●さ〜さっ
「それは」。「あれは」は「あら」で「これは」は「か」となる。例:「さ、なんけ」(それは何ですか)「さ、あんた、だまされとんんがや」(それはあなた、騙されているんですよ)。
●菜【さい】
「おかず」で材料を「さいぐさ」ともいう地域がある。例:「なんかぁ、菜ないけ」(何かおかずになるようなものないですか)。
●さい
「際」で「時」の意味で使う。例:「きんの、来たさい、だもおらんだねけ」(昨日、来た時に誰もいなかったじゃないですか)。
●ざい
「在」で「田舎」のこと。
●災害
富山県は災害の少ない県として知られるようになった。かつて河川の氾濫が多かったが、こうした「暴れ川」を治水工事で管理したためである。
台風は富山に来るときはほとんど勢力を弱めている。雷も石川ほど多くない。洪水はないが冠水がある。地震は福井地震があったきりで活断層が心配だ。
地震や雪崩などの自然災害やさまざまな事故等で生き埋めになった人を捜し出す救助活動の支援をする犬。災害救助犬による人命救助と活動に必要な知識、技術の向上を目的として、民間の組織として国内で初めて発足したのが災害救助犬協会富山で、1991年、ライオンズクラプ国際協会334D地区・1R・2Z・富山西ライオンズクラプ結成20周年記念事業の一環として発足した。警察犬は特定の個人の臭いを覚えて追跡するのに対して、災害救助犬は不特定多数の人間の臭いを探知して捜し出す。1995年の阪神大震災で災害救助犬は多くの行方不明者の捜索に力を発揮した。
どうして富山が発祥の地だったかというと、富山では山岳救助の必要があり、雪崩などに巻き込まれた人や人の行けないところで救助を待っている人を救う必要があったからである。つまり、セント・バーナード犬がアルプスで活躍したのにヒントを得たのである。
●細工かまぼこ
贈答用の蒲鉾で、派手な飾りをつけてある。細工かまぼこは日本古来の本膳(ほんぜん)料理の一品が、結婚式の変化に合わせて姿を変えていったものだという。従って起源が富山にある訳ではない。島根の大社地方を中心に古くから作り続けられた細工蒲鉾や富山県や京都府舞鶴市のものが知られる。中国の影響を受けた飾りなので、長崎などでは鯛ではなく、鯉をかたどったという。種類は様々で、大きいもので体長60センチほどの尾頭付きのタイや鶴、亀、富士山や松、宝船、末広、巾着などが描かれたものもある。職人が絞り器を使い、手の力加減を変えることで、タイの口の太さから亀の小さな目まで表現する。
井上雪『その手を見せて』(冬樹社)に「氷見の細工かまぼこ」という一章があるが、有名なのは新湊、四方(よかた)、魚津である。
県統計調査課によると、総務省が調査した04年の1世帯あたりのかまぼこ支出額は、富山市で6257円。県庁所在地別では3位。1位は仙台市で1万3106円、2位が長崎市で8175円。また、披露宴後に手渡される贈り物(引き出物)について、リクルート発行の結婚情報誌「ゼクシィ」が04年に調べたところ、親族、友人を含めた平均額は首都圏で4900円だったが、北陸圏では1万円。
●ざいご
「在郷」から「田舎」のこと。「田舎臭い」は「ざいごつけない、ざごつけない」という。例:「おらっちゃ、ざいごのもんやからそんな難しいこと分からん」。
●さいさい
「たびたび」。例:「こんなにさいさい、来てもろうてぇかんね」(こんなにたびたび来てもらってありがとう)。
●ざいしょ
「在所」で「田舎」。<ノキバノ月ヲミルニツケ/ザイシヨノコトガ気ニカカル>(李白『静夜思』)。原詩の「故郷」を井伏鱒二の「ザイシヨ」と訳した。
●西田【さいだ】
高岡市太田の西田に臨済宗の古刹(こさつ)・摩頂山(まちょうざん)国泰寺が建っている。当寺は、正安元年(1299年)に摩頂山東松寺の名で開創された。この寺を開いたのは慈雲妙意(1274〜1345)で、清泉禅師・慧日聖光国師の号をそれぞれ後醍醐(ごだいご)天皇(南朝)と光明天皇(北朝)から授かったといわれる。
しかし、何よりも国泰寺は筍料理で有名だ。周りには筍料理の店がたくさん並んでいる。小杉の黒河地区も筍で有名だ。
「幕末三剣豪」の一人で氷見市仏生寺(ぶっしょうじ)脇之谷内(わきのやち)地区出身。寛政10年(1798)年に生まれ、江戸で剣術・神道無念流を修行。江戸の三大道場の一つ「練兵館」を開き、千葉周作、桃井春蔵とともに「幕末三剣豪」と称された。幕末の江戸における「三大道場」と言われたのは鏡心明智流、桃井春蔵の八丁堀蜊河岸「士学館」北辰一刀流、千葉周作のお玉が池「玄武館」そして神道無念流、斎藤弥九郎の「錬兵館」だった。「技の千葉周作、力の斎藤弥九郎、位の桃井春蔵」と称された。門下生は一時3千人を超え、高杉晋作、桂小五郎(後の木戸孝允)ら幕末の志士を輩出した。漢学、兵学、西洋砲術なども学び、多方面で才能を発揮した。その精神は「武は戈(ほこ)を止めるの義なれば、少しも争心あるべからず」(神道無念流演剱場壁書)という。氷見市に銅像があり、渋谷区代々木5丁目の福泉寺にお墓がある。津本陽『修羅の剣』の仏生寺弥助も斎藤を頼って江戸に出た。平岩弓枝『御宿かわせみ 春の高瀬舟』では神林東吾が斎藤弥九郎から神道無念流の免許皆伝を受けたと書かれている。
全日本剣道連盟(東京)が2003年度初めて選定した剣道の「殿堂」15人に、宮本武蔵らと並び、斎藤弥九郎が決まった。
●さいなら
「さようなら」。
●塞(さい)の神
道祖神の一つ。入善町上野(うわの)邑町(むらまち)地区で行われている伝統の火祭り行事「邑町のサイノカミ」。重要無形民俗文化財に指定されている。厄払いや無病息災、五穀豊穣を祈るもので、災いから住民を守ってくれる「塞(さい)の神」信仰と、左義長が結びついて、安政5(1858)年ごろに始まったとされる。毎年1月の第2日曜、子どもたちが集落を回って正月飾りなどを集め、竹やわらで組んだ高さ約3メートルのやぐらで、人形とともに燃やす。子どもたちが「でくさま」と呼ばれる男女の神様を表す木製の人形を手に、「さいのかみじゃ おおかみじゃ じいにも かあにも…」などと歌いながら家を回り、人形を灰になるまで燃やす。
●佐伯彰一【さえきしょういち】
富山出身の現代の知識人を一人あげるとすると佐伯彰一東大名誉教授になる。1922(大正11)年、東京生まれ。東大英文科卒。米国留学を経て、都立大、東大、中央大学教授を歴任。三島由紀夫文学館館長。著書に『評伝 三島由紀夫』『物語芸術論』『回想(メモワール) 私の出会った作家たち』など。アメリカ文学のみならず、伝記研究でも『日本人の自伝』『評伝三島由紀夫』がある。
『神道のこころ』の「原質、原型への眼ざし」の中で佐伯は立山信仰の担い手である佐伯一族の末裔で、生まれた芦峅寺(あしくらじ)は、佐伯三十六坊といって三十六軒の宿坊があり、佐伯の家は吉祥坊という名前だったという。先祖は武蔵と江戸がその担当する布教の地域で、『立山縁起』の絵物語である「立山曼陀羅」を肩に、布教していたという。詳しい「旅日記」も見たことがあり、「むかし、江戸で『土地を買い込んでおけば必ずもうかる』とおしえられたのに、わが家のご先祖は才覚がなく、ただの一坪も買っておかず、儲け損なったもんじゃという繰り言も何度も耳にした。」と書いている。一族の伝説によれば、遠い先祖がこの土地に定着したのは、遠く奈良時代に遡り、その始祖は佐伯有若という名で、当時の越中の国司の息子であった、という。こうした名門の子弟【有頼(ありより)】が山深い村落に定着するに至ったのは、ある日、父の愛用の鷹を借用して狩に出かけた所、空に放った鷹は、手もとにもどらず、一目散に高山の方を目がけて飛び去った。これを懸命に追いかけて行くうち、ついにねらい打ちした鷹は、血をしたたらせながらなおも山頂めがけて飛びつづけた。さらに、行 く手には熊も現れたが、これにも弓を射かけて追って行くうちに、ついに山の神が示現をなさる。鷹も熊も、じつは神の使いであり、お前をここに導く役割を果たしたのだという神の仰せであった。以来、われら佐伯一族は、この山麓に居を定め、立山の神々にひたすら仕えて、今に至ったというのが『立山縁起』の大よそ」と書いている。
立山信仰の本拠地、芦峅寺雄山神社には、白タカとクマに導かれ、菩薩に巡り合った慈興上人(有頼)の開山堂がある。神仏習合という独自の発展を見せた立山で、開山の祖である慈興上人のご尊像が神社の中心に祭られるのは、ごく自然なことだった。
ちなみに富山県の人は「佐伯」と聞くと、立山町出身の人だと考えるほど立山町に多い。
佐伯の父・謙吉は昭和17年から2年間、「大和(やまと)」という球団のオーナーだった。球団名は当時経営していた地質調査会社にちなむ。前身は12年に8番目の球団として設立されたイーグルスでフランチャイズは後楽園球場だった。この年から8球団になり、プロ野球はリーグ戦が始まった。戦局と経営の悪化で18年末に自主解散したが、終戦後に「大和」の選手を中心に、球団を設立する動きがあった。結局、この構想は有力球団の反対に遭い、握りつぶされる。経緯は小川勝『幻の東京カッブス』(毎日新聞社)に詳しい。彰一自身もプロ野球チームとファンの交歓試合に、二塁手として出場したことがあるという。佐伯にフィリップ・ロスの『さよならコロンバス』ではなく、『素晴らしいアメリカ野球』を翻訳してほしかった。
●塞(さえ)の神まつり
1月15日に行われる、入善町上野の邑(むら)町地区で集落を邪悪の侵入から守る塞の神信仰と、無病息災を願う左義長が結びついた小正月の伝統行事。江戸時代末の安政五(一八五八)年にコレラが大流行したのがきっかけで始まったと伝えられている。戦時中に1年、中止されたが落雷で1人が亡くなったり、家が壊れたりしたため、2004年から復活させた。
小学1年から6年までの男の子6人が、地区の公民館を出発し、3人ずつ2手に分かれて家々を回る。男神(長さ約27センチ)と女神(同約25・5センチ)を刻んだ木偶(で・く)人形2体を胸元にささげて歩く。
玄関に立つたびに、男神、女神に見立ててハンノキで作った木偶人形を拍子木のように鳴らして「塞の神じゃ 大神じゃ じいにも かあにも ばくばくじゃ 来年もきゃ 13じゃ にょうぼう産んだら勝負した 男産んだら そそ育て」と大声で歌う。家人が供え物として米と豆を子どもたちが首から提げた袋に入れ、正月飾りなどを託す。お年玉を差し出す家もある。
塞の神の石碑がある地区内の雪で覆われた水田では、大人たちが朝から竹やわらなどで高さ約5メートルのやぐらを作る。戻ってきた木偶人形をやぐらの中に安置し、子どもたちがわらで火を付けると、赤々と燃え上がる。かたわらで子どもたちが「塞の神じゃ」と大声で歌い続ける。
●…さかい〜さけ〜しゃけ〜さけぇ
「…だから」「…から」。例:「弁償すっさかいね、許してくだはれま」(弁償するからね、許してください)・「そやさかい、あんたダラやちゅがいぜ」(それだからこそ、あなたは馬鹿だというのだよ)・「そっやさけぇ、だんもわしの話聞いとらんがやぁ」(それだから誰も私の話を聞いてないのだ)。
●逆さ合掌
相倉合掌造り集落で合掌造りの家が逆さまに見える風景。田植え前に水が張られる5月前後の約1カ月程度しか見られない。春季ライトアップもされて幻想的。
●逆さ地図
富山県が作った「環日本海諸国図」の通称。環日本海交流の拠点としてふさわしいことを強調するため北と南を逆にしたもの。日本海が日本列島と中国大陸の間に横たわる「湖」のように見える。発想のユニークさが受けてよく売れる(買いたい人は県民会館に行けばいい)。元の発想はオーストラリアの教師が作ったオーストラリアの逆さ地図である。
●嵯峨寿安【さがじゅあん】
幼名・一正。1842年(天保13)金沢の生まれ。江戸に出て村田蔵六(大村益次郎)の鳩居堂でオランダ語を基礎に、医学、軍事技術を学ぶ。1869年(明治二年)金沢藩よりロシア留学の命をうけ、日本で初めて単独でロシア大陸を横断した。ニコライは4歳年下の寿安に、弟子のように愛情を注いだという。5年後に帰国した時にはすでに金沢藩はなく、北海道開拓使御用係、東京外国語学校教官などの職につくがなじめず、不遇のうちにサハリンを経て1898年(明治31年)広島にて死去。享年58。一時祖父が伝馬屋を営む岩瀬に滞在したことがある。犬島肇に『嵯峨寿安、そしてウラジオストックへ』(桂書房)がある。
●坂田会館
小杉にあった結婚式場。養鶏業で儲けた経営者だったので、料理に鶏肉が多かったと言われる。近所の人は鶏舎からの悲鳴で「明日は大安だ」と思ったそうだ。
●サカタニ
サカタニ農産。1967年 初代代表の酒谷実が2戸の農家から出発し、「農業は心を耕す産業であり、まずは人づくりが不可欠」と人材育成の大切さを信念に借地型大規模農業に取り組んだ。400戸ほどの農家から260haの農地を預かり、『農地の保全』『担い手の育成』『食糧の安定確保』『土づくりを基本とした良質米の生産』『地域に根ざした農業』を目指している。小泉首相が訪ねてきたこともある。
●魚
富山県の魚が1996年に制定されている。ブリ、ホタルイカ、シロエビである。
2010年にはっシンボルマークができた。「富山湾の王者・ブリ」を中心に配し、富山の「と」を富山湾の波の形で表現している。公募で福岡市のグラフィックデザイナー三好健一の作品を採用した。
●さがねる
「探す」と「尋ねる」の混淆。「とらまえる」(<とらえる+つかまえる)。
●酒饅頭【さかまんじゅう】
さんぽーろ(中央通り)竹林堂のが有名で「甘酒まんじゅう」ともいう。6月1日に「朔日饅頭」としても売られる。この日に食べると、無病息災で過ごせるとされる。竹林堂は、江戸中期の安永年間(1772〜1781年)に、このまんじゅうを富山藩主に献上して喜ばれ、以来、藩の製菓御用を務めた。寛政2年(1790年)には、藩主前田利謙(としのり)から、竹林堂の名前を賜ったという。当主が毎晩、翌朝に使う甘酒を仕込む。うるち米に伝来のこうじを加えて作る。朝、ぶくぶくと勢いよく泡立っている甘酒を小麦粉に加えてこねる。
北前船と関係が深いようで、例えば福井の「三国の万寿」の始まりは、江戸時代、三国港が北前船の寄港地として日本海交易の重要な拠点となっていた頃に沖縄より大阪を経由して砂糖等の積荷を運んできた北前船の船頭たちが三国港に何日も停泊していた時に、地元の人達に酒万寿の製法を教えたといわれる。米糀と餅米を使い、甘酒を自然発酵させて作る酒万寿の風味は、大変美味しかったらしく、たちまち評判になった。結婚式では引き出物や屋根から撒くのに使われた。
●さかむけ
「指の爪ぎわの皮膚が逆にむけていること」を「さかむけ」とも「ささくれ」ともいう。篠崎晃一+毎日新聞社『出身地がわかる!気づかない方言』(毎日新聞社)によれば、西日本と同様に富山は「ささむけ」が多いことになっている。京都、大阪で少数ながら「さかむくれ」があるという。
今はないが、昔は富山では座棺が行われていた。
カメに入れる坐棺もあった。柏原兵三は富山に疎開していて『長い道』(映画『少年時代』の原作)を書いたが、「坐棺」(『徳山道助の帰郷・殉愛』講談社文芸文庫/『ふるさと文学館 第20巻』ぎょうせい所収)という小説を書いている。 学生時代に、祖母の葬式のために富山の農村を訪れた際の回顧の形式をとり、古い因習に捉われた田舎での親族たちの確執を丹念に辿る。ひとり先に帰京することになった主人公が思わぬハプニングに遭遇するラストが印象的である。
久世光彦『家の匂い 町の音』の「生まれたはじめて住んだ家」の中にお父さんの葬式が出てくる。
昭和二十四年夏、父は、ある朝突然腹痛を訴え、日が暮れると同時に死んだ。胆嚢が化膿していたのだという。その地方の風習で、棺は坐棺だった。昔ながらの、文字通りの棺桶である。母と兄が両側から、父の痩せた体を吊り上げるようにしてその中に入れるとき、父のどこかの骨が鳴った。私は、少し離れたところで、その奇妙な音を聴いていた。本来なら母に代って、私が父を棺に入れてやるところである。もう死んでしまった父にまで、私は優しくなかったのである。私は泣いていたというが、それは父が不憫だったらではなく、父が情けなかったのである。
父が死んだ年を、私は越えた。そのころから、毎日のように父のことを考えている。
久世光彦の『わが心に歌えば』(主婦の友社)の「青い山脈」の冒頭に次のような文が出てきた。フーディニというのは引田天功の元祖みたいな奇術師である。
疎開していた地方の風習で、父の体は窮屈に折り曲げられ、いかにも無理矢理という感じで坐棺に収められた。肥って大きな父だったはずが、こんな小さな箱に入ってしまうなんて、フーディニの奇術のようだと私は思った。【…】
いま考えると不謹慎な話だが、私は弔問客が背中を丸めて坐っている座敷きを抜け出し、灯のともりはじめた町を走って映画を観に行った。少し前に前編を観て、どうしても封切りの日に観ようと決めていた『青い山脈』の後編だった。父の死は突然だったが、これは予定だったのだと、自分の中で何度も言い訳を重ねながら映画館に入ったら、ちょうどニュースが終わって本編がはじまるところだった。
「左義長」「左儀長」(さぎちょう)。毬杖【ぎつちよう/きゅうじょう=木製の毬(まり)を打つ長い柄のついた槌(つち)。彩色の糸で飾ることがある。また、それを用いて正月などに行う遊戯】を三つ立てたところから「三毬杖」となり、「左義長」になった。小正月に行われる火祭り。宮中では正月一五・一八日に清涼殿南庭で、青竹を立て扇・短冊などを結びつけて焼いた。民間では竹を立てて門松・注連縄(しめなわ)・書き初めなどを焼き、その火で餅を焼いて食べて無病息災を祈る。
富山では「どんど、どんど焼き」で、他の地方では「さいと焼き、さんくろう焼き、ほちょじ、ほっけんぎょう」などという。火を燃やすことを特に「おたきあげ」という。
松の内が明けてから左義長が行われる。注連(しめ)飾りや書き初めの書き損じなどを持ってきて燃やす。富山では「どんど焼き」ともいう。日本には1月1日を中心にした大正月のほかに、満月の1月15日を一年の始まりとする旧暦の小正月がある。「十五日正月」「女正月」とも呼ばれる。そもそも、左義長は小正月の宵祭り、つまり14日夜の行事であり、その日に正月飾りを外すのが習わしだった。
石田勝彦の句に「田雀は篠に戻りぬ小正月」というのがある。害鳥を追い払う小正月の豊作祈願行事「鳥追い」をされて雀が戻っていくという俳句である。「頭きって尾をきって、俵につめて海へ流す」というの小正月の子供たちの鳥追い歌がある。仮小屋に集まった子供らは歌いながら棒を田に打ちつけて村中を歩いた。これも害鳥を脅して追い払うマネをして豊作を願う儀式である。ただし、富山では小屋は作らず、「鳥ホオエホエー、ホオエホエー」などと歌って、竹棒を打ちながら歩く。
「鳥追い」は「七草囃子(ばやし)」で春の七草を刻みながらこう歌う。「唐土(もろこし)の鳥が日本の土地へ渡らぬ先になずなななくさ」。地方によって唐土が「みやこ」に変わるが、「鳥追い」がここにも入る。病気を運ぶ鳥を追い払い、疫病が流行しないよう唱えられたという。
農村では小正月に、模擬的な田植えや「鳥追い」をし、小豆粥を炊いてその年の豊作を祈った。松の内に来客や家事で忙しかった女性たちにとっては、やっと一息つける「女正月」でもあった。
小正月と考えられていたために、左義長は14、15日に行われることが多かったが、2002年から始まった「ハッピーマンデー法案」のおかげで、固定していた成人の日が移動するようになり、左義長も成人の日の前日の日曜日に行われることが多くなった。
宇奈月町下立(おりたて)地区では「おんづろこんづろ」と呼ばれている。しめ縄飾りや書き初めの燃えて舞い上がる様子が、鶴が飛ぶように見えることから「おおづる、こづる」と呼ばれ、なまって名付けられたという。
魚津では「愛宕社の火祭り」が左義長の代わりに行われる。
書き初めが高く上がれば字が上手になる、竹の割れる音が大きければその年は天気がいい、燃え残りの竹を家の屋根に置くと火事にならない…などの言い伝えがある。
一番大きかったのは富山城祉公園の左義長だったが、最近ではダイオキシン対策に頭を痛めている。
●桜ケ池
南砺市立野原東(城端)にある池。冬はワカサギ釣りの人気スポットである。
●桜木町【さくらぎちょう】
関内の隣の駅ではなくて、富山駅前の繁華街。神通川の改修工事がまだ行われていなかった明治初年に、今の松川辺りを流れていた。川に面した遊休地だった富山城東側の出丸跡に、風俗取り締まりのために妓楼などが集められた。周囲に料亭や飲食店が立ち並び、華やかな灯がともる。富山随一の歓楽街が形成されていった。桜木町の名は出丸にサクラの木が多く植えられていたからだという。川べりなのでヤナギも多く、文字通りの花柳街となっていた。
美川憲一が歌った「桜木町ブルース」という演歌もある(美川には「宇奈月の夜」というのもある)。
高岡は対抗して桐木町(きりのきちょう)という歓楽街がある。
●桜町遺跡
小矢部市桜町で発掘された縄文中期(約4000年前)の遺跡。96年、高速道路拡大工事に伴い、88年に続き再調査・発掘をスタート、 遺物出土に伴い全面調査に踏切った。木と木の接合部に凹凸の組み方をする加工、細かい棒にひのきの薄い板を編むように通した壁加工法等の建築水準は、それまで法隆寺が最古とされていた仮説が実に2000年以上も溯る程で、この高度な建築技術に縄文観を覆すとして熱い注目が集まった。
2003年に桜町遺跡から出土した4000年前の縄文時代中期末の建築部材の木工技法が法隆寺より古いと当時発表した「渡腮仕口(わたりあごしぐち)」ではなく、別の技法「貫穴(ぬきあな)」だったと訂正した。ただ、貫穴としても最古とみられるという。
●…さくる
「…しまくる」「…じゃくる」。例:「雨、降っさくっとるがいね」(雨が振りまくっています)・「この子、なーんおっかしいがか分からんけっど、笑いさくっとるがいね」(この子、何がおかしいのか分からないけれど笑いまくっている)・「腹減っとたがかぁ、食べさくっとっぜ」(お腹が空いていたのか食べまくっているよ)。
●酒取り祭り
ふんどし姿の男たちが、ひしゃくに入ったお神酒を、振る舞ったりまき散らしたりする春の奇祭。4月11日に小矢部市の下後亟(しもごぜ)神明宮で行われる。神事や獅子舞の奉納の後、白鉢巻き、下帯姿の男たちがひしゃくを手に大鳥居に集合。太鼓の音と同時に、「ウィーッ」などと奇声を発して拝殿へ殺到。神殿入り口でひしゃくを差し出し、神官らからお神酒を注がれると、それを持って境内へ出て、大声をあげながら、晴れ姿の女性らに振る舞ったり、空高くまき散らしたりする。お神酒が多くかけられるほど幸せに恵まれるといわれ、見物人も酒を多く飲んだ者ほど、無病息災で幸が多いといわれる。境内は悲鳴や歓声に包まれ、アルハラでセクハラ気味でもある。
寛永年間(1624〜44年)に、下後亟神明宮の社殿を建てるために土地を掘ると人骨が出た。供養しなかったら凶作が続いた。厄払いのため「酒を振る舞え−」とのお告げで村が救われたことが起源とされ、酒を神明宮の境内にまいた。明治2年(1869年)に「酒をまくのはもったいない」と、みんなで飲んでしまった。すると火災や農作物の不作が多発して翌年からまた、境内に酒をまくようになった、という。こうして五穀豊穣、無病息災を願う祭りが続いている。
下後亟神明宮では9月10日の秋祭りに越中源氏太鼓が奉納される。
●鮭
呉東は鮭、呉西は鰤の文化である。
●「酒、飲みたい」
『方言文法全国地図』に「酒が飲みたい」の設問があって、富山は東北、近畿同様に空集合、つまり無助詞地域になっている。例:「お菓子、買いたい」。
●ざごつけない
「でかすぎる、無骨で目障りになる」。例:「ざごつけないめろ」(大きな女だ)。
●座敷
富山県の人が家を建てるときに何よりも中心に考える場所。ここにどんな欄間(らんま)を飾るかが大問題となる。
●刺身
関東で「刺身」、関西で「お造り」「造り」という。富山では「刺身」である。
●サス
カジキ(マグロ)で昆布じめにしてよく食べる。カジキとは「加敷」で和船の船底の意。カジキ=船底をその長い吻(上唇)でしばしば突き刺すことに魚名は由来。いってみれば目的語から標準名が、動詞部分から地方名が出ている。
現代日本語の間違いとしてよく槍玉に上る言い回し。
司馬遼太郎の『街道をゆく24 近江散歩、奈良散歩』(朝日文庫)に次のように書いてある。
日本語には、させて頂きます、という不思議な語法がある。この語法は上方から出た。ちかごろは東京弁にも入りこんで、標準語を混乱(?)させている。「それでは、帰らせて頂きます」。「あすとりに来させて頂きます」。「そういうわけで、御社に受験させて頂きました」。「はい、おかげ様で、元気に暮させて頂いております」。
この語法は、浄土真宗(真宗・門徒・本願寺)の教義上から出たもので、他宗には、思想としても、言いまわしとしても無い。真宗においては、すべて阿弥陀如来―他力―によって生かしていただいている。三度の食事も、阿弥陀如来のお陰でおいしくいただき、家族もろとも息災に過ごさせていただき、ときにはお寺で本山からの説教師の説教を聞かせていただき、途中、用があって帰らせていただき、夜は九時に寝かせていただく。
この語法は、絶対他力を想定してしか成立しない。それによって「お陰」が成立し、「お陰」という観念があればこそ、「地下鉄で虎ノ門までゆかせて頂きました」などという。相手の銭で乗ったわけではない。自分の足と銭で地下鉄に乗ったのに、「頂きました」などというのは、他力への信仰が存在するためである。もっともいまは語法だけになっている。
かつての近江商人のおもしろさは、かれらが同時に近江門徒であったことである。京・大阪や江戸へ出て商いをする場合も、得意先の玄関先でつい門徒語法が出た。「かしこまりました。それではあすの三時に届けさせて頂きます」というふうに、この語法は、とくに昭和になってから東京に浸透したように思える。明治文学における東京での舞台の会話には、こういう語法は一例もなさそうである。
これによると、「させていただきます」の表現は謙譲の美徳というより他力本願思想の表れだということが良く分かる。例えば、近江商人のひとり、伊藤忠兵衛は熱心な浄土真宗信徒で、商売に失敗して破産するのは時の運で仕方がないが、しかしどういう境遇に陥っても門徒であることに忠実であれ、と説いた。「門徒もの知らず」という言葉さえあるように、ひたすら弥陀に寄り頼む(だから「一向宗」と呼ばれたが、)宗徒は、たとえばタイの小乗仏教とは異なり、大乗的な絶対他力を本願とする。ここから信念として、何事においても「させていただく」という思いが、日常の言語表現となって口をついて出てくる、というのは、よくうなづける。だから、自分で金を払って電車に乗ってどこそこに行っても、「電車で来させていただきました」ということになる。
危険を顧みずに北は蝦夷地より南は瀬戸内、大坂に至るまで、積極果敢に活動し、日本の交易動脈として機能した北前船と全国津々浦々に至るまで販路の拡大した越中売薬の両者の底流に共通性を感じる。近江商人の「三方よし」(「売り手よし 買い手よし 世間よし」という経営理念で富山の「三協アルミ」の名前の由来にも通じる)や越中売薬の「先用後利」という言葉はどちらも商売は「菩薩の業」で「させていただきます」という思想が流れている。
1996年9月4日の朝日新聞天声人語で話題にしているが、上方説、商人ことば説の他に「教会用語」という説もある。読売新聞社会部『東京ことば』(読売新聞社)も関西起源説だ。関西で「させてもらう」と言っていたのが共通語の影響で「させていただく」となり、それを関東が受入れたのではないか、という大石初太郎説が紹介されている。
ただ、そうした事情も知らないで何でも「…させていただく」というのは謙譲語を尊敬語として使っていて問題がある。
また、「帰らせていただきます」ではなく、「帰らさせていただきます」などの「さ付き」「さ入れ」表現は誤用である。
ちなみに、大阪の御堂筋にはたくさんの企業が密集しているが、御堂とは西本願寺の北御堂と東本願寺の南御堂があることからついたもので(大阪の基盤は石山本願寺の寺内町だった)、御堂の鐘が聞こえるところに本店を持ちたいという父祖伝来の夢を持った近江の浄土真宗門徒商人たちが集まった商売を始めたからである。
●佐々成政【さっさなりまさ】
1536年(諸説あり)〜88年。織豊時代の武将で富山では今でも人気があって「ザラ峠(さらさら)越え」「黒百合伝説」「早百合姫伝説」「埋蔵金伝説」がある。尾張国出身で佐々盛政の子。織田信長に仕え、黒母衣衆(くろほろしゅう)となる。のち柴田勝家の与力。朝倉氏討滅、長篠の戦い、石山本願寺の一向一揆攻撃に功績をあげ、1581年(天正9)2月越中国一国を与えられ、富山に在城。佐々提(霞提ともいい、河川の外側に水を逃す不連続の堤防によって水勢を弱める構造)を築くなど善政を敷きながら、着々と平定していく。信長死後は柴田勝家に味方する。84年小牧・長久手の戦いで豊臣秀吉と対抗して攻められ、真冬のアルプスを越える「さらさら越え」をして家康のいる浜松へ向かった。翌年秀吉に降伏。87年九州の役に従軍し、羽柴の姓を許され、同年5月肥後一国を領す。肥後国人隈部(こくじんくまべ)氏らの検地反対一揆にあい、失政の咎を受けて、翌天正16年閏5月14日尼崎の法園寺で自害を命ぜられる。
伝説では、成政が北の政所に贈った黒百合がもとで、淀殿との確執から北の政所の怒りを買い、秀吉に切腹を命じられる。これは、成政に不義の疑いをかけられ殺された早百合姫が、恨みを黒百合に託したから、という。
遠藤和子『佐々成政』(学陽文庫、増補は小学館文庫)があり、郡順史(こおり・じゅんし)『佐々成政』(PHP文庫)がある。
松本清張の短編にも佐々成政を描いた「ひとりの武将」(1956年『オール読物』に発表・『青春の彷徨―松本清張短編全集6』カッパ・ノベルス)というのがある。律儀なためにいつも豊臣秀吉や前田利家の後塵を拝する役回りを演じ、最後には秀吉の犠牲者となったという悲運な武将として書かれている。清張は後書きで「成政の通った黒部越え(さらさら越え)の下にはいま黒四ダムが完成している。一度そこに行き、かたがた成政の“壮挙”の跡を見たいと思っている」と結んでいる。1991年に朝日新聞の中江利忠が松本清張と朝日新聞社専用機で日本上空を旅行して上空から黒部を望んだ。中江は翌年の清張永眠の際に代表して弔辞を述べた。
また、埋蔵金でも有名で、鍬崎山【くわさきやま】に埋めたというのが定説で、探し求めた人がたくさんいた。生駒忠一郎『幻の埋蔵金 佐々成政の生涯』(KTC中央出版)という本も出ている。
ザラ峠越えの途中に浅間山荘に寄ったのかどうか知らないが、『連合赤軍「あさま山荘」事件』(文藝春秋)の佐々淳行が自分は成政の子孫であるという。
2002年のNHK大河ドラマ『利家とまつ』では成政を山口祐一郎、正室・はる(信長の家臣、奉行衆の筆頭格・村井貞勝の娘で信長の清須城下では、成政夫婦、利家夫婦、秀吉夫婦は、いわゆるご近所に住むことになり、年齢が近いこともあって、はるはまつやおねと親交を深めていく――とされる)を天海裕希が演じた。はるをフィクションだと思っていたが、遠藤和子は2002年に発見したというが上京区慈眼寺に「成政寺」と並んで書かれた位牌があり、「慈光院」という戒名だという。また、「慈光院」という名のお墓が残っている。
「さよならの黒百合」では早百合姫が隠密の容疑をかけられて殺される、幽霊が出るという噂になっていた。
『利家とまつ』と越中の佐々成政 第34回 「さようならの黒百合」2002年9月1日
天正12年6月、まつ達が進めて来た前田家と佐々家との婚約が行なわれた。が、佐々成政を許していない秀吉は、前田利家に成政との縁切を迫る。はるは越中の黒百合を束ねた巻紙に、たとえ夫たちが戦となっても、まつの事は好きだと記し、まつに送った。第35回 「末森城の決戦」2002年9月8日
天正12年9月、成政は奥村家福が守る末森城を攻撃した。成政と一期一会の戦をすべきと、まつに言われた利家は金沢城を出るなという秀吉の命に背き出陣し、佐々陣営に勝利する。成政は家康に会い、手を結ぶため雪のさらさら峠を越える決意をする。第36回 「さらさら越え」2002年9月15日
天正12年の冬、成政とはるは、厳冬のさらさら峠を越えて浜松に向かう。はるは雪崩で行方不明。既に織田信雄と秀吉が講和し、家康も秀吉との和睦に動き、成政は孤立。利家は秀吉が加賀に来た際、成政の命乞いをし許しを得る。成政は剃髪して秀吉に詫びをいれた。●さつま揚げ
さつま揚げを関西でかつて「天ぷら」といった。富山でさつま揚げは「さつま揚げ」だ。
●薩摩組
「昆布ロード」で富山藩と薩摩藩が結託していたのだが、薩摩組は調所広郷(ずしょ・ひろさと)などと密貿易をしていた。昆布を清に送り、薬を買っていた。
薩摩藩は富山藩と結託しながらも真宗の怖さを知っていたので1597年の文書で弾圧が確認できる(相良藩=熊本は1555年)。これが「隠れ念仏」を生み出した。司馬遼太郎が『街道をゆく』で取り上げ、「肥薩のみち」として大口市を訪ね、「隠れ門徒」と紹介した。最近では五木寛之が『日本人のこころ2』(講談社)などで多く扱っている。例えば、五木の『情の力』(講談社)では宗教弾圧を受けた時に農民たちが取った手段は「一揆」「転向」、そして「逃散(ちょうさん)」があったという。米村竜治『無縁と土着---隠れ念仏考』(同朋舎)では二千数百人の農民が村ごと消えた例をあげているという。
公然と念仏を唱えられない農民たちは板三味線ゴッタンを引いて歌う中に念仏の意味を込めたという。真宗が解禁されたのは1876年(明治9年)でキリシタン解禁よりも3年遅かった。
読売新聞富山版2003年の「エっ!ちゅう再考」によれば次の通りである。
薩摩藩は浄土真宗を禁じたが、領民の信徒はひそかに信仰を続け、「かくれ念仏」と呼ばれた。県南の知覧町には、人々が監視の目を避けて念仏を唱えたとされる洞穴がある。 薩摩組が、北前船で蝦夷(えぞ)地(北海道)のコンブを藩に提供し、琉球貿易を助けたことは知られている。しかし、禁を破ってかくれ念仏と関係を持ったかどうかは、今も謎だ。
ただ、興味深い事実はある。知覧、川辺、勝目という三つの村で構成された講の「三村講」はかくれ念仏の講だったとされ、その講頭(こうがしら)(世話役)だった家は富山売薬に宿を提供している。同町には「立山」という集落名があり、ここにもかくれ念仏の洞穴がある。
ユニー系の高岡サティのこと。県内初のシネコン(シネマ・コンプレックス)のマイカルシネマがあった。サティのおかげで高岡ダイエーは閉店に追い込まれたが、イオンの出現で2009年1月でサティも撤退。例:「パパ、今日、どこ行くがけ?」「サティ、どこでしょう」。
●里芋
方言が多いので話が弾む言葉である。僕はイモノコとよんでいたが、チボイモとかコイモというところがある。古語にはキヌカツギといい、キヌカツギ、つまり、衣をかづいた(被った)芋ということだ。
●佐藤工業
青函トンネルやアクアラインを掘り、「トンネル掘り日本一」と呼ばれた、富山発祥のゼネコン準大手だったが、2002年3月に倒産した。初代の佐藤助九郎は庄川沿いで生まれ、農地を水害から守る「川除普請」が佐藤組の土壌となった。初仕事は常願寺川の大改修で安政5年(1858)の飛越地震で大洪水に見舞われた富山藩から頼まれた。明治に始まった鉄道建設で伸び、水力発電所の工事にもかかわった。吉村昭『高熱隧道』に「佐川組」として登場するが、これは黒部川第三発電所の軌道工事で120度の高温岩盤をぶち抜く難工事で戦時体制の電源確保を目的に多くの犠牲者を出しながら強行されたことで有名。2009年9月に再建。
●鯖【さば】
『おもしろ金沢学』(北國新聞社)の「棟上げのサバは天狗よけ」という項目に越中五箇山や飛騨白川の山間地では、正月の膳に必ず能登の塩サバが用意された記録もある、という。
鯖はまた、かぶら寿司の鰤の代用品として使われることがある。富山県西部では鯖、東部では鮭をはさむこともある。
鯖は呉東も呉西も味噌煮にする。
●鯖寿司
うちでは鯖寿司を母親が作っていたものだった。
城端別院善徳寺と井波別院瑞泉寺では、仏事の際に鯖寿司が参会者に供される習わしがある。善徳寺では、7月22日から28日の間に行われるお寺の行事の「虫干し法会」で、また瑞泉寺では7月21日から29日の「太子伝会」にて、それぞれお斎(とき)と呼ばれる食事の振る舞いの一品に鯖寿司が出される。
法会用の鯖寿司は、5月下旬から6月のはじめにかけて漬け込まれる。三枚におろしたサバに塩をして飯の層で挟むように密閉し、何層にも重ねていく。善徳寺の鯖寿司は米と塩、山椒の葉だけで漬けられる、古い形のなれずしで、毎年7000食分のサバが用意されるという。瑞泉寺の鯖寿司には、さらに米麹・酒・とうがらしが加わる。いずれの寺でも、伝統を受け継ぐ町の魚商組合の講仲間たちによって漬け込まれている。
この地方に多いのは元々、あゆずしやますずしなどのなれずしが作られていたことの応用だろう。
●鯖の味噌煮
鯖を醤油煮にする地域が西日本にあるが、富山は断じて味噌煮である。関さばのように刺身で食べることもしない。恐らく東日本では鯖は当たりやすく、味噌でしっかり煮たのであろう。
●さぶい
「寒い」。「さっぶ!」ともいう。例:「そんなかっこしてさぶないけぇ?」(そんな格好で遊んでいて寒くないですか?)。
●砂防鉄道
「狭間処」あるいは「狭間格子」の略で「ベンガラ格子」のことで「千本格子」ともいう。県西部の方言で「さまのこ」と言う。県東部では「さまど」。虫籠に似るから「さまむしこ」と呼ばれたりもする。町屋は家の前にベンガラ格子があってあかり取りをしていた。高岡の金屋町通りが有名である。今もうちの回りにはそうした家が多い。「ベンガラ」は「弁柄縞(べんがらじま)」の略。縦糸が絹、横糸が木綿(もめん)の、しまの織物。オランダ人がインドから持参した。ポルトガル語のBengalaから。さまのこの家は京都や金沢の町を参考に明治時代に造られた。防犯と明かりとりを兼ねたこの様式が当時は大いにはやったという。
●早百合姫伝説
佐々成政の愛妾の悲劇。遠藤和子『佐々成政』によれば、成政を「横暴な武将」に、姫を「悲劇のヒロイン」に仕立て上げる加賀藩側の脚色があったという。成政がさらさら越えをしている時に、他の愛妾が嫉妬して『オセロ』のように起こしたものだといわれる。早百合姫の寝所の戸口に小さな錦の匂い袋が落ちているのを拾い、茶坊主に誰のものかと聞くと、病気で残留していた家来(竹沢熊四朗とか諸説)のものであることが判明し、成政は激怒した。確かに家来のものだったが、仕掛けられたものだという(オセロはハンカチ)。家来を呼び、斬殺し、ついで、早百合姫の黒髪を引っ張り、神通川の川沿いまで走り出て、髪を逆手に取り宙に引き上げ、惨殺。姫の親兄妹、一族18人全ての首をはねさせ、獄門に磔にしたという。早百合姫は死ぬ時、罵り叫び、歯をかみ砕き、血の涙を流し、美しかったその顔は悪相に変わり、「己成政此の身は此処に斬罪せらるる共、怨恨は悪鬼と成り数年ならずして、汝が子孫を殺し尽し家名断絶せしむべし」(浅野清『佐々成政関係資料集成』新人物往来社)と叫んだそうだ。見ていた者は目を覆い、聞いていた者は毛髪が動くほどの、光景だったと『佐々成政物語――絵本太閤記』(桂書房)にはある。立山に黒百合が咲いたら佐々家は滅びるだろうという呪いをかけて死んだ。早百合は断末魔の苦しい声で「私は無実です。私の恨みで立山に黒百合が咲いたら佐々は滅びますぞ」とのろって息絶えた。
やがて立山に黒ユリが咲き、成政はこの珍花を秀吉の正室・おね(北政所)に献上したが、この花がもとでおねと側室・淀との間がこじれ、やがて成政は切腹させられたという。この話は『絵本太閤記』に脚色して面白く書き立てられ、古川柳にも「立山に百合が咲いたで笹が枯れ」と歌われた。今東光の『お吟さま』によれば、利休の義娘である吟が黒百合の献上を淀に話したために二人の確執が生じ、その結果、佐々家が滅びたことになっている。泉鏡花の『黒百合』にも登場する。東四十物町に住む富山県知事(架空の人物)の娘・勇美子が主人公。勇美子はかねがね立山に咲く黒百合を手に入れたいと熱望していたが、手に入ったのは…。立山の洪水が神通川で出てくる、という不自然さがある小説。
白と黒の対比は『オセロ』のテーマでもあるし、鴎外の『舞姫』でも同じような、鮮明な対比がなされている。
ゆかりのエノキが富山市磯部の神通川の土手にある。亡霊が宿る木だとして切らずに残された。周りに青い火の玉が現れたとか、初夏のころ「血の涙」が降ったとの言い伝えもあり、付近住民を怖がらせた。富山大空襲で焼け、今あるのは落ちた種から育った二代目だという。
桑原水菜作・東城和実イラスト『炎の蜃気楼−断章−最愛のあなたへ』(集英社コバルト文庫)も早百合姫を扱っている。佐々成政が溺愛しながらも人々の讒言によって密通の疑いを掛けられ非業の死を遂げた早百合姫の怨霊が暴れ出していることを知り、富山に向かった主人公の直江と高耶を待っていたのは、織田信長の配下・佐々成政を倒すために罠を仕掛けた一向宗徒による協力の要請だった。「溺愛しながら傷付けてしまった存在にどう対峙するか?」。成政と体験を共有する直江は、主君・高耶に対する欲望やコンプレックスに煩悶しながら、成政の決着の付け方を見届けようとする。
●さらいつける
「押しのける、はねつける、ことわる」。例:「あっだけん頼んだがにぃ、さらいつけられてしもうたちゃ」(あれだけ頼んだのに断られてしまった)。
●猿
熊だけでなく、猿被害もひどい。宇奈月あたりにはニホンザルの群がいて、畑を荒らす。
●ザルゴエビ
「トヤマエビ」が正しい学名。「ガメエビ」とも呼ばれ、人気はないが、煮物にすると美味しい。横の筋が特徴。
●ザルツブルグ
宇奈月を「日本のザルツブルグ」にしようという動きがある。宇奈月温泉で開かれる「湯の街ふれあい音楽祭 モーツァルト@宇奈月」は、山や川、湖に彩られる宇奈月温泉の景観が、モーツァルト生誕地のオーストリア・ザルツブルクと重なることから2010年初めて開いた。黒部峡谷の玄関口・宇奈月温泉には黒部川が流れ、近くにはうなづき湖がある。周辺の山々は新緑や紅葉など四季折々の美しい表情を見せる。一方、ザルツブルクは、映画「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台としても知られ、山や川、湖に囲まれた景観が広がり、「ザルツブルグ音楽祭」が有名だ。
●サル専用つり橋
宇奈月町の黒部峡谷のつり橋。ダム建設で対岸に行けなくなったサルが人里に降りてくるのを防ぐためのものである。群れがそろって橋を渡っていることが確認されている。2005年に完成した。全長137メートル、幅33センチ。ワイヤロープと鋼材を使ったはしご状の形で、国交省の宇奈月ダムから2キロ上流のダム湖に架かっている。建設費は2700万円。
●沢杉
黒部川扇状地の末端部で、海岸に近い入善町の吉原にある杉沢の沢スギ。常に地下水が流れている沢地で育っている。自然状態に残されているので国の天然記念物。
昭和20年代は海岸沿いに沢スギ林が点在し、計120ヘクタール以上あったが、圃場整備のため、そのほとんどが水田に姿を変えた。植物学者などの間で保全運動が起き、73年に天然記念物に指定され、町が買い上げた。沢スギは、ほどよい湿り気がある小石の中で育つため、根が深く入らず、栄養分の吸い上げが少ないことから大きくならない。このため、昭和30年代までは稲を架ける「はさ」や家の建築材、台所や暖房用の燃料として生活の中で使われてきた。しかし、天然記念物に指定されたことや生活様式の変化で、それまで行われていた間伐や枝打ちなどの管理が手薄になった。このため、スギや雑木が大きくなって、林の中まで日照が届かなくなり、若いスギが育ちにくくなってきた。現在は保存への努力が続けられている。
●ざん
「残」から「魚などの残り、あら」。刺身にした後の魚を「ざんじる」にする。あら、おいしい!
●山岳警備隊
「落ちるなら、富山側へ」と最大級の賛辞を与えられた、日本一のレスキュー隊。富山県警山岳警備隊編『ピッケルを持ったお巡りさん』(山と渓谷社)や『山岳警備隊 出動せよ!』(東京新聞出版局)が詳しい。
●三協アルミ
会社と社員と地域の三者が協力しあう会社として名付けられた。滋賀県を発祥地とする近江商人は「三方よし」、つまり「売り手よし 買い手よし 世間よし」というのを標榜していた。つまり、売り手によし、買い手によし、世間によし。社会全体のためになる取引を考えよ、の教えだというが、非常に似ている。最初にこの心得を説いたのは麻布商、中村治兵衛家の二代目宗岸だという。十五歳と若い跡継ぎのために書き留めた遺言状の中に見受けられる。七十歳を迎えて日常生活の心得まで心配して指導している。
近江商人はまた「しまつして、きばる」という。「しまつ」はけちけち節約するだけではなく、合理的に無駄を省くこと、「きばる」には苦労を進んで引き受ける意味がある。
富山の大企業で、立山アルミと兄弟会社で、YKKとはライバルになる。2003年12月に三協アルミニウム工業と立山アルミニウム工業は共同持ち株会社「三協・立山ホールディングス(HD)」を設立し、経営統合した。
●散居村【さんきょそん】
「散村」ともいう。砺波地方の一戸一戸離れた住宅を指す。周りは「かいにょう」と呼ばれる屋敷林で囲まれている。クロスランド小矢部に登ってもいいし、閑乗寺山から見てもよい。夢の平散居村展望台というのもある。水田が夕日に輝くのは5月末ごろまでで砺波平野南部の八乙女山から望む風景は昔ながらの様子を見せてくれる。
明治31年(1898)地理学者の小川琢治が当地を訪れて散居の景観に注目した。翌年に京都帝国大学地理学講座の初代教授に就任した小川は42年にも砺波を訪れた。大正3年に「越中国東部の荘宅Homesteadsに就て」という論文を『地学雑誌』に発表した。農家が散在する居住形態を英語のHomestead、ドイツ語のHofにあたるとし、散居の1軒1軒の家をドイツ語のEizenhofにあたるものとして捉え、それを「孤立荘宅」と訳した。これが散居村が知られるようになった最初の論文となった。
起源に関しては太閤秀吉の検地への対抗策だったとか、フェーン現象による火事を避けるなど説がいろいろある。小川琢治は古代の条里制に求め、歴史学者の牧野信之助は江戸時代の史料を使って、加賀藩の農業政策によると反論した。明治初年になって地理学者の村松繁樹は、実地調査を行い、扇状地の自然と開拓事情、稲作慣行などに散居村の成立と持続の要因を求めた。戦後、石田龍次郎が散居村を農家と耕地、慣行小作権の存在から論じ、大阪市立大地理学教室の渡辺久雄、水津一朗は社会地理学的視点から研究した。
散居村は涼しいし、プライバシーが守られて、とても住み易そうだが、新聞は一カ所にまとめてあって、一戸一戸がそこまで取りにいくことになっている村もある。じいちゃんばあちゃんばかりだから別にそれでも構わないのだという。
連絡には太鼓が使われた。集落ごとに小さな太鼓があって、総代が持ち回りで連絡に使っていた。今でも、葬式や御座の時に使われることがあるという。
砺波平野の散居村は「田園空間博物館事業」の第1号になった。まるごと保存しようというものだ。
●「里のだご食い」
砺波平野などでは団子が普段、ごはんの補いとして用いられ、「里のだご食い」といわれるほどよく食べた。いるごく(くず米)を粉に挽いて作るが、つまんこだご(すいとん)のように、小麦粉で作る場合もある。
●さんずい
「梅雨」。真田信治・友定賢治『地方別方言語源辞典』(東京堂出版)で富山方言(県東部)としてあげられている。新潟には「さずい」という形が分布するという。「さ梅雨」で、「五月」「五月雨」「早乙女」「早苗」「さのぼり」(田植え終わりの祝宴)の「さ」で、「田植え」の意味が含まれているようだという。
●サンシップ
「サンシップ富山」。県の総合福祉会館で99年11月に開館した。「サンフォルテ」もそうだが、富山は日照時間が少ないせいか、「サン」が好きだ。ガラスを多用した形にはどぎもを抜かされる。設計は池原義郎・建築設計事務所。
●三社柿
南砺市の福光・城端両地域では、特産の干し柿づくりが11月から行われる。渋柿の一種「三社柿」の皮をむき、さおにつるして天日干しにされる。
●三色おはぎ
三色おはぎは小豆ときな粉と胡麻である。ヤマザキ製パンによれば、静岡より東は同じで、愛知から西は小豆ときな粉と青海苔なのである。
●三助焼
越中三助焼。淡緑色の飴釉(あめゆう)が醸し出す風雅な味わいがある。明治の陶工、初代・三助の技を継ぐ谷口三明(さんめい)が戦後にえとの置物を作り始めた。
●サンダーバーズ
「富山サンダーバーズ」で2007年4月の開幕を目指す野球の独立リーグ・北信越BC(ベースボール・チャレンジ)リーグで、富山県から加盟するチームの名称。元巨人軍の鈴木康友が初の監督になった。
●サンダーバード
大阪と富山間のJR特急名で昔は「雷鳥」だった。
●サントラム
富山地方鉄道が2010年に富山軌道線に導入した3車体連結低床車両。愛称が「SANTRAM(サントラム)」になったのは「サン」は、3連結の「3」と、「サンサンと輝け」という思いをかけたため。
●さんにょ
「算用」で「勘定」のこと。金沢でも使う。例:「さんにょ合わんぜ、どうすんがいね」・「さんにょだかい人やね」(計算高い人だ)。
●山王【さんのう】はん〜山王さん
富山市の山王町にある日枝【ひえ】神社ののこと。「山王祭り」も指すことがある。5月31日の宵(よい)祭から本祭の6月1日、2日まで露店が並ぶ。1日が一番にぎわう。2003年からそろいの黒手ぬぐいに黒ふんどし、黒足袋を着用した男衆による裸御輿が出るようになった。2005年からは女御輿が出たが裸ではなかった。
宵祭では神職が神前で祭りの準備ができたことをお伝えし、無事を祈り、神職らは本殿や拝殿など境内を塩湯(えんとう)と大(おお)麻(ぬさ)で清めた。宮司の祝詞奏上に続き、巫女2人が巫女舞を奉納し、関係者が玉ぐしを捧げる。
31日は氏子宅へのみこし、獅子舞の巡行が始まり、1日は恒例の裸・女みこしなどの巡行、2日は春季例大祭式や献華式が行われる。
「三八豪雪」のこと。昭和38年(1963年)の1月15日から烈しく降り始めた。その日は小学校の担任の出産祝いで隣町の先生の家に行き、帰りにはものすごい雪になっていたのを思い出す。富山で186センチ、高岡・伏木で225センチに達した。もちろん、二階から出入りした。道路の固まった雪は鋸で切って海まで捨てに行った。典型的な里雪型(⇔山雪型)で死者・行方不明22名で幹線道路が完全にマヒした。1月、愛知大学山岳部のパーティー13人が薬師岳の尾根に迷い込み、全員死亡した。
次の大きかったのは昭和56年(1981年)の「五六」(ごーろく)豪雪で、ともに語り草。
酒井與喜夫(よきお)の『カマキリは大雪を知っていた』(農山漁村文化協会)は著者が実際に各地の卵の地上からの高さと積雪量とを測って確かめた研究結果で、「カマキリが高いところに産卵すると大雪」という先人の言い伝えに着目し、約40年間にわたってデータを積み上げ、積雪予測に挑み、自然の不思議に迫った民間研究者の記録で三八豪雪の話も出てくる。カマキリは初雪の約3カ月前、木に卵のう(卵の入る袋)を産みつける。その位置がなぜ毎年変わるのか。祈り虫、おがみ虫、ともいわれるカマキリだが、学名マンティス(mantis)のもととなったギリシャ語のマンティダエはずばり「予言者」「占師」のことだ。カマを持ち上げて獲物を狙う姿勢が、人の拝む姿を思わせるためらしい。雪に埋もれないように卵を産む予知能力がカマキリにあるのだろうか。酒井はカマキリが樹木を通して、冬の気候と連動する地中の振動を聞き分けるという説を唱えているが、少なくとも酒井の調査にもとづく積雪予報は誤差10%以内だった。
●サンフォルテ
富山駅北の自遊館の横にある「富山県女性総合センター」。「自遊館」もすごいが、英語の「太陽」とイタリア語の「強い」を組み合わせた、ものすごい命名。
2001年4月から「富山県民共生センター」と看板を変えた。全国的に「女性センター」がまだ多いが「男女共同参画センター」が増えてきた。福島県は似た「男女共生センター」。
●サンマ
「秋刀魚の歌」 佐藤春夫(『我が一九二二年』)
あはれ/秋風よ/情(こころ)あらば伝へてよ/…男ありて/今日の夕餉に ひとり/さんまを食(くら)ひて/思ひにふける と。
さんま、さんま/そが上に青き蜜柑の酸(す)をしたたらせて/さんまを食ふはその男がふる里のならひなり。/そのならひをあやしみなつかしみて女は/いくたびか青き蜜柑をもぎて夕餉にむかひけむ。/あはれ、人に捨てられんとする人妻と/妻にそむかれたる男と食卓にむかへば、/愛うすき父を持ちし女の児は/小さき箸をあやつりなやみつつ/父ならぬ男にさんまの腸(はら)をくれむと言ふにあらずや。
あはれ/秋風よ/汝(なれ)こそは見つらめ/世のつねならぬかの団欒(まどゐ)を。/いかに/秋風よ/いとせめて/証(あかし)せよ かの一ときの団欒(まどゐ)ゆめに非ずと。
あはれ/秋風よ/情あらば伝へてよ、/夫を失はざりし妻と/父を失はざりし幼児とに伝へてよ/…男ありて/今日の夕餉に ひとり/さんまを食ひて/涙をながす と。
さんま、さんま、/さんま苦いか塩(しよ)つぱいか。/そが上に熱き涙をしたたらせて/さんまを食ふはいづこの里のならひぞや。/あはれ/げにそは問はまほしくをかし。
妻と離婚した佐藤が歌っている中で出てくる「夫を失はざりし妻」は谷崎の妻・千代のことで後に「妻譲渡事件」となるものである。
日本海にもサンマはいるが、脂気がなくてまずい。ちょうど、カツオが食べられないのと同じである。だから、富山の秋の味覚には数えられない。富山で食べるサンマの多くは北海道や三陸沿岸のものだという。ただ、ブリがサンマを好物としていて、そのおかげで富山湾の寒鰤が楽しめる。
●さんま(い)
梵語(サンスクリット語)の「三昧」からきていて火葬場。「焼き場」ともいうし、氷見は「無常堂」という。金沢では「三昧堂」「無常堂」どちらも使うようだ。
高岡市の火葬場は大きな問題になり、全国ニュースにもなった。社会学では「嫌忌施設」と呼ぶようだ。
●秋刀魚
サンマは関東では「目白の秋刀魚」そのもので、塩焼きだ。関西は味醂干しや開きの一夜干しが多い。富山は塩焼きである。
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