ふるさとの四季 「人は季節を語ります、が季節もその人をあばきます」とは幸田文の「季節の楽しみ」の言葉だ。自分という人間がさらされるかもしれないが、小さい頃の季節を語ってみたい。
「青空」 高階杞一
屋根にのぼって
あおむけに寝て
空を見た
宇宙の真ん中にいるようで
何も声がでなかったお正月 元旦は雪が積もっていた。雪のない正月が少なかった。
朝起きると母親と兄弟でお宮にお参りに行った。父親は神社の世話をしていて、みんなに御神酒を配っていることが多かった。去年の神様を火の中に入れて燃やした。御神酒も時々はもらって、「どうしてこんなまずいものを大人は飲むのだろう」と不思議に思った。
お宮は真ん中に大きな社(やしろ)と横に二つ小さな社があった。木造だったが、鉄筋コンクリートに改築された時に小さな社は壊されてしまった。
お宮が終わると尼寺に行った。尼寺では「庵主(あんじゅ)はん」が般若心経を持って一人ひとりまわり、経本をパラパラとめくって風を送りながら「降伏一切大魔最勝成就(ごうぶく、いっさいだいまさいしょうじょうじゅう)」と唱えて転読してくれる。中身を読みもしないのに、読んだような気になって、心から新年を迎えた感じがした。
それからお寺に回った。お寺は「権現(ごげ)はん」が門徒の相手をせずにすぐに寝てしまい、いつも父親は怒っていた。
家に帰ってからお雑煮を食べた。色々な食べ物が出されたが、昨晩遅くまで母親が紅白歌合戦も見ずに作っていたものだった。蕪村に「三椀(さんわん)の雑煮かゆるや長者ぶり」という俳句があるが、3杯も食べたら長者のような贅沢だった。
輪島塗の漆器でお屠蘇が出されることもあったが、あまりおいしいものではなかった。
お菓子は紅白の福梅最中が出された。
座敷には「天神様」が二つ掛かっている。父親のと僕のだ。
富山の呉西には天神様を正月に飾る風習があるが、普通は実家から贈られる。母には里がないのでもらうところがない。それで竹脇先生に描いてもらった。竹脇先生は結婚したら不幸になるという占いを信じて生涯独身だった。片口へ向かった道の途中で川を渡る直前に家があった。シュロの木が植えてあり、飛び石を飛んで家に入るのが好きだった。妹さんも独身だったので独特の雰囲気があった。立派な人だった。歌会始めにも呼ばれた人だという。
2日には天神様の前で書き初めをしなければならなかった。正岡子規に「弘法は何と書きし筆始(ふではじめ)」というのがあるが、富山では「立山の雪」などというのが出た。
□ ご飯を食べ終わると雪の中を小学校に向かわなければならなかった。新年の儀式が開かれたのだ。どの先生も袴をつけて盛装していた。いろいろな来賓の挨拶があって、「年の初めのためしとて…」と皆で合唱するのであった。
来賓の挨拶は長かった。特に郵便局長が長くて有名だった。
帰ってから年賀状を楽しんだ。
□ 家の中ではお餅をよく食べた。他に食べるものがなかったのだ。お醤油をつけて食べたが、海苔をつけるようになったのはずいぶん後である。きなこもよくつけた。
お雛様に向けて「煎り菓子」を作ったので、これもよく食べた。針原というお菓子屋で「パッカン」を扱っていた。米と小さくしたお餅を持っていって作ってもらった。四角い金属の缶に一杯だった。それをお椀で掬って食べるのが楽しみだった。
尾崎放哉に「元日や餅、二日餅、三日餅」という句があって、だんだん飽きてくるのだが、それでも食べるものがないので、食事代わりのように食べた。それでもちっともお腹はふくれなかった。
2日の朝には「初夢何だった?」と聞かれたものだが、「雑煮くうてよき初夢を忘れけり」「初夢の思いしことを見ざりける」(正岡子規)というのが、本当だった。
□ 雑誌などで正月風景にたこ揚げや独楽回しが描いてあるが、何もできなかった。だって雪がいっぱい降っていてとても外で長い時間いれなかったからだ。
□ 正月は月刊誌の新年号が楽しみだった。新年号は25大付録なんてどの雑誌も競い合っていた。15番以降は名前だけの付録だったが、豊かな気分になった。今は12月に新年号が出るが、当時は1月発売だった。月刊誌が中心で隣の貸本屋に行けば、安く借りられた。『少年』が一番おもしろく、「鉄腕アトム」や「鉄人28号」「ストップ!にいちゃん」などが連載されていた。手塚治虫の名前を知ったのもこの頃である。他に『冒険王』『少年クラブ』なども読んでいた。それから貸本にして余った付録をお金がたまると買いに行った。ほんとは作り方を見なければならないのだが、どうにかこうにか自分で組み立てた。この時の経験が電気器具の扱いの強さになって残っている。
不思議だったのは当時の月刊少年雑誌のどれもが戦争の特集(総グラビアで豪華付録になっていることもあった)が多くて日本軍の活躍とか、ヨーロッパ戦線の紹介とかがやたら多かったことである。だから、戦艦大和の装備とか硫黄島玉砕とかマジノラインの話とかに僕はやたら詳しかった。実際、ゼロ戦○×という漫画も多かった(少年キングの「ゼロ戦はやと」が一番人気だった。貝塚ひろし「ゼロ戦レッド」も好きだった)。60年安保を経て日本が右カーブしてきた(Uターンともいえる)証拠だといえよう。
□ 1962年1月、に高波が襲来した。今でも堤防に高波が寄せてくる夢を見ることがある。この高波はこの地方で「寄り回り波」と呼ばれるもので、海岸付近の家はパニックだった。
その後、護岸工事が進んだのであるが、大きな原因はダムができて、土砂の供給が止まったことがある。親父の小さいころの話だと、うちから海まで100メートルはあったという。僕の小さいころにはもう、10メートルもなかった。堤防も大きく改良され、テトラポッドもたくさん入れられたのだが、あまり効果がなかった。離岸堤は効果があった。
2メートル位の堤防が4メートル位に大きくなった。堤防の上を自動車でも往来することができたが最後が行き止まりになっていた。そのままバックして帰ってくるクルマを何度も見たことがある。中には1.5メートルほどの道路から落ちて、どうにか一命を取り留めた子どももいる。
堤防にボールをぶつけて野球の練習もした。隣の子どもは甲子園にも出た。
2000年になってこの堤防が壊されて、埋め立て地とつながった。堤防のある景色になれていたので、最初、異様な感じがした。
冬、冷たい風が吹いてきた。最初は公務員に対する風あたりが強いためだと思ったが、堤防が防風の役目をしていたのを忘れていた。
春
「樹」 まどみちお(まど・みちお全詩集)
樹は土に立っている
樹はそこから歩かない
樹は空へ向いている
土がにじんだのであろうか
その幹の色と匂い
空がしみたのであろうか
その新芽の色と匂い
きっとその根は土になってる
そして枝先は空に溶けてる
樹は土のように静かだ
樹は空のように明るい
樹は樹で生きている長い冬が終わる前に春が夢の匂いのように始まっている。
お雛祭りには大きな内裏を出して、飾ったものだった。お気に入りの犬のぬいぐるみが出てきた。座敷が半分埋まった。アラレが出され、ご飯茶碗にすくって食べた。お菓子屋で買ってきた砂糖菓子も出された。甘くておいしいのだけど、すぐに飽きてきた。
春は桜。
街から母の里に行くときにバスに乗った。女性の車掌さんが乗っていた。一番最後まで残った。それは誘導しなければならなかったからだ。
下条川に長い、長い橋が架かっていて車掌さんは向こうから車が来ないことを確かめるために降りて先に橋を渡っていったのだ。
その川の土手に桜がいっぱいだった。石川啄木は「かにかくに渋民村は恋しかり/おもひでの山/おもひでの川」と歌ったが、新湊には山はなく、下条川やその支流が僕には「おもひで」なのである。
小杉駅でバスを待ち、中田行きのバスに乗り換えた。クルマを使うようになると随分近かったことに気付くが、当時は遠かった。クルマのお陰で人の家に泊まることもなくなってしまった。昔の萱(かや)葺きの農家だった。入るとすぐに土間があり、その左の部屋には囲炉裏があった。囲炉裏で料理を作るのは子供心にも嬉しかった。囲炉裏にくべる木の枝の燃える匂いが懐かしい。秋には柿を取ったり、川の縁を歩いて行ったりしてすごした。帰りにはお土産をどっさりもらった。その頃、隣のお寺の女の子の姉妹と遊んだり、寺にあった五衛門風呂に入ったことが懐かしい。
小杉のおばちゃんちからもその場で捻った鶏をもらって食べなかったことがある。昔のおばあちゃんはどうして皆んなあんなに優しかったのだろう。
□ 車掌さんはもう一度降りた。
駅から出て小杉に向かうバスは必ず、女車掌が降りて曲線が見渡せる橋の上に立ち、大丈夫と分かるとバスが発車した。それだけ危険な踏切だった。
3年か4年か定かではないのだが、風呂屋横の踏切で事故があった。小杉中学の学生たちが学校から集団で僕の町に海水浴にきた帰り道、西の方から来た電車に轢かれてしまった。ちょうど曲線が一番膨らんだ箇所で西側は竹脇の塀の陰でよく見えない。前が田圃だったが、見えた時には既に遅いという踏み切りで他にも事故で死者がでて、「魔の踏み切り」と呼ばれていた。
小杉から僕の町まで今なら歩かせないだろうな、と思う。この事故で責任をとらされた先生はどうなっただろう、と学生たちを扱うたびに思い出すのである。
□ お祭りの日、小学校は午前中で授業が終わった。授業をしていても誰も聞いていなかった。本当に待ち遠しい日だった。
僕の町では唯一、中町に山車があり、確か、5年生の時まで山車を出していたと思う。お宮を出て、北銀の横を曲がっていくだけだったが、大変なものだった。その前日は組み立てがあり、大人も子供も元の小島の米屋の所(蔵に保存してあった)に集まって戸井の大工さんたちが仕事をするのを眺めていた。お祭りの日は半ドンになり、午後からいよいよ山車が出た。電話線を持ち上げる人も出て大騒ぎである。山車は少し進むと子供たちの踊りがあり、引っ張る綱の前で踊ったものだ。蓄音器はうちのを使っていて、僕はその特権を利用して山車の2階に昇らせてもらったものだ。上からみると町はまるで違って見えた。時々、音が遅くなるのでハンドルを回さなければならなかった。
□ 87年までは5月21日だった。ところがこの日は学校の中間試験の時期にあたった。そのために子供たちにも不評だったし、山車を動かす人間がいなくなってきた。それでいつの間にかなくなってしまった。隣町に3台残っているのと対照的である。改装して立派な山車になった。僕の町のはずっと蔵に入ったきりだったが、雨晴ハイツ近くの篤志家に売却したという。
□ お祭りに香は具師(やし)がたくさん来ていて、3日間もいるお店もあった。ピンク色した水飴を奇麗な薔薇の花に細工する職人がいた。玩具も針金で作っただけの鉄砲や簡単なものが多かった。色のついた水も売っていて、学校では絶対に買わないように指導がなされた(病原菌がついているというのだ)。お好み焼きはあったが、たこ焼きなどは後から来たもので昔はなかった。当時はおもちゃを買ってもらえるのがこの日しかなかった。何度も物色してからようやくおねだりをしたものだ。学校でもいくらまでと制限をしていた。いつでも玩具屋で買える時代になってから廃れていった。お祭りで買ったおもちゃがデパートで安く売っているのをみて驚いたことがある。
□ 3年の時に宮の前の広場で人の裸が見えるというレントゲンのおもちゃを売りにきたこともある。迷っていたら、どこの子か知らない子が買う!といって買ったのを見て皆んな安心して買った。二重に見えるだけですけべ心を満たすおもちゃではなかった。騙されたと思ったが、おじさんもその子もいなくなっていた。要するに鳥の羽根をくっつけてあり、二重に見えて真ん中が濃く見えるというだけの品物だった。そういえば、雑誌掲載の通信販売もいかがわしいものばかりだった。
そうした勉強もできる、僕らにとってお祭りはまさにハレの日だった。
□ 6月に入ると梅雨が来た。7月の半ばまでずっと続く。日本で一番遅く梅雨明けするのが北陸だ。
鬱陶しいが、『銀の匙(さじ)』で知られる作家の中勘助はこう書いている。「梅雨である。陰鬱な天気がつづく。とはいへ梅雨がなかつたらどんなにか私はものたらぬことであらう。それは春と夏とのあひだに特殊な風情のある季節をつくつてゐる」(『沼のほとり』)。
夏 焼けたトタン屋根のようにジリジリとした夏がやってくる。
隔年になったが昔は毎年、住民運動会が行われていた。夏だった。今の僕の町農協があるところに小学校があり、その東、保育所の辺りがグラウンドだった。当時の中町は人も多くていつも優勝していた。優勝するとたくさんの賞品がもらえ、皆んなでお宮に行き、西瓜をたっぷり食べることができた。子供の頃の最高のプレゼントだった。
当時は娯楽が少なかったから皆んな大喜びだった。綱引きとリレーがメーンで、母親が好きな話は綱引きの時にどこやらの嫁はんの大事な所が見えたという話だった。リレーは皆んな力が入った。大抵は中町が勝ち、優勝となるのだった。
住民野球大会も盛んだった。中島のあんちゃんがすごい球を投げたが、高校へ行くとごく普通になってしまった。
□ 地蔵盆も夏の子どもの行事だった。掃除をして、地地蔵さんを取り出して甘茶で洗い、幟を町中に立てた。お菓子や西瓜などがいっぱい集まった。終わってからみんなで食べた。お裾分けを翌日、各家庭に配ったが、どれだけ配るかは5、6年生の腹一つだった。テントを張って、夜遅くまで騒ぐのが面白かった。泊まる子どももいた。
□ 家では蚊帳を張った。蚊帳には独特の匂いがあって、張ると「さあ、寝るんだ」という気分も盛り上がって楽しかった。「蚊帳が張られると子ども心にもなまめかしい感じを受けた。もっともなまめかしいという言葉は知らず、なかに入るとオーバーにいえば世界が変わった気さえした」(松山巌『銀ヤンマ、匂いガラス』毎日新聞社)。
蚊取り線香も使っていたが、よく刺された。蚊帳の中に入ってくると一生懸命に追い出した。ムヒのような便利な薬もなくて、痒かった。
□ 海岸でよく海水浴をした。
家で裸になってそのまま20メートルほど北の堤防を超えて海岸に行った。海岸は15メートルほど広がっているだけだったが、昔は500メートルも沖合にあったという。
ところどころに防波堤というか舟を係留できるところができていた。そこから飛び込むこともできた。
海岸に行くと、誰かが泳いでいた。泳ぎの上手な人もいたし、ただ、その辺で潜っているだけの人もいた。
みんな真っ黒だった。
家には真水を入れた盥(たらい)があった。ぬるくなっているはずだったが、冷たくて凍えそうになったこともある。
□ 海岸はみんなよく遊んだ。夏でなくても波打ち際で遊ぶのは気分のいいものだった。
波が引いていった時に棒を立て、なるべく沖合に立てる遊びもした。
そのうち、大きな波が来て誰もがずぶぬれになった。大笑いしながら家に戻って、叱られた。
□ 信じられないだろうが、昔はゴミを海にそのまま捨てていた。捨てるための階段が作られたこともあった。
大雪の時は雪を鋸(のこぎり)で切って海に捨てた。
□ 潮騒が聞こえる街だった。
「この夏は」 高階杞一
夏休みの友
仕上げたら
思いきり遊べる
と思っていた
プールにも行けるし
海へだって
けど
この夏は
とても
遊べそうにない
算数
理科
社会
この夏は
あまりに問題が
多過ぎる
秋 北陸の秋は夏を追いかける狩人のようにやってくる。
台風になると波が心配になった。怖々、海まで見に行ったものだ。何しろ、堤防を越えて波が押し寄せてくる。下手すれば、波を被ってしまった。時には波がどんどん家の方の道路まで押し寄せてくることがあった。
9月26日に伊勢湾台風がやってきて新湊市も1億円以上の損害を出した。すごい風だったのを覚えている。この後も何度か台風がきているが、この時が一番大きかっただろう。家中、しっかり釘を打って夜中を待った。こわれそうな感じだった。伊勢湾台風はしかし、大変な台風で明治以降最大の5041人の死者、57万家屋が被害にあった。後にTVで見た情景は地獄だった。
翌日は海岸へ行ってクルミ拾いをした。なぜか、クルミがたくさん流れついてくるのだ。それを焼いて食べた。子供心には台風の怖さよりもこうした楽しみの方が記憶に残るものだ。蛇婦野潟(だぶ【の】がた)近くの川へ菱(ヒシ)取りに行ったのも懐かしい。菱は煮て食べた。
□ 何といっても10月1日の新湊のお祭りは最大のイベントだった。あの13台の山車を見るのが楽しみだったし、八幡宮までの香具師(やし)がみどころだった。山車は提灯山車が綺麗で橋の上を行く時は川面に映えて美しかった。
お祭りでは色々なものを買った。2年生の時、ボルトとナットで金属を組み立てるブロックの走りみたいなのを買った。3年の時、ジャイロ独楽を買った。本当によく廻った。1日に1つ買ったのだが、2つあった方が面白いというおじさんの言葉を思い出して翌日、また買いに行った。2倍楽しめるかと思ったが、ちっとも面白くなかった。
見せ物小屋は子どもだましみたいなものだといって、一度も連れていってもらえなかった。無理に入りたいと言わなかったのは、恐らく僕も怖かったのだと思う。
□ 新湊の祭りの他に地元の祭りもあった。11月3日だったので、いつも休みだった。
朝から子どもたちは香具師の店を物色して買うものを決めていた。
たくさん香具師が来て、家の前まで貸してくれと言われることがあった。
「幻の花」 石垣りん
庭に
今年の菊が咲いた。
子供のとき、
季節は目の前に
ひとつしか展開しなかった。
今は見える
去年の菊。
おととしの菊。
十年前の菊。
遠くから
まぼろしの花たちがあらわれ
今年の花を
連れ去ろうとしているのが見える。
ああこの菊も!
そうして別れる
私もまた何かの手にひかれて。
冬 「かくれんぼ三つかぞえて冬となる」---寺山修司『花粉航海』
冬は爆弾をかかえたアナーキストのようにやってくる。レイモン・ラディゲは『肉体の悪魔』の中で「寒さはこの世の中で一番清浄なもの」と書いている。そんな冬を過ごしたことのない南方の人は脳味噌に年輪ができない。
11月3日のお祭りがすぎると炬燵(こたつ)を入れなければならなかった。炬燵は居間の畳を上げて四角い穴の開けるようにする。畳の一部がちゃんと取り外せて、中からコタツの火床が出てきた。灰を足して、火おこしで着火した種火を持ってくる。竹で作った、ふいごで熾した。天然ガスを使っていたこともあったが、危ないので止めてしまった。誰もが「炬燵弁慶」だった。炬燵の中だと元気だが、外に出れば意気地が失せたからだ。
北陸の冬支度が始まる。
○雪吊り…公園はもちろん、家庭でも雪で樹木が倒れないように補強した
○雪囲い…家が真っ暗になった
○野菜を土の中に埋めて保存…
○漬け物…大根などを大量に買って沢庵を漬けた
○歳暮…結婚したばかりの嫁の家に実家から鰤など
○真宗の家は報恩講の準備と報恩講料理…
○正月の準備…注連飾り、天神様など
○おせちや雑煮の準備…埋めてあるゴボウなどが使われた
○タイヤ交換、バッテリー交換…昔はクルマなんかなかった日本の家庭ではうちのおふくろの漬け物は日本一というが、アメリカではパイがアメリカ一、フランスではジャムがフランス一という(2人に1人が自家製のジャムを作っているという)。そうなのだが、小さい頃の僕には家で作る漬け物はあまりにも生々しくてあまり食べることができなかった。むしろ、漬かりすぎた沢庵を酒粕で煮たのが大好きだった。
□ 僕の町は水郷で鮒(フナ)がたくさん取れるので有名だった。観光バスで石川県から人が来たものだ。どうして隣県から来たのだろうと長い間不思議に思っていたが、金沢の人は川魚が好きなのだ。ゴリ料理というと高級料理になる。当然、鮒も珍重されたのだ。鮒の煮びたしはかぶら寿司と同じように正月料理には欠かせないものだった。塩田丸男『歌で味わう日本の食べもの』(白水社)には次のように書いてあった。
鮒を素材にした郷土料理が多いのも、鮒の人気のあらわれといえるでしょう。変わった料理がいろいろあります。石川県では辛子酢味噌をつけて刺身で食べるのですが、これを「鮒のソロバン」と呼んでいます。鮒を薄く筒切りにすると、中身がソロバン玉のようにみえるからだそうです。
初めて釣りをしに行ったのは2年の春だと思う。父親が連れていってくれた。竹棹をもって排水機場へ向かった。排水機場の橋の上で釣ることになったのだが、びっくりした。つまり、ミミズを針につけなきゃいけないのだが、怖い。あんな気持ちの悪いものをグジュッとつけるなんて考えられなかった。結局、父親につけてもらって釣り始めた。すぐに引いたので棹を持ち上げると逃げられてしまった。ゆっくり食いついてからといわれて今度はゆっくり浮きの様子を見て釣り上げた。初めて釣った時、本当に嬉しかった。魚のなんともいえない引きの具合を今でも忘れない。
「ミミズ」 まど・みちお
ひとりで
もつれることができますひとりで
もつれてくることがありますひとりで
もつれてみることがありますあんまり
かんたんなものですからじぶんが…
で ちきゅうが…その後、友達や一人でも釣りに行った。最高で線路の横で100匹釣ったことがあるが、鮒というものはちっともおいしくなく、迷惑なだけだった。
そのうち、富山新港の防波堤ができたので皆んな海釣りに転向していった。あの豊かな水郷がなくなりつつあった。忘れると嫌なので書いておくが、皆んな風呂屋の横の川で洗濯をしていた。
海の方はいいものが釣れた思い出がない。リール棹でないといいものがつれないのだ。でも、分家のおじさんが釣っているのをよく見にいったものだ。そうそう、今は貯木場になっている潟へ船釣りにも連れていってもらったことがある。そういう時は大抵釣れなかったりした。
今、川は暗渠になってしまった。坪田譲治は「故郷の鮒」のなかで、東京の散髪屋へ田舎から見習いにきている小僧が、あまりにも田舎へ帰りたがっているので、理由を尋ねると「仕事がきついから帰りたいのではなく、鮒が釣りたいのだ」といって皆から笑われているのを見て、自分の幼年の頃を思い出し鮒が欲しかったのではなくて、鮒釣りを通して故郷が懐かしかったのでしょう、と代弁している。唱歌の「故里」ではないが、「こぶな釣りし、かの川」なのである。
□ 高村光太郎「冬が来た」 冬よ
僕に来い、僕に来い
僕は冬の力、冬は僕の餌食だ芭蕉に「面白し雪にやならん冬の雨」というのがある。日本海側の人間にとっては面白いことは一つもないのだが、昔はよく雪が降った。変な話だが、70年以降は殆ど降らなくなった。大体、初雪が降ると春まで雪が降った。今は冬の間でも雨が降る。だから、雪降ろしをすることも少なくなった。地球の温暖化が確実に進んでいる。富山湾で熱帯性の魚が発見されたというニュースが流れるようになってきた。
小さい頃、冬が近づくと家の前や中庭に雪囲いがされた。木でできたもので当然、家の中が真っ暗になった。ビニールの波板は福音に近いものだった。ずっと親父が雪囲いをしていたが、90年頃からしなくなった。それほど降らないからだ。古い家の屋根には明かり取りのガラスがついていたのだが、雪で覆われると家がまたまた暗くなった。雪は縦の圧力もすごいが、横にも圧力が強くて、窓をつききって家の中が雪だらけになってしまう。
子供を入れておく「つぶら」もあった。ビタミン欠乏によって、くる病の原因となったものだ。今は博物館でしか見られない。
雪が降ると子供は大喜びで外に出た。雪バンバという板で作った羽子板を長くしたようなものがあり、必需品だった。これで雪を掬ったり、固めたりした。今では殆ど手に入らない。家の前に屋根からと道路からの雪が山のようになり、何度かカマクラを作ったこともある。中にロウソクを入れるとなかなか神秘的でよかった。お餅を焼いたこともあるが、秋田県ではないのでそんなに頻繁に作った訳ではない。
□ スキーは安いので竹スキーがあった。火で曲げただけの竹に紐をツケたものだったが、っ器用な人は自作した。高いのは木で作ったスキーだが、こちらは本格的に台と留め金がついていた。家の前の雪の塊を山にすることもあったが、浜の方に誰かが作ったスキー場の方が快適だった。でも、僕は途中で転んでしまうのだった。北陸の人間がスキーをするようになったのはモータリゼーションの後である。平野の中の人には縁がなかった。
スケートまがいのことをする人もいたが、川の上は危なかった。
□ 12月には報恩講があった。浄土真宗だけの行事だと思うが、親鸞様や御先祖様に感謝する日である。昔はお坊さんを二人呼んで盛大に行われた。うちは最後の方だったと思うが、1980年頃まではお坊さんたちに報恩講のご馳走を出していた。ちゃんと御膳が出され、煮物や椀物が出され、天ぷらなども出されたことがあった。僕らにとっては最高のご馳走だったが、一緒に食べられるようになったのは大人になってからである。今はさすがにないが『美味しんぼ』にも報恩講料理が取り上げられた。
30分ほど「きみょむりょじゅにょらい…」などというお経を読まされる。唱和しなければ怒られた。終わってから説教があった。いつも同じような話だったが、いつもよく分からない話だった。
初めて天つゆ付で天ぷらを出した日を覚えている。薬味の大根下ろしが添えてあったのだが、お坊さんたちは大根下ろしにお醤油をつけて「美味しいですね」といって、その後、つゆだけで天ぷらを食べた。
今は一人しか来ない。
□ クリスマスなどは祝うことがなかったが、それでも家にサンタは来た。
28日頃だったか、4時ごろから奥でペッタン、ペッタンと音がした。父と母が一生懸命に餅をついていた。母はできたばかりの餅に餅粉をつけて、上手に整形していった。豆餅があり、小豆餅があった。薄い皮の中に上手に小豆を入れてくれた。翌日の夜には豆餅を切って、「こんもち」(こおり餅)にした。長方形のもあれば、上が丸いものもできた。それを藁縄に上手に入れて吊るしてくれた。これらが冬のおやつになったり、昼食になったりした。
大晦日は支払いの日でもあった。お金を近くの商家に持って行ったりした。
大晦日には母が色々な支払いで近所を回っては手ぬぐいをもらってきていた。父は神棚を拭いたり、天神様を出したり忙しい。天神様の前にお鏡を置き、それぞれの飾りをつける。
夕方になるとそれぞれが銭湯に行った。銭湯の途中にお寺があって、除夜の鐘を撞くこともあった。家に帰ってからも音がした。たまに打ち間違いをする輩がいるよう面白かった。「山寺や撞(つき)そこなひの鐘霞む」という蕪村の句を思い出す。
その後は、姉たちとこたつに入って、紅白を見たり、裏番組をチェックしたりして、年を越した。
人間を笑うが如し年の暮---正岡子規 □ 高村光太郎はエッセーで「冬の季節ほど私に底知れぬ力と、光をつつんだ美しさとを感じさせるものはない」とつづっている。
「手前味噌」という言葉にしか残っていないが、昔は各家庭でお味噌を作ったものだった。
最初に麹(こうじ)屋さんから麹が運ばれてくる。米にカビが生えたような、不思議なものが届く。そして、ある日、母親が大釜で大豆を煮始める。大量の大豆を煮る。柔らかくなったところで、大豆の汁に砂糖を入れて食べさせてもらえるのだが、これがとても美味しかった。
その後、豆をくだくのだが、昔はざるを使っていたのだろうが、手回しの擦りおろす道具(穴がいっぱい開いていてそこから大豆が出る)を借りてきていて、回すと前の小さな穴から砕かれた大豆が出てくる。
これに麹を合わせて、大きな桶に入れておく。そして、ずいぶん経ってからお味噌になる。小さい頃はちょっと気持ち悪くて、味噌はあまり好きではなかった。でも、今はすっかり大好きになっている。
「故園の莱」 田中冬二
味噌(みそ) うす暗い土蔵の中 味噌桶(おけ) 昔がゐる
茶 ものうい晩春のゆふぐれよ
醤油(しょうゆ) 日が暮れると田舎の町は真暗だ
さうめん 広重の海に雨
しその葉 母の手故園(こえん)とは故郷、莱(らい)とは荒れ地を意味する。一つの言葉から連想される短い詩句が付されて列挙されている。
□ 1960年12月30日、31日と降り続いた雪は北陸本線を止め、大雪の正月を迎えた。家が潰れないか心配しながら紅白を見たのを覚えている。勿論、2階から出入りしたのだが、僕にとっては汚い2階を通る初めての体験だった。昔のゴミがいっぱいそのままになっていて真っ暗だった。そこを抜けると外に出入りする窓みたいなものがあった。しばらくしてから下の玄関へ降りる階段ができてそこから出入りした。かまくらを作った。子供には嬉しい体験だったが、大変な生活だったのだろうと思う。
□ 新潟では「雪かき」といわずに「雪掘り」といった。鈴木牧之『北越雪譜』には「掘(ほら)ざれば家の用路を塞(ふさ)ぎ人家を埋(うずめ)て人の出(いず)べき処もなく、力強(ちからつよき)家も雪の重量に推砕(おしくだかれ)んをおそるゝゆゑ……」と書いてある。富山の、うちのような海岸近くではそんなに降ったことはないが、それでも三八豪雪の時はすごかった。
1963年、担任の先生の家に女の子が生まれた。誰が言い出したのか知らないのだが、先生の家にお祝いに行こうということになり、成人の日に5、6人で行った。先生の家は海老江中町で風呂屋の小路を入った所にあった。赤ちゃんを見たことより、ごちそう(おしるこを食べた)になったことを覚えているのだから、どうしようもないものだ。今から考えると出産直後に大変な迷惑だったと思う。だが、僕が真近に赤ちゃんを見た最初だと思う。この時見た赤ちゃんと同じ年に睦ちゃんが生まれている訳で(学年が一つ上になるが)何だかとても不思議な気持ちになる。
先生の家から帰ってくる途中、雪が降り出した。家に帰ってすぐにもう、窓が真っ白になった。これが三八豪雪の最初である。伏木気象台始まって以来の豪雪になった。
1月15日から降り始めた雪は21日の夕方から猛吹雪となり、さらに2月上旬まで降り続いたという。最高積雪量を記録した1月26日は高岡市内で2.95メートル、新湊市内では3.6メートルという典型的な里雪型豪雪だった。富山県内の死者15人、北陸3県で死者・行方不明者84人という大きな犠牲者を出している。交通は全面的に途絶し、富山県は1カ月近くも豪雪に閉じ込められた。北陸本線の富山−福井間が24日から26日まで全面運休したほか、富山−上野間は24日から2月8日までの16日間も不通になっている。道路網も遮断され、生鮮食料品が高騰した。新湊の電車は1月23日から2月10日頃までストップしてしまった。
大変な雪で、こんな雪は1960年暮れ以来ではるかにそれを上回っていた。2年の時もそうだったが、2階から出入りしなければならなかった。うちの当時の2階は物置になっていて汚いものがいっぱいだった。ああいう空間が家の中にあるというだけで驚きである。真っ暗だったし、真っ黒クロスケがいっぱいいた。前の方に小さな窓があるのだが、そこから出入りした。なぜそうなるかというと、雪下しをすると街道にその雪がいっぱいになる。どこへも持っていけないので、そのまま2階の位置に道路ができてしまうのである。最初のうちは下の玄関が使えるのだが、そのうちいっぱいになってしまい、出入りできなくなる。
しかし、雪をそのままにしておく訳にいかないので鋸で切って海に捨てにいった。実際、火事でも起きたらお手上げだった。鋸で切っても全然壊れず、四角い氷のようにして縄1本で背負い、捨てに行ったものだ。雪捨てで流れが止まり、西神楽川では自衛隊が出て除雪した。
うちなどよくまあ、飢饉にならずに済んだと思う。ただ、昔は大根などを冬の前に買っておき、土の中に保存しておいたから食いつなげたのだと思う。
□ 長い冬があって、3月も半ばになるとようやく北陸にも春がやってくる。春物の服を出してみると小さくなっていて、新しい学年用に新しい服を買ってもらえた。
地球温暖化で暖冬が続く今では分からないだろうが、冬の間に僕らは成長していたのだ。
冬という季節は、すべての物の準備時代で、目に見えるものは枯れ枯れとしていても、下には、木の芽がもう形をつくって、花を開くべき仕度に急がしい。小さな若草でも、雪霜の下に萌えて、やがて春待つ勢いの烈しさ、新しさをあらわしている。
-----島崎藤村
「また あいたくて」 工藤直子
さよなら三角
またきて四角
またあえるね とうたってた
さよなら春 さよなら夏
さよなら秋 さよなら冬
さよならを くりかえし
さよならを つみかさね
また あいたくて なにかに
きょうも あるいていく