●鵜【う】
鵜という名前の先生に教わったことがあるが、これが世界で一番短い名前。新湊には珍しい名前が多い。
●うい
フランス語の“oui”から来ている富山方言ではなくて、「だるい」の意味。語源は「憂(う)し」から。「お腹がいっぱいでもたれている」ことを「腹うい」という。例:「(レストランで)新しい料理をお持ちしましょうか?」「うい」(でフランス人は「はい」と思って持ってきてしまう)・「きんの、なーん 寝れんだら 体うーて、うーて」(昨日ちゃんと寝れなかったら体がだるくてだるくて)。真田信治・友定賢治『地方別方言語源辞典』(東京堂出版)には「はらうい」で立項されていて、県東部域だというが、西部でも使うと思う。奇妙なのは「なお、使用者はこの語が方言だという意識はないようである」と書かれているが、方言というのは多くが意識がなくて使っているものではないだろうか?
●ウィング・ウィング高岡
高岡駅前にある再開発ビル。2004年にオープンした。中には高岡市立図書館などの公共施設とホテルが入っているが、小売店はない(近くの商店街に遠慮した)。
●…うぇ
呉西方言。「ちゃ」「ぜ」に近いが、こちらは相手を突き放すように使う。例:「だんも(だも)おらんうぇ」(誰もいないよ)。
●ウェストンRev. Walter Weston(1861−1940)
英国聖公会の宣教師・登山家。日本アルプスを初めて世界に紹介、日本山岳会の父と呼ばれる。1888年初来日し、富士山を初め、槍ヶ岳、前穂高岳など日本アルプスの山々に登り、96年ロンドンで『日本アルプス 登山と探検』を出版。1902年夫人とともに再び来日、1905年まで北岳、甲斐駒ケ岳など南アルプスを中心に登山、10年日本山岳会初の名誉会員となる。11年の3度目の来日、北アルプスに戻り、奥穂高、立山、白馬などに登る。15年帰国、18年2作目の登山記『極東の遊歩場』を出版。さらに25年の『知られざる日本を旅して』および26年の『日本』で、日本の歴史や文化、日本人の国民性や山岳信仰、風俗習慣などを紹介した。
帰国後は、日本から訪れる登山家たちを歓待し、満州事変後の対日感情悪化の中、日本の立場を弁護するために、英国中を講演して回ったというほどの親日家であった。1937年、彼が特に愛し、しばしば訪れた上高地に記念碑が建立され、ウェストン祭も行われる。
●上野千鶴子【うえのちづこ】
日本のフェミニストの雄、じゃなかった雌。米騒動の富山らしいというと失礼だろう。1948年、上市町生まれ。石川県立金沢二水(にすい)高校を卒業。京都大学大学院文学研究科社会学専攻博士課程修了。平安女学院短期大学助教授、京都精華大学教授等を経て、東京大学文学部教授。『セクシーギャルの大研究』でデビューし、フェミニズムの立場から論壇で話題を提供しつづけるかたわら、『女性学年報』を編集して日本の女性学を手弁当で育てあげた一人。いまも講演のたびに「行商」と称して『年報』の宣伝はおさおさ怠らず、また在野の女性の集まりにも精力的に駆けつける。『資本制と家事労働』、『構造主義の冒険』、『女遊び』など。タレントの遙洋子に『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』がある。
●ヴェリブ
富山市のレンタル自転車。フランス語のVelo(ヴェロ=自転車)とLiberte(リベルテ=自由)を組み合わせてVelib(ヴェリブ)と名づけられた。パリで始まったのは2007年7月。日本の道交法に適合させるためハンドルの長さなどを改良し、後輪カバーに富山市のイメージカラーの青を採用しているものの、パリ市民が愛用しているヴェリブの自転車デザインがほぼ踏襲された。
●魚津漆器
安価で実用性が特徴とされる魚津市に伝わる伝統工芸。魚津漆器はブナやトチといった樹木が豊富だったことから、木材を椀などの形に仕上げる木地師が室町時代末期に魚津にやって来たことが起源と伝えられる。明治時代後期に「魚津漆工会」が結成されるなど組織化が進み、大正時代には、製造戸数70戸、職人数184人を数え、魚津の一大産業として栄えたこともあったという。しかし、昭和に入ると、戦争で漆液の入手が困難になったり、ぜいたく品として漆器自体に高額の税が課されたりした影響で、衰退が始まった。高度成長期に生活様式が変化し、漆器離れが進んだこともこの傾向に拍車をかけたという。現在は鷹休(たかやすみ)雅人という職人が「魚津漆器」をただ一人で守っている。
●魚津の三太郎博士
テレビ発明の先覚者である川原田政太郎(かわらだまさたろう)工学博士、稲の研究者・盛永俊太郎(もりながとしたろう)理学博士、アンテナ・超短波の研究者・宇田新太郎(うだしんたろう)工学博士を指す。魚津にゆかりのある3人の博士の名前に「太郎」がつくため。
●ウォーター・ジェット・メス
「神様のメス」と呼ばれるメスで富山のスギノマシンで作られている。高圧の水を使って血管を痛めずに手術することができる。肝臓も手術できる「アクアジェットメス」というのもある。
●鵜飼
奈良時代に神通川で行われていた鵜飼漁が行われたといわれる。これを再現する売比河鵜飼祭(めひかわうかいまつり)が5月に婦中町島本郷の田島川で行われる。もちわらで編んだ腰みのと風折烏帽子(かざおれえぼし)を身に着けた鵜匠(愛知県犬山市から来てもらっている)が小舟から、手縄で結んだ鵜を水に放ち、水中に潜った鵜を機敏に手繰り寄せ次々と鮎を捕る。大伴家持が神通川で見物し詠んだとされる「徒歩(かち)渡り」という漁法も披露され、鵜匠が川の中州を歩きながら二羽の鵜を巧みに操る。
●うざくらしい
「しつこい、じゃまな、うるさい」。金沢でも使う。北関東には「うざったい」というのがあって、「うざい」の語源らしいが、僕は「うざくらしい」が語源だと思っていた。例:「あら、なんちゅう、うざくらっしいやっちゃ」(あの男はなんてうるさい奴だろう)・「うざくらしいこというなま」(しつこいこといわないでくれ)「なんちゅう、うざくらっしゃ」(なんという、面倒なことよ)。
●牛おさえ
下村の「やんさんま」の中で行われる行事の一つ。闘牛もそうだが、牛というのは何かタブーらしい。その力を抑えるから意味があるようだ。
「牛」にかかわる禁忌は別に近代的なイデオロギーではない。
網野善彦によると、中世社会においてはすでに「牛飼い」というのは異形のものとされていた。
当時知られている中でももっと巨大で獰猛な生物である「牛」を統御できる特殊能力をもつものだったからである。
だから彼らは童形であり、童名を名乗り、ある種の特権を享受していた。
アメリカでは「カウボーイ」がこれに相当する。
「カウボーイ」が最底辺の肉体労働者から神話的イコンに改鋳されたのは、1910年代、ハリウッド映画においてである。
それ以前の開拓時代、カウボーイはひさしくもっとも賃金が安く、もっとも過酷な労働であった。
だから、カウボーイには黒人、インディアン、中国人、日本人、メキシコ人たちが大量に含まれていた。人種障壁のない数少ない職業だったからである。
19世紀の終わりにフロンティア・ラインが太平洋岸に到達し、アメリカ開拓時代が終わると同時に、カウボーイは大量に失業する。
そして、失業したカウボーイたちのかなりの部分が「ハリウッド西部劇映画のエキストラ」に流れ込んだ。
カウボーイには人種障壁がないが、ハリウッドのエキストラには人種障壁がある。
だから、アメリカの西部劇映画には1990年代まで、ひとりの黒人のカウボーイも中国人のカウボーイも出てこなかったのである。【…】
内田樹のブログから(『ひとりでは生きられないのも芸のうち』文藝春秋に所収)●牛岳【うしだけ】
富山県の南にある山でスキー場が有名。山名の由来は、翁(おきな)に姿を変えた大国主命(おおくにぬしのみこと)が牛に乗って現れ、村人を困らせていた山賊を退治したため。頂上付近の山肌には、春が近づくと、牛が前脚を上げて立ち上がっているような雪形が現れる。大国主命の戦いの跡なのだという。
●宇治長治郎
新田次郎『剱岳<点の記>』、更に映画に出てくる山岳ガイド。柴崎芳太郎を案内して剱岳を登頂し、2等三角点を設けた。宇治長治郎から命名された長次郎谷がある。
●うしなかす
「牛を虐めて泣かす、加茂神社に伝わる伝統的な行事」ではなくて「失す」。「うしなける」は「失う」。例:「財布、うしなかいてしもうたら何もでっけんだ」(財布をなくしてしまったら何もできなかった)。
●丑曳き【うしひき】
利賀村の伝統行事。合掌造り家屋の新築時に、切り出した大黒柱を運んで祝う。十メートル以上の木材が、お囃子(はやし)に合わせて、「よいやさー、よいやさー」などの掛け声とともに、ひもでひっぱられていく。
●うすい
「(目が)悪い、近視だ」。例:「目ぇ、うっすーなってしもてぇ、なんも読めんが」(目が悪くなって何も読めないよ)。
●薄氷【うすごおり】
小矢部にある薄氷本舗五郎丸屋の銘菓。水溜まりに張った薄い氷を割った様な干菓子。 薄氷とは、雪どけの頃の朝に水溜りや水田に張る薄い氷で、これを宝暦2年(1751)、5代目五郎丸屋八左ェ門がお菓子にすることを思いついたという。菓子は氷が割れたさまを表すため、極めて薄い煎餅に和三盆を丁寧に塗布していて、その形は氷が割れた様に不揃いな形をしている。以降、臨済宗の本山を経て禁裏に献上されたり、加賀藩主が江戸に参勤の際に土産物として持参したり、また茶席でも親しまれるようになった。口に入れると、これまた氷が溶けて無くなっていくように、すーと溶けていき、和三盆の上品な甘さが口の中に余韻として残り、このお菓子の優雅さを楽しむことができる。2010年、北日本新聞に青木玉がこれにまつわるエッセイを書いていた。
もし僕が命名したら、古語で「薄氷」を「うすらひ」と呼んだことから「うすらひ」(「うすひ」も可能性があるが)にするだろう。
●うぞい〜おぞい
「ひどい、惨めな、残念な」。例:「なんちゅーうぞい目におうたがいろ」(何という惨めな目にあったことだろう)。
●鷽換え【うそかえ】
鷽換えというのは太宰府天満宮などで行われる行事。鷽の人形を他の人と交換するもの。もともと、鷽とウソをかけて、1年間についたウソを鷽に封じ込めてしまうものだった。ここでもらった人形を暗闇で交換することが行われた。富山県では富山市の於保多(おおた)神社に残っている。他はどこも木でできた人形なのに、ここは土人形の鷽を使っていた。昔は鳩笛みたいなものだったようだが、進駐軍が不衛生ということで取りやめになったようである。太宰府では金の鷽が当たることになっているが、於保多神社でももともとは金の鷽が出された。ところが、作る人がいなくなったのと、当選者が一人というのでは誰も関心をもたない、ということから今はたくさんの人に天神様の土人形が当たるようになっている。紙のヌサでお祓いすると、静電気で当選番号の紙札が持ち上がるという仕組みになっている。
福山市の吉備津神社では節分の夜に「うそばらし」というウソつき大会が開かれ、互いにウソ話をする。
於保多神社は、もともと富山藩と関わりの深い神社であるが、天神様のほかに、藩主の前田利次、正甫(まさとし)、利保が合祀されている。
●うそのこけ
「真っ赤な嘘」。「こけら」から来たという説もある。例:「そんなこと、うそのこけやねけ」。
●歌
民謡の宝庫と呼ばれる富山でも富山関連の歌は少ない。
県外の人が知っている歌は高階哲夫(滑川出身)作詩作曲の「時計台の鐘」、室崎琴月(高岡出身)作曲の「夕日」がある。また、映画『少年時代』の主題歌は井上陽水作詞作曲で最も好まれているものである。「桜木町ブルース」というのもあった。聖川湧の「新湊慕情」とかいろいろご当地ソングができている。
2002年にレコード大賞作曲賞を取った聖川湧の「はぐれコキリコ」はもず唱平さんの詞に合わせて書き下ろした。歌手の成世昌平は、富山市出身の田中耕一さんがノーベル化学賞受賞したことで脚光を浴びる島津製作所の営業マンとして勤務していたことが話題を呼び、歌の人気に追い風が吹いたが、紅白には出なかった。
2003年にはKNBラジオのパーソナリティでシンガーソングライターの伊藤敏博とアナウンサーの中島真紀子が歌った「ふたりの富山」がCDになった。公募した詞を伊藤さんが補作し、メロディーをつけた。
2004年には演歌歌手、原田悠里が富山・氷見市を舞台にした新曲「氷見の雪」(キング)を歌う。
●うだく
「抱く(いだく)」。例:「このねねぇ、うだいとっても全然泣かんねけ」(この赤ちゃん、抱いていても全然泣かないね)。
●宇宙服
宇宙服というか、宇宙シャツに富山の会社のシャツが選ばれた。2010年に米スペースシャトル「ディスカバリー」に乗り込み、国際宇宙ステーションに滞在した宇宙飛行士、山崎直子の船内服に、従業員30人の高岡市戸出栄町の服飾製造会社「エフアイニット」が作った長袖ニットシャツが採用された。船内服は宇宙航空研究開発機構が国内メーカーを対象にシャツやズボン、靴下などを募集。16社63品の応募の中から、グンゼ、モンベルなどの有名メーカーとともに同社のシャツなど9社18着が選ばれた。同社のニットシャツは、綿75%、アクリル25%の素材。米航空宇宙局(NASA)開発の技術を導入し、吸熱、蓄熱、放熱を繰り返し、快適な温度を保つ機能がある。また、生地の縫い目をなくし、立体的に編み上げることで動きやすくしたという。桜をイメージした薄いピンク色とし、首もとや袖口などにフリルを付けて女性らしさも演出した。
●うでる
「ゆでる」。「うで卵」は「ゆで卵」。
●内川
新湊市街を流れる川。富山の人間にとって川は南から北へ流れるものだという気がするが、内川は東西を流れる。お祭りの時の漁船の満艦飾が好きだ。香西かおりの『新湊慕情』(聖川湧作曲)にも歌われている。汚くなったこともあるが、今はステンドグラスの橋とかカバード・ブリッジ(屋根付きの橋)の東橋などデザイン橋ができて風情がある。2004年に初めて高潮の被害が出た。
内川に架かる湊橋は別名「お助け橋」と呼ばれる。文政4(1821)年の大火で多くの人が逃げ場を失って焼死したことから造られた橋で、防火のシンボルとなっている。急カーブになっていて曳山の見所となっている。
赤瀬川原平の写真集『新正体不明』(東京書籍)の表装の風景に山王橋が写っている。山王橋には、新湊出身の彫刻家・竹田光幸が制作した巨大な手の彫刻がある。漁師町の風情が残る内川とモダンな芸術作品の奇妙な組み合わせに、路上観察眼をくすぐられたようだ。作家のタイトルは「人、心、愛、夢」なのだが、赤瀬川は「天動説」と名付けている。中の説明は次の通りであるが、なるほど!刻一刻と流れる雲を指さし、天動説を主張している。
「天動説」 天国が、刻一刻と動いている。その一刻の隙間にあらわれた愉快な空気。北陸の空は変わりやすい。新湊。00・8
●善知鳥【うとう】〜善鳥〜烏頭〜有多宇
チドリ目ウミスズメ科の海鳥(hornbilled puffin)。ハトほどの大きさで背面は黒褐色、くちばしは橙色。繁殖期にはくちばしの上部に角のような突起を生じ、砂地に穴を掘って産卵する。北海道・本州北部の離島に群生する。
谷川健一『続 日本の地名』(岩波新書)には語源はウトウが繁殖期に上嘴(じょうし)に著しい角状の突起が見られることから、アイヌ語の「突起」だという。これは『広辞苑』の記述に従ったもので、そこには
うとう〔善知鳥〕(アイヌ語で突起の意) チドリ目ウミスズメ科の海鳥。大きさはハトぐらい。背面は灰黒色、腹部は黒色。顔に二条の白毛を垂れる。生殖時期には上嘴基部から角状突起を生ずる。北方海洋の島で繁殖し、冬季本州の海上にまで南下する。子を取られると鳴くという。〈日葡〉 「善知鳥安方(うとうやすかた)」参照。 うとう〔善知鳥・烏頭〕能の一。陸奥国外ケ浜の猟師が善知鳥を殺した報いで、地獄で化鳥に苦しめられる様を描く。
という具合に、アイヌ語説が出ている。『広辞苑』の編集者新村出が、アイヌ語説に至るには、次のような検証過程をへているのである。新村の『外来語の話』(初版1944年/講談社文芸文庫)にも次のように書いてある。
アイヌ語では、人間や動物の鼻をやはりetuと言っている。日本語で、顔面の「鼻」と出っ張りという意味の「端(はな)」とが、同じ語源であると同様である。北海道にetupirikaという鳥があって、その鳥のくちばしの辺りが、ある美しさを持っているところから名付けられている。我が国の謡曲に「烏頭(善知鳥)」という曲があるが、この烏頭という鳥も津軽辺にいるといわれているから、恐らくはアイヌ語のetuの転訛であろう。
しかし、語源というのは立証するのが難しいものなのである。
能や謡曲の一つで「ウトオ」と発音する。四番目物。世阿弥作ともいう。陸奥へ行脚する僧(ワキ)が、地獄谷のある越中国の立山で、もと猟師であった老人姿の亡者(前シテ)から故郷への伝言を託される。亡者の妻子(ツレと子方)に会った僧は、死者を弔う。後シテは猟師の亡霊で、子の鳴き声をまねて親鳥を殺し、親鳥の声で子鳥をとった報いに、亡者の目には妻子の姿が見えなくなる。殺生に明け暮れた悔恨の日々。ところが、また猟の興奮がよみがえってくる。杖を振るって鳥を落とすと鳥はそのまま地獄の化鳥となって襲いかかり、祈りの力も及ばず、亡者はまた暗黒の世界に消えていく。
室町頃に流布された伝承では、漁師が簑笠(みのかさ)をかぶって巣に近づき「ウトウ」と親鳥の鳴き声を真似すると、子鳥は「ヤスカタ」と答えてしまう。だから所在がすぐわかって捕らえやすい。子鳥を捕らえるとき、親鳥は空の上から血の涙をふりそそぐ。それが身体にかかると身を傷めるので、漁師は簑笠を脱がないという。
「善知鳥」と書いて「うとうと読むのは当て字のようで、延喜年代に大発生し、百姓達を苦しめたと言われている善知鳥(よしちどり)と悪千鳥(あしちどり)の話に由来するようだが、実際には分かっていない。
また、青森県人には馴染みの深い「善知鳥神社」に関連した伝承が、善知鳥を「うとう」と読ませているともいう。烏頭大納言藤原安方朝臣という貴族が流罪となり、さすらい歩いて辿り着いた「外ヶ浜」なる地で亡くなった。その亡霊は見た事もない鳥となって海に群がり、磯にたくさん鳴いていたのを、その君の名をとってこの鳥を「うとう」と呼び、その霊を祭って「うとう大明神」と唱えたと言われている。外ヶ浜というのは雁風呂で有名なところである。雁は旅する時、くちばしに小さな木片をくわえて飛ぶ。疲れると海面に木片を浮かべ、その上で翼を休める。秋、海を越えて飛来した雁は木片を津軽の浜辺に置いて南へ旅をつづける。翌年の春、雁はまた同じ木片をくわえて北へ帰っていくが、木片が残っていれば、冬を越す間に日本で死んだ雁のものである。人々は浜辺に残された木片を拾い集め、風呂をたいて哀れな雁を供養した。「雁風呂」という。群れを離れた一羽に自身の姿を重ねて芭蕉が詠んだ「病雁の夜寒に落ちて旅寝かな」にも通じる。
雁風呂 毎日新聞「余録」 2006年3月9日
昨今、何かと話題の水戸黄門だが、黄門さまがある茶店で雁(がん)と松を描いた土佐光信の屏風(びょうぶ)に目を留める話がある。何の絵かと、居合わせた上方の商人にたずねると「雁風呂」の絵だという▲−−秋にやってくる雁は木片をくわえ、時おりそれを海に浮かべて休みながら渡ってくる。函館まで来ると一本の松の根元に木片を捨て、さらに南へ向かう。雁たちは春、またその木片を拾って北へ帰るのだが、毎年たくさんの木片が残る。生きて帰れなかった雁たちの分である▲浜の人々はその残った木片で風呂をたき、不幸な雁を供養するというのだ−−。話に感激した黄門さま、商人が大名に踏み倒された借金の始末に江戸へ行くと知り、大名あての口ぞえの書状を書いてやる。これぞ「雁(かり)がねならぬ貸し金の講釈」というオチは、上方落語「雁風呂」の一席だ▲アレ? その話は函館ではなく津軽の外ケ浜の伝説ではなかったかという方もおいでだろう。黄門さまならぬ作家の山口瞳さんが「あわれな話だなあ、日本人て不思議だなあ」と語る30年以上前のウイスキーのCMを思い出した方もいるはずだ。そのCMでは津軽の話とされていた▲雁風呂は春の季語にもなったが、歳時記にも外ケ浜の伝承とある。だが実は津軽にはそんな言い伝えは存在しないという。青森県の人々の多くはCMで初めて雁風呂を知ったそうだから、世の中はややっこしい。話のルーツはやっぱり上方らしい▲雁が木片で休むのも、供養に風呂をたくのも、それが津軽の伝承というのも、すべてが作り話である。だが多数の油まみれの海鳥の死がいが知床の海で見つかったと聞けば、今も人々の心の中で供養の木片がたかれる。だから雁風呂が歳時記から消えることもないだろう。能の善知鳥では猟師の亡霊は「痩男(やせおとこ)」と呼ばれる凄惨な面が用いられるが、これには氷見宗忠の能面が珍重されたという。杉本苑子のデビュー作『燐の譜』(昭和27年『サンデー毎日』懸賞小説に入選して選考委員だった吉川英治に師事) には傷心の宗忠が猟師藤十の死体を墓場から掘り出し、無人の庵で憑かれたように「痩男」の能面を打ち上げるシーンが描かれている。
立山町出身の佐伯彰一は『神道のこころ』(日本教文社)の中でミシガン大学で教えている時に「善知鳥」の英文テキストと出会って“啓示”的な瞬間、神道への目ざめの第一歩であったと記している。これはDonald Keene“Anthology of Japanese Literature”(Charles E. Tuttle)の中の“Birds of Sorrow”である。
なお、富山に疎開していたことのある棟方志功は「善知鳥神社」で小さい頃から遊んでいたというが、「善知鳥板画曼荼羅」という作品もあり、文展に版画として初めて金賞を取った作品となった。志功の伝記である長部日出雄『鬼が来た!』には「善知鳥」という章があり、“Birds of Sorrow”が翻訳された経緯も出てくる。何と、志功の板画がこの翻訳を飾っていたのだという。
斉藤泰助『善知鳥物語考』(桂書房)に詳しいが、抜けていることもある。自分では大発見なのだが、「善知鳥」が落語になっていた。「(幽霊)片袖」と呼ばれる物で、「富家の娘の墓を悪人があばき、簪や衣装を盗み取る。悪人は六部姿となって、娘の百ヵ日法要の場を訪れ、“立山地獄で娘の幽霊から『供養のため高野山へ祠堂金五十両を納めてほしい』と頼まれた。これが証拠だ”と言って片袖を示す。紛れもなく娘の棺に納めた衣装の片袖なので、父親はすっかり信用し、祠堂金五十両と路用の五十両、計百両を六部に与える」という内容。宇井無愁『落語のみなもと』(中公新書)に解説が載っている。しかし、学者というのはいるもので、三村昌義「片袖幽霊譚の変容一謡曲「善知鳥」から上方落語「片袖」まで一」(『芸能の科学』18号1990年)という論文もあった。篠田浩一郎「善知鳥、烏頭、有多宇---日本の深層文化を求めて」『中世への旅 歴史の深層をたずねて』(朝日選書)という考察もある。
鳥刺し(a bird-catcher)という職業は特別なものであることはモーツァルトの『魔笛』のパパゲーノを知らなくても分かるだろう。レヴィ=ストロースにも『神話論』の第一巻『生のものと火にかけたもの』などに鳥刺しと料理の火の起源について論考がある。
なお、富山関係の能は「善知鳥」と「山姥」(やまんば)と「藤」だけ。
鳥が結ぶものについて、横井清の『的と胞衣(中世人の生と死)』(平凡社ライブラリー)には日本人が古くから鳥の声で吉兆を占ったことが語られ、次のように書いてある。
さて、鳥の声に執着してここまできた私たちは、その鳥が「霊鳥」である、「霊界・異界」とを行き来する、いわば渡り鳥として認識されていたことを確かめえた。そのことの証の最たるものが、「鳴き声」であった。
●うどん
氷見うどんが有名。富山がうどんの文化か、そばの文化かというのはにわかに決定しがたいが、うどんが多いだろう。そばは五箇山などに広がっているからだ。
水 毎日新聞「余録」 2010年3月15日
明治半ばに近代水道ができるまで大阪では淀川でくんだ水を売り歩く「水屋」が繁盛した。井戸水は塩分や鉄分を含み、市内3万6000余りの井戸のうち、そのまま水が飲めたのは120に満たなかったとの記録が残る▲太閤秀吉が城を築いた上町台地は良質な水に恵まれたため、庶民の飲み水に頓着しなかったらしい。「水の都」は専ら水運の便や排水への配慮がうかがえる。片や、江戸は下町に水売りの姿があったが、早くから神田上水や玉川上水が整えられた▲「大阪のうどん、東京のそば」のゆえんは、こうした水インフラ事情の違いにある、と伝承料理研究家の奥村彪生(あやお)さんが著書「日本めん食文化の一三〇〇年」で説いている。【…】
●宇奈月【うなづき】
県東部の温泉郷。富山県で温泉郷と呼べるのは宇奈月しかない。ここからトロッコ電車に乗って鐘釣というところまで黒部峡谷を楽しめる。ちなみに、富山県にはソープなどはない。
大正時代に始められた黒部川電源開発工事で資材運搬用に設置された峡谷鉄道の始点に当たる宇奈月を、黒部峡谷の黒薙温泉の河原のいたるところに湧く、98度の熱湯を引湯して、一大温泉郷に観光開発しようという構想から生まれた。黒薙から宇奈月までの7・5キロ、源泉で98度の温泉は、宇奈月温泉で63度。入浴適温まで下げるために加水される。
●うまいもん
「うまいもの」から「食べ物」。「(う)まいもんや」というと「お菓子屋」。例:「なんかうまいもんないけ?」(何か美味しい食べ物ないですか?)。
●馬入らず
射水郷は昔から「馬入らず」(農耕馬が入れないほどの水郷地帯のこと)と呼ばれた一大湿田地帯だった。農家の人々は、雪解け水に腰まで浸かりながら、先祖から受け継いだこの地方独自の知恵と工夫で苦闘を重ね、少しずつ農地に改良を加えてきた。「たずる」といわれる木製の舟や、刈り取った稲を乾燥させるための「タゴの木」や「ハンの木」、稲を運ぶ「イクリ」などがあり、水路は、農民の手堀りによるもので、河川の縁にタゴの木を植えて土手が崩れるのを防ぐとともに、刈り入れ時には稲を干すはざ掛けとして利用していた。
●うまそう〜うまそい
赤ちゃんを誉めて「うまそうな子やねぇ」とか「うまそい子やねぇ」という。かつて子どもを食べていたのではなく、古語で「美(うま)し国」と言うときの「うまし」が残ったのである。ちなみに「美」を「うまし」というのは元の漢字が羊の肉を火で焼いている象形文字から来ているからである。
中国の現代作家・池莉(チーリー)の『太陽誕生』には「なんてかわいい嬢ちゃんだろう、まんじゅうみたいにうまそうだわ」という表現が出てくるから、もしかしたら、食の大国・中国と同じような感覚で言っているのかもしれない。
●「海の貴婦人」
帆船のこと。日本では日本丸と海王丸があるが、旧日本丸は横浜、旧海王丸は新湊にあり、帆船の話が出るときには枕詞のように使われる。まあ、化粧代がかかりすぎるという共通点があるが…。
●梅
梅というと金沢の兼六園が有名だが、富山で特に名所はない。万葉集には早春を彩る花として百十八首詠まれた。大伴家持は「雪の上に照れる月夜(つくよ)に梅の花折りて贈らむ愛(は)しき児(こ)もがも」と歌って雪月花の風情を巧みに織り込んでいる。
●梅鉢紋
前田家一族の紋章として広く知られていて前田家の屋敷だった東大の赤門などにも残っている。前田家は菅原道真の子孫ということから梅鉢になったのだ。原形は六曜星紋から天神紋へ変わり、利家の晩年頃に軸付きの梅鉢紋が生まれた。三代利常になって本・支を明らかにするため剣梅鉢、丁字梅鉢などと多様化した。大和の筒井氏も天神信仰により梅鉢紋を使用している。
なお、召されて当摩蹶速(たぎまのけはや)と角力(すもう)をとり、これを殺して天皇に仕えた、伝説的な人物野見宿禰(のみのすくね)が道真の先祖ということになっているため、大相撲の土俵上にこの梅鉢紋がある。
●梅原北明【うめはらほくめい】
富山市生まれ。野坂昭如『好色の魂 ある春本作家の一生』(新潮社)の貝原北辰のモデル。1968年の作品で存命の関係者をはばかって今東光が紺統光達、曾我廼家五九郎が曾我廼家五九童、サトウ・ハチローがカトウ・ハチローのように少しずつ変えてある。本名は貞康(さだやす)で「吾妻大陸」などのペンネームを持つ翻訳家、性風俗研究家。早稲田大学英文科を中退してから、1925年(大正14)「芸術に対する迷信」打破を唱え、金子洋文、村山知義らと『文藝市場』を発行した。ダダイズム、プロレタリア文学などとゴシップや変態資料とを雑居させた特異な文学運動をおこした。さらに『変態資料』『グロテスク』などを次々と創刊し、『エプタメロン』などを翻訳した。大正末期から昭和初期にかけてのエロ・グロ・ナンセンス文化の一面を代表したが、独自の反逆精神と時代の病理を鋭く見抜く認識眼があった。また『明治大正綺談珍聞大集成』など社会風俗資料集も編纂した。梅原が春本出版に残した輝かしい業績は山口昌男『「挫折」の昭和史』に述べられている。なお、川本三郎『本のちょっとの話』(新書館)にこの本の話も出てくる。
小説で北辰は次のように描かれている。
北辰は、明治三十二年一月、士族貝原浩義の次男浩史として、富山市桜木町に生れた。
浩義の父浩尚は、前田藩勘定奉行、維新に際して、回漕問屋に投資し、移り変る世を巧みに立ちまわって金を残し、神通川の川辺に料理旅館をひらき、浩義はその末子、幼時より神童の誉れ高く、特に剣技に長じ、富山武徳会の小天狗とうたわれて、撃剣打ちこむ時の、裂帛の気合いは、四町四方にひびきわたったとされ、やがて、風呂屋へ手伝いに来ていて町家の娘ことと結ばれ、この結婚は母の許すところとならず、止むなく高岡へ駆落ち同様に逃げ、ここで長男浩一を産む。……北明は「明治以後の春本の代表作を、自分が完成させよう。あの多くの春本がそうであるように、作者の名前は忘れられても、人間から人間へ必ずうけ渡される春本を書き上げよう」と念じて「肌あかり」という作品にとりかかり、取材のために老人と生娘の閨房を覗く。
…老人は実の娘でもあるかのようにいたわり深く、娘はまた親にたよる如くまかしきって、苦痛のさけびもまじりはしたが、すぐに糸を果てしなくときほぐすような、嫋々たる嗚咽にかわり、まさに巫山の雲雨ただならぬ風情、冬のつるべおとしに陽の光うすれ、ほのぐらい安宿の、きしみもまじる中にあって、娘はふと声をとめ、それは線香花火の、ぐらぐらとふるえつつ、めくるめく発散を待つ、異常に密度の高いしずもり、老人はその間合いをはかる如く、一進一退していたが、しばし後、けだものの叫びに似た悲鳴がもれ、なすままだった娘の体に、ものの怪のり移ったか、力を入れて自らの枕をにぎりしめ、老人しかし依然としてゆるやかなうごき、気づくとすでに室内は闇に近く、ただ二つの白い体だけがからみあったままほのあかるく浮かび、北辰は「肌あかりだ、むつみあう二人の生命の灯、肌あかり」この世とも思えぬ眼前の、美しい営みに心うばわれ、ひょっとすると覚めて後の夢のように忘れるのではないか、心配になって「肌あかり、肌あかり」とくりかえし、春本第一作の題名の心づもり。
●裏日本
三島由紀夫の『金閣寺』で金閣寺の老師とも友人だった柏木との関係が泥沼化していく中で主人公が寺を出奔する。
それは正しく裏日本の海だった!私のあらゆる不幸と暗い思想の源泉、私のあらゆる醜さと力との源泉だった。海は荒れていた。波はつぎつぎとひまなく押し寄せ、今来る波と次の波との間に、なめらかな灰色の深遠をのぞかせた。暗い沖の空に累々と重なる雲は、重たさと繊細さを併せていた。というのは、境界のない重たい雲の累積が、この上もなく軽やかな冷たい羽毛のような笹縁につづき、その中央にあるかなきかの仄青い空を囲んでいたりした。鉛いろの海は又、黒紫色の岬の山々を控えていた。すべてのものに動揺と不動と、たえず動いている暗い力と、鉱物のように凝結した感じとがあった。
「裏日本」という言葉は日本海側の県に対する差別語で今は誰も使わない、使えないが、「西高東低」の気圧配置が富山では雪、東京では晴と正反対なのをみると裏日本だなぁと感じることがある。
幸田文が生前、富山空港から魚津に向かってタクシーを走らせたとき、運転手が「雲が厚ぼったい」と表現したという。陰うつ、暗たん、重苦しい、わびしいなどという言葉を使わずとも、およそ見当がつく。「うまい、と思いました」と舌を巻いたそうだ。
古厩忠夫【ふるまや・ただお/新潟大学教授】『裏日本―近代日本を問いなおす―』(岩波新書)によれば、日本海側イコール裏日本ではない。北陸と山陰(新潟・富山・石川・鳥取・島根)が該当し、それより北の県は東北に含まれるという。北前船が通っていた明治初期までは「裏」ではなかった。「裏表」という概念がなかったのだ。
評論家の富山和子(富山出身ではない)も「裏日本」と呼ばれていた北陸や東北の日本海側に光を当てて「京の文化は日本海文化である」とする「日本海文化論」を発表した(『水の文化史』文藝春秋1980年)。室町時代の日本の十大港は「三津七湊(さんしんしちそう)」と呼ばれ、越中岩瀬を含む七湊はすべて日本海側にあった。富山和子は琵琶湖の風景を巡っているうちに、七湊を拠点に都へ米を輸出していた水の交通や日本海側の豊かさに気付き、日本海文化論にたどり着いたという。
富山がが「裏日本化」したのは資本主義形成期の日清戦争以後で、鉄道の敷設が後回しにされたことが大きかった。そのために産業基盤の整備が遅れ、ヒト(労働力)、カネ(地租)、モノ(米と電力)が流出して「表日本」に蓄積した。
「裏日本」の各県の「県民性」は忍耐強い、粘り強い、地味、控えめ、勤勉という言葉でくくられるが、表裏の格差が生んだと考えられる。産業構造的に「裏」にされた地域は、それを内面化するあまり、自己イメージも「裏」になってしまった。
私には百余年にわたる近代化の過程で、「半周辺」に住む者がみずからを処するために身につけた処世術でもあるように思われる。ヒエラルヒーの下方(しかも最下方ではない)に位置づけられているヒトは、どうしようもなくなったときには米騒動のような叛乱を起こすことがあるが、通常はある種の諦観をもって自分の位置を認めつつも、少しでも階段を昇るべくこつこつと努力するからである。---『裏日本』
面白いのはこの本を書評した斎藤美奈子が『会議は踊る』(マガジンハウス)の中で合っているどうかは別にしてコロニアリズム=植民地主義について次のように書いていることだ。
第一に、植民地社会とその人々に対するめちゃくちゃ固定化されたイメージがまかり通ること。先進に対する後進、中心に対する周辺。それはたとえば、宗主国を機械文明に、植民地を地元の物産や工芸品に代表させるような考え方である。米だの薬だの百万石だのいっているのは、まさにそれ。
第二に、植民地支配は地域の振興に役立つから、その地域にとってもいいんだ、というレトリックが出てくること。沖縄の基地問題や、裏日本の原発誘致問題なんかは、もちろん、これである。植民地の地位に甘んじていれば、それなりにやってはいける。しかし、もともと不均衡の上に成り立っているのだから、植民地人に不満がつのるのは当たり前である。
結局それは、強い地域ナショナリズムにつながる。これがコロニアリズムの第三の面である。かつての田中角栄フィーバーなんてのは、まさにそれ。裏日本=植民地としての恨み骨髄の土壌から出てきたものにほかなるまい。
「住みよさ日本一」といってみたところで日照時間のこの少なさでは「裏」だと思ってしまう。そして、何よりも中央に受けるようなチンケな町おこしに走る地方自治体を見ていると、「お国柄」とか「県民性」なども「植民地の奴隷根性」だと思ってしまう。
●うらまっつり〜うらまっつん
「あとまっつり」ともいい、「祭の翌日」でまだ屋台が並んでいる。
●うわじき
「まくり」ともいう。畳の上に敷くゴザ。昔はよく使った。中に新聞を入れて余計に畳を痛めたものだ。
●浦西
高橋順子『雨の名前』(小学館)に出てくる雨の名だが、聞いたことはない。
富山県高岡市・京都府竹野郡・鳥取県で、雨や雪を運んでくる北西の風をいうが、京都府では時雨のこともいう。
●ウルシ
富山湾から富山空港への進入経路の名前。能登の方から来るので輪島塗から「ウルシ(漆)」にしたという。宮崎海岸方向からは「メディック」というがこれは“Medic(cine)”つまり、富山の「薬」から取ったもの。
●運河
琵琶湖と日本海を結ぶ運河の建設に、加賀藩が着手したのが、明治維新前年。敦賀と湖北の塩津間の測量に、暦算家で測量家の石黒信由のひ孫、信基らが率いる越中の男たちが従事した。この年は雪の日が多く、当時の記録は作業がはかどらなかったと伝える。
高低差のある琵琶湖と日本海を、トンネルと閘門(こうもん)式運河で結ぶ計画の総工費は約五百万両だ。一万人を動員し三年で完成する予定だった。京、大坂へ西回りの船で年貢米を運んでいた加賀藩には、運送コストの圧縮が見込めた。
運河の建設は維新で頓挫(とんざ)するが、その後も実業家らによって計画されている。中国大陸進出を背景に、大陸と関西を水運で結ぶ最短ルートが求められたからだ。膨大な費用がかかるため、いずれも実現していない。
●雲上の郵便配達人
立山黒部アルペンルートを乗り継いで、山小屋など1日十数カ所に手紙を届けている人。この「雲上の郵便配達人」が上滝郵便局(大山町)にいる。
●運転
富山の人は運転マナーが悪いとよくいわれる。ウィンカーの出し方が遅いというのがその特徴だ。電力を節約して何が悪い!
金沢の方がよっぽど悪い。父親が金沢の病院に入院したので半年くらい通ったことがある。半年後にはすっかり馴れてきた。
どの街も馴れれば一緒だ。
分かったことは一つだけ。自分本位に運転すれば危なくない!
●うんまい
「うまい」例:「おまえ、なんちゅー、うんまいもん食べとんがや」(あなたはなんていうおいしいものを食べているの)。
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