金川 欣二:マックde記号論(言語学のお散歩)


 

笑説 越中語大辞典



●〜ぜ

 真田信治『都道府県別気持ちが伝わる名方言141』(講談社+α新書)ではこれが「俺は待ってるぜ」とは違うという。この場合は自分の気持ちを相手に表現するもので、「待ってるヨ」の「ヨ」と変わらないが、富山の南西部の方言では予想を裏切る事態、普段の状況と現況とのずれに対する認識を直接相手に向けて表現するものだという。予想より早く着いた相手に「おら、早いゼ」というのは「あれ、早いジャナイカ」という意味だという。「顔、青いゼ」というのは「顔が青いジャナイカ」という意味だという。

●声楽セミナー

 毎年夏に福光町のIOXアローザで開かれるセミナー。塚田佳男、関定子、三林輝夫、川上洋司、大島幾雄、大島洋子、青山恵子、郡愛子など超豪華な講師陣で、イタリア・オペラ界の実力者、フィオレンツァ・コッソットも毎年のように参加している。福光町長がイタリアに行った時に、我が町にコッソットが来ているよ、と言っても誰もホントにしてくれなかったという。

●生活時間

 NHKの「国民生活時間調査」の2000年の調査では次のことが分かった。

 土曜・日曜に働く人が多く、特に女性は土曜が全国5位、日曜が9位の高さだ。新聞を読む人が多くて、土曜は59パーセントで全国一高く、日曜が51パーセントで3位、平日も49パーセントで13位。読む時間は、平日は短いが、土日は全国平均より長い。スポーツは平日も土日も時間は全国平均を大きく下回り、特に日曜にスポーツをする人の割合が全国最下位になっている。

●西高東低

 天気予報で「西高東低の気圧配置です」といわれると、鉛色の空から雪が降ってくることを覚悟せざるを得ないが、太平洋岸へ行くと、まるで逆で「今日は快晴です」といっているようなものだ。同じ言葉でこれほど違って聞こえるものもない。

 1945年2月26日に富山県の真川で降った7.5メートルの積雪は平地での日本記録になっている。

●星槎【せいさ】国際高校

 2002年4月開校の通信制高校。「槎」は「いかだ(舟)」のこと。中国の故事で、ある若者が鎖国という状況の中、知識と見聞を得るために非常な苦労をして諸国をまわり、結果として自国の窮状を救うという話がある。「海の中から現れた『いかだ』が天空を旅した」という伝説に結びつき「星槎」という言葉となった。「星の降る里」芦別市に本部校があることから「星槎」となったという。

●青少年の家

  • 富山県呉羽少年自然の家〒930-0143富山市西金屋字長尾8194→存続「青少年自然の家」
  • 富山県利賀(とが)少年自然の家 〒939-2513利賀村上百瀬48→廃止
  • 富山県青年の家 〒930-0887富山市五福3960→?
  • 富山県黒部青少年の家 〒938-0047黒部市窪野97→廃止
  • 富山県有峰(ありみね)青少年の家 〒930-1458大山町有峰(6〜11月)→「有峰ハウス」
  • 富山県二上(ふたがみ)青少年の家 〒933-0981高岡市二上鳥越20−1→廃止
  • 富山県砺波青少年の家 〒939-1432砺波市徳万字赤坂17−5→存続「青少年自然の家」
  • 国立立山少年自然の家 〒930-1407立山町芦峅寺字前谷1→「青少年自然の家」
  • ●成人の日

     新湊などでは成人式に着物を着ていくのは派手になりすぎる、として行政が断っていたことがあった。幸い、そんな時代ではなくなり、今は二十歳になると七五三の格好をすることになった。

    ●青船会【せいせんかい】

     「青年の船の会」だが実際には青年の翼、婦人の翼の参加者(別に「婦翔会」“ふしょうかい”という組織になっている)を会員にした組織。「外国人のための日本語弁論大会」など国際交流行事を行う。終身会員制だったが、予算がなくなってきて、困っている。ちなみに僕は第12回の参加者で中国に行った。「青年の船」は「お見合いの船」とも呼ばれることがある。99年に県議会で不要との意見も出て30回まで終わった2001年に休止になった。

    ●西武 

     富山市総曲輪の西武デパート富山店。1976年7月に進出当初は西友ストアの扱いだった。総曲輪大火から商店街をよみがえらせようと華々しくオープンした。「夏はもう駆け出している」のコピーに心を躍らせた買い物客がどっと押し寄せ、東京の新鮮な文化を運んできたかのようだった。開店日には岩下志麻が一日店長を務め、和服姿で出迎えた。シースルーエレベーターが評判になった。ピークの1993年度には約175億円を売り上げたが、2006年3月で撤退した。近くの富山大和デパートは残った。

    ●制服

     一番人気のあるのは山本寛斎の富山南高校の制服である。ただ、ここは男子はただの詰め襟である。国際大付属は宮内庁御用達のデザイナー渡辺弘二の制服だ。一番最初にブランドを使ったのは富山高専で、ここは若い頃のハナエ・モリの制服である。DCブランドに凝った時代もあったが、経費がかかるといって止める学校も出てきている。バブルの落とし子だったのだ。

     富山県は詰め襟率が高い。入善、魚津、魚津工業、滑川、富山、富山中部、富山東、富山南、中央農業、雄山、八尾、新湊、高岡、高岡工芸、高岡南、砺波、砺波工業、井波、工業高専(2002年現在)。

     中学では舟橋が最初に、富山西部が2番目にブレザーにした以外は詰め襟。

    ●製薬会社

     富山には当然のことながら製薬会社が多い。

     2003年には富山の地場の製薬会社・東亜製薬を、中国の製薬大手が買収することになった。中国から日本へ、という新しい投資の流れを先取りする動きといえる。「日本を買った」と報じられた三九企業集団は年商6800億円、中国国内に40の製薬会社と600余りの販売店を持つ。中国人民解放軍の「先兵」としてビジネス最前線を切り開いたモデル企業だが、創業18年の原点は警察犬の訓練小屋にあった。85年、当時の最高指導者・トウ小平(トン・シアオピン)氏が唱えた「改革開放」の先兵として、同社前身の南方製薬廠が生まれた。趙総裁の当時の肩書は中国第一軍医大学教授。資本金500万元(当時は1元=約90円)を出したのは人民解放軍、従業員9人も軍所属の薬剤師や軍医だったという。

    ●せー

     「する」の命令形で「しなさい」。例:「早う、せーまぁ」(早くしなさい)「ちゃっちゃとせっっしゃらんかね」(迅速にしないのですか)。

    ●せーかく

     呉西だけだと思うが「精をかく」で「世話をする」「一生懸命する」。「せーかいて」は「精をかいて」から「一生懸命に」。例:「あっだけん、せーだいてあげたがにぃ、全然分かっとらんちゅうことやねけ」(あれだけ、一生懸命尽くしてあげたのに全然分かってないということだ)。

    ●せーだいて〜せーだして〜せーだいと

     「精を出して」で「急いで」という意味にも使う。例:「大人になったがいから、せーだして働こ」。

    ●世界三大景観〜風景

     「世界三大景観」が氷見にある。氷見市の看板によると「海面に望む世界三大景観」は、レマン湖より見るアルプス(海面?)とアメリカ西海岸より見るロッキー、そして氷見海岸より見る立山連峰だそうだ。

     本当に他のところは海から山が見えるのだろうか?同様の光景はイタリア・ナポリ湾のベズビオ山と、チリ・バルパライソ市からのアンデス山脈だけだと説もある。氷見市が調べたところ、雨晴海岸を訪れた高名な地理学者・志賀重昂(1863-1927)が「ナポリとバルパライソしかない」と激賞したのが由来らしいことがわかった。ベズビオ山は標高1300メートル弱で、山が低過ぎるうえ山並みではない。写真で見るかぎりアンデス山脈は遠すぎてよく見えないことが「判明」したという。

     いずれにしても「世界三大」にこだわる方がおかしいとも思う。

    ●世界寺子屋運動

     富山市立熊野小学校が2004年から参加している。日本では現在、小中高校の計10校がこの運動に参加している。

     世界寺子屋運動は、書き損じたはがきを市民から回収して45円に換金、それを開発途上国の教育施設の建設費に充てようというもの。1990年の国際識字年にちなみ、その前年からスタートした。

    ●関所 

     金森敦子『関所抜け江戸の女たちの冒険』(晶文社)が面白い。秋田本荘の中年女性・今野於以登(こんのおいと)が遺した「参宮道中諸用記」をもとに、近世の女たちが関所抜けをしていた実態を紹介したものである。この本は深井甚三『近世女性旅と街道交通』(桂書房)で紹介されたものをドラマチックに描いた本である。富山県では境番所の様子が描かれている。出判がないと境番所を出ることができないのだが、金沢町奉行が発行したものでないといけなかった。

     越中の加賀藩と支藩の富山藩には合わせて8個所の番所が設けられていた。このうち、加賀藩の境(朝日町)、神通川上流の西猪谷(細入村)と東猪谷(大沢野町)、室牧川上流の切詰(八尾町)の番所が関所と称し、その他は口留番所といっていた。高禄の藩士が詰めたり、取り締まりのための武器の数などで格付けがあったようだ。

    ●節分

     文献をたどれば、室町時代の京都ですでに行われていたという。江戸時代には「節分は金がほしいの声だらけ」という辛口の川柳がある。博物学者の南方熊楠は『十二支考』に豆まきは鬼に豆を数えさせ、視力を衰えさせる儀式であると書いている。

     弥勒山安居寺(福野町安居の古刹)の節分会では護摩祈祷の後、弘法大師が伝えたとされる「宿曜経(すくようきょう)」(二巻の経典で中国唐代の不空がインドの経典を訳したものといわれ、天文・暦法から運命を占い、日のよしあしを判断する方法を説く。密教の特定の修法の日は、本経によって決められる。「しゅくようきょう」ともいう)という恒例の星占いがある。いろりの縁に大豆を12個置いて、焦げ方で作物占いをする習慣もあったという。大寒の1月20日夜、本堂隣の観音堂に住職が一人こもって書き上げた。安居寺の縁起によると、聖武天皇の勅願所となり、24坊があった大きな寺だった。が、戦乱で本尊を残し焼失。江戸時代に加賀藩主・前田家の祈願所になった。格は高いが、寺を支える檀家が少ない。

     成田山富山分院富栄寺(富山市石金)では住職らが、名前や願い事を書いた「護摩木」を釜で燃やし、豆の入った升を炎に当てて御仏の御利益を込める「大護摩供」を行った後、「福は内。福は内」と声をかけながら豆をまく。本山の成田山新勝寺のある千葉県にちなんだ落花生や、大豆をまく。

     豆まきの前には、和太鼓が響く中、お札やお守りなどを火にかざして清める御護摩が行われた。

     護国神社(富山市磯部町)の節分祭も有名だ。弓を引き、矢を放つことで邪気をはらうとされる。先ず弓の弦を鳴らす「鳴弦(めいげん)の儀」があり、続いて五穀豊穣を願って鏑矢(かぶらや)を放つ「蟇目(ひきめ)の儀」が行われる。その後に行われた「大的式」(略式)では、鎌倉時代の武家の装束に身を包んだ人が的に向かって矢を放つ。その後、年男、年女の人による豆まきも行われる。

     ちなみに豆をまく時のかけ声は場所によって変わる。寺の宝が鬼の面という名古屋市の大須観音では「福は内」だけだ。東京の稲荷鬼王神社では、神社の名前をおもんぱかって「福は内、鬼は内」、入谷鬼子母神は「福は内、悪魔外」だそうだ。青森県や秋田県などでは「鬼は外、福は内、天に花咲け、地に実なれ」と唱えながら、豆まきをするところがある。

     狂言に『節分』というのがある。節分の夜、女が一人で留守番をしていたら、戸をたたく者がいる。開けると鬼がいた。蓬莱の島から来たといい、女の美しさに引かれて言い寄ってくる。突き倒したら泣き出す始末。「『鬼の目にも涙』とやら申す。あの鬼はまことに妾(わらは)を思ふさうな」。そう考えた女は、なびく振りをして宝を取りあげ、豆をまいて「鬼は外へ。鬼は外へ」。鬼は「アア許いてくれい」と逃げ出した。女は鬼の宝物を巻き上げたうえに退散させてしまったのだ。

     江戸時代の川柳には「鬼の豆まきおらア内おらア内」というのもあって、可愛らしい。

     僕は節分よりも接吻の方がいい。

    ●節句

     男だけの節句がある。五箇山の平村下梨の行事である。蓬摘みにはじまる一連の作業はすべて男の手で行うことになっていて、餅搗きは一軒の家で行い、当日は家族の女衆は他の家へ控えている。「下梨の宮の神様は女の神様だから、男の作るお供え餅を喜ばれる」と考えているからである。

     毎年4月2日の朝、「別当組長」の家に清楚な格好をして集まり、餅を作り始める。3日午前0時を期して地主神社へ「せっくの餅」を供える。起源は分からないが400年以前から続けられているという。桃の節句は3月3日だが、下梨では陰暦の1ヶ月遅れの節供行事として、春いちばん早く芽をふく蓬(よもぎ)を摘み、洗い米の粉とまぜて、臼で搗いて緑色の大鏡餅三枚重ねを、まず氏神に供えた後、村内の者が分けあって食べる。

     桃の節句に似ていて、家々へ配る伸餅はひし形に切る。古い節供の風習と新しいおひな祭りの習慣がひし形の餅にみられることや、神への供物は生物なのに蒸して搗いて供えること、あるいは神主をたのまず氏子自らの手で神前の行事を行う点など、他に例をみない習俗となっている。女の神様とする氏神に男が身を清めて奉仕する形や、氏子がその年の始めに採れた初穂に感謝してまず氏神に供え、これを分けあって食べる形が古風である。

     佐伯安一によれば、平村上松尾は4月1日で、当番にあたった3軒の男たちだけで前日の夕方作る。大きさは両手の親指と人さし指で輪を作ったくらい。1軒に2個ずつ配れる数を作り、翌朝5時ごろ宮へ供える。山笹2枚を十文字にし、その上へ2個重ねてのせる。梨谷は4月3日、上梨はもと4月3日であったがいつからか9月9日に行っている。大島では3月22日の火伏せの日に作る。ここの場合はすり鉢で水をたくさん加えてすり、どろどろにしたものを三宝に入れて宮へ供える。

    ●せど

     「背戸」から「裏の勝手口、奧」の意味。例:「サンタクロースなぁ、せどから入って来たがいわ」(…後ろから入ってきたのでしょう)。

    ●せばい

     「狭い」。例:「ゴミだらけで、うち、せばーなってきたねけ」(ゴミだらけで家が狭くなってきたね)。

    ●ゼフィール

     犬の服を作ってネット販売している小矢部の会社。元はアパレルの子会社だったが、2000年にペットの方にビジネスチャンスがあることが分かって転業している。ブランド名は「i Dog(アイ・ドッグ)」。

    ●セブンイレブン

     富山にはセブンイレブンはない。能登には97年頃までコンビニがなかったのだから、それに比べればましである。2008年に35番目の県としてセブンイレブンができた。

    ●せまくらしい

     「狭苦しい」。

    ●セレネ

     宇奈月国際会館。ギリシャ神話の月の女神・セレネSelene(ローマ神話のルネLune)から採った。だって、ここは宇奈「月」だから。

    ●ゼロニー

     北日本新聞社の無料配布誌『02』。

    ●ゼロワン

     「十番目の自動車メーカー」光岡自動車(本社・富山)の車。

    ●せわしない

     「忙しい」(ちょこまか動かれて「うるさい」という意味も若干含まれる)。「せわしい」の強調表現。例:「せわしない日やった」・「せわしない人や」(落ち着きのない人だ)。

    ●…せん

     「…しない」なのだが、少しややこしい。富山の人は何でも否定的に聞くことが多いので多用される。例:「なんもせんと」(何もしないで------ブラブラしている)・「…せんがけ?」(「…しないのですか?」という否定疑問)・「…せんまいけ?」(「…しましょう」で肯定になる)・「なんもせんからホテル行こ」。

    ●ぜん(ぜん)

     「銭」から、一般に「お金」。例:「ちょっこし、ぜん くれまぁ」(ちょっとお金ください)・「なーん、ぜんにもならんこと しとっちゃ」(本当にボランティアをしていることよ)。

     落語の「芝浜」で亭主が拾ってきた財布の中身をぶちまける。二分金で50両、女房が驚いて言う。「お前さん、これは銭じゃないよ。金(かね)じゃないか」。これをクスグリと勘違いして笑う客もいるというのだが、随筆家、京須偕充(きょうすともみつ)の『みんな芸の虫』(青蛙房)によれば、江戸の昔は金(両、分、朱)と銭(貫、文)の区別があり、女房は事実を述べたまでで、笑うところではないという。

    ●せんじゅう〜せんじゅ

     「先終」から「いつも」。例:「せんじゅ、世話になっとってぇ、かんね」(いつも世話になっていて御免なさい)。

    ●せんせ

     「先生」のこと。

    ●洗足【せんぞく】

     洗足学園魚津短期大学。学園本部(川崎市)の理事長をしていた前田豊子が黒部出身で80年にできた。理事長の身長が低かったために、やたら天井の低い建物となっている。音楽学科と文学科をもっていた。八木光昭教授は富山の文学に関する本を集めていたことで知られるし、全国女子大学軟式野球大会も洗足がゼロから立ち上げ、毎年夏、魚津にチームが集まるようになった。

     2001年に短大をやめ、生涯学習型の「コミュニティーカレッジ」に改編した。

     本部の「事務員兼英語講師」になったドイツ語の専任教員もいるという。

    ●銭湯

     宮本輝『天の夜曲 流転の海・第四部』では主人公の妻・松坂房江が次のように案じる場面がある。

     いなかだから、どこの家にも風呂があるとばかり思い込んでいた房江が、嶋田家の二階に引っ越すにあたってまず案じたのは、近くに銭湯があるだろうかという点だった。

     だが、大泉本町の家々には内風呂を持つ家は案外少なくて、法蓮寺橋を渡ったところに一軒、堀川小泉に一軒、銭湯があった。

     「銭湯」という言い方は実はあまりしない。「風呂、行ってくっちゃ」というと「銭湯へ行く」という意味だ。富山出身の人が経営している銭湯が都会では多いし、そのように思われている。ドラマ『時間ですよ』は富山出身のお風呂屋さんになっているが、久世光彦は富山高校出身だからだ。

     富山県内では内風呂のおかげで銭湯がどんどん少なくなってきている。それでも、多いのはなぜかとNHKから尋ねられたことがあるのだが、説明できる人がいたら、よろしく。

     なお、杉森秀則監督の『水の女』(2002)が銭湯を舞台にしているのは象徴的。杉森監督は富山出身だからだ。

     銭湯に対して、スーパー銭湯というのが増えてきたが、このスーパー銭湯も富山が初だとされる。1985年、高岡市に開業した「スーパー銭湯万葉ポカポカ温泉」が全国初とされる。95、96年ごろに大都市圏でブームが起き、全国各地に飛び火していった。

     ちなみに、ハワイには広島出身の日系人が多いが、名だたる真宗王国・広島の門徒たちが間引きをしなかったから、余剰労働力(次男や三男たち)が新天地を求めて多く移住したためである。富山から満州に渡った人も多かった。

     田村隆一

     銭湯すたれば、人情もすたる
     銭湯を知らない子供たちに
     集団生活のルールとマナーを教えよ
     自宅に風呂ありといえども
     そのポリぶろは親子のしゃべり合う場
     にあらず、ただ体を洗うだけ。
     タオルのしぼり方、体を洗う順序など、
     基本的ルールはだれが教えるのか。
     われは、わがルーツをもとめて銭湯へ

    ●選挙区

     大選挙区制の時代は呉東と呉西で一区、二区となっていたが、中選挙区制になってから富山市が一区、その他の呉東が二区、呉西が三区になった。

    ●セントラム

     2009年に開業した富山市の路面電車環状線の電車の愛称。市の中心部(センター)を走ることなどに由来し、北陸新幹線開通後に線路がつながる富山ライトレールの「ポートラム」と統一性が感じられるようにしたという。黒い電車も走るので、霊柩車みたいという反対論もあったが、好評である。

    余録:路面電車の明暗(2009年12月28日毎日新聞)

     「欲望という名の電車」から「墓場」という電車に乗り換えて「楽園」に着いた時に、ブランチ・デュボアの悲劇が始まった。風変わりな名称はT・ウィリアムズの創作ではなく、ニューオーリンズで実際に路面電車が走っていた街路名だという▲富山市で23日に運行開始したLRT(次世代型路面電車)は「セントラム」と名付けられた。富山地方鉄道の市内線に市が新設した線路をつないで環状運転できるようにし、バリアフリー車両を導入した。中心部を丸く結ぶ電車をイメージした命名だ▲JRの廃止ローカル線を活用して3年前に開業した「富山ライトレール」も評判がいい。この先、二つのLRTを直通運転する計画もある。沿線に公共施設を集め、高齢者がクルマに頼らず暮らせるコンパクトな街づくりの未来図が大分見えてきた▲明るい話題の一方で、堺市のLRT建設を巡る混乱が収まらない。市街地を横断する新線を建設して、既存のチンチン電車・阪堺電軌とも相互乗り入れして共存共栄する計画だったが、今秋当選した新市長が計画中止を明言した▲ところが、多数野党の市議会は先週、既に予算化されたLRT工事費などを減額する内容の補正予算案を否決した。そのあおりで、新型インフルエンザ対策費や生活保護の世帯増加分も宙に浮いて、市民生活にも響きそうだ▲空洞化する市街地の再生に、LRTが一番適役なのか。計画中止なら代わりのアイデアは何か。その具体策を示して議論するところからやり直した方がいい。「希望」という名の電車が「民意」を乗せたまま「政争」の谷間を迷走していては、ハッピーエンドにたどり着けない。

    ●…せんにゃ

     「…しなければ」。例:「自分でせんにゃ」(自分でしなければ)・「はよう、返しせんにゃぁならん」(早く返礼をしなければならない)。

    ●センバツ

     甲子園春のセンバツは北信越で準優勝以上であり、松商学園とか星稜とか遊学館とか福井商業などがいて難関である。新湊高校が1986年にベスト4に入ったのが最高である。

    ●センバツメダル

     甲子園春のセンバツの記念メダルを富山大芸術文化学部(旧・高岡短大)の前田一樹が第73回大会から手掛けている。センバツのメダルはデザイナーの故大高猛が25年間デザインしてきた。大高の会社に勤務し、メダル制作に携わった経験のある前田が、2001年の大会から後を引き継いだ。

    ●せんまい

     「しましょう」。例:「勉強ちゃんとせんまい」(勉強をちゃんとしよう)。

    ●せんまいけ

     「しましょうね」。例:「こっからせんじゅうメール交換せんまいけ」(これからずっとメール交換しましょうね)。

    ●先用後利【せんようこうり】

     国語辞典に載っていないが、「先用後利」は富山の売薬を表す重要な言葉。「先に使ってもらって後から支払ってもらう」というクレジットの先をいく考え。ただ、日本は昔から盆暮れに借金を払う方式がとられていたので、全く新しい考えとはいえないだろう。

     昔から「先義後利」という言葉があって、賢い人がこれを変形して使うようになったと考えられる。この言葉は中国の儒学の祖の一人、荀子の栄辱編の中にある「義を先にして利を後にする者は栄える」にある。日本ではデパートの大丸が元文元年(1736年)、業祖・下村彦右衛門によって「先義而後利者栄」を事業の根本理念として定めたことが知られている。

     立山信仰を広めた御師たちも経帷子を貸していて、使われるとお金をもらったというからルーツはその辺りにあるかもしれない。

     この変形が「オフィス・グリコ」で、まず大阪で2000年2月に始まり、2002年2月には東京でもスタートしたお菓子の配置業である。ただし、グリコでは売薬にヒントを得た訳ではないと話しているが…。


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