の主題となる重要なもので、下村だけといわれる奇祭。王鼻(“おうばな”=乗り手)が甲冑に踏込袴をはき白足袋をはいた装束で一丈二尺(3m63cm)の青竹で作った大弓をもち、拝殿の屋根に向かって「天下泰平、五穀成就」と祈って一矢を射った後、「牛つぶし」になる。王鼻は「田の神」とも呼ばれ、猿田彦だという。

 「牛つぶし」は田の神を村に留めて五穀豊穣を祈る意味があるという。若い衆が必死でふんばる牛と格闘して、神社前庭にしつらえた神様(ご神体は御幣)の御旅所の回りを大きく右回りに3回引き回す。その度ごとに御旅所の正面で牛を圧伏させる。この故事は『今昔物語』巻12第24話「関寺駆牛化迦葉仏(かしょうぶつ)語」(迦葉仏というのは過去七仏“かこしちぶつ”の第六で、釈迦の直前に位置する仏)にある。近江の国大津の関寺を修復する際、名僧の夢のお告げなどから使役した黒牛が関寺の仏法を助けるために牛として来たものとして人々から崇められ、やがて黒牛は右遶三匝(うにょうさんそう)して死ぬ。この右遶三匝というのはインドにおける敬意の作法から来たもので、葬儀などの時に葬列が葬場等において右に3度回ってから台上に棺を安置する儀礼である。これに則ったものだということで御堂や大門、僧坊が無事造られたという。

 今は昔、左衛門大夫平朝臣義清(さえもんのだいぶたいらのあそんよしきよ)という人ありけり。其の父は中方(なかかた)と云う。越中の守に有りける時、其の国より黒き牛一頭を得たり。中方、年来此れに乗りて行く程に、清水に相い知れる僧の有るに此の牛を与えつ。其の清水の僧、此の牛を大津に有る周防の掾正則(じょうまさのり)と云う者に与えつ。……

 似たような儀式は京都の三大奇祭である太秦広隆寺の牛祭にも見られるが、内容は違うという説が多い。『栄華物語』にもこの話があり、参拝者の中には今をときめく入道大相国(だいしょうこく)藤原道長夫妻や、右大臣藤原実資(ふじわらのさねすけ)の姿もあったという。

 また、小野小町が晩年は落ちぶれてこの関寺辺りに隠れ住んだという伝説があり、「関寺小町」はそのことを題材にした能である。三番目物で五流現行曲。世阿弥作ともいわれ、古くは『小町』とも呼ばれた。近江国、関寺の僧(ワキ・ワキツレ)が和歌の話を聞くため、稚児(子方)を伴って、老女(シテ)の庵を訪れる。和歌の物語の端々から、僧たちは老女を小野小町の成れの果てと知る。華やかであった昔の述懐と、落魄の現在との対比が語られる。七夕の祭りに招かれた小町は、稚児の舞にひかれて、思い出の舞を舞い、昔をしのぶが、明け方の鐘の音とともに庵へ帰って行く。山に捨てられた老女の霊の『姨捨』、地獄に落ちた老いた舞姫の『檜垣』とともに「三老女」とよばれるが、劇的な起伏は極端に少ない。能の最奥の秘曲とされている。

御旅所神楽の儀…獅子舞奉納。

還御(かんぎょ)・例祭式(れいさいしき)・九遍式(きゅうへんしき)…例祭式は拝殿内の礼拝。九遍式は流鏑馬の3頭が先ず縦列で3回神社前庭を廻る。次の3回ははじめ笠を被りながら、2度目は弓矢を取って、3度目は大弓に矢をつがえて的に向かって射る。最後の3回は3頭が縦列をつくり、間隔をおいて3度廻る。こうして9遍廻る。

流鏑馬(やぶさめ)式…一丈二尺(3.63m)の大弓を持ち、ハシーッとばかり的射する。二の鳥居を過ぎると馬乗りは、両手で弓を頭上高く差し上げ、前後左右に自由自在に廻しながら参道を往復する。このように繰り返すこと3回で終了を告げる。放たれた矢はみんなの取り合いになるが、神秘な除魔招福の霊符として、家に持ち帰り、神棚に奉安する。馬はサラブレッドを使っているので迫力がある。昔は京都競馬で使われなくなった馬を使っていたこともあったが、今は下村の乗馬クラブで飼っている馬だ。激しく落馬して乗り手が亡くなったかと思ったこともある。流鏑馬は本来、宮廷儀式だったが、平安末期から鎌倉時代に、武士の兵法修練に取り入れられ、鎌倉の鶴岡八幡宮で行われるものは有名。小笠原、武田などの諸派がある。

 3回ずつ行われる理由は「右遶三匝」の礼儀に基づいたものと考えられる。下村あたりは湿田で、牛の労働力が大切にされた名残でもある。

 ちなみに神話や童話で三という数字は魔力を持つ。キリスト誕生でも東方三博士が礼拝したことになっているが、聖書には博士の人数は書いてなかった。捧物が三つだったから三博士だったに違いないと、後に定められていくのである。しかも、老年、壮年、青年の三世代、ヨーロッパ、アジア、アフリカの三大陸を表すというように変化していく。

 なお、9月4日には1982年に国の重要無形民俗文化財に指定された「稚児舞」が催される。平安時代に京都賀茂御祖(みおや)神社から伝来したとされる。

 2005年に本殿の大ちょうちんが新調された。本殿には、51年から直径二・四メートル(八尺)のちょうちんがつるされていたが、04年の台風23号で本殿に風がふき込み、ちょうちんの骨組みの竹ひごを支える縦糸が切れて、いびつな形になっていた。“先代”のちょうちんと大きさや形は同じだが、厚手の和紙を二重にし、竹ひごの太さを倍にするなど、より丈夫に仕上げられた。「加茂神社」の文字が力強くかかれており、上部にはサクラ、下部にはボタンが描かれている。この図柄は北陸独特のもので、ボタンの花びらの色の濃淡などが細かく描写されている。

●やんちゃくらしい

 「やんちゃな」。例:「あのっさんなぁ、仕事早いけどぉ、やんちゃっくらしーてぇ、あかんねけ」(あの人は仕事が早いけどやんちゃな内容でダメですね)。

●やんばい

 「安心」で「あっかり」「やれやれ」に近い。「いい塩梅」が縮まったもの。例:「娘ぇ、嫁に行ってぇ、やんばいしたちゃ」・「台風、行ってしもうてぇ、やんばいしたちゃ」。


英語

数字

序文

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