●…と
「…たく」で「…ともない」となると「…たくもない」。例:「あんたの言うこと聞きともないちゃ」(あなたの言うことは聞きたくもないよ)。
●…といて
「…ておいて」。例:「このホームページ、ブックマークに取っといて」(取っておいて)。
●…といね
「…ということだよ」。例:「しもていかれたといね」(亡くなられたということだよ)。
●「トイレの神様」
2010年に「トイレの神様」という曲がブレイクしたが、富山にもある。国宝瑞龍寺の烏瑟沙摩明王(うすさまみょうおう)である。烏瑟沙摩明王立像は法堂(はっとう)に安置されている県指定有形文化財。あらゆるけがれを清める力を備える。禅宗では東司(「とうす」=便所)にまつられ、瑞龍寺でも七堂伽藍の便所に当たる七間浄頭(しちけんじんずう)にまつられていた。2011年からはフィギュアも売り出された。トイレは古くから「怨霊や悪魔の出入口」と考える思想があったことから、現実的に不潔な場所であり怨霊の侵入箇所でもあったトイレを、烏枢沙摩明王の炎の功徳によって清浄な場所に変えるという信仰が広まった。
●東海北陸道
東海北陸自動車道。愛知県一宮市から岐阜県を経由して富山県小矢部市へ至る高速道路。2008年7月5日に完成。飛騨清見インターチェンジ(IC)〜白川郷IC間の飛騨トンネル(10・7キロ)の難工事に伴って工事が遅れていた。トンネルにある山は「籾糠(もみぬか)山」といい、脱穀したあとの籾殻が風に飛ばされ降り積もった、などの古い言い伝えが地元にはあるという。これが出水などをくり返して遅れたのだった。
●銅器
高岡銅器は富山の名産。鋳物工場がいっぱいあって、全国の寺院の鐘は大体、高岡で生産されている。「高岡銅器」という会社もある。
高岡銅器は江戸時代の初めに加賀前田藩が鋳物の発祥地である河内丹南(かわちたんなん)の技術を持った7人の鋳物職人を招いて鋳物工場を開設したことに始まる。丹南は大保千軒と呼ばれるほどの賑わいを見せ、河内鋳物師は鎌倉時代に再興された東大寺の大仏鋳造にも中国人(宋人)とともに参加し、さらに鎌倉の大仏や、梵鐘なども手がけた。 全国各地の梵鐘に“河内国丹南郡○○”という銘文が見られる。
高岡鋼器は花器、仏具等の鋳物に彫金を施す「唐金鋳物(からかねいもの)」を作り出したことにより発達した。明治時代にはパリ万国博覧会に出品されたことから世界でも知られるようになり、全国の生産量の9割を占めるようになった。銅合金を主とした鋳造品に象嵌(ぞうがん)、彫金、着色、研磨、メッキを施す。
この銅器の地盤の上に、安い電力を使い、富山県のアルミ産業が発達した。
●刀剣三作
藤四郎吉光(相州五郎入道吉光)、五郎正宗、郷義弘で郷が越中にいた。郷義弘(1325年・正中2年27歳没)は魚津の松倉郷で今に遺る名刀を鍛えた。
●刀工
富山には2005年現在で4名の刀工がいるという。
明治時代に富山県上市町白萩地内で発見された隕石によって造られた「流星刀」もある。
●統合5校
少子化に合わせて2010年に統合した5つの高校。南砺総合井波+南砺福野→南砺総合福野、高岡工芸+二上工業→高岡工芸、氷見+有磯→氷見、富山工業+大沢野工業→富山工業。滑川+海洋→滑川。
●統合高専
富山商船高専と富山工業高専が2009年10月に統合して富山高等専門学校(富山高専)になった。それぞれ、射水キャンパスと本郷キャンパスと呼ばれる。
2003年5月、富山県内の富山、富山医科薬科、高岡短期の国立3大学の各学長は05年10月に統合する合意書に調印した。06年4月から学生を受け入れる。3つの国立大学による統合合意は全国初。新大学は、人文、経済、理、工、医、薬の6学部に、高岡短期を引き継ぐ芸術文化学部、教員養成機能を持った人間発達科学部の2学部が加わる。5+2+1=8というただの足し算だという人もいる。大学名は結局、「富山大学」になったが「医薬大生」は嫌だろうなと何となく思う。
●とおしに
「ずっと」。例:「とおしに電話かかっとったちゃ」(ずっと電話がかかっていたよ)。
●道宗道(どうしゅうみち)
道宗道は蓮如上人の弟子で五箇山の行徳寺を開いた室町時代の僧、赤尾道宗(どうしゅう)が五箇山から井波別院瑞泉寺を参詣するため毎月通った道とされる。西赤尾町の行徳寺から、同市井波の瑞泉寺に至る約30キロの山道。砺波平野と庄川を隔てる標高約1000メートル級の高清水山系の尾根道で、道宗が瑞泉寺に通うのに使ったとされるが、具体的な道宗道は諸説あり、はっきりしない。城端の陽だまり峠に碑が設置されている。この古道「道宗道」を復活させる取り組みが進められている。
●唐人さま
岩手県や宮城県などでは、売薬さんのことを「とうじんさま」と親しみを込めて呼び、「富山のとーじんさまも来なぐなったなぁ」 などと売薬さんの来るの待ったという。「冬人」という人もいるが、やはり「唐人」だ。
「越中売薬の祖」万代常閑家の『先祖書』(『和気郡史 資料編上巻』所収)などによると、万代家は3代主計(かずえ)の時、応永年間(1394〜1427)に備前国和気郡益原村に移り住み、常閑と改名、家名も「もず」から「まんだい」に改め、家伝の妙薬「延寿返魂丹(はんごんたん)」を以て医業を職とするようになったという。「返魂丹」は初代掃部助(かもんのすけ)が「唐人」から秘法を伝授されたものと伝えられている。室町時代には富山で薬種を営む「唐人座」があったという。
また、南京玉すだれは五箇山がルーツだという説もある。あれは「唐人阿蘭陀南京無双(とうじんおらんだなんきんむそう)玉簾」というのが本当だそうだ。
●洞杉【どうすぎ】
幹回りが約30メートルの巨木。洞杉群は1989年に北陸電力の片貝川南又発電所建設に伴う周辺の植生調査で知られるようになったタテヤマスギの群生地。樹齢1000年とも推定され、日本一と関係者は考えている。洞杉は片貝川上流の南又谷に自生するタテヤマスギで、確認されているだけで120本余り。いずれも根元に巨大な岩や岩盤を抱え込んでいるのが特徴で、樹齢は500年以上、中には1000年を超すものもあるとされる。巨樹・巨木林調査は、地上1・3メートルで、凹凸に沿って幹回りを計測する。株立ちの樹木は、それぞれの幹回りを合計することになっている。今回調べた洞杉は、その高さで3本が分かれて株立ちし、別の1本が地下の根の部分でつながっていた。主幹は12・05メートルで、他は9・15メートル、5・08メートル、3・9メートルだった。環境省の調査では、すべての木を含めた株立ちの1位は岩手県大迫町のカツラの木の30メートル、杉では高知県大豊町の25・60メートルがトップだった。
●とうせんばんば
「とうせんぼ」。例:「あんたら、わしのこと、とうせんばんばしてなんなんけ」。
●東大
「東京大学」。「わし、東大行くちゃ」「伏木の灯台け、岩瀬の灯台け」「なーん、新港の灯台」などのように使われる。教育社会学者の天野郁夫は合格者数ランキングは郷党意識に支えられた「もう一つの甲子園」だと評したが、富山県民は東大合格率を気にするほうである。滋賀県は東大合格者数は少ないが、京大は多い。人口のわずか0.3%くらいの合格者だけで教育県かどうか考えるのは疑問である。
「とっぺ」ということがある。富山の豆腐は圧倒的に絹ごし豆腐である。ただ、すき焼きに関西では絹ごしを入れるというが、富山は木綿豆腐で焼き豆腐が多いと思う。
東西で豆腐の好みが違った理由として、関東では武家社会・男社会の為に「男豆腐」が好まれ、京都を中心とする関西では公家と僧侶の世界で「女豆腐」が定着したという説がある。
●桐朋【とうほう】
桐朋学園音楽大学大学院大学。舞台芸術学部を創設するという話が大学院大学に縮小された。小沢征爾や江戸京子も反対したことで知られる。99年春に呉羽に開校。桐朋アカデミー・オーケストラもある。さだまさしの子どもがここを修了している。
●東保組【とうぼぐみ】
新湊の土木建築工事業者。2003年に民事再生法の適用を申請した。1935年に個人創業し、56年に法人化した。舗装工事、土木工事、建築工事を主体に、県や新湊市など官公庁から受注。元県議会議長の東保和雄は元社長で、東保和秀社長は長男。
●透明盾
ナンワという高岡の会社が透明のプラスチック盾を開発した。ナンワからの相談を受け、県の総合デザインセンターや工業技術センター、中小企業支援センターが、商品化を支援し開発された防護用品。プラスチックの一種であるポリカーボネート製のシースルータイプで、卵型に近い、やわらかな曲面状のデザインが印象的だ。厚さは5ミリと薄いが、大人3人ほどが乗っても壊れず、鋭利な刃物やアイスピックなどで突いても破損しない。重量は約2.5キロで、警備や騒乱防止によく使われてきたジュラルミン製(6キロ)にくらべて格段に軽く、機敏な操作が可能になった。これまでに日韓共催のサッカーワールドカップ2002のフーリガン対策に用いられた(実際には違う会社のものだったという)ほか、警備会社や学校などの防護用品として使われている。
●東洋ゼンマイ
黒部にあるゼンマイの会社。創業当初は柱時計や蓄音機用のゼンマイが主力製品だったが、今はプッシュ式の車の灰皿や家電製品のコードリール、タイマーなどに用いるゼンマイを製造。腕時計用の小さなゼンマイの製造技術を生かし、「チョロQ」などのおもちゃに使うゼンマイでは世界のシェアの約30%を占めるという。
●東横イン
2006年に無断改造問題が起きたチェーンである。富山駅前の昔の東急インが東横インになった。東急は西側にエクセル東急を作った。東急インは東急資本だが、東横インは東急とも東横線とも関係がない。「京浜東北線で品川から横浜に向かって三つ目の駅の蒲田が発祥の地であり、本社も蒲田にあります。東京と横浜の間ということで、東横インとしたまでです」と書いているが、東横線のイメージを利用したことは間違いない。
そして、東横インの社長で「時速60キロで走る所を67、68キロで走っても、まあいいか」などという、あの傲慢な会見をした西田憲正は高岡生まれなのである。会見で「ぎんぎんぎらぎらにお金を追求している訳ではない」と童謡の「夕日」を引用した。ちなみに、蒲田で育って、日本大学商学部経営学科を卒業している。
●童話大会
県少年少女自作童話大会。小学生はみんな頭を悩ます。僕の姉は二人とも市の大会に行っているが、僕は学校どまり。大会は北日本新聞の前身の高岡新報、富山日報の記者出身で童話作家の大井冷光をたたえ、昭和23年から始まった。冷光は語り部と聞き手の交流を何よりも重視した。その信念を貫き、大正10年に神奈川県での童話を口演中に倒れて35歳で亡くなった。
●トーカマート
「ラビア」(“LA VIA”でイタリア語の「生活」)という名前になっているスーパーチェーン。でも、「十日市」みたいで親しみがあるのか、「トーカマート」という人が未だにいる。
総合衣料品共同仕入れ本部のトーカマートは2001年5月に会社を解散することを決めた。全国チェーン店の進出で、共同仕入れによるコスト低減効果が薄れたことや、加盟店の減少が響いた。ラビアも2003年1月に自己破産。
●…通り
富山は総曲輪、中央通り、高岡は御旅屋、末広通りが繁華街の中心だ。だから、どの町にもそうしたアーケード街があるものだと信じていた。
今はどの通りも寂れていて可哀想だ。でも、高い買い物をして高い駐車料金を取られるのはたまらない。
富山市では主要道に愛称がついている。この施策は改井市政時代の73年に行われた。なじみの薄い都市計画道路の名称に代えて市民に親しみの持てる愛称をと、市広報で十二路線についてアイデアを募集した。市長、助役はじめ市幹部、自治振興会、青年団、婦人会など各種団体の代表らが審査をし、決定している。
市民40人から153点の応募があり、審査の結果、11路線について愛称が付けられた。駅北の牛島から富山中部高校前、磯部を通って県道富山小杉線に至る市道牛島蜷川1号線は「さくら通り」、富山駅から北日本新聞社前を抜ける市道富山駅根塚線は「すずかけ通り」といったふうに命名された。99年には、富山駅北口再開発で誕生した2つの路線に「ブールバール」「親水広場」の愛称も付けた。
市道路維持課によると、今日定着をみているのは市役所前の「城址大通り」、立山連峰がよく見える市道大泉線の「雪見通り」、護国神社から西町を通る「平和通り」、有沢線の「立山通り」の四路線。
半面、「ひまわり通り」「あざみ通り」「さくら通り」(神通川や松川べりの桜から採ったが街路には欅が多い)といった花や木の名前を冠した道路にはその花もなく、「黄金通り」「神樹通り」(当初は神樹の並木だったが、現在は全線がハナミズキに植え替えられている)は浸透せず、「しののめ通り」に至ってはほとんど認知されていない。意味さえ分からない、との声もあった。
それで2000年に見直そうという機運が高まった。審査会の議論やアンケート結果を踏まえ、市は2001年2月、4路線の愛称を改めることを提案した。市道神通町蜷川線・県道小竹諏訪川原線の「さくら通り」は「けやき通り」に、県道富山停車場線・同富山上滝立山線の「黄金(こがね)通り」は「桜橋電車通り」に、市道磯部清水線の「神樹通り」は「花水木(はなみずき)通り」にすることに決定した。「しののめ通り」は「於保多神社通り」にするのはなくなったようだ。
●栂【とが】
富山では「樅(もみ)」を「栂(とが)」という。「とが」では変換されないので「つが」と打たなければならない。上市町眼目にある立山寺の参道にある栂並木が有名。天正年間に能登から苗木を取り寄せたという。
●利賀村
今は南砺市に入っている五箇山の三つの村の一つ。加賀藩の初代藩主前田利家によって名付けられたので「利賀」なのだ。
●尖山【とがりやま〜とんがりやま】
中新川郡の標高559mの三角状の山。昔から「日が暮れてから山に入ると位山の天狗にさらわれる」と言われ、「尖山に入った男が急に光に包まれて気がつくと位山にいた」「尖山の頂上から位山の方向に天狗が走るのを見た」などと不思議な噂がささやかれている。この尖山と飛騨高山の聖地・位山はピラミッドネットワークで結ばれているのではという人がいる。異端の古書『竹内文書』には太古の日本にはヒラミツトなる祭殿が何ヶ所かに造営されたと書かれてあり、山口博・元富山大学教授が尖山は「ニニギノミコトが築いたと伝えるヒラミツトではないか」と推定し、地元でも注目を集める事となったのだが…。
●とき
2008年に放鳥されたトキが黒部市に飛来した雌のトキに09年6月に「特別住民票」を交付された。
トキ自体は昔、富山にも住んでいたことが知られている。
●ときの舎【ときのや】
ときの舎の寺嶌圭吾社長は大蔵省(現財務省)に出向き「新しい酒をつくるために適正なブレンドが必要」と訴え、「合組士」という特殊免許を取得、ブレンド事業を始めた。ブレンド酒の基になったのは、桝田酒造店(富山市東岩瀬町)、富美菊酒造(同市百塚)、福光屋(金沢市)、白木恒助商店(岐阜市)の純米酒。2000年、酒類販売の規制緩和のあおりを受け、小規模メーカー廃業が増加する中、競合する四社などが多様な日本酒を市場に送り出していくことを狙い、共同出資してときの舎を設立した。
●トキメキ
国の特別天然記念物トキの名前(雌、個体識別番号04番)。2009年5月から黒部市に定着していた。
●とく
「櫛で髪の毛を」「とく」ものだと思っていたが、西日本に見られる方言である(多く「梳く」と書く)もつれていた毛にくしを入れて整える。「とかす」。「すく」が標準語形である。例:「未蘭ちゃん、櫛で髪の毛、とかいてあげっちゃ」。
●どくしょな
真田信治・友定賢治『地方別方言語源辞典』(東京堂出版)で富山・石川の方言だというが、僕は聞いたことがない。「意地の悪いさま。薄情で冷たいさま」の意味。「毒性」から来ているという。
●とこなつ
高岡の大野屋の銘菓。白大豆の餅を餅生地で包み表面に和三盆糖をまぶした一口大のお菓子。大伴家持の「立山に降りおける雪をとこなつに見れども飽かず神からならし」から採られた。小さい頃、縦書きに続けて書かれた広告を見て「とこなろ」だと思っていた。
●心太【ところてん】
関西では黒蜜をかけて食べる甘味になっているが、関東は三杯酢で食慾のない時に食べるものと考えられている。富山では三杯酢で食べるのが多い。
●どこんでも
「どこでも」。例:「どこんでも、寝んといて」(どこでも寝ないでください)。
●都市伝説
現代の都市型社会に生まれる超常現象などのうわさや怪異譚が「都市伝説」といわれるようになったのは80年代末からという。「都市伝説」という概念を提唱したのは、アメリカの民俗学者であるジャン・ハロルド・ブルンヴァンらである。富山にも「都市伝説」に当たるものがいくつかある。あるマンションで人が多く亡くなるのはお墓があったからだ…というのがあるが、書くことはできない。
●毒ガス
富山にも毒ガスがあったが、環境省の2003年の調査で、終戦時に残存した毒ガスは関係者によって廃棄されているとして、現時点で直ちに健康被害を防ぐための調査をする必要はないとしている。
新聞によれば、旧第6陸軍技術研究所の一部が当時の旧王子製紙(現日本製紙)伏木工場(伏木1)に疎開し、高岡出張所を開所。工場は1944年8月10日に陸軍に接収され、終戦の45年8月18日に解除された。同工場で青酸と皮膚系毒ガスのイペリット(マスタードガス)を試造。終戦直後に青酸約200リットルは水で薄めて小矢部川に流し、イペリット約800キロは城端、福光町にまたがる富山連隊の演習場(立野原地区)で焼却処分したという。兵器となる毒ガス弾は埋められておらず、県内の他の場所での製造もなかったという。
●年取り魚
「年取り」(大晦日)に食べる魚は関東は鮭、関西は鰤だ。富山では呉東が鮭、呉西は鰤である。
●図書館
富山県は図書館の数が多いので有名だが、逆に購入書籍数が全国一悪い。要するに教養にお金をかけたくない県民性なのだ。怒った中沖知事は県職員に本を買わせたということがあった。呉羽にある県立図書館が一番充実しているが、富山市立図書館もいい。新湊市立図書館も好きだ。どうしてこんな本をと思うような本が読んであるのを見るとうれしくなる。
2002年度の県内の公共図書館の利用状況は、個人の貸出冊数が県内全体で延べ約425万冊(前年度比約7%増)と初めて400万冊を超えた。県民1人あたり、年間約3.8冊の本を借りたことになる。県内の図書館で、個人貸し出しのための登録をしている人は33万620人(同1・8%増)。このうち児童の登録者は7万2652人で、前年度に比べて約6700人減った。富山市や高岡市などの都市部で減少が目立つ。
貸出冊数が多いのは、富山市立中央、小杉町民、高岡市立中央の順。
県内には大学、短大、高専にも計10図書館がある。富山医薬大の図書館では、大学外の利用者が7300人で、2位の富山大の約28倍。薬剤関係者が多く、独自の研究をしている中小の製薬会社が県内には多いことが背景にある。
●どす…
「ひどい…」。ちょっと書きたくないが、「どすめろ」というと「ひどい女」という意味で、言っている方の品位が疑われる言葉。←疑われてるって
●土葬
北陸、特に富山県は土葬が少ないので有名だ。浄土真宗の門徒が多いことと関係があるとされる。それでも、まったくない訳ではなく、綿貫民輔のおうちは神職なので、土葬だった。同僚にいったS先生のおうちも雄山神社の神主だったので、土葬だったという。最近は土地がなくなって土葬も少なくなったようだ。
カメに入れる座棺/坐棺もあった。
●とちゅうなか
「途中」から「中途」。
●どっか
「どこか」。例:「どっかいいとこないけ?」(どこか良い所ないでしょうか?)「どっこもおんなじやちゃ」(どこも同じだよ)。
●どっこ胡瓜【キュウリ】
「高岡どっこ胡瓜」。肩幅が広く、ずんぐりとした体形をした太キュウリ。高岡で生まれた「どっこ」。富山の方言で「太くて短い」の意味がある。「どっこ胡瓜」の特徴は(1)色が深緑で見た目が美しい(2)糖度が高い(3)日持ちが良い(4)あんかけ煮を作っても果実が溶けにくい、など。
●どっだけ〜どっだけん
「どれだけ」。例:「わし、あんたのこと、好きやいうてどっだけいわぁ、分かるがいね」(私があなたのことを好きだとどれほどいえばあなたは分かって下さるのでしょう)。
「豆腐」。「とっぺや」(豆腐屋)が昔は各町内にあって、買いに行ったものだ。豆腐屋の匂いがとても清潔感があふれていてよかったし、冷たい水の中から上手に取り出してくれて嬉しかった。おからもタダでもらえた。一年の半分を旅に暮らすという作家の嵐山光三郎によれば、「いい街」の目安の一つは豆腐屋が健在なことだという。金沢は合格だろうが、富山はどうだろう。
方言文字で「豆腐」を「豆富」と当て字するお店もある。
●ととぼち
「すり身」のことで氷見の方言だ。氷見の先生から「今日の昼はととぼちじかぁ?」と聞いた時には仰け反った。氷見の業者はすり身を「ととぼち」の商品名で売っている。「とと(魚)+餅」から。ちなみに「かまとと」というのは「蒲鉾も“とと”?」と分かり切ったことを幼児語でいうような人のことを指す。
●ととまる
高岡流お好み焼き。2011年からブレイクした。作り方に条件があってこれを満たせばOK。エビやホタテの貝柱などをトッピングしたり、トマトソースやチーズを使いピザ風にアレンジしたりと、イカのすり身とキャベツや天かすなどの具材を合わせたととまるなどが考案されている。
- すり身を使う事
- 商品名に「高岡流お好み焼き ととまる」を使用する事
- 昆布を使用する事
- 鉄板で焼く事
- 丸い形である事
すり身というのはスケトウダラ・イワシ・ホッケ・エビなど、魚類の身(魚肉)をすり潰したもの。
●砺波
砺波市は「砺波市」だが「東礪波郡」「西礪波郡」は古い漢字を使う。
●トナミ運輸
パンサー便で有名な、富山の運送会社。
●「隣の貧乏、雁(鴨)の味」
「他人の不幸は蜜の味」に相当する言葉で、郷土作家・岩倉政治『無告の記』(“むこくのき”井波近辺が描かれている)でも出てくる。八木光昭・聖徳大学教授によれば、このような諺があるのは富山と岩手だけだというが、『おもしろ金沢学』(北國新聞社)には銭屋五兵衛の話の中で、銭五を閉じ込めた駕籠が城下へ向かう時、群衆が激しく投石したというところで、「『隣の貧乏雁(がん)の味』ともいうが、群衆がむさぼっていたのは、まさに『雁の味』だったのであろう」と書き、「『出る杭』を打って、『雁の味』を楽しむごとき因襲は、もやは過去のものでしかないことを金沢のために祈りたい」と結んでいる。
こうした加賀藩の影響か、富山でも呉西の方に多く聞かれ、呉東ではあまりいわない。
恐らく、隣が没落しないと田圃が手に入らなかったからだと思われる。
●となわ
「とうもろこし」。堀井令以知『ことばの由来』(岩波新書)には次のように書いてある。
また、トウワ、トナワという地方もある。唐粟(とうあわ)という意味で、飛騨の高山から美濃・近江・越中の各地にある言い方である。黍をあまり作らなかった土地にこの名がある。
●利根川進
1987年日本人初のノーベル賞医学生理学賞受賞者。1963 年京都大学理学部化学科卒業後。京大ウイルス研究所に進むが、渡辺格教授の勧めで米国カリフォルニア大サンディエゴ校に留学し、Ph.D.を取得。免疫グロブリン生産遺伝子内の DNA の働きを発見し、哺乳動物の免疫現象を DNA レベルで解明したことなどが, 大きな業績にあげられる。免疫学の分野に分子生物学の手法を導入し、生命科学の活路を開いたとされ、1984 年に文化勲章受章。
利根川さんは小さい頃、お父さんが紡績会社に勤めていた関係で、大沢野に住んだことがある。もう、これは富山県人である。
●とねりこ
「もちのき」「だごのき」ともいう。とねりこは一本ではあまり役に立たないが、何本も並ぶと「はさ」という横棒に稲を架けて干すのに使う。ただ、バットの材料になるので富山県では福光町を中心にバットの生産が盛んだった。今はほとんどをアオダモが占める。ところが、そのアオダモもかなり不足しているという。用材となるまで70年もかかるうえ、日本ではこれまで計画的に植林されることがなかったからだという。
ある知的障害者の施設の機関誌が『とねりこ』になっていたが、トネリコのように互いにつながっていないといけない、という意味を込めたといわれた。
●殿様林
常願寺川左岸の富山市馬瀬口(旧大山町)に残る林。江戸時代中ごろ富山藩の六代藩主、前田利與(としとも)が、丹波からマツの苗木を購入し、約6ヘクタールに植林したという。水害への備えとして作られたもので、藩政時代には管理人を置いて立ち入りを制限し、野火を出さないよう気を配ってきた。
●飛だんご【とびだんご】
富山市岩瀬港町の七福亭で期間限定(5/10〜10/5)で売られているお菓子。黄粉とあんこの2種類がある。昔、古志の松原の松林は昼も薄暗く魔物がすんでいた。岩瀬浜海岸近くの大村城主の轡田(くつわだ)備後守はこの化物退治を決意し戦ったが力つき「熊野権現たすけたまえ」と祈ったその時、雲の間から口の中に団子が飛び込み急に力が湧き魔物を退治することができたという。朝日新聞の轡田隆史は自分が大村城主の子孫だと書いている。江戸時代から、土地の名物になったが、現在は販売しているのは七福亭だけで確実に手に入れるには電話で前日の午前8時〜午後3時に申し込む。もち米はいっさい入れず、うるち米だけで粘りを出すのが「秘伝」の技だという。きな粉かあんこをまぶしてできあがりだが、すぐに硬くなるため、注文を聞いてからつけるという。
「飛団子」というのは普通名詞だ。1711年(正徳元年)に江戸両国橋東詰の松屋三左衛門が飛団子を考案したといわれる。『日本国語大辞典第2版』には「江戸時代から明治にかけて、行商人が歌に合わせて餅を搗(つ)いたり、また黄粉(きなこ)の中へひねってとばす曲芸をしたりしながら市中を売り歩いた団子」と書かれている。
歌舞伎の「団子売」に「飛び団子」が出てくる。紅白の梅が咲く初春。天満宮を臨む天神橋に団子売りの夫婦がやってくる。夫の名は杵造、妻はお福、臼を仕込んだ屋台を担ぎ、楽しく団子を売り歩いている、むつまじい夫婦である。街で出評判の高い飛び団子。団子売りの夫婦は団子の言い立てをまくし立てて、客の呼び込みを始める。二人は臼と杵を持ち出して、大道で餅を搗き始める。にぎやかにめでたい踊りを軽やかに踊り抜く。踊りの中で杵造が付けるのは「悪魔払い」のひょっとこ、お福が付けるのは「福を呼ぶ」おかめのお面。曲搗きであるが、さすが連れ添う夫婦の杵さばきはみごとに息が合っている。そして、今日も団子はうまく出来上がったと喜び合う夫婦。団子売りの夫婦は、次の町を指して、仲良く連れ立っていくのであった。
w加賀万歳(まんざい)の代表的な演目に「北国下道中」がある。加賀前田家が、参勤交代で江戸を向かう北陸道、北国街道、中山道の地名や名所、名物を織り込んでいる。この中で岩瀬は「音に聞こえし草島の、渡しを越えて喜んで、なにか岩瀬の飛びだんご、心にかかる娘茶屋、われも人もといり給(たも)ふ」とうたわれた。
●どべ
「どぶの泥、ヘドロ」など。
●どべ
篠崎晃一+毎日新聞社『出身地がわかる!気づかない方言』(毎日新聞社)によれば、中部地方の方言とされるが、西日本の広い地域で「びり」より多数派として使われているという。富山では使わない。
●トポス
哲学用語“topos”。元来「特定の意味をもつ場所」のことで、アリストテレス以来、話し手の言論(ロゴス)、話し手の人柄(エートス)、聞き手の感情(パトス)の総体として認識されるようになっている。現在では、中村雄二郎の「トポスの知」というような言い方を見ても判るように、「哲学的な意味での場所」という意味で使われる。宇宙や人々との響き合うことのできる場所のことである。人びとの感性というものを大切にし、それを育んでいくためのに、私たちはいたる処にそういう場所を創り出していかなければならない。
アニー・ディラードというアメリカの作家は「頭の中がからっぽになったとき----残るのはきっと地形だろう…夢のような大地の記憶である」と書いている(『本を書く』パピルス)が、立山を見ていると特にそう思えてくる。僕自身は職場に向う道路の真ん前に劍岳が見える。
さて、富山の人がトポスを感じるのは富山を離れた時である。それまで当たり前のようにあった立山連峰がない。山があったとしても多くは独立峰で、しかも低い。富山のように屏風のように見える訳ではない。海がどちらにあるか意識することもなくなる。富山では山のないところが富山湾なので、分かりやすい。県内を横断する8号線のないのも位置関係を危うくする。呉羽山という中心がないから、東部か西部かという意識もなくなる。都会では風がどこから吹いてくるのか分からない。富山では平野をずっと渡ってくるので、風の道が読める。
東から富山に入る時は親不知などのトンネルを抜けてようやく富山に入ったと思える。西から入る時もくりからトンネルを抜けて平野に入り、富山だと思う。
●どまつく
「慌てる、まごつく」だが、僕は使わないので、方言の本にこの言葉が出ていた時はどまついてしまった。
太平洋戦争下に特別高等警察によって行われた最大の言論弾圧である「横浜事件」のきっかけとなった事件。日米開戦まもなくの1942年(昭和17)総合雑誌『改造』8〜9月号に掲載された国際政治学者だった細川嘉六(下新川郡朝日町泊出身)の論文「世界史の動向と日本」は、内務省の事前検閲は通過し、配本済だったが、谷萩那華雄陸軍報道部長によって共産主義宣伝論文であると批判され、発売禁止処分になった。これをきっかけとして神奈川県特高は細川を検挙、さらに細川の知人や関係者が次々と検挙された。証拠はなかったのだが、42年7月に撮影された、浴衣姿でくつろぐ男性7人が料亭の庭をバックに撮った写真が日本共産党再建準備会の動かぬ証拠とされた。満鉄調査部員の平館利雄、西沢富夫、西尾忠三郎、改造社員の相川博、小野康人、東洋経済新報社社員の加藤政治、中央公論社員の木村亨だった。この泊への旅行は細川が、たまたま法要で帰省する折、ちょうど新著の『植民史』が東洋経済新報社から出版された当座のことでもあり、その出版の記念をも兼ねて、日頃から執筆や研究に何かと力になってくれる若い人たちをねぎらう主旨の出版記念旅行だった。「紋左」旅館の女将だった柚木ひさは特高警察の執拗な取り調べを受けたが、秘密の謀議などという筋書きには頑として首を縦に振らなかったというのが町の伝説になっている。この事件は最初、細川のあだ名から「カッパ事件」と呼ばれた。
この写真をきっかけに世界経済調査会の川田寿・定子夫妻もアメリカ共産党と関係ありとして検挙され、さらに細川の関係していた昭和塾関係者も検挙された。これらの事件を口実として44年、改造社、中央公論社は軍閥政府から強制的に解散させられた。さらに日本評論社や岩波書店の編集者も検挙された。
過酷な拷問で4人が獄死、半数が有罪判決を受けた。特高による拷問の記録も多く残っていて「小林多喜二の二の舞いを覚悟しろ」「この聖戦下によくもやりやがったな」などともいい、裸にして角材の上に正座をさせ、失神するまで暴行をする。あるいは逆さづりにして強打した。拷問した3人の特高警察官は被告たちに人権じゅうりんの罪で告訴され有罪となったが,投獄されなかった。いずれも横浜市内の警察署で調べたため、「横浜事件」と呼ばれている。
判決は敗戦直後、1945年9月までに言い渡されたが、10月15日には事件を裁いた根拠の「治安維持法」が廃止されたからもう少し遅かったら歴史は違ったかもしれない。細川らの裁判はこの時点まで続いていて免訴になっている。
石川達三の『風にそよぐ葦』は横浜事件を扱った長編小説だ。評論家の清原節雄が出版社の社長、葦沢悠平に「眼の見える者は眼をつぶされ、口の利ける者は口を封じられる時代だ」と語る。ふたりはそれぞれ、「暗黒日記」の著者で評論家の清沢洌(きよし)、中央公論社の元社長・嶋中雄作の二人がモデルといわれる。
2度の再審請求は「資料や記録がない」などとしていずれも棄却された。2003年の3度目の請求で、横浜地裁は再審を認めた。「ポツダム宣言を受諾した時点で治安維持法は効力を失った」とする大石真・京大教授(憲法学)の鑑定書を踏まえ、元被告5人に適用された治安維持法1条、10条について、「民主主義の根幹をなす結社ないし言論の自由を否定するもので、ポツダム宣言に抵触して適用をすることが許されず、(宣言の受諾後は)効力を失うに至ったというべき」というのが決定の理由だが、地検は即時抗告した。
2006年2月、有罪判決を受けた元被告5人(全員死亡)の再審判決が横浜地裁であった。松尾昭一裁判長は「治安維持法は廃止され、被告人らは大赦を受けた。公訴権が消滅している」として、検察側の主張通り、訴訟を打ち切る「免訴」を言い渡した。弁護団は「起訴事実そのものがねつ造で判決の根拠となった自白も拷問によるものだ」などとして、5人への無罪判決に加え、判決で拷問の犯罪性を認定するよう求めていた。2008年に裁判は全て終了した。
●富…【とみ】
「とみ」といって「と」とか「ふ」ということは稀である。ただ、「来富」(富山を訪れること)を「らいとみ」とはいわず、「らいふ」というようだ。例:「富タク」「富商」「富大」「富劇」。
●富商【とみしょう】
富山商業高校のこと。西の高商(たかしょう)とライバルでともに野球とブラバンなどで有名だ。
●富銀【とみぎん】
富山銀行。この他に「富山相互銀行」から替わった「富山第一銀行」もある。
●富大【とみだい】
富山大学のこと。旧制富山高校などから生まれた「駅弁大学」で旧二期校だが、一期校、二期校の意味を知らない人が増えてきた。昔は経済(富山らしい!)、文理(人文学部と理学部に分離)、教育、薬(医薬大に)、工学(高岡から移転)があった。駅弁の中身が幕の内弁当になっていなければいいのだが…。
1949年(昭和24)富山薬学専門学校、富山師範学校、富山高等学校、高岡工業専門学校、富山青年師範学校、富山高等商業学校を統合して、文理、教育学、薬学、工学の4学部からなる新制大学として発足して、経済学部の新設(1953)、文理学部の改組(1977)による人文学部、理学部の設置を経て、現在は5学部(人文学、教育学、経済学、理学、工学)と各学部に大学院修士・博士課程の構成となっている。なお薬学部と和漢薬研究所は75年に新設された富山医科薬科大学へ移管された。2005年から医科薬科や高岡短大も合わせて統合することになった。
地方の大学名に関しては柴田武東大名誉教授が調べている。ただ、実際に使われているものとはギャップがある。受験生と世間と内部の人とでは違った呼び方をしている。
富山大学も「とみだい」というのが普通だが、古い人で「ふだい」という人がいるし、そういう名前の演劇部がある。
新潟も中にいる人は「新大」(しんだい)といっているようだが、「潟大」(がただい)と悪口をいう人がいる。
金沢大学も「金大」で近畿大学と東京などでは間違えられる。悪口をいう人は「ごんだい」といった。今はもう死んでると思うけど。衝突したときの呼び方の方が面白い。金沢では北陸鉄道と国鉄がぶつかったので、北鉄を「きたてつ」と呼ぶことがあった。
柴田先生のオチは阪大、京大、お茶大、とそれぞれ飯代、鏡台、お茶代とお金のかけかたが現れている!?というもの。
富大はいろいろな学部のある、すばらしい、夢のような大学なのに、合格してもキャンセルする人が多いので知られる。それでも富山大学の威光は続いている。例:「あんた富大行かれちゃ、クルマ買ってあげっぜ」。
新大学の名前はすったもんだがあったが、「富山大学」に決まった。でも、医薬大生は嫌だろうな。「あんた富大け?」「違いますよ、富大でも医学部ですよ」「でも、富大ながいろ」…。
統合したら英語名が“Toyama University”から“University of Toyama”になるという。東大が“University of Tokyo”であるのはかつての“Imperial University of Tokyo”、つまり「東京帝國大学」の名残なのだが、こちらの命名は?
●富タク【とみたく】
富山タクシー。富山市のタクシーチケットは富タクのをどの会社でも使える。
●富永一郎
どうしてここにと思うのが、「富永一郎とが漫画館」である。利賀の道の資料館に併設されて築後200年の合掌造り民家利賀民族館や富永一郎より寄贈された原画が展示されている。富永一郎は「ちんころ姉ちゃん」などで有名な漫画家。悪いけど、あんまり趣味じゃなかった。
●どもこも
「どうにもこうにも」。
●富山
元々ここは呉羽丘陵(くれはきゅうりょう)の「とやま:外山」に当たるので、いつしか『とやま』と呼ばれていたが、天文年間(1632-55)に水越氏が築いた城の名前を決めるときに「外山城」では良くないと言うので、縁起のよい名前ということで「富山」の文字を当てたという説と元々「藤居山・ふじいやま」と記していたが、ここに「富山寺」(ふせんでら)があった事からいつしか「富山」(とやま)となったという説が有力だが、よく分からない。
●とやま
富山の人は「とやま」のアクセントを平板にいうが、東京などでは頭高で「とやま」という。
これで東京もんかどうか分かるので僕は必死に「とやま」という。
●富山駅
JR富山駅のことで、電鉄富山駅は「電鉄」ということが多い。JR西日本が管理。北陸本線に高山線と富山港線が接続し、地鉄富山駅も隣である。駅に降りるともの悲しい曲が迎えてくれた(89年10月14日の鉄道記念日から00年1月22日まで「こきりこ」が流れていたが2月8日からCTC化に伴って電子チャイムになった------金沢は「琴」で福井は「ハープ」だった)。
駅前の整備は進んでいなかったがマリエができ、須田ビルがなくなってCiC(シック)ができて一変した。どの駅ものっぺらぼうになってきた。昔の猥雑さの方がよかった。
「旅の人」によれば富山は新婚旅行の見送りがやたら多いという。確かに友人だけでなく、親戚までが見送る。胴上げで怪我をして、裁判になったこともある。そのまま腰を折ってしまった花婿もいたそうだ。
●富山化学
富山にあった化学薬品メーカーで、フジフイルムに買収された。
●富山かぶ
昭和50年代前半に姿を消したとされる富山の伝統野菜。富山かぶは直径7〜8センチの中カブ。しかし、見栄えがよく病気に強い新品種の登場で作られなくなった。富山市石坂のカブ農家で2006年に復活。富山かぶの玉の方が扁平で、根も多いが、甘みがあり、柔らかいといわれる。
●富山銀行
「とやまぎんこう」。尾崎紅葉の『金色夜叉』を読んでいると、富山銀行の富山唯継が出てきて、「富山」「富山」としつこく出てくる。どれも「とみやま」なのだが、紛らわしい。
●富山空港
いまだに「飛行場」という人がいる。昔はフレンドシップやYS11(84年にジェット化される以前は東京便で1日5往復)などのプロペラ機しか飛ばなかったがジェット化された。でも、ジャンボは飛ばない。日本で唯一、中州にある空港で、天候に左右されることが多く、就航率が低い。富山空港は「なかす飛ばず」なのである。冬は特に要注意だ。河川敷に降下していくので、川の中に落ちると怖がる人もいる。
ANAとJALのダブルトラック化も実現できたが、JALが脱落した。
北陸自動車道をすれすれに飛んでいくので高速道路に「飛行機に注意」という看板が立てられている。
小松より東京に近いが運賃は富山が高い。羽田、札幌、函館(季節便)、沖縄(〃)などの他、ソウル、ウラジオストック、大連便(後に大連経由北京便)、上海便などが運航された。環日本海時代を先取りするため、県もかなり無理をしている。関空、長崎、福岡、名古屋などなくなった便も多い。
なお、商船高専の南東に倉垣飛行場があったので、今も広々としていて見晴らしがいい。
●富山県人
県人会活動が盛んであるといわれる。多くは県単位ではなくて、例えば新湊の東京県人会、高岡の大阪県人会などというものがあって市町村長はそうした会合を回るのを一つの仕事にしている。
●『富山県人』
富山県人社発行の月刊誌。1926年(大正15年)4月創刊。1997年2月には1000号を発行した。県内の人には知られていない。富山を離れた人たちに直接送られているからで、故郷の情報が満載されている。
●富山検定
京都検定、金沢検定などに対抗して2006年に第1回が実施された。90%以上も受かる検定って何だろう。
●富山港線【とやまこうせん】
富山駅から北側の岩瀬浜駅まで行く8キロのJRの路線だった。途中、県内で唯一のギャンブル場である富山競輪場がある。富山と岩瀬浜を結ぶ富山港線(8キロ)に路面電車(トラム)を走らせ、富山駅へ進入する1.1キロは道路上に新たに軌道を新設して「ライトレール」となった。開業は2006年4月。距離は短いながらも、路面電車の新設は日本で58年ぶり。
富山港線の前身は富山地方鉄道富岩鉄道で富山口−岩瀬港間が開通したのは大正13(1924)年。同じ年に岩瀬に、全国でも数少ない7年制の旧制富山高校が開校した。後の富山大文理学部である。沿線にはこれも富山大の母体となった、富山薬学専門学校もあった。富山口駅の次が今はない薬専前で、蓮町駅は高等学校前と呼ばれていた。
富岩線を買収して国有化した路線で、富山駅で接続する北陸本線が交流電化であるのに対し、直流電化区間となっている。これは七尾線が直流電化されるまで、長らく北陸地方の国鉄・JR線では唯一のものであった。直流電化路線のため、専用車両として「旧型国電」の475系などのレトロな車両がよく使われて小豆色とクリーム色に復刻塗装されて人気があった。
大広田―東岩瀬駅の間は450メートルしかなく、JR路線で全国最短ということでも人気があった(万葉線の市役所前―新町口間が更に短い)。
富山港線をめぐって最大のサスペンスは宮脇俊三の『時刻表2万キロ』 (新潮社1978)である。神岡鉄道で失敗をしたために、大きく旅程が狂ってくる。そのため、タクシーに乗って盲腸線である富山港線の東岩瀬―岩瀬浜1.1キロをタクシーで行って、攻めようとしたのだが、タクシーが間に合わない。
地方のタクシーの運転手は、いつもながら感じがよい。そのかわり焦慮の客を乗せるにはいかにもおっとりしている。もうひとつてきぱき走らないように感じられる。もっとも、客の側も、「岩瀬浜の駅前まで」と言っただけで、8時31分発に間に合わせてくれと頼んではいない。
児戯に類した乗車目的は、なるべくひとに言わないですませたい。【…】それに、翌日この辺りで他殺体でも発見されたら、「そういえばきのう不審な客を乗せましたよ」と、私の人相風体を警察に届け出るかもしれない。【…】
道路は広く車は少ないが、一直線の路上に点々と信号がある。やたらに信号が多い。【…】しかも私の乗った車が近づくと不思議に赤になる。私は地図と時計の針をいらいらしながら見較べていたが、岩瀬浜の二キロ手前で八時二八分を過ぎたとき、ついに諦め、東岩瀬の駅前で降ろしてくれと告げた。
後に関川夏央が『記者旅放浪記』(新潮社)で宮脇の後をたどっている。
●富山高専【とやまこうせん】
富山工業高等専門学校。商船高専と紛らわしいので「富山工専」と書くこともある。また、富山港線と音が紛らわしいので港線が廃止された時は間違った人が多かった。ややこしいことに2009年10月に商船高専と統合して「富山高専」と略するようになった。タクシーに乗って「高専に行ってくれ」といって、射水ではなく本郷キャンパスに連れられていった人もいる。
●富山三尺
現在では生産が途絶えている富山県固有の品種。県農業試験場砺波園芸分場(後の県農業技術センター野菜花き試験場)で育成され、1952年に名称登録された。中国の青長系キュウリとされ、長さが3尺(約90センチ)にも育つことからこの名がある。砺波地方を中心に栽培されたが、コンパクトで収量の多い今のキュウリに押され、作られなくなったという。2006年に富山市日方江の農家で収穫されて復活した。
●富山市町村
富山市に町村(まちむら)という場所がある。そこを通るたびに「とやましちょうそん」と読んでしまう。富山市町村会館というのもちゃんとあって実に紛らわしい。そういえば、「町村代議士」というのもどこかにいた。
●富山市民大学
生涯教育の先駈けとして知られる。初代所長は伊藤了一先生だったが、宇奈月での生涯教育が認められて、富山市の改井市長に頼まれて、所長となった。数多くの講座で知られる。僕が担当した映画の講座も7年ほど続いたが、評判が悪くて?なくなった。後に方言でも講座を開くが、何でも屋だなぁとつくづく嫌になる。
●富山城
水越勝重(後の神保長職)が天文元年に築城した平城。その後神保氏が3代に渡って居城した。天正4年、越後春日山城主上杉謙信は富山城の神保氏を追い、家臣の小笠原長隆・上杉信定を置いた。天正7年、織田信長は越前小丸城主佐々成政を富山54万石封じた。 成政は、城を改修し城下町の整備を行った。 その後成政は、信長の死後の後継者争いで反秀吉の立場をとるが、柴田勝家滅亡後、秀吉の軍門に降った。 天正15年の豊臣秀吉の九州征伐後、成政は肥後熊本城へ転封になった。慶長5年の関ヶ原の戦功により金沢城主前田利長は、加賀・能登・越中の3ヶ国120万石を得た。 慶長10年に利長は隠居して富山城に移るが、慶長14年に主要部の建物をことごとく焼失したため、高岡城を築いて移った。寛永16年、3代前田利常は、次男利次に10万石を与えて分家させた。 利次は、廃城と化していた富山城を修復、寛文元年に入城して富山藩が成立した。以後富山前田氏13代の居城として明治に至った。富山空襲で焼けて戦後、違う形で復元された。
富山城の石垣に、陰陽道で魔よけの意味がある星形の刻印が三カ所見つかった。そのうち二つは藩主が住んでいた御殿のちょうど南西方向に当たり、市埋蔵文化財センターの古川知明専門学芸員は「鬼門の反対側の裏鬼門を守護する意図では。藩主が風水を重んじていた表れだろう」と推測している。
星印は陰陽道で「五芒星(ごぼうせい)」と呼ばれ、平安時代の陰陽師・安倍晴明の名を取り「晴明印」ともいわれる。
富山城の石垣ではこれまでに八十七種類二百五十七個の刻印が見つかっている。主に石垣工事の際、識別のために付けた目印とみられる。
星形の刻印があるのは、城址南側の大手枡形石垣。市埋蔵文化財センターによると、最初は数年前、城への入り口部分で発見された。二つ目は昨年十月、同じ大手枡形石垣の堀に面した南西角で確認。さらに今年二月、堀の工事のため水を抜いたところ、同じ角の水面に隠れていた部分で三つ目が見つかった。
富山城の絵図で確認すると、二つの星は藩主御殿の中心からみてほぼ正確に南西方向に当たる。陰陽道の地相学(風水)で、南西は裏鬼門と呼ばれ、北東の鬼門同様、不吉とされる。古川学芸員は「南西方向で二つ見つかったことで、裏鬼門を守っていたという根拠が強まった」と話す。
星形は他の刻印に比べ際だって大きい。大型の刻印は、初代富山藩主・前田利次時代の特徴。同センターは富山城の石垣を築造した二代加賀藩主・前田利長でなく、次の城主である利次が彫らせたとみている。
最初に見つかった刻印は、鬼門・裏鬼門の方角に守るべき建物跡がないため、後に改修された際、別の個所から運ばれた可能性があるという。
2006年6月6日北日本新聞●「富山浄瑠璃、金沢謡、間の高岡なき荷方」
伝統芸能を「富山浄瑠璃(じょうるり)、金沢謡(うたい)、間(あい)の高岡なき荷方(にかた)」ということがある。「なき荷方」というのは小矢部川を利用した木材搬送唄で、由来には泣きながら荷方を唄ったためという伝承もある。
●富山商船
富山高専に対して商船高専を「富山商船」と新聞では略記する。船会社みたいで好きではなかったので、2006年に新聞社には「商船高専」という略語を使うように申し出る。
せっかくきれいな越の潟をなくして作った港。新産業都市計画の失敗を露呈している。ロシア人が多く、最近は自転車をよく盗まれる。盗難車がロシアに密輸されることも多いようだ。
県営フェリーで昔、陸続きになっていたところを行き来している。
富山港と富山新港と伏木港で「伏木・富山港」という名称になっている。
『疑惑』という松本清張原作、桃井かおり、岩下志麻が主演した映画(野村芳太郎監督 1982年)がある。原作とは内容や結論が異なる。原作では富山港が舞台だ。映画では新湊市の富山新港の埠頭が現場となっていて、富山商船高専の練習船・旧若潮丸も見える。この埠頭はその後、自殺の名所となったので、柵で周り中、囲んでしまった。死なないでね。
近辺に住むものは県警のヘリが飛ぶと死体が上がったんだなぁと思う。
●富山新聞
富山の地方紙の一つ。金沢の北國新聞の系列なので、コラムなどが共通している。
●とやま泉寿
富山市が2003年に品種登録した自然薯(じねんじょ)で他の自然薯に比べて白く、粘り強くて味も良い。長さ約1・1メートルの「とやま泉寿」が、重さ100グラムに切り分けられて1本の種芋になる。これを消毒液に漬けて干し、乾いた後に切断面に殺菌剤を塗布して再度、干す。この後、箱に砂と種芋をサンドイッチ状にし、10日間保存してから出荷する。受け取った生産者は4月上旬に定植。11月下旬から12月上旬にかけて収穫、出荷される。
●富山大空襲
字面を見る度に富山大学が空襲を受けたのかと思うが、富山の大空襲である。
1945年8月2日午前零時半、先導のB29爆撃機が富山上空に到達。爆撃中心点は富山城東南の角。零時36分爆撃開始、2時27分終了。174機が爆撃。投下焼夷弾は12740発、1465トン。市街地の破壊率99.5パーセントという。市内の大半が焼け野原となる中、富山電気ビルディング、大和富山店が焼け残り、県庁の一部が損傷した。
焼夷弾の雨を降らせ、市街地を猛火で包み、逃げまどう市民を焼き殺した“地獄絵図”にも、米軍の作戦任務報告書は米軍側だけ「人的損害ゼロ」となっていて二千七百人を超える死者については一切記述がないという。8月1日になったのは米陸軍航空軍の創設記念日と指揮官、ルメイ少将の昇進を祝った「祝賀大爆撃」だったからだ。サイパンなどの基地に、異例の全機出撃が命令され、八王子、長岡、水戸とそして富山市が狙われた。攻撃側には「祝賀」でも、無差別夜間爆撃にさらされた都市では地獄絵図が繰り広げられた。富山市は市街地の99・5パーセントを焼失し、三千人近い死者を出した。アメリカ陸軍航空軍史では「想像を絶する数字になった」と成果を誇る。
少将は東京大空襲など日本への焦土爆撃を指揮した。回想記で「民間人を殺していたのではない。日本の軍需工業を破壊していたのだ。都市の家屋はすべて軍需工業だった」と言い訳する。ルメイに「航空自衛隊の育成に協力した」という理由で、日本政府は昭和三十九年に勲一等旭日大綬章(だいじゅしょう)を贈っている。
高井進『「米軍機密資料」にみる富山空襲』、奥田史郎・中山伊佐男『八月二日、天まで焼けた』、中山伊佐男『ルメイ・最後の空襲−米軍資料に見る富山大空襲』などがある。吉田守男『日本の古都はなぜ空襲を免れたか』は、戦後一貫して「常識」とされてきたような米軍の作戦はなかったと言う。そして、京都が広島・長崎とともに原爆投下の候補地の一つだったことを米側史料から導き出している。
久世光彦の『家の匂い 町の音』「還暦をひとりあれこれ思案して」「生まれてはじめて住んだ家」に富山大空襲が出てくるし、『むかし卓袱台があったころ』にも出てくる。後者では「一つの市が丸ごと燃えている炎を映して、銀色の飛行機たちは、キラキラ輝いて美しかった」と書いているように、人間は、生死の境目を逃げ回る時でも美しいものを感じて立ち止まる存在らしい。
米国のケネディ、ジョンソン両政権で国防長官を務めたロバート・マクナマラを主役にしたドキュメンタリー映画“The Fog of War”が、第76回アカデミー賞のドキュメンタリー賞部門でノミネートされた。95年に出版した回顧録で「ベスト&ブライテスト」と言われたエリート集団がなぜベトナム戦争を間違った方向に導いたかを当事者として暴露し、大きな話題を呼んだ。68年から13年間、世界銀行総裁も務めた。マクナマラは東京大空襲のインタビューに答えて「1945年3月の空爆の日、私はグアムにいた。私はこの作戦の一員で、いかに効果的かつ低コストで空爆が実行できるかを調べる米軍の分析官だった。空爆の主役は、43年末に導入されたB29爆撃機。ルーズベルト大統領は、新型兵器(B29)を最初インドと中国に配備した。これは遠すぎて失敗だった。結局、グアム、サイパンなど太平洋の島々が出撃拠点となった。我々は東京や名古屋、富山といった日本の主要都市に67回の空爆を加えた。日本はこの時点でほとんど壊滅状態となった」 …などと答えた。
マクナマラは1997年、ハノイで開かれたベトナム戦争の当事者同士の対話で「ベトナムの指導者は同胞の死傷者がどれほど増えても平気だから降伏せず、戦争を続けたのではないか」と発言した。つまり、アメリカのいうことさえ聞いていれば、3百万人ものベトナム人は死ななくてすんだのではないか、という議論なのだが、太平洋戦争時の非戦闘員に対する無差別攻撃の論理と変わらない。
●富山の薬
「富山」というと「薬」とされる。もちろん、売薬さんから有名になったものであるが、薬の看板が各地に残っていることもある。「医薬品れとろ看板」参照。
●富山藩
富山県の藩が富山藩と加賀藩だけというのは全国的に見て例外的に少ない。宮城は仙台藩だけだったが…。
加賀百万石の分藩で支店みたいなものだったから貧しかった。いつも搾取されていたようだ。1639年(寛永16)加賀藩3代前田利常(としつね)が幕府に願い出て、長男・光高(みつたか)に加賀藩80万石を継がせ、次男・利次(としつぐ)に富山藩10万石、三男・利治(としはる)に大聖寺(だいしょうじ)藩7万石を分与し、自身は小松に隠居、養老領として22万石を領有した。
1825年(文政8)、江戸の大家によって江戸屋敷が焼失。1831年(天保2)、富山城下が大火に遭い、藩の借財が増え、累計30万両になった。藩の実質収入の十年分に達していた(『富山県史』)。改革に着手したのが十代藩主、前田利保である。まず人事を刷新し、西本願寺の財政を再建した用人を招いた。家臣報酬をカットし、人件費を抑えた。借金の棒引きなど徳政令を実施し、商人の活動を抑制する。疲弊した農村を立て直して、税収(年貢)安定を図ろうとした。新しい特産品開発のために役所をつくり、陶器や塗り物、薬草栽培を勧めてもいる。窯元に無利息で助成し、他国産品の使用を禁止し育成に努めた。だが、約5年の改革で成果は出せなかった。利保は意欲を失ったようだ。財政窮迫に追い打ちをかけたのが、隠居所として建てた千歳御殿だ。6年で焼失、残った表門は後に払い下げられた。
不作で浮浪者が集まり、不穏な状態になり、万策つきた藩は西本願寺に対して、家司・石田小右衛門の派遣を要請した。小右衛門は阿波の藍玉(染料)売りから大阪の商人に転身して本願寺の財政建て直しに成功し、用人格(家老代理)になった男である。小右衛門は藩内を回り、藩主拝領の肩衣、時服、上下という物々しい服装で熱弁をふるった。精神論だったようだが、宗教的な雰囲気も相俟って金銀米穀を献上するものが続出したといわれる。天保5年だけで3500余石の献上米があった。財政難は続き、改革派の12代藩主・利声(としかた)と保守派の父・10代藩主・利保(としやす)が対立して、江戸詰め家老・富田兵部が帰国を命ぜられ、帰途の駕籠の中で割腹自殺をした。
戊辰戦争では加賀藩に追随して、長岡城攻めに、新政府軍として出兵した。
新湊市博物館の調査で、加賀、富山両藩の土地を1カ所にまとめるために行われた「領地替え」の様子を示す「加賀藩、富山藩領地替え境界絵図」の大部分が見つかったことがある。1639(寛永16)年、越中を支配していた利常は家督を長男に譲るとともに、他の子供たちには数カ所に分散した富山藩と大聖寺藩を分け与えた。しかし、統治の利便性から利常没後の1660年(万治3)年には各藩の土地を1カ所にまとめるために領地替えが行われた。絵図はその際、新川郡の神通川以東と常願寺川の間で新たにできた富山藩と加賀藩の境界線が赤い線で示され、同意した両藩代表の署名も記されている。
売薬業者の納める役金は藩庫を潤したが、藩財政は慢性的赤字で、その対策をめぐって家臣間の対立が強かったという。最後の藩主13代利同(としあつ)は宗家金沢から迎えられたが、藩政の終息した1871年(明治4)にはまだ16歳であった。
●富山ブラック〜富山ブラック系〜富山系ブラック
ラーメンの一つ。大喜(たいき)のラーメンが有名で昭和22年(1947年)に店主の高橋青幹(せいかん)が始めたといわれる。塩辛いのは労働に合ったからとも、当時の労働者たちがご飯を持ち込んでいておかず代わりに食べられたためともいわれる。醤油だれが黒さを引き出しているのだが、メンマも含めて全体にしょっぱい。店によっては天カスを入れることでまろやかさを出すように工夫しているところもある。ただし、好みによって評価は大きく分かれる。
麺家いろはも人気のブラック系のお店で東京にも進出している。
2003年にはコンビニでもブラック系ラーメンが売られるようになった。
富山のラーメン消費は全国で高い。美味しいのが知られていないが、水がいいから麺もスープもおいしいからである。
●富山ブラックどら焼き
新湊の野村屋が作っているおいしいどら焼き。同じ新湊の中六醸造元の甘口醤油と北海道産の大納言を使った醤油バターの風味。
●富山文庫
富山文庫は洗足短大の八木光昭教授が1984年から地道に収集してきたもので、直木賞作家の源氏鶏太、芥川賞作家の堀田善衛、宮本輝をはじめ、三島 霜川、小寺菊子、横山源之助、岩倉政治ら県ゆかりの文学関係者の資料をそろえている。 単行本だけでも6千冊に及び、地誌、歴史、文化、民俗関係の文献など7千点余りを収蔵している。現在、富山県立図書館に所蔵されている。
●富山弁
「富山方言」。
2008年6月26日の北日本新聞には「職務での第一声は『標準語』」という驚きの記事が載った。県警はこの年から、相手に標準語で接するなど職務上の対応を学ぶ研修を各署で実施しているという。「見せられま」「だめやちゃ」など、富山弁がきつく聞こえるとの指摘、苦情を受けたためという。県警は「富山弁を禁止するのではなく、警察官としてふさわしい言葉遣いを指導するのが狙い」としている。職務質問された少年の親から「首都圏から県内に移り住んだばかりだが、富山弁は語尾が荒く、子どもがショックを受けた」との苦情が寄せられたこともあったというが、職務質問されるような状況にいる方がおかしい。研修は「犯人扱いしているのか」などと言われた場合を想定し、相手に納得してもらえる対応を学んでいる。「こっち来られま」「何しとんが」といった富山弁は「語尾が命令口調に聞こえ、高圧的との誤解を招きやすい」ので第一声は標準語と指導しているという。
富山の薬膳料理。富山市が主導し、有識者などで構成している「富山やくぜん普及推進会議」は「富山やくぜん」を商標登録申請し、ロゴマークを製作することを決めた。これまで、曖昧だった薬膳の定義を県内食材の使用や、厚労省が定める「食薬」のうち最低1種類の使用など、六つの基準から定め、「富山やくぜん」として認定している。
●「とやま夢・航海」
NHK富山局で2001年から2005年まで4年間、奇跡的に続いた地方番組。基本的には5時のニュースの後から6時まで放送された。アナウンサーは斎藤孝信、キャスターに安田真理という布陣で始まった。当時も今も無名の金川欣二富山商船高専教授も毎週のように出ていた。受信料不払いなどによる予算の見直しがあり、5時台の地方番組を廃止することになって終了した。
●富山湾
「天然の生け簀(いけす)」とよばれる。ブリ、ベニズワイガニ、シロエビ、ホタルイカ、バイ貝などの魚の宝庫。
安西水丸の『たびたびの旅』(フレーベル館)に「フクラギを食べに行く(富山・氷見)というエッセイがある。
富山というのはふしぎな地形をしている。日本智頭をひっくり返すと東京になる。富山湾は東京湾だ。
吉田泉によればパリに「富山湾」という寿司屋があるという。
…パリの街角に「富山湾」という看板の寿司レストランを発見したことだ。この時ばかりは猛然と突進し名前の由来を質問した。だが経営者である中国人はこちらを警戒ばかりして、なぜそんなネーミングになったのかは、ついに分からずじまいとなった。富山湾の魚が「きときと」であることが世界中に知られた結果であると、素直に思うしかない。---北日本新聞2008年4月7日夕刊
●富山湾鮨(とやまわんずし)
「天然の生け簀」とされる富山湾の地物のネタで作られた寿司。2011年11月からキャンペーンが始まった。昆布しめのヒラメやバイ貝(生で食べるのは富山と石川だけとされる)や春になればホタルイカなどを使う。
●渡来人
縄文時代から中世にまたがる複合遺跡上久津呂中屋(かみくづろなかや)遺跡(氷見市南西部)から、古墳時代後期(6−7世紀ごろ)の角杯形須恵器(かくはいがたすえき)が出土した。出土した角杯は一部欠けており、全体の大きさは高さ約18センチ、口径約8センチと推定される。地元の土を使っている。角杯は儀式に使われた酒器で、牛などの角に形が似ている。須恵器は、窯を用いて、高温で焼かれているのが特徴だ。朝鮮半島の新羅地方で数多く出土している牛やサイなどの角をかたどった飲料用の杯で、渡来人との関係を示したものと考えられる。
角杯は中国大陸が起源で狩猟・遊牧民が盟約を結ぶ儀式などに用いたとされる。日本には5世紀後半に朝鮮半島から渡来人によってもたらされた。須恵器の角杯はこれまで佐賀や京都、福井、石川などで十数例が見つかっており、この出土で富山が最北端となる。
渡来系集団との関係を示す県内の遺跡としては1999年に立山町利田横枕遺(りたよこまくら)跡で中国大陸や朝鮮半島の流れをくむ台付きのコップ形土器や米などを蒸すための甑(こしき)が見つかっている。立山町教委は当初、角杯形土師器(はじき)も見つかったと発表したが、調査報告書では製塩土器に修正している。
●寅さん
『男はつらいよ』の車寅次郎のこと。
深い縁があると思うのに、寅さんは富山に来なかった。高知と埼玉、富山だけが来ていないのだが、高知は49作目で行くことが決定していた。深い縁というのは寅さんが越中褌を履いていること、そして、啖呵売(たんかばい)のルーツは富山にあると思うからである。
水上勉原作・篠田正浩監督の『はなれ瞽女おりん』には路上で薬屋が漢方薬を売るシーンが出てくる。香具師と薬屋のルーツが同じであることを匂わせる。
北日本新聞社編『先用後利』(北日本新聞社)ではいろいろな大道芸を大衆の前で演じ、香具師が反魂丹を売ったことは間違いないようだとし、山口博富山大学教授(当時)の「明治初期に突如、正甫公に関する文書が現れたのは、なにか権威づけが必要だったのでは。売薬の祖先が香具師であることを知っていたからこそ、正甫公を奉り上げたのではないか」という言葉を引用している。
香具師をどうして「テキヤ」というかというのは諸説あるが、仏教の教えを分かりやすい言葉で説きながら香や仏具を売り歩いた武士「香具師(こうぐし)」が「野士(のし)」と呼ばれるようになり、やがて祭礼や縁日で者を売る商人全体を指すようになる。これが明治以降「ヤー的」に、更に上下を逆にして「テキヤ」になったという説が強い(他に「目の前の通行人はすべて敵と思って商売せよ」という意味からテキヤになったという説もある)。いずれにしろ、富山の売薬のルーツが立山信仰を広めたお「御師」(おし)だったのだから、香具師に似た商売だった。
●ドラマ
富山を舞台にしたドラマで分かるものは以下の通り。実際には大牧温泉や宇奈月温泉などを使った殺人事件のドラマなどもっと多くある。もちろん、通過していくこともあるだろうし、故郷ということで出て来ることもあろうが。
●どら焼き
ドラえもんの大好きなドラ焼きではなく、イカの丸焼きのこと。内臓を取って焼いたのは「鉄砲焼き」といって小さい頃、お魚屋さんが焼いて売っていた。猟師がドラム缶に放り込んで焼いたから「どら焼き」という。
●ドリアス
富山県中央植物園の愛称。ドリアスというのは果物のドリアンでもイタリア料理のドーリアでもなく、チョウノスケソウのことで須川長之助(岩手県人)が県内で初めて発見した高山植物だったから名前が取られた。正しくはDryasとしなければならないのにこれでは誰も読んでくれないと思ったらしく、英語名はパンフレットなどにあまり書いてないようだ。
チョウノスケソウはロシアの植物学者、マキシモビッチ(Karl Ivanovich Maksimovich/1827-1891 「東亜植物の父」と呼ばれ、アムール川地方や沿海州などの植物を調査した。1860年頃の数年間、日本にも滞在し、日本産植物を採集、命名した。 雇人で当時20歳の須川長之助に採集整理の技術を教えた。1864年に帰国)のお供で日本各地の高山を歩いた須川が明治の中ごろに立山・一ノ越付近で採取した。北極周辺で生育していることは知られていたが、日本列島では初めての発見だった。これがきっかけで、氷河期に北極周辺の植物が南下し、分布を広げたという学説が打ち立てられた。気候が温暖になって、高山に追いやられたと考えられている。
高山植物といえば、立山弥陀ヶ原のガキ田「餓鬼の田んぼ」にはモウセンゴケなど食虫植物が生えている。ある人が採ってはいけない「蚊取り線香代わりにする」といって家に持ち帰った。しばらくして訪ねてみると、蚊がやたら増えているので驚いたら、モウセンゴケを枯らさないために蚊を飼い始めたのだという。
●取り権
「取り権が強い」というと「自分の物は自分の物、他人の物も自分の物」、つまり自分の権利ばかりを主張する人のことをいう。こういう人に返礼をしなかったら、大きな騒動になる。
●…とる
「…ている」。「…いる」を「…おる」というので「…ておる」から「…とる」になった。疑問形は「…とるが」から「…とんが」となる。「…しているよ」は「…とっちゃ」になる。例:「こんどデートせんまいけ、あんたの返事、待っとっちゃ」(今度デートしましょう。あなたの返事を待っているよ)・「先に食べとっちゃ」(先に食べているよ)・「なーん、泣いとっがいね」(何を泣いているのですか)・「雨、降っとっから、傘取んに来たちゃ」(雨が降っているので傘を取りに来たよ)。
●とろい
動作が「のろい」。「たるこい」ということもある。
●トロッコ
黒部峡谷のトロッコ電車と立山砂防の工事専用軌道のトロッコがある。「トロッコ」というのは「トラック」“truck”と同じだが、別の意味になってしまった(二重語“doublet”という)。元々は貨物自動車も含め、広く土木工事用の運搬車だったが、日本だけ狭い軌道の鉄道の意味で使ってきた。そのトロッコは四百年ほど前、ドイツの鉱山で運搬車を木製のレールで動かしたのが原型だという。
この黒部のトロッコ電車と立山アルペンルートとごっちゃにする人が多い。こちらから立山には行けない(時期的に黒四までの路線を開放することがある)。日本一深いV字谷を宇奈月から欅平まで約20キロを走る。
路線の中の最高峰のサンナビキ山(1949メートル)では、11月中旬の初冠雪が紅葉と重なり、赤、黄、緑に加え、川の水色、雪の白と「五段染め」と呼ばれる。
宇奈月温泉から乗る、秋のトロッコは最高だ。帰りも同じ軌道を帰ってくる、つまらなさを忘れれば…。
2000年6月には富山で「トロッコサミット」が開かれた。
●とろろこぶ
「とろろ昆布」。昆布王国だった富山ではとろろ昆布のおにぎりがある。北陸三県はどうか調査中だが、大阪でも見かけるという。
錦織健もコンサートの「椰子の実」のマクラで、「みなさんは富山から出てきて東京で住んでいて、コンビニに入ってとろろ昆布のおにぎりが食べたい!と思ってもなかったりする時に、望郷の念というのが出てくるでしょ」などと話していた。
●ドン
「時の記念日」の6月10日、富山市有沢の神通川左岸河川敷で、正午を知らせる「ドン」が打ち上げられる。「ドン」は、江戸時代に富山城で時刻を知らせる「時鐘」が鳴らされたという故事に基づく。富山市では明治34年から昭和14年まで毎日正午に打ち上げられていた「ドン花火」に由来する。戦時中にいったん中止されたが、昭和31年に市民の要望で復活。「時の記念日」の正午に限って打ち上げることになった。県が公募を基に後世に残したい音50件を認定する「とやまの音風景」に選ばれた。「時の記念日」は、大正9年に制定。天智十(671)年4月25日、初めて「漏刻(ろうこく)」という水時計が使われ、時を知らせたという故事にちなみ、この日を太陽暦に直した6月10日に定められた。
●ドン
総曲輪にあった婦人服小売のお店。2009年に自己破産。1946年創業、70年に法人化した。
●…とんが?
富山県にはトンガ王国の人が多い。「…ているの?」でやや揶揄気味に使うこともある。例:「あの人、なん言うとんがか全然聞こえん」(あの人なんて言っているのか全然聞こえないよ)・「お前、なーん言うとんが」(お前、一体どういうつもりで言っているのだ)。
●尖山【とんがりやま〜とがりやま】
日本最古のピラミッドと呼ばれる山。共同通信の富山支局にいた布施泰和という人がピラミッド説を唱えだしたようだ。立山駅に向かって車を走らせていると、周囲の山々とは形の違う、妙に尖がった山を見ることができる。「日が暮れてから山に入ると位山の天狗にさらわれる…」「尖山に入った男が急にまぶしい光に包まれ気がつくと位山にいた」などの言い伝えがある。
●どんぐり団
永六輔が団長を務める植林のグループ。夏になると富山県、岐阜県の山林に能登の漁師が広葉樹を植える運動をしている。広葉樹を山に植えることによって、自然を守り、海の幸を守るために行っている。永六輔の『学校ごっこ』(日本放送出版協会)で知ったが、富山の人にはあまり知られていない。
●とんだらく
(大喜びで)「飛んで歩く」。例:「病気、治ったら、どこ飛んだらいとるもんやら」(病気が治ったものだから、どこを走り回っているものやら)。
●どんど焼き
小正月の祭事で「左義長」(「さぎっちょ」という)だが、昔はなかったという。高く組んだ竹や木に、松飾りなどを結わえて焼く。この火で焼いた餅や団子を食べると病気にならないとか、煙をかざすと頭がよくなるとか、体を撫でると健康になると言われた。燃え方で豊凶を占うこともある。
火に神秘を見た往古の名残か、その炎を「若火」とあがめる地方もある。僕にとっては「薄いお好み焼き」が「どんどん焼き」なので親しい。「さえのかみ」という地方もあるそうだ。
「どんど」とは「どんどん」焼くからだと思っていたが、「尊いもの」という意味があるとも言われ、松飾りやお札は神様が宿っているので「尊いもの」という。それを焼くのでどんど焼き。また「どんど・どんど」とはやすことからどんど焼きと言うようになったという説もある。もともと小正月、つまり1月14日、15日に行われていた行事の一つで、陰暦の15日望月の日で、満月の日を月が改まる日とする農作業にとってはこちらの方が正月だった。
●どんどん焼き
「お好み焼き」。真田信治・友定賢治『地方別方言語源辞典』(東京堂出版)には東京方言とある。富山ではどんどん焼きとお好み焼きを分ける。どんどん焼きというと、薄く伸ばした生地に刻み昆布やネギや紅生薑などを載せて焼くものである。
●とんぼ
「先っぽ」。例:「棹のとんぼに何か止まっとるぜ」(棹の先に何かが止まっているよ)「とんぼやちゃ」。
●トンボの楽園
氷見市宮田の乱橋池(みだれはしいけ)は静岡県磐田市の桶ケ谷沼(66種)、福井県敦賀市の中池見湿地(60種余り)と並んで、全国トップクラスとされている。確認されたトンボの種類の多さでは、高知県中村市のトンボ自然公園が74種で全国一という。
国内で確認されているトンボは約200種類。1県当たり約100種が分布している。富山は種類の数は少ない方だが、中国大陸から飛んできた「飛来種」が目立つという。富山市科学センターの『富山県のとんぼ』には86種類が出ている。
●どんま
「肩車」。県内でも色々な形がある。
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