立山信仰はテーマパークの原点!?


  NHK富山の「金川欣二の何でもカルチャー」の2003年の第2回目(4月9日)に立山曼荼羅を取り上げて「立山信仰はテーマパークの原点?」というのを放送することにした。

  以下はそのレジュメだが、放送では内容を相当にスリムにして放送した。もちろん、ディズニーランドなどという言葉は使わなかった。


 「曼荼羅」というだけで難しいと思う人がいる。実際、密教の曼荼羅を見ていると何が何だか分からなくなる。

 曼荼羅というのはサンスクリット語で mandala といい、本質、心髄、醍醐(だいご)を意味するマンダmandaと所有を表す接尾辞ラ laを合成した語である。過去受動分詞の完了を示すので、「本質を所有するもの」「本質を図示・図解するもの」の意である。要するに宇宙観を示したものと考えればいい。漢文で「曼荼羅」「曼陀羅」などと音訳する。

 仏教では、旧訳(くやく)で壇(だん)、新訳で輪円具足(りんえんぐそく)、聚集(しゅうじゅう)と訳す。マンダラは、密教の法具の中心で仏画のジャンルに入るが、元来日本でつくられたものではなく、空海が中国から経典などとともに持ち帰った請来品である。用途の方法、目的によって分類すると、大きく両界曼荼羅と別尊曼荼羅に分けられる。ここまでは知らなくていい。

 立山曼荼羅というのは立山を「見立て」て描いた絵図のことである。

 いろんな図版があるが、下の絵は相真坊B本と呼ばれる曼荼羅である。なお、放送では少し違うA本を使った。

曼荼羅

 立山曼荼羅をどう考えればいいか。

 これをテーマパークのガイドブックだと考えればいいのだ。能登路雅子『聖地としてのディズニーランド』(岩波新書)という本があるが、ディズニーランドは聖地としての様々な仕掛けがあり、立山は逆に聖地をディズニーランド化したものと考えることができる。

 近世に入ると、立山縁起を図解した曼陀羅をもった芦峅寺の衆人社人によって、諸国檀那(信者)回りが行われ、立山信仰が全国に普及し、修験者だけでなく庶民も盛んに登拝した。江戸時代には芦峅寺(あしくらじ)や岩峅寺(いわくらじ)の「御師」(「おし」/伊勢だけは「おんし」)と呼ばれる人々が全国を回った。回って立山信仰の大切さを説いたのだが、これはテーマパークへの旅行説明会と考えればいい。

 上の図は4幅からなっていて、運びやすいように考えてあった。これを「宿」と呼ばれるような村の一軒を借りて、説明会を開いたのだ。

 この説明会を聞いて、みんな立山に行こう!と思ったことは間違いない。ただ、お金がなくて行けない人にはその場で護符が売られた。これさえ買えば、立山に登ったのと同じ効果がある、というお札なのである。ちょうどカトリック教会が「免罪符」を売っていたのと似ている。御師は旅行代理店を兼ねていたから、旅行日程とか方法とかを教え、立山町では宿を提供した。

 曼荼羅は実際に登る人のガイドブックになっていた。もちろん、本物の地獄があるとは思っていなくて、「見立て」をして、満足して帰ったことだと思う。

 絵は大きく4つの部分からなっている。

3.聖/邪

4.聖/正

1.俗/邪

2.俗/正

 1の部分は俗世間である。

 2は芦峅寺の様子が描いてある。ディズニーランドの中央ゲートがあって、ワールドバザーなど土産物を売るところがあると思えばいい。土産の元来の意義は「宮笥」(宮の食べ物)と書くところからも、神詣での旅先で授かったお札とか、縁起物、その門前地の特産品などを贈って、詣でた寺社の神仏の恩恵を分かち与えるため、持ち帰った物を人々に配ることに土産の意味があった。だから、ディズニーランドでも立山でもお土産が大切だ(修学旅行で連れていったら、ランドの方には何度も来て飽きているので、バザーでずっといた学生がいた)。伊勢には伊勢講があったように、「講」(お金を出し合ってくじ引きで代表者を詣でさせる制度)があって、選ばれて伊勢に行った人は代理に詣ってきたことを示すために土産を買って来たわけだ。

 立山はというか、多くの霊山が女人禁制だったために、立山町まで来た女性をどうするか?そのために布橋灌頂会(ぬのばしかんじょうえ)というイベントが行われた。布橋という橋があったのではなくて、橋の上に三筋の白布を敷いて、その上に目を覆った女性を渡らせた。罪が深ければ、落ちて死ぬと言われたから、怖かったことだと思う。そして、対岸にある真っ暗な姥堂(うばどう)で読経し、雅楽と声明が響く中、最後に窓が開けられると、正面にまぶしい光とともに雄山や浄土山が仰ぎ見えたという。これって、ちょうどディズニーランドの入り口近くに3Dシアターがあるのと似ている。昔は3Dでマイケル・ジャクソンの「キャプテンEO」をやっていたが、今は「ミクロキッズ」をやっているが、立山に登って宗教体験するシミュレーションがここで行われたのである。

 材木坂という柱状節理の安山岩が材木のようなさまで縦横に横たわっているところがある。昔女人堂を建てようとして材木をここまで運んでおいたところ、ある尼さんが来てそれを跨いだため、一夜のうちに材木が全部石に化したと伝えられる。当時の女性はここまで登るのが精一杯だっただろう。

 3の部分は地獄である。当時の人々にとってリアリティがあったと考えられるが、ディズニーランドの冒険の国だと思えばいい。ジェットコースターやホーンテッドマンションは子どもたちは怖い、怖いといいながら楽しんでいる。怖いもの見たさという人間の心理をついた場所である。実際に御師によって地獄の怖さをこの絵図を見ながら語られた。たくさんの地獄があって、心当たりのない人間などいないはずだから怖かったはずだ。

 4は極楽である。多くの如来などが集まっているが、これはディズニーランドのおとぎの国のようである。

 小さい子どもでも、ディズニーランドで本当にミッキーマウスに会えるとは思っていない。偽物だと分かっているけれど、そうした疑似空間をそれなりに楽しんでいるのだ。

 これらの図像を縫うように、立山開山縁起、つまり、どうやって立山が開拓されたかについての伝説が語られている。大宝元年(701年)佐伯有若が越中の国司として在任中、その子の有頼(ありより)が白鷹を追うて立山の奥深く入り、弥陀三尊の姿に接して随喜渇仰し、慈興と号して立山大権現を建立したという。この絵では 『三代実録』にも「清和天皇貞観五年(863年)九月甲寅正五位下なる雄山神に正五位上を授けられ」たという記録がある。この雄山神とは立山のことである。絵の中央下に熊を追いかける有頼が描かれていて、上段中央に熊が化身した阿弥陀如来と白鷹が化身した不動明王が描かれてる。

 御師たちはこの絵を見せて、テーマパークの立山に誘った。当時は、白衣にスゲ笠、わらじばき、金剛杖の清らかな姿で仲語(ちゅうご)《霊山案内人》に従って立山禅定(たてやまぜんじょう)《精神を統一して心理を体得すること》がなされた。そして、この「ガイドブック」を頼りに登山(禅定)をした。弥陀ヶ原や浄土山、地獄谷や剣岳などを見て、感慨に耽ったものだと考えられる。現代に生きる私たちがテーマパークに求めるのは非日常性である。民俗学では「ケ」に対して「ハレ」というが、特に地獄谷の非日常的な風景は昔の人々を驚愕させたことだろう。

 そして、この御師たちの全国行脚が越中売薬の基礎を作ったと考えられている。絵解きをする人はもういないが、『立山手引草』を発見した林雅彦『増補 日本の絵解き』(三弥井研究叢書)に立山曼荼羅の絵解きの模様が載っている。


※参考文献

福江充『立山信仰と立山曼荼羅』(岩田書院)---立山博物館の学芸員の福江さんの本で、番組に曼荼羅を貸していただいたり、ご協力ありがとうございました。ホームページ

立山博物館『地獄遊覧』---地獄の説明が詳しい。

荒俣宏「あの世の遊園地へ」『別冊太陽 地獄百景』(1988年夏号)---タイトルは似ているが、内容は異なっている。


 みくりが池の底のたい積物を調べていた東京都立大の福沢仁之教授らの共同研究グループは「9世紀末とされてきた立山信仰の発祥が6世紀中ごろまでさかのぼる可能性がある」とする調査結果をまとめた。池の底から「年縞(ねんこう)」と呼ばれる、樹木の年輪のように毎年形成されるしま模様のたい積物を採取。年縞は長さ190センチ、直径6.5センチあり、過去3000年の鉱物や有機物のたい積状況を年単位で、さかのぼることができる。

 年縞から、富栄養化の指標で人間の体内から排出されるリンの濃度を測定したところ、4世紀から上昇し安定、558年以降はさらに高くなり、9世紀末と同じレベルに達していた。福沢教授らは「立山には4世紀ごろから人間が入り込んでいた。史料などから9世紀末から10世紀とみられていた立山信仰登山は6世紀から始まった可能性がある」との見解を示した。国際日本文化研究センターの安田喜憲教授は「4世紀ごろ、山岳信仰を持つ朝鮮族が大陸から日本列島にやってきた。本格的な仏教の伝来は6,7世紀ごろからであり、立山信仰も仏教の影響を受け始めたのではないか」と話した。


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