金川 欣二:マックde記号論(言語学のお散歩)


 

笑説 越中語大辞典



●酢い〜酢ーい

 「酸っぱい」。共通語でも「酢いも甘いもかみ分ける」という言葉で残っているが、富山ではよく使う。例:「でかいと入れたら酢ーなった」(たくさん入れたら酸っぱくなった)/「すいにおいしとんねけ」(体がくさくなってきたよ」。

●スイス庭園

 池内紀『川を旅する』(ちくまプリマー新書)の中に富山県は「高天原の水」が出てくる。

 高天原、つまり天の神のいますとおろ。いつごろ、誰が名づけたのか知らないが、よくぞつけたものだ。すぐ近くが雲ノ平。北アルプスのなかで、とりわけスケールの大きな眺望がある。遠くに槍ヶ岳のトンガリ、祖母岳に祖父岳。まわりには赤牛岳、水晶岳、鷲羽岳、三俣蓮華岳、まん中にスイス庭園。モノになぞらえた山名、色や鉱物によるもの、仏教的な命名、そんな中に突然、スイスが出てくるのはヘンなぐあいだが、これはこれでかまわないような気もする。空間のスケールが人間的尺度をこえると、名づけの作法など、どうでもよくなってくるからだ。

●瑞泉寺【ずいせんじ】

 蓮如に興味をもつようになってから、私は寺内町という存在にずっと関心を抱いてきた。吉崎御坊、山科本願寺、石山本願寺、金沢御坊(金沢御堂)---。蓮如や真宗にゆかりのこれらの寺は、いずれも寺内町(じないまち)を形成していた。

 そして、井波もまた、瑞泉寺を中心とした非常に大きな寺内町として栄えていたのである。-----五木寛之『百寺巡礼 北陸編』

 井波の瑞泉寺というと木彫がきれいなお寺で由緒正しい。ただ、宗教紛争が何度もあった。小学生の頃、遠足で何度もここを訪れた。

 真宗大谷派の寺。井波別院瑞泉寺と称し、井波の大御坊(だいごぼう)ともよばれる。杉谷山(さんこくざん)と号する。1390年(元中7・明徳1)本願寺5世綽如(しゃくにょ)の創建。1581年(天正9)佐々成政(さっさなりまさ)はこれを攻め、その跡に城を築いたが、やがて豊臣秀吉に敗れ、寺も現在地に再興された。その後も1755年(宝暦5)、1879年(明治12)の二度火災にあったが、漸次再建された。

 木彫の街・井波は瑞泉寺の門前町として発達して、欄間が有名である。『釣りバカ日誌13』で小澤征悦が働いているのが井波である。

 五木寛之『百寺巡礼 北陸編』には北陸10寺のうち、富山県では瑞龍寺と瑞泉寺が紹介されている。石川県は阿岸本誓寺・妙成寺・那谷寺・大乘寺、福井県は永平寺・吉崎御坊・明通寺・神宮寺である。

 瑞泉寺(井波町)と、金沢市の寺院2カ所、寺院跡地1カ所が北緯36度33分32秒の位置で一直線に並んでいることが、八尾町西町の歴史小説家・桐谷正の調査で分かった。「真宗門徒や蓮如の子弟たちが結束を高めるため、意図的に配置したとも解釈できる」と考えている。

 緯度が一致するのは、蓮如の二男、蓮乗が住職を務めていた井波別院瑞泉寺、七男の蓮悟が布教の拠点とした金沢の二俣本泉寺と若松本泉寺跡地、江戸時代に同市白菊町の現在地に移転した井波別院と同名の瑞泉寺の計4カ寺。緯度の一秒は距離換算で30メートルに当たり、富山、石川県境にまたがる医王山を挟んでほぼ同一線上に並んでいる。

 蓮悟は文明13(1481)年、兄・蓮乗の命で金沢の医王山山ろくにある二俣本泉寺に入り、加賀での布教に乗り出したとされる。6年後には加賀平野に近い高台に拠点を移し、若松本泉寺とした。長享二(1488)年に加賀の守護・富樫政親を攻め滅ぼし、加賀一円に「百姓の持ちたる国」と称される一大勢力を築き上げた。

 金沢の瑞泉寺は江戸初期に井波・瑞泉寺ゆかりの人物が住職に就き、享保17(1732)年に加賀藩から敷地を拝領して現在地に移ったという。

●水族館

 魚津水族館。県内で一つだけ。映画『8月のクリスマス』にここの遊園地が出てくる。イルカショーのある能登島に遠出する人も多い。

●瑞龍寺【ずいりゅうじ】

「これは、すごい」

瑞龍寺の総門の前に立ったとき、思わず声をあげていた。扉の重厚な金具、堂々たる構えの巨大な門が眼前にそびえている。-----五木寛之『百寺巡礼 北陸編』

 高岡の駅南の関本町にある曹洞宗の寺。地元の人は「ずいりゅっさん」と呼ぶ。1997年に認定された国宝。国宝の中でも新しい寺で富山県の国宝はこれしかない。山号は高岡山。本尊は釈迦如来。慶長年間(1596〜1615)加賀藩2代目の藩主前田利長(としなが)が織田信長の追善のために建立した宝円寺が前身。のち3代藩主利常(としつね)が初代利家の菩提を弔うために寺号を改め、広山恕陽(こうざんじょよう)を開山として1645年(正保2)より18年の歳月をかけて完成した。現在の本堂は1659年(万治2)の建立で、中国明(みん)代の禅宗建築の影響を受けた和様建築であり、また法堂(はっとう)は1656年(明暦2)利常の建立、総門は明暦(めいれき)年間(1655〜58)の建立といわれる。

 同じ加賀藩の菩提寺でも「規矩(きく)大乗 伽藍瑞龍」という言葉があるように、修行では金沢の大乗寺、建築の素晴らしさでは瑞龍寺が抜きんでている。時の名匠・山上善右衛門嘉広がこだわりを見せたためだと言われている(内藤昌『近世大工の美学』中公文庫)。寺の入り口に建つ総門はやや、前傾しているように見えるが、総門のまわりに巡らされている壁が傾いているだけなのだ。その視覚の錯覚を利用して、来るものに圧倒的な存在感を植え付ける。国宝の山門をくぐると、美しく一面に輝く「緑の絨毯」。そして、伽藍が左右対称に配置されている。それを繋ぐ回廊も素晴らしく、どれを取って見ても先人たちのこだわりが感じられる。

 瑞龍寺は元来は法円寺(宝円寺とも)という名の寺院でルーツは越前にある。法堂の南側屋外に建つ前田利長(瑞龍院)の御霊屋は越前石で造られた石屋(せきおく)の中に、宝篋印塔(ほうきょういんとう)が安置されていて、越前式石廟(せきびょう)と呼ばれている。この石廟の型式は越前で生まれた。また、宝円寺は越前、加賀、能登にもある。

 屋根には金沢の石川門や伏木の勝興寺と同様に、鉛瓦が使われている。

 瑞龍寺の荘厳さは日光東照宮に対抗して建立したといわれるが、実は緯度が同じところにある。僕の推測では西を向いてお参りすることを狙って、徳川家の人々が信長や利家などの方角を見てお参りすることを企んだというのが僕の推測。なお、東照宮は初め駿河の久能山に葬られたが、1617年朝廷から東照大権現の神号を与えられ、日光山に改葬されることになり、東照宮が造営された。つまり、瑞龍寺はその後に建立された。日光についてブルーノ・タウトは『日本美の再発見』で「外形だけの豪華趣味」「ショーグン趣味」と述べているが、瑞龍寺は質実剛健という感じがする。

 「ひとつやいと」というお灸の行事が行われる。起源は江戸時代に瑞龍寺の雲水たちが修行の厳しさに耐えるために両足の「三里」のツボに灸をすえたのが起こりだという。一般市民に開放されたのは明治になってからである。6月1日は農家の田植え疲れを癒すためだったようだが、要望が多くて今では7月1日にも行っている。午前五時から始まり、国宝の「法堂(はっとう)」の高廊下で、お坊さんがツボにもぐさを置いて線香の火をつけると、参拝者たちは顔をしかめながらじっと熱さに耐える。灸が熱いのをがまんして、江戸っ子が強がりを言う落語「強情灸」を思い出す。「俺なんざな、背中でもって堅炭(かたずみ)を熾(おこ)して、なんか煮られたって驚かねえんだよ」。

 全然関係ないが、うちの子どもたちが使っていた滑り台が瑞龍寺にもらわれていった。そのうち国宝になるかもしれない。長女のMちゃんが両親と一緒にうちの遊びに来た時、3歳なのに玄関で靴をちゃんと揃えた!しつけがとてもいい。

 なお、近江八幡には日蓮宗の瑞龍寺というのがある。

 2002年にはNHK大河ドラマ『利家とまつ』と道元禅師の七百五十回忌の効果で27万人に上ったという。

 五木寛之『百寺巡礼 北陸編』には北陸10寺のうち、富山県では瑞龍寺と瑞泉寺が紹介されている。

●水道水

 「まずい」「臭い」と都会では評判の悪い水道水だが富山の水道水はおいしい。ミネラルウオーターが不要だ。富山市は「おいしい」と評判の水道水をペットボトルに詰めて2003年6月から販売を始めた。市が供給する水の大半は、北アルプス立山山ろくの雪解け水に源を発する常願寺川から取水する。山ろくはブナなどの森林が自然のダムとなり、清らかで豊富な水が蓄えられている。

 都道府県別で取水量が最も多いのは山梨で、量的にも多く、2003年は全国の42.3パーセントを占めた。以下は兵庫、鹿児島、鳥取、静岡と続き、「水の王国」を自負する富山は6位である。

●すーすー

 「空いた様」。例:「この服、スースーする」(この服は隙間があって寒い)・「何かスースーする思(おも)たら、そこの戸、開いとるねか」(何か涼しいと思ったら、そこの戸があいてるではないですか)。

○ズーズー弁

「訛」   茨木のり子(『スクラップブック』)

無口なひと
しゃべることのきらいなひと
電話はアレルギーを起すほど
訛があらわに伝わるのがいやなのですね
でも
す と し がごっちゃになったって
それがどうしたというのでしょう
わつぃがあなたに惹れたのは
紬のようなその東北訛のせいですのに

【…】

 「ズーズー弁」というのはちゃんとした方言学の用語である。「ズーズー弁」は東北から島根(雲伯方言といい、「出雲のズーズー弁」として知られる)まで広がっていて、恥ずかしいことではない。母音イ・ウを含む音節が互いに紛れやすい。そのため、スシ(鮨)がスス(煤)のように聞こえる。また、母音イがエに近く発音されるため、シジミ(蜆)がスズメ(雀)に聞きなされる場合もある。

 「ズーズー弁」をトリックにした小説が『砂の器』で被害者が「ズーズー弁」を話し、謎の言葉「カメダ」と言っていたというので最初、東北の羽後亀田に行くが空振りで、国立国語研究所で「ズーズー弁」が南にも広がっていることを知る。

…今西栄太郎は、都電で一ツ橋に降りた。暑い盛りを濠端の方に歩くと、古びた白い建物があった。小さな建物である。「国立国語研究所」の看板がかかっている。……「出雲のこんなところに、東北と同じズーズー弁が使われていようとは思われませんでした」今西はうれしさを押さえて言った。……今西は技官に送られて国語研究所を出た。ここまで来たかいはあったのだ。いや、期待以上の収穫だった。今西の心はおどっていた。被害者「三木謙一」は岡山県の人間である。出雲とは隣合わせの国だ…。

 こうして、島根の亀嵩(かめだけ)に行く。国研が映画(野村芳太郎監督)に出たのはこれだけではないだろうか?この映画のパンフには脚本家の橋本忍「一人で生まれることはできない、一人で生きていくこともできない。」という言葉が書かれている。

 志賀直哉の短編小説『赤西蠣太』(あかにしかきた)にも、主人公について「言葉訛りは仙台訛りだと異っていたから、秋田へんだろうと人は思っていたが実は雲州松江の生まれだということだ」というのが出ている。

 富山と島根の縁を考えてみると、まず「だら」という言葉が共通して使われることがある。島根の出雲大社には新潟姫川産の大きなヒスイの勾玉が収められていて弥生時代の終わり頃に、島根と北陸は密接な交流があったと考えられている。出雲風土記には、「越の人」つまり越中の人が現在の出雲市にやってきた話を始め、両地域の交流を窺わせる記事がかなり見られる。又、出雲地方を中心に造られた特殊な「四隅突出型墳丘墓」と呼ばれるお墓は富山県内でも確認されている。北前船でも交流がある。

 東北や島根と違い、富山や石川は千葉や茨城の一部と同様、中間型のズーズー弁ということになっている。つくば万博が開かれた時、コンパニオンの条件の一つが標準語が話せること、というのだった。

●スーパー銭湯

 スーパー銭湯は富山が初だとされる。1985年、高岡市に開業した「スーパー銭湯万葉ポカポカ温泉」が全国初とされる。95、96年ごろに大都市圏でブームが起き、全国各地に飛び火していった。

 2005年にできたマンテンホテルグループの大谷天然瓦斯の「満天の湯」は敷地面積12348平方メートル、延べ床面積1913平方メートルで、スーパー銭湯としては北陸最大級の規模。

●スー・ヤン・サン号

 北朝鮮籍の貨物船「SU YANG SAN号」(874トン)。設備面などで国際基準を満たしていないことから北九州に入港を拒否され、2003年6月12日に能登半島北側の舳倉島付近で燃料が少なくなり、停泊している、と連絡が入り、富山港沖まで来て燃料が切れてしまった。県内の製紙工場や繊維工場で使用する酸化マグネシウム1000トンを積み、中国遼寧省の丹東(タントン)から富山港に入る予定だった。6月6日には富山港沖11キロ付近まで航行したが、県内の海運業者が取り扱いを断ったため、北朝鮮へ戻ろうとしていた際に、燃料が少なくなり、舳倉島付近で停泊していたとみられる。27日に富山新港で海上給油した後、出港地である丹東港へ出航した。

 当時、万景峰(マンギョンボン)号の入港問題が大きく取り上げられたので、そのあおりを食った。富山湾が蜃気楼以外で毎日放送されたのは最初で最後?

●末広町

 高岡駅前商店街で、御旅屋通りに並ぶにぎわいだった。『末廣町史』(1975年)には郷土史家の和田一郎が「駅前広場を含めた地域一帯が効率的に整備され、あらゆる業種を網羅して、近代的色彩の溢れるはつらつたる景観は、地方都市とは思えぬほどで、駅前商店街としては北陸随一と評されている」と書いていたが…。

●スカ

 「ハズレ」。昔のツマンコには紙を嘗めると字が出てくるものがあった。「ハズレ」には「スカ」と書いてあった。

●スキー

 県外の人は富山県民はみんなスキーが得意だと思われている。実際のところ、県内は平野が多くてスキー人口は多くなかったのだ。交通手段の発達とともにスキー場がいっぱいできたが、暖冬による雪不足に悩んでいる。

●すきすき

 「はっきりしている」例:「ばあちゃん、まだすきすきやねけ」(ばあちゃん、まだ耄碌してないね)。

●すき焼き

 家によって流儀は違うと思うが、すき焼きは最初に肉を焼かないで、「すき煮」状態で色々食材を入れていく。関西では木綿豆腐を入れるところもあるようだが、豆腐は焼き豆腐を入れる(ふだんは絹ごし豆腐だが、木綿豆腐を使うということだ)。

●スキヤキ・ミート・ザ・ワールド

 毎年8月に福野町で開催されるワールドミュージックの祭典。スキヤキは音楽を中心とする異文化交流イベント。世界の民族音楽を紹介し、交流を通し新たな文化をつくろうと1991年に始まった。最初はスティール・ドラムが中心だったが、その後、さまざまなジャンルに拡がってきた。

●スクランブル

 富山市中心市街地にある西町、西町南の両交差点が、2006年8月にスクランブル方式をとりやめた。スクランブル交差点は、歩行者信号が青の時、全車両が通行停止となり、歩行者が望む方向へ自由に渡れる。県内では1974年、西町、西町南の両交差点が歩行者増に伴って導入された。

●すぐる

 「間引く」。「すぐりな」という菜もある。

●菅笠 

 福岡町の名産で「菅笠の館」もある。天正13年(1585年)が起源で、大地震で小矢部川が氾濫して泥沼に菅草が自生したところから始まっているとされる。やがて「加賀の菅笠」として加賀藩主・前田綱紀などに保護され、全国に販売された。金沢には菅笠を堀川の商人が売りさばき、笠市町と呼ばれた。出荷額は日本一で、全国シェアの90%を占める。福岡町の旧北陸街道には趣ある家並みが残っている。小路の脇に「殿様清水」がある。加賀藩主が参勤交代の途中、この清水で喉をうるおしたという。「福岡町の菅田と菅干」は文化庁の選んだ「文化的景観」に選ばれている。

 井上雪『その手を見せて』(冬樹社)に「福岡の菅笠」という一章がある。

●すげる

 「(下駄の鼻緒を)通して直す」。

●すこくさい〜すこさい

 「(何でも)分かったような顔をして、知ったかぶりして」。「ほおかぶり」を「すこかぶり」という方言もあるから「面」の意味から来ている。例:「富山の文化とかいうて、すこくさいことばっか言われんなま」(富山の文化といって、何でも分かったような偉い顔するなよ)。

●すす

 地域によっては「獅子」も「寿司」も「すす」のように発音する。

●寿司屋通り

 新湊に寿司屋通りがある、と放送されたことがあるが、中心街にお寿司屋がいっぱい並んでいるからだ。でも、地元でそう言っているかは怪しい。新湊はお寿司がおいしくて安いといわれる。僕は貧乏なのでそんな風に感じたことはない。最近は郊外の回転寿司にお客さんを連れていくことが多い。十分、おいしいといわれる。

●スタバ

 「スターバックス」。長らく富山県になかったが、高岡のイオンに入った。店名の由来はシアトル近くのレーニア山にあったスターボ (Starbo) 採掘場と、ハーマン・メルビルの小説『白鯨』に登場する一等航海士スターバック (Starbuck) の名からだが、当初エイハブ船長の船名「ピークォド」にちなもうとしたが、PEE(おしっこ)+QUOD(刑務所)なんて誰が飲むものか、というので一等航海士の名前になった。スターバックがコーヒー好きだからと思われている節があるが、よく読めばそうはなっていない。企業ロゴには、船乗りとの縁が深いセイレーン(ギリシャ神話に出てくる人魚)が用いられている。

●須田ビル

 富山駅前に「須田ビル」という老朽建築物があった。元は闇市から発展したものである。井上靖『七夕の町』にも須田ビルの描写が出てくる。一階には魚屋や八百屋、乾物屋、大衆食堂などがびっしりと入居していた。1992年からCiCビルになっていて、面影もない。須田ビルにいたお店では『蛯谷』さんという魚屋さんが、かろうじて地下に残っている。

●すっさく〜すさく

 「引き裂く」の訛り。

●すっぺらかいと

 「すべからく」だが、「すべからく」は大辞林にあるように「〔漢文訓読に由来する語。「すべくあらく(すべきであることの意)」の約。下に「べし」が来ることが多い〕当然」という意味で、「学生は―勉強すべし」などと使われるべきである。だから、「すべからく料理を食べた」とか「すべからく生まれ故郷はなつかしいものだ」とはいえない。例:「あんたぁ、あの子、腹減っとったがかもしれんけど、ご飯すっぺらかいと食べてしもたがいね」(ねえ、あの子、お腹が空いていたのかもしれないけれど、ご飯をきれいに平らげてしまったよ)。

●スティールドラム

 スティールドラムはドラム缶を改造した楽器で、20世紀最後に発明されたアコースティック楽器ともいわれ、カリブ海に浮かぶ小さな島国トリニダード・トバコがその発祥地。毎夏に富山県福野町で開催される音楽祭「スキヤキ・ミーツ・ザ・ワールド」で誕生した楽団にスティールドラム・オーケストラがある。この音楽祭はアフリカや中南米など世界各国からアーティストを迎えてコンサートやワークショップを催している。

●スノーバレー

 南砺市利賀村上百瀬にあるスキー場。

●スバールバルライチョウ[Svalbard Ptarmigan]

 「北欧の貴公子」とも呼ばれる雷鳥の一種。日本の雷鳥の人工飼育の手始めにこちらを育てることが計画されている。

●すばい

 「酢和え」の訛り。切り刻んだ大根と油揚げと人参とユズを入れる。

●ずべ

 「禿げた様子」で「禿げている」は「ずべとる」という。例:「頭がずべになっとる」。

●スポーツ選手

 富山県出身のスポーツ選手は知っているだけで次の人たちがいる。忘れている人がいたらごめんなさい。

  

 

●すま〜すまっこ

 「隅っこ」(「すま」だけでは変換できない!)。例:「わし、どっかぁ、すまにでも寝さしてくだはれ」。

●「住みよさ日本一」

 99年に経済企画庁が国民生活指標を出すのを止めたのにかかわらず、富山県は独自に算出して「住みよさ日本一」だという。

 問題はこの統計に自然環境というのが入っていない。富山の日照時間の少なさ、降水量の多さ、降雪など住むときには一番問題になりそうな項目が入っておらず、もし天候から見たら最下位に近くなるだろうことを隠蔽している。

●相撲

 「江戸の大関より、地元の三段目」とされ、富山からの力士をいやがうえにも応援したくなる。

 かつて明治相撲の黄金時代を築いた横綱・梅ヶ谷藤太郎(とうたろう)、怪力無双を誇った名横綱・太刀山峰右衛門(みねうえもん)、名横綱双葉山・羽黒山を育てた立浪彌右衛門などがいた。

 梅ケ谷(二代目)は富山市水橋生まれで小兵ながら19歳で入幕後、横綱までの昇進記録を、次々に塗り替えといわれる明治36年、第二十代横綱になった。雲龍型の創始者と言われる。明治31年頃から大正の初めにかけては「梅・常陸時代」といわれ、両横綱の熱戦は明治相撲の黄金時代を現出した。

 「四十五日の鉄砲」(ひと月半=一突き半)と呼ばれた突っ張りが武器の太刀山は富山市呉羽に生まれ、明治44年に22代横綱になった。板垣退助が立山から命名した。漱石も太刀山ファンだったことが知られている(同じ胃病持ちだったから?!)。優勝11回の堂々たる成績を残し、大正7年に引退した。なお、初の外人横綱・曙は突っ張りが得意なことから太刀山の再来といわれた。

 琴が梅の実家が八尾の蕎麦屋(聞名寺近くの袋亭)だったのがまずかった。酒屋だったらよかったのに…。

 理由:「いっぱい、にはい」・「いっしょう、にしょう」。

 琴が梅からしばらく絶えていたが、2004年に高朋高校の山藤知征(婦中町)が大相撲の片男波部屋に入門することが決まった。県出身の現役力士は同じ部屋の三段目、玉椿(富山商高出身)と合わせて2人になる。

●ずらかす

 「動かす」。

●〜すらん

 「〜するのでしょうか?」。例:「そんな風にすらん?」。

●すり身

 下等な魚を摺って作る。漂白することはない。また、ハンペンなどは後から入ってきたもので、昔はそんなに食べなかった。

●すり身揚げ

 すり身を油で揚げたもの。他の県でどれだけ食べるか知らないが、富山ではよく食べる。中に人参や牛蒡などが入ったものもある。カマボコも余ったら揚げておろし生姜を添えて食べることがある。

●ずるくどい〜ずりくどい

 「狡賢い」から「(話などが)くどい、しつこい」。

●スルメ

「するめ」  まど・みちお(まど・みちお全詩集

とうとう
やじるしに なって
きいている

うみは
あちらですかと…

 スルメといっても、富山では普通に食べるのが「塩イカ」で、他のところでいうスルメは「干イカ(ひいか)」という。「塩イカ」について小学生の時に、富山ですごした作家の恩田陸が「月世界」という文を『小説以外』(新潮社)で書いている。

 富山市の街頭では、いつも一夜干しのするめが十枚組九八〇円で売られており、それが家族の大好物で、冬は朝ごはん代わりにするめを食べていたことを思い出す。

 肉厚で半生のするめは、父には酒の肴、子供にはおやつだった。ストーブの上で徐々にするめが丸まって香ばしい匂いが立ちのぼるのを、兄と一緒にじっと見守っていた。その熱々のところを母が裂いてくれたのを二人で頬張って、くちゃくちゃ噛みながら学校へ行った。

●ズワイガニ【snow crab, queen crab】

 ベニズワイガニとは異なって体色も紅が濃い。古くから人々との生活と密接な関係にあったため地方名が多い。福井へ行くと「越前ガニ」、丹後半島では幻とされる「間人ガニ」(たいざ)、山陰地方では「マツバガニ」(松葉蟹)と呼ばれ、ブランドになっている。島根以北の日本海全域、オホーツク海を経てアラスカまでの水深70〜500メートルに分布する。漁の解禁はベニズワイガニの方がズワイガニよりも2ヶ月早い。漁はメスが1月20日まで、オスが3月20日まで続く。

 語源は分からない。「楚」(「すわえ」〜「すわい」で後世「ずわえ」とも)で梅の枝など小枝の意味があり、ズワイガニの長い脚を細長く真っすぐ生えた若枝にたとえたものらしい。こちらと考えることもできるし、「酢合」(すあえ→すばい〜すわい)などからとも考えられる。味はもちろん、値段の面でも1パイ1万円以上と「カニの王様」なので、ズワイガニの「ズ」は「頭」ではないかとの説もある。

 「ずわいがに」という記述は享保9年(1724年)に幕府に提出された『越前国福井領産物』で、傷みやすいカニが食卓に上るようになったのは明治以降である。

 メスはコウバクガニ(“香箱ガニ”富山はこちら)、セイコガニと呼ばれる。メスのコウバコは形が香箱に似ているからというが、実は金沢言葉のコウバクあるいはコウバコが起こりだという。「コウバクな子や」などと使う。「小さくてかわいい。ませて利口な」の意味だとする説がある。『石川県方言集』に「マセクラシイ、オトナブ」という意味だと書いてある。泉鏡花は「香箱」説だが、山本健吉は金沢言葉の「こうばくな」(かわいい)から、こうばくガニ説を主張している。泉鏡花の「卵塔場(らんとうば)の天女」にも近江町市場で「こうばく蟹いらんかねえ。こうばく蟹買つとくなあ」というセリフが聞かれる。「卵塔場」は墓場のこと。やはり金沢の人、詩人・室生犀星には〈紅波甲(こうばこ)や凪(な)ぎしみやこも北の海〉の句がある。

 コウバコは卵の色で年齢を見分ける。成長するとオレンジ色から赤茶色に変わり、味が濃厚になる。甲羅に付着した黒い粒々のカニビル(蟹蛭)の卵も目安にして品質を見分ける。脱皮して間もないと水っぽいが、カニビルが付くほど脱皮後の月日がたっていれば、身がしっかりしている。カニビルを気持ち悪いという人もいるが、無害である。大きさが同じなら重い方がいい。

 「氷見の寒鰤」みたいにブランド化する必要があると話していたのだが、2002年11月にようやく「越前ガニ」(爪に黄色のタグ)同様のタグを付けることになった。高温でも溶けないプラスチック製で長さ約15センチ。白色に、ゴールド色で書かれた「富山県新湊漁港」の文字と、ズワイガニの絵が描かれ、カニの右側の足に付ける。一度はめると、切らない限り、取れない仕組みだ。タグは、大小にかかわらず、身の詰まった「上物」だけに付け、漁師が選別する。すでに各漁業者に配布しており、同漁協が厳重に管理する。新湊産は漁場が沿岸から近く新鮮なものを消費者に提供できることなどから評価は高く、約4割が県外へ出荷されている。2005年からタグに「喜」「栄」などの船名や屋号を入れた。漁師の顔が思い浮かぶようにしたのだ。

 ベニズワイガニへのタグ付けも2003年9月に始まった。

 山本健吉は『ことばの四季』に「私が蟹というとき、それは何よりもまず、北陸の海のずわい蟹のことなのである」と書いている。お母さんが金沢の生まれだから、冬になると長崎の氏の家には茹でたカニがたくさん送られてきたのだ。

 椎名誠はフォトエッセイ「カニ這い前進日本海」(『にっぽん・海風魚旅 怪し火さすらい編 』講談社文庫)で氷見から新潟県の直江津にかけて、海の幸の食べ歩きをつづっている。魚津で焼いたズワイガニを味わって「甘くて香ばしくてうまいガニ」と書いている。

●すんさま

 「すぐさま」で「すぐに」。とはいえ、「すぐに」を「すんに」とは言わない。例:「それ、すんさまやってくれんにゃん、あかんぜ」(それはすぐにやってもらわないと困るよ)。


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数字

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