金川 欣二:マックde記号論(言語学のお散歩)


童年往事〜時の流れ


 たとえば、つい半年前間でずらりと商店が並んでいた「見なれた」街並みであったものが、地上げの憂き目に遭って、あっという間に空き地になってしまう。そうすると、あれほど見なれていた、その街並みの「どこに」「何が」あったか、すっかり思い出せない、どんな景色だったのかも、すでに忘却のかなたに消え失せている、というそういう経験が……。

 人は、なんでもない景色やあえかな匂いや、そういうはかない「もの」との抜き難い関連のなかに「人生」を生きているのである。そうすると、その景観があえなく消滅してしまった途端に、すでにあれほど強固な記憶と見えていたものが、あっさりと跡形もなく崩れてしまうわけである。

 つまり、山や川や、そういう変わらない景色よりも、どんどん変わって行く身近な街並みのほうが、もっとも切実な「記憶の鏡」なのだということを、もっとよく考えておかなければなるまい。
     -----林望『テーブルの雲』


 正直に語ることはひどくむずかしい。僕は正直になろうとすればするほど、正確な言葉は闇の奥深くへと沈みこんでいく。
     -----村上春樹『風の歌を聴け』


 「さあ、昔に戻ります。私は過去が大好きです。現在より安らかで、未来より確かだから」
 マックス・オフュルス監督『輪舞』のアントン・ウォルブルックのセリフ


☆失われた時を求めて

 昔を懐かしむようになったらおしまいだなぁ、と思っていたし、僕の好きな作家のどの本にもそう書いてある。藤沢周平も『日本海の落日』というエッセイの中で、ふるさとの風景を目にすると「いくぶん気はずかしい気持で、やはりここが一番いい」と思っていたという。気はずかしい気持ちになるのは、その地に生まれた自分にとってはかけがえのない風景でも「よその土地から来たひとたちにとって、それほど賞美に値するものかどうかは疑わしい」からである。懐かしがっている人は還らぬ青春を独りで惜別しているだけで他人に語るべき行為ではないと信じていた。

 ところが、ある日急に思い出してしまった。レミニッセンスというのだろうが、思い出が線香花火のようにはぜて、輝いたのだ。

 偶然が偶然を呼び、どうしてこんなことがと思うようなつながりを生んで、坂道を転がったおむすびがころりんと穴に落ちるみたいに、その連鎖の果てのふしぎな穴にだれかが落ちる。そして、無事に出てきたときには、外の景色がまるで変わっているのだ。もちろん、心の内の景色も。
     -----堀江敏幸『めぐらし屋』

 輝かしいことばかりではないかもしれない。でも、線香花火の小さな光がまわりを照らす。

 多田道太郎の『物くさ太郎の空想力』(角川文庫)で好きな話がある。戦前のことだが、多田が小学生のとき、女学生だった年若の叔母に連れられてよく活動写真に行った。喜劇俳優エノケンの出世作「ちゃっきり金太」という映画を見たという。金太が捕吏・御用役人に追われる。その捕手が大声で叫ぶ。「金太、待て!」

 そこでクダンの叔母がげらげら笑いだした。私には何のことやら、わからなかった。彼女の笑いは、はた目もはばからず、いっそ見っともないくらいであった。彼女の笑いは、種を明かせばじつにくだらないことであった。金太、待てーというのを口早にいうので、「そやかてキンタマテー、ておかしいやないの」というのである。キンタマの何がおかしいと、少年の私は乙女の笑い上戸に憤然としたものである。人間の記憶というのは妙なものだ。大事なことはどんどん忘れてしまうのに、こういうくだらないことがじつに鮮明に記憶にのこる。

 プルーストは『失われた時を求めて』の冒頭のシーンでプチット・マドレーヌを紅茶にひたした瞬間に過去の思い出が蘇ったという。

一時間は一時間でしかないのではない、それは匂と、音と、計画と、気候とに満たされた瓶(かめ)である。---(井上究一郎訳)

 僕は今年の3月に福岡県の柳川に行って、川下りの舟に乗って、橋の下をくぐった時に過去の思い出が鮮やかに蘇った。

 これは昔の故郷の風だ、と。

 橋の下を吹く涼しい風。これは水郷地帯だった故郷で、小さい頃に感じた風だった。

 軒先の川面に咲く花。これも鮒釣りに出かけた舟の中からみかけた花だった。

 あんなにも豊かだったのに、どうして失われてしまったのだろう?

 自然は、故郷は、一体どこへ行ってしまったのだろう?

 「となりのトトロ」のコピーは「忘れ物を届けにきました」だったが、昔を思い浮かべる行為は忘れていた郵便が届いたようなものかもしれない。

 人が思い出すのは何かのきっかけである。自ら思い出すことは少ない。匂いであったり、音であったり、涼しさであったりする。鹿島茂は『上等舶来・ふらんすモノ語り』(文藝春秋)で次のように書いている。

 例を挙げると、「私は子供のころを思い出す」という内容は、「私」Jeを主語にして、Je me souviens de mon enfance.とも言えるが、別にIl me souvenient de mon enfance.とも表すことができる。すなわちIlという非人称主語が、「私」meに、子供のころmon enfanceを思い起こさせるというかたちを取る。これを、「私の外部にあると同時に内部にもあるなにものか」が、あたかも意志を持つ超越的な人格となって、「私」のところの突然現れ、子供時代の記憶を読み覚ますと解釈することはできないだろうか。

 なぜなら、プルーストの場合、記憶の湧出は、マドレーヌや物売りの呼び声をきっかけにして無意識的に起こるにしても、そのマドレーヌや物売りの呼び声を「私」のそばに置くという偶然を司っているのは、ある種の先験的な存在、つまり、Ilという非人称に姿を変えた「神」でしかないからである。

 こう考えると、souvenirというフランス語の動詞の構文法は、プルースト的な記憶、というよりも、記憶そのものの本質的構造を解き明かしていることになる。この場合、Ilは、人間の記憶を司る神ムネモシュネにちがいない。さらに言えば、souvenirという動詞は、語源的には、「不意に来る、突然現れる」という意味のsouvenirという動詞からきているというから、フランス語で、Il me souvientと単純に言うとき、それはじつは「記憶の神ムネモシュネが突然私に現れる」という神話的な次元の真相【ママ】構造を口にしているのである。

 しかし、人は思い出を語れるのだろうか?フロイト学説に対して「作られた記憶症候群」(false memory syndrome)というのが最近では叫ばれ、偽の記憶が甦ることがある。

 内田樹『街場の現代思想』(NTT出版)によれば、ラカンは次のように語っているという。

 ジャック・ラカンはこのような人間のあり方を「人間は前未来形で自分の過去を回想する」という言い方で説明したことがある。「前未来形」というのは、「明日の三時に私はこの仕事を終えているだろう」という文型に見られるような、未来のある時点において完了した動作や状態を指示する時制のことである【英語の未来完了】。

 私たちが自分の過去を思い出すとき、私たちはむろん「過去におきた事実」をありのままに語っていない。私たちが過去の思い出話を語るとき、私たちは聴衆の反応に無関心であることはできないからだ。ある逸話について聴き手の反応がよければ「おお、この種の話は受けがいいな。では、この線で行こう」ということになるし、ある逸話について反応がかんばしくなければ「おっと、この手の自慢話はかえって人間の値打ちを下げるな」と軌道修正を行う。私たちが自分の過去として思い出す話は、要するにその話を聞き終わったときに、聴き手が私のことを「どういう人間だと思うようになるか」をめざしてなされているのである。話を聞き終わった未来の時点で、聴き手から獲得されるであろう人間的な信頼や尊敬や愛情をめざして、私は自分の過去を思い出す。このような人間の記憶のあり方をラカンは「前未来形で語られる記憶」と称したのである。


「せんねん まんねん」 まど・みちお
 
いつかのっぽのヤシの木になるために
そのヤシのみが地べたに落ちる
その地ひびきでミミズがとびだす
そのミミズをヘビがのむ
そのヘビをワニがのむ
そのワニを川がのむ
その川の岸ののっぽのヤシの木の中を
昇っていくのは
今まで土の中でうたっていた清水
その清水は昇って昇って昇りつめて
ヤシのみのなかで眠る
 
その眠りが夢でいっぱいになると
いつかのっぽのヤシの木になるために
そのヤシのみが地べたに落ちる
その地ひびきでミミズがとびだす
そのミミズをヘビがのむ
そのヘビをワニがのむ
そのワニを川がのむ
その川の岸に
まだ人がやって来なかったころの
はるなつあきふゆ はるなつあきふゆの
ながいみじかい せんねんまんねん

☆最初の記憶

 三島由紀夫は『仮面の告白』で生まれた時の記憶があるという。

 子どもたちはおなかにいたときのことも記憶している。

 デーヴィッド・チェンバレン『誕生を記憶する子どもたち』(春秋社)は生まれた時の記憶を呼び戻すために十代半ばくらいの子どもたちを催眠状態に導いて、自由に話してもらう方法を使った。驚くべきことに赤ちゃんは胎内でみんながそろそろ生まれる頃だと言っているのを聞くが、ここにいた方が気持ちがいい、というように考える。ところが、大津波に巻き込まれて外に押し出されてしまう。分娩室はまぶしくて、寒い。広いのも不安であるという。お医者さんたちの乱暴な処置も嫌だ。反対に出生直後のお母さんとの触れあいを何よりも喜ぶという。両親が自分の誕生を歓迎しているか否かということに関してはとりわけ鋭敏だという。

 僕が思い出すのは、もし、小さい頃の記憶が本当ならば、蓮如上人の大法要でお稚児の格好をしたのが最初である。2歳の時の9月4日、目の上に丸い赤い眉毛(というのか知らないが)を描かれたの覚えている。まあ、当てにならないが、でも嫌々をしていた記憶があるのだ。


☆何もなかった

 島崎藤村に、自らの信州小諸での教師時代(明治三十二−三十八年)をつづった『書物は野にも河原にも』という童話がある。田舎だから本も手に入らず、語る友もいない。が、都をうらやんでも仕方ない。もっと正しくものを見ることを学びたい。そう思ったら別の世界が開け、道端の雑草までが書物になった、という話。

 「ほんとに読もうと思えば、書物は野にも河原にもありました。隣のおばさんからも麦畑のお百姓からも物を学びました。私は教師として小諸へ行き、生徒として都に帰りました」。

 何を学んだのだろうか。

 僕が生まれた頃、家の前は舗装していなかった。幼稚園もなかった。テレビもないし、ガスもなかった(後に天然ガスの工事をしていたのを覚えているから)。家も古い家だった。家の前の屋根は板葺きで押えの丸い石がところどころに乗せてあった(そんな家はもう珍しかった)。部屋は暗くて電灯といえば、60ワットくらいのだけだった。井戸だった。クルマが殆どなかった。小学校の頃まで馬が肥え桶を運んでいた。

 屋根瓦も蛍光灯も台所に冷蔵庫もガステーブルも炊飯器もレンジもステンレスの流し台も水道もなかった。洗濯機もなかったし、石油ストーブもファンヒーターも電気こたつもホットカーペットもクーラーもなかった。テレビもステレオも電話もFAXも何もなかった。電気製品といえるのは電灯とアイロンとラジオだけだった。

 「子ども時代の家」  アンデルセン

  小さな部屋、台所一つ
  それでもすべて楽しく
  イブはそこで楽しんだものだ
  王侯貴族の城さえもかなわない

 アスファルト道路もなかった。コンクリートの電柱もなかった。大きな堤防もなかった。

 県内にデパートは大和(だいわ)しかなかった。ホールは公会堂しかなかった。

 ビニールがなかった。ボールペンがなかった。セロテープもポリバケツもプラスチックのものは何もなかった。インスタントラーメンも味塩もレモンもグレープフルーツも冷凍食品もグミもチョコレートもなかった。シャープペンシルにはびっくりした。

 トイレも水洗などなかった。小学校が鉄筋になって、水洗になった時は大騒ぎだった。今のようにきれいな便器じゃなかったので、塩素で綺麗にする人も多かった。そうそう、トイレの近くには貯水式の手洗いタンクが釣り下げられていて、外にはヤツデが植えられていた。

 お金も何もなかったが、暇があり、子供がいっぱいいた。潮騒があり、自然がいっぱいあった。

 海は今もう埋め立てられていて、どうしてこんな豊かな自然を残してくれなかったのか、怨みの一つも言いたくなる。

 物哀しい風景だった。しかし僕にいったい何を言うことができるだろう?ここでは既に新しいルールの新しいゲームが始まっているのだ。誰にもそれを止めることなんてできない。
     -----村上春樹『羊をめぐる冒険』

 村上春樹は「5月の海岸線」(『カンガルー日和』)の中でも書いている。「古い街」に戻り、海の匂いを嗅ぐと懐かしさが頭をよぎりかけるが、何だか以前にはなかった「不均一な空気」の存在に気づく。タクシーで海岸まで行くが、そこにはかつての海はなかった。コンクリートの広大な「荒野」しかなかった。

 河合隼雄『物語とふしぎ』(岩波書店)によれば、子どもはさまざまな不思議に出会って成長する。自然の不思議、人の不思議、町や村の不思議、時の不思議などであるが、こうやって小さい頃を思い出してみると、一番の不思議は僕のようなものでも、子ども時代のくだらない思い出が年を取ると輝いてみえてしまう不思議だろう。

 何もなかった時代が羨ましく思えるとは…。


☆小さい頃

 小さい頃の思い出というのはなぜか褪せてしまっている。魚津の大火があったのは母に言わせれば一緒に海岸で見たというが覚えているはずもない。もし、思い起こすなら、惣名のお風呂屋(2000年に廃止)でお風呂から出た時には眠くて、眠くて寝てしまい、ござのところにタオルを敷いて眠らされ、帰りに起こされて泣いたりしたことであろう。信子たちに右脚にある青アザが他所の家からもらわれてきた証拠だといって苛められたことが大きなトラウマとなっている。

 時々は新明神にある盛田のお風呂屋にも行った(91年に廃止)。こないだ(91年、祐貴2歳半)、祐貴がお風呂に入ってから急に静かになり、上がってからジュースも飲まずに眠るということがあった。祐貴としても珍しいことだったが、僕は本当に懐かしく思った。ときどき、祐貴が僕の小さい頃そっくりの顔をするのでびっくりすることがある(見たことないくせに妻も同じことを言う)。

 銭湯に子どもを連れていきたかったが、閉まると聞いてすぐに廃止となった。文句もいえない。ある寄席がつぶれることになって、客がしきりに惜しむのを聞いて、談志だったと思うが、落語家が一喝したという。「お前らが、ちゃんと来てりゃあ、こんなことにならなかったんだ!」。超満員の行楽地に行って「お前ら来るな」という客みたいだが…。

 まだ川で洗濯するのが当たり前だった。オムツはもちろん、といっても紙オムツしか知らない人が増えてしまったが、この場合、布オムツ、や、いろいろな服も川までいって母親たちは洗濯をしてきた。洗濯している横をメダカが泳いでいった。

 ゴミは海に捨てていた。当時はビニールなんてものはなかったから、海に捨てれば、そのまま自然に還った。

 保育所は今の場所、小学校の跡地に建った農協(JA)の横にあった。木造だったが、小学校と一緒だったので小学生の時もよく遊びにいった。祐貴は2歳(3歳)直前から保育所に通うことになったのだが、僕はこの年、4歳で入園した。次姉の信子などは聞光寺で保育されていたという話だから、随分進歩したものだ。僕はO君と違って中退せずに修了したのだが、信子によれば1カ月は保育所へ行くのが嫌だといって捏ねたらしい。まあ、甘えん坊だからありそうな話である。それに何となく、泣きながら保育所に通ったのを覚えている。

 幼稚園から高岡古城公園に遠足に行った。この時、動物園でライオンとか鹿とか見た記憶がはっきりしている。その帰りに高岡大仏に寄った。大仏の下は仏教画が展示してあるのだが、この中に地獄の針の山や血の池などが描いてある。阿鼻叫喚の絵なのだ。

 後に大島絵里さんと話していたら私も大仏の下に連れて行かれ、怖かったと話してくれた。

 姉が中学3年で修学旅行に行ったことをよく覚えている。当時は大変な旅だったのでその大変さが伝わってきたのだ。覚えているのは東海道線に入ってから急に複線となって向かいからの電車がゴーッと通っていくので恐かったという話なのだが、10年後に実際、岐阜を過ぎてから複線区間を走って初めて実感が沸いた。何しろ、北陸本線の複線電化が完成するのは69年のことであり、姉の旅行から12年後なのだ。

 東京タワーの置物を買ってきてくれたと思う。ジェット機ボーイング727は信子だったか。

 大牧温泉に行ったのもこの頃で翌年も行ったような気がする。写真には小さなSちゃんも写っている。小学校の何年かにも一度、大牧温泉に行き、懐かしかったのを覚えている。何よりも船である。小牧の堰堤からずっと船で庄川を逆上る。温泉では岩風呂である。怖くてドギマギしていた。僕は歯が痛くて「ロウヒコ」(パテックスなど貼り薬)を張っていた。


☆学校

 小学校は木造だった。寺山修司に「土筆(つくし)と旅人すこし傾き小学校」(『われに五月を』)というのがあるが、傾いていてつっかえ棒がなされていた。歩いて3分のところで便利だった。

 50歳くらいになった時に母親が小学校の学芸会で公開しているアルバムを指して、これがおじいちゃんだと言った。後に新潟女学校の英語教師になったのだが、最初は小学校の教師をしていたようで、写真でふんぞり返っていた。

 南側の裏に運動場があって、ヤギが飼われていたこともあった。南西の方に体育館があって、その後ろに相撲場があった。運動場で野球などをしていると、球がその南側にある射水線のところまで行くことがあった。しょっちゅう電車が通ったので危険だった。その後ろに小道があって川があった。

 住民運動会はその運動場で開かれていた。人が多かったから、本当に大きなイベントだった。もちろん、盆踊りも運動場で開かれていた。

 一度、讀賣新聞社の企画で運動場にヘリコプターが飛んでくる、というイベントがあった。砂煙が舞い上がって大変だった。学校から2名ほどの代表がヘリコプターに乗り込み、空からの遊覧を楽しんだ。僕らは小さいから選ばれなかったのだが、その時、空を飛んだ女の子はスチュワーデスになったのだから、どんな思い出も侮れないと思う。


☆井戸

 井戸の思い出というと小さいころポンプで組み上げたのを覚えている。ポンプは結構コツが必要なもので、僕はうまくできなかった。特に最初に組み上げるのが小さい僕の力では無理だったのだ。家によっては桶を使っていた。島崎の横の道にポンプがあり、冬は雪を溶かして遊んでいた。

 向かいの家はずっと井戸だった。でも、冷蔵庫がかなり前からあった。トタンか何かでできたもので上に氷を置く種類だった。氷も昔は売っていたのだ。今の島崎電器の所に漁業協同組合があり、そこに大きな冷蔵庫があり、氷を作って売っていた。氷を出した時の独特の匂いや鋸で氷を切る時の涼しさとダイナミズムは今でもはっきり記憶に残っている。小4くらいの時に漁業協同組合は火事になり、氷を作るのをやめてしまった。

 井戸には西瓜を入れて冷やした。西瓜というのは年に1度か2度しか食べるものではなかった。1度は潟祭りの日で、朝から西瓜を冷やしておいて、潟祭りの花火を見て帰ってから皆んなで食べるのであった。食べるといつも親父は西瓜の皮で顔を洗っていた。お陰でつやつやになる、というのが口癖だった。でも、顔を洗うのは嫌いだった。やってほしくなかった。

 しかしまさか、西瓜を食べるのが嫌になる時代がくるとは思ってもみなかった。冷蔵庫で冷えた西瓜が食べられるというのに……。


☆潟祭り

 小さい頃の思い出といえば、何といっても潟祭りである。この日は大きな花火があった。越の潟(放生津潟)の真ん中にあった弁天島を巡る遊覧船も出たし、小船で遊覧する人も多かった。花火は奇麗だった。堀切の橋の上から見るのが最高だった。帰ってから西瓜を食べるのが習わしだった(というか、その日しか食べられなかった)。

 堀切の橋を渡って越の潟の方へ行くと三昧(さんまい)と呼ばれる火葬場があった。幼な心にこの辺りを通るのが怖かった。今はもう、海の中である。

 越の潟駅は海水浴場らしく、よしずが懸かっていて一種独特だった。駅のすぐ南からは遊覧船がでていて活気があった。越の潟は淡水湖で蜆(しじみ)の産地だった。胸まであるゴムの長い服を着たおじさんたちが籠を棹の先につけたもので採っていた。そのせいか、蜆はよく食べた。蜆の味噌汁の時は親が蜆を出してくれてそれにお醤油をつけて食べた。

〈かえー すずめ貝〉〈町じゅうが みそ汁のにおいで一ぱいだ/おらももう腹がへった/もうあと一軒売りゃ朝めしだ〉(射水北部中一年、黒川芳則) 

 『日本の子どもの詩・富山編』(岩崎書店)には、家の手伝いを題材にした作品がある。先の「しじみ貝売り」のほか「オツカイ」「馬の足あらい」「いねしばり」「すんばひろい」「お茶たき」などだ。ただし、戦前から59年ごろまでで、それ以降は見当たらない。

 射水北部中学というのは僕の母校の射北中学のことである。

 作曲家の聖川湧さんもしじみを掘って手伝いをしていたという。おかげでしみじみした歌が作れるようになった、とは話していない。

 世の中が変わったからだ。高度経済成長期に入って、しじみ漁は富山新港建設で廃業となり、農業は機械化された。燃料革命や電化製品、加工食品の普及で家事も手がかからなくなった。最近は勉強優先で手伝いをさせなくなったこともある。これでは社会性が身につかないし、感動して詩にすることもなくなった。


☆幼稚園時代

 思い出は少ない。1から100まで数えていたのを覚えていたり、給食を食べたのを覚えていたり、張り絵をしたのを覚えていたりする。端午の節句にこいのぼりをもって僕の町をぐるっと回ったのは、しかし、ほんとによく覚えている。給食のこととか、砂場で遊んだとか、お遊戯をしたとか、断片的に覚えている。クリスマスにサンタが来たこともよく覚えている。先生が「今、サンタさんは堀切(僕の町の入り口)まで来ている」といったことを今さっきのように覚えているし、その時もらった靴に入ったお菓子はずっと宝物だった。サンタさんは園長に似た人だった。

 ただ、お雛様の時、僕が鼓(つづみ)を打つ五人囃子の一人になったことは覚えている。もちろん、お誕生会の日のこととか。小学校に入ってからだが「夕焼けとんび」を歌いながら写生をしていたことなど思い出される。

 幼稚園の遠足で上滝の大山寺遊園地(後に廃園)に行った。これは非常によく記憶に残っている。特にゴーカートに乗って動かしたことが鮮明に残っている。1周しただけだったが、途中、誰かとぶつかりながら運転した。大山寺遊園地はその後何度も行っているが、この時ほど楽しかったことはない。3年の時、母親が白いタイツを履かなければダメといって喧嘩したのも懐かしい。

 母が編み機を購入した。何でも手作りになったし、たくさんの人にセーターなどを編んで上げた。不思議なものでその後、最新式の編み機を購入したが、こちらはもう手作りの時代ではなく、使うことは少なかった。

 10月に国体が開かれた。父親が市役所勤めで役員となっていたので、その時のブレザーを覚えている。中学の時にそのブレザーを着ているところを石垣のお母さんに見られ、何ちゅうねぇ、といわれ、恥ずかしい思いをしたことを覚えている。

 母親に連れられて、国体の開会式を見にいった。どこか正規のところではなかったような気がするが、県立陸上競技場へ行ったのをしっかり覚えている。この当時、父親が何を思ったか、ジューサーを買ってきたのだが、一度使って無駄だと分かったので返しに行った。その替わり、電器釜を買った。それでも早く買った方かもしれない。あんなニクロム線を張っただけの機械が高かった。

 新湊高校が軟式野球会場になり、これも見た記憶がある。青いブレザーを着た親父の姿を見た覚えがあるからである。この時だったか、帰りに消防車に乗せてもらった。今はなくなっただろうが、市内の野球大会では僕の町が強かった。9回裏の大逆転もあった。帰りはみんなで僕の町の消防車に乗せてもらって、意気揚々と帰ってきたものだ。

 国体に合わせて、天ちゃん夫婦が新湊にもやってきた。西新湊(現在、市役所前)の駅から西の方の北側の歩道にたち、いつの間にか日の丸をにぎらされていた。天皇が来たら手を振るんだよ、と教えられていた。だいぶ待っていよいよ黒塗りのクルマが現れた。ところが、どれに天ちゃんが乗っているかわからないまま、行列は過ぎていった。

 後で分からなかったといったら、何度も馬鹿だね、といわれた。あのタイヤのついた立派なクルマだったのに、といわれたが、どう考えても分からなかった。天ちゃんを嫌いになったのはこのころからなのだ。

 後から、放生津幼稚園に来て、子供たちを見ているシーンがよく広報などで飾られた。高校生になってからあの時、天ちゃんに頭を撫でられたのは私、という女の子がいたが、別にどうも思わなかった。かわいい子ではあったが……。


☆お店

 町にはお店がいっぱいあった。中町というところに住んでいたので、町の中心だった。2軒隣にお菓子屋さん、その裏にもお菓子屋さん、左隣は貸本屋さん、文房具屋さん、八百屋さん、魚屋さん、お豆腐屋さん、床屋さんなど何でもあった。お豆腐屋さんは冷たい水に豆腐を入れていて、買うというと上手にすくってくれた。吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』(岩波文庫)でコペル君が油揚をお豆腐の揚げたものだというのを豆腐屋の浦川君の家で知るのだが、当時のお豆腐屋さんはその場で油揚を作っていたものだった。

 プルーストは『失われた時を求めて』の中で記憶が浮かび上がるありさまを「日本人の玩具(がんぐ)のように…」と書いている。玩具とは「水中花」のことだ。菓子を紙細工に、紅茶をコップの水に、よみがえる記憶を紙の花にたとえている。時々、内蔵の中に残っている玩具を見ると、小さい頃の思い出がよみがえってくる。

 駄菓子屋さんは特に三角と名付けられたところが子どもたちのお気に入りで、いろいろなものを売っていた。夏になると氷水、冬になると今川焼きを売っていた。いろいろなくじ引きがあったし、新しいオモチャが入ってきて、三角に新しいオモチャが入ると町中のブームになった。文房具から何でも揃っていた。お盆になるとお花や蝋燭だけでなく、線香に火鉢で火をつけて売っていた。

 角の魚屋さんも懐かしい。おじさんは戦争か何かで片目がなくて、義眼を入れていた。冷蔵庫にお魚が並べてあるのだが、その場でお刺身にしてくれた。芸術的な切り方だった。それどころか、当時は大根をツマを作るのに、大根をきれいにかつらむきにして、丁寧に切ってくれた。今の魚屋さんは繊維に無関係に切るのでちっともおいしくないが、大根を食べているだけで満足するようなおいしさだった。紙パックなどはないので、竹の包みか、薄い木の皮で作った舟の中にいれてくれた。焼き魚も美味しかった。夏になるとイカを焼いてくれた。中にいろいろな詰め物をして、きれいに焼き上げてあった。土用の丑にはウナギを焼いていた。なぜか「お父さん、お母さんは明日仲がいいからね」などと話していた。

「おさなご」  大木実

おもちゃ屋の前を通ると
毬を買ってね
本屋の前を通ると
ごほん買ってね と子供が言う
あとで買ってあげようね
きょうはお銭をもって来なかったから
わたしの答えもきまっている
子供はうなずいてせがみはしない
のぞいて通るだけである
いつも買って貰えないのを知っているから
ゆうがた
ゆうげの仕度ができるまで
晴れた日は子供の手をひき
近くの踏切へ汽車を見にゆく
その往きかえり 通りすがりの店をのぞいて
私を見上げて 子供が言う 
毬を買ってね
ごほん買ってね


☆福引

 小さいころの思い出として福引がある。親父が副会長を長く務めていたので、うちがいろいろと世話をすることになっていた。12月になったら印刷されてきた福引券に商店街のハンコを押す仕事がある。次にその券を各商店にまわり、ある程度置いてくる。足りなくなったお店は追加を買いにきた。また、籖を作らなければならなかった。紙を少しずつずらして糊をつけて行く。1日の午後には準備に尼寺に行く。正月2、3、4日は福引の日だ。本当にたくさんの人が福引に来た。何人かのアルバイトがいるのだが、忙しい時は対応できない位の慌ただしさになる。確か六等まであったのだが、六等何枚で五等とか読み替えたりするし、なかなか品物が決まらない人がいたりする。今は六等位になるとティッシュ程度だろうが、昔はもっとよかった。餅焼き網が最低だったと思う。五等になると茶碗とかになったはずだ。四等ならもっと豪華なお皿をもらえた。

 福引の箱の前にはいつも真木さんがいた。真木雑貨店というと当時はすごい勢いだったものだ。真木さんはだからうちへもよく遊びにきた。戦争中は風船爆弾を作っていてその計算をしていたという話が好きだった。

 最後の日には支払い等の清算があり、永井雑貨店のお父さんが手回し式の計算機をもってきて掛算、割算をした。夕飯にはラーメンが出て、これさえうれしかったものだ。もちろん、小さな僕にもいくらかのお金が入った。

 当時、商店街には色々な行事があり、夏には温泉ご招待などもあった。何度かは親父のお供でついていった。うれしかった。

 親父の記憶は殆どないのだが、商店街の仕事の後、何かで眠ってしまい、おんぶされて東町の方へ抱かれて行ったことを覚えている。

 そうした商店街がいつの間にか消えていった。スーパーができ、郊外店ができ、徐々にクルマ社会に変わっていった。そして、商店街というのは名ばかりになった。豊かさを失ったのは本当だと思う。大事な地域社会をなくしてしまった。

 みんなどこへいったのだろう。

 2007年にはもっと驚くことがあった。アルビスというスーパーが営業を止めると言い出した。近くにスーパーを一つ作ったので、こちらは閉店するという。そのあまりにも地域を無視したやり方に驚いてしまった。小売店を全部つぶしてから、自分のつぶれるというが、クルマのない老人はどうやって暮らせ、というのか!親切なスーパーが名乗りをあげて、何とか収まったが、ひどい話だった。


☆クルマ

 マイカーブームがやってきた。スバルは42万5千円だった。この辺りで最も早かったのはKさん(女性)だったように思う。ダイハツミゼットに乗っていた。ミゼットというのは小型三輪でスクーターに屋根のついたようなものだったが結構売れた(71年まで生産して317000台------朝日95年6月13日〜)。映画「螢川」に時代を表すために何度も出てくる。八島も早かったように思う。クルマに乗ることは大変なことだった。確か、八島のお兄さんに乗せてもらった記憶がある。用事からなかなか帰ってこないのでクラクションを鳴らして叱られた。玩具屋の長浜という人も親切で乗せてくれたりした。

 昔々、ロバのパン屋がやってきた。パン屋さんなのだが、なぜかロバにこぎれいな馬車を牽かせて売りにきた。おいしかった記憶があるものの、母親はばい菌があるとか何とかいって買わせなかった。高かったのだと思う。買わなくてもみんな見に行った。確か、蒸した玄米パンがおいしかったように思う。当時はまだ、肥えを荷車に乗せて馬で引っ張っていたものだ。ロバのパン屋さんもウンチをさせながら引っ張っているのだから清潔ではなかったろう。でも、憧れであった。落語の「動物園」(英語落語ではWHITE LION)の中で出てきたので、驚いた。

「おかぁちゃん、ライオンがロバのパン食べよったで」
「そないライオンがおるかいな。あら、ホンマや。ロバのパン、食べてるわ。けったいなライオンやね」

 後で知ったが、株式会社ビタミンパン連鎖店本部というところが、「ロバのパン」で商標登録して、独特の蒸しパンの味を守っていたという。創業は昭和2年(1927年)という。そして、昭和30年に「パン売りのろばさん」という曲がキングレコードから発売された。

 堀川のお菓子屋(クランチョ)の長男がカバヤに勤めたか、どうかでカバヤの自動車が近所に来たこともあった。カバの形をした自動車なのである。

 そういえば、印度カレーの宣伝車が来たこともあった。今の子供は慣れっこになっているだろうが、どれも嬉しいものだった。

 93年に筑紫哲也のニュースを見ていて長年の謎が解けたのだが、「ちんからりん」という歌で始まる「パン売りのロバさん」という歌もできていて当時は30(他の番組では181)店ものチェーン店になっていたそうだ。登場したのは昭和30代の前、93年でも5店ほど残っていてクルマで売っているという。値段はパンが7円と安い方だ。実際はロバでなく、馬だったともいうが、筑紫もロバだった記憶があるという。町の動物園のようだと言われた。馬車1台16万から20万したといわれる。昭和40年代にモーターリゼーションのためになくなってきた。蹄鉄を作ってくれる職人もいなくなったという。松山には平成元年まで続けた人がいた。

 何しろ、「一日一食パンを食べましょう」と言われた時期だった。


☆大道芸

 年に2度くらいだったと思うが、蛇使いが来た。3軒隣の北銀の角で蛇を見せた。色々見せた後、自分の腕を蛇に咬ませ、血を出し、それが○×軟膏でピタリと治る所を見せていた。よくあんなので商売になったと思うし、よく体がもつものだ。テレビ放送が始まるのだが、大村崑の「とんま天狗」が主題歌とともに流行った。「とんとん、とんまの天狗さん…」と歌ってオロナイン軟膏の宣伝で終わった。オロナインさえあれば何でも治る時代だった。蛇使いのおじさんの商売も段々やりにくくなってきたのであろう。小学校4年で見たのが最後だったように思う。

 小3の時、お祭りに人が透けて見える不思議な眼鏡を売りにきた。知らない子が僕、買う!と叫んでそれに釣られて皆んな買ったのだが、あれがサクラというものだった。後に橋本千尋先生と話していたら自分も買ったと告白していた。スケベ心は誰にもある。

 時々、紙芝居がきた。自転車の後ろに紙芝居のセットをつけていてやおら話し始めるのだった。でもお金を持ち合わせていなかったので殆どの場合、遠くから見ていただけだった。「黄金バット」をやっていたのだが、僕は面白いとは思わなかった。場所は放課後の小学校の校庭とか、お宮の境内だった。売っていたのは味昆布で、これを食べると紙芝居を思い出す。ぼちぼちテレビが入り始めていたので、紙芝居の先は見えていた。

 物売り。色々な物を売りにきた。小学校へ入ってから鮮烈に覚えているのは金太郎飴で、中まで金太郎の顔になっているのでびっくりした。勿論、江戸時代のような格好でやってきた。

 金魚売りも季節になるとやってきた。丸いガラスの水槽も運んでいた訳でどうしてこんなに沢山運べるのか不思議だった。棹屋もやってきた。座敷にある軽くて安いテーブルも行商から買った。映画「竹山ひとり旅」を観ていてそんな行商を思い出した。


☆肝油ドロップ

 なぜか昔はよく肝油を飲まされた。戦前はまずくて飲めたものではなかったらしいが、僕らの頃のは今のように美味しいドロップだった。学校で夏休み前になると斡旋した。色んな缶があって、地球儀のを覚えている。いつもカワイ肝油というメーカーだった。

 妻は毎日飲むのが待ち切れなくていつも1缶食べてしまった。小さい頃から変な子だった。


☆給食

 給食はおいしかった。文句を言う奴もいたが、少なくとも家の食事よりはうまかった。文句をいっている連中の家の食事もそんなに豪華とは思えなかった。時々、嫌いなものが出たが、食パンの時は高級な感じで嬉しかったものだ。脱脂粉乳がいつもついていて皮が張っていた。後にアメリカで家畜の餌だったと知って吃驚したが、それほど日本は貧しかったのだ。5年生位の時に瓶の牛乳になった。でも新湊牛乳は不味くて水が入っているという噂だった。僕は水牛のミルクだと思っていた。

 牛乳も贅沢品だった。

 茨木のり子「秋が見せる遠い村」(『鎮魂歌』)


娘がひとり泣いている
竈に薪をくべながら
ささやかな給料をさいて
毎日一本牛乳を飲むことを決意した
小さな小さな女中だった
なににもまさる美容食と本に書いてあったから
主人はどなった「何様になった気だ!」
牛乳屋は頭をかいた
私は怒った
自由の名にも値しない罌粟粒ほどの自由!
法律の本のなかでうたたねをしているもん字に
火をつけろ!
燃えさしの薪が一本手に残る

ここはなんという村
そしておまえはなんというむすめ

 ただ、お風呂屋では湯上がりに飲むことができた。フルーツ牛乳、コーヒー牛乳が定番だったが、そのうち、ハチミツ牛乳というのもできておいしかった。滋養があるとは思えなかったが…。

 柴田元幸は『つまみぐい文学食堂』(角川書店)で次のように書いている。

 運動会のリレーでもドッジボールでも何でもいいのだが、スポーツができる人間は共同体(クラス、チーム等)に貢献できるチャンスがたっぷりあるが、勉強というのは実は超個人主義だから、いくら勉強ができても共同体には何ら貢献できない。したがって、一般論として、勉強ができてもちっとも人には好かれない。【…】
 【脱脂粉乳を飲んであげて喜ばれたが】しかも僕は、脱脂乳がそんなに嫌いではなかったので(好きだったのではない。脱脂粉乳が好きな奴なんかいない。どれだけ嫌いでないかの違いである)飲むのはそんなに苦ではなかった。
 しかし、ほかにはこういう体験が(記憶する限り)全然生じなかったので、「自分が何かすることで、世界は好意を示してくれる」という定理を学習するには至らなかった。
 ああいうことがもっと頻繁に起きていたら、その後の人生、世界とのかかわり方も、もう少しかわっていたのだと思うのだが、残念である。

 鯨肉の揚げたのがよく出た。いつの間にか鯨も食べられなくなってしまった。


☆カレーライスなど

 当時はカレーライスとは言わなかった。断固、ライスカレーだった。 向田邦子は「昔カレー」(『父の詫び状』)の中で次のようにカレーを定義している。

 カレーライスとライスカレーの区別は何だろう。
カレーとライスが別の容器で出てくるのがカレーライス。ごはんの上にかけてあるのがライスカレーだという説があるが、私は違う。
 金を払って、おもてで食べるのがカレーライス。
 自分の家で食べるのがライスカレーである。厳密にいえば、こどもの日に食べた、母の作ったうどん粉のいっぱい入ったのが、ライスカレーなのだ。

 そして、一番のごちそうだった。何しろ、誕生日にカレーを作ってもらうのが楽しみだった位である。勿論、黒谷さんに運んでもらった肉で作った。卵も贅沢品だった。他に好きだったのは麦こがしである。オチラシといった。粉を茶碗に入れて砂糖を交ぜて水でぐるぐる掻き混ぜて食べるのだが、好きだった。他にかたくり粉に砂糖を混ぜて溶かしただけのものもごちそうだった。信じられないだろうが。

 向田邦子が「昔カレー」で次のようにカレーを回顧しているのもよく分かる。

…子供の頃は憎んだ父の気短かも、死なれてみると懐しい。そのせいかライスカレーの匂いには必ず怒った父の姿が、薬味の福神漬のようにくっついている。子供の頃、我家のライスカレーは二つの鍋に分かれていた。アルミニュームの大き目の鍋に入った家族用と、アルマイトの小鍋に入った「お父さんのカレー」の二種類である。「お父さんのカレー」は肉も多く色が濃かった。大人向きに辛口に出来ていたのだろう。そして、父の前にだけ水のコップがあった。…私は早く大人になって、水を飲みながらラィスカレーを食べたいな、と思ったものだ。…夕食は女房子供への訓戒の場であった。晩酌で酔った顔に飛び切り辛いライスカレーである。父の顔はますます真赤になり、汗が吹き出す。ソースをジャブジャブかけながら、叱言をいい、それ水だ、紅しょうがをのせろ、汗を拭け、と母をこき使う。うどん粉の多い昔風のライスカレーのせいだろう、母の前のカレーが、冷えて皮膜をかぶり、皺が寄るのが子供心に悲しかった。

 向田は「人生で一番美味しかった料理は、何ですか?」と聞かれると 「子供の頃、母親が作ってくれたうどん粉で固めた『うどん粉カレー』ですね」と答えていたが、大人になってから一度も 「子供の頃に食べたうどん粉カレーをまた作って!!」 と母親に言わなかったという。その理由は「ムキになって確かめない方がいい思い出もある。何十年とかかった懐かしさと期待で大きく膨らませた風船を、自分の手でパチンと割ってしまうのは、もったいない…」と語った。

 昭和30年代の東京の暮らしと家族を描いた映画『ALWAYS 続・三丁目の夕日』には、こんな場面がある。

 主人公一家が、事業に失敗した親類の娘をしばらく預かることになった。ところが、裕福な家で育った娘は、下町の家族に心を開かない。

 初めての晩ご飯。ちゃぶ台の上では、ぐつぐつと音を立ててすき焼きが煮えている。

 長男「すき焼き、久しぶりだね」

 母「美加ちゃんが来たから奮発しちゃった」

 娘「こんなのすき焼きじゃない。すき焼きは牛肉でしょ。これ豚肉じゃないですか」

 席をけって自室に戻り、布団の中ですねる娘に住み込みの従業員(堀北真希)がおにぎりを運んできて言う。

 「ただの塩むすびも、おなかがすいた時にはおいしいよ」


☆映画

 昔むかし、スペインの中部のある村――幌つきのトラックが一台入ってくる。子どもたちが歓声をあげる。
「映画が来たよ! 映画が来た! 映画だよ!」
     -----ヴィクトル・エリセ監督『ミツバチのささやき』

 小さい頃の楽しみは何ていっても映画だった。小学校の体育館にいっぱい幕を張って上映された。覚えているのは忠臣蔵(62年の映画?)とか、美空ひばりのミュージカル仕立てになったもので、ひばりが男に扮したりする映画(「これこれ、石の地蔵さん」という歌をよく歌ったものだ)や「日本誕生」である。喜劇が多かった。

 「日本誕生」はダンスをした後、天の石戸をこじ開けるシーン(原節子が天照大神だった)とか、スサノオノミコト(三船敏郎)が大蛇と戦うシーンとか、嵐のいけにえとして女の人が海に飛び込むシーンとか、富士山が爆発してその後、白鳥が生まれ、空を飛んで行って「終」になるところとか非常に強烈に覚えている。この映画は確か2年の時見た(調べると、59年の東宝の作品である。実際、僕の町で上映されたのは60年だと思う)。その時、姉の学習雑誌に富士山の爆発とか特殊撮影(円谷)の特集が組まれていたのだが、嘘だとは信じられなかった。特集が嘘だと思った。

 しかし、当時観客に一番受けたのが、宗谷がソ連オビ号に助けてもらうシーンと南極のタロ・ジロの救出場面、黒谷さんが国体でデッドヒートを演じた揚げ句、優勝する映画であった。何度も何度も見た。黒谷さんが国体で作った記録は未だに破られていない。というのは、彼が出場したのは実用車部門で、その後まもなく廃止されたからである。


☆アイスクリーム

 当時、アイスクリームは貴重品だった。というか食べたことがなかった。小1の時だったと思うが、アイスキャンデーを南亭で売っているというので買ってもらったことがある。試験管の中に凍ったアイスキャンデーが入っていた。そのうち、クランチョ(堀川)や三角(竹林)でもアイスクリームを売るようになった。当時のは電源のない冷蔵庫でドライアイスが入っていてその新聞紙を避けて下の方からアイスを取り出したものだった。勿論、夏しか売っていなかった。

 気持ちの悪かったが、よく食べたものに試験管の中にゼリーのようなものが入っていて駄菓子屋で買って食べた。ちょっと酸っぱかった。


☆氷見

 小さい頃の思い出に信子姉と一緒によく氷見へ遊びに行ったことがある。おじさんとはいえ、僕とは60歳も離れていたのだが、富山船具店の社長をやっていて元気だった(亡くなったのは確か高2の時だと思う)。富山商船の第3期生(明治41年の入学)である(親父は大正9年で第15期生になる)。昔は横浜で大きな商売をやっていて、映画館の経営もしていた。トーキーの時代になり、弁士と一悶着あったという話も聞いた。いずれにしろ、大変元気だったが、ケチだった。おばあちゃんは優しい人だった。清三さんは婿入りしていて、大変おとなしい人で北陸電力に勤めていた。僕が遊びに行くといつもマージャンでどこかへ出掛けていた。章子おばちゃんも優しい人で、皆んな大好きだった。そして後に付属高校で一緒になる尚子ちゃんと雅子(みやこ)ちゃんがいた。当時高校生だった尚子ちゃんはいつ行ってもバレーの練習に出掛けていた。雅子ちゃんは尚子ちゃんと違ってものすごく美人だった。美人の系統はおばあちゃんのものらしく、章子おばさんにいかずに、伊藤先生の奥さんになった知子さんと恭子ちゃん、そして雅子ちゃんに遺伝した。

 当時、氷見に行くには先ず、射水線(堀切という僕の町の入り口はずっと後に切断された)に乗って中伏木まで行き、そこから如意の渡し(当時はそんなかっこいい名前がついてなかった)で小矢部川を渡り(公害で泥水になっていた)、伏木に行き、少し歩いて国鉄伏木駅へ行った。何本も線路のある途中の踏切を渡るのが大好きだった。ただ、当時糞尿が垂れ流しで下手すれば落ちていた。伏木駅からは氷見線に乗り換えて氷見に行った。これも運がよければ、SLだった。確か、小学1年位まではいつもSLだったのだが、ディーゼル車というものができた。帰る時はいつもディーゼル車かどうか尋ねてから乗ったものだ。煙を吐くSLは本当にうれしかった。氷見線は単線なので、帰りはバックの姿で客車を引っ張っていた。これもまた嬉しかった。それから、雨晴のトンネル、あっという間なのだが、僕にとって唯一トンネルが味わえる処だった。氷見線のSLは1969年3月に廃止された。

C56

C56(高岡商工会議所提供)

 駅に着いてから随分歩かなければならない。橋の所で曲がって、更に永芳閣の所で曲がって氷見の家に着く。姉がいつもついていたから迷わなかったが、自分で歩くように「ここで曲がって‥‥‥」と心の中で復唱していた。当時の僕にとって大旅行だった。電車と船と汽車に乗れたし、うまく行けばバスにも乗れた。5年生くらいになった時、橋の角にスーパーマーケットができた。品数が多いのと、安いのに驚いた。確か、ここで黄色いナップザックを買った。

 氷見に遊びに行くのは主に「ごんごん祭」の時だった。おはぎを食べて叱られる子供の代わりに口にあんをつけたという仏さんが確かあったはずである。朝日山に皆んなで登るのがメインイベントだった。朝日山の上には小便小僧があり、何だか気恥ずかしい思いをした。氷見もうちも男の子は僕だけだった。

 当時、氷見の家は七軒町(?今の幸町)で朝日山の裏にあり、家の裏がすぐ山だった。尚子ちゃんは昔から意地悪で幼稚園の頃、僕が氷見といえずにシミといっているのをおかしいといって何度も発音させた。自分ではヒミといっているつもりなのにシミになるらしく、随分からかわれた。氷見と新湊では言葉も随分違うな、と思ったのだが、これらが僕の言語学の原体験となっている。夏だったが、庭で蝉が羽化したのを見た。それから蝉の抜殻がたくさんあり、小学校2年の夏には尚子ちゃんにそれをもって追いかけられた記憶がある。昆虫嫌いになったのはこの時のトラウマである。冗談ではない。

 氷見へ行くと、必ず、鞍川へ行かれ、といわれた。今は氷見の家も鞍川にあって並んでいるが、伊藤先生の新宅(今はボロ家になった)だけが鞍川にあった。鞍川は氷見の郊外で全く人里離れたところだった。伊藤先生は当時、有磯高校の先生だが、いろんなことに興味をもっていた。家に行くと、蔵書がぎっしりあった。僕が蔵書家になったのは間違いなく、伊藤先生の影響である。慎一郎ちゃん、恭子ちゃん(筑波大を出て、一番伊藤先生の教養が遺伝している)と今は硝子造形作家になっている憲治が生まれた。恭子ちゃんは小さい頃、斜視で可哀想だったが、大きくなって治したら途端にすごい美人になってしまった。

 たくさんの本を見るのは子供心にとっても楽しかった。小さな庭があり、そこでバーベキューをしたりしたが、とてもモダンな感じだった。慎一郎ちゃんが有精卵を買いに行かされたのを覚えているが、有精卵なんか知らなかった。何しろ、北大を卒業し、有磯高校の先生になって知子さんをカメラのモデルにして射止めた(89年の清三おじさんの葬儀の時、あんなにはげると知っていたら結婚しなかった、と知子さん)というだけあって、僕の親戚では一番のインテリだった。有磯高校ではもったいない気がした。

 だから、その後、宇奈月の社会教育へ転任し、富山市の社会教育で富山市民大学を創設するのに尽力されたことはようやく本領が発揮できたことになる。91年から94年春まで富山市のガラス工芸研究所の初代所長を務めた。87年からは『海鳴』同人の編集長となり、つきあいが続いている。

 尚子ちゃんは結婚が危ぶまれたが、どうにか久雄さんという素晴らしい人を得て、真子ちゃんと幸高君が生まれた。真子という名前は91年、紀子さんの子供が眞子と名付けられてから一躍有名になった。でも、久雄さんは94年に事故死した。

 氷見の家には高校に入学してから行ったし、最後は高校3年の夏だった。当時は毎日深夜4時まで勉強していたのだが、割と早く寝た。ところが起きたのがいつもと同じ正午だったので、おばあちゃんが「しょんべん長いねぇ」と感心していたのを覚えている。この頃は既に金大入学の自信があった頃で、ほんとにゆっくり休んだという気がした(つまり、それだけ寝ても全然平気だった)。

 桜の朝日山を登っていったことは小さい頃の大きな思い出として心に残っている。


☆文明の足音

 ソニーが初のトランジスターテレビを69800円で売り出した。うちは親父の退職金でテレビを買った。5万位だったのだが、当時の5万というのは今の500万位の意味があるかもしれない。コロンビアのテレビで14インチ位だった。布が上から被せられるようになっていた。その後だったかもしれないが、水の入ったレンズを買った。少しでも大きく見せようというのだが、これで目を悪くしたのかもしれない。家によっては赤青緑の色のついたプラスチックのカバーを付けていた。カラーテレビのつもりだったのである。

 8月末のローマ五輪は堀川菓子店で見た覚えがあり(山中の水泳!)、10月の浅沼稲次郎暗殺は家のテレビで見た覚えがあるから、その間に買ったのだろう。

 テレビは大変な娯楽だった。何よりも覚えているのはプロレス中継(見るなと言われた)で、それからジェスチャーだった。ジェスチャーというのはまさにテレビでなければできない番組だった。信子とチャンネル争いをよくした。特に金曜日の8時からはディズニーランドとプロレス中継が交互に放送されており、しかもNHKの裏番組が面白くて信子のお気に入りだった。しかも連続ドラマだから毎週見なければならなかった。僕は何といってもディズニーランドが見たかった。4つの国からなっていて、おとぎの国、未来の国、野生の国、冒険の国(?)があって、ウォルト・ディズニー自身が司会をしていた。声は小山田宗徳だった。でも決して儲かるようなアニメは上映されなかった(ピーターパンは放送されたと思う)。初めて劇場で見たディズニー映画は3年生の頃見た「101匹わんちゃん大行進」とだった。次は「王様の剣」だった。一人で見た。

 こんな風に田舎にも文明の足音が響いてきていた。ハイデガーは「われわれはなぜ田舎に住むのか」考察している。真の哲学的思考を続けるには人里離れた森の中に住むのが一番いいという持論だ。文明によっていろいろなものを失い始めていたのである。


☆野球

 春だったと思うが、グローブが欲しいと叫んで買ってもらった。当時で2千円という破格の値段だったが、買ってくれた。大浜さんという出入りの業者を通じて小杉のお店から買ったはずだが、このグローブは堅すぎて使いものにならなかった。どれだけクリームを塗ってもダメで、試合中は他人のを貸してもらった。野球がうまくなれなかったのはこのグローブのせいだと思っている。

 野球はいつもライトだった。滅多に球が飛んでこないから安心だったが、間違って飛んできた時にはヒヤヒヤだった。皆んなも固唾を飲んで見守った。時々、ライナーが独りでに入ってくることもあった。超ファインプレーみたいにみえて嬉しかった。

 あの頃はどういう訳か「短靴」というのが流行った。ゴム製の黒い運動靴と思えばいい。丈夫で長持ちであったが、何しろ、汗を全く吸収しないのですぐに臭くなった。安かったから履いたのだが、変な靴であった。

 バットは3年か4年の時、父親の出張(きっと四日市に公害の視察に行った時かもしれない)の際、バットが欲しいと叫んで買ってもらった。何も出張でなくても買えるのだが、お土産にどうしてもと泣いたのだ。細くて黒いバットだった。2年位で折れてしまったが、買い替えることはできなかった。


☆今の子どもたち

 だが何をしても昔の幸福は絶対によみがえりはしないだろう。何か貴重なものが決定的に失われたという気がするのだ。では何が失われたのだろうか。奇妙なことに、いくら考えても失ったものは見当たらない。

 そのころよりも何もかも増えていて、失われたものは何もないとしか思えないのだ。身長、体重、腕力、貯金、知識、想像力、感性、病気、シワの数、欲望、欲望充足の手段など、どれをとっても当時よりはるかに多くを手にしているのだ。【…】

 結局、生活があまりにも複雑になりすぎたのだと思う。どこでどう間違ったのか、気がついてみるといつの間にか無数の義務にしばられ、大量の欲望に振りまわされ、多数の敵と少数の味方にこづきまわされている。なぜか大人になるとだれでも同様の生活を強いられるのだ。

     -----土屋賢二『ツチヤの軽はずみ』(文藝春秋)

 豊かさと引き換えに僕らが失ったものは自然と仲間と冒険だ。僕らの小さい頃は自然が、育ててくれたから家庭教育も問題にならなかった。自然が様々なことを教えてくれたのだ。

 子供たちの生活から現実の体験が急速に消え、テレビをはじめとする間接的な体験、コンピューターをはじめとする擬似的な体験ばかりが子供の世界を形成している。

 僕らの時代には何もなかった。でも、ぼんやりと見て、手で触り、匂いを嗅ぎ、遊び回った自然こそがふるさとの原型だ。今の子どもたちに必要なものはテレビでもパソコンでもなく、まして、管理された自然でもなく、荒れ放題でもいい、現に自分たちが見て触れる、生きている世界だ。

 ふた言目には昔をほめ、ついに「私の若いころの富士山は、あんなものじゃなかった」などという老人のようになりたくはないが、満ち足りているはずなのに不満の塊になっている子ども達をみると「豊かさ」というのは本当に何だったのか考えてしまう。

 


【98年12月20日】

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