金川 欣二:マックde記号論(言語学のお散歩)


 

笑説 越中語大辞典



●たーうつがん

 「たーだんがん」と同じ。俗説では「だらぶつ(馬鹿もの)蟹」が訛ったとされる。恐らく、メスのフェロモンに誘われていっぱい採れるからであろう。

●だ〜だっ

 「誰」。「誰か」は「だっか」「だか」、「誰も」は「だも」「だんも」「だっも」となる。例:「休んどるもんなぁ、だっじゃ、手ぇ、挙げれま」(欠席している物は誰だ、手を挙げろ)・「だっか手伝ってくれんか」(誰か手伝ってくれませんか)・「あんな下手な駄洒落言うとるが、だじゃ、あれ」・「だっもおらんじゃ」(誰もいないよ)・「だか来んがか?」(誰か来ないのか?)。

●たーた〜たた

 「女の子」。例:「か、どこのたーたね」(これはどこの女の子ですか)。

●たーだんがん

 ある時、3歳年上の人と話をしていて、上海の話になったので、「上海蟹はどうでした?」と聞いた。すると、「たあだんがん、やねか」という。初めて聞いたので、詳細を聞くと、年上の人がみんな寄ってきて説明してくれた。どうやらモクズガニ(モズクではない/戦前はモクヅガニと表記)らしいのだが、「たあだん」が何であるか、誰も知らなかった。他の方言では、モクゾウガニ(千葉県習志野市)、ズガニ(静岡県伊豆地方)、ツガニ、ツガネ(長崎県)、ヤマタロウ、カワガニ、ケガニ、ヒゲガニ(徳島県貞光町)、ガンチ(徳島県阿南市),太田川流域の広島市では「毛ガニ」(スーパーマーケットなどで北海道などからこの地方に来るカニは「北海道の毛ガニ」とか「花咲ガニ」などと呼ぶ)などがある。モクズガニはおもに関東地方の呼び名であり、西日本ではツガニやズガニと呼ぶ地域が多い。「たーだん」が何か、よく分からなかった。

 モクズガニについては隆慶一郎が「上海ガニ」(『時代小説の愉しみ』)の中で、「細い足を苦労してかみ割ってはわずかな肉をくらい、次に爪を割って、ややさっくりした淡白な味を楽しみ、最後に甲羅をはがして、この濃厚なみそをすする時は、まさに至福の瞬間といえる」と書いている。これは神田の割烹「と志松」で、この店は霞ヶ浦産のモクズガニの紹興酒漬けを提供していたという(嵐山光三郎『文士の舌』新潮社)。

 「たーだんがん」は放生津潟でよく捕れたカニで、戦後、食べ物に不足していた子どもたちの絶好の獲物だった。ふだんは淡水に住んでいるのだが、交尾のために海水に出てくるらしく、春先によく捕られたものだ。メスを一匹捕まえると、それに紐をつけてオスを誘き寄せ、捕まえたという。ゆでて食べたり、出汁に使ったそうだ。メスの卵巣、つまり卵も茹でて食べた。フェロモンにオスが簡単に寄せられるので、性教育になったという人もいる。

●たーらい

 「盥(たらい)」。

●鯛

 富山湾で鯛がよく釣れるので鯛はごく当たり前に食卓に出る。それなのに、細工蒲鉾として鯛を作るのはかなり奇妙だ。加賀料理に「鯛の唐蒸し」(からむし)というものがあって、鯛を背開きにして、銀杏、キクラゲ、レンコン、ニンジンなどで味をととのえた卯の花(おから)を詰めて蒸しあげる。長崎の卓袱(しっぽく)料理にルーツを持つともいわれるが、どこが卓袱かというと甘くどい味付けになっている点だという(肉に小麦粉をまぶす“じぶ煮”も卓袱の影響)。婚礼には雌雄二尾を腹合わせに九谷大皿に盛る。背開きにするのは武家が腹切りを嫌がったからだと言われる。

●第一銀行

 富山第一銀行。富山相互銀行が変わったもので富山銀行が先にあったので許可を得てつけたという。2005年から石川の北國、福井の福井銀行と提携することになった。

●体育文化センター

 富山市のテクノホールの横にある会館。体育会系ではない人間にとって「体育文化」というのがあるのかどうか疑問に思える。富山市には「教育文化」会館もある。

●ダイエー

 ダイエーが富山県内にもあった。ダイエーが最初に売ったのは「テイカ製薬」の薬だった、というジョークまで作っていたのに、なくなった。99年5月まで高岡ダイエーがあった(23年間)が、閉店になってしまった。ダイエーのおかげで高岡駅前から駅裏まで行けるようになった。安かった。

 富山のダイエープラザ(ハイパーマート)も2000年で閉店になってしまった。店員が少ないのでウロウロしてしまった思い出がある。99年のダイエー初優勝セールの時には岐阜ナンバーの車も多かったという。ダイエープラザのやわらかたこ焼きが大好きだった。

 高岡はサティに、富山はアピタにやられた。2004年にダイエーは産業再生機構に委ねることとなった。サティはイオンにやられ、なくなり、「買い物難民」だらけになった。

●「大学」

 かつて大学というと富山大学しかなかった。富山駅で「大学へ」というと寝ていても富山大学に連れていってくれた。富山医科薬科大学(いやくだい・いかやっか)、富山県立大(けんりつだい)、私立の富山国際大(こくさいだい)、高岡法科大(ほうかだい)ができた。それでも石川県などに比べると少ない。

●大喜【たいき】

 元祖富山ブラック系ラーメンのお店。濃い口醤油味スープと硬めストレート太麺、塩っ辛いメンマ、チャーシューは手切り、秘伝の醤油ダレ、荒切葱ネギ、荒引き【「粗挽き」だと思うけれどパンフにはこちらの表記】黒コショウが特徴である。昭和22年に高橋青幹が創業した。

 大崎裕史は『無敵のラーメン論』(講談社現代新書)で大喜を「スープが見るからに真っ黒でしょっぱそうで、実際にかなりしょっぱい。そして、最初からかなりの胡椒がかけられている。そしてチャーシューが多い。ネギも多い」という。「小が普通のラーメンの量なので、初めての人は間違えて大など注文してはいけない。具のメンマもチャーシューもとにかくしょっぱい。『富山の人はこれで大丈夫なのだろうか』と心配になるくらいしょっぱい。でも、私自身もまた食べたくなっているのだから、その吸引力は強い」とわざわざ書いている。

 富山県で大人気のはずだが、呉西で育った僕にはくどくてついていけない。恐らく、呉東と呉西で醤油の濃さが違うせいだ。呉東生まれの妻は大好きだ。

●第九【だいく】

 ベートーベンの「交響曲第九番」。年末に富山公会堂で開かれるだけだったが、新湊が85年から99年まで開いた(よく続いたと思う)。また、新湊は海王丸パークで行ったこともある(妻がソリストだった)。単発で他のホールでも開かれることがある。どこも男声が少なくて悩んでいる。

 富山の第九は1960年から始まって北日本新聞社の後援もあって継続している。公会堂からオーバードホールに替わった。

●大工

 富山では富山藩の「針山大工」(新湊市本江)が有名だ。「針山大工」の起源は戦国時代で能登穴水城・城主に仕えた「長助」にあるとされ、藩政時代には牛ヶ首用水大工、富山城に出仕する御用大工に成長した。幕末には富山藩の御用大工は14人中、助之丞、善九郎、治右衛門、和助、善次郎と5人、他に家大工として 又次郎、源次郎、孫兵衛、清蔵の4人の名前が見られるという。「針山大工」は用材を能登から多く入手していた。その伝統は能登の「草アテ」・「金アテ」(青森ヒバ)と言い、土台・柱に頑なに使ってる棟梁も残っている。今でも「太子講」が開かれていて、伝統を守っている。

 加賀藩の大工の歴史は古く、初代前田利家の金沢入城の翌年(1584年)、生国の尾張や、安土城建設にかかわった大工、石工技術者集団を引き連れて金沢に入り、「大工百人余」に邸地を与えたとの記録が残っている。彼らはそれ以前から利家に従って各地を転戦してきた、いわば“工兵部隊”が中心だった。最初に大工たちが住んだ町は今町(現在の尾張町の大手門近く)と観音町(同東山の卯辰山下付近)のあたりだったという。現在の犀川、片町近くに移り「大工町」となったのは1631(寛永8)年の大火の後のことである。

 加賀藩の大工集団は当時の建築二大流派(二大流派をそろって抱えたのは加賀藩と徳川幕府だけだという)である唐様(禅宗様)の「建仁寺流」と和様の「四天王寺流」を中心に、大きく五つの系統に分かれていった。藩は彼らに互いに腕を競わせ、幕府と肩を並べる程の高い建築技術水準を誇っていた。

  • 「清水家」=尾張出身の集団で、二の丸御殿や三十間長屋などを建設した家系で、「清水家文書」という記録が金沢市立図書館に残る。
  • 「池上家」=同じ尾張系だが織田信長に仕えて安土城築城にかかわった集団で、もともとは京都御所造営にも関係した名門中の名門。
  • 「建仁寺(けんにんじ)流」=中世以来の流れを汲む「坂上・山上家」で、山上善右衛門はこの系統で、能登の妙成寺五重塔、小松天満宮、那谷寺本堂などを造営した。
  • 「四天王寺流」=「平内(へいのうち)家」の流れをくむ「黒田家」で、気多大社拝殿などを造営した関西系の名門。
  • 「地元組」=越中井波や氷見の大窪大工。
  •  詳しくは内藤昌『近世大工の美学』(中公文庫)に前田利家と大工を描いた章がある。

     国宝・瑞龍寺の棟梁として名高い山上善右衛門嘉広(やまがみぜんえもんよしひろ1598・99頃〜1680)は、建仁寺流(17代)を受け継ぎ、加賀藩御大工の開祖となった人物である。嘉広は他にも那谷寺・妙成寺・小松天満宮・能登気多大社、また大岩山日石寺などの藩内を代表する寺社を手掛けたといわれている。誰が建てたかは「棟札(むなふだ)」がきちんと残っていれば分かるのだが、ない場合も多くて証明しようがない建築がある。ただし、彼らの属する集団が作ったことは間違いない。

     伏木にある勝興寺本堂(真宗は本願寺から宮大工が派遣される)では再建年代とされていた寛政7年(1795)と書かれた部材や、棟梁名(瀧川喜右衛門)と思われる名が記された部材などが発見されたが、「瀧川喜右衛門」は現在のところ、どんな人物だったか調査中。

     井波の彫刻家たちも元は瑞泉寺の建立に集まった宮大工だったが、後に彫刻に特化していく。

     大窪大工は宮大工だけで「フリーメーソン」のような宗教行事を行っていたが、後継者がいなくなって行事も行われなくなっている。

     ただ、田中健太郎棟梁が宮大工として全国的に活躍していて、富山の宮大工の伝統を引き継いでいる。

    ※2003年10月29日に「大工さんが作った富山の文化」として「とやま夢航海」の中で紹介した。高岡市博物館の「百万石の大工さんたち」展の資料は立派なもので、学芸員の仁ヶ竹さんにはお世話になりました。

    ●醍醐村【だいごむら】

     楠原祐介『こんな市名はもういらない!』(東京堂出版)で槍玉にあがっている唯一の富山県内の地名。平成の大合併で新しい市町村が誕生すると思うが、こんなことがあってはならない。この村は明治22年の7村合併によって生まれ、昭和29年に消失した高岡市の地名である。

     この村名は仏典の尊さを顕彰したものでも、京都伏見区の醍醐寺や醍醐天皇・後醍醐天皇にゆかりの地という訳でもない。醍醐とは今でいうチーズのことである。合併当時、酪農が盛んで、初代村長は郡内一の畜産業者だった。この地は礪波平野北部の散居集落地帯だが、戦後は一時、養鶏やチューリップ栽培が盛んになった。つまり、明治初期に始まった畜産は酪製品の産地となるまで発展しなかった。産業名を採っても、それが永続するとは限らない実例である。

    ●太子信仰

     金沢大学教授だった井上鋭夫『一向一揆の研究』は一向宗以前の姿を、太子信仰のなかに探ったものである。井上によれば、山伏修験者たちは蔵王権現はじめ大日・阿弥陀・薬師・観音・地蔵・不動などの諸仏菩薩を信仰した。一方、彼らに使役された金堀りたちは諸仏菩薩より一 段低い信仰対象を与えられた。山王にたいする王子のようなもので、信仰にも階層差別があったことになる。従って、太子信仰は元は王子信仰にあり、金堀りは太子信仰であったがゆえに、後にタイシ(太子)・ワタリ(渡り)と俗称されるようになったという。

     井上は『山の民・川の民 日本中世の生活と信仰』でワタリ・タイシと呼ばれた船頭や河川労働者の間に太子信仰が広く分布しているという。また、「金掘り」などと呼ばれた鉱山労働者にも聖徳太子信仰があったという。そうした「一所不住」の流動する人々に、蓮如は積極的に布教をし、太子信仰と真宗の阿弥陀信仰が重なるように、教線を拡大していった。山の民は広い交易圏と流動性をもつ。ワタリやタイシなどの水運業者は諸国を流動して歩いた。彼らが真宗を全国的に広める結果をもたらしたと井上は考えていた。

     井波の瑞泉寺は太子信仰の中心で、7月21日から29日まで「太子絵伝」(たいしえでん)が開かれ、聖徳太子絵伝の絵解きをする。起源は1720年頃、享保年間だったといわれる。

     「針山大工」も太子信仰をもっている。

    ●ダイジョ

     ヤマノイモ科の一種。ダイジョはインド原産のイモ。大山町が特産化に取り組んでいる紫色のダイジョは、老化や発がんに関係する活性酸素を除去する成分のポリフェノールを豊富に含んでいる。猿が食べないことから、山間地での栽培にも向いている。ただ、安定した生産は難しいという。

    ●たいそ

     「億劫」。

    ●だいそーど

     「ダイ・ハード」ではない。「大騒動」(おおそうどう)から「大変なこと」。例:「あんたおらん間にだいそーどやったがいぜ」(あなたがいない間に大変なことが起きたのですよ)・「何ちゅう。だいそーどなことしてくれっがいね」(何という大変なことをしでかしたのですか)。

    ●太閤山【たいこうやま〜たいこやま】

     太閤秀吉が佐々成政を攻める時に陣を開いたのでこの名前がある。昔は雉が鳴いていたものだったが、団地になって様変わりした。太閤山ランドがある。

    ●ダイチ

     富山にある公共事業の予定地でボーリング調査などを行う地質調査会社。2010年のバンクーバー冬季五輪のスピードスケート女子団体パシュート(追い抜き)で銀メダルを取った3人のうち、田畑真紀選手、穂積雅子選手が所属。社員約40人の中小企業で厳しい経営環境の中、田中洋一郎社長らが自らの給与を削って2人を支援してきた。田中さんは「こんな小さな会社でもメダリストを送り出せた。誇りに思う」と目を潤ませた。ダイチのスケート部は富山国体の強化のために95年に発足。年間2000万以上かかるのに、小泉政権以降、毎年3%の公共事業削減、そして09年度は18%削減という中で頑張った。

    ●だいてやる〜だいたる

     「出してやる」。例:「それっくらいの銭(ぜん)ならぁ、出いてやっちゃ〜出いたっちゃ」(それくらいのお金なら出してあげる)。

    男性が女性に「今晩、(お金を)出いてやるから、飲みに行こう。」と言ったとか…。どうしても「抱いてやる」だと思いますよね。笑ったなぁ《沢辺治美さん》。---とセクハラになりかねない。

     ちなみに「出した」「指した」を「出いた」「指いた」というサ行四段動詞のイ音便は『日本言語地図』によれば関東・東北を除き、京都を同心円とした地域に見られる。つまり、富山方言ではない。

    ●大日岳【だいにちだけ】

     北アルプスの山。2000年3月5日、旧文部省登山研修所の主催する冬山研修会で発生した遭難事故で有名。参加していた溝上国秀さん(当時・神戸大2年)と内藤三恭司さん(当時・東京都立大2年)の2人が死亡した。講師や学生が頂上付近で休憩中に乗っていた雪庇(せっぴ)が崩落。これに11人の学生が巻き込まれ、後に2人が死体で発見される。

    ●台風

     八尾の風の盆のおかげだと思うが、台風はあまり来ない。実際には山脈が屏風のようにU字形に拡がっているからである。それでも「昭和の三大台風」といわれる室戸(1934年)、枕崎(45年)、伊勢湾台風(59年)などでは、死者やけが人が出、多数の住宅が全半壊した。小さい頃、台風が来ると、海岸にクルミがたくさん流れ着くので拾ってきて焼いて食べたものだ。

    ●大仏→日本三大仏

    ●だいぶん

     「大分」を「だいぶ」といわないで「だいぶん」というが西日本の特徴。

    ●泰平紙

     模造紙のことを富山出身の妻が「たいへいし」だというので調べると襖(ふすま)などで使うようだ。石唐紙の皺紋をさらに工夫改良して、皺紋をより目立たせたものが、泰平紙(太平紙)である。漉くときの流し込みの時に、四隅に簀よりはみ出すように漉きあげ、水を濾し終わった湿紙の時に、左右に引っ張ったり、前後に縮めたりを繰り返して、皺紋を大きくつくり乾燥させる。乾燥すると岩石唐紙の皺紋よりもくっきりとしたエンボス状の凹凸ができる。

    ●たいまつ祭り

     黒部市生地の新治(にいはる)神社で行われる、海の安全操業を願う、勇壮な炎の奇祭。享徳3年(1454年)、遭難寸前の漁船が同神社付近に現れた「御神火」(ご霊火)を頼りに無事に戻ったとされることに由来している。祭りは10月26日の夜、屋形船と御輿が町内を巡行。漁師が多い芦崎の屋形船には漁業の神のえびす様、上町のには農業・商業の神の大黒様が載せられている。御輿は子どもたちが笛や太鼓でおやしを奏でる屋形船に先導されて神社へ。一行が新治神社に到着し、27日午前零時半すぎ、神輿を担いだ「初老」(40歳)の厄年の男衆が「オタッチョー」(神様がお立ちになる/お顕ちになる)の勇ましい掛け声とともに、参道に敷いた400本の大きなたいまつ(長さ約2メートル、直径約25センチ)の火を蹴散らしながら、神殿まで駆け抜ける。火渡りは1985年までは、夜が白々と明ける頃に行われていた。たいまつも防火に配慮して小ぶりになった。かつての漁師町も会社員などが多くなったためで、伝統行事も時代とともに少しずつ姿を変えているという。

     宇奈月町にも「たいまつ祭り」がある。愛本新用水の完成に尽力した加賀藩主・前田治脩(はるなが)の功績をしのぶ「愛本新用水天満宮松明(たいまつ)祭」で、愛本新用水は、村民の強い訴えを受け、大庄屋に当たる「十村役(とむらやく)」の伊東彦四郎が加賀藩主の前田治脩に願い出た。五年がかりの工事で、1802(享和2)年に完成。喜んだ村民は、同川上流の取水口まで、たいまつをかざして水を迎えに行ったと伝えられる。天満宮には治脩がまつられている。祭りは、用水に通水する日に、村人がたいまつをかざして、流れてくる水を追いかけて喜んだという言い伝えにちなんで行われている。午後7時ごろから、メンバーが、高さ5メートル、重さ400キロ以上の大きなたいまつを担ぎ、「どっこい、どっこい」とかけ声をかけながら、用水沿いに天満宮まで歩く。

    ●…題目【だいめ】

     曲の「…番」だが、富山や金沢では「…題目」という。『おもしろ金沢学』(北國新聞社)には「〜ダイメという言い方は、石川、富山両県だけに通じるもので、隣の福井県を含めた四十五都道府県では〜バンという」と書いてある。新方言の一つ。

    ●大門高校【だいもん】

     新設校の一つ。情報系の学科を持つ。語呂合わせから「大文字草」をデザインしたネクタイが素敵だ。ただ、校章が菱形で、遠くからは山口組のバッヂのように見える。なるほど、「代紋高校」だった。

    ●代用食

     米の代用食品のことであるが、年寄りはパンやうどんや蕎麦を「代用食」と呼んでいる。例:「何ぃ、昼は代用食ですましたんか?」。

    ●『太陽の黙示録―A SPIRIT OF THE SUN―』

     かわぐちかいじのマンガ(『ビッグコミック』小学館に2002年10月から月2回連載)。映画の『太陽の帝国』(EMPIRE OF THE SUN)と『地獄の黙示録』を合わせたようなタイトルだ。2002年8月、京浜大地震、富士山噴火で関東一円が全滅、東南海、南海大地震で関西地方が壊滅。さらに富山湾と琵琶湖、大阪湾を結ぶ大断層に沿って日本列島が東西に分裂する。政府が米国と中国に救援を要請し、米国が中国の動きを牽制し始める…。小松左京『日本沈没』やそのパロディ・筒井康隆『日本以外全部沈没』を想起させる。「すべての男には使命がある」という…。

    ●大和

     「やまと」でなくて「だいわ」。北陸を中心としていたデパートで、金沢の香林坊アトリオが一番大きい。こちらにはエルメスまで入っている。

     大和のカーネーションの包装紙でなければならないという人が多かった(東京でカーネーションというと松屋だ)。北陸の三越みたいな存在だった。今はどちらも神通力を失っている。そういえば、金沢のダイエーのある所に三越デパートがあり、北陸で初めてエスカレーターが付いた。小学生2年生の時にそのためだけに金沢へ行ったのだが、エスカレーターに乗るための練習をさせられた。三越は丸越となってスカイビルの場所になった。

     1923年(大正12年)10月に井村徳三郎が京都大丸と提携、宮市百貨店を創設する。1930年(昭和5年)8月に株式会社宮市大丸を設立する。1943年(昭和18年)12月に丸越と合併。株式会社大和を設立する。

     西町にある富山大和(横文字はついてない)は前身の「宮市大丸」が昭和7年に開業した。富山大和は昭和9年、鉄筋コンクリート6階建ての百貨店として建築された。東京・新宿の「伊勢丹」をモデルに造られた外装は、建築時からほとんど変わらず、タイルや窓枠も当時のものが使われている。昭和18年に「大和」となった。昭和20年の富山大空襲では市街地の大半が被災したが、県庁や富山電気ビルなどとともに焼失を免れ、8月18日には焦土の中で営業を再開した。疎開先などから食品や衣類をかき集め、市民に販売したという。

     富山の文化の中心だった。小さい頃、チンドンコンクールを少しだけ見てから、ここの食堂で「親子丼」を食べた。いろいろな催し物もここで開かれた。高度成長期には、屋上にあったモノレールやコーヒーカップなどの遊具で子どもたちを喜ばせた。今の子がディズニーランドへ行くような気分だった。独占状態だったが、80年頃、近くに西武デパートができた。今はどちらのデパートも4、5年行ってない。総曲輪通りに行くことがなくなった。西町大和が移転することに決定した。「柳ケ瀬ブルース」で有名な岐阜の柳ケ瀬も近鉄デパートを失って苦労しているというが、「中央商店街」という言葉は廃語になるかもしれない。

     移転で壊されることが決定した。2006年5月に1億7000万もの貴金属が盗まれるという事件があった。そんな金額の貴金属が富山にあったというだけで驚いた。07年9月に総曲輪大和フェリオとして開店。

     高岡にも大和セリオがある。御旅屋通り自体、人出が少ないので苦労しているようだ。2010年には新潟、長岡、上越の3店と、小松店を閉鎖。

     NHK福井で「県内有名デパート」というと「だるまや西武」を指す(ここしかデパートはない)。

    ●台湾

     台湾からの観光客が多い。特に雪の大谷を見に来る客が多くて、チャーター便も増えてきた。

    ●ダウト

     トランプのゲームの一つで数字の順に並べていってウソの札を出した疑いがある時には「ダウト」という。京阪神ではこれを「座布団」というところもあるが、富山は「ダウト」である。

    ●『タウン情報富山』

     富山のタウン情報誌。1980年に全国的なブームに乗って創刊された(全国13番目の創刊)。82年からは神戸大卒の山下隆司が編集長を務める。後に「シー・エー・ピー」という会社になる。大人向きの『タクト』という情報誌も別に出版されている。

    ●高【たか】

     「上」で反対は「下」。例:「高にある本、取ってぇま」(上にある本を取ってね)・「高の子、何年にならはったけ」(上のお子さんは何年生になられましたか)。

    ●高岡【たかおか】

     「高岡」という地名は加賀藩二代藩主前田利長が、隠居後、現在の高岡の地に城を築き、まちづくりを行った時に、中国の詩経「鳳凰鳴矣于彼高岡」(鳳凰鳴けり彼の高き岡に)にちなんで名付けたという。利長は「高岡開町の祖」として知られるが、この墓所(高岡市大野町)は利長の三十三回忌にあたる一六四六(正保三)年の造営。現在は内堀とその周辺の約一万平方メートルが墓域として残る。「敷地五万坪」(約十六万五千平方メートル)とされる伝承がある。

     瑞龍寺は利家とまつの間に生まれた加賀二代藩主・前田利長の菩提寺であるが、家康が幕府を開くと、秀吉の未亡人・淀君から援助を求められた。徳川に背く訳にも、盟友だった豊臣家の頼みを断る訳にもいかず、利長は1605年に弟・利常に跡を譲った。引退して、支藩の越中に隠居して高岡城を築いた。利常は異母兄弟だったが、正室の子だった利長(子どもがいなかった)が家督を譲ってくれたことに恩義を感じていた。高岡城はわずか5年で廃城になった。藩主を前田利常に譲って隠居していた二代利長が亡くなったためだ。一国一城令もあり、数百人いた家臣団は金沢へ引き揚げた。消費者である武家集団がいなくなれば、町は寂れる。利常は「転出禁止令」で町民がよそへ転出することを禁じ、城下町から商工の町への転換を図った。麻や魚の問屋を認め、米蔵や塩蔵を設置し、銅器や漆器などの産業を奨励、保護した。その菩提寺として、瑞龍寺を建立した。一向一揆からも、徳川からも守る必要があったために、伽藍に城郭の機能をもった立派な寺院を造ったのだ。

     高岡は、明治22年に市制が施行された全国31の都市の一つ。人口は富山の半分だったが、29000人は水戸、津、姫路などよりも多かった。藩政時代、商工業を振興したことがその後の発展につながったが、その後は衰退する一方である。

     荒俣宏は2003年に「高岡を風水する」という講演をした(「江戸を超える夢の都〜加賀高岡の謎〜」『怪KWAI』角川書店2004年第16巻pp.216-229)が、講演の内容をこの話を最初にまとめた相本芳彦KNBアナが次のようにまとめている。

     いまから390年程前に加賀二代目藩主前田利長によって「隠居所」の名目で作られた高岡は、同じ頃徳川家康によって作られた江戸と同様に風水学に基いて都市計画が立てられました。「隠居所」と言うには余りにも大きな城郭、加賀各地から移住してきた人々の数の多さ・・・これは全て「ある事」の為でした。ここまで入念な街づくりをしたのは、天皇を招き(つまり遷都)、徳川幕藩体制を超えるためだったというのです。例えば「御車山祭り」は秀吉が時の天皇を自らの別荘にお招きした時の車を用いている事、熊野信仰を取り入れてはいるが真相は「天帝の巡幸」をなぞらえた「北斗七星の祭り」である事が傍証です。
     そして記録に残すわけにはいかないこの秘密は実は「高岡」という地名そのものに隠されていたのです・・・かつては「関野」と呼ばれたこの土地を「高岡」と名づけたのは利長自身です。中国の「詩経」の一節「鳳凰が鳴く(祝福の地)高岡」から取ったとしています。
     鳳凰は天子の乗り物、鳳凰が降りたつ地は天子様(日本であれば天皇)がやって来る所・・なのです。

     『荒俣宏の不思議歩記』(毎日新聞社)にもこの講演の様子が書かれている。

     また、完成を見なかった高岡の城下町について、同地の町奉行をつとめた小川八左衛門が『城地考』という文章を残しており、最良の城下町と評価できる三つの都市を風水的に比較している。仙台は田舎びて規模が小さすぎ、江戸は広大だが開発はこれからの話。これに対し高岡は城が大きく、港町が整備され大阪より商業が栄える力を持つので、江戸よりも勝っている、と。なんと、小川は日本一の都市を高岡と判定したのである。
     わたしはこの調査をもとに、講演のときに次のように話して、高岡市民を元気づけることにした。高岡は、最初にして最後の、江戸を超えようとした大都市だった、と。
     しかし、江戸には祟り神の平将門がいて護っている。高岡にも同じくパワフルな護り神がいて不思議はない。で、つい最近、東京の亀戸天満宮で祭礼のお話を取材したとき、大きな発見をした。祟り神としては将門の大先輩にあたる菅原道真公の御魂が、鳳輦に乗って町々を巡る大祭があるのだ。しかも前田家は、道真公の子孫といわれる。「そうか、高岡の御車山祭は天満宮の大祭と重ね合わされていたのか!」と、膝を打った。この面でも高岡は江戸に勝ったのではあるまいか。

     東アジアの古代首都計画には『周礼(しゅらい)』というマニュアルがあって中国の制度などを定めてある。天子の都は、極まりを意味する数字にちなんで、1辺9里の正方形で東西、南北に九条ずつの大路を設け、道幅は車のわだちの9倍とするのが理想とされた。ただ、財力や地形の関係で、都を青写真通りに作るのは難しかったという。坊(街区)の数108、周礼よりひと回り大きい長安城が完成したのは、世界国家に成長した唐の時代だった。奈良や京都は長安の街作りをまねした。

    ※鳳輦【ほうれん】=屋形の上に金銅の鳳凰(ほうおう)を飾りつけた輿(こし)。土台に二本の轅(ながえ)を通し、肩でかつぐ。天皇専用の乗り物で、即位・大嘗会(だいじようえ)・御禊(ごけい)・朝覲(ちようきん)・節会(せちえ)など、晴れの儀式の行幸に用いた。鸞輿(らんよ)。鳳輿(ほうよ)。ちなみに「輿」は権力者を乗せて人が担ぐ中国の乗り物で担ぐ人を「輿人」ヨジンといって、彼らのお喋りを「輿論」と言い、これが「世論」になっていった。

    ●高岡駅前

     高岡駅前ほど地方都市の悩みを体現した所はない。1時間も走れば金沢に行けるからだ。

     万葉線が乗り入れているが存続が危うい。

     駅前にはかつて「いとはん」があって潰れ、「ミズの街」になったものの潰れ、今はほとんど廃墟になっている。別の場所にあった丸大デパートも潰れたし、駅前ユニーも潰れた。駅裏はダイエーが進出してから発展し、駅前の末広街商店街を苦況に追いやった。ところが、同じ駅裏にサティができてからダイエーの収支が一挙に悪化し、99年5月には閉店となった(23年間の営業)。

     そして同年、新幹線駅との分離問題が出て揺れに揺れた。分離駅になれば苦境に拍車をかけることは間違いないが、分離を決定した。

     2004年に駅前の「いとはん」の跡に、ウィング・ウィング高岡という再開発ビルが完成した。2011年に新幹線に合わせてリニューアルしてホームにエスカレーターもついた。

    ●高岡大仏→日本三大仏

    ●高岡城

     高岡城は1609年に築城されたが、一国一城令(1615年)により廃城になったとされる。石垣の一部が明治初期に河川改修のために運ばれたとされる。

    ●高岡丼【たかおかどん】

     高岡の地域起こしに考えられた丼。とはいえ、コンセプトが固まっていない。

    ●高岡仏具

     特許庁の地域団体商標(地域ブランド)に認定されている。ハスの花をモチーフロゴマークもあり、「伝わる技が、心を伝える、祈りになる。」の キャッチフレーズもある。

    ●高岡町

     商船の学生に高岡中学出身というのが何人もいて、分かっているのだけれど、ついそんな学校あったけ、と思ってしまう。これは金沢市中心部の「高岡町」を指していて、繁華街の武蔵ケ辻と香林坊を結ぶ国道1
    57号沿いに位置し、金沢市文化ホールや金沢ニューグランドホテル、銀行や保険会社などの高層ビルが建ち並ぶ。

     高岡市と縁の深い町で江戸時代の初期、高岡城に隠居していた加賀藩二代藩主の前田利長が死去し、高岡城の廃城に伴って家臣団が金沢へ集団移住したことから名付けられたという。

    ●高岡南

     呉西の人は「南」とだけいう高岡南高校(呉東には富山南高校がある)。2006年10月に世界史の必修逃れで3年全員の卒業が危うくなったという報道で知られるようになった学校。おかげで全国的に必修逃れをしていたことが分かった。

    ●高潮

     2004年8月に新湊市の内川沿いで59戸が床下浸水した。布巾の住民はこんなことは初めてだと語っている。15号台風の翌日だった。富山湾の構造、内川の構造、猛暑での海水の膨張などが関係していると思われる。新湊は地形も文化もヴェネツィアみたいだというのが僕の考えだったが、「アクア・アルタ」になるとは思わなかった。アドリア海から吹くシロッコと大潮や気圧変化が重なって起きるとみられているが、地盤沈下や地球温暖化による潮位の上昇も指摘される。対策として、高潮発生時に海中から浮上する水中堤防の建設が進められている。

     気象庁と京都府の舞鶴海洋気象台はこれが暴風による潮位上昇に地球の自転による影響がからまって能登半島先端の高潮が入り込んだことを解明した。この年の高潮の発生原因を1)長期的に海面水位が上昇傾向にある、2)台風が日本海を北上し強い南西の風が吹いた、3)高い潮位が起こった時間帯と満潮時が近かった−などの条件が重なったためと結論付けた。

     ヴェネツィアは「水の都」だ。かつてのヴェネツィア共和国では元首が海に指輪を投げ入れ、海との結婚式を行うなど、海洋都市として発展してきた。新湊も「海洋文化都市」として発展しようとしているが、結婚式を行わなければならないのかもしれない。

    ●高短【たかたん】

     「国立高岡短期大学」。全国2校だけの国立短大の1つだった。「最後の国立大学」とも言われたが、高岡にあった富大の工学部を移転する時に高岡市が「ごねて」、当初「コミュニティカレッジ」とするべきものが大きく形を変えた。産業造形、産業デザイン、地域ビジネスの3学科と専攻科がある。1983年10月、独立した初の国立短大として富山市五福の富山大構内で開学。85年に高岡市中川の富山大工学部構内に移転し、86年3月から高岡市二上町の現キャンパスとなった。2005年10月、富山大学に統合されて、芸術学部となった。

    ●高取焼

     高取焼は1606年、筑前黒田藩のご用窯として始まり、「遠州七窯」の一つに数えられるなど格調が高い。福岡市高取の第十五代亀井味楽(本名・正久)は2001年、第十四代の父(亀井又生庵)に続く十五代目を襲名。高取焼の伝統である美しさと渋さを併せ持つ「きれいさび」を受け継ぎながら、現代の視点を取り入れた作品を制作している。

    ●高長久俊

     富山の抽象画家。小杉生まれ。高岡市立美術館で講演中に亡くなった。2011年の懐古展のパンフ

    ●高橋尚子【たかながひさとし】

     マラソンのシドニー五輪金メダリスト。高橋は富山と関係が深い。02年5月26日カーター記念黒部名水ロードレースには高橋尚子(積水化学)が招待選手として出場した。

     実は(というほどでもないが)、94年8月の富山インターハイに訪れるという情報をキャッチすると、金沢市内の宿泊先に押し掛け、入門を直訴。「大卒は採らない」と突き放されたが、北海道合宿に自主的に参加する許可を取り付けた。つまり、富山は金メダリストの生みの親なのである。小出監督は「コイデよかった」と話しているそうだ。

     更に(というほどでもないが)、高橋のニックネーム、Qちゃんというのは高橋が「おばけのQ太郎」の歌を歌ったとか、顔が似ているとかでつけられた。そして、「おばけのQ太郎」は富山出身の藤子不二雄によって作られたマンガなのである。

    ●高天原

     北アルプスの最深部にかる高天原温泉は日本で最も長い時間歩かなければたどり着かないといわれる。片道2日ずつかかる。

     池内紀『川を旅する』(ちくまプリマー新書)の中に富山県は「高天原の水」(黒部川)という一章がある。

    ●高峰譲吉

     夏目漱石の『吾輩は猫である』に登場する猫の主人は、胃弱のくせに大飯食らいだった。「彼は胃弱で皮膚の色が淡黄色を帯びて…」と猫に言われているのに、「大飯を食つた後で『タカヂヤスターゼ』を飲む」という。1894年にこの薬の成分の消化酵素タカヂアスターゼを抽出したのが、高峰譲吉である。1854年、高岡町(現在の高岡市)に加賀藩医の子どもとして生まれた。大きな影響を与えたのは加賀藩最大の難「安政の泣き一揆」である。安政五年、凶作のため米不足で苦しんでいた町民たちが、金沢の卯辰山に登り、金沢の町に向かって「ひもじいわいやぁ〜」「米くれぇ〜」と、2日間にわたり、涙ながらに訴えた。当時、三歳に過ぎなかった譲吉ではあるが、父の背にしがみつきながらも、その光景を凝視した。松明を振りかざしながら、幽鬼のように泣き叫んだ。首謀者は処分されたのだが、父精一は、恐さに震えながら背にしがみつく我が子に「医術の前に、貧富の差はない。おまえは大きゅうなったら、今夜のような人たちを救える医者になれ」といった。医者は一人一人の人間しか救えない。どうしたら、多くの人を一度に救えるのか。それは化学であるというのが譲吉の結論であった。工部大学校(後の東大工学部)を首席で卒業し、イギリス留学後に渡米、胃腸薬などに使われるタカヂアスターゼを開発したほか、ホルモンの一種のアドレナリンの結晶化に世界で初めて成功。牛の副腎から得たもので、現在も強心剤や血圧上昇剤などとして広く医療分野で利用されており、薬学や医学に大きな足跡を残し、理化学研究所の設立に貢献した。「医学が救うのは一人一人の患者だが、化学は万人を救う」と話していた。アメリカ人と結婚して晩年は帰化し、民間外交で日米親善にも貢献した。日本からアメリカに贈られたワシントンのポトマック河畔の桜並木も高峰が仲介している。当時の米大統領夫人の意向を受け、東京市長の尾崎行雄を通して寄贈したという。その系譜を引く桜の苗木が高岡古城公園に贈られた。1922年に57歳で死去した。

    ●篁牛人【たかむらぎゅうじん】

     本画壇の中でもひときわ異色の存在として注目される画家(1901〜84年)。東洋の故事・伝説を主題とし、渇筆技法(岩や崖などを立体的に描くのに、墨の使用を抑え、半乾きの筆を紙に擦りつけるように描くこと⇔潤筆技法)を駆使して独自の水墨画世界を構築した。本名は浄信で幼名は光磨。

     ドイツ文学者の池内紀に『二列目の人生 隠れた異才たち』(晶文社)は人を押しのけるのが苦手で、記念写真でも二列目に並ぶような人々を描いた本で、あとがきには「世評といったことへのこだわりから遠い人たちである。ほかに心を満たすことがあって、世才にまでまわらない」と書かれている。16人のうち、富山関係では篁牛人を扱っている。一列目にいたのは富山に疎開していた棟方志功で、篁は67年に富山で初めて、70年に西武池袋店で「日本画壇の異才・篁牛人展」が開かれた開かれた二列目の人だった。安養坊の旧居跡に篁牛人記念美術館がある。

     なお、池内紀『ちょっと寄り道美術館』(小学館ちえの森文庫)にも紹介されている。

    ●高山右近【たかやまうこん】

     高山右近は1549年にザビエルが日本に来た2〜3年後に生まれ、江戸幕府の禁教令が出された1614年にマニラに追放され、間もなく亡くなったキリシタン大名の典型である。12歳で受洗し、追放され、浪々の身となって小西行長の肥後に隠れているうち、前田利家に拾われ、金沢に行き、26年間前田家の客将となっていた。少しずつ北陸の地で信者を増やしたが、右近を匿っていた前田家も家康の前についに右近を追放する事を決定する。62歳まで一貫してキリスト教の信仰を持って死んだ。ほとんどのキリシタン大名が家康の禁教令の後、教えを捨て、キリシタン迫害に走り、大名も庶民も棄教する中で、大名としては高山右近ただ一人棄教しなかった。遠藤周作は「右近は立派過ぎるんだよ。あんな立派な人間は小説の主人公にはならないよ」と語っている(『日本史探訪』NHK)。

     高岡古城公園の大手門に十字架をかたどった剣を持つ武将の像が立っているが、高岡城の「縄張り」(設計)をしたのが右近だからだ。右近が設計した城は高槻城や明石船上城、金沢城(本丸の築城は右近の造営)などだが、いずれももともとあった城の輪郭に手を加えたものであり、さらに後世、大規模に改造されているため、正確に右近の個性がどこにあったかは推測するしかない。ただ、高岡城だけは、まったく白紙の上に右近が一から設計図を描き、工事を指揮した城である。さらに、築城わずか5年で廃城となったまま明治維新まで放置され、ほぼ原型のまま残されている。

     加賀乙彦『高山右近』には高岡城が次のように描かれている。

     たわわなる珊瑚色の壁が高岡城である。それは荒涼とした夕景色のなかで一つだけ派手やかな姿で映えていた。右近は馬を停めてしばし眺めた。一面の雪原に黒々とした斑(はだら)が見えるのは、この辺りが沼地で雪を融かしていることを示している。そこは真冬でも軍勢の渡れぬ泥濘で、この北と西の沼沢地の果てに城を築きあげたのが、この城の縄張りをした右近の創意であった。北と西を沼地で自然の防備を成さしめ、南と東に堅固な大手口や搦手口を配し、内外の水は庄川の伏流を利用することとした。右近は戦国の武将として築城の地術を父飛騨守より学んだ。とくに旧主和田惟長を討って高槻城の城主になってからは、近江の坂本から石工(いしく)を呼び集め、彼の地の穴太衆積(あなたしゅうづみ)の技術に何番の建築書より得た知識を加え、さらに自身の工夫によって両者を組み合わせ、淀川の氾濫によっても流されぬような堅牢で、しかも表面は滑らかで敵兵の登攀を拒む、守るに固い石垣を築きあげた。こういう築城術の蘊蓄が金沢藩の人々を驚かしたのは、慶長五年(一六〇〇年)、金沢城の北側に新丸を拡げ、大手門(尾坂門)を築いたときであったが、この実績が利長公をして高岡城を右近に任せる信任となった。

     右近は勇将、知将の名をほしいままにしながら、豊臣秀吉のキリシタン弾圧で大名の地位を追われる。小説では、高岡城で病の床に伏せる利長を見舞うが、それは別れのあいさつでもあった。右近は「御禁制が近い以上、なんどき急に出立せねばならぬかも知れませぬ故に」と覚悟のほどを示している。

     『高山右近 加賀百万石異聞』(北国新聞社)というグラフィックを多用して、右近の人生をたどった本もある。

     なお、2003年に、県内に隠れキリシタンの証拠として保存されていた十字架が戦後の進駐軍のお土産品だったことが分かった(麻柄一志『富山史壇』140号)。幕末から明治初期にかけて弾圧され、長崎から富山藩へ流罪にされた隠れキリシタンの遺物として魚津歴史民俗博物館や県内の寺などに収蔵されていたものだ。

    ●高山線【たかやません】

     富山から高山を経て岐阜まで行くJRの路線。山間地帯を通るので景色は最高だが、遅い!「ワイドビューひだ」というディーゼル特急が走るが、富山からだと米原経由で新幹線を使って名古屋に行った方が早い。2004年の台風で不通になったままだった。2008年に婦中鵜坂駅ができた。東海北陸自動車道ができてから、名古屋までは高速バスが多く使われるようになってきた。

    ●宝塚

     富山県から宝塚に入った女性は少ないが、有峰里妃がいて、剣幸(つるぎ・みゆき)、そして涼風真世(すずかぜ・まよ)という大スターが生まれている。剣幸は富山工業高校の設計科の卒業であり、涼風真世は宮城生まれで中学生の時に伏木にいたという。剣幸は富山県を意識した命名をしてくれて嬉しいが、本人は「けんこう」とか呼ばれたことも多かったという。どうりで「けんこうで長持ち」。

     その後、鳴海じゅんが京都出身だがお父さんが富山大学勤務で少し関係(?)があり、青葉みちるが(86期)にいて、00年には長谷川万葉、04年に愛紗(あいさ)もも、森口梢(こずえ)がデビュー。

     2006年には双子姉妹、杉原麻友(まゆ)、紋加(あやか)さんがそろって合格した。姉は歌劇団星組に所属し、大型男役新人として期待される麻尋(まひろ)しゅんである。三人姉妹そろって「宝塚」という家庭はそうはない。小杉の和田朝子舞踊研究所出身。

     2006年現在、現役は麻尋のほか青葉みちる、夢咲ねね(月組)、天風いぶき(宙組)、夢咲の妹の愛加(まなか)あゆ(雪組)、貴月美礼(宙組)の5人。

    ●宝舟

     結納で水引で作った宝舟が贈られる。この宝舟はそのまま結婚式で返されることになるので、無駄なものである。でも、その無駄が両家の絆になる。

     マリノフスキーの『西太平洋の遠洋航海者』によれば、トロブリアンド群島の人々は「クラ交易」と呼ばれる交換儀礼がある。そこで交換されるのは貝殻でできた装身具だが、装身具それ自体は何の有用性もない(サイズが小さすぎて装着できない)。交換の隠された、真の目的は、その無価値な装身具の交換がスムーズに行われるように、クラ儀礼の当事者の間で揺るぎない信頼関係を築くことや、交換のために遠くの島まででかける帆船を作る造船技術や操船技術に熟達することである。彼らによれば、市場交換(財の取引=経済)はその場限りの「売春の性」に相当し、贈与交換は永続的に持続する「結婚の性」に似ているという。

     まど・みちおの「やぎさんゆうびん」で繰り返される情景を思い出せばいいが、二頭の山羊さんは読まれずに食べられてしまう手紙を送り続けることで友だちで居続けるだろう。1年のタイムラグがある賀状交換も同じで、無意味だが、意味がある。おそらく私たちが日々行っている営為の多くは、それ自体には直接的な有用性がなく、それを行うために動員され、開発される人間的資質に「それ以外の場面における」汎用性が高いがゆえに営まれているのである。

    《贈与と返礼は社会にどのような効果をもたらすか(…)、効果の一つは(…)社会を同一状態に保たないことです。 もう一つの内面的な効果(…)それは、「人間は自分が欲しいものは他人から与えられるという仕方でしか手に入れることができない」という真理を人間に刷り込むことです。 何かを手に入れたいと思ったら、他人から贈られる他ない。そして、この贈与と返礼の運動を起動させようとしたら、まず自分がそれと同じものを他人に与えることから始めなければならない。それが贈与についての基本ルールです。 レヴィ=ストロースによれば、人間は三つの水準でコミュニケーションを展開します。財貨サーヴィスの交換(経済活動)、メッセージの交換(言語活動)、女の交換(親族制度)です。どのコミュニケーションも、最初に誰かが贈与を行い、それによって「与えたもの」が何かを失い、「受け取ったもの」がそれについての反対給付の責務を負うという仕方で構造化されています。それは、絶えず不均衡を再生産するシステム、価値あるとされるものが、決して一つのところにとどまらず、絶えず往還し、流通するシステムです。》 《人間が他者と共生してゆくためには、時代と場所を問わず、あらゆる集団に妥当するルールがあります。それは「人間社会は同じ状態にあり続けることができない」と「私たちが欲するものは、まず他者に与えなければならない」という二つのルールです。》(内田樹『寝ながら学べる構造主義』文春新書)

    ●滝 

     富山には多そうに見えるが、日本の滝百選に選ばれているのは落差日本一の称名滝(立山市)だけ。実は富山の川全部が滝なのだ。

     アルペンルート沿いには称名滝の他にも、弥陀ヶ原に「不動滝」、地獄谷近くには「ソーメン滝」がある。黒部峡谷の十字峡の「剣大滝」や「幻の滝」があり、仙人ダムには「雲切りの滝」がある。

     「とやまの滝37選」というのもあり、朝日ふるさと歩道の先にある「七重滝(しっちゃだき)」、県天然記念物に指定されている立山町虫谷の「岩室の滝」、八尾町東川倉の「川倉の不動滝」、「富山のミニ・ナイアガラ」とも呼ばれる小矢部市名ヶ滝の「一ノ滝」などが選ばれている。

    ●瀧口修造【たきぐちしゅうぞう】

     1903年(明治36年)、婦負郡寒江村、現在の富山市大塚1310番に生まれる。詩人、美術評論家。日本におけるシュルレアリスムの理論的指導者。慶應義塾大学再入学後、西脇順三郎に出会いシュルレアリスムに傾倒した。1930年代には、パリのアンドレ・ブルトンと親交を結び、ブルトンの著作『超現実主義と絵画』の翻訳、フランスの雑誌への寄稿など、活発な活動を行った。戦後は、シュルレアリスムの作家たちを国内に広く紹介するとともに、多様な分野で美術評論を展開した。また、デッサンやデカルコマニーなどの絵画作品も残している。1979年没。多摩美大には瀧口修造文庫がある。富山県立美術館は当時の中田幸吉県知事からの館長要請を断った。しかし、瀧口を讃えて生まれたといってもいい美術館である。『コレクション瀧口修造』(13卷、別巻1) (みすず書房, 1991) がある。

     「瀧口修造と武満徹展」という展覧会も開かれたように、30歳ほど年下の武満徹とも深い親交があった。武満の無名時代、瀧口へのオマージュとして「遮られない休息」を作曲した。黛敏郎を訪ねてその楽譜を見せたところ、独特の旋律に驚嘆した黛からピアノをプレゼントされたという。武満はそれまでピアノを買うお金がなく、紙に書いた鍵盤で練習したり、作曲していたのだった。瀧口の死の際に編まれた『雷鳴の頚飾り』に武満は「閉じた眼」という文を寄せていて同名の曲も作られている。

     未完に終わった自伝的小説『時の乳房』で池田満寿夫は自分を池山満、富岡多恵子を志摩ミナミとしていて、三島由紀夫は三田不二夫、澁澤龍彦は佐戸竜樹、滝口修造は滝口浩二、野中ユリは野辺サクラ、加納光於(かのうみつお)は加瀬光造に変えている。

    「風の受胎」     瀧口修造(『妖精の距離』)

    うつくしい燈(ともしび)のある風が
    樹の葉を灼(や)きつくす
    夜の巨大な蝶番(ちょうつが)いが
    おまえの若さを揺るがす

    雪花石膏の夜
    不滅の若さが翅(はね)のように
    閉じそして開く
    夢がとどろき
    星の均衡が小枝から失われた

    ●炊き込みご飯

     関東で「炊き込みご飯」、関西で「かやくご飯」というが、富山は「炊き込みご飯」「混ぜご飯」である。「かやくご飯」といわれると爆発しそうである。

    ●滝(瀧)廉太郎【たきれんたろう】

     滝廉太郎は父・吉弘が富山県書記官(副知事)になって来たのに伴い、1986年(明治19年)8月から88年(明治21年)5月までを県尋常師範学校附属学校に学んだ。「お正月」(作詞は和歌山県新宮出身の東“ひがし”くめで彼女は日本で初めて口語で童謡を作詞した人)や「雪やこんこん」(作詞は東“ひがし”くめだが、よく知られている「雪やこんこ」の方は作詞者・作曲者不詳の文部省唱歌になっている)は富山のイメージで作られているという人がいる。でも、「お正月」は駒を回したり、凧を揚げたり、羽子板をしたりで、雪で閉ざされていた富山の歌とは思えない。「雪やこんこん」にしても、富山であんなに明るい歌はできそうもない。

     更に、岡城(竹田城)をモデルにしているといわれる「荒城の月」まで富山城から来ていると言い張る人が富山にいる。(^_^;)

     「荒城の月」の碑は土井晩翠が詞を構想したとされる仙台市の青葉城址、会津若松市の鶴ヶ城址、そして滝廉太郎が曲を構想したとされる竹田市の岡城址、富山城西側にそれぞれ歌碑が設置されている。

     その主張から「滝廉太郎祭」なるものも毎年開かれている。有志が作った滝廉太郎の銅像があるが、富山市では「既に50体の銅像がある」「異論もある」としてお蔵入りになったままである。

     富山城説に反論することは難しいのだが、何よりも「荒城の月」は作詞が土井晩翠であり、彼は仙台の青葉城、または会津若松の鶴ヶ城がモデルだとしていたし、滝は子ども時代を過ごした大分県竹田の岡城だと言っていたようで、歌碑もこの3ヶ所に建立されている。

     そして何よりも、廉太郎自身が18歳頃の作品で『古城』という詩がある。この詩は明らかに岡城阯を詠んだものだ(竹田市立歴史資料館に直筆が残っている/大賀寛『美しい日本語を歌う』カワイ出版に再録されている)。

    外掘は田にすきかへされ 内掘は年毎にあせて
    二百年の名残やなに 水草いる辺に槁杭朽ちて
    野菊咲くかげ石ずえ残る 一の木戸か 二の木戸か あなあわれ

    千本の松はや 枝だ折られ 幹裂かる
    誰が家の薪となれる 千本の松のこるはや五本六本

     というのも、富山城は廉太郎の頃、まだ古城になっていなかったからだ!当時は県庁や廉太郎が通った尋常小学校も城内にあった。今の6倍の広さはあったし、石垣もちゃんと残っていた。竹田にある記念館によれば「千本の松」というのも岡城の北側に明治維新まで残っていた松を指すという。土井晩翠が廉太郎の追悼式に呼ばれて、竹田に行った時に作った詩も残っている。

    歴史にしるき岡の城
    廃墟の上を高てらす
    光浴びつつ「荒城の月」の名曲生み得しか

     だから、富山城=荒城ということにはならない。もちろん、廉太郎が富山で感性を育んだことは否定できないけれど。

     ジャーナリストの筑紫哲也は滝廉太郎が大叔父(母親が滝廉太郎の姪)なので、1993年滝廉太郎記念館名誉館長になった。

     なお、札幌のシンボル的な時計台を歌った「時計台の鐘」の作詞・作曲は高階(たかしな)哲夫だ。高階は滑川市出身で東京音楽学校を卒業し、札幌を訪れた際、広大でロマンチックな北海道と時計台をイメージして作ったという。

    ●タクシー

     富山市にはタクシーの「流し」を待っていて、そのまま凍死した人がいたとか。「流し」が県庁所在地でないのは甲府と富山だけだという話もある。だから、「タクシー」よりも「ハイヤー」の方が通じやすい。

    ●たくしあげる

     「まくりあげる」だが共通語で『大辞林』にも「手でまくりあげる。『シャツの袖を―・げる』 」 。

    ●竹スキー

     昔はスキー板など買えなかったから、竹スキーで子どもたちは遊んでいた。一番簡単なのは竹を火であぶって曲げ、スキーの形にしたもので自作した。

    ●筍【タケノコ】

     高岡市西田【さいだ】の筍料理が有名。産地としては小杉町黒河の筍が有名。

    ●筍の昆布煮

     筍を昆布と味噌で煮たもの。他の地方では「筍ワカメ」ということになるが、富山ならではかもしれない。

    ●竹平政太郎【たけひら・まさたろう】

     三協アルミの創業者。1908年(明治41年)12月17日、西砺波郡福田村(現・高岡市辻)の農家の長男として生まれた。早くに父親を亡くし、小学校卒業とともに家計を支えるため、市内の銅器着色業者に奉公。19歳で銅器着色業を起こし、39年(昭和14年)にアルミ産業へ転じた。1960年5月、北陸軽金属(新日軽の前身)を専務で退社し、同6月に51歳で三協アルミを設立。社長として先見性に富んだ経営手腕を発揮し、一代でアルミ建材のトップメーカーに成長させるとともに、アルミを県西部の一大地場産業に育て上げた。2003年に死去。享年94。『無私大道・竹平政太郎の軌跡』という伝記がある。

    ●凧【たこ】

     大門で凧あげが始まったのは、土手を固めるためだったという。大門町枇杷首で5月第3日曜には凧祭が開かれる。全国から愛好者が集まる。富山県では正月にたこ揚げする習慣がない。というか雪でできない。また、「凧」をイカという地域が多いが、富山はタコである。

    ●タコガイ

     オウムガイ。貝というよりタコの仲間なので、正確な方言といえる。富山湾にも流れつくので、海岸から拾ってくる人も多い。

    ●だごじる

     だんご汁。

    ●田子タケノコ

     タケノコの産地として知られる高岡市西田の隣接地となる氷見市上田子、下田子、小竹、宮田などで収穫される筍。あくが少なく、色が白いのが特徴。

    ●だごの木

     「とねりこ」。昔の翻訳者は英語で知らない木が出てくると全部「とねりこ」にしたという話が残っている。

     新湊は水郷地帯だった。新湊市博物館に行けばその頃のジオラマがある。

     とねりこは水辺に植えられていた木である。この木の間に横の棒をかけて、稲を干した。

     とねりこはまた、バットの材料になったので、富山はバットの産地である。プロ野球選手のバットの多くが富山で作られている。

     小さい頃、大阪に出張する父親にバットの土産を頼んだことがあるが、富山県で作られたものだった。

    ●担籠(田子)【たご】の藤波

     氷見市の田子藤波神社の藤。万葉集にここのフジを詠んだ歌が何首もある。芭蕉は『奥の細道』の途中「担籠の藤波」に立ち寄りたいと思い、黒部から藤波へ行こうとしたが「宿がないからあきらめた」という。

    ●たしまい〜たしまえ

     「足し前」、つまり補助。例:「わし、ちょっこ、たしまえしたげっから買われ」(私がちょっと補助をしてあげっから買いなさい)。

    ●だし巻き

     関東では「厚焼き卵」、関西では「だし巻き」というが、富山はただの「卵焼き」か、せいぜい「厚焼き」である。「卵」までは言わないかもしれない。「だし巻き」というのは砂糖を入れずに、出汁を多く使うからである。

    ●他所

     「よそ」と言わずに「たしょ」という人がいる。

    ●多重衝突事故

     「玉突き事故」。2006年2月3日夜に射水市の北陸自動車道上り線で計61台が絡み、31人が重軽傷を負った多重衝突事故が有名。僕も富山大橋で多重衝突にあったことがある。10台絡んだホントの重大事故だった。

    ●たずねる

     もちろん、「尋ねる」「訪ねる」の意味でも使うが、「探す」という意味で多用。例:「あんた、その本、たずねてみたがけ?」(あなた、その本、探してみたのですか)。

    ●たずる〜たづる

     開作舟。田植えをしたり、刈った稲を運ぶための小さい、底の平たい舟。射水平野が湿田だから発達した。

     高瀬保『富山の民俗』によると次のようだ。

     長さ1.5〜2間、巾3尺の杉材からできている小舟で、底は平らである。これは湿田であるので、田んぼの面を滑らせ、肥料をまくとき、稲を架に運びときに利用された。田んぼを滑らせるため、タズルミチといって稲の切株を2列踏んだ。タズルは後からおし、横に入る人は方向を決めた。なお、このタズルは、イクリフネに乗せて運ばれるように大きさが作られている。

     射水郷のうち、片口(“越の潟”の口)は正保4年(1647)に村高が315石と記され、承応3年(1654)には16軒の家があった。寛文10年(1670)には村高658石のほか、新開高360石をもつ1000石以上の大きな村落に成長した。文政元年(1818)の記録によると、村に89艘もの開作舟があると記されている。

    ●たたき

     「土間」。叩いて作った場所だから。

    ●だだみ

     「内臓」。例:「魚のだだみが出てしもうた」。

    ●ただ分かる

     「黙っていても自然に分かる」。例:「あいつぅ、ふどくっとるがちゃ、ただ分かっちゃ」(あいつがお金を横取りしていることは当然のことながら分かる)。

    ●だちかん〜だちゃかん

     有名な富山弁であるが北陸で共通に使う。「埒があかない」が訛って「だちあかん」「だちゃかん」になったとされる。他県の人には分からないので使ったらだちゃかん。真田信治・友定賢治『地方別方言語源辞典』(東京堂出版)には東海方言だと記述してあるが、あやしい。藤村の『家』には「『彼様な者はダチカン』と実は思はず国の言葉を出した」というのが出てくる。

    ●たちふるまい〜たちぶるまい

     婚約した女性が結婚式前に友達を呼んで行う披露の宴会。

    ●たちまえ〜たてまえ

     「建て前」で「棟上げ式」のこと。コミュニティが機能していた時にはみんな会社を休んで手伝いに来たものだった。

    岩崎俊一(積水ハウスSHAWOOD)
    むね上げ。
    むねがこみあげる日、という人がいた。

    ●たちもん

     「建物」。例:「あのたちもんなんけ」。

    ●立ちる

     「立つ」。「立てっとる」とか「立ちっとる」という。例:「やっと立ちったちゃ」(ようやく子どもが立った)「そこのじっと立ちっとられか」(そこにずっと立ってなさい)。

    ●だっか

     「誰か」。日本赤軍によるダッカ事件があったが、何となく富山の人が起こしたように思えて仕方がなかった。当然、「どこか」は「どっか」になる。例:「だっか、てつどうてぇ」(誰か、手伝って)。

    ●たっかん〜たっくぁん

     「沢庵」。沢庵を酒粕で似る田舎煮は気持ち悪かったがおいしかった。これは浸かりすぎた沢庵を塩出しして、(うちの場合は)酒粕、味噌か醤油などで煮たものである。「たっかんの煮たが」と母は言っていたが、「こうこの煮たが」とか「古たくあんのかす煮」など色々な呼び方がある。

    ●達者

     方言ではないが「元気」の意味でよく使う。例:「あんたぁ、達者でおられか」(あなた、元気でおいでなさいな)。

    ●…たった

     「行ったった」「来たった」というのが高岡の言葉の特徴。←たったこれだけ?

     ちょっとした敬語なのだが、柴田武「方言調査法」(東条操編『日本方言学』吉川弘文館)によれば、次のように書いてある。

     能登地方一帯の、話し手以外の行動を敬意をもって表すのに、「タッタ」という語尾が用いられる。(例、カイタッタ「お書きになった」)。これが「……テ ヤッタ」から変わった形であることを多くの人が指摘するが、その語源の妥当なことは、能登島の野崎で「カイテ ヤッタ」のようにしか言わず、富山県氷見市でも「カイテ ヤッタ」が普通であることから証明される。

    ●たっちょ

     「太刀魚」。「辰雄」という名前だけで「たっちょ」とあだ名された子がいた。

    ●だてこき

     「伊達をこく」から「かっこつけ」。例:「あのっさん、ちょっとだてこきやからついてけんちゃ」・「あんた、そんなにだてこいてどこ行くがいね」。

    ●たてもん祭り

     魚津の旧漁師町のお祭りで豊漁と航海の安全を祈願するもので秋田の竿灯に似ている。神に捧げる魚を満載した舟を型取っている。15メートルの大柱に90個くらいの提灯を三角につるしたものを、1.5トンのソリの上に立てる。8月7日、8日の両日に開かれて諏訪神社の御祓いを受けた後「ヤッツァオレ!」というかけ声で旋回する。

    ●立山【たてやま】

     「越中で立山、加賀では白山、駿河の富士山、三国一だよ」と越中おわら節で唄われる。しかし、立山という山があるわけではなく、「立山連峰」があるだけだ。中央が雄山、大汝山、富士ノ折立からなる立山主峰。両わきの浄土山と別山を合わせ、「立山三山」と呼ばれる。

     修験道が盛んに行われたが、南から浄土山、雄山、大汝山、別山、剱岳の諸峰が並ぶ構成は密教曼荼羅の身体と五智を結びつけているといわれる。

     国土地理院では地図上には「立山」と表示しているが、1つの峰に対してではなく、「雄山(おやま)」「大汝山(おおなんじやま)」「富士の折立(ふじのおりたて)」の3つの峰の総称として「立山」としているそうだ。主峰は「大汝山」で3015mです。主峰とよく間違われる「雄山」は3003m。国土地理院の表記上に「立山連峰」というのはない。

     語源は「太刀山」とも「絶ち山」とも「顕(た)ち山」ともいう。「顕(た)ち山」とは神の顕現する(はっきりと現れる、あらわし示す)山との意味があり、「神山」であることを示していた。「ついたち」というのは「月立ち」で「月が現れる」、「夕立」というのも「夕に雨が現れる」ということで、「たち」には今まで存在しなかったもの、一般に神秘なものが忽然と現れることを指した。

     弥陀ヶ原や地獄谷、室堂という名前は白山とも共通だ。

     立山というと山崎カール(圏谷)というのを学校で覚えさせられた。かつてあった氷河の名残である。

     昔は立山に登って初めて成人になったとされた。な〜に、そのまま女郎屋で乗り込んだだけだったようだ。明治生まれだった父親は新湊から歩いて立山まで登ったという。当時は白山より低いとされたので、みんな石を持って立山の上に置いてきたという。70歳を超えた11月3日に近所から立山の室堂までバスで行った時に、父が雨の中、頂上まで登ったのでびっくりしたことがある。遭難騒ぎになる所だった。

     昭和40年代までは小学校で団体登山が盛んだったが、危険があるので敬遠されたが、県の「12歳 立山夢登山」などの企画がされ、増えつつある。

     黒部峡谷鉄道とごっちゃにされることが多いが、アルペンルートというのがあって、室堂から黒四に降りて、大町に出るルートがある。マイカーで来る人のために「立山トラフィックサービス」という車を反対側に回送してくれる会社もある。

     冬の晴れ間に立山連峰がくっきり見える時、富山に住んでいてよかったなぁ、と実感する。名文中の名文が以下である。

     立山は圧倒的だった。あの街に住んでいて立山から逃れる術はなかった。なにしろ太陽はいつも立山の上にあるんだからね。あの山だけは密度の違う、とてつもなく重い物質で出来ているようにボクには思えた。
     冬だってちょっと雪がやんで薄日がさして来る夕方なんかに、真っ白な立山が見えることがある。ぐわっと見えるんだ。そんなとき、ボクの血はすごい勢いで冷えながら全身を巡った。
     春先に海辺から眺める立山は、優等生が送って来る絵はがきのようだった。青い海と冠雪の山を撮ろうとしてやって来る素人カメラマンたちが、都会の終電のホームから落ちそうな酔っぱらいみたいにたくさんいた。彼らの血はボクのよりずっとあたたかいんだろーと思った。

         -----絲山秋子『不愉快な本の続編』(新潮社)

     宮本輝『天の夜曲 流転の海・第四部』では主人公の松坂熊吾が息子・伸仁が大阪でやくざとも平気で交友していたことを知って、富山に引っ越してから思う。「いささか野放図に、したい放題に育てすぎたなと熊吾は思った。富山で、毎日、立山連峰を見て、こましゃくれてはいない子供たちとクラさせるほうがいい……」。

     なお、「立山」が富山県内の小学校にどのくらい歌われているのか調べてみると、234校中156校(全体の67%)の校歌に「立山」が歌われているという。

     立山に隠れて富山に「富士」は少ない。富士ノ折立(立山北端にあるピーク・3000m)、利賀富士(尾洞山・943m)、南保富士(無名峰・727m)だけ。

     立山を最初に見た外国人はイギリスの外交官アーネスト・サトウであろう。1867年(慶應3年)夏に、佐渡から七尾に向かうイギリス軍艦バジリスク号から眺めたことを『一外交官の見た明治維新』(岩波文庫)に書いている。

    「八月七日の早朝、われわれは約一万フィートの立山(タテヤマ)火山を中心とする越中(エッチュー)の高い連峰が見えるところまで来ていた」

     また、昭和天皇御製の次の歌が作曲されてよく歌われたものだ(大正14年御歌会始式)。

    立山の空にそびゆる雄々しさに ならへとぞ思ふ御代の姿も   

     頂上には社殿があり、古びていた姿を写真家の風間耕司さんが撮って『万華鏡』で知らしめた。

    立山の巌に立てる古祠あふぎ見ればそれも巌の如し   川田順

     1996年に百数十年ぶりに建て替えられた。

    ●立山カルデラ 

     カルデラ(caldera)はポルトガル語で「大鍋」の意味。 東西6.5キロ、南北4.5キロ、深さ700メートルの巨大なくぼ地で、火山活動と浸食でできたとされ、地質はもろい。1858年(安政5年)の大地震で起きた土石流で、今も富山平野を高さ2メートルまで覆うほどの土砂がカルデラに残っている。

    ●立山黒部貫光

     アルペンルートを管理する会社。佐伯宗義が「観光」ではなく、立山を貫くからということで「貫光」とした(が、無理がある)。

    ●立山砂防工事専用軌道

     通称は立山砂防軌道もしくは立山砂防トロッコ。常願寺川流域の砂防施設建設に伴う資材・人員の輸送を目的とする。鉄道事業法や軌道法の適用を受けず、労働安全衛生法に基き運行される工事用軌道ではあるが、18キロの区間にスイッチバックがあり、一部区間では18段に及ぶ連続スイッチバックがあること、かつて工事用軌道や鉱山鉄道で広く採用されたものの、現存する一般の鉄道路線では例がない610mmのナローゲージを使用していることで知られる。

     酒井順子『女子と鉄道』(光文社文庫)には立山砂防工事専用軌道に乗った話が出てくる。スイッチバックを繰り返す鉄道で、酒井が乗った当時は42段のスイッチバックがあった。広大な崩落、大規模な砂防施設などあまりにも現実を離れた風景に圧倒されて下山後、宇奈月温泉で高熱を出したという。本人は「知恵熱」だといい、原因は「立山の強力な磁場」のせいだという。

    ●立山信仰

     立山信仰は平安末期には成立していたようだ。

     大宝元年(701年)佐伯有若が越中の国司として在任中、その子の有頼が白鷹を追うて立山の奥深く入り、弥陀三尊の姿に接して随喜渇仰し、慈興と号して立山大権現を建立したという。 『三代実録』にも「清和天皇貞観五年(863年)九月甲寅正五位下なる雄山神に正五位上を授けられ」たという記録がある。雄山神とは立山のことである。

     平安時代以降、山岳信仰の修験場として脚光を浴び、天台密教や、浄土教の影響を受けて独特の立山信仰を形成した。平安時代後期の『今昔物語集』には「日本国ノ人罪ヲ造テ多ク此ノ立山ノ地獄ニ墜ツト云ヘリ」とみえ、立山が地獄を有する山として広く人々に認知されていたことが分かる。宗教的に管理したのは山麓の岩峅寺(いわくらじ)・芦峅寺(あしくらじ)で、芦峅寺にあるうば堂から先は立山大権現(阿弥陀如来「垂迹イザナギノミコト」・不動明王「垂迹タヂカラオノミコト」)の霊地であるとして女人の上山が禁じられていた。

     当時は、白衣にスゲ笠、わらじばき、金剛杖の清らかな姿で仲語(ちゅうご)《霊山案内人》に従って立山禅定(たてやまぜんじょう)《精神を統一して真理を体得すること》がなされた。近世に入ると、立山縁起を図解した曼陀羅(まんだら)をもった芦峅寺の衆人社人によって、諸国檀那(信者)回りが行われ、立山信仰が全国に普及し、修験者だけでなく庶民も盛んに登拝した。

     地獄谷は『今昔物語』に罪障の深い者が死後にこの地獄に堕ちたという話があるし、謡曲『善知鳥』(うとう)の中にこの地獄谷に行けば死に別れた父母や妻子に会えるという話も残っている。能もある。

     山岳信仰といっても、立山、白山には山頂に地獄があるとされるのが特徴で、恐山、立石寺、高野山などは死者の霊と結びついている。山自体がご神体なのは三輪山(奈良)、諏訪社(長野)、金鑚社(かなさんな・埼玉)などで人が登ることは禁止されている。羽黒(山形)、大山(鳥取)、石槌(愛媛)などは修験者の修行の場でもあった。

     特に大山は天台宗の大山寺の寺伝によれば、出雲国玉造の俊方という猟師が地蔵菩薩の霊験によって発心し、金蓮上人となって開基したというから、立山開山伝説に類似している。別の話によれば、出雲国玉造の猟師依道が美保の浦のあたりを通っていると、金色の狼があらわれた。不思議に思ってそのあとを追うと狼は山の洞へ入った。射殺そうと矢をつがえると、矢先に地蔵菩薩があらわれ、狼は老尼となった。老尼は「自分は都藍尼といい、三生の亙り行人としてこの山を守り、今は山の神となっている(宮家準『修験道思想の研究』春秋社)。山の神の化身である「金色の狼」と「依道(よりみち)」という猟師が現れていて、典型的な修験に関係した開山伝説である。宮家によれば、その証拠に猟師の名・「依道」は「憑きもの」を憑かせて神託・予言などをさせる「憑(よ)りまし」に由来すると語っています。縁起に現れる猟師は、みな加持祈祷をした修験者(山岳修行者)を意味していることになる。

     材木坂という柱状節理の安山岩が材木のようなさまで縦横に横たわっているところがある。昔女人堂を建てようとして材木をここまで運んでおいたところ、ある尼さんが来てそれを跨いだため、一夜のうちに材木が全部石に化したと伝えられる。

     福江充『立山信仰と立山曼荼羅―芦峅寺衆徒の勧進活動―』(岩田書院)『近世立山信仰の展開』(岩田書院)などが詳しい。

     立山信仰に比較できるのは「白山信仰」である。白山にも立山と同じように地獄谷、弥陀ヶ原、室堂がある。元は「しらやま信仰」といって加賀の白山だけを指したのではなかった。越前、加賀、美濃の三国にまたがってそびえ立つ白山を対象とする信仰で白山が信仰の対象として仰がれるようになったのは、大化(645〜650)前代だといわれる。つまり白山信仰は、白山に源を発する九頭竜川、手取川、長良川流域の人々の間から、また相前後して日本海で白山を航路案内とする漁民の間から自然に発生したものとされる。その後、奈良から平安時代にかけて全国的に山岳信仰が盛んとなる中で、白山にも717年越(こし)の大徳といわれた泰澄(白山修験道では尊称して泰澄大師“たいちょうだいし”という)が初めて登拝し、これ以後登山口には修験の道場が置かれ、ここを中心に白山信仰は全国に流布し、新たな展開をみせた。

     泰澄は682年(天武天皇11)に越前麻生津に生まれたといわれ、初め越知山(おちさん)で修行し、719年(養老3)に白山に登り白山修験道を開いた。その従者に臥(ふし)行者と浄定(じょうじょう)行者があって、彼らに奇跡を行ったことは有名。開山後も諸国で修行した話はかなり信憑性があるとされる。京都では稲荷(いなり)山で修行し、愛宕山を開き、大和吉野山でも奇跡を現し、阿蘇山にも登った。そして400年後にも泰澄は白山に生きているという信仰があった。

     2004年になり、芦峅寺の雄山神社権祢宜(ごんねぎ)の佐伯史麿)がかつての立山信仰の行事を再現しようと、修験道の護摩の奉納を始めた。立山を開山した佐伯有頼公の縁日、七のつく日に三月まで計六回行う。佐伯は、立山信仰の中で明治時代の神仏分離政策以後に衰退した、修験道の要素を復活させようと、芦峅寺の宿坊に残っていた修験道作法書の史料をもとに、先祖の手記や、出羽三山(山形県)や大峰山(奈良県)での修行で得た知識などを集大成し、現実にできる範囲にアレンジした護摩の次第書を完成させた。

     「立山信仰」が江戸時代末期、江戸城の大奥や老中などにも及んでいたことが明らかになった。 福江充学芸員は立山町芦峅寺の墓地に立つ石仏に「西御丸(にしおんまる)」「八重嶋(やえじま)」の文字が刻まれていることに着目して。江戸城の「西の丸」と関連があるとみて、江戸城の大奥を研究している東京都江戸東京博物館の学芸員に問い合わせた。 その結果、八重嶋は、江戸城の西の丸大奥にいて、後に13代将軍となった徳川家定に付く侍女と判明。八重嶋が1852年(嘉永5年)、地獄に落ちないようにと2体の石仏を下女を通して寄贈したことを記した古文書が、地元の宿坊に残されていることも分かった。 福江学芸員は安政の大獄(1858-59年)の時に老中を務めていた松平乗全(のりやす)から、宗教図曼陀羅(まんだら)の寄進があったことも解明しており、「立山信仰は江戸城の本丸や大奥の中にも広がり、武家に広く受け入れられていた可能性が高い」と結論づけている。

     山岳信仰というのはジョン・デューイが『経験としての宗教』で書いている「宗教的経験」を提供してくれるから始まったのだろう。ご来迎を拝むと、誰でも霊的なものを感じるであろう。西行が伊勢神宮を前にして「なにごとのおわしますかはしらねども、かたじけなさに涙こぼるる」と詠んだのと同じ気持ちなのである。

    ●立山杉

     県木になっている。

    ●立山連峰

     立山という山はないが連峰はある。よく屏風みたいだといわれる。冬の晴れた日の景色はそれはそれは見事なものだ。

     安西水丸の『たびたびの旅』(フレーベル館)に「フクラギを食べに行く(富山・氷見)というエッセイがある。

     氷見の町でいつもはっとするのは、水平線上の立山連峰だ。はじめは海の上に雲が浮かんでいるのかとおもったが、それが雪をかぶった山々だったのだ。下の方がかすんでいるので、よけいに雲みたいに見えた。

     左から烏帽子岳、僧ガ岳、駒ガ岳、毛勝岳、猫又山、剣岳、奥大日岳、大日岳、立山と、まるで幕内の土俵入りみたいに並んでいる。

    ●立山連邦

     高岡市の2009年「高岡開町400年記念事業」に際して発行された記念商品は立山連峰を「立山連邦」と誤植してしまった。これを逆手にとって記念事業を推進していた高岡次世代経営塾は立山連邦王国なる架空のミニ独立国を建国した。

    ●立山をあおぐ特等席

     「立山あおぐ特等席。富山市」というのは富山市のキャッチフレーズ。富山市役所の展望台は無料(駐車料金はかかるが)で大好きだ。

    ●たてる

     「その戸、たてといて」と言われてそのまま立っている人がいるが方言によっては「たてる」は「(戸を)閉める」の意味です、というのを小さい頃、雑誌で読んでおかしいな、と思っていたが、両親がしっかり「たてる」というのを「閉める」の意味で使っていた。

    ●田中耕一

     化学技術者。「生体高分子の同定および構造解析のための手法の開発」によりアメリカのジョン・B・フェン、スイスのクルト・ビュートリッヒとともに2002年ノーベル化学賞を受賞。「小さな革命」という言葉が授賞理由に入っているが、分子量の大きなタンパク質の質量を正確に測定するという「化学者の夢」を田中は特別な試料とレーザーを使って、フェン教授は別な方法で実現した。山田孝雄以来、県内2人目の文化勲章受章者。奥さんの裕子さんとともに「寝耳に水」と本人がいっていた受賞で戸惑う様子と飾らない人柄。富山市新川原町出身で同市八人町小【“はちにんまち”で作家の宮本輝も1年在籍/星井町、五番町、清水町の三小学校統合で統合校は現在の五番町小の敷地に設置される方向となった】、芝園中、富山中部高を卒業後、東北大に進み、島津製作所に入社、一貫して社内で研究に携わった。1980年代後半以降、タンパク質など生体中の巨大分子の質量を精密に測る「ソフトレーザー脱着法」を開発した。この方法は、タンパク質をグリセリンや金属微粒子と混ぜ、レーザーのパルスを当てることで、タンパク質分子を電気を帯びた状態で飛散させる。その動きの速さから分子の質量を手早く測る仕組みで、それまで難しかった生体内のタンパク質の特定を可能にした。43歳での受賞は故湯川秀樹博士の42歳に次ぐ若さ。ノーベル賞102年の中で初の博士号をもたない受賞者となった。自らは「ヘンジニア」ということがある(マーク・トウェインは「新しいアイデアをつかんだ人は、だれでも変人になる。その考えが成功するまでは」と言っているがまさにその通り)。

     会見で「コツコツ続ける堅実さと粘り強さは富山の地のおかげ」と話し、「富山の人は忍耐強いと言われるが、私はまさにそのタイプ」。自らの「原点」である富山への思いを述べ、控えめに喜びを語った。地元に広がる県民挙げての祝福ムードに「そんなに盛り上がらないで」と照れ笑いしていた。県出身とあって、好物は昆布。昆布かまぼこや昆布じめが好きでよく食べた。晩酌は1日おきにビール1本。クラシックとビートルズなどの洋楽が好きだという。

     奥さんは田中裕子で女優とは同姓同名の別人。富山中部高校・同志社大学卒の才媛。田中氏とは同郷・同窓のよしみで、互いの知人が設定した見合いにより結婚した。新婚旅行は奥さんが行ったことがない関東だったという。

     「小学生のころ、電車の運転士になりたかった」といっていたが、受賞の報告で上京して「新幹線ののぞみに初めて乗れ、うれしかった。出張でのぞみは高いので」と語った。確かに、田中の“望み”は高かった。

     日本外国特派員協会で会見した時、研究者の評価方法について「日本は減点主義だが、欧米は加点主義。どんな成果を挙げたかで評価すべき。自分は数えられないほど失敗したが…」、「若い女性から癒し系と呼ばれているが?」と質問されると「独身だったらよかった」と答えて会場を沸かせた。

     僕が出ていた『とやま夢航海』の10月9日の中で田中世津子さんが手作りオモチャとしてびっくり箱を紹介したのだが、このびっくり箱は田中さんが初めて地元に帰った時に子どもたちがプレゼントしてびっくりさせていた。ちなみに、田中世津子さんは田中さんのお兄さんのお嫁さんで実家がプラモデル屋さんだったという。

     11月21日放送のNHK『にんげんドキュメント』は新たな田中神話を作った。東北大に入学する前の3月31日に初めて実母が幼いころ病死したことを聞かされ、ショックを受けた。実母は田中さん出産後、一か月足らずで死亡。富山市に住む実父の弟で養父の光利さんに預けられた。実父も84年に亡くなった。養父は鋸の目立て職人でコツコツ仕事をする人だった。実家のある富山市新川原町周辺は昔、木町と呼ばれ、木材の陸揚げ場があった。2003年6月のニューヨークでの講演で、のこぎりの目立て職人だった父親の仕事姿をスクリーンに映し出して「こういうことで世の中に役立つということを、父の背中を見ながら教わりました」と語った。。

     東北大でドイツ語のせいで留年したのも母の病死のショックからだという。ソニーは口べたが災いして落ちたのだが、その後、島津に決ま、内定後に見学に行った時にタンパク質の分析研究を知らされ、「お母さんが小さい時に亡くなったから、人の命を救う仕事をしたい」と話したという。授賞式の前の英語のスピーチでは「高い専門知識や学歴がなくとも、化学技術の発展に貢献できることを実証できました」と無名の“企業研究者”だった自分の姿を語って締めくくり、笑顔を見せた。

     無関係だが井上章一『人形の誘惑 招き猫からカーネル・サンダースまで』(三省堂)の中に島津製作所がマネキン人形を手掛けてきたという話が書いてあって面白かった。不思議な会社なんだなぁと思った。

     2003年に本人が書いた『生涯最高の失敗』(朝日新聞社)が出版された。

    ●田中聡【たなかさとし】

     1962年、富山県生まれ。富山大学人文学部卒業。同大学文学専攻科修了。荒俣宏の弟子となる。著書に『怪異東京戸板がえし』(評伝社)、『ハラノムシ、笑う』『なぜ太鼓腹は嫌われるようになったのか』『正露丸のラッパ』(ともに河出書房新社)、『衛生展覧会の欲望』『健康法と癒しの社会史』(ともに青弓社)、『「超人」へのレッスン』(中央公論社)など。

    ●田中冬二【たなかふゆじ】

     詩人。福島市に生まれる。本名・吉之助。7歳で銀行員であった父を失い、12歳で母(安田善次郎の姪)をも失い、善次郎の縁籍に連る東京の母方の叔父の家に育った。心の支えになったのが、両親の出身地の富山、特に父の故郷である生地だった。その後、立教中学を終えて銀行員となり、支店長も務める。詩作は1921年(大正10)ごろから本格的となる。『詩聖』『パンテオン』『オルフェオン』を経て、40年(昭和15)『四季』に参加。詩は澄明精緻(せいち)な叙情。詩集は『青い夜道』(1929)以後、『海の見える石段』(1930)、『山鴫(やましぎ)』(1935)、『故園の歌』(1940)、『山の祭』(1947)、『晩春の日に』(1961)、『葡萄(ぶどう)の女』(1966)、『サングラスの蕪村(ぶそん)』(1976)など。「しぶしぶと雨が降り/新蕎麦(そば)とかいた行燈(あんどん)が出てゐた/山がせまり 二つの谷が落ちあつてゐた」(小さな山の町)。

     林望は『かくもみごとな日本人』(光文社)の中で次のように書いている。

    日本の近代に最も新しい詩を創った人は誰かと問われたら、萩原朔太郎と答えよう。では、最も美しい詩を詠んだ人はと問われたら、私は迷わず田中冬二と答えよう。

     富山を歌った歌が多いが、黒部峡谷の黒薙温泉を描いた「くずの花」はその代表作の一つで飾りを取った見事な詩になっている。林望も『愛詩てる。』(実業之日本社)で絶賛しているが、「黒磯温泉」になっている。黒薙温泉の石壁や黒部市生地の名水公園に碑がある。

    くずの花

       ぢぢいと ばばあが
       だまつて 湯にはひつてゐる
       山の湯のくずの花
       山の湯のくずの花

    ●棚田

     「日本の棚田百選」に富山から2個所選ばれている。氷見市・長坂と八尾町・三乗である。新潟が7個所なので、富山は少ないといえる。

     撮影スポットとして有名なのは氷見市坪池の棚田である。石川県境に近い山間地で、富山湾を望む場所で、田植えを終えたばかりの水田が朝焼けに照らし出される。あぜが描く優美な曲線がシルエットとなって浮
    かび上がる。坪池の棚田で栽培される米は、味と品質の良さから「坪池の別倉米」と呼ばれ、県外からも注文が寄せられている。

     棚田のオーナーという制度もあり、相倉合掌造り集落の棚田が有名で、オーナーは田植えから稲刈りまで楽しむ。

    ●七夕 

     結婚して子どもが生まれるまで富山では七夕が男の行事とは知らなかった。実家は大きな、大きな七夕を持ってくる。何十万もするような七夕もある。満艦飾という感じである。

     高岡では江戸時代より七夕が行われていたが、昭和初期より盛んになった。特徴は願い事を短冊に書き、「七夕飾りを取っておくと、ろくなことはない」といって川に流すところだ。子どもの健やかな成長を願うとともに技芸の上達を願い、心をこめて書いた短冊を大きな竹に結び、提灯や吹き流し等の飾りをつけ、千保川などの大きな川へ流すものだった。これは短冊に書いた願いが川を経て天に通じるという伝説にもとづくものであり、伝統ある七夕祭りである「乞巧奠」(きっこうでん)の形をそのままひきつぐものだ。平均的なもので、提灯50個、短冊500枚、よたか行灯が80センチ四方、高さ10メートルだという。素人では建てられなくて大工さんに3万は払わないと立たない。井上靖に「七夕の町」という短編がある。

     ただ、派手なのは呉西だけで、呉東は少ない。七月に呉西の玩具屋さんへ行くと飾りがいっぱい置いてある。呉東の方にはほとんど置いてない(入善の七夕が有名だが、商工会の行事としてあるだけ)。僕も提灯を10数個買ってきて自分で配線して付けた。

     なお、呉西の多くは東北地方などと同様、月遅れの旧暦で祝う。「戸出七夕まつり」だけは7月に行われ、華やかだ。

     入善町舟見では7月6日から家ごとに七夕竹が立ち、成長を願う子どもの名前を記した短冊や夏野菜を描いたもの、赤ちょうちん、五色のテープ等をつるす。数日前から町内毎に七夕宿に集まり、歴史上の人物や漫画の主人公を模した等身大の人形を作る。この人形は町内の店先などに立てて披露する。6日の夜は花火もある。昔は7日の夜の十二時を過ぎると、七夕飾りや人形を大八車に積んで、愛本橋のたもとに運び、燃やして黒部川に流したという。人々の罪や汚れを人形に託して焼くことで身が清められるという願いからでと七夕笹はお盆の精霊がよりつくという意味がある。無形民俗文化財に指定されている。

     入善町吉原では屋形舟を作る。大きさは1.2m位で、船ばたにナス・キュウリ・カボチャなどの野菜を刺す。この船を地区内をかついでまわり、最後に海に流す。8日朝には子どもたちが裸になり、白鉢巻きをしめて泳ぎながら、屋形船は帆に風をはらませて北を指して進む。

     黒部市尾山では、男の子が船・行灯、女の子が姉様飾りを小川で流す。8月7日になると、全員がそれらを持ち寄り、地区の中を流れる小川を流して歩く。女の子の姉様は胴体となる竹串を板にさし、板の四方などにさした別の竹串に紙の投網を付けるなどした華やかなもの。七夕船、七夕の灯籠、七夕人形が残っている貴重な行事(石沢誠司『七夕の紙衣と人形』ナカニシヤ出版)。県指定無形民俗文化財。

     魚津市では昔から7月1日から6日までの間に笹飾りをする。いろいろな短冊や提灯をつるし、終わったら海に流す。このように笹飾りを海や川に流すのが先の高岡市、入善町、魚津市のほかに富山市、立山町、八尾町、新湊市でも行われていた。

     魚津市上村木では屋形舟を担ぎ、ナマハゲのような人物が現れる大正3年(1913)、上村木(当時の加積村)の少年たちが、入善町吉原の屋形船御輿をかつぐ祭りにヒントを得て始めたといわれる。8月6日の宵祭りをへて、8月7日は昼過ぎから太鼓を積んだリヤカーが祭太鼓を叩きながら町内を触れまわる。夜になると、触れ太鼓および屋形船を担いだ男たち、家庭で作った七夕飾りを持った人たちが行列を作って町内から魚津駅前を練り歩くが、この祭りの特徴は、天狗や狐などの仮面を付けた「あじろ」と呼ばれるナマハゲのような人物が多数、行列について歩くことである。彼らは色染めしたテープ状のカンナくずを、頭には頭髪のように、肩・腰には蓑のように付け、手には木刀や長刀を持って歩き、子供たちを見つけると厄を払い強い子になれるようにと抱いたりする。行列は最後に上村木町内の公園に戻り、花火が打ち上がるなか、屋形船や「あじろ」たちが、公園を走り回ってフィナーレとなる。屋形船は当初、竹・木の骨組みに杉の葉を付けていたが、軽量化のため緑色に染めたアジロ(カンナくず)を採用した。

     富山市開発では、7月6日の祭りの日に軒下に七夕棚という棚を組み立て、なす、きゅうりなどの初物をひもにつるして供える。

     福光町では子どもたちが主体の虫送り系である。7月の土用の3番(土用の入りから3日目)に行われるイモチなどの病虫害除けを祈願する虫送り系の七夕祭り。この日、イザナギ、イザナミの両神をかたどった「じじ」「ばば」と呼ばれる紙人形を高瀬舟(紙張子の舟)に乗せ、正午過ぎから威勢良く太鼓を打ち鳴らし、田んぼの間を練り歩く。子ども達が五色の短冊を飾った笹竹で稲田を払い、「おくるわ〜い、おくるわ〜い、熱おくるわ〜い」と、はやしながら集落をくまなく回り、最後に豊作を祈って、人形を舟とともに小矢部川に流す。

     ちなみに織り姫と彦星が天の川を渡る時には鵲(カササギ)がどこからともなく飛んできて翼を広げて橋を作ってくれるという。「鵲橋(じゃっきょう)」と呼ばれる。

     「七夕の七姫」という言葉がある。織り姫の別名を七つ集めたもので、諸説あるうちの一つは「朝顔姫、梶葉(かじのは)姫、糸織(いとおり)姫、蜘蛛(ささがに)姫、秋去(あきさり)姫、薫物(たきもの)姫、百子(ももこ)姫」という組み合わせだ。梶葉は今の短冊の原形、蜘蛛はクモで機織りのたとえ、秋去は姫が織る秋の衣を指す。薫物は七夕の行事で物をたいたからで、百子は天の川の異名が百子池だったためだ(「日本国語大辞典」)。で、朝顔姫だが、アサガオの別名が「牽牛花(けんぎゅうか)」なので牽牛の妻をこう呼んだという。アサガオは大陸から渡来した時は牽牛(けんご)と呼ばれていた。

     折口信夫によれば、七夕とは水辺のかけ作りの棚で機を織りながら水神の訪れを待っている女という意味で、水神を迎える祭儀に由来するという。

     新湊の堀岡では七夕行列をした。「竹の短冊 七夕祭り 盆に踊れば いちゃけに踊れ」といいながら、子どもたちが提灯をもって、町内を回るのである。その時、お菓子をもらうこともあり、ちょうどハロウィンと同じことをしていたのだ。同じ行事は北海道でも残っていて、「竹に短冊 七夕まつり おおいや いやよ ローソク一本 ちょうだいな」と同じような歌を歌っていた。

     神崎宣武『「まつり」の食文化』(角川選書)によれば、ひな祭りに子どもらが集団でお供えの餅やあられをもらい歩く「ヒナアラシ」という風習が行われた地方もあるという。「おひな荒らしに参じた」とはその時の子どもらのはやし言葉だ。東海地方では「ガンドーチ」というが、「ガンドー」は強盗のことという。十五夜のお月見に子どもらがお供えの団子を盗んで回る「団子盗み」の風習もあったようだ。お供えを持ち去られた家には福がもたらされる…子どもは神様と同じだと人々は考えたのだ。

    ●七夕流し

     黒部市尾山地区の無形民俗文化財「七夕流し」。毎年8月7日に行われる。1年のけがれを払い、息災を祈る伝統行事で、法被姿の子どもたちが七夕のアーチで彩られた泉川のせせらぎに入り、木舟や姉様人形などを流す。姉様人形は高さが約40センチで、女児が竹の骨組みに和紙を折って十二単風につくり、小首を傾げた姿に仕上げる。これを舟形の板にキリコと呼ぶ紙細工と一緒に飾る。夕方から地区内を練り歩いた後、公民館で男児がつくった木舟と一緒に展示。太鼓と笛の音に合わせ、あんどんやちょうちんを先頭に、泉川に入って木舟と姉さま人形を押し流す。日本七夕研究会の調査で、姉様人形を川に流すのは全国でも例がない貴重な行事であることが分かった。兵庫県の日本玩具博物館が貴重な資料としてこの姉様人形を展示している。

    ●「…谷」

     「谷」の字がつく地名が多いのは富山県だそうだ。しかも猪谷、虎谷、亀谷、鼠谷、蛭谷など生き物の名がついているものが多いが、読み方は「たに」である。「谷」を「や」と読むのは関東に多い。日比谷、渋谷、四ッ谷、千駄ヶ谷など多い。唯一の例外が「茗荷谷」(みょうがだに)であって、京都の公家のお屋敷が江戸時代にあったからだとされる。

    ●種籾【たねもみ】

     富山は種籾の日本一の生産地である。これは売薬さんたちが全国に種籾を普及して回ったことと深い関係がある。

     庄川町の種田や青島地区は、良質の種籾(もみ)「五ケ種」の産地として有名だが、江戸時代の宝暦(1751〜)ごろから産地化したという。昔は「種換え」といって、農家個人間で籾1升に米8合の割で交換していた。明治16年「拡種社」が組織されて、共同販売に移っていった。

     籾の成育に適した土壌に加えて、絶えず吹く、「あらし」と呼ばれる谷風によって、夜露が結ばないからである。

    ●たのんまっそー

     「お頼みします」で依頼する時に使う。例:(結婚式で)「睦ちゃんのことたのんまっそー」。

    ●たばこ昆布【こぶ】

     「おぼろ昆布」。煙草のように切ってあるから。近所で、たばこ昆布を喉に詰まらせて亡くなったおじいちゃんがいた。

    ●だばだば〜だわだわ〜だっばだば

     「夜明けのスキャット」ではなく、「だぶだぶ」で「間がすかすかしている」様。例:「か、でっかい服で、だばだばやねけぇ」(これは大きい服でだぶだぶじゃないですか)。

    ●旅の人(たびのひと/たびのもん)

     水戸黄門でも芭蕉でもない。県外出身者で富山に住んでいる人を指す差別語。立派な邸宅を構え、50年富山に住んでいても「あの人は旅の人」だといわれ、富山を解くキーワードになっている。例:「あの人なぁ、旅の人やらかなーん分かっとらんがいちゃ」(あの人はエイリアンだから話し合っても無駄だ)。

     他県で全く言わないわけではなく、石川でも「たびのもん」「えんじょもん」(遠所者・遠処者)といわれ(島田昌彦『加賀城下町の言葉』能登出版など)、排他性を表していると信じられている。ただし、石川県知事に2代40年も「たびのもん」がなっている。

     新田次郎のイタイイタイ病を扱った小説『神通川』で県知事に無視されて困っている主人公に富山城にある博物館の館長らしき老人との会話がある。

    「事をなす者はすべて現在にその生命をかけた。この富山県出身の偉人たちの多くはそうであった。彼等の多くは、彼等の現在においてはむくいられないで死んで行き、後世になって認められたのだ」
    「なぜでしょうか」
    「富山県は排他的な土地柄である。外部から入って来たものは吟味する前に、まず排斥するのである。新しい学問に対しても排他的である。八尾町を開いた、米屋少兵衛は、その保守性と戦った。富山が生んだ世界的天文学者西村太沖(たちゅう)も、死後その名が富山の人達に知られたのだ。常願寺川と戦った佐藤助九郎さえも、賃取橋(ちんとりばし)を作って儲けるために、治水治水と騒ぎ廻るのだと陰口を叩かれた。富山県の生んだ多くの偉人たちは富山県人的排他性にあって血の涙を流したのだ」

         -----新田次郎『神通川』

     若い人は使わなくなったと書かれているが、どうだろう。

    「今の人は言わないけど、昔は富山の人はよそ者のこと『たびの人』って言ったんだよ。住んでてもね」
    「へえー」
    「例えば行事に参加しなかったり、しきたりを知らなかったりしても、あの人はたびの人だから、って思うんだ」
    「仕方ないってこと? それともムカツクってこと?」
    「どっちもだな」
    「初めて聞いた。出張じゃなくても旅なんだ」
    「よそ者は一生よそ者だからね」
    「でもさあ、『たびの人』って言葉を持ってる富山の人が面白いよね。だって、全国回って薬売りをしてたりするじゃない。もともとそういう考え方があるからできるのかな?」

         -----絲山秋子『不愉快な本の続編』(新潮社)

    ●たぶのき

     万葉集の「つまま」。氷見には温帯性植物のタブノキが自生する。対馬暖流の恩恵で雪国にしては暖かい。

    ●食べ合わせ→食い合わせ

    ●だべだべ

     「だわだわ」と。例:「だべだべと、ぜん、使(つ)こうてしもうた」(だわだわと際限なくお金を使ってしまった)。

    ●食べられんか

     「食べなさい」。

    ●だまかす

     「騙す」。「だまくらかす」ともいう。

    ●玉天【たまてん】

     八尾町の銘菓。甘いメレンゲをお酒と卵黄でコーディングした四角いお菓子。富山駅の二階などにあるが、類似品もあるので、注意。

    ●ためらう

     「健康や安全に気をつける」という意味で真田信治・友定賢治『地方別方言語源辞典』(東京堂出版)には岐阜中部・富山・長野南部方言となっているが、聞いたことはない。

    ●たも

     「たも網」で魚を捕る時に使う。

    ●だやい

     「だるい」という意味。古語の「だゆし」から来ている。「だやい」を「つまらない」という意味で使う県もある。

    ●鱈【たら】

     元禄8年に発行された『本朝食鑑』に鱈は初雪に取れる魚ゆえ雪に従う」と書いてある。冬取れるのはマダラで、夏はスケトウダラだが、冬の季語となっているように冬がやっぱり似つかわしい。

     富山では宮崎海岸の「鱈汁」が名物だ。鍋や塩焼きだけでなく、子付けの刺し身、ちり鍋、白子の酢の物、真子の煮付けなどにして食べる。虫がついているかもしれないので、昔から「たらふく煮」と言って、鱈と河豚はよく煮る。

     富山県は消費量で全国トップクラスという(『富山大百科事典』)が、主要な水揚げ港は東北や北海道に集中している。富山湾でもたくさんとれたが、今は少なくなっていて県水産試験場は2006年から富山湾の深層水で育てた稚魚の大規模な放流調査を始めた。

    ●だら

     「だら言うな」「だらなこと言われんなま」といわれる。「馬鹿」のことである。北陸以外の人が最初に聞いて驚く言葉だが、合いの手のように頻繁に使う。北陸以外にでは福島県、岐阜県、滋賀県、島根県などが使う。2010年の朝ドラ「ゲゲゲの女房」でも水木しげるが「だら」を連呼していた。

     「だら」の語源は陀羅尼経説 ・陀羅仏語源説 ・阿呆陀羅経説 ・北前船説 ・海流民族説 ・「足らず」説などがあるが、定説はない。

     真田信治・友定賢治『地方別方言語源辞典』(東京堂出版)では「陀羅尼」「陀羅尼経」の「陀羅」(陀羅仏)説を否定し、「たらず」(山形、新潟、熊本、大分の一部に分布)や「だらず」(鳥取、島根に分布)などの存在から語源は「足りない」という意味の「足らず」だという。

     頻度が「馬鹿」よりは高いからあんまり強い意味ではない。語源は「馬鹿」同様にはっきりと分かっていない。「あほんだら」の省略と考えればいい。「だらなやっちゃ」(馬鹿な奴だ)といわれたらおしまい。怒った時に「だらー」と相手を決めつけてしまったり、関西の「アホ」に相当するような軽い意味でもよく使われる。例:「こんな文章書いとったら、だらにされてしもうぜ」(こんな文章を書いていたら職場の人に馬鹿にされて干されてしまうよ)・「おらぁ、だらなことばっか言うとっけど、ホントはだらでないがいぜ」(私は馬鹿なことばかり言ってますが、本当は馬鹿ではないのですよ)・「もう、だら話、やめっしゃいか」(もう馬鹿話はやめなさよ)。

     山本幸司『<悪口>という文化』(平凡社)の読売での書評で、ノンフィクション作家の高橋秀実は次のように書いていた。

     そういえば、私は妻に「だら」と呼ばれている。富山の方言でバカという意味なのだが、仏教の呪文(じゅもん)「陀羅尼(だらに)」に由来すると聞かされており、そのせいか腹も立たず、むしろ愛さえ感じたりする。悪口に不可欠なのは含蓄と婉曲(えんきょく)。とはいえ使いすぎには注意してもらいたい。

     静岡などでは「そうだろ?」の「だろ」が「だら」になるので、いきなり「だら?」といわれて驚くことがある。

     富山に小さいころ住んでいた恩田陸は『土曜日は灰色の馬』(晶文社)で書いている。

     なぜ北陸地方は「ダラ」なのだろうか。
     私の勝手な解釈であるが、どう考えても、「雪が降るから」としか思えないのである。
     地形や紀行は、風土を形作る。風土は言葉に影響する。
     豪雪地帯である富山の雪は湿って重い。雪玉を作ろうとすると、手袋がびちゃびちゃになる。北海道のパウダースノーとは対極にある、すぐに説けて凍結する重い雪なのだ。その印象は、まさに「パウダー」と「びちゃびちゃ」という、半濁音と濁音の違いそのまま。「ダラ」という言葉の重さ、濁音の響きは、北陸の雪の重さではないだろうか。
    【…】
     言葉というのは面白いもので、同じ罵り言葉でも「アホ」は能天気なお調子者、「バカ」は頑迷かつ融通の利かないヤツ、というニュアンスが漂うが、「ダラ」の場合、そのニュアンスは「愚か者」というのがいちばん近いような気がする。北陸が揃って教育熱心な県で、持ち家率も日本一高い、というのは「ダラ」にならないように子供の頃から刷り込まれているからだ、というのは私の考えすぎだろうか。

    ●だら言うなま

     「バカなことをいうな」という意味でよく使われる。

    ●だらがかっとる

     「馬鹿になっている」。例:「ちょっとだらがかっとるがでないがけ」(少し気が変になっているんじゃないの)。

    ●だら幹

     関西の方言の「だら」と「幹部」が結び付いたものと考えていたが、『大辞林』には<「堕落した幹部」あるいは、「だらけた幹部」の意か〕組合・政党などの堕落した指導者>と書いてあった。

    ●だらくさい

     「馬鹿馬鹿しい」。「だらくさ」ともいうので、「どんな草?」と聞かれることもある。あほくさ。例:「こんなエッセー、だらくさないか」(こんなエッセー馬鹿馬鹿しくないですか)・「だらくさ〜なってきたちゃ」(馬鹿馬鹿しくなってきたよ)。

    ●鱈汁

     宮崎海岸の名産。スケトウダラは1年を通して獲れるが、その中でも寒の時期、特に産卵を迎えた年内は、オスは白子、メスは真子がお腹にたっぷりつまっていて格別。そんなスケトウダラを使った名物料理がタラ汁で、もともとは沖に出た夫の帰りを待つ妻たちが、浜辺で作った漁師の朝食だった。スケトウダラは昭和30年代には船が沈むほどに獲れ、その頃から宮崎海岸の鉱泉に来た湯治客へ振る舞い始め、それが口コミで伝わって評判になった。

    ●タラソピア

     滑川にある深層水を利用した施設。ギリシャ語でタラサは「海」、テラピーは「療法」ということから名付けられた。

     ギリシア語は時間とともに変化した。パンは artos から psomi に,水は hudor から nero に,葡萄酒は oinos から krasi に,しかし海は thalassa そのままである。(P.マトヴェイェーヴィチ『地中海』)

    ●だらぶち〜だらうち〜だらぶつ

     「だらな人」つまり、「馬鹿者」。例:「なんちゅー、だらぶちやろか」。

     井伏鱒二『漂民宇三郎』には後に漂流することになる長者丸の出帆の時に、松前ですれ違いの船に付き当てられて伝馬船を壊され、修理に田ノ浦に寄るのだが、この時、一向宗の坊さんがお経を読みに来て「縁起でもない白骨の御文章」を読んだという。巫女も呼んだのだが、祈祷をあげて踊る時に「本船は来月の二十三日ごろ危難に遭うという神のお告げがあった」と告げる。

    長者丸の乗組はみんな一向宗の者だから、せつかく拜んでもらつたのに、「そんなことあるもんか。巫女(かむなぎ)の、だらぶち。」と嘲笑つて取りあわなかつた。

    ●足らん

     『方言文法全国地図』第2集に出てくる語形で「足りない」(否定形)。

    ●たるこい

     動作が「のろい」。「とろい」ということもある。

    ●だるま太陽

     朝日が海から顔を出すだるまのように見える現象。蜃気楼の一種で、「だるま太陽」と呼ばれる。富山湾では4月下旬から初夏に、空気が澄みわたり、晴れるとまれに現れる。


    (氷見の牧師さん)大引巻代撮影

    ●タレント

     少ないと言われた富山県だったが、最近は増えてきた。左幸子(本名)、左時枝(本名)、野際陽子(本名)、梅津栄(本名)がいた。最近では風吹ジュン(本名・神保美津子)、立川志の輔(本名・竹内照雄) とか室井滋(本名)に人気がある。ウルトラマンの黒部進(本名・吉本隆志/吉本多香美の父)もいる。NHK朝の連続テレビ小説では中村明美が「まんさくの花」(実の父親を「おっさん」と呼んでいた)に、加納みゆき(本名・田中みゆき)は「都の風」(宝塚在籍中の黒木瞳も出ていた)に出た。ごく最近ではワハハ本舗の柴田理恵(本名)、『ラヂオの時間』の西村雅彦(本名)が大活躍している。早勢美里(本名・神戸美里)も忘れてはならない。本名で出ているタレントが多い。

     富山県は三方を山に囲まれ、一方を海で囲まれていて、ある意味では盆地と同じである。米山俊直は『小盆地宇宙と日本文化』(岩波書店1989)という本を書いているが、同じことがいえるだろう。ただ、盆地には文化が育ちにくい。

     林真理子は『美女入門』(マガジンハウス1999)で、レストランでどこの出身かと尋ねられて答えている。

    「私、山梨。山梨ってさ、民度が低くて文化不毛の地って言われてるの」
     ワインに酔った私は、べらべらと喋り始める。こういう時、ふる里に対して人は偽悪的になるものだ。
    「有名人がホントに出ない土地なのよ。私の近所に、中沢新一さんのうちがあるけど、まあ、そのくらいかしら。作家も出なけりゃ、芸能人も出ない。トシちゃんは高校まで山梨だったくせに、横須賀出身ってずっと言ってきたのよ。ま、イメージとしちゃそっちの方がずっといいわよね。あー、でもね」
     私はドンとグラスを置く。
    「中田【英寿】が出たのよ、中田がいるわよ。あの中田のおかげで、私たち山梨出身は、どのくらい肩身が広くなったか!」

    こう話した後、後ろの席に中田がいたことに気づき、思わず、「山梨の誇りです」とやってしまったそうだ。

    ●だわだわと

     「無駄にたくさん」。例:「だわだわと金ぇ、つこうてぇ、なーんしとっがいね」(無駄にたくさんお金を使って、一体何をしているのですか?)。

    ●タワー111【トリプルワン】→111

    だんごじる

     団子汁。「ケンミンSHOW」で富山県だけの変わった味噌汁と説明していたが、富山だけではないはず。白玉などの真ん中をへこませた「へそだんご」を味噌汁の具にして食べる。

    ●だんこちんこ

     「(高さが)不揃いの」だが「だんこちんこの林檎たち」とはいわない。例:「あっりゃ、だんこちんこになってすもたが」(あれぇ、不揃いになってしまったよ)。

    ●タンス株

     株券を自分で保管している上場会社株主の延べ数を人口で割った「タンス株主比率」の都道府県別順位表がある。2008年でランキングが高い都府県はおおむね、東海道沿いから東海、近畿に集まり、逆に順位が低いのは東北北部と九州南部に集中している。個人株主自体が多いであろう東京、愛知、大阪などが上位にいるのは自然だが、1位の奈良をはじめ3位の富山、6位和歌山、8位香川は意外な顔ぶれだ。

    ●断層帯

     地震がないといわれる富山でも呉羽山断層帯、砺波平野断層帯が知られる。

    ●だんだ(ぶ)

     子どもが生まれるまで知らなかった。いきなり、おばあちゃんが「だんだ、入ろ」と赤ちゃんを誘った。「お風呂」の幼児語。真田信治・友定賢治『地方別方言語源辞典』(東京堂出版)には中部方言として載っている。

    ●短大

     短大で最も古いのは富山女子短大(じょたん)である。女短は2000年から共学になった。大谷技術短大もできたが後に県立技術短大になり、今は県立大学の短期大学部になっている。洗足学園魚津短大(せんぞく)、高岡短大(たかたん)、富山福祉短大(ふくたん?)ができた。高短だけは国立である(後に統合)。洗足は2001年に募集を停止して閉学となった。

     短大は就職難で悩んでいる。それよりは高専に入った方がいいと宣伝しておこう(なお、4年次への編入制度があります)。

    ●だんない

     「さしつかえない、問題ない」の意味。「つかえん」ともいう。例:「それ、使こうても、だんないちゃ」。福井などでは「だんねー」。

    ●だんなさん

     「おじさん」の意味で使われる。僕も40をすぎて、お店の人から「だんなさん」と呼ばれるようになった。「だんなはん」とはいわない。

    ●たんび

     「度」。

    ●たんぼ

     櫛田神社の近くに「たんぼ」という理髪店を見つけた時はのけぞった。富山県は田圃だらけの印象がある。

    ●だんぼこ

     僕は使わないが「泥」。

    ●たんもんや

     「反物屋」。呉服屋で昔はいっぱいあった。


    英語

    数字

    序文

    IMIDAS   Back Home    please send mail.