富山大学教育学部の2003年の入試問題に『義経記』から「如意の渡」が出た。「如意の渡」というのは現在、伏木駅の近くにあって、小矢部川を渡って新湊とつなぐ渡しのことである。地元にメチャメチャ有利な試験だと思うが、これを2003年4月23日の「とやま夢航海」「富山文化探検」で取り上げた。その時の資料として作ったもの。
異説も取り上げるつもりだったが、何しろ『勧進帳』も知らない人が視聴者にはいそうなので、非常に簡単な紹介で終わった。
なお、『勧進帳』は一幕なので、よく歌舞伎座で上演されるし、「一幕見」(天上桟敷)で簡単に楽しめるので、上京の時は是非、歌舞伎座の予定をチェックしていってみてください。
室町時代の軍記物語『義経記』(「ぎけいき」で『判官(ほうがん)物語』『義経(よしつね)物語』ともいう)に文治3年(1187年)春、源義経主従が北陸道(ほくろくどう)を平泉の藤原秀衡(ひでひら)を頼って奥州へと逃げる途中、伏木にある如意の渡しに来たとの伝承がある。渡守平権守(わたしもりへいごんのかみ)に「判官殿だ」と怪しまれるが、弁慶が「加賀の白山より連れてきた御坊だ」と言って、嫌疑をはらすために扇で義経を打ちのめすという機転で切り抜け、無事に乗船できたという一節がある。伏木の矢田八幡宮境内に「如意渡趾」の石碑がある。小矢部川河口の現在の渡船場近くには、弁慶が義経を扇子で打ち付けている場面の銅像も立っている。古来、射水川(小矢部川)河口の渡し場をそう呼んできた。
『義経記』の記述を注意深く読めば、倶利伽羅山麓の蓮沼(小矢部市)あたりの船着き場が相当し、一行はそこから下って六渡寺(高岡市中伏木)に至ったのではないか、といわれる。能坂利雄『北陸史23の謎』(新人物往来社1985年)などに考察があるが、『義経記』自体、『平家物語』の後段として作られ、百年以上も経過して書かれていて、どこまで史実に基づいているのか怪しい。
もちろん、これは謡曲『安宅』や「歌舞伎十八番」の『勧進帳』(能の『安宅』の詞章をもとに、能の舞台と演出を写し、長唄を地にした新形式の演劇を創造したもの)になっていて、舞台は石川県小松の安宅(あたか)の関になっている。
『義経記』でも安宅が出てくるが、こちらには富樫介(とがしのすけ)というお金持ちのところに弁慶ひとりが押し掛けていって、寄進をしてもらう、という話になっていて、身分が発覚しそうな話は「如意の渡」の方でしか出てこない。
渡辺保『勧進帳 日本人論の原像』(ちくま新書)は『勧進帳』のルーツは『義経記』の次の三つだという。
1)「三の口の関通り給ふ事」…愛発(あらち)の関の話
2)「平泉寺御見物の事」…義経の正体を見破る井上左衛門が『勧進帳』の富樫の原型で、「富樫」自身は『義経記』の「如意」の前の安宅の事件で富樫介(とがしのすけ)として出てくるが、寄進をする富豪であって関守ではない。
3)「如意の渡にて義経を弁慶打ち奉る事」…「能の『安宅』も歌舞伎の『勧進帳』も、これを原作としていることは疑いない」(渡辺)。
能の『安宅』は四番目物で『義経記』などに拠ったものだと考えられている。関守の富樫(ワキ)と弁慶一行(シテとツレ大勢)との力の激突の演出に能の主張がある。『安宅』では12人近くの山伏が登場。義経を子方(子役)とするのも能の演出である。偽山伏となって奥州へ下る義経主従を捕らえるための新関が設けられ、義経は荷物持ちに身をやつす。関守の阻止、祈祷による威嚇、白紙の勧進帳(東大寺再建のための寄付集めの趣意書)の読み上げ、主君を金剛杖で打つ弁慶の苦しみなど、緊密な構成と集団による能舞台の活用のみごとさで劇的な現在能の大作だ。
歌舞伎の『勧進帳』は時代物で一幕である。3世並木五瓶(ごへい)作。1840年(天保11)3月、江戸・河原崎(かわらさき)座で7世市川団十郎(当時は海老蔵(えびぞう)と改名)の弁慶、2世市川九蔵(くぞう)(後の6世団蔵)の富樫、8世団十郎の義経で初演された。長唄の作曲は4世杵屋六三郎(きねやろくさぶろう)(後の六翁)、振付けは4世西川扇蔵(せんぞう)。歌舞伎では伴の山伏を四天王とし、いっそうの様式化を果たした。なお、今の幸四郎の祖父であった7代目幸四郎は、弁慶役者として有名だったが、昭和になってから1度だけ山伏を10人にした(後に6人にしたこともあった)という。また、歌舞伎の一大特色である女形も出てこないし、仇も出てこない。7世団十郎が市川家の家の芸「歌舞伎十八番」制定にあたって、その一つとして初世の演じた題材を借り、能の『安宅(あたか)』の詞章をもとに、能の舞台と演出を写し、長唄を地にした新形式の演劇を創造したもの。いわゆる「松羽目物(まつばめもの)」の先駆である。
渡辺保『勧進帳 日本人論の原像』に『勧進帳』の全19段に渡る細かな分析があり、次のようにいう。
「勧進帳」が現代の私たちにもっている意味は、要約すれば三点にあると私は思う。
第一に、これは、弁慶、富樫、義経という三人の男たちの戦いのドラマである。それを通して男たちの生き方、男たちの性格、人生があらわれ、ひいてはそこに人間の生き方の原型を見ることができる。
第二に、すでにふれた通り、長唄が名曲であるばかりでなく、ここには音楽的舞踊的な官能がしたたるようにふくまれている。何回見ても何回聞いても、人々がこの作品にひかれるのは、その度にワクワクする官能の喜びを味わうからである。そこに私たちは歌舞伎の、音楽や舞踊をふくめた感覚の凝縮をみることができる。
第三に、以上の二点を綜合すると「勧進帳」のなかには人間的にも感覚的にもきわめて直接的なかたちで「日本」の感覚がひそんでいるということがいえるだろう。伝説から幸若舞あるいは、能、古浄瑠璃、人形浄瑠璃、歌舞伎を経て、「勧進帳」に至る人間の生き方とその感覚的なものは、日本的な一つの伝統をつくっている。そこに私たちは、単に個人の生き方、感覚を見るばかりでなく、日本人の生き方、日本人の感覚を見るだろう。
そして、渡辺は弁慶を一匹狼の自営業者、富樫を官僚の典型、義経を落魄のサラリーマンだと決めつけている。
また、藤原成一『「弁慶」―英雄づくりの心性史―』(法藏館)では江戸時代に『勧進帳』ができた時代背景を考察している。
□ なお、黒澤明監督で大河内伝次郎、志村喬、エノケン(榎本健一)が出た映画に『虎の尾を踏む男達』(1945年)という映画があり、題名は『勧進帳』の幕切れ近くの長唄の詞章「虎の尾を踏み、毒蛇の口をのがれたる心地して、陸奥の国へぞ下りける」に依ったもので、危険を犯すこととその危険を逃れることを指す。エノケンは伝説にはない強力を演じて、観客を代表していた。また、その前に『勧進帳 安宅の関』(1923年牧野省三・沼田紅緑監督)という作品もある(見てない)。
『義経記』と『勧進帳』の違いは次のようである。特に弁慶の姿に感動して通すところはドラマとしての完成度が高い。
1.渡しと関所(渡し守と関守)
2.知らずに通したのと弁慶の葛藤に感動して通した
3.扇と金剛杖
つまり、如意の渡しの素朴な話がよりドラマチックに仕立てあげられたのが、能や歌舞伎なのだ。だから、舞台が富山だったかどうかは怪しいが、僕は勝手に富山だと思っている。
能の作者は観世信光とも伝えられており、信光は室町末期の能役者、能作者で、『紅葉狩(もみじがり)』『船弁慶(ふなべんけい)』『羅生門(らしょうもん)』『張良(ちょうりょう)』などが歌舞伎に移行されたし、『鐘巻(かねまき)』(『道成寺』の原作)も彼の作とされる。室町末期には越中よりも加賀の方が観客に分かりやすかったのではないだろうか?
もちろん、こうした義経伝説は各地に見られ、富山県内でも雨晴(「東下り」の途上、にわか雨に遭った源義経一行が、雨宿りをして晴れるのを待ったという義経岩が今も残されている、『義経記』には出てこない。つまり、別の伝説なのである。滑川の高月には、上市川の渡し賃代わりに義経から与えられた冠をかぶった船頭らが白癬にかかったという「四十八カンパ」の伝説もある。これも事実とはいいがたい。
義経伝説も全国にあるが、何よりも武蔵坊(むさしぼう)弁慶という存在があったのかどうかも分からない。東北を旅行したときにあちこちに弁慶伝説があるのに驚いたが、富山でももちろんある。弁慶の名は『吾妻鏡』文治元年(1185)11月3日と6日の条に、源頼朝の追討を避けて京都を落ちる源行家(ゆきいえ)・義経の従者の1人に「弁慶法師」「武蔵房弁慶」とみえる他、『平家物語』『源平盛衰記』などに名があるが、その生涯は明らかでない。『義経記』などでは、熊野の別当(べっとう)の子で、鬼若と名づけられ、比叡(ひえい)山の西塔(さいとう)で修行した。山を抜け出してのち播磨(はりま)国の書写(しょしゃ)山(兵庫県姫路市)を焼く。洛中(らくちゅう)に出て他人の太刀(たち)を奪い取り、1000本目に義経の太刀をねらったが果たせず、義経と君臣の契約を結び、従ったことになっているのだが…。
また、富山には井口村に義経が泊まって、十月十日で子どもが生まれ、その子は美人だったという伝説がある。
富山に義経伝説が多いことは富山出身で角川書店の創業者・角川源義が明らかにした。晩年の『語り物文芸の発生』の中の「『義経記』の成立」は義経の北国落ちのコースが熊野の修験者や時衆(じしゅう)がたどった道筋であり、義経の伝記がまとまるのは室町期になってからであるとしている。
富山が舞台と考える理由は次のとおり。
1.何よりも『義経記』に出ている。
2.勧進帳というのは立山信仰の「檀那帳」に相当して、これは売薬さんの「懸場帳」に発展していくと考えられる。
3.決着は既についていた。2000年に甲子園で如意の渡(新湊)と安宅(小松)が戦って、大逆転の末、新湊高校が小松を破った。このドラマティックな戦いはまさに『勧進帳』を象徴している。
小松高校戦1999年8月10日1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 計 新湊 0 0 0 0 0 0 0 0 5 0 4 9 小松 1 2 0 0 0 0 0 2 0 0 0 5 とまあ、たいした理由はないのだ(そして、当然、放送ではボツになった)。史実はどうか分からないが、『勧進帳』の物語のルーツは『義経記』の「如意の渡」にあることは間違いない。
巻七 如意の渡にて義経を弁慶打ち奉る事
夜も明けければ、如意の城を舟に召して、渡をせんとし給ふに、渡守をば平権守とぞ申しける。彼が申しけるは、「暫く、申すべき事候。是は越中【の】守護近き所にて候へば、予て仰せ蒙りて候ひし間、山伏五人三人は云ふに及ばず、十人にならば、所へ仔細を申さで渡したらんは、僻事(ひがこと)ぞと仰せつけられて候。既に十七八人御渡り候へば、怪しく思ひ参らせ候。守護へ其様を申し候うて渡し参らせん」と申しければ、武蔵坊是を聞きて、妬げに思ひて、「や殿、さりとも此北陸道に、羽黒の讃岐坊を見知らぬ者やあるべき」と申しければ、中乗に乗りたる男、弁慶をつくづくと見て、「実に実に見参らせたる様に候。一昨年も一昨々年も、上下向毎に御幣とて申し下し給はりし御坊や」と申しければ、弁慶嬉しさに、「あ【目よく】、よく見られたり見られたり」とぞ申しける。
権守申しけるは、「小賢しき男の言ひ様かな。見知り奉りたらば、和男が計らひに渡し奉れ」と申しければ、弁慶是を聞きて、「抑も此中にこそ九郎判官(はうぐわん)よと、名を指して宣へ」と申しければ、「あの舳に村千鳥の摺の衣召したるこそ怪しく思ひ奉れ」と申しければ、弁慶、「あれは加賀の白山より連れたりし御坊なり。あの御坊故に所々にて、人々に怪しめらるるこそ詮なけれ」と言ひけれども、返事もせで打【空】俯きて居給ひたり。弁慶腹立ちたる姿になりて、走り寄りて舟端を踏まへて、御腕(かひな)を掴(つか)んで肩に引懸(ひっか)けて、濱に走り上り、砂(いさご)の上にがはと投げ捨てて、腰なる扇抜き出(いだ)し、痛はしげもなく続け打ちに散々にぞ打ちたりける。見る人目も当てられざりけり。北の方は余りの御心憂さに、声を立てても悲しむばかりに思召しけれども、流石(さすが)人目の繁ければ、さらぬ様にておはしけり。
平権守是を見て、「すべて羽黒の山伏程、情(なさけ)なき者はなかりけり。判官にてはなしと仰せらるれば、さてこそ候はんずるに、あれ程に痛はしく情なく打ち給へるこそ心憂けれ。詮ずる所、是は某(それがし)が打ち参らせたる杖にてこそ候へ。斯かる御痛はしき事こそ候はね、是に召し候へ」とて、舟をさし寄する。橄取(かんどり)乗せ奉りて申しけるは、「さらば早舟賃(ふなちん)なして越し給へ」と言へば、「何時(いつ)の習(ならひ)に羽黒山伏の舟賃なしけるぞ」と言ひければ、「日来(ひごろ)取りたる事はなけれども、御坊の余りに放逸(はういつ)におはすれば、取つてこそ渡さんずれ。疾(と)く舟賃なし給へ」とて舟を渡さず。
弁慶、「和殿(わどの)斯【が】様に我等に当らば、出羽國へ一年二年の内に来(きた)らぬ事はよもあらじ。酒田の湊(みなと)は此少人(せうじん)の父酒田次郎殿の領なり。只今当り返さんずるもの」とぞ威(おど)しけり。されども権守、「何とも宣(のたま)へ。舟賃取らで【は】、えこそ渡すまじけれ」とて渡さず。弁慶、「古へ取られたる例(れい)はなけれども、此僻事したるによつて取らるるござんなれ。さらばそれ賜(た)び候へ」とて、北の方の著給へる帷(かたびら)の尋常なるを脱がせ奉りて、渡守に取らせけり。権守是を取つて申しけるは、「法に任せて取つては候へども、あの御坊のいとほしければ参らせん」とて、判官殿にこそ奉りけれ。武蔵坊是を見て、片岡が袖を控へて、「痴(おこ)がましや、唯あれもそれも、同じ事ぞ」と囁(ささや)きける。
かくて六動寺を越えて、奈呉(なご)の林をさして歩み給ひける。武蔵忘れんとすれども忘られず、走り寄りて判官の御袂(たもと)に取付きて、声を立てて泣く泣く申しけるは、「何時まで君を庇(かば)ひ参らせんとて、現在の主(しう)を打ち奉るぞ。冥顕(みやうけん)の恐(おそれ)も恐しや。八幡大菩薩も免し給へ。浅ましき世の中かな」とて、さしも猛(たけ)き弁慶が【も】、伏転び泣きければ、侍(さぶらひ)共一所に顔を並べて、消え入る様に泣き居たり。判官、「是も人の為ならず。斯程まで果報拙き義経に、斯様に志深き面々の、行末までも如何と思へば、涙の零るるぞ」とて、御袖を濡らし給ふ。各々此御詞を聞きて、尚も袂を絞りけり。かくする程に日も暮れければ、泣く泣く辿り給ひけり。ややありて北の方、「三途の河を渡るこそ、著たる物を剥がるるなれ。少しも違はぬ風情かな」とて、岩瀬の森に著き給ふ。
其日は此処に泊り給ひけり。明くれば黒部の宿に少し休ませ給ひて、黒部四十八ヶ瀬の渡を越え、市振・浄土・歌の脇・蒲原・ながはしと云ふ所を通りて、岩戸の崎と云ふ所に著きて、海人の苫屋に宿を借りて、夜と共に御物語ありけるに、浦の者共、搗布と云ふ物を潜きけるを見給ひて、北の方かくぞ思ひつづけ給ひける。
四方の海浪のよるよるきつれども今ぞ初めてうきめをば見る
弁慶是を聞きて、忌々しくぞ思ひければ、かくぞつづけ申しける。
浦のみち浪のよるよるきつれども今ぞ初めてよきめをば見る
かくて岩戸の崎をも出で給ひて、越後【國】國府直江の津、花苑の観音堂と云ふ所に著き給ふ。此本尊と申すは、八幡殿安倍貞任を攻め給ひし時、本國の御祈祷の為に、直江次郎と申しける有徳の者に仰せつけて、三十領の鎧を賜びて建立し給ひし源氏重代の御本尊なりければ、其夜はそれにて終夜御祈念ありけり。
判官(ほうがん)=九郎判官義経。
弁慶=武蔵坊弁慶。義経に従って武名を挙げた。
平権守=不詳。文中、「権守」「渡守」とも。
僻事=道理に合わないこと。心得違い。
がはと=突然落としたり投げたりする様子で「がばと」。
北の方=義経の妻。稚児に変装して義経一行に同道していた。弁慶が「少人」というのは稚児姿の北の方。
羽黒山伏=出羽三山の一つである羽黒山の修験者、荒行で知られていた。
揖取=「かじとり」の音便形で平安・鎌倉時代の船舶の運航責任者。ここでは平権守?
片岡=片岡八郎。義経の腹心。
奈呉=現在の新湊市放生津の古名。
六動寺=現在の新湊市六渡寺。
冥顕=目に見えないはたらきと、見えるはたらき。出典『日本古典文学大系』(岩波書店)
富山大学教育学部入試問題
問1 「あてられざりけり」「取られたる」を文法的に説明せよ。
問2 「続け打ちに散々にぞ打ちたりける」とあるが、誰を打ったのか、次の選択肢ア〜エから最も適当なものを選び、記号で答えよ。
ア 義経 イ 北の方 ウ 平権守 エ 片岡問3 「さらぬやうにておはしけり」とあるが、「さらぬやう」とはどんなことを指すのか、分かりやすく説明せよ。
問4 「かかる御いたはしき事こそ候はね」を口語訳せよ。
問5 舟賃に関する平権守・弁慶それぞれの言い分は何か、次の選択肢ア〜エから最も適当なものを選び、記号で答えよ。
ア 法で羽黒山伏からは舟賃を徴収しないと定められているはずだ。
イ 昔からの慣習で羽黒山伏の舟賃は免除されてきたはずだ。
ウ 何と言われようと、舟賃としてあの帷もらわぬうちは渡すつもりはない。
エ 今回は法の通りに徴収する。慣習を適用するかどうかは自分の判断だ。問6 「あの御坊のいとほしければ参らせん」を口語訳せよ。
問7 「あさましき世の中かな」とあるが、ここでの「あさまし」はどのような意味か。また、弁慶がそう言うのはなぜか、分かりやすく説明せよ。