金川 欣二:マックde記号論(言語学のお散歩)


 

笑説 越中語大辞典



●二階建てバス

 日本製の2階建てバスは婦負郡婦中町にある三菱自動車バス製造株式会社が独占して作っている。シェア100%。

●肉

 昔は肉を食べなかった。みんな貧しかった。うちへは町の方から業者が注文を取りに来て、夕方配達してもらえた。

●肉まん

 中華饅頭を関西風に「豚まん」とはいわず、関東風に「肉まん」という。肉まんには何もつけない。中部から北は基本は何もつけないが、関西ではからし、中国・四国・九州ではからしと酢醤油をつけることが多い。もともと、魚が多かった北日本と肉を食べることが多かった西日本との違いがあり、からしをつけるのは食中毒の予防にもなったらしい。

●にぐさい〜ねぐさい〜ねんさい

 「寝臭し」から物が腐って変な様子。例:「この煮物、にぐさーなっとっから食べんがやめられ」。

●にごし〜にぐし

 「米のとぎ汁」。

●西町【にしちょう】

 富山市の中心で大和デパートがある。昔はうちの方から射水線と市内電車で簡単に行けた。丸大というデパートもあったが、なくなり、西町ユニーも99年5月でなくなった。

 近くに総曲輪通り、中央通り(さんぽーろ)があるがどこも中心部の空洞化に苦労している。

 実際、数万円の買い物をしているのに高い駐車料金を払わされるのはたまらない。

●西日本

 富山全県でJRは「西日本」である。断じて「北日本」ではない。日本列島は斜めだから、北日本と南日本でもいいはずなのに、東日本と西日本に分けている。相撲の番付も東と西、芝居の口上も「とざい、とうざい」、関ヶ原の合戦も東軍・西軍である。池田弥三郎によれば〈天子は南面す〉、天子は南を向いて立つのが定位置である…とする古代中国の思想に由来するというが、「指南」という言葉も「指南車」という南を常に示す車が使われたことに由来する。南面する位置から見れば、世の中は右と左(西と東)に分かれて映る。

 辞書で「西日本」を見ると次のように揺れている。

 

  • 『三省堂国語』…「日本の西半分。静岡県浜名湖と新潟県親不知を結ぶ線から西の方」
  • 『新明解』…『三省堂国語』とほぼ同じだが「狭義では、九州だけを言う」
  • 『広辞苑』…「日本の西半分。広くは中部地方を含めそれ以西。通常は近畿以西。狭くは中国・四国・九州の地方の総称」
  • 『大辞泉』…「日本の西半分。中部地方以西の、近畿・中国・四国・九州の各地方」
  • 『大辞林』…「日本列島の西半分。地質学的には糸魚川静岡構造線より西の地域をいう」
  • 『日本語大辞典』…「日本列島の西半分。地質構造上からはフォッサマグナ以西の地をさす」
  • 『日本国語大辞典』…「日本の西半部。また中部地方以西の近畿・中国・四国・九州の各地方。特に九州地方」
  • ●ニチオクリ

     「熱送り」で福光町では「ニチオクリ」に太鼓が鳴らされる。7月23日(土用の三番)に老若男女が出てイモチの悪病を追い払う習俗で、「ジジ」「ババ」の藁人形を乗せた舟を二人で担ぎ、笹竹で稲の苗を払って田の道を回る。元禄時代からあったといわれる。

    ●日食/日蝕

     部分日食は1990年代だけで5回あり、2002年6月11日にも観測されている。

     皆既日食は、江戸中期の1742年までさかのぼる。今度は2035年9月2日だ。

    ●日赤

     富山赤十字病院。

    ●にっつく〜につく

     「似つく」から「似合う、似合いである」。例:「なんちゅー、にっついた夫婦ね」(何という似ついた夫婦だろうことか)。

    ●蜷川幸雄

     演出家・蜷川幸雄の両親は富山県出身。子どものころは帰省して熊野川で泳いだり、うどんを食べたりしたという。

    ●二・七の朝市

     福野町の「歳の大市」となっている「二・七の朝市」は慶安3(1650)年の町立てとともに始まったとされる。開町の祖である阿曽三右衛門が郡奉行に新町を立てたいと願い出た書の中に、近辺の市の日と重ならないように二と七の日に市を開きたいという一文がある。

    ●二宮金次郎

     井上章一『ノスタルジック・アイドル 二宮金次郎』(新宿書房)にはほとんどが背中に薪を背負い、左手に本を持った、「負薪読書」を表現している二宮金次郎の像が小学校にあるかということを考察している。最初は勤倹力行の金次郎を国民の模範人物として、修身の教科書に取り上げられたのだが、銅像の設置は文部省などの指導によるものではなく、石材石工職人が商売と結びつけた。また、「勤労」「分度」(自分をわきまえる)「推譲」(世の中のために尽くす)という、尊徳の教えを受け継いだ報徳人たちが学校へ寄付をするというかたちで増えていったと思われる。なお、読んでいる本は『小学』ではなくて『大学』だそうだ。

     二宮金次郎には石像が多いのだが、銅像は主に高岡で造られた話が出てくる。高岡で最初に手掛けたのは平和合金という鋳造所で、昭和の3年、4年あたりが最初だったという。大阪の慶寺丹長という業者も銅像を造っていたというが、先祖は高岡市にあった長慶寺村で、代々鋳物師をしていたのだという。平和合金に聞くと今でも二宮尊徳像は売られており、青銅製なので高いという。1m50cmのものは300万円くらい、室内用の15cmのものは5万くらいで、屋外用は年に2〜3本、室内用は月に5〜6本売れるという。昭和の初期によく売れたのと、尺貫法改正の頃も売れたという。気をつけているところは、担いでいる柴のリアルさだという。レリーフの入った朱肉入れも売っている。ブロンズ像の9割は高岡銅器だったという。戦中は銅の供出に遭遇。戦後に復活したが、家の手伝いより勉強をと考えるようになって忘れられるようになった。

     なお、井上江花は1913年に偉人の像を造って売るべきだと提言した「高岡銅像論」というのを書いている。

     1930年代のなかごろには、ほとんど日本中の小学校へ、普及していたはずだ。おそらく、その最盛期には、2万体をこえる二宮金次郎像があったろう。彫像の点数では、たぶん、ナポレオンやモーツアルトをも、はるかに上まわろう。ひょっとしたら、二宮少年は、世界彫刻史でギネスブックに入ったかもしれない。

     この像の高さはちょうど1メートル。日本で尺からメートル法に変わったとき、小学生などにメートル法を馴染ませるために、各地の学校でつくられた、と言う話だ。ただし、全ての二宮金次郎像が1メートルではなく、例外もある。「度量はメートル、衡はキログラム」を基本とした度量衡法の改正が行われたのは1921(大正10)年だった。

     街角にどんな彫像を置くかというのは、街の意志である。例えば、11世紀には自治権を獲得し、12人の選出された行政官によって治められる自治都市で「花の町」でもあるフィレンツェの人々はダヴィデ像をミケランジェロに注文し、街の真ん中のパラッツォ・ヴェッキオ(ヴェッキオ宮殿)前に置いた(公害で現在はアカデミア美術館)。日本人にとっての二宮金次郎とは何だったのだろうか?

     二宮尊徳は江戸後期の農政家で名は金次郎、尊徳は後の名乗(なのり)である。相模国足柄上(あしがらかみ)郡栢山(かやま)村(神奈川県小田原市)百姓利右衛門(りえもん)の長子に生まれる。早くから父母に死別、二宮家伝来の田地はすべて人手に渡る。17歳のとき用水堀の空き地に棄苗(すてなえ)を植えて米一俵を収穫。24歳で一家の再興に成功。1818年(文政1)小田原藩家老服部家の家政再建を依頼された。20年江戸在勤の小田原藩士たちのために低利の貸付金と五常講(ごじょうこう)を考案して苦境を救う。22年宇津(うつ)家(旗本)の領地再建を命ぜられ、31年(天保2)第一期を終了。37年、藩主忠真より小田原藩領の救済を命ぜられ、40年から報徳仕法(ほうとくしほう)を実施。42年、老中水野忠邦より普請役格に取り立てられる。以後、地方財政の再建に取り組み、44年(弘化1)「日光仕法雛形(にっこうしほうひなかた)」を作成、指導書とする。尊徳の指導は小田原藩領のほか日光神領、烏山、下館、相馬各藩に及んだ。著書に『為政鑑(いせいかがみ)』『富国方法書』『三才報徳金毛録』などがある。

     2002年9月に「木造校舎を訪ねて」というイベントが富山市千歳町の県教育記念館で開かれた。調査では明治時代から提唱された「報徳教育」(今も静岡県掛川市に大日本報徳社がある)によって金次郎像が各校に建てられていったこと、青銅像などは太平洋戦争の際に軍事用に供出されたこと、戦後には地域の篤志家などが、石や木、青銅だけでなくセメントや陶器など様々な素材で作られた像を寄贈したことなど、金次郎像を取り巻く歴史も明らかになった。このイベントでは計110校の金次郎像を写真で紹介された【個人所有や保育所に移動しているものもあって2004年には115体確認】。一体一体、素材や表情が微妙に異なる。放生津小学校の金次郎像は高い台の上に作られている。立山町の立山北部小学校の金次郎像は上半身裸で上着を肩に掛け、薪を地面に下ろして本を読む姿である。

    金次郎

    八重洲ブックセンターの願かけ金次郎

     富山駅前の郵便ポストの上に似た像があるが、こちらは売薬さんの銅像だ。

     ところで、こうした人形を施設の前に置く伝統は薬局の前のカエルやウサギになっている。また、大阪道頓堀の「くいだおれ人形」に受け継がれていて、そのままケンタッキーのカーネル・サンダース人形になっている。この人形はアメリカにはなかった(最近では逆輸入もされている)が、カナダで最初に作られたキャンペーン用の人形を原型にして作ったという。1972年にサンダースが来日した時に撮った写真が元になっているという。「くいだおれ人形」は50年に店先に現れ、94年に「くいだおれ太郎」と命名された(関西空港の開設の時、友好のためにオーストラリアに使節として派遣され、そのパスポート取得のため)ものである。

    ●ニブ流し

     眠気をもたらす精霊を追い払う伝統行事。黒部市中陣の尾山大谷川で7月末に行われる。農作業などを妨げる眠気の精霊や、けがれを「ニブ」と呼ばれる小舟に乗せて流す行事。「ニブ」は、この行事のために作られる「新舟」が語源とされている。「眠たい」がなまったという説もあり、県無形民俗文化財に指定されている。

    ●日本一

     日本一「日本一」が好きな県である富山県を考えるキーワードの一つ。

     持ち家率、貯蓄率、衛星放送やシステムキッチンの設置率、一世帯あたりの自動車台数(一・六一五台)、道路整備率が日本一とはよく言われる。しかし、交通死者数の人口比で65歳以上の割合はワースト上位続き。自殺率も5位。東北、日本海側が目立つ。勤勉な県民性や気候風土と無縁ではない。

     日照時間や降雨量など気象条件(災害は少ないが)から見れば、日本一になることも間違いない。

     「新国民生活指標(豊かさ指標)」は貨幣価値では測れない「豊かさ」をとらえるために旧経済企画庁(現内閣府)が実施していた。富山県は1993年に1位になったのをはじめ、毎年上位にランクされていたが、一部自治体から「実態を反映していない」などと批判を受け、98年を最後に廃止した。

     富山県は2003年、独自に試算した結果、住環境や治安状況を表す「住む」や、収入や資産などの消費生活を示す「費やす」が1位になるなど、03年の「豊かさ」の総合順位が10年ぶりに全国1位となった、と発表した。富山県では、県の特性を把握するには順位を知る必要があると、99年から2年ごとに独自に試算。総務省などでデータを収集し、過去2回はいずれも総合3位だった。

     持ち家比率や通勤時間など、139のデータを「遊ぶ」「育てる」など8つの生活活動領域と「安全・安心」「快適」など4つの生活評価軸に分けて算出した。生活活動領域では、1位だった「住む」や「費やす」に加え、医療などのサービスの実情を表す「癒やす」が21位(前回試算25位)、大学や文化的施設の充実度を示す「学ぶ」が4位(同6位)とアップした。生活評価軸でも「安全・安心」が1位(同2位)、「公正」で6位(同7位)と順位を上げた。指標のうち「働く」の女性管理職比率で45位、「育てる」の少年犯罪検挙人員で41位となった。

    ●日本海

     江戸期の儒学者だった伊藤仁斎は京都の人で、生まれて初めて海を見たのは64歳の時であったという。「ながらへば なにはの浦の春もみつ おもへば人は命なりけり」と摂津(大阪)の風景を前にして詠んだ歌がある。息災で生きてきたお陰で浪速の海も見ることができた、という。

     桐野夏生の『柔らかな頬』の神隠しに遭う5歳の女の子の母親は留萌と羽幌の中間の海沿いの浜の食堂の娘として生まれる。目の前に日本海が広がる。「この海を見て一生を終えるなら、死んだほうがましだと子供心にも思った」ので高校を卒業した後、家出をする…。

     初めて湘南で太平洋を見た時、その穏やかさに驚いた。というより、まるで海でなく湖みたかった。

     冬のどんよりとした日本海を見ていると憂鬱にならざるを得ない。

     日本海の名称をめぐり、日韓間で論争が巻き起こっていて、「日本海呼称問題」は外務省のページに詳しいので感想だけ書いておく。

     日本海という呼称が決定的となったのは「日本海海戦」だった。それまでマルコ・ポーロの「チン(秦)海」や「北海」「日本内海」など揺れがあった(芳井研一『「日本海」という呼称』新潟日報事業社)。

     海図作成のIHO(国際水路機関)が半世紀ぶりに行う世界の海図のガイドライン改訂で、韓国側が、韓国の名称の「東海」に書き換えるよう求めた。「日本海は日本の植民地主義で定着した」などと主張する韓国に対し、日本は「19世紀初頭から世界的に定着している」と一歩も譲らない。ロシアの提督クルーゼンシテルンによって1815年の海図で命名されたものだといっても聞かない。

     確かに「地中海」も「バルト海」も「紅海」も、特定の国名は入っていない。だが、「ドーバー海峡」と「カレー海峡」、「ペルシャ湾」と「アラビア湾」という揺れがある(前者の方が定着しつつあるが…)ことも事実だ。何よりも「東シナ海」(East China Sea)というのがある。これが悪いというなら「東中華人民共和国海」とでも言わなければならないだろう。

     海上保安庁によるとIHOは航行の安全を図るため各国でばらばらに使われている地名や記号などの統一を目指し、1929年から海図作成のガイドラインを刊行している。53年に第3版が出された後、70年代からこれまで改訂作業を続けてきた。IHO決議では、海の名称が沿岸国で異なる場合は、「当事国間で努力して統一を図り、それでもまとまらない場合は併記する」とされている。韓国側の主張は「19世紀までは朝鮮海、東洋海など様々な呼び方があったが、戦前の植民地主義により日本海が定着した」というものだ。

     これに対し日本側は、〈1〉日本海の名称は19世紀初頭には全世界の海図の約8割に採用されており、植民地支配で定着したのではない〈2〉1か国の主張で簡単に名称を変更したり併記したりするのは、名称の統一を目指すIHO本来の目的に反する――などと猛反発している。IHOがまとめた最終案では、これまで「日本海」と明記されていたページが削除されているという。日韓の政治的問題になっているので、呼称は示せないというわけだ。中国では東シナ海を「東海」と表記しており、韓国のいうように「東海」(トンヘ)にすると混乱を招く。しかし、日本から見て日本海は「西海」であっても断じて「東海」ではない。「東海」とされたら、啄木が「東海の小磯の…」はまるで日本海を歌ったように思える。

     「青海」を主張する韓国人の投稿に触れ、新潟大学の古厩(ふるまや)忠夫教授は「歴史的に“東海”といってきた韓半島の人びとは韓日併合とともに“日本海”と呼ぶことを強要された」「従って韓国人たちが“日本海”という呼称を嫌がるのは当然だ」とした後、「東海」も周辺国からの方角を考えると適切ではないとし「緑海」を提案して韓国のマスコミで注目を浴びている。緑の海にはとても見えないが…。

     2003年1月にはニューヨークタイムスなどが「東海」を使い始めたという報道が流れる。読売新聞によれば次のようだ。

     日本海の名称を韓国が「東海」に改めるよう主張している問題で、米ニューヨーク・タイムズ紙が最近、「日韓間水域」と記事で表記したり、地図で日本海の表記をなくしたりしているとして、韓国メディアが“歓迎”記事を伝えている。

     31日付の朝鮮日報紙はニューヨーク発で「韓国人社会によるキャンペーンの成果だろう」とする韓国総領事館のコメントを紹介した。総領事館はニューヨーク・タイムズ紙に、日本海と東海の併記を要請する書簡を送ったが、同紙は「読者が誤解する可能性があり、難しい」と回答。これを受け、在米韓国人団体などが昨年12月から、投稿や電話で要請を重ねていたという。

     広島などに行くと「中国銀行」などがあって驚いてしまう。特急「日本海」が「東海」に変わったらまるで静岡に行く列車のようで困るのだが…。

    「海の名前で一悶着」  米原万里

     「あなたには参ったわ――中学の同窓会で、私の顔を見るなり恩師が言った。――支那(シナ)と言ってはいけない。中華人民共和国と言いましょうって教えたら、あなたがすかさず手を挙げて、『先生、じゃあ、東シナ海のことも、東中華人民共和国海と呼ぶんですね』なんて言うのだもの」

     その後、同時通訳をするようになって、日本語で「東シナ海」と言っても、中国語には、「東海」と訳されることを知った。日本にとっては西側に位置する海も、中国にとっては東にあるのだなと今更ながら当たり前の事実に気付くとともに、「シナ」の部分について日本人がヤキモキするのは、完全な取り越し苦労だったと了解した次第。

     韓国・朝鮮語で、「東海」とは、日本語の「日本海」のことなのだということも知った。というのも、ここ15年ほど環日本海経済圏構想絡みのシンポジウムやセミナーが開催されるたびに会議の名称で一悶着あるからだ。いずれも、裏日本、ロシア極東&東シベリア地域、中国東北部、それに韓国と北朝鮮という日本海沿岸の地域や国からの代表が参加する会議で、名称に冠せられる「環日本海」という言葉に、韓国や北朝鮮の代表が、必ず噛みつく。

    「環日本海はおかしい! 環東海とすべきだ」

     すると、中国代表が、反論する。

    「東海と字句通り訳すと、中国人は東シナ海のことだと思い込むから、紛らわしい。日本語で『日本海』と言われたものを、韓国・朝鮮語に訳すときに『東海』とすれば事足りるでしょう」

     ロシア代表も黙ってはいない。

    「ロシア語でこの海の名称は、英語でもSEA OF JAPAN、字句通り『日本海』なんです。この会議については、州や国からも財政支出を受けてますから、大多数の人に理解不可能な『東海』なんて名称では困ります。それぞれの国が、自国の言葉でこの海の名前を呼べばいいじゃないですか」

     日本の代表だって、本当は反論したい。「日本語で『東海』とは、啄木が『東海の小磯の……』と歌ったように、国内の大平洋岸のある地域を指す地理的名称なので、紛らわしいことこの上ない。この会議だけのために、日本人全体が使い続けてきた海の名前を変えるわけにはいかない」

     言いたいのは山々なのだが、堪えている。朝鮮半島に対しては、日本は負い目がある。日本に国土を蹂躙されていた記憶がまだ生々しい朝鮮半島の人々にとっては、自分たちが接している海に「日本」という言葉がくっつくのが嫌で嫌で仕方ないという気持ちも分かるのだ。

     煮え切らない日本の対応もあって、延々とこの議論は続く。本題に入る前に時間切れで会議終了なんてことも一度ならずあった。

     最近は、『環日本海〜』ではなく、『北東アジア〜』という味も素っ気もない名称の会議が圧倒的に多くなったのは、そのためである。

    ようやく六カ国協議が再開された。
    進行役:「まず、日本海にミサイルが打ち込まれた件について、各国の立場を明らかにしましょう」
    北朝鮮:「ただの実験で、どの国でもやっている。何の問題にもならない」
    アメリカ:「ミサイルがアメリカ国内や同盟国を狙ったものであるならば、到底許されない」
    日本:「平壌宣言に反している。到底許されない」
    ロシア:「ロシア沿岸に打ち込まれたならば遺憾だが、自国のレーダー網にはかかっていないので何とも云えない」
    中国:「遺憾だが、今後も対話と支援を続けるべきだ」
    韓国:「打ち込まれたのは、日本海ではなく東海だ。それと独島は韓国の領土だ」

    ※「日本海・東海問題」関連記事を日本語で読む

    ●日本海ガス

     富山の都市ガスは「日本海ガス」が大きい。日本海ガスといっても、富山湾の沖でガスが出る訳ではない。この社長一家は富山でも有名。新田嗣治朗(しちろう)は1999年に亡くなったが、葬儀は賑やかにということで大好きな「死神」を立川志の輔で演じてもらった。娘は高橋はるみ、息子は新田八郎(その息子が“九郎”かどうかは知らない)。

     高橋はるみは富山中部高校から一橋大学経済学部に進学。1976年通産省(現経済産業省)に入省。中小企業庁長官官房調査課長や貿易局輸入課長などを歴任。2001年1月から北海道経済産業局長を務めた。ITソフト、バイオテクノロジー分野の振興に当たり、道内経済活性化に腕を振るい、2003年に北海道知事に当選。夫の毅は大阪税関長(2003年当時・札幌市出身)。日本海ガスの社長は弟の新田八朗で一橋大学経済学部卒業後、第一勧業銀行を経て、日本海ガス入社。国際青年会議所(JCI)副会頭などを務める。

    ●日本海側

     日本一「日本一」が好きな県である富山県を考えるキーワードの一つ。日本一になれない場合は「日本海側唯一」とか「日本海側最大」とか「日本海側初」という形容詞を付ける。多くの場合、九州の日本海側は入らない。だって、福岡県には立派な施設がいっぱいあるから…。例:「富山商船高専の国際流通学科は日本海側で最初に作られた、純粋な文科系学科」。

    ●日本海高岡なべ祭り→なべ祭り

     新春に開かれる鍋料理のイベント。

    ●「ニホンカイノナミタカシ」

     富山大学の不合格電報の文面。金沢大学の不合格も「フユノノトノナミタカシ」だから似たようなパターン。ネットの時代には電報はなくなっただろう。

     合格は「オチャカオル」(お茶の水女子大)や「オバコワラウ」(秋田大)、「クジラガツレタ」(高知大)医科薬科は「タテヤマニライチョウウタウ」だったという。不合格なら「ダイブツノメニナミダ」(奈良教育大)や「サクラジマバクハツセズ」(鹿児島大)シナノジハユキフカシ」(信州大学)などが知られていた。福井大の電報は「アスワヤマニハナガサク」で「明日は」だから今回は不合格なのか、「花が咲く」から合格なのかで混乱したなんて笑い話もある。正解は足羽山(あすわやま)という地元の有名な山で、合格。

    ●日本九峰

     修験道の山で、大峰、出羽三山、英彦山、立山、白山、富士、日光、伯耆大山、石槌を指す。

     野田泉光院成亮が江戸時代の文化文政年間に書いた旅日記『日本九峰修業日記』(『日本庶民生活史料集成 第2巻 探検・紀行・地誌西國篇』所収)があるが、こちらでは、次の通り。英彦山、石鎚山、箕面山、金剛山、大峯山、熊野山、富士山、羽黒山、湯殿山。ただし、北陸では白山、石動山、立山にも登っている。

    ●日本三作〜日本の三作

     「日本三作」とは「日本三大刀鍛冶」という意味だが、富山の郷義弘、粟田口吉光(山城国)、五郎正宗(相模国鎌倉)をいう。

    ●日本三大…

     小沢昭一によれば、各地に行って公演をする時、「ええ、日本三大○×というものがありまして、一つは△□で、もう一つは◆◇で、そしてもう一つがご当地・▲▽です」というと絶対に受けるという。そう、富山もそんな土地柄である。

    ●日本三大駅弁

     加瀬清志+畑田国男『日本三大ブック』(講談社1993)には北海道森駅の「いかめし」、信越線横川駅の「峠の釜飯」とともに「鱒の寿司」が「駅弁御三家」として記載されている。

    ●日本三大奇橋

     錦帯橋(山口県錦川)、猿橋(山梨県桂川)、愛本橋(富山県黒部川)、かずら橋(徳島県祖谷地方)など。

    ●日本三大崩れ

     鳶山崩れ(富山)、大谷崩れ(梅ケ島・静岡)、稗田山崩れ(長野)。

    ●日本三大急流

     『広辞苑』にも「日本三急流」で載っているのが最上川(山形県)、富士川(静岡県)、球磨川(熊本県)。ところが、三島由紀夫の庄川流木事件を描いた「山の魂」には庄川が入っている。三島自身による「制作ノート」によれば、球磨川と庄川でもう一つは不明。

    ●日本三大渓谷(峡谷)

     黒部峡谷(富山)、大杉峡谷(三重)、奥入瀬渓谷(青森)。奥入瀬に代わって清津渓谷(新潟)をあげる人もいる。

    ●日本三大深湾

     駿河湾の水深は2500mと非常に深く国内最深である。2位は伊豆半島の東に位置する相模湾で1500m、ついで富山湾でその最深部は1200m。

    ●日本三大雪渓

     剣沢(剣岳)、針ノ木大雪渓(後立山連峰)、白馬大雪渓(白馬岳)で前二者が富山県。

    ●日本三大積雪最深記録

     新潟県高田市(現上越市)377cm(1945.2.26)、福井県福井市213cm(1963.1.31)、青森県青森市209cm(1945.2.21)で4位が富山県富山市208cm(1940.1.30)。

    ●日本三大七夕

     「日本三大七夕」が高岡市大手町にある。三大とは仙台と平塚と高岡だ。千葉県の茂原、愛知県安城、一宮も、静岡県清水、東京の阿佐ヶ谷も「日本三大七夕」を標榜しているようだ。

    ●日本三大仏

     経済的な難局のためなかなか完成を見なかった高岡大仏だが、荻野宗四郎らの資金協力を得て、発願から二十六年目にようやく完成した。「昭和八年五月三日、開眼式を執行した銅製高岡大仏は高さ二丈五尺、蓮台(れんだい)の蓮華一枚一丈、混擬土(コンクリート)の台を合わせれば地上五丈四尺五寸で日本三大仏の一と称される」。飛見丈繁著『高岡鋳物史話』の一文である。古式の焼型重ね吹きの技法で、鋳造から着色までの全工程を高岡の鋳物職人たちの手で行った永久不滅の大仏の誕生であった。七十五の齢(よわい)を過ぎての大修復を終え、初々しい姿に生まれ変わった「大仏つぁん」が町に鎮座している

     「○○大仏」と称される主なものは、全国で49体あるというが、「日本三大仏」が高岡にある。奈良大仏(752年)、鎌倉大仏(1246年)と高岡だ。高岡大仏は承久年間1221年頃、摂津国の源義勝が越中に移り、二上山麓に1丈6尺(約5メートル)の木造大仏を造営したのが始まりで慶長4年(1609年)に開町とともに前田利長が今の大手町に移した。文政4(1821)年と明治33年の大火で二度も焼失している。火事で燃えることのない大仏を求める声があがり、篤信家の松木宗左衛門によって、明治40年に発願されたものである。新時代の御仏(みほとけ)の具現化を託したのは、27歳の原型師中野双山であった。双山は大仏制作の着想を得るため全国行脚に出た。奈良大仏には何度も足を運んだ。数多くの仏の姿に触れた双山は「穏やかな表情の御仏こそが高岡の風土にふさわしい」と思い至ったのだという。380年の伝統を誇る高岡銅器の職人の手による大仏が1932年(昭和7年)12月に完成し、33年5月に開眼式が行われた。鋳造製の阿弥陀如来座像で15.85メートル、座高7.43メートル、重量65トン。日本一の美男と称される。58年に建載された円輪光背には、阿弥陀仏の仏徳を一字で表現するキリークという梵字が頂点に配されており、大円輪の光背がそびえる大仏尊は世にも珍しいのだとか。

     与謝野晶子は「鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立ちかな」と鎌倉大仏を詠んだ。実は鎌倉大仏は阿弥陀仏であって釈迦ではない。奈良大仏は盧遮那仏(るしやなぶつ)である。釈迦如来は飛鳥寺の大仏である。晶子には「御相(みさう)いとどしたしみやすきなつかしき若葉木立(こだち)の中の盧遮那仏」という歌もある。

     昭和8年に高岡を訪れた晶子は高岡大仏を「鎌倉大仏より一段と美男子」だと言った話が残っているが、本当だとしてもリップサービスであろう。この時、高岡女学校で講演をしていて、僕の母が聞いている。ちなみに、映画『キトキト!』は「日本三大仏」として高岡大仏を扱い、この美男子という話でまとめている。板橋には東京大仏があり、こちらも「日本三大仏」を称しているそうだが、映画で高岡大仏に地位は確定した。

     高岡市伏木出身で芥川賞作家の堀田善衛が1960年6月に「高岡大仏の写真に寄す」と題した詩を『週刊文春』に寄稿し、故郷の大仏さんを全国に紹介したことから知られるようになったのかもしれない。 大仏寺本堂に自筆の詩を入れた額が、台座下回廊奥 にその写しが掛けられている。

    「高岡の大仏に寄す」 堀田 善衛

    …はるかなる天竺より この北国の
    片隅に来たり座せる 仏の像
    座り飽きたるさまもなく 撫肩に 伏目にて
    通る人をば 見て守る 
    さるにても その日々の流れの長きかな
    茫然たり一場の夢
    われもまた見守られたるその一人

     大仏下の地獄絵は幼稚園の頃の僕らを怖がらせるに充分だった。

     加瀬清志+畑田国男『日本三大ブック』(講談社1993)には「日本三大仏」として記載されている。飛鳥の大仏(奈良)、岐阜の大仏、兵庫大仏をあげる人もいる。

    ●日本三大ダム

     奥只見ダム(福島県)、黒部(富山県)、御母衣ダム(岐阜県)。

    ●日本三大珍味(新)

     唐墨(からすみ)(長崎県野母崎町) 、このわた(三河)、うに(越前)だったが、新しい方はくさや(東京都新島本村)、ふなずし(滋賀県高島町)、黒作り(富山県富山市)という人がいる。

     上にあげた「三大」はどれも県外はおろか、県内の人でも知らない人が多い。二つまでは確定しているのだが、三つ目に疑問が出てくる。「三霊山」の連想だろうか?

    ●日本三大定置網発祥地

     氷見は定置網の発祥地というのが県のふれこみだが、なぜか、山口、宮城とともに富山は定置網三大発祥地とされる。田辺悟『ものと人間の文化史 網』(法政大学出版局)の「建網類」に次のような記述を見つけた。

     元和年間(1615〜23)のころ、肥前、長門を中心にブリ・マグロの大敷網(台網)が考案されてやがてそれらが、越中、能登方面に伝えられた。また、陸前、陸中方面では江戸時代初期からサケ・マグロの大網(台網)による漁業の発達をみるほか、陸奥ではタラの建網、北海道ではニシン建網、サケの大謀網などがおこなわれた。

    ●日本三大定置網(漁場)

      宇出津(うしつ)港(能都町・石川)、 相模湾西部(小田原市・神奈川)、 富山湾(富山) 。

    ●日本三大売薬

     「富山」「大和(奈良)」「近江(滋賀)」を指す。日本には四大売薬としては「田代(佐賀)」(たじろ=佐賀県鳥栖市と基山町にまたがる地域)が入る。田代は対馬藩の飛び地であったため、朝鮮貿易の産品が手に入りやすかったからだといわれている。「サロンパス」の久光製薬は田代にある。

    ●日本三大配置薬(富山の薬)  

     「六神丸」「赤玉はら薬」「熊胆(ゆうたん)」 。

    ●日本三大干しうどん  

     稲庭(いなにわ)うどん(稲川町・秋田)、五島うどん(有川町、上五島町・長崎)、氷見うどん(氷見市・富山) 。

    ●日本三名瀑

     華厳の滝(栃木日光)、那智滝(和歌山那智勝浦)は確定で称名滝(富山県立山町)だという人がいて、めいわく。秋保の滝(宮城)や袋田の滝(茨城大子)をあげる人もいる。

    ●日本三霊山

     富士山、白山、立山。 奈良時代から江戸時代にかけて、立山は神山・霊山として仰がれてきた。大伴家持は「たちやまにふりおける雪を常夏に見れどもあかず神からならし」(天平19年)と詠み、いかに立山を慕い敬っていたか分かる。

     三霊山というのはもともと富山から生まれた言葉ではなくて、富士山と白山で「二禅定」(“に・ぜんじょう”二つの山を登ること)だったのが、三河の人々が立山信仰をするようになり、「三禅定」を唱えてからだという。

    ●日本酒

     「酒」というと日本酒だと思っている人が多いが、九州では「焼酎」になる。富山ではやっぱり日本酒で、多くの日本酒の産地でもある。桝田酒造店(満寿泉“ますいずみ”)、富美菊酒造(富美菊“ふみぎく”)、清都酒造場(勝駒)、本江酒造(名誉北洋)、銀盤酒造第二工場(銀盤)、林洋一(黒部峡)、立山酒造第一工場(銀嶺立山)、成政酒造(成政)、若鶴酒造(若鶴)、 玉旭酒造(玉旭)などがある。

     12月中旬から吟醸酒の仕込み作業を始める。伝統的な手作業で造り、中でも大吟醸の仕込みは1月20日の大寒に向けてが作業のピークとなる。能登杜氏(とうじ)が経験と五感を頼りに酒の味を決める。気温約5度のひんやりとした酒蔵では、乳白色の醪(もろみ)が、醸造タンクの中で泡を立てて発酵。蔵人が酵母が均一になるように、丹精込めてかきまぜる。早いものは2月下旬に店頭に並ぶが、3月末まで仕込みは続く。

     新酒もあり、幻の滝(皇国晴酒造)は黒部峡谷に言い伝えのある滝で、酒はまろやかでとろみがある。初明かり(高沢酒店)は、氷見から見える元旦の美しい日の出が由来で、米本来の味をうまく生かしている。三笑楽(三笑楽酒造)は平村に伝わる謡曲「三笑」から命名し、こくのある味わいが特徴だ。

     県内で作付けされている酒米用品種はほとんどが昭和36年に奨励品種になった「五百万石」で、最近では岐阜県の奨励品種で、寒さに強く、粒の大きい酒米である「ひだほまれ」を母とし、秋田県で育成した心白発現の良い「秋田酒33号」を父(花粉親)として人工交配した「富山酒45号」というのもある。

     『おもしろ金沢学』(北國新聞社)によれば、石川県は甘口を好む地域として知られていて、辛口が主流の富山県とは対照的だったという。全国的にやや端麗で辛口の酒が好まれる傾向にあるが、金沢でも昭和後半から平成にかけて、甘口から濃醇でやや辛口に味が変化しているという。なお、「金沢酵母」(きょうかい14号酵母)というものもある。

    ●日本ゼオン

     化学メーカー。高岡に工場がある。昔はここの煙突から火が出ていて、すごかったものだ。

    ●日本の歌百選

     富山で少年時代を過ごした滝廉太郎の「荒城の月」と高岡市出身の室崎琴月が作曲した「夕日」が選ばれている。

    ●日本の水浴場88選

     高岡市の雨晴・松太枝浜と氷見市の島尾海岸が選ばれている。

    ●「日本の桃源郷」

     司馬遼太郎が『街道をゆく』で五箇山へ行った時にそう表現した。でも、「桃源郷」と表現しているのは五箇山だけではなさそうだ。

    ●日本のパナマ運河

     1934年に完成した富岩(ふがん)運河のこと。富山港と富山市街地を結ぶ、延長約5キロの人工の川。掘削で出た大量の土砂は、神通川廃川地の埋め立てに使われ、県庁や市役所などが建てられた。

     運河のほぼ中間に、中島閘門(こうもん)がある。2対の鋼鉄製扉を開閉して、上下約2.5メートルの水位差を調整した。船のエレベーターになっていたために「日本のパナマ運河」と呼ばれる。

    ●ニッポンジーン

     遺伝子を扱う会社の名前。富山に本社があって、ニッポンジーンテクという子会社が東京にある。何となく好きな名前の付け方である。

    ●日本100名城

     財団法人日本城郭協会が2007年に迎える設立40周年の記念事業の一環として、2005年に日本国内の名城と呼ばれる城郭を公募したもので、歴史や建築の専門家などにより、観光地としての知名度や文化財や歴史上の重要性、復元の正確性などを基準に審査の上選定、2006年に発表した。

     北陸では高岡城(富山県)、七尾城、金沢城(石川県)、丸岡城、一乗谷城(福井県)が選ばれた。

    ●入試ミス

     入試ミスというと富山大学ということなってしまった。山形大学の大量の合否判定ミスの後の97、98年に富大は合否判定ミスを隠蔽してしまった。学長の辞任にまで追い込まれた。2002年3月の14年度の二次試験後期日程では、経済学部の外国語(英語)で出題ミスがあり、8月の大学院理工学研究科物理学専攻でも出題ミスがあるなど入試業務の不手際が続いている。2002年11月にも入試の募集要項にミスがみつかった。致命的なミスだったが、更に陳謝したすぐ後に他のミスが大量に見つかって泥沼になった。

    ●ニュージーランド地震

     2011年2月22日のニュージーランド地震。クライストチャーチ市のカンタベリーテレビ(CTV)ビルの崩壊で外国語専門学校12名と川端教授の四女で奈良女子大生1名の犠牲者が出たことで知られる。この後すぐに東日本大震災が起きた。

    ●ニュースステーション

     富山で見ることができないニュース番組。朝日放送がないので久米宏の顔を見ることはできない。呉西だと金沢にある北陸朝日放送を見ることもできる。自民党が圧倒的に強いのは、この番組が見られないためという説もある。

    ●如意の渡し【にょいのわたし/『義経記』には「わたり」となっている】

     室町時代の軍記物語『義経記』(「ぎけいき」で『判官物語』『義経(よしつね)物語』ともいう)に文治3年(1187年)春、源義経主従が北陸道(ほくろくどう)を平泉の藤原秀衡(ひでひら)を頼って奥州へと逃げる途中、伏木にある如意の渡しに来たとの伝承がある。渡守平権守(わたしもりへいごんのかみ)に「判官殿だ」と怪しまれるが、弁慶が「加賀の白山より連れてきた御坊だ」と言って、嫌疑をはらすために扇で義経を打ちのめすという機転で切り抜け、無事に乗船できたという一節がある。伏木の矢田八幡宮境内に「如意渡趾」の石碑がある。小矢部川河口の現在の渡船場近くには、義経と弁慶の銅像も立っている。古来、射水川(小矢部川)河口の渡し場をそう呼んできた。『義経記』の記述を注意深く読めば、倶利伽羅山麓の蓮沼(小矢部市)あたりの船着き場が相当し、一行はそこから下って六渡寺(高岡市中伏木)に至ったのではないか、といわれる。能坂利雄『北陸史23の謎』(新人物往来社1985年)などに考察がある。

     もちろん、これは謡曲『安宅』や「歌舞伎十八番」の『勧進帳』(能の『安宅』の詞章をもとに、能の舞台と演出を写し、長唄を地にした新形式の演劇を創造したもの)になっていて、舞台は石川県小松の安宅(あたか)の関になっている。

     能の『安宅』は四番目物。『義経記』などに拠った。関守の富樫(ワキ)と弁慶一行(シテとツレ大勢)との力の激突の演出に能の主張がある。『安宅』では12人近くの山伏が登場(『勧進帳』では伴の山伏を四天王とし、いっそうの様式化を果たしている)。義経を子方(子役)とするのも能の演出である。偽山伏となって奥州へ下る義経主従を捕らえるための新関が設けられ、義経は荷物持ちに身をやつす。関守の阻止、祈祷による威嚇、白紙の勧進帳(東大寺再建のための寄付集めの趣意書)の読み上げ、主君を金剛杖(『義経記』の扇が変化)で打つ弁慶の苦しみなど、緊密な構成と集団による能舞台の活用のみごとさ、劇的な現在能の大作。

     なお、黒澤明監督で大河内伝次郎、志村喬、エノケン(榎本健一)が出た映画に『虎の尾を踏む男達』(1945年)という映画があり、題名は『勧進帳』の幕切れ近くの長唄の詞章「虎の尾を踏み、毒蛇の口をのがれたる心地して、陸奥の国へぞ下りける」に依ったもので、危険を犯すこととその危険を逃れることを指す。

     もちろん、こうした義経伝説は各地に見られ、富山県内でも雨晴(「東下り」の途上、にわか雨に遭った源義経一行が、雨宿りをして晴れるのを待ったという義経岩が今も残されている)や本殿に弁慶の右手と左足の跡とされるくぼみが残る気多神社(伏木)をはじめ、多くのところに伝説や「子孫」が残っている。島津久基『義經傳説と文学』(明治書院1935)が詳しい。

     1951年に4・9トン、18人乗りの「如意の渡し」が国鉄のある伏木と加越能線のある(国鉄の貨物駅もあった)中伏木の間で運航を開始した。2009年8月2日に廃止。すぐ上を走る延長610メートルの万葉大橋が開通したため。

     池内紀の『川の旅』(青土社)には項目がないにもかかわらず、この「如意の渡し」の写真が何枚も出ている。

    ●にらみ獅子

     高岡市伏木一宮の気多(けた)神社に伝わる獅子舞。神輿の御神幸に当たり御神体を護衛する、いわゆる行道獅子と言われ、神輿の先導をし道中の露払い(道を清める)をするものである。獅子だけで踊る古い形を残した伝統芸能で、ご神体を載せた神輿の露払いとして邪気を払い、にらみをきかせて、境内を回ることが名前の由来。獅子ににらまれると厄が落ちるとされる。紺の着流し姿の若者6人が獅子方を務め、笛と太鼓の素朴な曲が流れる中、杉林の神域をゆっくり練り歩く。その後、本殿の前で独特のリズムで獅子舞を奉納する。神輿が境内を回るのは、神様が越中の国全体を見回るという意味があるという。にらみ獅子には天狗がつかないが、これとは別に、天狗もいる獅子舞が町内を回る。

    ●にんぎゃかしい

     「にぎやかしい」で「賑やかだ」。例:「ありゃ、なんちゅー、にんぎゃっかしい姉ちゃんね」(あれは、何という賑やかな女の子だろう)。

    ●人魚

     『平凡社大百科事典』第11巻539頁の「人魚」の項に「越中四方浦で捕らえられた人魚」「450挺の鉄砲で打ちとめたとある」「文化2年(1805)に出た瓦版 早大演劇博物館」という図版が載っている。まるでオニのように角を生やし、髪を振り乱した顔が恐ろしげだ。首から下は、びっしりうろこに覆われ、コイのような姿が描かれている。詞書には「猟船をなやましさまたげ候ゆへ鉄砲四百五十丁にてうちとる」「頭三尺五寸丈三丈五尺髪一分八尺」。ジュゴンは九州以北の日本海には生息しておらず、富山湾の人魚の正体は「オイランタッチョ」と呼ばれている深海魚の「リュウグウノツカイ」や「サケガシラ」の見立てだという。等身大から10メートルぐらいまでの大きさで、肌の色が白く、ひれが赤く、長い。日本海側の人魚の民話や記録では、みな同じような特徴がみられるという。「花魁(おいらん)」のように美しいとたたえているのだ。この仲間は日本海、特に富山湾で多くとれる。人魚は『日本書紀』以来、数多くの文献に登場するが、その正体は南の海からやってくる紐体類に違いないといわれる。

     若狭小浜の八百比丘尼の伝説のように人魚の肉が不老長寿の薬だとする俗説もある。高橋留美子にも人魚を題材にしたマンガ『人魚の森』がある。

    ●人形山【にんぎょうざん】

     五箇山にある山で悲しい伝説がある。年老いた母親と二人の娘がいた。毎日、山頂の白山権現のお堂に向かって祈りをささげたが、母親が病に倒れた。すると権現様が娘たちの夢まくらに立って「病に効く湯がある」と告げた。娘たちは温泉を探し当て、母親を背負って通った。病気は治り、ある冬の日、娘たちは権現様にお礼参りに出かける。だが、雪が舞い始め……。娘たちは二度と帰らなかった。やがて春、山肌に娘たちの「雪形(雪絵)」が現れたという。

    ●人間発達

     いきなり「人間発達」といわれると戸惑うが、「富山大学人間発達学部」。統合前は「教育学部」だった。いくつかの大学で同じ学部名を持っているから不思議がることはないのだが、人間が発達するのか、人間を発達させるのか、よく分からない。英語名は“Faculty of Human Development”となっている。この学部は全国的に有名である。

     教員養成ではないので、何ら問題のないところだというのだろう。

    ●忍者ハットリくん列車

     2004年3月27日から氷見線、城端線に運行を始めた列車。藤子不二雄が氷見出身という関係で実現した。


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