富山の獅子舞はてんてこまい


NHK富山の「とやま夢航海」2003年4月16日放送のための原稿。


 春になると富山県内のあちらこちらの町村で獅子舞が舞われる。

 富山と石川は獅子舞の数が圧倒的に多いといわれる。昭和50年に県教委が行った調査では1199といわれ、石川県は1000弱といわれている。富山は数の多さで石川県を圧倒しているだけでなく、種類の多さでも圧倒的である。

 富山西部や石川で特徴的な獅子舞は「百足獅子」と呼ばれるものである。ただ、石川県の教委に聞いてみたが、「百足獅子」という言い方はない。胴幕の中に大人数が入っているのが当たり前で分類など思いも寄らない様子だった。「百足獅子」は他に静岡県の掛川市にある(数人から十数人入る大獅子)だけだという(が、「他にはない」という断定はなかなかできないものだと思う)。

 獅子舞は普通、「一人立ち」か「二人立ち」かで分類されることが多いのに、百足獅子が多いのはどうしてか?

 後でも述べるが、能登では「越中獅子」と呼ばれることもあるという。これは氷見から伝播していったものだからであり、加賀の獅子舞とは系統が違うようだ。

 獅子舞の起源について論じる場所ではないが、獅子舞は『日本書紀』によれば、推古天皇20年(612年)に、百済の味摩之(みまし)が伎楽を日本に伝えた中に、獅子が入っているという。これが仏教と結びついて東大寺の開眼供養にも行道(ぎょうどう)が行われた(一度再現されたことがある)。『富山県の獅子舞』によれば、下村の加茂と白石や、舟橋の浦田、魚津の小川寺に行道獅子が残っている。加茂神社の神幸式には紙の口当てをした紋付き姿の人が頭の上に古獅子頭を捧げて歩く。古獅子も竜頭型のいわゆる「箱獅子」で室町時代の特徴を残しているという。

 獅子舞の他に「鹿踊り(ししおどり)」というのがある。この場合の「しし」というのは動物(の肉)で茶室の「しし脅し」(添水、僧都「そうず」ともいう)は動物を寄せないものだし、富山方言で「はじし」というと「歯茎」のことをいう。鹿踊りは風流(ふりゅう)系と呼ばれ、名前から見ても日本固有の踊りだと考えられていて、獅子舞とは別のものだと考えられる。

鹿踊り

鹿踊り(ししおどり)

 富山の獅子舞は明らかに伎楽系であり、伊勢太神楽(だいかぐら)の影響が強いとされる。

 太神楽というのは皇大神宮で行う神楽で「だいだいかぐら」とも呼ばれたが、これに由来した雑芸の一種で、獅子舞・皿回しなどの曲芸をするものを指す。実際には祭の時や家々を回ってお金を稼いでいたものだ。

 下の表からも分かるように、伊勢から江戸を通って越後(越後は角兵衛獅子“かくべえじし”が有名)から入ったものと、伊勢から岐阜を通って入ってきたもの、そして加賀から入ってきたものの3種類に分かれそうだ。

『鞍馬天狗 角兵衛獅子』(嵐寛十郎・美空ひばり)

 下の地図は富山の民俗学者・佐伯安一さんの作ったもので『富山民俗の位相』などの収録してある。

 見てすぐに分かるように、呉西と呼ばれる地域が百足で、呉東と呼ばれる東部地域は二人立ちである。

  獅子舞分布

 これらの違いをまとめて見る。石川県には次のような分類はなされていないし、必要もないようだ。

 富山県の獅子舞の分類

分類

名称

下位分類

胴幕

獅子あやし

伝承?

その他

二人立ち

金蔵獅子
(きんぞう)

一頭型 2人 金蔵の他に三番叟、ササラ、オドリコ 伊勢→北飛騨→富山 北端が新湊市本江
 〃    〃 二頭型 雌雄    〃  〃  〃
 〃  下新川獅子
(しもにいかわ)
 〃  〃
(前足だけの時もある)
天狗が4人一組(8〜16) 伊勢→江戸→越後→下新川
 〃   〃  東境型 1人 天狗が1人  〃
百足
(5〜6人)
氷見獅子
(ひみ)
純型 輪なし 鳥兜を被った天狗 氷見→能登 山車のような太鼓台が特徴
鉦が加わる
若狭の王の舞に酷似
 〃   〃 伝播型 竹の輪 毛冠(シャグマ)の天狗 氷見→五箇山 砺波型に酷似だが、演目やシシマイボウは氷見
 〃  砺波獅子
(となみ)
砺波型 頭と尾を除く4人が竹の輪もつ シシトリという少年で天狗は稀 北加賀+氷見→砺波 鉦を使うのは氷見の影響?
 〃   〃 加賀型 大きな3本の竹の輪  〃 北加賀→砺波 胴は舞わず頭のみ
胴幕に囃子方
 〃  射水獅子
(いみず)
輪なし 毛冠の天狗とキリコ 氷見+砺波→射水

 金蔵獅子は岐阜県吉城(よしき)郡国府(こくふ)町広瀬をはじめ飛騨地方および富山県の隣接地帯に分布する。佐伯さんは何も書いていないが、県内の分布は富山藩の分布に近いものがある。金蔵獅子というのは飛騨から越中にかけて古くから伝わる豊作祈願の神事である。多くの金蔵獅子は二人立ちの獅子舞で、名称は、獅子あやしとして登場する金蔵という男神の名をとったものである。獅子は普通は悪魔を払う聖獣とされているが、この地方では人々の暮らしを妨げる悪獣とされ、金蔵がその悪しき獅子を退治するさまを表現し、大昔、飛騨の民が狩猟生活をしていたころの遺風であると伝えられる。広瀬では5月4日に行われ、広瀬神社に奉仕していた僧侶が行った田楽の遺風と伝えている。飛騨では天狗面の金蔵におかめ面の女神が付き添い、獅子の後ろについて金蔵のもどきを演じながらユーモラスに応援する。富山でおかめは少ないが、宇奈月下立(おりたて)のように願念坊主というジジ・ババが踊ることもある。また、県内どの地方でも天狗などのあやし役とは別に道化役が出ることがある。道化の種類はまちまちで、類型化できないくらいである。

 氷見の獅子は唯一富山発の獅子舞ということだが、そのスタイルは若狭の「王の舞」(おのまい)に起源があるといわれる。ヨボシ(鳥兜)をかぶり、シシマイボウとかケンという房のついた矛を持つ。中世には能登でも行われていたらしく、能登中島町の郷社・久麻加夫都阿良加志比古(くまかぶとあらかしひこ)神社の枠旗祭りに見られるという。大旗を台枠に立てて郷内19か村から集まってくるもので、それぞれの先頭に猿田彦(としている)男が激しく舞いながら先導する。

 また、県内の天狗で毛冠であるシャグマを被るものがあるが、白熊(はぐま)と赤熊(しゃぐま)というものがあり、元々はヤクの尾の毛で中国から渡来し、黒いのを黒熊(こぐま)、赤く染めたのを赤熊という。払子(ほっす)に作り、また、旗・槍・兜などの装飾用に用いられるもので富山だけでなく、全国で使われる。尾長鶏の羽根で作る地方もある。

 高岡市伏木一宮の氣多(けた)神社には「にらみ獅子」というものがある。現在のようにテンポが速くなる前の古い形式の獅子舞で、衣装に派手さがなく、相手の天狗もいないのが特徴。ご神体を載せた神輿の露払いとして邪気を払い、にらみをきかせて、境内を回る。紺の着流し姿の若者6人が獅子方を務め、笛と太鼓の素朴な曲が流れる中、杉林の神域をゆっくり練り歩く。その後、本殿の前で独特のリズムで獅子舞を奉納する。神輿が境内を回るのは、神様が越中の国全体を見回るという意味があるという。にらみ獅子とは別に、天狗もいる獅子舞が町内を回る。

 また、新湊では六渡寺あたりから伝わったとされる、炎を用いる獅子舞が多くなってきた。天狗が炎を持って舞うのである。側で見ていて危険さえ感じる。

 大胆な仮説を立てれば、次のようだ。

 最初に飛騨から富山藩に最も古い形の金蔵獅子が入った。金蔵獅子の北端である本江(ほんごう)は布目村の一部で、この布目村は打出村の南に位置し、南は八町村、東は八幡村、西は射水郡打出本江村(現新湊市)だった。婦負郡に属し、寛永16年(1639)以降、富山藩領になったところだ。富山城に出仕する御用大工である「針山大工」で知られる村だ。

 その後、越後から下新川型の獅子が入り、加賀や能登と影響を受け合って、富山県内の加賀藩の領地に砺波獅子、氷見獅子が広がり、その統合した形として射水獅子が生まれた。射水獅子は輪がないので雄壮に踊れる。

 獅子舞はお互いに影響を与えるので、これらの中での細かな影響関係は調べるのが難しい。

 北海道の人の10人に一人は富山にルーツがあるといわれるが、北海道にも富山の獅子舞が伝わっている。『北の生活文化』には次のように書いてある。

 「獅子舞」は「越中獅子」や「さぬき獅子」と呼ばれ、母村の形態がそのまま移住村へ受け継がれた芸能である。北海道の空知、石狩、留萌、上川地方のまつりに広く分布している獅子舞は、富山から移住者がもたらした芸能であり、富山県の呉羽山(くれはやま)を中心に呉西と呉東に分かれるが、呉西の百足獅子と呉東の二人獅子が出身地に従って継承されている。また、母村と移住村の姉妹提携を機に、母村の芸能をあらためて移入する現象も近年盛んである。鳥取県因幡(いなば)地方から伝わった釧路の「きりん獅子舞(第6章を参照)や富山県東砺波郡平村(ひがしとなみぐんたいらむら)から伝承された羽幌町の「筑子(こきりこ)」などがそれである。


 僕自身は獅子舞に詳しくはない。というのも、獅子舞は基本的には青年団が行うもので、6年間、郷土を離れていた僕は獅子舞に呼ばれることはなかった。それでも積極的に参加すべきだったのかもしれないが、若い人たちがいっぱいで入る余地はなかった。

 新湊で「キリコ」と呼ばれる子どもの舞いも小さい頃は子どもがいっぱいいて、地元密着型の子どもが仕切っていて、僕の入る余地はなかった。

 結婚すると「華を打つ」ことになる。僕も結婚して最初の年に「華」を打ったのだが、家の中まで獅子舞が入ってきて、飲めや歌えの大騒ぎになった。そんな儀式があるなど、初めて知った妻などはパニックしてしまった。家の中に土足で20人近い人たちが入ってくるのだ。そのために、ビニールシートも敷いてあったし、ビールもいっぱい用意してあったのだが、「一気コール」などや「キス、キス!」というかけ声などがあって、てんてこ舞いどころか、大混乱になった。ちなみに「てんてこ舞い」という時の「てんてこ」は里神楽などの太鼓の音でその音に合わせた舞の意味がある。

 しかし、こうした儀式を通過して、コミュニティの中に入り込むことができたという実感が沸いてきた。 

 百足獅子の地域は「華」を打つことが多い。どちらが先か分からないが、「華」を打つことから、芸能としての獅子舞から離れて行ったのではないだろうか?特に呉西地区に獅子舞が盛んなのは砺波の散村に代表されるように家と家が離れていて、そのコミュニティの絆を取り戻すのは獅子舞がもっとも便利だったからであろう。金蔵獅子や下新川獅子は芸能として残そうという機運が高かったのではないかと推測される。

 つまり、呉西の若者たちにとって共食(一緒に飲み食い)する資金を手っ取り早く与えてくれたのが、獅子舞だったのではないだろうか? 

 呉東に百足獅子が入らなかったのは、年貢の半分を加賀藩に取っていかれたので、富山藩が貧しかったからであろう。そのため、何度も奢侈禁止令が出た。だから、「華」を打つなど考えられなかったのだと思う。

 獅子舞は子どもたちにとっても、コミュニティに入る一つの儀式になっている。射水などでいう「キリコ」という役柄があり、これを小学校の間に演じなければならない。実は、うちの町内は小学生がいなくて6年間、獅子舞をできなかったことがある。キリコは男の子が女の子のような格好をして踊るのだが、最近では女の子も踊るように変化している。

 他の町内でも同じような悩みをもっていて、最盛期には1300もあった獅子舞が毎年、縮小してきている。

 町の中でも小さな自治会単位なので、子どもが皆無になることもありうるのだ。

 お祭りはコミュニティの力が試される大切なイベントである。獅子舞がなくなることは、コミュニティがなくなるようなものだ。

 是非、継続していったほしい。そのためにも、隣町がどんな獅子舞をしているのか、自分の町内とどう違うのか見てみると面白いと思う。

 実は種類が多いのは富山文化の豊かさでもあり、貧しさでもある。獅子舞以外の芸能が育たなかったということでもあるのだ。獅子舞以外には風の盆とか麦屋祭などがあるが、種類が特に多い訳ではない。獅子舞に突出したともいえるのだ。ちょうど、フーゾクというものを禁止されてパチンコばかりになっているのに構図が似ているかも知れない。


参考文献

 富山県教育委員会『富山県の獅子舞』(1979)

 石川県教育委員会『石川県の獅子舞』(1986)

 荒木菊男『新湊の獅子舞』(新湊市民文庫1995)

 佐伯安一『富山民俗の位相』(桂書房2002)

 新湊市博物館『とやまの獅子舞』(2003)


 2006年に「とやまの文化財百選」選定委員会(委員長=佐伯安一・富山民俗の会常任幹事)が「獅子舞百選」を選んだが、選ばれたのは魚津市の「小川寺の獅子舞」(県指定文化財)など111件。「県内獅子舞緊急調査」(1975〜78年度)や「県民俗芸能調査」(90、91年度)、「県の祭り・行事調査」(99〜2001年度)を基に、改めて実態調査を実施した。休止中の318件を含めると1170件の獅子舞が伝承されていることが分かった。


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