佐々成政と埋蔵金

 佐々成政の埋蔵金は埋蔵金の確実度ベスト5くらいの有名なものである。

 NHK富山の「金川教授のこだわり見聞録」という番組(2004年6月7日放送)の中で取り上げることになったので、その予稿として作ったホームページである。

悪魔が最悪の罪に人間を誘いこむときは、
まず天使の姿を借りてあらわれるという。
『オセロー』第2幕第3場


●富山の埋蔵金

 言語学をやっているというと、ちょっと知った人はコピーライターみたいな職業だと思っているようだ。

 残念ながら、糸井重里のように儲けることはできないが、コピーライターまがいのことは本当に日常と化している。

 富山と埋蔵金といっても、ウソだと思うかも知れないが、富山には七金山というのがあって、たくさん出てきたのである。

 しかも、21世紀にもなって埋蔵金が出てきたのである。

 これは数年前、小矢部市で埋蔵金が発見されて、小判12枚、二分金686枚、一分銀404枚、二朱金92枚、そして、明治初期の10円金貨が46枚も出てきたのである。少なくとも3900万円の価値があるとされた。

 富山には金山という名前も多い。小さい頃、お金が川で流される名前よりも「金山」にどれだけ憧れたことか!?

 ということで、埋蔵金伝説である。

 2004年6月に放送の番組「金川教授のこだわり見聞録」の資料として作るものである。

 ヒマだねぇ。

●佐々成政【さっさなりまさ】

 富山は前田家のイメージが強いし、富山の人も成政のことはあまりいい人だとは思っていなかったようだ。もちろん、前田が成政について悪口をいったせいだという説もある。

 近年、遠藤和子のおかげもあって成政が見直されている。最終的に見直されたのは大河ドラマ『利家とまつ』からである。成政を山口祐一郎が演じた。正室・はるを天海裕希が演じたのだが、先日、東京で知人と話していて、成政の方はすっかり忘れ去られていた。

 この成政が金を埋蔵したのである。ウソではない。埋蔵金のさまざま本のベスト5には必ず入っているくらい信憑性が高いのである。

 成政は1536年(諸説あり)に生まれ、88年に没した。織豊時代の武将で富山では今でもよく知られていて、「ザラ峠(さらさら)越え」「黒百合伝説」「早百合姫伝説」「埋蔵金伝説」がある。尾張国出身で佐々盛政の子。織田信長に仕え、黒母衣衆(くろほろしゅう)となる。のち柴田勝家の与力。朝倉氏討滅、長篠の戦い、石山本願寺の一向一揆攻撃に功績をあげ、1581年(天正9)2月越中国一国を与えられ、富山に在城。佐々提を築くなど善政を敷きながら、着々と平定していく。成政は『後漢書』等に精通した博学の人で尾張比良城の客分であった学者の千田吟風に師事していたという。信長死後は柴田勝家に味方する。84年小牧・長久手の戦いで豊臣秀吉と対抗して攻められ、真冬のアルプスを越える「さらさら越え」をして家康のいる浜松へ向かった。翌年秀吉に降伏。87年九州の役に従軍し、羽柴の姓を許され、同年5月肥後一国を領す。肥後国人隈部(こくじんくまべ)氏らの検地反対一揆にあい、失政の咎を受けて、翌天正16年閏5月14日尼崎の法園寺で自害を命ぜられる。

 長篠の戦いで鉄砲奉行として活躍した後の、越中関連の年代をまとめると次のようになる。

●1580年(天正8年)[成政45歳] 信長より越中での合戦の指揮を命ぜられる。常願寺川や神通川、いたち川の治水事業にあたる。織田家のなかで「八角将」の地位。
●1581年(天文9年)[成政46歳] 信長より越中新川、礪波の両郡(三十六万石)を与えられる。
●1582年(天正10年)[成政47歳] 富山城主・神保長住が越中を去り、成政、名実ともに越中一国を支配。魚津城陥落。明智光秀の急襲により、信長、本能寺で自害。
●1583年(天正11年)[成政48歳] 柴田勝家、賎ケ岳の戦いで豊臣秀吉に敗れ、北ノ庄城で自害。成政、秀吉より越中守護の朱印状を受け、越中一国の領主となる。仁尾 ●1584年(天正12年)[成政49歳] 織田信雄、徳川家康の要請を受け、徳川方に味方。前田利家と対立、能登の末森城を攻める。さらさら越え。
●1585年(天正13年)[成政50歳] 秀吉の成政征討によって富山城にこもるが、秀吉に降伏。新川郡(二十万石)を与えられる。天正大地震。
●1587年(天正15年)[成政52歳] 秀吉の九州征討に従い、豊後、日向、大隈へ。秀吉より肥後国主(四十五万石)に任ぜられる。肥後の国人らが一揆を起こすが、平定。
●1588年(天正16年)[成政53歳] 肥後の国人一揆を秀吉に責められ、切腹の沙汰。摂津・尼ケ崎の法園寺で切腹する。辞世の句「この頃の 厄妄想を 入れ置きし 鉄鉢袋 今破るなり」を遺す。

佐々成政

富山市郷土博物館蔵

 伝説では、成政が北の政所に贈った黒百合がもとで、淀殿との確執から北の政所の怒りを買い、秀吉に切腹を命じられる。これは、成政に不義の疑いをかけられ殺された早百合姫が、恨みを黒百合に託したから、という。

 他にもいろいろな伝説があり、越中に悪疫が流行したとき、佐々成政が一夜泊稲荷神社の神に祈ったところ、その願いが天に通じたのか流行病は少しずつ治まっていったという。それ以来、成政は一夜泊の神を厚く信仰するようになり、民衆にも紹介し、さらさら越えの際にも祈願していった。後世になってこの神社の十界曼陀羅に成政の名が、「成政大明神」として記されるようになっていたと伝えられる。

 遠藤和子『佐々成政』(学陽文庫、増補は小学館文庫)があり、郡順史(こおり・じゅんし)『佐々成政』(PHP文庫)がある。

 松本清張の短編にも佐々成政を描いた「ひとりの武将」(1956年『オール読物』に発表・『青春の彷徨―松本清張短編全集6』カッパ・ノベルス)というのがある。律儀なためにいつも豊臣秀吉や前田利家の後塵を拝する役回りを演じ、最後には秀吉の犠牲者となったという悲運な武将として書かれている。清張は後書きで「成政の通った黒部越え(さらさら越え)の下にはいま黒四ダムが完成している。一度そこに行き、かたがた成政の“壮挙”の跡を見たいと思っている」と結んでいる。1991年に朝日新聞の中江利忠が松本清張と朝日新聞社専用機で日本上空を旅行して上空から黒部を望んだ。中江は翌年の清張永眠の際に代表して弔辞を述べた。

 2002年のNHK大河ドラマ『利家とまつ』では成政を山口祐一郎、正室・はる(信長の家臣、奉行衆の筆頭格・村井貞勝の娘で信長の清須城下では、成政夫婦、利家夫婦、秀吉夫婦は、いわゆるご近所に住むことになり、年齢が近いこともあって、はるはまつやおねと親交を深めていく――とされる)を天海裕希が演じた。はるをフィクションだと思っていたが、遠藤和子は2002年に発見したというが上京区慈眼寺に「成政寺」と並んで書かれた位牌があり、「慈光院」という戒名だという。また、「慈光院」という名のお墓が残っている。

 「さよならの黒百合」では早百合姫が隠密の容疑をかけられて殺される、幽霊が出るという噂になっていた。

 これを機に駅で「佐々成政弁当 黄金伝説」が売られるようになる。

『利家とまつ』と越中の佐々成政

第34回 「さようならの黒百合」2002年9月1日
天正12年6月、まつ達が進めて来た前田家と佐々家との婚約が行なわれた。が、佐々成政を許していない秀吉は、前田利家に成政との縁切を迫る。はるは越中の黒百合を束ねた巻紙に、たとえ夫たちが戦となっても、まつの事は好きだと記し、まつに送った。

第35回 「末森城の決戦」2002年9月8日
天正12年9月、成政は奥村家福が守る末森城を攻撃した。成政と一期一会の戦をすべきと、まつに言われた利家は金沢城を出るなという秀吉の命に背き出陣し、佐々陣営に勝利する。成政は家康に会い、手を結ぶため雪のさらさら峠を越える決意をする。

第36回 「さらさら越え」2002年9月15日
天正12年の冬、成政とはるは、厳冬のさらさら峠を越えて浜松に向かう。はるは雪崩で行方不明。既に織田信雄と秀吉が講和し、家康も秀吉との和睦に動き、成政は孤立。利家は秀吉が加賀に来た際、成政の命乞いをし許しを得る。成政は剃髪して秀吉に詫びをいれた。

●早百合姫伝説

 佐々成政の愛妾の悲劇。遠藤和子『佐々成政』によれば、成政を「横暴な武将」に、姫を「悲劇のヒロイン」に仕立て上げる加賀藩側の脚色があったという。成政がさらさら越えをしている時に、他の愛妾が嫉妬して『オセロー』のように起こしたものだといわれる。早百合姫の寝所の戸口に小さな錦の匂い袋が落ちているのを拾い、茶坊主に誰のものかと聞くと、病気で残留していた家来(竹沢熊四朗とか諸説)のものであることが判明し、成政は激怒した。確かに家来のものだったが、仕掛けられたものだという(オセローはハンカチ)。家来を呼び、斬殺し、ついで、早百合姫の黒髪を引っ張り、神通川の川沿いまで走り出て、髪を逆手に取り宙に引き上げ、惨殺。姫の親兄妹、一族18人全ての首をはねさせ、獄門に磔にしたという。早百合姫は死ぬ時、罵り叫び、歯をかみ砕き、血の涙を流し、美しかったその顔は悪相に変わり、「己成政此の身は此処に斬罪せらるる共、怨恨は悪鬼と成り数年ならずして、汝が子孫を殺し尽し家名断絶せしむべし」(浅野清『佐々成政関係資料集成』)と叫んだそうだ。見ていた者は目を覆い、聞いていた者は毛髪が動くほどの、光景だったと『絵本太閤記』(桂書房)にはある。立山に黒百合が咲いたら佐々家は滅びるだろうという呪いをかけて死んだ。早百合は断末魔の苦しい声で「私は無実です。私の恨みで立山に黒百合が咲いたら佐々は滅びますぞ」とのろって息絶えた。

 やがて立山に黒ユリが咲き、成政はこの珍花を秀吉の正室・おね(北政所)に献上したが、この花がもとでおねと側室・淀との間がこじれ、やがて成政は切腹させられたという。この話は『絵本太閤記』に脚色して面白く書き立てられ、古川柳にも「立山に百合が咲いたで笹が枯れ」と歌われた。今東光の『お吟さま』によれば、利休の義娘である吟が黒百合の献上を淀に話したために二人の確執が生じ、その結果、佐々家が滅びたことになっている。

 ゆかりのエノキが富山市磯部の神通川の土手にある。亡霊が宿る木だとして切らずに残された。周りに青い火の玉が現れたとか、初夏のころ「血の涙」が降ったとの言い伝えもあり、付近住民を怖がらせた。富山大空襲で焼け、今あるのは落ちた種から育った二代目だという。

 桑原水菜作・東城和実イラスト『炎の蜃気楼−断章−最愛のあなたへ』(集英社コバルト文庫)も早百合姫を扱っている。佐々成政が溺愛しながらも人々の讒言によって密通の疑いを掛けられ非業の死を遂げた早百合姫の怨霊が暴れ出していることを知り、富山に向かった主人公の直江と高耶を待っていたのは、織田信長の配下・佐々成政を倒すために罠を仕掛けた一向宗徒による協力の要請だった。「溺愛しながら傷付けてしまった存在にどう対峙するか?」。成政と体験を共有する直江は、主君・高耶に対する欲望やコンプレックスに煩悶しながら、成政の決着の付け方を見届けようとする。

 神通川磯部の堤、桜並木の間に一本の榎が亭々とそびえ立ち、葉を茂らせている。佐々成政が愛妾・早百合を惨殺したという伝説にいろどられた地だ。この木の下で「サユリ、サユリ」と呼ぶと早百合亡霊の火玉が出現すると恐れられた(磯部の桜は大正二年の植樹。それまで桜並木はなく、一本榎だけだったから、よけい恐ろしかったであろう)。
 天正十二年(一五八四)冬、佐々成政はひそかに富山城を出て立山のざらざら越えを決行し、浜松城に徳川家康をたずね、秀吉打倒の強談判をした。

 その留守中、愛妾・早百合が成政の近習の侍と密通したとのウワサが立ち、激怒した成政は早百合の黒髪をつかんで引きずり走り、この榎の枝に逆さ吊りにして、あんこう斬りめった斬りの惨刑に処した。相手は言うまでもなく、早百合の一族も皆殺しにされたという(一族は呉服村の住民)。

 早百合は断末魔の苦しい声で「私は無実です。私の恨みで立山に黒百合が咲いたら佐々は滅びますぞ」とのろって息絶えた。

 やがて立山に黒ユリが咲き、成政はこの珍花を秀吉の正室・おね(北政所)に献上したが、この花がもとでおねと側室・淀との間がこじれ、やがて成政は切腹させられたというのだ。

 この話は『絵本太閤記』に脚色して面白く書き立てられ、古川柳にも「立山に百合が咲いたで笹が枯れ」と歌われた。

 しかし、これは実話ではなく、佐々のあと越中領主となった前田の太鼓もち達が、評判のよい前領主を暴君愚将に仕立てあげるための作り話だ。作家・遠藤和子さんはそのことを丹念に調べあげて証明された。

 悪いウワサが立つと、無実とはわかっていても処刑するのが当時の武家の法制であった。成政は止むをえず涙をのんで早百合を罰した。惨殺ではなく、「許してくれ早百合」と成政は深夜一人男泣きに泣いたことであろう。

 『オセロー』はイギリスの劇作家シェイクスピアの五幕悲劇。1604年ごろの作。イタリアの小説に取材し、正式の題名は『ベニスのムーア人オセローの悲劇』。ベニス公国の元老ブラバンショーの娘デズデモーナは、黒人将軍オセローと恋愛し、父の反対を押し切って結婚する。オセローの旗手イアーゴは望んでいた副官の地位をキャシオに奪われたのを根にもち、2人に復讐を計画する。人間心理の弱点を見抜いたイアーゴの巧みな讒言(ざんげん)を軽率にも信じてしまったオセローは、デズデモーナを寝台の上で締め殺すが、すべては露見し、オセローは悲しみのあまり自害を遂げ、イアーゴはもっとも残酷な処刑を受けることになる。シェイクスピアの四大悲劇の一つに数えられるが、他の悲劇に比べて写実的な家庭悲劇の色彩が濃い。これと早百合姫伝説は似ている。

このハンカチをキャシオーの宿舎に落としておけば、
あいつが見つけるだろう。空気のように軽いものでも、
嫉妬に狂う男には、聖書のことばと同じ重みのある
証拠の品となる。こんなものでも役には立つだろう。
ムーアは早くもおれの毒にやられてまるで別人のようだ。
   『オセロー』(小田島雄志訳)

●鍬崎山〜鍬先山【くわさきやま】

 佐々成政が秀吉に攻められる前に百万両のお金を隠したとされる中で最も有力な山(2089メートル)。薬師岳の左手前にあって「越中富士」と呼ばれ、「富山のマッターホルン」とも呼ばれる。「朝日さす夕日輝く鍬崎に、七つむすび七むすび、黄金いっぱい光り輝く」という埋蔵金伝説の古い里歌にふさわしいたたずまいとなっている。

 ところが、埋蔵金伝説に「朝日さす 夕日かがやく」は付き物で、9割がこのパターンなのだ。つまり、枕詞としての役目しかない。特に兵が隠した埋蔵金にはこのパターンが多いといわれる。この歌がなくても、朝日山とか夕日岳などの地名が近くにあることが多い。

「朝日さす 夕日かがやく もろの木の下に うるし千杯 銭十億万貫あり(安房)」
「朝日さす 夕日かがやく 卯のすみに うずめおくなり 黄金千貫(長浜)
「朝日さす 夕日かがやく その下に 黄金千枚 朱三石(熊野)」
「朝日さす 夕日かがやく つつじのもとに 大判小判 後の代のため(伊勢志摩)」
「朝日さす 夕日かがやく 雀のみよとりのところ 黄金千杯 朱千杯あり(桐生)」

 七結びというのは家紋にもある。「七つ結び釜敷き」というものだ。ただし、成政は隅立四つ目結とよばれるものなどを使っていた。

七結び

 七というのは7×7で49個の壺だということを表しているという説、7つの洞窟に7個ずつ埋めたという説がある。また、7月7日(新暦でいうと8月7日)、なんのことはない、七夕の日だ。【星座表に当たってみます】

 七というのは陰陽道の中でも重要な数字で「祖神(おやがみ)の数」とされる。陰陽道では「火」の数が七なのである。人は「土気」として扱われ、「火」は人にとってその生みの祖(おや)となる。

 「七歳までは神の子」とされるし、生まれると「お七夜」があり、死ぬと「初七日」というものがあって、ともに新生を表す。

 これは北斗七星と関連が深い。北極星が陰陽師の目指す星だからである。羅針盤は方向を知るための必需品であるが、中国最古の羅針盤は匙(サジ)の形をしていた。そして、天の大匙である北斗七星は、天子の象徴であった。天の大匙(北斗七星)に「食」をのせ、天子(北極星)に捧げたのである。この思想は大嘗祭の本質になっていて、吉野裕子「思想の言葉」(『思想』岩波779号)によれば、「大嘗祭は、天皇命の根源たる北極星を祭神とする北辰祭祀であるが、よりくわしくいえば、その供饌のための一連の手つづきとして、食匙型の北斗南斗にまず神饌を輸し送ることに心が砕かれて」いるという。

 だから、この北斗七星を見つければ、その点に相当する部分に隠されている、というのが今回の推理だったのだ。実際には剱岳からザラ峠などの山を結んで、北斗七星を見つけ、その上で、北極星のある位置を宝のありかということで放送した。

 富山は金山が多く、「越中七金山」(ななかねやま)」と呼ばれた。名前にも「金山」さんという人が多い。ここでも「七」が登場する。成政の頃はゴールドラッシュだったと考えられる。特に魚津の松倉金山(まつくらきんざん)は産出量が多く、もっとも栄えた慶長年間では、30日切で判金300枚から500枚、重量では500枚で81.4Kgも算出した。地名として、千両舗・七枚平・千枚谷等の地名が残っている。

 成政は神岡の高原諏訪城を攻めたと伝えられているが、これも鉱山を狙ったものだ。

 鍬崎山の埋蔵金については次のような言い伝えもある。

「白い花が咲くドイウダンツツジの古株の場所」
「マムシの巣がある大木の下で、決められた呪文を唱えなければ人が近づけない」
「三つ葉ウツギの白い花の咲く木の下」

 これではまるでインディ・ジョーンズか、ハリー・ポッターである。ゴキブリがいないだけましだ。

 実は「くわさき」というのは固有名詞ではなく、普通名詞だ。日本国語大辞典によれば「新田開発の際に労力出資した農民の権利を尾張地方などでいう。また、村内の空閑地を他村のものが開墾して耕作することを加賀地方などでいう」とあり、「鍬先山」というのは「緑肥を得るために、田につづいた草山。地先山」という意味である。つまり、「入会」(いりあい)なのだ。もしかしたら、違う鍬崎山かもしれない。


 成政は黄金の入った49個の壷を家来に背負わせて針ノ木峠に向かわせた。深い雪におおわれた峠は、吹雪が凍りついた岩肌に乱舞した。家来たちはやむなく、峠の途中で石室を造り、佐々家伝来の鍬形のかぶとと共に黄金の壷を隠した。阿部義行ひとりを監視に残して、方々に逃散した。阿部義行は猟師となって佐々家再興を夢みながら、深山で朽ち果てたという。

 ザラ峠越えの途中に成政らが浅間山荘に寄ったのかどうか知らないが、『連合赤軍「あさま山荘」事件』(文藝春秋)の佐々淳行が自分は成政の子孫であるという。考えてみれば、金を埋蔵するというのは危機管理の一つだったのである。

 後に長野県の由松という男が親方に連れられて鍬崎山に登った。その親方は成政の子孫で宝の隠し場所を書いた古絵図を持っていたという。親方は壷を捜しあてたが、他言したら殺すとおどした。やがて、親方が急死し、由松は黄金の入った壷を捜しにいったが、以前の道筋がわからない。毎年毎年、鍬崎山に入りびたり、由松はついに狂死したという。

 明治中期、静岡県から来た男が山中で小判の入った49個の瓶を見つけた。男は、なぜか瓶を残したまま下山し、その後、死亡したという。男が残した発見場所のメモをもとに、一攫千金を狙った人々が山に分け入ったが、まだ一人として小判を見たものはいない。水晶岳付近だという説もあり、早月川の谷の伊折の対岸に宝島という所があって、覚石(おぼえいし)という巨岩があり、成政が立山越えをしたとき、黄金を隠した目印にこの巨岩を置いていったと言われる。立山東西の内蔵助平の秘境だとする説もある。平家の落人部落である有峰の洞窟であるともいわれ、神岡町の桑崎山も、富山県の鍬崎山も、ともに有峰の近くにあるので神岡町の桑崎山の可能性もある。

 遠藤和子『佐々成政』(学陽書房→小学館M文庫)によれば、民衆から敬愛された成政が前田利家に追い落とされ、越中は加賀藩領になった。越中金山の採掘で加賀百万石は栄えたものの、領民たちはしいたげられた。成政の悲劇は民衆の悲劇であり、彼らが成政復活の願いを伝説に託したという。

 生駒忠一郎『幻の埋蔵金 佐々成政の生涯』(KTC中央出版)という本も出ていて他の可能性も書いてあるが、小説として読めばいい。

 もし、伝説であってウソだとするとしたら、次のような事情から生まれたのだろう。

1)埋蔵金伝説の多くは悲劇の武将から生まれてきていて、日本人の判官贔屓から生まれた。

2)成政の頃の七金山が跡形もなくなくなっていて、エルドラド(黄金郷)はどこへ、という意識が働いた。

3)加賀藩と富山藩になってから貧しくなった理由を知りたかった。

どうして、鍬崎山かと考えてみると次のようなことが考えられる。

1)他の金山からの黄金を運ぶには近くて、さらさら越えの途中にあった。

2)鍬崎山は富山城からも見ることができる独立峰で、マッターホルンといわれるように堂々としていた。


「金(こがね)掘る山本(やまもと)遠し閑古鳥(かんこどり)---蕪村

●埋蔵金ちゃん

 ということで、早速、鍬崎山に登ってみた。

 NHKスタッフが金属探知器を借りるために滋賀県の業者に電話をしたら、「民放はよくあるけど、NHKは初めてだ」と感心されたという。

 その前に埋蔵金探しで有名な上市町の本原盛明さんの家を訪れた。若い頃から埋蔵金探しをしていて、給料の2倍の値段の金属探知器を買って調べたこともあった伝説の人だった。耳が遠くてもう人と話したくない、というお話だったが、アルバムなど資料をたくさん用意してくださって、長い間お話くださった。面白かったのは鍬崎山が「入会」(いりあい)だったということだ。二つの村で共同して使っていたということが分かった。ということは、やっぱりここが本物の「くわさきやま」だったのだ。

 その後、鍬崎山に向かう。県営らいちょうバレースキー場のゴンドラ山麓駅に行く。スキーシーズンでもないのに運行しているに驚いた。もちろん、僕ら以外誰も乗らない。でも、職員は7名くらいいそうだった。時間とか曜日とか予約制とか限定できないものだろうかと、これから御世話になるのに能天気なことを考えてしまった。

 職員に聞くと昔は埋蔵金を探しに来た人も多かったようだが、最近ではハイキングの訪れる人が多いという。ゴンドラに10分ほど乗ると、山頂駅に着く。その左に鍬崎山(2090m)が見えてくる。その前に瀬戸倉山(1320m)と大品山(1404m)というのがある【地図】。考えてみれば、「おおしなやま」というのは「だいじなやま」とも読める!

 実は、鍬崎山まで5,6時間かかる。今は登山道ができているが、健康な人でも朝一番のゴンドラに乗って、最終のゴンドラに間に合うように行くのが精一杯で、一泊を覚悟しなければなかなか登れないのだ。

 僕も覚悟して登り始めたのだが、朝から降っていた雨がひどくなってきて、遭難したら、大変だということになってきた。

 で、帰宅を決めたのだった。

 もう少しで埋蔵金が手に入ったところだったのに残念だった。

 帰ってから次のようなニュースが流れていた。

 県営らいちょうバレースキー場(大山町)の累積赤字が30億円近くに達することが分かった。

 県企業局によると、同スキー場は77年にオープンしたが、単年度黒字となったのは90年度、95年度、96年度の3回だけ。03年度も、雪不足により、利用客は9万8千人(前年度比3・2%減)と落ち込み、1億3407万円の単年度赤字となった。これにより、累積赤字は29億8千万円となったという。

 つまり、この経営を合理化することが、今最大の黄金への道ということだった。


※注意

 残雪期、山頂直下には雪渓があるので、滑落には注意。ゴンドラ最終便(8:30〜16:30)に間に合わない場合は、粟巣野方面のエスケープルートから下山すること。


英語

数字

序文

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