金川 欣二:マックde記号論(言語学のお散歩)


 

笑説 越中語大辞典



●向野のエドヒガンザクラ

 桜の人気スポットの一つで田園風景の中にぽつんと孤独に立つたたずまいが感動を与える。南砺市市野口(城端)の山田川に架かる向野橋から上流側を望むと立っている。右岸に自生しており、高さは約15メートル。樹齢は100−150年と推定される。

●昔し町

 川本三郎の『日本すみずみ紀行』(現代教養文庫)の中で、川本は牛窓、御手洗、様似、広尾、城端、飛島、粟島、熊野、下北半島、甑島、佐川、外泊、宇和島、内子、大洲、温泉津、柳川などなどなどに旅をする。ファーストフードやコンビニが一軒もない町ばかりを訪ねるのだが、これを「昔し町」と呼んでいる。

 駅から歩いて5分ほどのところから城端の町が始まる。馬の背のような小高い山の上に町が広がっている。人口1万2千人の小さな町。小京都と呼ばれるだけあって古い落ち着いた町並みが続いている。瓦屋根が多い。ほとんどが二階建て。高い建物は町役場と公民館ぐらいしかない。ファストフードのチェーン店も一軒もない。路地が縦横に走り、瓦屋根、板塀があちこちに姿を見せる。

……

 井波の町も城端と同じように瓦屋根の多い“昔し町”で、しかも、平日の昼下りには町を歩いている人はほとんど見かけず、死んだように静まりかえっている。幻想都市に迷い込んだような不思議な興奮を覚え、ひとり、瓦屋根と土塀の路地を歩いた。

●むかわり

 「一周忌」。古語で〔動詞「むかわる」の連用形から〕「一年または一月が巡ってくること」で特に「一周忌」のことをいう。「むかわれ」とも。もちろん、三周忌以降には使わない。

●麦屋節【むぎやぶし】

 「じゃんとこい、じゃんとこい、麦や、菜種は〜」で始まる民謡。きびきびした男踊りと情緒たっぷりの女踊りがあって楽しめる。「小京都」城端むぎや祭は9月中旬に行われる。浄念寺前と坡場の坂、瑞泉寺前などでは街並み踊りが見られる。麦屋節や古代神、四ツ竹節などの唄と踊りなどが披露される。起源については、平家の落人が越中五箇山に安住の地を得て、弓矢取る手を、鍬を持つ手にかえ、生活の合間に唄い始めたとされているが、曲調から九州の「まだら」系統の唄がその元唄であるともいわれている。

 越中おわら節、麦屋節、こきりこ節が富山の三大民謡と呼ばれる。

●婿はん

 「婿さん」なのだが、養子という意味合いが強い。例:「わしとこ、一人娘やから婿はんもらわんにゃんならんがいぜ」(うちは一人娘だから養子をもらわないとだめなんだよ)・「あそこなち、婿はん、来らはったと」(あの家は養子をとったって)。

●むず

 詩人の川崎洋が「言葉II」で次のように書いているが、聞いたことはない。

むず(言葉少なであること)富山県

●むっつり

 「げっつり」ともいうが芋などを食べて胸がつまった状態。「胸焼け」。

●棟方志功【むなかたしこう】

 「板画」家。富山との縁は1945年戦火を避けて富山に疎開し、1951年まで滞在した。1936年「大和し美し版画巻」の縁で河井寛治郎と知り合い、仏教との縁が始まる。この時1月ほど河井宅に滞在、経典の講義を受けた。そこから1940年の世界的評価を受けた「二菩薩釈迦十大弟子」へとつながっていき、後に1962年には日石寺から法眼位を受けることになる。

 自叙伝『板極道』に「富山では、大きないただきものを致しました。それは『南無阿弥陀仏』でありました」と書いている。「自力で来た世界を、かけずりまわっていたのでしたが、その足が自然に他力の世界へ向けられ…大きな仏意の大きさに包まれていたのでした」。自分を超えた力に生かされていることに感謝し、それが「板画にも通ずる道」と謙虚に語っている。

 長部日出雄の伝記『鬼が来た!』によれば、光徳寺に疎開していた時のようすは次のようである。

 かれは酒を飲まなかったし、少しは口にしたとしても酔うことは決してなかったが、素面(しらふ)でも酒に酔った人とおなじくらい、いつもの言動のオクターブが上がっていたことは何度も書いた通りである。まったく開けっぴろげのように思える志功の態度に、すっかり魅了された人人は、かれが福光へやって来る日を待兼ねるようになり、来た日に開く歓迎の宴を「棟方祭り」と呼ぶようになった。宴席には都会では乏しくなっていた食物が豊富に出て来るうえに、ひそかに製造されている濁酒がどこからともなく忽然と現れてきた。それに志功は乞われると気軽に絵を描いてやったから、福光には次次に棟方ファンが生まれた。停車場にも二人のファンができたので、交通事情が厳しくなってからも、志功は切符を手に入れるのに苦労したことがなかった。

 志功のカリスマ性を村の人を示したのは光徳寺の襖四枚に、墨汁で「華厳松」というふすま絵を描いたパフォーマンスであった。

 志功の描き方は、体ごと筆を襖に叩きつけているようだった。あたかも狂ったように激しく右に左に動き回る足元で、小さく悲鳴を挙げて軋んでいる板と梯子(はしご)の音は、なにか得体の知れぬ破壊行為を連想させて、見ている人人の胸中に不安と怯えに似た感情を惹き起こした。太い筆が疾風のように襖の表面を掃いて通りすぎたあとには、のた打ち回る怪物の黒い影のようなものが生まれ始めていた。
−−−−竜じゃないか…。
と一人が小声で呟いた。志功が何を描いているのか、まったく見当がつかなかった。
志功の描き方の奔放さは承知していたが、それにしても今回の制作は、あまりにも常軌を逸しているようにおもわれた。

翌日、乾いた襖は立てられて敷居に入れられた。ふたたび集まった人人は、四枚の襖の全景が視野に入る位置に退き、自分でも要領を得ない感想を、儀礼的に呟いているうちに、次第にそれが凄まじいまでの気魄(きはく)を横溢させている松の絵であることが判って来た。人人の感想は、にわかに具体的な賛辞に変わって来た。

 1945年、福光を訪れた民藝運動の提唱者の柳宗悦は、愛弟子の志功が才能を開花させたことに感心し、作品世界に土地の徳「土徳(どとく)」ある、と評した。宗悦も南砺地方の精神風土にひかれ、3年後の夏、城端別院善徳寺に70日間滞在し、思想の集大成となる『美之法門』を書き上げた(石碑が残っている)。民藝運動の同志たちが幾度となく南砺地方を訪れ「民藝の聖地」と呼ばれた。

 妻チヤは僅かなお金をやりくりし画材料にあて、愛する棟方志功の下積み時代を支えた。たとえ、お金になる仕事がきても「志功の作品を真から理解して下さる方のみに、作品を知って頂ければいいと」と棟方志功を理解していない仕事は全て断った。1975年、棟方志功が亡くなった時、チヤは新聞記者に「結婚して一番幸せを感じたのはいつですか?」というの対して「今です」と言ったという…。

 志功と家族の様子を描いた絵本「ちよゑちゃんとパパとだまし川」が出版された。福光美術館が棟方の二女で画家の小泉ちよゑが描いた紙芝居を絵本にした。棟方が絵本になったのは初めてという。文は魚津市の声楽家・大成勝代が書いた。小学生だったちよゑが見た福光が描かれており、棟方が「瞞着(だまし)川」と名付けた豆黒川に現れる想像上の動物「カッパ」やナマズとの触れあいの姿を楽しく描いている。

●ムヒ

 かゆみ止め。上市町横法音寺に本社がある池田模範堂が作っている。社名には「社会の模範に」という意味が込められる。会社のホームページにこの薬の名の由来はどれ、というクイズがある。

 (1)ムヒヒヒヒという笑い声から(2)ムシがなまった(3)ほかに比べるものがないほど良い

 答えは(3)だ。「唯一無比」「天下無比」からとられた。「強力無比」にしたかったが、「強力」が薬事法で使えないからという説もある。

 商品名を含め、命名者の初代社長、池田嘉吉(かきち)が生きた大正、昭和期の香りがする。嘉吉は家庭配置薬販売、いわゆる「富山の薬売り」で会社を立ち上げ、1926年(大正15年)にブリキ缶入りのムヒを発売。31年(昭和6年)に当時としては画期的なチューブ入りのクリーム状のムヒを売り出し、大ヒットさせた。

 戦後、東京の広告会社へコメ俵を担いで行き、それで新聞広告枠を買い取った。家庭に薬を置いて売る方式から薬局販売へと流通形態が変化することに、機敏に対応した。

 60年代に進出した香港、シンガポール、マレーシアでは、いまも「無比膏」の漢字の商品名で売られている。

篠原直樹+庭山裕之(山之内製薬/ガスター10)

薬事法におり、薬の広告では、
たとえ事実だとしても
No.1と言ってはいけないんです。

●村上家

 五箇山上梨にある合掌造りの家で、公開されている。西赤尾には岩瀬家がある。観光客はもれなくここを訪れ、お茶を飲み、「こきりこ」を聞かせてもらえる。司馬遼太郎も訪れたことがあり、ここの当主から「酒は体の油」という言葉を聞いている。

●村上隆

 世界で活躍する美術作家・村上隆は立山町浅生の黒谷美術立山工場で、カッパのようなキャラクターを大仏に見立てた高さ5.6メートルの立体作品を制作した。立体「大仏 オーヴァル」は、十月末にロサンゼルス現代美術館で開く大規模な個展「(c)MURAKAMI」のメーンになる作品でゾウやハスの花をかたどった台座に、カッパをイメージした村上のキャラクター「オーヴァルくん」が座っている。全面にプラチナ箔(はく)を張ってある。


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序文

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