金川 欣二:マックde記号論(言語学のお散歩)


 

笑説 越中語大辞典



●定時制 

 「定時制高校」。これに対する言葉は「全日制」。県立高校定時制11校のうち5校(新湊、滑川、魚津、桜井、雄峰・南砺分校)が2003年度限りで役割を終えた。新湊高校定時制は1950(昭和25)年から半世紀余の歴史に幕を下ろした。背景には、大学のように履修科目を選べる単位制や、日中に授業をする昼間部をとり入れる学校が増えたことがある。

●てぃっしゅ

 ティッシュではない。ドイツ語を習い始めた時にTische(英語のdishに相当)の外来語だと思った。本当だったら面白いのだが、「手塩皿」が縮まったもの。昔の食事は一人分の食事がお膳で出された。その中に塩を盛った小さな皿があって、この塩でめいめい味加減をして食べたのだが、これを「手塩」といった。方言ではなく、「おてしょ」ということもあった。

●停車場【ていしゃば】

 石川啄木の短歌「ふるさとの訛りなつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」というのがあるように、方言ではないが、富山では使う年寄りがいる。

●でかいと〜でっかいと

 若い人は使わないが「たくさん、仰山」。例:「か、何ちゅうでかいと人、来とるがいね」(これは、これは、何という多くの人が来ていることだろうか)。

 方言で変化がでかいとあるものを『日本方言大辞典』で探すと、1)たくさん、2)けちんぼ、3)彼岸花、4)馬鹿、5)蟻地獄、6)目高、7)怠け者、8)あなた、9)お手玉、10)うそ。

●手がやし

 「手返し」。餅をかつ(つく)時に「手がやし」する。

●てきない

 病気や精神的に疲れた様子やお腹がすいて動けない状態で「だやい」「うい」よりも苦しい程度を表す。北陸で共通に使うが京都から山形あたりまで使う方言。石川では「ちきない」とも言う。福井では「病気にかかっている」という意味にも使われ、「まあ、てきのならんようにしなせいのう」(病気にならないようになさいね)と言う。江戸時代の方言辞書の『物類称呼』に「労して苦しむことをせつないといひじゅつないといふを加賀にててきないと云」と説明してある。例:「なーん、ずーっと歩いとったら、てきなーなってしもて寝とるがいちゃ」(そうなんですよ、ずっと歩いていたから疲れて寝ているのですよ)・「周り中、敵だらけでてきなーなってくっちゃ」(周り中、敵ばかりで疲れる)。

 篠崎晃一+毎日新聞社『出身地がわかる!気づかない方言』(毎日新聞社)によれば、疲れた時、北海道・東北の人は「こわい」、中部・近畿・中国四国の人は「えらい」、九州の人は「きつい」という。

●でこべ/でべこ

 「おでこ」のことで「でべこ」ともいう。例:「あら、なんちゅー でこべの大きいがいね」。

●…ですけ?

 「…ですか?」で僕は何も思わなかったのだが、同僚の九州女性が「丁寧語に方言をつけておかしい」と大笑いしていた。実際、「うちの子、どうですけぇ?」とよく質問される。

●でっきる

 「(学業が)出来る」。例:「あんたとこのおっじゃ、ようでっきはっちゅがいろ」(あなたの家の次男は良く出来るそうですね)。

●てっくり

 「ひっくり」。例:「バケツ、てっくりかえってしもたねけ」(バケツがひっくり返ってしまった)。

●てっころがる

 「転がる」。例:「てきなぁなっててっ転がっとったちゃ」(疲れて横になっていたよ)。

●…てっしゃる

 「…ている」。例:「釣さん、来てっしゃっけ」(釣さん、来ていますか)。

●…てはる

 「…ておいでである」。例:「桶さん、来てはるけ〜来てっはっけ」(桶さん、来ておいでですか)。

●…でないがけ?

 「…じゃないですか」と質問は否定形にするのが富山方言の特徴でないがけ?

 少し断定が入ると「でないがか」となる。

●てないしょく

 「手内職」。別に「足内職」はないと思うけど。母はいつも手内職をしてないと納まらなかった。

●デパート 

 富山には百貨店が富山大和(だいわ)、富山西武、高岡大和の3店しかなく、人口比で全国一少ないとされたが、2006年に西武が撤退した。

●手まり歌

 たくさんあったと思うが、僕が知っているのは次のものだけ。訳が分からなかった。「十」はの所、東京では「東京招魂社」、富山市へ来ると「富山の招魂社」になっているのはご愛敬。

一番はじめは一の宮/二また日光東照宮/三また佐倉の宗五郎/四また信濃の善光寺/五つは出雲のおおやしろ/六つ村々鎮守様/七つ成田の不動様/八つ八幡の八幡宮/九つ高野の弘法様/十で富山の招魂社

これほど信心かたけれど 浪子の病気はなおらない/武男が戦(いくさ)に行く時は 白い白い真っ白いハンカチ振り振りねえあなた 早く帰ってちょうだいな/ゴーゴーゴーゴー鳴る汽車は 武男と浪子の別れ汽車/二度と逢(あ)えない汽車の窓 泣いて血を吐くほととぎす…

 浪子と武男の名前が徳富蘆花の『不如帰(ほととぎす)』によっている。

●…てや

 「…ているの?」。例:「今なんしとってや?」(今何をしておいでますか?)。

●…てよ

 「…てね」。例:「さぶてよぉ」(とても寒くてねぇ)。

●てるてる亭

 北陸銀行が中心市街地の活性化を目的に作った富山市中央通りの「セプラビル」内に寄席専門ホールほくほくスペースてるてる亭」。富山市の中央通りで2007年秋に閉館した映画館を改装して2008年、オープン。立川志の輔や弟子らが年十数回、定期的に公演し、にぎわいづくりと若手の育成につなげる。てるてる亭の名前の由来は自らの本名「(竹内)照雄」からとった。

●デ・レーケ〜デ・レイケ

 常願寺川を見て「これは川ではない滝だ」とオランダ人土木技師のヨハネス・デ・レーケ(Johannis de Rijke1842-1913)が感想を述べたという伝説がある。

 上林好之『日本の川を甦らせた技師デ・レイケ』(草思社1999)には誤解だったと書いてある。一般に連続した小さな滝や大きな滝がある河川は洪水の破壊力が衰えて災害が発生しにくくなる。デ・レーケが明治24年7月の大水害の後、常願寺川源流部を調査したとき、支流のひとつに称名滝を見つけ、同行者に“I found a fall.”と語ったのが一人歩きしたようだ。

レーケ

 デ・レーケは1873年(明治6年)、内務省に雇われて来日し、淀川、木曽川など各地の治水工事を指導した。91年(明治24年)に初来県したが、この年の常願寺川の大水害で、県知事が派遣を要請したのだった。 デ・レーケは、上流の立山カルデラまで、常願寺川流域を現地調査し、神通川などの主要河川も踏査した。同行した県の土木技師高田雪太郎(1859-1903)が日記に残している。高田は、黒部川の愛本橋や、神通川の笹津橋など、県内の近代土木に足跡を残す技術者だ。『デ・レーケさんとの冒険-木曾三川明治の大工事-』 (国土交通省中部関東地方建設局河川情報センター)というアニメもある(木曽三川公園・水と緑の館で見られる)。

 明治期、県内では、三つの河川で大規模な改修工事が行われた。 デ・レーケの立案で、常願寺川では、91年から2年をかけ、堤防の建設や、水害の原因となっていた複数の用水取入口を一本化する工事、河口部で合流していた白岩川を分離する工事が行われた。デ・レーケは期間中、何度も現地へ足を運んだ。 神通川で行ったのは、97年からの拡幅工事と、1901年に始まった馳越(はせこし)線工事。デ・レーケが水路開削を提案したとされる。さらに、1900年から、庄川の河口付近で小矢部川と庄川との分離工事が行われた。

 デ・レーケ来県の8年前、同じオランダ人技師ローウェンホルスト・ムルデル(Anthonie Thomas Lubertus Rouwenhorst Mulder1848-1901)が、常願寺川や神通川など、県内の主要五河川の現地調査を行い、治水の方法などを指摘していた。その報告書をデ・レーケが見たかどうかは定かではないが、山林保護や砂防の必要性を指摘している点で、二人の考え方は共通していた。ムルデルはライデン生まれで1879年に来日して利根川・江戸川の改修改良、見沼代用水の改良、利根運河など、各地の調査・計画・工事に携わった。

 91年の再来県の時、デ・レーケと一緒に13歳の娘ヤコバも来ていた。ヤコバは立山山頂まで登ったのだ。女人禁制の時代に問題視されなかったのである。

 デ・レーケと一緒に働いていたオランダ人にエッシャー(George Arnold Escher)というのがいて、上林好之の本にも出てくるのだが、だまし絵のM・C・エッシャーの父親で「エッセル」としても知られる。福井県九頭竜川河口の三国港には「エッセル提」と呼ばれる堤防がある。三国町にはエッセルが設計した龍翔(りゅうしょう)小学校(1879年開校、1914年取り壊し)の外観を生かして1981年に歴史資料館「みくに龍翔館」が建築されている。

 辻仁成の『白仏』にも福岡県大川市大野島にあるデレーケ提が出てきた。

M・C・エッシャー「これは川ではない滝だ」(と言ったかどうか知らない)

●テレビ局

 テレビ局が4局しかないのが、富山のコンプレックス。日テレ系の北日本放送、フジテレビ系のBBT(富山放送)、TBS系のチューリップテレビとNHKである。ただ、ケーブルテレビを通して北陸朝日を見ることができる家庭も多い。

●天下の三作

 桃山時代には富山の刀工・郷義弘は粟田口吉光(あわたぐちよしみつ)、正宗と共に「天下の三作」と呼ばれた。

●てんかふ(ん)

 「添加粉」で「ベビーパウダー」をいう。

●電関

 県内でも知らない人が多いと思うけれど、かつて射水線には「でんかん」が走っていた。鉄路を歩いていたりすると。とにかくこれに捕まったら怖いと言われていた。

 蒸気機関車を省略すると「汽車」だが、電気機関車を省略すると「電車」にならずに「電関」となった。

●電氣ビル

 1936年、日本海電気(北陸電力の前身)の主導のもと、当時開発が徐々に進んでいた神通川の旧河川跡に建設された5階建てビル。1988年にはキーテナントだった北陸電力本社が移転し、更に2002年には本社機能さえなくなってしまった。

●電気屋

 上州戦争がそのまま富山でも戦われ、ヤマダ電機とコジマが戦っている。これに100満ボルトが加わっている。昔は三共といったチェーンを引き継いだジョーシンも頑張っている。

●天気予報

 県内の天気予報が「東部」と「西部」に分けて発表されるようになったのは、1985年からである。もっと地域区分を細かくという要望に、注意報・警報は2002年から「東部北」「東部南」「西部北」「西部婦負」「西部南」の5地域に細分された。2006年3月からは、それまで「西部」だった旧婦負郡は「東部」に編入された。市町村合併で富山市になったことを受け、行政区画に合わせた措置だという。「東部南」は旧婦負郡を除く富山市全域のことだが、岩瀬や水橋の住民は自分たちのところだと思うだろうか。県東部の南の方、つまり旧大沢野、大山地区などとも読めてしまう。

●でんぐりかえり〜がえし〜でんぐるまい

 「トンボ返り」。

●天正の大地震

 山本和代子さんのエッセイによれば次の通りである。

 天正十三(一五八五)年十一月、未曾有の大地震が越中を襲った。前田利長公の越中入部から四カ月後のことであった。マグニチュード8とも推定されているこの地震は、木舟城を丸ごと埋没させてしまうほどのすさまじい猛威をふるい、河川の様相をもがらりと変えた。そのときの様子が『三壺記』などに伝えられている。

 まず、雄神川上流で山崩れが起こり、水が堰(せ)き止められて川が流れなくなった。水量が減ってサケ・マスなど手つかみで捕れるようになったという。ある古老が「水が一度に流れだし、村々を押し流すこと必定。早く避難せよ」と警告したので、人々は増山・守山・井波などの高台に逃れた。そして、二十日後、堰き止められていた膨大な量の水が大爆音とともに、一気に平野へと流れだし村々を襲った。激しい濁流は上流の固い岩盤に当たって二つに裂けて、一方は千保川へ流れ、もう一方は中田方向へ流れ込み新たな川筋を作った。このとき出来た新たな川筋が、現在の庄川だという。

 想像を絶するような荒々しい自然の姿である。当時二十四歳であった利長公は、家臣団とともに被災地を巡察した。荒れ果てた農村の姿に驚愕(きょうがく)したに違いない。利長公は、雄神川が二つに裂けた上流の地を訪れ、川の安全と五穀豊穣を祈念して、そこに弁財天を祀(まつ)った。今も庄の弁財天の名で知られる祠(ほこら)である。

●てんじんはん〜てんじはん

 県外から来た人は富山の人が正月に菅原道真の肖像を飾っているのを見て、富山県民は正月から学問を志すのかと驚く。

 加賀の殿様が菅原道真の子孫だとでっち上げてから天神信仰が始まった。

 青柳正美『こち吹かば匂ひおこせよ』(北日本新聞社)によれば次のようだ。

 利家は在世中は菅原姓を名乗っていない。初めは信長にならい「平氏」を使ったこともある。天正九年(1581)信長から能登四郡を与えられ、北野天満宮の旧領地羽咋郡菅原に居を構えたとき、その奇跡的巡り合わせに驚き、自らは道真の子孫ではないだろうかと、信念を持つようになったのではないだろうか。

 菅原道真は幼名を「阿呼(あこ)」といった。五歳のときに詠んだ一首が残っている。「梅の花 紅の色にも似たるかな 阿呼が頬(ほほ)にもつけたくぞある」。大宰府に左遷された折、住みなれた紅梅殿の梅に歌いかけた「東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ梅の花…」の一首は天神信仰と切っても切れないものがある。だから、加賀藩の家紋は「梅鉢」になった。

 天神様は、長男が生まれた家で、学問の神様・菅原道真の肖像画の掛け軸を飾る風習。菅原道真の末裔(まつ・えい)を自称した加賀藩主・前田家が「文武両道」を領民に伝え、藩主を神格化させるために広めたとも言われる。

 旧加賀藩の地帯では男の子が生まれると実家は正月に飾る天神様の絵を持っていく。30万くらいだったりするので、申し訳ない。一生に1本、祖父が孫に贈るのが通例。最近はもっと儲けようという業者が木彫りの天神様を井波で作って売っている。天神様って学問の神様じゃなくて、商売の神様だと思われているのでは?

 掛け軸と同時に金沢では「天神堂」というものが飾られた。天満宮のミニチュアだ。木製で神門や鳥居に始まり、灯籠、狛犬一対、太鼓を打つ神主やさい銭箱を配し、神殿には菅原道真の座像と神鏡を置く。台箱に収め、12月25日から1月25日に飾るのが本来という。江戸時代から1960年代半ばころまで飾られたという。神具店や玩具店で売っていたらしい。

 天神様の掛け軸は射水市堀岡の明野静観堂(明神屋)が専門として有名だ。

 小さい頃は字が上手になるといわれて、天神様の掛け軸の前で書き初めをさせられた。うまくなった、とはいえない。

 903年(延喜3)道真は流罪となった筑紫国大宰府(福岡県太宰府市)にて没したが、京都では落雷などの天災が相次ぎ、また無実の罪で道真公を訴えた藤原時平とその親族たちの変死が重なり、世人はこれを道真の怨霊によると畏怖した。恐れを決定的にしたのは、皇居の清涼殿への落雷だった。道真公は「火雷天神」として、雷の神様とされたのだ。天神様の呼び名の由来でもある。当時、社会的に強い影響のあった怨霊・御霊信仰と結び付き、道真の霊は雷神、疫神、そして天満天神と観念された。

 怖い時に昔の人は「くわばら、くわばら」といったものだが、菅公(かんこう)の領地桑原には一度も落雷がなかったことによるという(和泉国で雷神が井戸に落ちた時、ふたをして天に帰さなかったところ、自分は桑の木が嫌いなので桑原と唱えたら二度と落ちないと誓ったという説話もある)。

 南砺市福野の西村忠の『北陸の天神様かざり』は従来、加賀藩祖前田利家の祖先が菅原道真との説が流布したことが由来とされてきたが、天神様飾りが庶民に広がったのは明治以降であるとして背景を追究。幕末の福井藩主松平春嶽が領民に天神画像を飾ることを奨励し、売薬を通じて富山に伝播(でんぱ)したとの推論を打ち出した。

 西村は金沢の金融機関に勤めたころ、加賀藩と天神様とのかかわりが指摘されながら、金沢市民の間に天神様飾りの風習が少ないことを疑問に思っていた。調査を始めたところ、加賀藩時代の金沢に武家や大商家、大地主の間で豪華な天神堂を作るといった風習はあったが、広く庶民が飾るまでには至らなかったことが分かった。天神堂は富山県内にもあるが高岡の旧家などごく少ない。加賀藩の治世が終わってから富山の庶民に普及したことから、庶民の間の風習は前田家に由来したものではないと考え、福井県に注目。松平春嶽福井藩主が、領民に簡素な天神画像を正月に飾るよう奨励したとの言い伝えが残っていることが分かった。「勤勉に心掛けるよう呼び掛けた。売薬さんによって富山に伝播した」と考えている。その後、富山と福井では子どもの学業と健やかな成長を願い、初孫男児誕生の祝いとして年末に母の実家から天神様を贈る風習が広まった。金沢では飾りモチのキネマキ(杵巻き)などを贈ったとしている。

 1月11日に天神様を下げる家もあるが、うちは25日である。毎月25日は、全国に数ある天満宮、天神さまの縁日。学問の神様・菅原道真公の誕生日にちなんでのことで、1月25日はその年の最初の縁日である。

 2月25日は菜種御供(なたねごくう)の日である。903(延喜3)年に菅原道真が配所先の大宰府でなくなった命日。全国1万2000余にのぼる天神社(菅原神社)の発祥である京都の北野天満宮では、梅花祭が行われる。天神様といえば梅の花。その命日が、なぜ菜種御供なのかについては多くの説がある。通説は「なだめ」が「菜種」に転じたのだという。いうまでもなく北野天満宮は、道真公の「たたり」に恐れをなした朝廷が、道真公を「なだめる」ために神として祭った神社だからだ。

●てんたかく

 早生(わせ)の一種。県が2003年12月に奨励品種に採用し、2004年度に本格デビューした。早生はこれまで、ハナエチゼン(福井県)とひとめぼれ(宮城県)の他県品種が主流だったが、富山で生まれた「てんたかく」にほぼ全面的に切り替わる。

●「天地人」

 地元の有力紙・北日本新聞の朝刊コラム。朝日の「天声人語」に相当する。夕刊は「悠閑春秋」としている。朝刊コラムを「天地人」としているのは他にも東奥新聞がある。全く関係がないが、2009年には直江兼続を妻夫木聡が演じた大河ドラマ「天地人」が放送された。

●電鉄

 富山地鉄のことでJR富山駅の横にある地鉄の駅は「電鉄富山」という名前になっている。これは「富山電氣鉄道」が昔あったから。

●てんで〜てんでん

 「手に手に」から、「それぞれに」。例:「てんでで、やっとってくだはれ」(銘々でやっていてください)。

●天然ガス 

 富山にも天然ガスがあったことは若い人には知られていない。新潟が天然ガスや石油で知られていたように、新湊あたりまでは天然ガスが採れたのである。富山商船高専の北側には天然ガスのタンクがあって、浮いたり沈んだりしていたものだ。火力が弱かったり、消えたりしたので、次第にプロパンガスや都市ガスに移行していった。

●天然記念物

特別
黒部峡谷附猿飛ならびに奥鐘山(立山町,宇奈月町)、魚津埋没林(魚津市)、薬師岳の圏谷群(大山町)、ホタルイカ群遊海面(富山市,魚津市)、ライチョウ(地域を定めず)、カモシカ(地域を定めず)、白馬連山高山植物帯(朝日町,宇奈月町)

国指定
十二町潟オニバス発生地(氷見市)、上日寺のイチョウ(氷見市)、飯久保の瓢箪石(氷見市)、称名滝(立山町)、立山の山崎圏谷(立山町)、真川の跡津川断層(大山町)、杉沢の沢杉(入善町)、宮崎鹿島樹叢(朝日町)、猪谷の背斜・向斜(細入村)、脇谷のトチノキ(利賀村)、越の犬(地域を定めず)、柴犬(地域を定めず)、横山楡原衝上断層(大沢野町,細入村)、イヌワシ(地域を定めず)、イタセンパラ(地域を定めず)、ヤマネ(地域を定めず)

 いつもすごいと思うのは、ホタルイカが食べられることで、確かに「群遊海面」が天然記念物なのであって、ホタルイカではない。

●電脳山田村

 名も知れぬ村が通産省の肝煎りで各家庭にパソコンとインターネットを配ったら大騒ぎになった。1996年夏に全戸約460戸のうち、希望した7割の家庭に35万円のマッキントッシュを無料配布したことに始まる。99年8月には「三人寄れば出ていく」という小渕総理が訪ねた。2004年には光ファイバー化された。

 「山田村」というソフトまでできたが、どこにもありそうな山の村を表していて見事なネーミングである。

 2000年には「アタック25」に「電脳村と呼ばれる山田村は何県にあるでしょうか?」という問題が出た。「新潟県!」と答えてしまった(が、トップになった。)

 2002年8月5日に住民基本台帳ネットが完成した時に、この山田村がアクセスできなくて、「電脳村なのに」と全国的に有名になった。

●「天然のいけす」

 海の幸の多い富山湾を喩えた言葉。

●てんのくま

 「天の熊」で「お転婆」(古語になりつつあるが、「元気な女の子」)。石黒なみ【さんずい+美】子の本に『てんのくまのなみちゃん』(南窓社)という自伝があり、これで初めて知った言葉。

●天米【てんよね】

 長男の友達の家では東大に合格した時に家族でお祝いに食べに行ったという富山を代表する天麩羅屋。県庁の北側に県庁前店がある。高いのでも有名。なるほど、普通の天丼で2625円だ。


英語

数字

序文

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