金川 欣二:マックde記号論(言語学のお散歩)


 

笑説 越中語大辞典



●おあたまし

 真田信治・友定賢治『地方別方言語源辞典』(東京堂出版)に富山方言として載っている。仏壇や墓を新しくしたとき、僧侶を招いてお勤めしてもらうこと。「あたらまし」ともいう。語源は「御渡座(おわたまし)」だという。「新しい」という意味がついて「あたらまし」となったという。

●おあんさん

 「お兄さん」。例:「おあんさんは何をしのぎにしていますか?」(お兄さんは何を仕事にしていますか:「しのぎ」は使わない)。

●美味(おい)しんぼ

 週刊『ビッグコミックスピリッツ』(小学館)の人気漫画。雁屋哲・原作、花咲アキラ・画のマンガ。花咲は新湊出身だが富山はあまり出てこない。

 

  • タラの白子(第11巻第2話)
  • 赤味噌「艶麗」(第15巻第1話)
  • ホタルイカの踊り食い(第37巻第6話)
  •  2002年5月から8月まで8回連載された『日本全県味巡り〜富山編〜』が掲載(大分、宮城、大阪、山梨に続いて県別特集の5県目)。報恩講料理、ホタルイカの釜揚げ、たたみ白エビ、ブリ料理、ゲンゲの丸仕立鍋、ホタルイカ、ブリ、シロエビ、水島柿、タラ汁やますずし、カブラずし、大門(おおかど)そうめんなどの干し柿などを紹介。富山の本質を突いた「至高のメニュー」側の圧勝かと思われたが、富山を探し歩いて価値ある料理を見つけた「究極のメニュー」の努力も認め、この対決は引き分けとなった。雁屋は2001年秋から2002年春にかけて3回来県し、13市町村を取材。福光美術館長の奥野達夫や料亭「五万石」(富山市)代表の安井恒夫ら、雁屋さんが取材した人が実名で登場している。ただし、これにはネタ本があり、県が花咲アキラに委託した『しあわせ勝負』がそれである。

     単行本第84巻は2003年5月に出版された。表紙には水島ガキの干しガキの写真が使われている。種もみの県外出荷量が日本一であることや、浄土真宗が盛んなことなど、富山の産業や風土に関する内容も織り込んだ。

    ●おいた

     「終える」。例:「こんな仕事、おいた、おいた」(こんな仕事、止めろ、止めろ)。

    ●おいてもくらっさい〜おいてもくだっしゃい

     氷見などで年寄りが使う。馬鹿なことをいわれて、「おいて」は「止めて」という意味で、「も」が入っているが、「(ご冗談は)止めてください」。

    ●おいでる

     「いらっしゃる」の意味で使う。丁寧には「おいでます」となる。篠崎晃一+毎日新聞社『出身地がわかる!気づかない方言』(毎日新聞社)によれば、「おいでになる」と外見が似ていて、改まった場面でも使われるので方言と気づきにくいという。富山や石川や福井、愛知の一部で使う。

    ●おいね/おいよ

     「はい」「そうですね」で女性が多いかもしれないが、金沢では男性も使う。例:「おいね、分かったちゃ」。

    ●おいでる

     「しておられる」で呉西に多い使い方。例:「あんたとこのあんちゃん、何しておいでるがね」(あなたの家のお兄さんは何を職業にしておられるのでしょうか)。

    ●オイボ

     オイボはイシナギを指す方言。30キロ近くにもなる大物が獲れる朝日町宮崎がオイボ漁で有名で、6月上旬解禁され、漁は10月末まで続く。

     オイボは毎年5、6月の産卵期に宮崎沖を回遊する。漁の最盛期は7月上旬ごろまで。刺身がおいしく、皮の酢の物が珍重されるなど捨てるところがないと言われる。

    ●王貞治

     世界の王選手のお母さんは富山市出身だ。2010年に108歳で天寿を全うされた。「天声人語」(2010年8月20日)は次のように語った。

      名を成した人の親なら、子育て自慢も許されよう。半世紀も「偉人の母」でありながら、控えめを通したこの人は稀有(けう)な例である。世界のホームラン王、王貞治さん(70)の母登美(とみ)さんが108歳の天寿を全うした▼世界記録を抜く756号が出た試合、グラウンドに招かれた老父母は、孝行息子から記念の花盾を受けた。質素な普段着、慣れぬ場ではにかむ笑顔に、人格者が巣立った家庭をのぞき見た思いだった▼富山市で生まれた登美さんは、10代半ばで東京に奉公に出て、中国出身の王仕福(しふく)さんと出会う。差別の中、どんな仕事もいとわぬ出稼ぎ労働者だった。若夫婦は、屋号ごと継いだ下町の中華そば屋「五十番」に将来を賭けた▼王さん曰(いわ)く「気は強いが、一面では優しく陽気な働き者」は、一途で不器用な夫を支え、小さな店を切り回した。夕飯は登美さんが作る栄養満点のおじやで、ふうふう食べたという。仮死状態で生まれた病弱な子は大きく育ち、球史に太字の名を刻む▼母は、球場に通い詰める〈後楽園の名物ばあさん〉でもあった。現役引退時の思いを、自著に記す。「無学の上に特別な才能も何もない親のもとで、ここまでやってくれて、母さんは幸せです」(『ありがとうの歳月を生きて』勁文社)▼いや、徹夜の看病がなければ、そして大空襲の夜におぶって逃げてくれなければ、868本の本塁打はない。多くの野球少年が「世界」を夢見ることもなかったろう。そうそう、左利きの矯正をあきらめてくれたのも正しかった。「ありがとう」は尽きない。

    ●おおいき

     「大息吐息」から「ため息」のこと。例:「なん、おおいき、ついとんがけ」(何をため息ついているの?)。

    ●大石内蔵助【おおいしくらのすけ】

     忠臣蔵の内蔵助は富山藩と関係がある。内蔵助の曾祖父・大石良勝の三男具知が、富山藩士の奥村家に養子に入った(あるいは分家して奥村家を立てた)。この奥村家は正甫の代には家老をも勤めた重臣で、奥村具知と大石良雄はおじ・おいの関係になるのです。詳しくは兼子心の「博物館だより」

    ●大岩さん

     上市町にある、不動明王の磨崖仏のある大岩山日石寺(おおいわさんにっせきじ)のこと。真言密宗の総本山として知られる名刹。国の重要文化財に指定されている本尊の不動明王は行基菩薩が大岩川のほとりの岩に刻んだと言われている。

     滝に打たれる「寒修行」で有名なのでときどき、心臓麻痺の死人が出る。

     水がおいしくて冷たいので、“ところ天”を売るお店が並んでいる。

     「大岩のお不動さん」「大岩さん」なのだが、「お岩さん」と聞こえ、小さい僕には幽霊の方しか思い浮かばなかった。

    ●大井冷光(おおい れいこう)

     童話作家。本名は信勝(のぶかつ)。明治18年(1885)上新川郡常願寺村(現富山市水橋)の農家に一人息子として生まれ、幼くして両親を失う悲運に遭遇した。成人後は富山日報社に勤めるかたわら童話家・登山家として活躍し、人文・自然全般にわたる初の研究書『立山案内』を刊行した。富山県初の児童文学作品とされる『越中お伽話』(「走影の池」「さらさら越」「長者屋敷」を一冊にまとめた)を発行。明治44年(1911)上京して児童文学者の久留島武彦に師事、雑誌『少年』『少女』等を編集しながら、全国各地で童話の自作自演に全力を傾けた。さらに『母のお伽話』『七つの鈴』『鳩のお家』などの童話集も刊行。富山日報(北日本新聞の前身)の特派員として立山・室堂に一カ月間滞在して、「天の一方より」を連載した。外国人登山者らとの交流などを伝え、明治期の山岳文学の傑作とされる。その後、立山研究に没頭し、開山の祖とされる佐伯有頼を題材にした童話である。満鮮旅行からの帰国船上、「我、一粒の麦となりて子供たちのために尽くさん」と決意するが、大正10年(1921)神奈川県逗子小学校で童話口演中に倒れ、志半ばで急死。享年35。

    ●大門素麺【おおかどそうめん】

     「そうめんともう決めている青田道」坪内稔典

    大門素麺

     射水郡に大門町(だいもんまち)があるので「だいもんそうめん」と呼びそうになる。こちらは砺波市の大門で作られている素麺で、普通は細い筒状になっているのが多いのに、四角い古風な袋の中に入っていて製造者名が入っているのも特徴で人気がある。20軒あまりの家で作られているだけだ。「医王おろし」を利用した寒作りなので、おいしいという。

     二つに割ってからゆでないと、おかど違いのとんでもない長さになる。

     別名「まるまげ素麺」ともいうが、嘉永元年に能登国高松の住人・丸山伊助を招き、「能登素麺」の製造法を習ったことに始まるという。庄川の伏流水や鉢伏山からの寒風など条件が揃って産業として栄えた。めんは寒いほど締まってこしが強くなるという。雪が多い時は、ゆっくり天日干しをできないので、めんを2本の棒で挟んで引っ張り上げ、延ばす。生乾きの状態で丸めて本乾燥させるため、独特の「まるまげ」状の形が生まれたという。ゆでた後もべたつきが出にくく、冷蔵庫で保存すれば2日はもつ。

     素麺は長いので、方言で「ぞろ」「ずらり」という言い方もある。

     井上雪『その手を見せて』(冬樹社)に「大門のそうめん」という一章がある。

     民俗学者の佐伯安一の「土蔵の会」の会誌『土蔵』(2006年)が「大門(おおかど)そうめんの源流」と題してルーツをたどっている。大門そうめんの源流は奥能登・蛸島(現石川県珠洲市)とみられ、大門集落がある「庄下(しょうげ)村郷土誌」=大正初年発行=には「嘉永(一八五〇年前後)のころ、能登・高松(現かほく市)から伝授を受けた」と記されている。佐伯は「能登では、いつか廃れた。丸まげのように束ねる包み方は北前船で搬送する際、俵に詰めて荷崩れしないための工夫だったようだ」と考察している。

    ●オオグチボヤ

     深海に生息し、口を開いて笑っているように見える珍しい生物。ホヤの仲間のオオグチボヤは2001年、富山湾で世界で初めて群生が確認された。体長は約15センチ。大きな口のように見える入水孔を開閉してプランクトンを摂取しているとみられているが、詳しい生態は分かっていない。

    ●大境洞窟【おおざかい】

     日本で初めて調査された洞窟住居跡で、海食による自然洞窟。落盤のおかげで、縄文中期から近世まで6層の遺物が保存されている。当時は縄文が先か、弥生が先か分からなかったが、この洞窟の地層から分かるようになったとされる。

    ●大阪屋

     一番安いとされるスーパーのチェーン。社長が大阪で修業したということもあるようだが、安さのイメージを「大阪」に求めた命名。富山ライトレールには「粟島町大阪屋ショップ前」という駅もある。富山県はコロッケ消費量が日本一として有名だが、これにも貢献しているとされる。つまり、5個100円のコロッケが大量に売れているからである。

     2005年にアルビスとの関係を切って独自路線を推進したことでも知られる。2006年11月には呉羽でアルビスと戦争状態に入った。真ん前にアルビスが開店したためで「この地域は県内一の激安地区になりました」「大阪屋に寄ってから別のお店においでください」などとチラシに書かれ、2週間で勝負がついた。

     土曜日にチェックしたチラシを持って行って2000円以上買って景品をもらうのがお約束。土曜日は卵の特売日でもある。

    ●大島文雄

     地方文人。富山市岩瀬生まれ(1902-1991)。東大国文科卒。富山大学名誉教授。富山市名誉市民。著作は『富山の風景』(新興出版社)など少ないが、旧制富山高等学校、富山大学、富山女子短期大学、富山医科薬科大学など、60年の長きにわたり教育の任に就いた。校歌を富山県下の大学・高校・中学校・小学校・その他など、100校あまりも作詞。その中でも小学校校歌が一番多くて49校である。今はなき富山女子高校は大島文雄作詞、団伊玖磨作曲の校歌である。

     私が何よりも大事に思ったものは郷土の自然風土である。私はこの郷土に生まれ、育ち、生活をしてきた。その越中の自然の、根深さ、力強さ。 私はそれに抱かれそれに打たれてきた。この感動をいくらかでも表現してみたいと思った。それは、私の力に余るものではある。 だが、郷土の私が作るとなれば、それが私の使命のようにおもわれてくる。
         -----大島文雄「萩咲きぬ」

    ●おーた

     「あった」。例:「あんたとどっかでおーたことあっけ?」(あなたとどこかで会ったことありますか?)・「間におーた」(間に合った)・「おーた人見つけられ」(ぴったりと合った人を見つけなさい)。

    ●大谷技術短大

     大谷財閥の肝煎りで作られた短大だったが、その後、県立技術短大になって「県短」と呼ばれるようになった。今は県立大学の短期大学部になっている。応用数学科を早い時期に設けていて、県内では唯一のコンピューター関係の学科だった。ちなみに僕は高校1年までここに入ってプログラマーになろうと思っていた(2年で物理ができなくなったために断念)。

    ●大ツバキ
     氷見市の老谷(おいだに)にある、日本一の太さのツバキ。樹齢は500年以上とされる。県天然記念物で桜の花見シーズンがピーク。

    ●大手町フォーラム

     富山市が全日空ホテル内に建設した国際会議場の名称。しかしこれは、公募された中から選ばれたものではなく、選考会議が自ら決定したものだ。400件以上の公募があったのに、その中にはよい名称がなかったという。

     この件に関してNHKから「お金をかけて公募するのはどう思いますか?」という取材を受けた。お金はかかるものだが、いい名前を考える時にはいいセンスを持った人が選ばなければ意味がないと答えておいた。

     「大手町フォーラム」というのは「東京国際フォーラム」のパクリである。

    ●おおど/おうど/おーど

     「おおざっぱ、乱暴、無茶な」で富山でも石川でも使う。例:「おおどなことしたらあかんよ」(おおざっぱな、いい加減な仕事をしたらダメ)。『大辞林』では「(1)〔本道からはずれた道の意から〕道理に反すること。よこしまなこと。また、そのさま。邪道。「―な者」(2)不正と知りながら行うこと。『私が少しの間―いたせば事がすむ/浄瑠璃・大経師(上)』」 。真田信治・友定賢治『地方別方言語源辞典』(東京堂出版)には「横道」から来ているとしている。

     川崎洋『かがやく日本語の悪態』(草思社1997)で富山の悪態としてあげている唯一の方言が、この「おーどな」である。

    富山ほか北陸一帯の悪態です。雑な、荒っぽい、慎重でない、横着な、ぞんざいな、他人の気持ちを考えない、ものを無駄にする、などいろいろな意味で使われる便利な言葉です。「あの人はおーどや」「おーどな人や」「物をおーどに使う」などと言います。「横道」です。

    ●大伴家持

     持ち家率日本一の富山では「家持」を「いえもち」という人がいる。

     「家持」の名には、大伴家の長男として家を堅持してほしいとの父旅人の願いがこめられていたという。

    ●大汝山

     詩人の荒川洋治の『黙読の山』(みすず)は「とりわけルビが振られることのない、ごく普通の文字の読み方に難渋する」そうで、特に「山が入ると、むずかしくなる」といい、「やま」になるか「さん」になるかの線引きも調べているが、「例外があり、うまくいかない」とつづっている。という。大汝山は『富山大百科事典』によれば「おおなんじやま」だ。「せん(ぜん)」もあった。荒川は「大山(だいせん)」と並べて、富山・石川県境の「医王山(いおうぜん)」を例に挙げているが、これも「いぞうざん」という人がいる。

     これらは「町」を「まち」「ちょう」とするか、「谷」を「たに」とするか「や」とするかと同じく、日本語では漢字さえあれば、読み方は二の次という文化があるからだ。

    ●オーバードホール

     桐朋問題の連れ子。「舞台芸術学部」構想の名残なのだが、できてしまった。総工費約170億円をかけて1996年に開館した。

     「オーバード」というのは「セレナード(セレナーデ)」Serenadeの反対で夜明けの歌を指す。“Aubade”でフランス語読みする。が、よく考えてみるとBunkamuraの「オーチャードホール」のパクリである。

     駅裏の立派なホールだが、使用料が高くて使う団体が少ない。

     3面半の立派な舞台があるが、観客席が犯罪的に狭くて窮屈。これは普段使う場所よりも座敷や仏間や欄間の方を優先して考えた富山県民の意識が反映している。

     しかも、駐車場が不便で、オペラなどが開かれるとあっと言う間に千円を超えてしまう。しかも、出るのに時間がかかって、最初の頃は1時間近くかかってようやく駐車場を出た。オーバードホール内にも駐車場があって、中の施設で3000円以上使えば無料になるのだが、10台分くらいしか余裕がない。

     前は現在の全日空ホテルの場所に富山市公会堂があった。こちらの方は町中にあって、便利だった。ただ、駐車場もなく、楽屋が古くなっていたし、舞台も横長だったので、東京からアーティストが来ることは皆無になっていた。

     オーバードホールのおかげで宝塚も来るようになったのだが、チケットが取れなくなった。でも、妻は一番歌いやすいホールだと言う。ソプラノソロを務めた『億光年の響き』は自主事業の中でも高く評価されている(2004年2月朝日新聞)。

     アスネット(明日ネット?)という会員組織がある。

     2003年度で自主事業の企画を担ってきた芸術監督制を廃止し、複数プロデューサー制を導入した。

    ●大番

     富山のある地域では大番・小番と呼ばれる見回り制度が残っている。夜中に各家庭を回って火の始末がちゃんとできているか調べて歩くのである。だから、鍵はかけないで寝ることになる。

    ●大平山濤【おおひら・さんとう】

     本名・正信=まさのぶ。書家で文化功労者、毎日書道会最高顧問。富山県生まれ。金子鴎亭(おうてい)に師事し、50代で書道教師の職を辞して上京。漢字・仮名交じり文による現代書を追究し、故郷の山河を詠んだ詩歌などを叙情性豊かに表現した。

    ●おおべっさま/オーベッサマ

     「おおべっさま迎え」というのは宇奈月町下立、浦山地区の家々などで行われる行事で「大恵比寿(おおえびす)様」のなまりと言われる。江戸時代から続く行事で、外へ出稼ぎに行っていた商売繁盛の神・えびす様を家々に迎える。

     11月20日の夕方、目に見えないおおべっさまが各家庭を訪問する。豊作と無病息災を感謝し、お風呂や御膳でもてなす。玄関で「お待ちしておりました」とおおべっさまに声を掛け、風呂へ案内。神棚の下に御膳を置き、手作りしたダイコンやニンジン、昆布、イカの煮物、自家製野菜、タイ2匹など山海の幸を用意。主人が「お疲れ様でした。ご苦労様でした」と声を掛けながらお酒をつぐ。年越しをして1月20日まで各家に滞在する。その時また、ごちそうを用意して送り出す。

     能登で行われる国の重要無形文化財「アエノコト」に相当する行事といえるが、「アエノコト」は田の神を迎えるもの。新暦12月5日の夕方から行われ、稲をみのらせるため田の中にあって力をつくした田の神を刈田の中からわが家へ迎える。田の神は籾俵の上の二股大根を依代にして、家の主婦からの饗応をうける。主婦は栗の木の箸で御馳走をすすめ、風呂に案内し、新しい訪れ神を家の中の神々に紹介する。田の神は女好きだそうで、この夜農家では女客の訪れを喜ぶ。

     宇奈月でも、2月に「田の神迎え」といって、持田に雪でカマクラを作って、その上にトックリを置き、中にローソクを1本立てて、神を迎える行事がある。

    ●オーベルジュ・ドゥ・ミクニ

     氷見市の老舗料理旅館「誉一山荘」が改装してできた、フランス料理の三國清三シェフが全面協力するレストラン兼宿泊施設。オーベルジュはフランス語で、宿泊施設のあるレストランの意味。三國のプロデュース店は国内7店目、北陸では初めてとなる。

    ●大牧【おおまき】温泉

     ある時、東京の友達が両親が「富山のいかだで行く温泉に行ってる」というので写真を見たら、大牧温泉行の船の桟橋が映っていた。庄川峡には多くの温泉宿が点在する。

     ここは船で行く温泉として有名。庄川の小牧ダムから関電の船に乗って上流を遡る。密室状態でもあり、秘境で有名なので、よく「殺人事件」が起きる。1987年4月フジTV系列で放映された「北陸L特急 殺しの双曲線」(原作:西村京太郎 『殺しの双曲線』)のロケ地になってから、一躍全国にその名が知られるようになった。

    ●オーム真理教(アーレフ)

     富山とオームの関係は深い(が詳しくは書けない)。富山にも信者が多かったのだ。坂本弁護士の妻・都子さんが富山に埋められていた。松本サリン事件では富山出身で信州大学医学部の安元三井(みい)さんが命を失った。信州大医学部卒業を翌年の春に控え、医師となる希望に満ちあふれていた(お父さんは茶屋町で整形外科医をしている)。……

    ●おおやま国体

     1976年に開かれた第31回冬季大会。

    ●おーらい

     「往来」から「外の道」のこと。例:「おうらいに出たら気ぃつけんなん」「おーらい」(とはいわない)。

    ●オーロラ(aurora)

     太陽からやってきた電気の粒が高度100〜1000kmの超高層にある空気の粒にぶつかったときに出る光。オーロラが富山でも出たことがある。1909年(明治42年)9月25日の伏木測候所の記録に「北方の天涯赤紅色を呈して雲彩を放ち一見遠火事の如く見えたり」とある(富山地方気象台編修『富山県気象災異誌』)。2003年10月31日早朝には、会社員の中川達夫が立山・室堂でオーロラの撮影に成功した。オーロラは奥大日岳、剱岳などの稜線の上に出現。肉眼では観察できなかったが、写真には赤くうっすらと帯状の神秘の光が写った。

     藤原定家の漢文日記『明月記』に記された天文現象「赤気(せっき)」は、大規模なオーロラであったことが、新潟県立巻高校の中沢陽(よう)教諭と富山県立大学工学部の岡田敏美教授の研究で分かった。 中緯度地域のオーロラは、空の高いところで発生する赤い光だけが見え、古代から「赤気」として恐れられ、記録されてきたが、大規模な火事などを誤認している可能性もある。近代のオーロラ観測例から〈1〉11年周期の太陽活動「極大期」に多発〈2〉春秋に発生し、北の空に見られる〈3〉大規模な場合、赤い光の中に白い縦線が走る現象が見られる――などの特徴を確認。 これらの特徴を基に古文書に記された16例の「赤気」を調べたところ、京都に住んでいた定家が、1204年(元久元年)に、赤い光と白い光が交錯していると記した文章が、大規模なオーロラの特徴と合致した。

     語源はローマ神話の「アウロラ」(aurora)で、太陽神アポロンの妹でバラ色の肌にブロンドである。夜の星々を追い払い、夜明けをもたらすという。

    ●おーわ

     「次女以下」や「妹娘」や「次男の嫁」だったが、使わない。

    ●おかい(さん)

     「お粥」。「…さん」と付けるところが、米を大切にした証拠。

    ●おかして

     「わし、ちょっとおかして」と言われるとギョッとするが、「ちょっといさせて」という意味。「ここにもの、おかして」(ここに物を置かせて)というのもよく使う。

    ●おかしみ

      利賀村で使う言葉で、冬にたんぼが凍みること。新湊などでは「ソラわたり」ということがある。「すすわたり」だとトトロだが…。

    ●おかべ

     「豆腐」。白壁に似ることからで女房詞(にょうぼうことば)だった。金沢でも使う。

    ●おがめ

     「白癬」「はたけ」(糸状菌によって起こる皮膚病の一種、たむし)。『てんのくまのなみちゃん』では「リンピョウトウシャ」というまじないで治すおじいちゃんの話が出てくる。

    ●小川温泉

     朝日町にある古い温泉で長く滞在する客も多い。1886(明治19)年に温泉設備ができたという。子宝に恵まれるという。源泉の発見は江戸時代初期ともいわれる。近くの農民が神のお告げを受け、湯がわいているのを見つけた、との言い伝えがある(ま、どこでもそんなものだが)。泉鏡花の「湯女(ゆな)の魂」という作品では主人公が「小川温泉」を訪れる。「何しろ江戸の日本橋ではお医者様でも有馬の湯でもと云(い)うた処(ところ)を、芸者が、小川の湯でもと唄ふさうでござりますが、其(その)辺は旦那御存じでござりませうな」という会話が交わされる。

    ●翁久允【おきな・きゅういん】

     富山県生まれで“移民地文学”の先駆者、ジャーナリスト、郷土史家。1907年に19歳でアメリカのシアトルへ渡り、苺摘みや缶詰工場で働きながら書いた『旭新聞』の懸賞小説に応募した『別れた間』(09年)が2等に入選した。明治末年に一時帰国、再渡米し15年に長編『悪の日影』を『日米新聞』に連載し、移民社会における生活不安や個人主義、望郷などを描くべきであるという移民地文学の提唱者となった。24年帰国、朝日新聞社入社、26年『週刊朝日』編集長となる。31年竹久夢二と渡米、33年インドに旅行し、タゴールと会う。35年からは郷土史研究に専心、柳田国男とも相談して月刊誌『高志人(こしびと)』を発刊し、戦後まで刊行し続けた。『翁久允全集全10巻』(翁久允全集刊行会)や稗田菫平『筆魂・翁久允の生涯』(桂書房)がある。

    ●おかれ

     「止めなさい」。例:「そんな仕事、おかれ、おかれ」(そんな仕事、止めなさい、止めなさい)。

    ●おかんまいけ

     「止めましょう」。例:「もう、くらなってきたから、おかんまいけ」(もう暗くなってきたから、止めましょう)。

    ●起きれ〜起っきょ〜起きい〜起きょー

     「起きろ」(命令形)で新湊など多くの地域は「起きれ」か「起きっきょ」という。氷見などでは「起きい」、県東部は「起きょー」。「起きよ」や「起きろ」の代わりに活用の単純な「起きれ」が若年層に広まっているが、富山では昔から使っていた。井上史雄『日本語の値段』(大修館2000)には「昭和末期の『方言文法全国地図』国立国語研究所1989〜を見直すと、富山県の老年層の一部に『起きれ』の使用者がいる。突然の変化ではなく、ここ百年以上全国で続いていた減少らしい」と書いてある。例:「はよ、起きれま」(早く起きなさいよ)・「ちゃっちゃと起っきょ」(【特に子どもに】早く起きなさい)。

    ●(腰が)おきる

     「ぎっくり腰になる」。例:「腰、おっきしもてぇ、動けんがやちゃ」(ぎっくり腰になってうごけないのですよ)。

    ●おく

     「(しないで)おく」から「止める」。例:「わし、こっでおくちゃ」(私、これで止めます)・「そんなこと、おかれ(ま)」(そんなこと止めなさい)。

    ●お食い初め

     「100日まんま」ともいい、子供が誕生して100日目に行う行事。まだミルクしか飲めないのに不合理だとかいってられない。この子が一生食べ物に困らないようにという願いが込められている。赤ちゃん祝いの膳をたて、年長者が、ご飯を一粒だけ赤ちゃんの口に入れ、食べさせる。お食い初めは、赤ちゃんが正式に家族の仲間入りしたことを祝福する行事だ。

    ●おくしい〜うくしい

     「美しい」で東部ではまるで通じないが新湊や氷見で使われる。高岡の女性に「おくしいいうて聞いたことある?」と聞くと「聞いたことない」という。よく見るとブスだった。例:「なんちゅう、おっくしい嫁はんけ」・「なんちゅう、おくしい話ね」(何という感動的な話だろうか)。

    ●『おくの細道』

     1689年(元禄2)3月27日、46歳の松尾芭蕉が門人河合曽良を伴って江戸を旅立ち、奥羽、北陸の各地を巡遊、8月21日ごろ大垣に入り、さらに伊勢参宮へと出発するまでの約150日間にわたる旅の紀行。

     芭蕉は越中に入る前日、市振に泊まり、伊勢参宮に向かう新潟の遊女と出会う。長旅を心もとなく思っている彼女たちは、芭蕉に同行を願うが断った。この時詠んだのが「ひとつ家に遊女も寝たり萩と月」なのだが、曽良の日記には遊女の記述がない。このエピソードは市振の近くの上路(あげろ)にまつわる謡曲「山姥(やまんば)」を下敷きにした創作だと分析する人もいる(志田延義『芭蕉と俳文学』至文堂)。

     越中路を通り過ぎた。初日は市振から滑川まで十里(40キロ)、2日目も高岡まで十里、3日目、倶利伽羅峠越えの十一里の道を歩いて金沢へ向かった。曽良の『奥の細道随行日記』には、旧暦7月13日に越後の市振をたってから、15日に倶利伽羅峠越えをして金沢に入るまでの行程が詳しく書かれている。滑川から高岡までの14日は「快晴暑甚シ」に重ねて「暑極テ甚」とある。「翁、気色不勝(すぐれず)」と、芭蕉も不機嫌だった。「気色不勝」には別の理由もある。奥羽、北陸の歌枕や名所旧跡を訪ねる旅だったのに、大伴家持も歌った「担籠(たご、氷見)の藤波」の地へ行こうとしたら、「蘆(あし)の一夜(ひとよ)の宿貸すものもあるまじ」と言われ、厳しい残暑に加えて、あこがれの万葉歌枕にもたどり着けず、すっかり参ってしまったようだ。能坂利雄『北陸史23の謎』(新人物往来社1985年)には氷見【「火見」という漢字を変更するくらい火事が多かった】で火災があり、上のような嘆きをいうようになったと推測している。

     *くろべ四十八が瀬とかや、数しらぬ川をわたりて、**那古と云浦に出。***担籠の藤波は、春ならずとも、初秋の哀とふべきものをと、人に尋れば、「是より五里、いそ伝ひして、むかふの山陰にいり、****蜑の苫ぶきかすかなれば、蘆の一夜の宿かすものあるまじ」といひをどされて、かヾの国に入。

    *****わせの香や分入右は有磯海

    (わせのかや わけいるみぎは ありそうみ)

    *黒部四十八が瀬:黒部川の扇状地で川筋がむやみに多い。「四十八が瀬」は、数の多いことを意味し、また、越中越後は浄土真宗の盛んな土地であるので浄土真宗での「四十八願」になぞらえているとの説もある。

    **那古と云浦に出:<なごといううらにいず>で、那古(奈呉)は、新湊市の海岸の歌枕。

    ***担籠の藤波:<たこのふじなみ>で、氷見市にある藤の名所。旧暦7月のこととてもう藤には季節はずれであった。 

    ****蜑の苫葺きかすかなれば、蘆の一夜の宿貸す者あるまじ:<あまのとまぶきかすかなれば、あしのひとよのやどかすものあるまじ>で、貧しい漁村のことだから、宿を貸す人も居ないでしょう、というので、立ち寄らずに加賀の国に行った、というのだが、実際は越中で2泊もしている。

    *****どこで吟じたかは不明で、句碑は朝日町や滑川、射水、氷見市などに建つ。

    ●『おくりびと』

     アカデミー賞外国語映画部門の受賞作品(2008年公開)。富山のオークスに勤めていた青木新門が書いた『納棺夫日記』に感動した本木雅弘が製作を思い立って、作った映画。滝田洋二郎監督も高岡出身で、出演した山田辰夫は滝田の同級生。富山と深い関係にありながら、山形が舞台なので、県民からは失望の声があがったが、内容的には死を扱っていて、雪の白さがなければ成立しなかったと思える。

    ●おくわさま

     細入村北部地区に江戸末期から伝わる伝統行事で能登に伝わる「アエノコト」に似ている。昭和初期までは細入の4集落の各農家で受け継がれていた。毎年1月11日に行われるが、現在、欠かさず続けているのは本芳さん宅だけという。農機具の鍬を神様に見立て、座敷の座布団の上に載せ、酒やごちそうでもてなす。農業の仕事始めとして、今年一年間豊作を祈る。前日のうちに納屋から家の中に移し、布団の中で一晩休んでもらった田の神様「みつ鍬」と、畑の神様「ひら鍬」を座敷に据え、来客用の座布団に載せ、茶でもてなす。それぞれの「おくわさま」の前に、まめ(元気)で働けるようにと「黒豆」、腰が曲がるまで長寿をと「エビ」、めでたいと「タイ」など五品が並ぶごぜんを供える。「昨年は良い米、野菜をありがとうございました。今日はゆっくりとお召し上がりください」とあいさつし、酒を勧める。家族と一緒に自分たちにも酒を注いで「今年も一生懸命働かせてもらいます」と誓う。

    ●おけそく

     「お華足」で器を指したが、仏壇に供える丸い餅など供えものを指し、法事などに飾って、近所に配る。『大辞林』では「(1)机・台・盤などの脚で、先端を外側に反らせて花形・雲形の飾りを彫ったもの。また、その脚のついた器物。(2)仏前に供える物を盛る器。また、その供え物。」

    ●桶胴【おけどう】太鼓

     桶胴太鼓は2004年6月、小矢部市芹川の亀保里(かめほり)神社の神輿格納庫を新築する際に社殿から発見された。直径約90センチ、長さ約150センチのたる形。革が破れ、胴も傷んでいた。処分も検討されたが、胴内に革を張り替えた年=明治35(1902)年=と製作者の名が記されていた。白山市の和太鼓専門店・浅野太鼓に調べてもらったところ、今は作られていない種類の貴重な太鼓と分かったために修復して、翌年奉納奉告祭を営んだ。

    ●おここ〜おこうこ

     「お香の物」を意味する「香香」の丁寧な言い方で「漬け物」。池波正太郎などは「おこうこ」を使っていた。

    ●おこじょ

     「おこじょに噛まれたら大変だ」といわれて、動物のオコジョだと思っていたので、小さいときにびびった。イタチに似た小さい動物ではなくて「毛虫」。

    ●おこわ

     「赤飯」のこと。厳密にいうと餅米を使ったのが「おこわ」で「赤飯」はうるち米。

    ●お小夜

     五箇山に民謡を伝えたとされる女性。五箇山は加賀藩の流刑地で、江戸時代には8ケ所の流刑小屋があったという。陸続きなのに流刑地となるということから当時の五箇山がどれだけ人里離れたところだったかがよく分かる。上梨の田向集落には「お縮(しま)り小屋」と言われる流刑小屋が復元されている。元禄3年(1690年)、「加賀騒動」の首謀者4人と遊女20人(19人とも)が輪島(石川県)に流刑となりったが、加賀城下一番の芸達者といわれたお小夜は、輪島の出身だったため、輪島では意味がないということで、五箇山の小原に流された。しかし、お小夜は流刑の身でありながら、流刑小屋ではなく土地の庄屋にあずけられ、自由に外出が許された。美人で芸達者だったお小夜は、持ち前の芸を活かして村人たちに三味線や唄や踊りを教えたことから、たちまち村人たちの憧れの的となった。やがてお小夜は隣村の猪ノ谷の茶木吉間(きちま)という村の青年と恋仲となり、身ごもる。罪人の身で妊娠したことが藩に知れると吉間や村人に迷惑がかかると思い悩んだ末、お小夜は元禄9年10がつ23日、庄川に身を投げる。28歳の時であった。吉間は白川郷に逃げ、その後、お小夜のぼだいを弔って歩いたという。

     小原集落のすぐ下を走る国道156号線に「お小夜投身の地」と掛れた標柱が立っているし、「お小夜塚」もある。

     その不運な人生と非業の死、民謡を伝えてくれたやさしい心根を偲んで唄い踊られてきたのが「お小夜節」である。古くからこの地に伝わっていた男女の掛け合い歌「まいまい節」を借りて、歌詞をつけたものである。

    「お小夜節」

    名をつけようなら お小夜につきゃれ
    お小夜きりょうよし 声もよし 声もよし 声もよし

    峠細道 涙で越えて
    今は小原で 侘び住まい 侘び住まい 侘び住まい

    心細いよ 籠乗り渡り
    五箇の淋しさ 身にしみる 身にしみる 身にしみる

    庄の流れに 月夜の河鹿(かじか)
    二人逢う瀬の 女郎が池 女郎が池 女郎が池

    輪島出てから ことしで四年
    もとの輪島へ 帰りたい 帰りたい 帰りたい

     石井歓作曲の「お小夜」というオペラも作られた。

     黛まどかには『文豪、偉人の「愛」をたどる旅』(集英社新書)があり、次のような俳句を作っている。

    緑さす切(せつ)に合わせて掌(たなごころ)  まどか

    ●おさん

     小川おさんという女性で新湊には碑も残っている。『新湊の民話』に出てくるが、他国の若い船乗りと恋をし、末は夫婦と深く契りました。 しかし、男には妻子があったことから破局が訪れました。半狂乱になったおさんは、 仲秋の満月の夜、憑かれたように小川の池に身を投げた。 後におさんの亡魂が現れるとか、御満座法会の夜にお寺参りにくるとかという話が生まれた。

     2004年には『小川おさん物語』が上演された。脚本・本田忠勝(名古屋・劇団うりんこ代表)、演出・玉野井直樹(東京・劇団劇奏)でおさんは地元の声楽家・金川睦美が演じた。毎日稽古で「おさんの苦しみ」だったというが、家を預かる夫は「おっさんの苦しみ」を感じたという。

    ●御師【おし】

     御祈祷師(おんきとうし)、御詔刀師(おんのつとし)の略称で、詔刀師や祈師(いのりし)ともいい、伊勢では「おんし」という。 師檀関係にある檀那(だんな)の願意を神前に取り次ぎ、その祈願を代表する神職をさす。祈祷の事に従う、身分の低い神職・社僧。熊野三山・伊勢神宮・阿夫利神社などでは、宿坊の経営や参詣人の案内を兼ね、信仰の普及にも寄与した。古代神道の徒でありながら仏教と習合して仏教くさい粉飾をその教養に入れていた。御師の活動は師檀関係の強化や新たな檀家の獲得を目ざすことはもとより、全国的にみて伊勢信仰の普及や教化、あるいは伊勢講の組織に大きな役割を果たした。しかし、1871年(明治4)の神宮改革に関する太政官(だじょうかん)布達により、いっさいの活動が停止されるに至った。

     御師たちが売薬の基礎を作ったとの説もある。立山信仰に集まってきた遠国からの信徒団体を、その国名で宿坊を分け、立山ガイドと祈祷がその仕事であったが、明治後この御師という存在はすたれた。立山の御師はたいていが佐伯姓である 

     司馬遼太郎(『街道をゆく 四 郡上・白川街道と越中街道』朝日文庫)に立山を案内した佐伯富雄は芦峅寺(あしくらじ)の御師の末裔(大学卒業後も立山ガイドをやり、第1回南極越冬隊員の経験もある)。

    ●オシチャサマアレ

     11月27日の浄土真宗大谷派の門徒衆が集まって親鸞逝去の命日の前夜、遺徳をしのぶ日であるが、決まって大荒れとなることが多いので名付けられたもので、「オシチャサマアレ(お七夜様荒れ)」という。1月15日の夜の本願寺派の御満座に荒れるのを「ゴマンザアレ(御満座荒れ)」と呼んだ。

    ●お正月

     東クメ作詞・滝廉太郎作曲の「お正月」には「凧あげて、独楽を回して…」という箇所があるが、雪に閉ざされた北陸では無理な話だ。中野重治(福井県丸岡出身)の『梨の花』という自伝小説の中で、小学校2年生の良平は学校の本や『少年世界』に「たのしい正月です。男の子は、たこあげをしてあそびます。女の子は、はねつきをしてあそびます」と書かれていることに腹を立てて「そんなばかなことがどこにあるのかいや」と思うシーンがある。「正月は、朝から晩まで吹雪いている。吹雪いていなくても、野も山も道も学校の運動場も雪でいっぱいなのだ。それが正月というものだ」と思って、東京中心の記述に侮辱された気分になる。「日本中の子供が、ほんとうにそう思い込むのではないかと気にさえなってくる」のである。滝廉太郎は富山に1年半暮らしたことがあるのだが、どう思って作曲したことだろう。

     漆間元三の『習俗富山歳時記』には年暮れになると、下新川地方の子どもたちは「正月サン 正月サン どこまで ござった 黒部の 橋のたもとまで…」と歌って歩いたという。県西部では「黒部の橋」が「倶利伽羅」に変わる。このように正月はサンづけだった。

     金沢ならではお正月の遊びに「旗源平」というのがある。赤旗の平家と白旗の源氏に分かれ、サイコロを2個転がし、出た目により手持ちの旗を取り合いしていく。サイコロの呼び方にも特徴があり、たとえば5と1が出た場合「(う)めがいち」といい、梅は前田家の紋を表している。江戸時代からある遊びで、下級藩士や町人にも平和な時に戦乱を忘れさせないため、庶民の闘争心を養う物としても考えられた。城内の大奥でも賑やかに遊ばれたそうだ。

    ●おしょうらい

     お盆の迎え火で「お精霊」と書いて「お招来」と掛けているようだ。8月13日に「おしょうらい、おしょうらい、おじじも来(こ)、おばばも来」といって火の点いた棒(200円くらいで売られている)を川や海などで廻す。石川県志賀町などにもおしょうらいがある。富山市はするが、そこから東部はあまりしないようだ。ただし、富山市でも迎え火ではなくて、送り火として「お精霊」をするところもあるようだ(『てんのくまのなみちゃん』)。

     柳田国男は日本人の霊魂観を「先祖の話」で次のように説明した。お盆の迎え火は祖先の霊魂を迎えるために家々が門前で火をたく習俗である。人は死ぬと祖霊になる。祖霊はふだんは故郷の村里を望む山に宿り、子孫の繁栄を見守っている。盆と正月に家に戻ってくる。

     なお、立山の雄山神社では里で送り火(うちなどはしないが)をする日に、逆に迎え火をして霊が戻ってくるように案内するという。ちょうど京都の大文字焼きと同じである。

    ●お城

     県内にはお城がたくさんあるが、言われてみないと分からない平城、山城、居館などがほとんどだ。

    ●オスカー

     ホームセンターのこと。昔、オスカーというチェーンが北陸中心にあって、DIYのパイオニア的存在だったので、今でも「オスカーへ行こう」という人がいる。今は「カーマ」Kahmaというチェーンに変わっている。「カーマ」の意味は何かと刈谷市にある本社に問い合わせたら創業者の鏡味、原、牧の三人の名前の頭文字を取ったという。

    ●おすす

     「お寿司」と「お獅子」。ちなみに富山は「ズーズー弁」地帯に入る。

    ●お裾分け【おすそわけ】

     婚礼でもらったカマボコなどはお裾分けする。「裾」というのが気に入らない人は「お福分け」などという。

    ●おせずし

     「押し寿司」が訛ったもの。祭りなどの晴れの日に作る。一面にのりを貼り、四角くて黒い。焼いてほぐしたサバの身(サケやアジ、ニギスでも可)をサンドイッチのようにご飯の間にはさんで、それを3段重ねて一番上にのりをのせる。最後に押しぶたをして重石をし、それを一晩置くと出来上がる。

    ●おぞい〜うぞい

     「ひどい、みっともない、劣る、残念な、悔しい」で石川や福井でも使う。例:「胆石になっておぞい目におうたちゃ」(胆石になってひどい目にあったよ)・「かぁ、なんちゅーおぞい服ね」(これはまた、何というボロボロの服でしょうか)。

    ●遅植え

     夏の高温による品質低下を防ぐため、県は2003年から田植え時期を5月10日以降に繰り下げることを呼び掛けている。従来はゴールデンウィーク中に田植えをする農家が多かった。遅飢えを奨励するために、会社を説得して回った。

    ●おそらと

     「遅く」。例:「きんの、おそらと帰って来らはったね」(昨日は遅くお帰りでしたね)。

    ●御田植祭(おたうえさい)

     下村加茂神社の神事で穀物の豊穣(ほうじょう)を祈願する。毎年6月最初の卯の日に行われる県指定無形民俗文化財。境内の一角を水田に見立て、宮司が田植えの神事を行う。太鼓の合図で、氏子らが本殿からご神体の御幣を御旅所に移し、水辺に生えるマコモで作った草人形「真菰(まこも)の神さま」と「大男」を供えた。宮番が「エブリ」と呼ばれる古い農具で土をならした後、宮司が後ろへ下がりながら苗を置く田植えの所作を行う。最後に、拾った人は幸せになるとされる「大男」二体を宮司が後ろへ放り投げる。

    ●御旅屋通り【おたやどおり】

     かつては高岡市の中心だった商店街。親戚の薬屋(かぶと屋)はタバコの売上がずっと県内一だった。当時は近くにパチンコ屋も多くて、映画館もいっぱいでにぎわっていた。

     御旅屋通りを古城公園に向かうと途中に高岡大仏がある。その手前、御旅屋通りを抜けた所にホテル・ニューオータニがある。

     最近では地方局のアナウンサーが「ここは御旅屋通りみたいに人が来てませんね」というくらい、少ない。中心街の衰退を目の当たりにできる場所だ。

    ●おちごはん

     「お稚児さん」で神社などが改築などをすると「御稚児行列」が行われることがある。参加すると丈夫になるといわれ、御稚児の格好をした子ども達に着物姿の母親が続く。

     富山では稚児舞(ちごまい)も多く、寺社の境内で舞台を作って奉納することがある。有名なのは下村の加茂神社、婦中町中名の熊野神社、宇奈月町明日の法福寺などの稚児舞である。

    ●落ち着きの膳 

     お嫁さんが仏壇まいりをしたあと、部屋へ落ちつくと出される膳。佐伯安一によれば次のとおり。

     富山市周辺では「座つきの餅」といい、椀に小餅を2つ入れて汁をかけたものを出す。そのあとにご飯が出され、これには上に煮た小豆5、6粒がのせてある。

     上市町白萩では大きな餅を2つ水引でしばり、その上に干いわし2匹と黒豆2粒をのせる。氷見地方でも落ちつきの膳に干いわしと黒豆の煮たのをつける。

     砺波地方では披露宴の膳にネマルガイモチというものをつける。昔は嫁が家に着いたとき臼を持ち出してついたということになっている。「ネマル(座る)+カイモチ(ぼた餅)」で、不格好なくらい大きい。これには嫁が家に居つくようにとの願いが込められている。小豆あんには塩を入れない。この家はくどくない(からくない)という意味だという。

     射水郡小杉町あたりでは嫁入りの翌日に作り、近所へも配る。

    ●おちらし

     「麦焦がし」「はったい」。小さい頃はこれに砂糖をたっぷり入れて水加減をしっかりして、よく食べた。一度、スーパーで見つけたので子ども達に作ったら喜んだが食べなかった。

    ●おちんちん

     「おちんちんかく」といって何をする訳ではない。「正座する」の意味で使う地方が県内に結構ある。関西で「おっちん」などというから、これとの関係があると思われる。 福井でも「おちょきん」というそうだ。「ちょきんと」で「整然としたさま」をいうことがあるから、この辺りから発生した言葉かもしれない。例:「あんた、どっだけおちんちんかけっけ?」(あなたはどれだけの時間、正座できますか)。

    ●(お)ついこ

     「対」から「羽織と着物を同じ柄で対にしたもの」を指す。

    ●おっか〜おかか

     お母さんのこと。反対「おとと」。

    例:「あそこのおっかぁ、なかなかきかん」など。

    ●おっかちゃん

     「お母さん」。

    ●おつくわい〜おつくばい

     僕は使わない。「正座」のこと。真田信治・友定賢治『地方別方言語源辞典』(東京堂出版)では「おつくべー」が山梨・長野・新潟方言として書いてあり、群馬や北陸でも使われるとなっている。語源は「蹲(つくば)う」の名詞形「蹲い」で丁寧の「お」がついて「おくつばい」となったもので、しゃがんで手をつく、謹みかしこまった様子が、正座の意味で使われるようになったという。例:「おつくわいしとって立たれんようになってしもた」(正座で立てなくなった)。

    ●おつけ

     「味噌汁」のことで「御付」は方言ではない。東京には「おおみつけ」という味噌汁の丁寧語がある。例:「このおつけ、う〜んまいわ」。

    ●おっさん〜おっじゃ〜おっちゃん

     「次男」以下で長男を「あんちゃん」ということがある。結婚する時には「おっさん」にも家を建ててあげるのが常なので富山県の持ち家率が日本一になる。例:「あんたぁ、おっさんと結婚したがけ?」「ええっ、夫は25歳ですよ。禿げてるけど…」。

    ●おつゆ

     「味噌汁」。

    ●おっわ

     「おっじゃ」に対して「次女」以下。さすがに僕は使わない。

    ●落っちる

     「落ちる」。例:「なん、落っちてきたかと思たら銭(ぜん)やった」(何が落ちてきたかと思ったらお金だった)。

    ●…おって

     「…おいて」。例:「先に行っとって」(先に行っておいて)。

    ●おっとろしい

     「恐ろしい」。例:「なんちゅー、おっとろしいこと言わっしゃんがけ」(何という恐ろしいことをおっしゃるのですか)。

    ●おっぽ

     「しっぽ」。

    ●おっろう〜おっりょう

     吃驚した時の間投詞。「おっりょう、でっかいこと言うがやね」(何とまあ、大きなことをいうのでしょうか)。

    ●おでん

     おでんを食べないことはないが、おでん屋が多いと思ったことはない。昆布だしが基本で、かつおが基本ではない。食材の中では「ちくわぶ」は食べない。もし使うならはんぺんだ。はんぺんも元はさつま揚げを指していたが、今は白いはんぺんになってきた。今は「しらたき」というが、昔は「糸こんにゃく」だった。牛すじは今は入れるが昔はそんなに入れなかったと思う。

     富山おでんをブランド化する動きもある。普通のおでんにとろろ昆布を乗せたもので、県産の具材を1品以上使うのが条件で、味付けは自由だ。すり身製造販売の「上久」が出している富山おでんの場合は、大根や卵などの定番に、甘エビやシロエビのつみれ、こんにゃく田楽「あんばやし」が入る。だし汁はラーメン店「まるたかや」が作ったもので、とろろ昆布が添えてある。とろろ昆布が入ると汁を吸って、何も残す所がないという合理的なものである。

    ●おてんぱ

     母だけかもしれないが、「おてんば」を「おてんぱ」と思っていたらしい。

    ●音

     全国50カ所以上を回り、出合った音の記憶をまとめた伊藤由貴子の『日本音紀行』(音楽之友社)によれば、富山の音は次のよう。八尾のおわら風の盆、井波の木彫りの音、合掌造りの家のいろりで竹を打ち鳴らす五箇山の筑子。

    ●おといた

     「落とした」。例:「どこにおといたらくもんやら」(どこに落として歩くものか)。

    ●おとぎの森

     高岡おとぎの森公園(佐野新町)。公園ビオトープ「ほたる水路」があり、植樹などでホタルの生育に適した環境を整備した後、ホタルの幼虫やえさになるカワニナを放つ。1996年の全国都市緑化フェアにあわせて造られた。広さ約11ヘクタールで、動植物の生態を学べる「おとぎの森館」のほか、一部がバラ園となったメルヘンガーデン、大型複合遊具などがある。2006年に「ドラえもん」パークにリニューアルとなった。

    ●お屠蘇【とそ】

     元日に飲む祝いの薬酒。小さい頃、年頭に飲む普通のお酒のことだと思っていたが、一年の邪気を払い延命を願って飲む薬酒である。和漢のさまざまな生薬を配合したものを、酒やみりんに浸して飲むのが本来の屠蘇で、年少者から順に飲む。「屠蘇」というのは屠殺(とさつ)された家畜も生き返るというのだから昔はよほど薬効が大きいと考えられたようだ。高岡市御馬出町の清水薬局は元禄元(1688)年創業の老舗である。家伝の処方に従って、15代当主の清水幸次さん夫婦が細々と作っているのが有名。

    ●おととい〜おとつい

     「一昨日」【ATOKでどちらも変換】でどちらも使う。

    ●おとっちゃん

     「お父さん」。

    ●おとと

     お父さんのこと。反対「おかか」。例:「あのおととなぁ、何しとんがねぇ」。

    ●おとましい〜おとまっしい

     「疎ましい」から「惜しい」「もったいない。残念だ」。金沢でも使う。例:「インターネットのこと今まで知らんで、おとまっしいことしたちゃ」。

    ●踊り

     富山の人は踊ることが多いと言われて、本当かなと思う。

     踊りといってもいろいろある。獅子舞も踊りだし、盆踊りに、祭の踊りがある。最近ではYOSAKOIも多い。学校ではおわら節を教えられる。

    ●おとろしい〜おっとろしい

     「おそろしい」「ひどい」。否定表現でも使って「おとろしけない」(意味は同じ「おそろしい」)という。最後を否定にするのは「じゃまない」「せわしない」などがある(共通語だと「切ない」「はしたない」など)。例:「さ、あんた、なんちゅう、おっとろしい目におうとんがいね」(それはそれはあなた、何という、怖い目にあってるんでしょう)。

    ●同じい

     哲学者の西田幾多郎は『続思索と体験・『続思索と体験』以後』で「ただ一つの思想を知るということは、思想というものを知らないというに同じい」という言葉を残しているが、「同じい」というのは北陸の方言が出てしまったのである。石川県生まれだから、同じい方言で育っている。

    ●オナン

     「ウナギ」だそうだが、知らない方言。谷川健一『続 日本の地名』(岩波新書)には「ウナギは仙台や福島ではウナンコ、富山でオナンと呼ばれているが、これによってウナギがウナンとなりウンナンとなる過程をたどることができる」と書いてある。

    ●おにぎり 

     富山では「おむすび」を「おむすび」とは言わず、「おにぎり」という。三角のおにぎりはなくて、昔はみんな丸かった。

    ●御西【おにし】

     方言ではないがよく使う。「西本願寺」「浄土真宗本願寺派」。

    ●おねはんだんご

     「涅槃団子」。釈迦入滅の日とされる旧暦2月(新暦3月)15日には、真言宗や禅宗の寺院を中心に涅槃会(ねはんえ,常楽会=じょうらくえ)が催される。この時撒かれる赤・青・黄・白色などの丸い、米粉で作った団子で魔除けの意味があるという。小さい頃、「あねはんだんご」でお姉さんが作ったと思っていたが、実はおばあさんだった。

     涅槃というのは釈迦(?BC463〜383?)の死を表す言葉として用いられ、仏弟子・諸菩薩・諸天をはじめ鳥獣たちも駆けつけ、その死を悼んだとされる。仏(ぶつ)涅槃図はその様子を絵画化したもので、沙羅双樹の林で頭を北に静かに横たわり、涅槃に入り入滅(にゅうめつ)した釈迦の姿や、周囲に集まって嘆き悲しむ会衆(えしゅう)の様子などが様々に描かれている。涅槃会には涅槃図が掛けられ、「仏遺教経(ぶつゆいきょうぎょう)」(釈迦入滅直前の説法が記されているお経)などが読経され、法要が行なわれる。

     新湊市立町の大楽寺や国宝瑞龍寺などの涅槃会が有名。

     金沢では涅槃会に手まり歳事があった。泉鏡花も『草迷宮』の中で書いており、室生犀星も短編の「涅槃会」の中で、犀星の育った真宗の寺・雨宝院(うほういん)での行事をつぶさに書いている。雪明けの待ちきれない女の子たちが新しくこしらえた手まりを胸に、信玄袋にはみかんやあられをいっぱい詰めて寺に向かったという。

    ●御東【おひがし】

     方言ではないがよく使う。「東本願寺」「浄土真宗大谷派」。

    ●おひつ

     「ご飯のお櫃(ひつ)」。よそう杓文字(しゃもじ)は「はんがい」という。

    ●おひらがす

     「見せびらかす」。

    ●オペラ協会

     富山オペラ協会。2010年に設立された。初代会長はメゾの安念千重子。第1回は「フィガロの結婚」。

    ●おふみ

     浄土真宗の本願寺八世蓮如がその門下に与えた法語や消息を、孫の円如が集めたもの。五帖八〇通。平易な文章で、宗義の拡大に貢献。本願寺派では御文章(ごぶんしょう)、大谷派では御文(おふみ)という。お文様(ふみさま)とも。

    ●おぼたい

     「重たい」。例:「あんたの言葉ちゃ、なんちゅーおぼたいがけ」。

    ●おぼくさん〜おぶくさん

     「御仏供」に尊敬の意の接尾語「さん」または「さま」を付けて生まれた。毎月の命日などに仏壇に供えるご飯。

    ●お盆

     富山では多くの地方でお盆は旧盆である。金沢は新盆。柳田國男の『先祖の話』の中に、お盆も休まずに働く夫婦のもとへ先祖が戻り、もてなしの支度もしていないことに腹を立てて子供を炉に突き落としたという逸話が出てくる。柳田によれば、仏教伝来の以前から日本では、死者の霊ははるか遠くへ行くのでなく、近くの山から子孫を見守っていると考えられてきた。たまに乱暴な先祖がいても、日本人にとって、先祖は身近な存在であったのだ。

     お盆には当然、都会などから多くの人が戻ってくる。昔は国鉄を利用するだけだったが、今は高速道路、飛行機、高速バス(東京や大阪)などがあり、駅に早くから並ばなくてすむようになった。

     13日に「おしょうらい」といって、浜辺や川辺に行き、鉋屑(かんなくず)を付けた1メートルくらいの木の棒に火を付けて「おしょうらい、おしょうらい、おじじもこ、おばばもこ」などと言って先祖を迎える。

    ●おみきすず

     「御神酒錫」で御神酒を入れる(元は錫製の)器。

    ●お光【おみつ】

     黒部川にかかる愛本橋の近くにあった平三郎茶屋のお光という可愛い考行娘が、橋の袂に住む大蛇の化身である侍のもとに嫁ぎ、蛇の子を生んでいるところを親に見られ、持参したちまき(粽)の作り方を残し、黒部川の川底深くへ姿を隠すという悲しい伝説。おおっ!これってハロルド・シェクターの『体内の蛇−−フォークロアと大衆芸術』(リブロポート)の日本版じゃないか。

     ちまきは、両親の老後を案じたお光が姿を消す前に作り方を教えたとされ、地元ではかつて、祭りに合わせて各家庭で作られていた。1970年頃から売られていたが、87年に住民が「ちまき生産組合」を設立。本格的に生産、販売している。ちまきは伝説にちなみ、だんごが蛇のうろこをかたどっているのが特徴。ササの香りが染みこんだ素朴な味が、祭りの名物となっている。

     お光を祭る愛本姫社(「あいもとひめしゃ」宇奈月町下立地区)のご神体は江戸時代後期の浮世絵師、池田英泉の描いた「花魁」(おいらん)の版画である。この絵はヨーロッパに渡り、1886年5月号『パリ・イリュストレ誌』の表紙に掲載された英泉の絵をゴッホが模写した。その表紙の写真が逆版になっていたために、ゴッホの絵もまた左右を逆に描いた。

     愛本姫社ではお光と若侍の婚礼を再現した行列「愛本姫社祭り」が行われる。

    ●おみやかし(りょう)

     「おみこし」が「御御輿」なのと同じように「御御灯料」で「おみあかしりょう」が訛って「おみやかし(りょう)」である。つまり、蝋燭代ということになる。

    ●おもしい

     「面白い」で富山では多用。「おかしい」という悪い意味でも稀に使う。例:「何ちゅー、おもっしーこと、言う人やね」(何と面白いことをいう愉快な人だね・変なことをいう嫌な人だね)・「何ちゅー、おもしー奴いね」(何というおかしな人だろうか)。

    ●おやき

     「今川焼き」。神田の今川で生まれたのが語源。大阪の人は「太鼓饅頭」ともいうようだ。

    ●親不知【おやしらず】

       「晩春の日に」    田中冬二(『春』1961年)

    太平洋の沿岸は 朧夜であるのに
    日本海岸は 未だ吹雪が荒れてゐる
    梶屋敷  能生  糸魚川  青海  親不知  市振  泊  入善
    生地  三日市と吹雪は荒れてゐる

     北陸線の駅名を並べただけで寂しさが漂ってくる。寺山修司がこの詩を知っていたか分からないが、「大工町寺町米町仏町老婆買ふ町あらずやつばめよ」というのがある。

     平頼盛の夫人が夫を慕って愛児と共にこの難所に差し掛かったが、その愛児が波にさらわれて帰らぬ人となり、深い悲しみの中で「親しらず 子はこの浦の波枕 越路の磯の あわと消えゆく」という歌を詠み、以来この難所を親不知・子不知と呼ばれるようになった。

     鴎外の『山椒大夫』で安寿と厨子王の母親が人買いに騙されて二人と別れることになるのは、親不知で難所を避けようという舟便の誘いに乗ったためである。

     西頸城(にしくびき)郡青海(おうみ)町市振(いちぶり)から青海駅まで約15キロの海岸景勝地北陸道最大の難所。親不知の語源は波間に進んでいくので、親のことも子のことも忘れて走るために「親不知子不知」となった。地名は平安時代の末にここを通りかかった女性が我が子を激浪にさらわれ、その悲嘆を「親知らず子はこの浦の浪枕越路の磯の泡と消え行く」と詠んだことに由来しているといわれる。

     浄土崖(じょうどくずれ)、大穴など隠れ穴洞窟遺跡も残る。

    「北陸にて」    田中冬二

    北陸線の
    能生 梶屋敷 糸魚川 青海 親不知 市振 泊 入善
    みんな何といふさびしい名であらう
    能生は海に沿うた細長い そして魚くさい町だ
    魚問屋の土間をとほして 青い海が見える
    丁度スクリーンいっぱいのように
    その青い波の上を 低くとんでゐる白い海鳥
    板屋根の古い宿屋があって
    昼は海に向かった方の雨戸を 半閉ざしてゐる
    そんな昼を心太の水もぬるむような昼を
    按摩が笛を吹いて歩いてゐる
    能生 梶屋敷 糸魚川 青海 親不知 市振 泊 入善
    みんな何といふさびしい名であらう

     中野重治は「しらなみ」という詩で「…ああ 越後のくに 親しらず市振の海岸/ひるがえる白浪のひまに/旅の心はひえびえとしめりをおびてくるのだ」と親不知を詠っている。また、深田久弥もエッセー「親不知・子不知」でこの詩を引用している。

     歯の親不知はもちろん、親がいなくなった頃に生えてくるからである。英語では“wisdom tooth”というが、知恵が出てきてようやく生えるからである。僕は今も知恵がないが、親不知で死ぬ思いをしたことがある。

       「親不知」 田中冬二

       暗い北国の海
       オリオン星座は
       烏賊を釣ってゐる

     冬の暗い海上に、星の光と見間違えるほどの烏賊釣り舟の漁火が見えるが、まるでオリオン座が釣っているように見えるという話だ。当時はアセチレン・ランプを使っていたが、電球からLEDに変化して昔のような風情がなくなってきた。

     山本一力『かんじき飛脚』の「二四」では次のように描かれている。

     親不知、子不知は、越中と越後の国境に立ちはだかる難所である。
     切り立った山は、わずかな隙間すら拵えずに海に落ち込んでいる。旅人がここを越えるには、襲いかかる波を案じつつ、海辺に造られたわずか一間幅もない細道を走り抜けるしかないのだ。
     屹立する山の崖には、杣人(木樵)や猟師が行き来する、けもの道はあった。しかし旅人のみならず、走りの玄人の飛脚ですら、この道を行くことはできなかった。
     崖を縫うようにして造られたけもの道は、幅が一尺(約三十センチ)ほどしかない。その崖道に向かって、強い海風が吹きつけるのだ。
     のみならず、ときには高い山から海に向かって突風が吹きおろすこともある。
     風に吹かれた身体がよろけても、掴む木はないし、綱も張られてはいない。
     そのうえさらに、冬場のけもの道は固く凍りついている。たとえ雪が積もっていなくても、凍った道は歩く者の足元をすくおうとして、牙を隠して待ち構えていた。
     足を滑らせたり、風にあおられて体勢を崩したりすれば、荒磯の海に落下する。けもの道から海面までは、高さがおよそ二十丈(約六十メートル)もあった。
     滑り落ちる途中の岩に運良くぶつからずにすんだとしても、落ちた先の海辺には砂も玉砂利もない。
     先の尖った岩が群れになった、怒濤の砕け散る岩場である。
    「命が惜しかったら、山はやめたほうがええ」
     村人が止めるのを振り切り、難儀を承知で、けもの道を通ろうとした者は数知れずいた。
    「あの崖さえ越えれば、岩が風除けになってくれるでよ」
     崖道を一歩ずつ歩く旅人を、村人たちは無事の通過を祈りながら見上げた。が、真冬の風の吹き方は、地元の者にも見当がつかなかった。
    「あっ……」
     息を呑み込んだ村人には、なすすべがなかった。足を滑らせて海に落ちた者で、命の助かった者はひとりもいなかった。
     怪我をせず、無事に荷物と書状を届けること。これが飛脚に課せられた使命である。速さよりも、無事で確かなことが肝要なのだ。
     ゆえに親不知・子不知を通過するにおいては、波が荒くて通行を止められたとしても、けもの道を行くことは論外であった。
     三度飛脚は、どれほど先を急いでいるときでも、海沿いの細道だけを使った。
     魚津を発って十里のあたりで、親不知海岸に差しかかる。
     難所の始まりは、小穴である。
     山が海岸に落ち込んだ裾に、幅およそ一間の道が拵えられている。小穴とは、波が押し寄せたときに身を隠す、小さい穴があることから名づけられた。
     小穴から四半町(約二十七メートル)先には、大穴がある。その名の通り、ひとが二十人は隠れていられる大きな穴である。
     海は細道のわずか三尺(約九十センチ)下まで迫っている。強風に煽られた波は、やすやすと岸辺を越えてひとにしぶきを浴びせかけた。
     旅人は波の様子を見定めて、細道を走った。駆けている途中で波が押し寄せると、大穴に身を隠して波をやり過ごした。
     難所はこの先に待ち構えていた。
     大穴から次の大懐までは、およそ四分の三町(約八十二メートル)である。この間には、身を隠す穴も、しがみつく岩もなにひとつない。
    『長走り』と呼ばれる最大の難所で、旅人が波にさらわれるのは、ほとんどがこの長走りだった。

    ●雄山丸【おやままる】

     有磯高校の教育実習船。南太平洋などで漁業の実習を行う。県が保有。

    ●おゆるっしゅ

     別れに「おゆるっしゅ」というのは「(さようなら、後は)よろしくお願いします」という意味。石川でも使う(島田昌彦『加賀城下町の言葉』能登出版など)。

    ●おら

     女性でも自分を指して「おら」という人がいる。今の感覚からすると不思議かも知れないが、「わたし」というのは明治の近代化の際に生まれた「標準語」でそうなっただけだ。日本の女性は「おら」とか「おれ」といって憚らなかったのである。「まろ」というのも男女の区別なく貴族によって使われていた。女性思想家の福田英子(ひでこ)は書き言葉で「妾(「わらわ」または「しょう」)」を使い、公式な文章では「儂(「わし」ではなく「のう」とか「われ」と読ませた)と書いていた。

    ●おらっちゃ

     「俺たち」。「おらっちゃらっちゃ」ともいう。富山市で「ミス・おらっちゃまつり」というのがあったが、名前が悪くて応募者が少なくて廃止になった。

    ●おらはる

     「おいでになる」。例:(玄関で)「おらはっけ?」(いらっしゃいますか?)。

    ●オランダ焼き

     新湊の魚間というお店の名産で舟のスクリューを模したという、おおきなせんべい。小麦粉と砂糖、そして卵をたっぷり使い、乾燥させたもの。ワッフルを堅く焼いたものと考えればいい。

    ●お鈴(おりん)

     地場産業の銅器の仏具。高岡駅では2005年3月から構内に「お鈴」の澄んだ余韻のある調べが流れるようになった。発車音は電子合成音の機械的なメロディーで特徴に乏しかったが、銅仏具メーカー「山口久乗(きゅうじょう)」が銅の厚みを変えて作ることで、お鈴一つ一つの音色を違え、音階を奏でられるように工夫した。雅楽演奏家に作曲してもらい、15秒の雅楽調の曲にした。

     JR西日本金沢支社によると、管内の北陸線は列車集中制御装置(CTC)で管理、駅の発着音も同一曲にプログラムされている。90年に金沢駅が高架駅開業を記念して「旅情豊かな琴の音」になって以来の管内2駅目の独自発車音となった。6月から万葉線の高岡駅もお鈴で出発するようになった。

    ●おる

     「居る」。「おらはる」は「おいでになる」。例:「あんたぁ、いい人でもおらはっがけ」(あなた、いい人でもおいでになるのですか)・「今、どこにおんがけ?」(今どこにいるのですか?)。

    ●オルビス

     駅前マリエにあるホール。「球形」という意味。

    ●おろー

     「ええっ」。例:「おろー、あんた、おっかしなこと言う人やね」(ええっ、あなたはおかしなことを言う人ですね)。

    ●颪【おろし】

     「おろし」は山の斜面を吹きおりてくる強風。富山では山の名をつけて、呉西で井波の「八乙女おろし」や福光の「医王(山)おろし」、高岡の「二上おろし」があり、呉東で「立山おろし」や剣御前から雷鳥沢へ吹きおりる「御前おろし」などがある。

    ●大蛇(オロチ)

     国内10番目の自動車メーカーとして知られる富山市の光岡自動車の2006年に出した新型車の名前。命名の元になった神話のヤマタノオロチは悪の象徴で娘を食らいスサノオノミコトに八つの首を落とされて退治される化け物。商品名としてはふさわしくない。日本書紀にも出てくる有名な神話だが、それまで誰も気にとめていなかったという。古事記では「高志之八俣遠呂智」と呼ばれ、出自を「高志(こし)」とする説を知った。「高志」は「越」に通じる。つまり富山を挟み新潟から福井にかけての地域ということで、命名に踏み切ることにした。同年10月に1050万で400台の限定生産で、07年1月以降に納車する。エンジンは排気量3.3リットルで、トヨタ自動車から供給を受ける。

    ●おろろ

     五箇山などに生息する比較的小型のアブのような虫で正確にはイヨシロオビアブ(Tabanus iyoensis)。集団で刺すことがあって危険でさえある。

     全然違うが、荻原浩に『オロロ畑でつかまえて』という小説がある。わずか300人。主な産物はカンピョウ・ヘラチョンペ・オロロ豆。 超過疎化にあえぐ日本の秘境・大牛郡牛穴村が、村の起死回生を賭けて立ちあがる。ところが手を組んだ相手は倒産寸前の プロダクション・ユニバーサル広告社。この最弱タッグによるやぶれかぶれの村おこし大作戦『牛穴村 新発売キャンペーン』が始まるのだが…。

    ●おわ

     「おれ」。「おわっちゃ」で「おれたち」。

    ●おわはん

     「おばさん」。

    ●おわら節

     八尾の「風の盆」で歌い踊られる曲で「越中おわら節」。「おわら節」「麦屋節」「こきりこ」が富山の三大民謡と呼ばれる。「おわら節」は青森の「津軽あいや」から鹿児島の「はんや節」まで全国に存在する。出稼ぎ者が地方から持ち帰った「はいや節」が変化したものといわれている。特に「佐渡おけさ」とは類似点が多い。「唄い手」「囃子方」「太鼓」「三味線」「胡弓」のそれぞれがおわら節独特のハーモニーを奏でて「踊り手」はそれに合わせ町中を踊り歩く。元禄の頃、生活の中から見いだした喜びを面白おかしく表現しながら、町を練り歩いたことが町流しの始まりという。昔のレコードを聞くと鼓(つづみ)が入っていて、御座敷芸だったことが分かる。

     口伝として、1702(元禄15)年、八尾町の開祖米屋少兵衛の子孫が保管していた「町建御墨付(まちだておすみつき)」を町開祖の家から取り戻した祝いに、3日間、唄、舞、音曲で町内を練り歩いたのが始まりとされ、この祭日3日が盂蘭盆(うらぼん)3日になり、やがて、二百十日の厄日に豊饒を祈る「風の盆」に変わったともいわれている。

     1813(文久9)年、八尾の遊芸の名手らが当時の庶民生活の実態をそのまま露骨に唄ったものから歌詞を改め、新しい詞の間に「おおわらい(大笑い)」の言葉を挟んで踊った。これが、おわらの語源になっているという。また、農作物の収穫の時期に豊年を祈るおおわら(大藁)節とも八尾町の旧小原村発祥など諸説がある。本当のことは何も分かっていない。

     胡弓との出会いがおわらの哀切さを増した。胡弓の歴史は江戸時代に始まるが、日本人はあまりなじめなかったらしく、邦楽の三曲合奏で箏、三味線と一緒に演奏された以外、ほとんど広がらなかった。それが、明治末か大正期かに越中おわらに入った。音楽学者の小島美子は「富山の人の音に対する独特の感性」と言っている。

     胡弓を八尾に導入したのは松本勘玄といわれる。明治12年に生まれ、昭和24年に亡くなった。輪島で生まれて漆職人をしていたが、大阪で浄瑠璃の修業をし、明治末期、八尾のおわらに胡弓を導入したとされてきた。戸籍関係書類書類には幼少のころ、同町上新町の家に養子に入り、その後、断絶していた松本家を再興したとの記録があった。養子に入った家の女性が輪島に嫁いでいることや、越中と能登から引用したと思われる「越登軒(えっとうけん)」の芸名を使用していることから、文化協会関係者は「輪島が出身地かどうかはっきりしないが、何らかの縁があった」とみていた。2004年の調査によれば、輪島市の戸籍関係書類に松本勘玄が同市出身と裏付ける記述がないことが分かった。

     「越中おわら中興の祖」とたたえられるのは川崎順二。昭和2、3年頃は「おわらの町流しは風紀が悪い」と、警察の規制が厳しかったために川崎たちは隠れておわら流しをした。4年に川崎が中心になって「越中八尾民謡おわら保存会」を結成、戦後「富山県民謡おわら保存会」と改称した。

     糸くり唄や海唄などの諸説があり、越中おわら節のルーツの定説はない。北九州市平戸島の田助港で発祥した「はいや節」が原型だとも言われている。「はいや節」は日本海をめぐる北前船の船乗りによって越中に伝えられ、時代とともに変化しておわら節となったと考えられる。北前船の寄港地は北海道の江差、青森の深浦、秋田の土崎、新潟の佐渡小木、島根の浜田などがあるが、どこにも「はいや節」や「追分」の変化した歌が歌い継がれている。

     「おわら、おはら」というのが歌われる歌には「津軽小原節」(…一度来てみようオワラー四方【よも】の君)、「秋田小原節」(…思えば涙が小原先に立つ)、「山形の盆踊り歌」(山で赤いのは蜜柑か柚子か/稲荷山のヲハラ鳥居か…)、「会津磐梯山」(…小原庄助さんなんで身上つぶした…)、「丹波節」(オーワラオワラヤ…)、「隠岐おわら節(届けや届け末まで届け/末はナー鶴亀ナーオワラ五葉の松…)、「鹿児島小原節」(花は霧島煙草は国分/萌えて上がるはオハラハー桜島…)などがある。どうして「会津磐梯山」に「小原庄助」という個人名が出てくるのか、小さい頃から不思議だったが、「おわら」の変形なのだ。

     北原白秋の「赤い鳥 小鳥 なぜなぜ赤い 赤い実をたべた」などで有名な大正時代の『赤い鳥』運動に共感した八尾の青年の「童謡おわら」が登場したこともある。「可愛い鳥だよ鶫の鳥は柿をつついてオワラ紅つけた 小谷契月」。

     技量の向上を図るために「おわら温習会」というのが開かれて文化の継承をしている。富山県民の多くは中高の授業で踊りを教わっているために踊れる。

     2002年にNHK富山の「富山文化探検」に古いレコードを発掘・復刻したCDを出した柴田力弥さんを迎えておわらの話を聞いた。下の記事で出てくる本を見せてもらったが、翁久允全集の第1巻に「幻」だとされた本である。

     八尾町青根の江戸風俗研究家、柴田力弥さん(49)が、明治四十三年刊行の「当世流行小原ぶし」と題した歌本を見つけた。今では歌われることのないユーモアあふれる歌詞約百二十首が掲載されており、「おわら節の起源が『お笑い節』から変化したという説を裏付ける資料の一つではないか」とみている。

     今月初め、京都市東寺の骨とう市で発見した歌本は、二十八ページで手のひらサイズ。著者は富山市総曲輪の田村信憲、販売所は八尾町東町の松本六兵衛とあり、明治後期に八尾町のお座敷や各所で歌われた歌詞を拾い集めたとみられる。

     「内の亭主と炬燵(こたつ)の柱なくてならぬがあるが邪魔」「油減るとて宵(よ)いから寝たら米の高いに子ができた」「人は嫁取るまた婿を取る私(わた)しや軒端で虱(しらみ)取る」など色恋ざたを題材にしたウイットとユーモアあふれる歌詞が目に付く。

     おわらの起源については、文化九年(一八一三)、八尾の遊芸の名手らが「お笑い節」を作り、さまざまな装いで歌い回ったものが現代のおわらに変化したという説や、豊作を祈る大藁(おおわら)節、八尾町の旧小原村発祥など諸説さまざま。だが、今回の発見で「おわらのルーツは前者の説が強いのでは」と分析する。

     明治以前のおわらの資料が見つかるのは珍しい。柴田さんは「掲載される歌のほとんどが、時代の移り変わりで消えてしまった。現在のように洗練されていないが、どの歌からも当時の庶民の生活感や息遣いが伝わってくる」と話している。【2001年5月31日北日本新聞】

     2002年の市川準監督映画『竜馬と妻と夫とその愛人』におわら節が唄われていたのが不思議だった。梅津栄も出ていたこの映画は竜馬の十三回忌を前に、かつて同志だった政府の役人・菅野覚兵衛(中井貴一)が、竜馬の妻・おりょう(鈴木京香)を訪ねる。おりょうは、貧しい大道商人・西村松兵衛(木梨憲武)と再婚しながら、竜馬そっくりの愛人・虎蔵(江口洋介)との駆け落ちを企てていた。その噂を聞いた同志たちは、竜馬の名を汚すおりょうを斬れと、菅野に命令するのだが…。おりょうが横須賀で亡くなったことも確かだが、松兵衛は架空の人物。

     なお、八尾町の県民謡おわら保存会は「おわら風の盆」の県指定無形民俗文化財選定を断っている。観光客が大幅に増え、「風の盆」の改革が求められる中、文化財指定が将来の足かせになると判断したからだ。

    ●おんこ

     「うんこ」。富山県の人は「温故知新」という言葉が苦手で新しいものばかり欲しがる。

    ●温泉百選

     富山では大牧温泉、黒部渓谷温泉郷、宇奈月温泉の三つが入っている。茨城、埼玉、東京、千葉、滋賀、広島、香川、高知、沖縄からは選ばれていない。

    ●恩田陸【おんだりく】

     1964年宮城県生まれ。父の転勤で小学2年から5年生まで富山市で過ごし、富山市五番町小学校(現星井町五番町小)に通った。幼少期を振り返り「(父親の転勤に伴う)引っ越し続きで、子どものころから常にパッセンジャーという意識があった。こういった体験が(作品の中で)人物描写などに生きていると思う」と話している。「雪の匂いやするめを焼く匂いをかぐ度に、かつて自分が住んでいた、現実と空想が一体になったもう一つの国が懐かしく蘇る」と、「静かで濃密な」富山での記憶を振り返っている。『夜のピクニック』で吉川英治文学賞。『ユージニア』は北陸の都市を舞台にしたミステリー小説で作品に漂う空気は富山での生活体験をうかがわせる。

    ●おんづろこんづろ→さぎっちょ

     黒部市宇奈月町下立地区の下立神社で行われる左義長。住民が無病息災や五穀豊穣を祈るもので江戸時代から伝わる。書き初めが燃やされて舞い上がる様子を「大ヅル」「小ヅル」が飛ぶ姿に見立てたのが「おんづろこんづろ」の由来。高く上がるほど、書道の腕前も上がるとされる。

     青竹を組み、わらを詰めて高さ6メートルのやぐらを作る。住民は書き初めや正月飾りをやぐらに入れ、本殿の「ご神火(しんか)」をたいまつに移し、やぐらに点火。竹がはじける音とともに、書き初めが燃えながら舞う様子を見守った。火勢が収まると、住民はやぐらに近づき、もちを棒先の針金につるして焼く。このもちを食べると、一年間を健康に過ごすことができるという。

    ●おんばさま

     姥尊(うばそん)の通称。立山の芦峅寺では、全国でもここにしかないとされる、醜悪な老婆の姿をした異形の神が崇拝されている。この姥尊は大日如来の化身、立山権現の母神などとされ、芦峅寺における諸行事の中核的存在であり、とりわけ女性を救済する神として多くの女性から崇拝されていた。その理由は、芦峅寺最大の年中行事である「布橋灌頂会(ぬのばしかんじょうえ)」が、この姥尊を拝して女性が往生を願うという内容のものであり、全国各地から多くの女性信者を集めたからだった。

    ●おんぼ

     「おんぶ」。

    ●おんみゃ

     「お宮」。「おんみゃまいり」は「お宮参り」。

    ●おんみゃかし

     お宮とは関係なく寺などへの「賽銭」でおばあちゃんたちがよく賽銭を集めに回っている。「お燈火銭(おみあかしせん)」から。

    ●オンリー湾

     2003年12月から行った富山県PRのキャンペーンのコピー。僕だったら、「富山・オンリー湾」としたかもしれない。富山湾の定置網からナスカの地上絵を連想させるポスターになっている。

    富山湾


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