●霊柩車
金沢の霊柩車が派手だというのは有名だが、富山も派手だ。霊柩車については井上章一『霊柩車の誕生』(朝日新聞)が詳しい。
山村美紗に「赤い霊柩車」シリーズがあって片平なぎさが葬儀屋の娘として出ているが、富山には赤い霊柩車がある(他には函館にあるという話は聞いたことがあるだけだ)。これについて町田忍が『マッカーサーと征露丸』(芸文社)の中で売薬の赤玉との関連で述べている。簡単にいうと浄土真宗の生死観は浄土を自らの人生の最終目的地として生きることにあり、“死出の旅”という発想がないから、いわゆる“死装束”はしない。極端にいえば“おめでたい”ことであり、その表れとして、赤い霊柩車が自然に取り入れられたのではないだろうか、というのだ。
霊柩車を見たら親指を隠すことについての論究は『親指と霊柩車』(歴史民俗博物館振興会)などがある。指先から霊気が入るとされるから隠すのである。
●レイコー
関東風に「アイスコーヒー」とはいわず、関西風に「レイコー」(「冷コーヒー」と書かれていたのを省略)と言った。
●霊山
藤田富士夫は『古代の日本海文化』の中で山が海から見た山として描かれていることに注目して、海民が次のような霊山を奉拝していたという。
1.岩木山(青森) 2.太平山(秋田) 3.真山・本山(秋田) 4.鳥海山(秋田・山形) 5.大山(山形) 6.金北山(新潟)
7.弥彦山(新潟) 8.米山(新潟) 9.立山(富山) 10.石動山(富山・石川) 11.白山(石川・岐阜) 12.伯耆大山(鳥取) 13.焼火山(島根) 14.高山(山口) 15.恐山(青森) 16.早池峰(岩手) 17.蔵王(山形・宮城) 18.清澄山(千葉) 19.大山(神奈川) 20.富士山(静岡) 21.朝熊山(三重) 22.青峯山(三重) 23.玉置山(奈良) 24.紺青岳(長崎) 25.雲仙岳(長崎) 26.開聞岳(鹿児島)●歴史公園百選
2006年に都市公園法施行50周年を記念した「日本の歴史公園百選」で県内から富山市の富岩運河・富岩運河環水公園、高岡市の高岡古城公園が選ばれた。
富岩運河は富山港と富山市西宮町を結ぶ全長五・一キロの水量調節が可能な閘(こう)門式運河。環水公園は富岩運河の船だまり跡を県が昭和六十三年から整備し、天門橋や広場、緑地があり、市民の憩いの場となっている。
古城公園は慶長十四(一六〇九)年、加賀藩二代藩主前田利長が高岡城として築き、水濠(ごう)や土塁が残されている。園内には博物館や市民会館、動物園などがある。
●歴史の道百選
文化庁は1978年から全国的な歴史の道の調査・整備事業を開始しており、1996年11月、全国の中から最も優れた「歴史の道」を選定委員会で厳選し、第一次として78箇所を選定した。富山県からは以下の3箇所が選ばれた。
名称 選定箇所 距離 内容 北陸道
倶利伽羅峠越 倶利伽羅峠富山県小矢部市―石川県津幡町 13.8km 近世加賀藩の参勤交代道
源平の合戦,平家物語,奥の細道 臼ヶ峰往来富山県氷見市日名田―臼ヶ峰-石川県志雄町下石 県内3km 山道
古代・中世における越中と能登を結ぶ
主要な政治・経済連結道 石動山道富山県氷見市見田窪―石川県鹿島町石動山 県内6km 中世石動山信仰における表参道 ●レジ袋
2008年4月1日から富山県内のスーパーなどでレジ袋の有料化が始まった。県内一斉の取り組みは全国初で、消費者、企業、行政が連携し、ごみ減量化、地球温暖化防止に動きだした。レジ袋は一枚5円で販売する。収益金を環境保全活動や地域福祉などに役立てることになっている。
「ケンミンSHOW」の「辞令は突然に」で富山が異動先になり、大阪屋が取り上げられたのだが、この時、みんなマイバッグではなく、自分用のバスケットを持っているシーンにみんな「いいことですね」と驚いていたが、こんなことができるのは富山ならではだと思った。バスケットを持ち歩けるのは富山がアメリカ型のライフスタイル、つまり、土日に車で来て、まとめ買いをするという形だからである。車社会とエコが合体したものなのである。ちなみに大阪屋ではバッグを忘れた人は空き箱になった段ボールに入れて帰るというスタイルが定着している。
●レストラン小西
富山市堤通りにある富山の老舗フランス料理店(1969年創立)。要予約。シェフは毎年、フランスのコンクールの審査員もする人である。
●列車名
北陸本線は別名「特急街道」と呼ばれるほど、特急列車の運転本数が多い。
雨に濡(ぬ)れし夜汽車の窓に
映りたる
山間(やまあい)の町のともしびの色---石川啄木富山を通過する列車名で富山というのがどんなイメージか見えてくる。「トワイライトエクスプレス」なんて「たそがれ特急」だし、うらさびしい感じの名前が多い。なお、富山はJR西日本の管轄である。
鉄道ファンではないので覚えているものだけにする。快速もあった。また、旧国鉄金沢鉄道管理局管内では、1974年4月までに全SLが姿を消した。
観光シーズンに合わせてJR特急「サンダーバード」の地鉄立山、宇奈月温泉両駅への直接乗り入れがされていたが、2000年春から中止された。2003年には大阪と氷見の間を結ぶ臨時急行「氷見ぶりアストル号」が運行された。
2003年9月までにボンネット型の雷鳥はなくなり、ボンネット型は金沢⇔上野の急行「能登」だけになった。その「能登」も特急の「北陸」も2010年3月で姿を消した。
○特急
- 雷鳥(大阪⇔富山)=昔は米原経由だったが、今は湖西線経由。停車駅が少ないものに「サンダーバード」と「スーパー雷鳥」があるのでややこしかったが2001年に富山始発は全て「サンダーバード」、金沢始発は「雷鳥」になったがJR西日本が2006年をめどに「サンダーバード」に名称を統一する方針を固めた。富山地鉄を使って宇奈月温泉まで乗り入れる季節便もあった(和倉温泉に行くのもある)。「雷鳥」は立山連峰の天然記念物から名付けられたものだ。英語のサンダーバードは北米の原住民の神話に出てくる雷光と雨を起こす巨大なワシに似た鳥で、実在するライチョウ(ptarmigan/grouse)とは別物だ。2011年に半世紀近く大阪と北陸方面を結んだJR西日本の特急「雷鳥」の愛称が消える。1964年12月、大阪一富山間で運行開始。観光客や登山客らが利用、往時は1日19往復した。
- トワイライトエクスプレス(大阪⇔札幌)=豪華だが富山はほとんど素通り(季節に注意)。
- はくたか(金沢⇔越後湯沢)=かつては上越線を通って金沢⇔上野を結んだ。長岡で乗り換えの時代に一時なくなったが、今はほくほく線を通って越後湯沢まで行き、上越新幹線と接続している。
- 白山(金沢⇔上野)=長野新幹線による信越線の廃止とともに今はない。軽井沢―横川間が楽しかった。
- 北越(大阪⇔新潟)=長岡で上越新幹線に接続する便が多い。
- 白鳥(大阪⇔青森)=白鳥は青森―大阪1040キロを走り、夜行を除けば最長距離を13時間で走っていた。国鉄もJRも「白」と鳥の名が好きだが、原型みたいな命名。九州には「白いかもめ」というのが走っているが、「黒いかもめ」がいるはずもないのに…。1961年10月から走り始めたが2001年3月2日で姿を消した【2002年12月の改正で八戸−函館間に再登場した】。61年誕生当時は約23時間の所要時間を7時間も短縮した。そのまま青函連絡船ともつながり、北海道、東北と関西をつなぐ特急だった。当時、石川、福井の「繊維王国」を目指した若者が多く乗った。70年代は原発ラッシュが始まった。西村京太郎に『特急白鳥14時間』という推理小説もある。
- 北陸(金沢⇔上野)=寝台特急。2010年3月に廃止。
- 日本海(大阪⇔青森)=寝台特急。日本海側最後のブルートレインだったが2012年3月に廃止。
- ワイドビューひだ(金沢⇔名古屋)=高山線の特急だが、山間部を走るのとディーゼルで遅い。
- しらさぎ(富山⇔名古屋)=名古屋へ急ぐ人は米原で新幹線に乗り換える。
○急行
- しらゆき(大阪⇔青森)=富山は夜通過していた。急行なのでとっぷりと時間がかかる。全線架線の下を走るディーゼル急行として有名だった。上越新幹線(大宮〜新潟)が開業した1982年11月の改正で、福井〜青森を走っていた急行「しらゆき」が485系特急「白鳥」に格上げされた。
- 能登(福井⇔上野)=上越線経由の夜行。かつては金沢始発だった。2001年3月のダイヤ改正で福井−金沢間が運転廃止となり短縮される。寝台車はついておらず、すべて座席車。レディスカーもできた。2010年3月に廃止。
- 越前(福井⇔上野)=夜行。1965年から。1982年に金沢⇔上野になり、「能登」と改称、消滅。長野新幹線による信越線の廃止とともに今はない。軽井沢で寒くなって目が覚めた。加賀(金沢⇔大阪)というのもあったが、「ゆのくに」になった。
- きたぐに(大阪⇔新潟)=寝台もある。
- 立山(大阪⇔富山)=既になくなっている。
●…れんか〜られんか
「…しなさいよ」。例:「食べられんか」(食べなさいよ)。
●紫雲英【れんげ】
レンゲは根に窒素を取り込むので良い肥料になる。日本の稲作に導入されたのは江戸時代中期以降とされる。家畜のたい肥や魚肥に比べて田んぼに運ぶ手間がかからず、安価なことから普及したという。
紫雲が低くたなびいているように見えるから「紫雲英」と書かれたのだろうか。
柳田國男の『火の昔』には、「麦の緑と菜の花の黄色と、れんげ草の紅色とでみごとに春の平野をいろどる」と、美しさをたたえた一文がある。
●レンコート
「レインコート」ではなく、「レンコート」ということが多い。詩人の茨木のり子もそうだった。
茨木のり子 「レンコート*」(『歳月』花神社)
お気に入りのレンコート
横浜で買ったレンコート
極細の綿のレンコート
入院するときも着て出たのに
あるじは消えて
レンコートだけが帰ってきた
衿に少しのあぶらじみ
洗濯屋に出すのさえ もったいなくて
そのままに
洋服箪笥にかかっている
五月になれば
風を入れ
はためく裾よ
いずれ いずれ わたくしが
さっとはおってまいりましょう忘れものよ 待ったでしょう
*レインコートのこと。著者はいつもこう発音していた。
(編集部)●聯隊橋【れんたいばし】
富山大橋。昔、聯隊【連隊】が近くにあったから、そんな名前になったのだ。
●聯隊橋駅
射水線の始点で戦後は「新富山駅」となった。
●蓮如はん
北陸の人は蓮如(1415〜1499)のことを親しげに呼ぶ。「さん」づけで呼ぶのは一休和尚(一休さん)と良寛(良寛さん)くらいだろう。蓮如は真宗本願寺第八世宗主で真宗中興の祖で北陸を「真宗王国」にした。第七世存如の長子として生まれたが、衰微した本願寺で困窮のうちに成長した。17歳で青蓮院(しょうれんいん)で得度、1449年(宝徳1)父とともに北陸から関東・東北を巡化。57年(長禄1)本願寺第八世を継職。その直後から近江(滋賀県)を中心に活発に布教を開始したため比叡山の反感を受け、65年(寛正6)には大谷本願寺を破却(寛正の法難)され、近江堅田に下向。71年(文明3)越前の「吉崎御坊」という道場を開いたが、1〜2年のうちに門徒が群集し、寺内町が形成された。これには、仮名まじりで消息形式で教義を平易に説いた『御文(おふみ)』とよばれる伝道文書や、『正信偈和讃』の開板など、現在まで続く正信偈・念仏・和讃という勤行形式を制定した。 吉崎坊舎が大きな勢力となると、加賀・越前の争乱に巻き込まれ、1475年には吉崎を退去し畿内に戻った。83年には京都の山城の山科に本願寺を造営した。
金沢には「蓮如さん」という行事がある。蓮如の忌日の4月25日(旧暦3月25日)に門徒は法会に行ったり、向山(卯辰山)に登って、花見を兼ねた農繁期前の休日を楽しんだという。
丹羽文雄が『蓮如』という大作を書いたのは彼の人生を重ね合わせるとよく分かる。三重県四日市市の住職の長男に生まれ、僧侶になったものの『鮎』の雑誌掲載を機に作家生活に入る。四歳で生別した母を扱った作品で「私の小説の女性はみんな母親」と語るほど母は人間を教えた。肉親を描くことに「非情」の評もあったが、「肉親の情に妥協してはならない」と作家の覚悟を自著『わが母、わが友、わが人生』に書いている。思うまま生きた母には、死後も心が安らげなかった。が、『歎異抄』を読んで、悪人正機説にはっとしたという。過ちを犯さずには生きられない人間を親鸞は悪人と称し、そんな人間こそ成仏すると言う。欲望に負けながらも南無阿弥陀仏を唱えていた母はもう救われている、と気づいたそうだ。親鸞を学び、『親鸞』を書いたが、初めて「信仰」を実感した。母への不明を恥じ、感謝を覚えて、遺骨に素直に「お母さん」と声をかけることができた。人の業を真摯に見つめ、認めたからこそ救いは大きいのだ。
蓮如上人の生まれた年は、ドイツでボヘミアの宗教改革者フス(Jan Hus 1370頃〜1415)が、当時の教会のあり方を批判して焚刑に処せられた年である。フスはチェコ語による説教や聖書のチェコ語訳を行い、自国語によるわかりやすい説教は、多くのチェコの民衆の心をつかんだ。1450年にグーテンベルクがドイツで活版印刷術を発明し、印刷された文字による知識の普及が始まった。1455年、最初の印刷本である「四二行聖書」が製作され、以後1460〜70年代に、ドイツ、フランス、イタリアなど各地でさまざまな分野の書物が印刷され、廉価な書籍は一般に知識を開放した。1470年代は、蓮如上人が御文章を作成し、正信偈や和讃を刊行して独創的な伝道を展開しはじめた時期でもある。
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