●…ま
「…しなさいよ」で肯定、否定どちらでも使う。例:「ちゃんとしられま」(ちゃんとしなさいよ)。「でかいと食べられま」(たくさん食べなさいよ)・「でかいと食べられんなま」(たくさん食べないでくださいよ)。
●…まい
「…だろう」。「…んまい」は「…ないだろう」。例:「もう来んまい」(もう来ないだろう・「だらなこと、せんまい」(馬鹿なことをしないだろう)。
●マイアミ
氷見に「マイアミ」というホテルがある。アメリカのリゾートと全然関係ないはずなのにと思うが、「前網」、つまり、ホテルのすぐ前に地引き網があるということなのだ。「イ」と「エ」の区別のつかない富山方言らしい命名だ。
そういえば、東京ディズニーランドのあるところは舞浜だが、きっと「前浜」から来ているのだろう(山本周五郎『青べか物語』で分かるように、浦安はすぐ前が海だった)。と、思っていたら、読者に指摘された。浦安市第1期埋め立て事業中、1974年8月にオリエンタルランドの遊園地構想計画を千葉県が承認すると、1975年11月の第1期埋め立て事業完了に伴い、埋立て事業者のオリエンタルランドと協議をした。その結果、アメリカのウォルト・ディズニー・ワールド・リゾートが存するフロリダ州マイアミに因んで「舞浜」と名付けられたという。一体、どこが似てるんじゃ!
●マイカー
富山県ほど車がなければ暮らしにくいところはない。
99年に富山県は一世帯あたりのマイカー保有台数が1.615台、群馬を抜いて日本一になった。
2011年版『わが国の自動車保有動向』(自動車検査登録協会)によれば、3位以下は福井、岐阜、栃木、茨城、山形と続き、石川は10位、新潟は11位に顔を出す。東京は最下位の47位である。
加越線(石動―福野―庄川で1972年に廃線)、射水線、笹津線の廃線に続き、万葉線が存続か廃止かで揺れている。バス路線も苦しい。北陸新幹線建設に伴って北陸線や氷見線、城端線が第三セクター化される話もある。詳しくは「廃線跡を旅する」。
ま、いっかー、などとは言ってられない。
●…まいけ
「…しましょう」と誘う時に使う。NHKは「行かんまいけ富山」という番組を作っているが、入善の人から意味が分からないといわれたそうだ。『まいけ』という富山の女性雑誌も作られていたが廃刊。例:「遊ばんまいけ」(遊びましょう)・「食べんまいけ」(食べましょう)「こっで止めんまいけ」(これで止めましょう)。
●まいどはや
「まいどありがとうございます」の意。売薬さんにそういわれると買いたくなる。
●埋没林
1930年に魚津市の海岸で発掘された。昔のハンノキとヤナギの林がそのまま海に沈んでいたのを引き揚げた。ウルム期のもので世界一古い埋没林ということが分かった。土砂と冷たい水のおかげで保存されていたようだ。国の特別天然記念物。
昔は「埋没林記念館」で埋没しそうな名前だったので今は「ねっこランド」になったはず。おかしいのは水の中にコインを投げる人がいることで、水質を悪くするので館員も困っている。トレビの泉じゃないって。
●前田利家【まえだとしいえ】
尾張国に生まれる。「傾奇者」(かぶきもの:派手な格好と異様な振る舞いで人を驚かすのを愉しむ男)だったが、1551年(天文20)「うつけもの」織田信長に仕え、主要な戦争に従軍して功をあげ、81年には能登国七尾城主となり、能登一国23万石余を領有した。その翌年、本能寺の変で信長が急死し、羽柴秀吉と柴田勝家との抗戦となるや、巧みに対処して秀吉につき、柴田氏の滅亡後、加賀国2郡を加増されて金沢の尾山城に移った。加賀藩初代藩主。84年小牧の役には、徳川家康に応じて佐々成政を末守城で破り、越中4郡のうち3郡を加増された。90年の小田原征伐に参戦、奥羽検地に参与し、のち五大老の一人として秀頼の哺育に任じた。利家の子で二代目藩主の利長には子がおらず、利家と側室の子の利常が三代藩主になり、基盤を作る。
2002年の大河ドラマ『利家とまつ』で知られるようにいい名付けだった夫婦は仲良かったようだ。利家は徳川に付け入られないように大変警戒して、文化振興策を採った。司馬遼太郎と丸谷才一の対談にも出てきたが、丸谷才一・山崎正和『日本の町』(文春文庫 )にも丸谷の次のような発言がある。
丸谷 前田利家という人は美濃稲生の戦いで片目になったんだそうですね。戦闘の最中に右の目の下に矢が当った。それを自分で引き抜いて戦い続けたという武勇伝があるんです。ところが肖像画には全部両目で描かせた。ぼくは前田利家というといつもこの話を妙に思い出すんですよ。同じ頃の戦国武将、伊達正宗、あの人は片目で有名でしょう。あの人の肖像画は片目じゃないかな。
山崎 なにしろ独眼竜というのが売り物になっていますからね、あの人は。
丸谷 ええ。二人とも片目なのに、一人は片目を売り物にする。もう一人はそれを隠す。そういう前田利家の心の配り方になにかみやびやかなものを感じるんですよ。
山崎 なるほど。うまいところから話を始めるなあ。(笑)
丸谷 こういう話と、金沢という町の感じがなんか関係があるんじゃないかと思うんですが、どうですか。●前田利長【まえだとしなが】
利家の嫡男。高岡を築いて、隠居したが、梅毒で病死とか、豊臣と徳川の板挟みになって服毒自殺したという説がある。
●前田普羅【まえだふら】
富山で一番大きい俳句の同人は恐らく『辛夷(こぶし)』(福永鳴風先生主宰)であるが、これは主宰した前田普羅が富山に住んでいて戦後東京に移住するまで、富山の俳壇につくし、多くの門弟を指導したからだ。普羅は本名を忠吉(ちゆうきち)といい、横浜生まれ(本人は東京生まれとしている)。早稲田大学英文科に学んだが、中退して会社、裁判所に勤め、のち『報知新聞』記者となった。大正初期より『ホトトギス』に投句し原石鼎(せきてい)と並称され、また村上鬼城、飯田蛇笏らと高浜虚子門四天王に数えられた。1924年(大正13)より報知新聞富山支局長に着任し、退社した1929年以後も富山に住み、格調のある山岳俳句が世評高い。富山に住むことになった理由を句集「能登蒼(あお)し』の「序」の中で次のように回想している。
相談に要した五分間は、あまりにも自分の運命を決するには、短か過ぎたかも知れないが、五分間に自分の眼底に去来したものは、荒涼たる能登の国であり、雪をかづいた立山であり、また黒部峡谷であつた。次いではまだ鉄道も通つてゐない飛騨の国なのであった、実は五分間の考慮も長過ぎた、長過ぎた五分間は、自分がそれ等の山海峡谷の姿を、眼底に反芻(はんすう)するのに要した時間なのであつた。
26年より『辛夷』の選者、主宰となり、29年(昭和4)より俳句一途の生活に入ったが、戦火により東京、川崎に転々、病気がちの晩年を送った。句集『春寒浅間山』(43)、『飛騨紬(ひだつむぎ)』(47)、『能登青し』(50)の三部作などがある。普羅は一人一人の人間が別の容貌を持つように、土地にはそれぞれ独特の地貌があると考え、「地貌(ちぼう)」という言葉を使った。つまり、富山の人は「地貌家の人々」なのだ。
春雪の暫く降るや海の上
雪解川名山けづる響かな
絶壁のほろほろ落つる汐干かな
立山のかぶさる町や水を打つ
うしろより初雪降れり夜の町
雪山に雪の降り居る夕かな
大雪となりて今日よりお正月
雪の夜や家をあふるる童声
オリヲンの真下春たつ雪の宿
国二つ呼び交ひ落とす雪崩かな**「国二つ」はその土地を守護する男神と女神の国つ神で、大音響を立てる
雪崩は神々が呼び交う春の事触れという高浜虚子は「しみじみと日を吸う柿の静(しずか)かな」という句を「擬人法の句はほかにもあるが、作者が柿になるほど深く立ち入ったのは珍しい」と激賞した。
棟方志功は古くから普羅と付き合いがあり、福光の棟方志功記念館愛染苑(あいぜんえん)に句碑「寒芹(かんぜり)の水の流れに夕日かげ」が建立されている。
『辛夷』の創刊は大正13年に金沢でだったが、その前年4月17日に、池内たけしを八尾に招いて句会が開かれた。城ケ山公園に連なる角間の八幡社で、大コブシが目当てだったと、たけし自身が俳誌『ホトトギス』に記している。たけしの後、前田普羅が昭和22年の同じ4月17日に角間を訪れている。そのときの一文に「『辛夷』の名の依って出来た、卯花村角間の森にコブシの花盛りを見て来ました」と書かれている。
「創刊新年號(ごう)」は八尾図書館で発見され、表紙に高浜虚子揮毫の題字が踊っている。志功の絵がその後、『辛夷』を飾ってきた。「辛夷の由来」と題して、たけしが創刊の辞を書いている。角間の大コブシのこと、その大樹の下で句を作る二百十日会のこと、この俳誌が「北陸に於ける我ホトヽギス俳壇の雑誌」であること…。「八尾町の片ほとりの山麓(さんろく)に聳(そび)え立つ大辛夷の如(ごと)く美しく咲き盛ってもらひたい」。
ただ、富山にいたからといって富山を故郷と思っていたかどうかは分からない。絶句は「帰りなん故郷を指す鳥総松」というのがある。「とぶさまつ」というのは正月の門松を取り去ったあと、その穴に松の枝先を挿しておくもので新年の季語になっている。この故郷がどこを指すか?富山ではなさそうだ。というのも門松をする風習がないからである。
田島和生『新興俳人の群像』(思文閣出版)には驚くことが書かれている。秋田県の俳句同人誌「蠍座」の俳人2人が、無季自由律でプロレタリアリアリズムの手法による俳句を掲載して同人の左傾化を図ったとして検挙された。普羅が仲間を売ったというのだ。
「蠍座」関係者の検挙は、撫子の死後十ヶ月後だった。撫子の生前から特高は、探りを入れていたものと想像される。というのも、捕まった高橋は、担当の特高警部が密告者の張本人として「小野撫子と伊藤月草、前田普羅、県内では小島彼誰」の四人を名指しで挙げたといい、この事件でも撫子の名が最初に出ている。
●前田正甫【まえだまさとし】
富山藩2代目藩主。売薬業を発展させた人としても有名だが、馬鹿殿としても有名だ。江戸城で富山の薬の宣伝に成功した後、「多領商売勝手」を発行して諸国へ行商させた。薬袋の「越中富山反魂丹」を自分で書いた。製鉄を始め、細工師を招きその技術を伝授させ、新田開発を奨励し、そのために新しく用水を開削するなど、産業の発展に努めた。
剣術や槍術など武道の師範、また儒学者・医者を招き、藩士の文武向上を図った。狼狩りを好み、農民が困っているのに神通川で遊ぶ豪華な船を造った。また、人妻に横恋慕して取り上げ、反対する一家を皆殺しにしたことでも知られる。古銭研究家として『化蝶類苑』を著した。
●磨崖仏
修験道の拠点である大岩山日石寺の磨崖仏が有名。
●巻き寿司
関西では「巻き寿司」、関東では「海苔巻き」というが、富山では「海苔巻き」である。「巻き寿司」というのは後から学んだ言葉だ。ただ、関東の「巻き寿司」は細巻きのことが多いが、富山では太巻きである。でも、「太巻き」とは言わなかった。
●牧野
高岡市牧野地区。庄川右岸に位置し、住民の大半が旧新湊市出身で新湊市(新・射水市)にナイフのように突き刺さった地域。ほとんどが新湊に依存した場所なのだが、学校も高岡市立牧野小学校・中学校がある。新湊署管轄で行政区域とのねじれがある牧野地区を、高岡署に編入する計画が射水市誕生後あったが、住民の反対で見直されることになった。
●まく
「混ぜる」から「仲間に入れる」。例:「ちょっこ、この子もまいてやって」(ちょっとこの子も混ぜてあげて)。
●マクド
うちでは「マクドナルド」をマクドといっていたが「マック」ということも多くなった。他の人はどうだろう。
●まくり
「畳表。わらなどで作った上敷き。ござ。うすべり」。●マグロ
富山湾で本格的なシーズンは今月下旬から6月にかけてで初夏を告げる魚だ。氷見市水産漁港課によると、2004年度は例年より多い1111本(計3万4296キロ)の水揚げがあった。
●真酒亭【まさけてい】
県庁近くにある飲み屋で村田千晴さんが経営している。富山の銘酒を集めてある。村田さんは「みゃあらく座」というのも持っていて、寄席などの芸能の場所を提供している。イワナを主人公にした絵本も出していて多才な人だ。
●満寿泉【ますいずみ】
岩瀬にある桝田(ますだ)酒造店が作っているお酒の一種。冷酒が最高なのだが、幹事としては難がある。うっかり出すと底なしに飲む輩がいるので宴会費がいっぺんに跳ね上がる。桝田酒造店は1996年から海外輸出を始め、ニューヨーク、ロンドン、香港などに輸出しているほか、成田空港の免税店でも販売している。2004年にはイタリアのトリノで試飲会を開いている。2009年11月にはイギリス議会で満寿泉が振る舞われた。今年の議会開会を祝って上院が催したパーティーでの「一献(いっこん)」で、英議会史上、日本酒が出されるのは初めて。日英交流150周年を記念して行われた。
●マスコット
放送局のマスコット。KNBは“ゆっちゅ”と“めっぴ”で、確かジブリ生まれと“エチュー”(生まれは知らない)。BBTは“Bちゃん”でポンキッキーズのPちゃんそっくり(PがBになっているだけ)。NHKは全国共通のどーも君だが、チューリップは?
●鱒寿司【ますずし】〜鱒の寿司〜ますのすし
春、産卵のために神通川をさかのぼってくるマスを使ったなれずしで「鱒の寿司」ともいう。白い米、ピンクの鱒、緑の笹が微妙なハーモニーを醸し出している。作り方は単純だが、薄切りの鱒の塩加減と酢に浸すタイミングが味を決める。ピンクの鱒を開けた時、見えるようにするか、逆に底に敷くかはお店によって異なる。「源」はもちろん、上の方になっていて、開けた途端にピンクが目に映る。
二段重ねはJRの駅弁で一番高いとされる(もっとも金沢駅では予約制だが、大友楼の作る「加賀野立弁当」という1万円の駅弁があるが…)。最近では「鰤寿司」が美味しいので、葉山にいる姉のためと思って重いのに買っていったが、東京駅の地下街で売っていた。
嵐山光三郎の『日本詣で』(集英社)には「空飛ぶ円盤寿司」として出てくる。
笹の香りもふんわりと漂って、日本有数の弁当だ。
食べ物のよしあしは、県の文化レベルの判定基準となる。富山県の料理は、県内のどこの店に行っても、味が安定しており、裏切られることがない。県民の生活が豊かなことの証明である。
若いころは、金沢がある石川のほうが料理のレベルが上だと思っていた。しかし、富山県に行くたびに、富山の底力を見せつけられるようになった。天然純朴でかつ新鮮な素材にめぐまれた富山の料理は底力がある。
富山の家庭で作られているのを見たことがない(鯖寿司は家庭で作る)が名産になっている。昔は富山で鱒が捕れたのだが、今は輸入物を使っている。容器の曲げ輪っぱのエゾマツは北海道からとりよせているそうだ。
「源」がJRに入っているので一番有名だ。明治41年に「源」の前身「富山ホテル」が構内営業を許可され構内売店を開設したそうだ。国道41号線沿いにある「源」の工場(見学ができる)では一日限定20個の鱒の寿司も売っている。他の店が美味しいという人もいるが、好みだ。向笠千恵子『日本の食材おいしい旅』(集英社新書)に「富山湾名物、鱒ずしの味比べ」という章があり、次のように書いている。
どの店もつくり方自体は同じだが、一軒ずつ個性的な味を出している。食べ比べると、鱒の厚みの違いや塩締め加減、ご飯の味付けの濃淡により、風味が左右にふれるのに気がつく。わたしが気に入ったのは二軒。肉厚で身のしまった鱒、酢味が充分きいたご飯で濃いめの味の「高田屋(たかだや)」。柔らかな鱒にさっぱり味のご飯を組ませた「前留(まえどめ)」。対照的だが、どちらも頑固に美味を追求する店であった。
スーパーに98年頃から並ぶようになった、カットされた鱒の寿司は「神のメス」と呼ばれるウォータージェットメス(富山のスギノマシンで作られている)で切られている。
加瀬清志+畑田国男『日本三大ブック』(講談社1993)には北海道森駅の「いかめし」、信越線横川駅の「峠の釜飯」とともに「駅弁御三家」として記載されている。
享保(1716〜36)の頃、将軍に献上して好評を得たという歴史をもつ。田辺悟『ものと人間の文化史 網』(法政大学出版局)に神通川のマス網漁が載っている。『日本山海名産図会』に「越中神通(しんとう)川之鱒」というのを紹介している。「海鱒、川鱒の二種あり」と書いてあるという。
ます寿司の桶は下村で生産されている。
美食家の北大路魯山人は鱒を好んだ。「素人目には一見似たものではあるが、味からいえば鮭より鱒の方がはるかに優(まさ)る」と書いている(『星岡(ほしがおか)』昭和7年10月号)。茶漬けにした汁が「とても鮭の及ぶところではない」そうだ。
2002年に食品表示法が変わって「マス」ではなく「サケ」と表示しなければならなくなったために対処に追われている。というのは「アレルギー物質を含む食品に関する表示について」というのがあって表示が義務の「特定原材料」ではないが、サケも「準ずるもの」として表示の努力が必要になった。「『さけ』とは、サケ科のサケ属、サルモ属に属するもので、陸封性を除く。具体的にはさく河性のさけ・ます類で、しろざけ、べにざけ、ぎんざけ、ますのすけ、さくらます、からふとます等だ。さけとは、サケ科に属するしろざけ、べにざけ、ぎんざけ、ますのすけ等の総称。陸封性のにじます、ひめます等は一般にマスといわれるが、学問上ではマス類という分類はなく、明確な区分も無いのですべてサケ類とされます」と書かれているからである。サケにもシロザケ、ベニザケ、ギンザケなどいろいろだし、「マス」と付いていても、カラフトマス、サクラマスもサケ科サケ属だ。サケとは別の種類の魚のように思われてはいけないと、「マス」の表示もだめ、となったようだ。食品表示法の水産庁と食品衛生法の厚生労働省と景品表示法の公正取引委員会で見解が違う。サケかマスかという表示は普通は意味のないことだが、アレルギーの人にとっては大きな問題があるという。ただの「サクラマス」ではだめで、「サクラマス(サケ・マス類)」ならいいという。「富山名産サケの寿司」とすると酔ってしまいそうだ。
ところが、ます寿司業界によれば、まず、マスとサケの違いが分からないという。これは当たり前のことで、タカとワシは違うと一般的に思われているが、タカというのは、鳥綱タカ目タカ科に属する鳥のうち、中形から小形のものの総称とされる。これに対し、大形で強力な種はワシとよばれる。ところが、タカとワシの区別はかなり便宜的なもので、分類学的な分け方ではないのだ。マスとサケでも学術名、魚類和名、一般名称があり、方言や出世魚という名前の変わる魚としての問題もある。日本系のマスか外国系のマスかによって違うし、学会によっても見解が異なるという。実際、魚というものを生態系で見るのか、形態で見るのか、遺伝子で考えるのかによって、分類というのは違ってくるはずだ。言葉というのは連続している森羅万象を「分ける」機能を持つのだが、現実は明確に割り切れるものではない。ということで、行政の対応がまちまちで、業界は振り回されないように努力しているところだ。
なお、2003年から水産庁のガイドライン(あくまで「指標」だ)で店頭に並ぶ魚の名前が変わった。これは生鮮業だけに適用されていて、鱒寿司のような加工業には今のところ波及していない。
銀ムツも実際は南米産の深海魚で、メロという魚になった。切り身でしかお目にかからないから、そんな「詐称」ができたが姿はムツとはまったく違うらしい。水産庁はアマダイと名乗っていたキングクリップ、オキブリと名乗っていたシルバーなどを例にあげ、元の名称を使うよう指導している。
向笠千恵子『日本の食材 おいしい旅』(集英社新書)…「富山名物、鱒ずしの味比べ」の章がある。
どの店もつくり方自体は同じだが、一軒ずつ個性的な味を出している。食べ比べると、鱒の厚みの違いや塩締め加減、ご飯の味つけの濃淡により、風味が左右にふれるのに気がつく。わたしが気に入ったのは二軒。肉厚で身のしまった鱒、酢味が充分きいたご飯で濃いめの味の「高田屋」。柔らかな鱒にさっぱり味のご飯を組ませた「前留」。対照的だが、どちらも頑固に美味を追求する店であった。
朝日新聞の企画の「森公美子さんと選んだ日本一の駅弁」で1位だった。駅弁で人気が高いのは実は化粧箱に入っていてお土産としてそのまま使えたからだという人もいる。
2009年にますずしの製造販売「源」がこれまでのますずしを一回り小さくした「ますのすし小丸」など3点の新商品を発表した。1908年の創業以来初めてで、新商品は小丸のほか、「ますとたい小箱」「ますとぶり小箱」の3点。小丸は「一人では食べきれない」との声に応えるため、量を約6割に減らした。
●まぜて
「仲間に入れて」という時に「まぜて」という。篠崎晃一+毎日新聞社『出身地がわかる!気づかない方言』(毎日新聞社)によれば、「入れて」が多数派で、「まぜて」は東北、北陸、近畿、四国だ。青森、秋田では「かでて」、岩手でも「いれて」より多いという。「かてる」は「混ぜる」の意味で『日本書紀』『万葉集』に用例がある。「よせて」は京阪神から広がった言葉だという。九州になると、佐賀は「かたらせて」(「かたる」は「加わる」の伝統的な方言)、鹿児島は「かたせる」、長崎は「かちょって」だという。
●まぜぶき屋根
富山の散居村に多くみられた農家の屋根で、一軒の家の屋根で、かやぶき・いたぶき・瓦葺などの屋根がまぜこぜになっている屋根のこと。明治時代まで貧しかった越中の農家が、少しずつ経済的に豊かになる過程で、家を増築していく際にそれぞれの時代に応じた屋根の葺き方にしていったため、いろんな種類の屋根が混在するようになった。
まぜぶき屋根が生まれる背景には、富山ならではの理由があった。
・雪国のため、元々の家の柱が太くできていたため、家の増築に耐えれた。
・県民の勤勉、こつこつと努力する気風。←親の代が建てた家を壊して新しく立て直すのではなく、それを活かして、少しずつ家を大きくしていくという こつこつさ。『万華鏡 154 異形の建築』(2004年10月発行)参照。
●また会うまいか?〜また会おまいか?
「また会おうじゃないか?」で別れの言葉。「再見」“See you again.”“Au revoir.”。
●またい
「片づけ」で「またいする」は「仕舞う」。他県の人は「またいして」と聞いてそのまままたいでしまうことが多い。例:「か!何けぇ、ばやくやねけ。ちゃんとまたいしょ」(これは!何ですか。乱雑ではないですか。きちんと仕舞いなさい)。
●またたび酒
マタタビはマタタビ科のつる性落葉木本で山中に自生。広卵形の葉を互生、花期には枝先の葉が白変する。夏、ウメに似た白花を開く。液果は狭卵形で先がとがり、黄色に熟して食べられる。「猫にマタタビ」という言葉があるように、茎・葉・実とも猫類の好物。夏の季語である。九州や山陰、北陸などの山中でよく採れる。変形した果実は木天寥(もくてんりょう)と呼ぶ生薬になる。木天寥をこし、はちみつなどを加えて数年寝かせた原種を、水で割ったものがマタタビ酒である。冷え性や神経痛、リューマチなどに効く健康酒として知られる。
利賀村百瀬川にある酒造会社「仙人」が製造販売するリキュール「健康秘酒 仙人」に人気がある。「仙人」は淡麗でやや甘口な味が特徴で、鎮痛作用のほか、強壮・利尿作用もある。
●「まだら」
漁師歌の一つ。「まだら」は、鎌倉時代に佐賀県馬渡(まだら)島で生まれた漁師歌が北前船で北陸に伝わったとされ、岩瀬まだらもその一つ。漁師の安全と大漁を祈願して毎年2月11日に行われる「起舟祭」などで継承、普及に努めている。
●…町(まち)
「…町」を「マチ」と呼ぶか「チョウ」と呼ぶかは地域差が大きい。朝日新聞2004年12月4日の記事によれば、12月1日時点で2220町村中、「マチ」681、「チョウ」1056、「ムラ」417、「ソン」66である。このうち、関東7都県や福島、新潟、富山、石川では全町が「マチ」、近畿2府5県や岐阜、愛知では全町が「チョウ」と読ませる。北海道から関西まではすべて「ムラ」で、「ソン」は四国、中国、九州に偏る。2004年11月1日に「マチ」だけだった秋田県に美郷町(みさとちょう)、03年3月には石川県に能登町(のとちょう)が生まれた。石川には「能都町(のとまち)」があったが、旧名を使わないという合併の条件で「のとまち」を避けて「のとちょう」とした。
NHKの「気になることば」は以下のように書いてある。
「〜県○○町」の読み方は「まち」と読むか、「ちょう」と読むか、地域によって違い、どちらが正しい読み方かな?と悩んだりしませんか。この読み方は、各自治体によって決められていて、実は明確な法則はありません。全国の傾向を見てみると、おおよそ東日本では「まち」、西日本では「ちょう」と読むところが多いようです。ただし、岩手や宮城は両方の読み方が拮抗していたり、福岡や熊本・大分では「まち」の方が多いなど例外もあるようです。東日本では塩味を「しょっぱい」と言い、西日本では「からい」と言うなど、言葉や文化で東西の差がありますが、この「まち」と「ちょう」も関係しているのかもしれません。ところで、「〜市○○町」など、さらに規模が小さい町内会などのある「町」についてはどうでしょう。例えば、京都にある先斗町は「ぽんとちょう」ですが、隣の木屋町は「きやまち」と読みます。これも地域によって差があるわけではないようです。しかし、「ちょう」と「まち」を、字で読み分けている地域があるのです。和歌山県和歌山市では、「丁」と「町」と書いて、「ちょう」と「まち」と一目瞭然、読み分けが出来るようになっているのです。かつて武士が住んでいた所を“丁(ちょう)”、町人が住んでいたところを“町(まち)”と区別したことに由来するそうです。和歌山は江戸幕府の御三家、紀州家の城下町でした。侍町だったところが払い下げられた地域は、一番丁、二番丁などと言われ、町人の住んでいた所は、西鍛冶屋町、北桶屋町などまさに町人の町だったことがわかります。また伊達政宗のお膝元、杜の都仙台でも「丁」のつく地名が残っています。このように「町」という言葉をとってみても、歴史的な背景が見えて興味深いですよね。
●まちの駅
「まちの駅」は、休憩場所やトイレなど公共的な空間を民間で維持管理することを目的に国土交通省などが支援し、全国で取り組みが進んでいる事業。昔ながらの商家の店構えや丸薬づくりの実演などで観光客を集める医薬品製造・販売の池田屋安兵衛商店をさらに中心市街地観光の振興に活用しようと、まちづくりの有志らが2002年10月に結成した「富山観光創造会議」で準備を進め、富山市内で初めて「まちの駅」の認証を受けた。同店の近くにある島川飴店も「飴の駅」として認証を受ける予定。
高 岡 市 まちの駅たかおか
氷 見 市 Laぶりー茶屋
富 山 市 池田屋安兵衛商店
福 岡 町 まちの駅ふくおか
砺 波 市 チューリップの駅(フラワーランドとなみ)
井 波 町 木彫りの駅(井波木彫工芸館)
城 端 町 唄の駅(城端町観光協会)
庄 川 町 ゆずの駅(道の駅エントランス庄川) 噴水の駅(庄川町水記念公園) 湖上遊覧庄川の駅(関西電力(株)庄川船舶事務所)
上 平 村 世界遺産の駅(道の駅上平ささら館) 五箇山青少年旅行村 合掌の里●まつい
「一族郎党」で「纏」からという。例:「いっけまついなぁ、でかいと集まったちゃ」(親戚一同がたくさん集まったよ)・「おら、ヤンキースの松井と親戚まついながやちゃ」。
●まついか
「蛍イカ」。食べれる天然記念物は少ないだろう(正確には「浮遊海面」が天然記念物になっている)。3月から6月頃に産卵のために富山湾沿岸を群遊する。「まついか」というのは昔、松に煮汁をかけると緑がよくなるといって肥料として重宝されたことからとか、「たいまついか(松明烏賊)」の「たい」を略したものか、ゆで上がった赤い色から「まっかいか」となったともいわれているが定説がない。おチンチンのことも「まついか」と言った。←まずいか
●まつがあいだ
「待っている間」。例:「わし、まつがあいだ、仕事しとられ」(私が待っている間に仕事をしてなさい)。
●まつかる
「まとわりつく、まきつく、絡む」。例:「なんでわしのとこにまつかっとるがいね」(どうして私にまとわりつくんですか)。
●松川べり
昔、富山市の中心を神通川が流れていた後にできた川。桜並木が綺麗でお花見の名所になっている。昔の桜は空襲で焼けて再植樹したもの。遊覧船も運航されている。電気ビル裏のいたち川との合流地点から、桜橋、華明橋、塩倉橋があり、次に七十二峰橋があるが、ここから立山連峰の72の峰々を望むことが出来たためにつけられた名だという。安住橋、松川橋を過ぎると磯部堤がある。
●まっさがす〜まきさがす〜ばっさがす
「散らかす」だが「探す」と勘違いされることが多い。例:「部屋中、まっさがいてどこ行ったがいね」。
●…まっし
「…しなさいね」で金沢方言の典型的なもの。富山では使わない。例:「ごりの佃煮、食べまっしね」(ごりの佃煮をお食べなさいね)。
●マツダ岸壁
富山新港にマツダ岸壁というのがある。昔、東洋工業は広島から船でマツダの車を運んでいたのだ。ところが、五六豪雪の時に、大雪で車が全て押しつぶされ、陸送に戻ってしまった。
●まっつける
「巻き付ける」。
●松原秀典
福光町出身で、高岡工芸高校を卒業した。1988年ガイナックスに入社し、「トップをねらえ!」「ふしぎの海のナディア」などに参加。1996年に「新世紀エヴァンゲリオン」の制作終了と同時に同社を退職した後は、フリーランスとして「サクラ大戦」「ああっ女神さまっ」「巌窟王」などに参加。2006年、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」シリーズへの参加と同時にMカラーへ入社。映画『いばらの王 -King of Thorn-』(10年)『とある飛空士への追憶』(11年)ではキャラクターデザインを務めた。高岡市のキャラクターデザインを作成。新たに誕生したオリジナルキャラクター「あみたん娘(むすめ)」に“観光大使”となって活躍してもらう。12年に「あみたん娘」のデビューを祝って高岡市美術館で原画展が開かれ、万葉線のアイトラムがラッピング電車となった。
●まっつり〜まっつん
「お祭り」。「後祭り」(翌日の祭り)を「後まっつり」といったが、使わなくなった。
「まっつり」には遠くのものも帰ってくる。誰を招待するかも大きな問題だ。お酒を飲んで、「こぶた」をつけて帰す。招待客はお酒を持ってきて、時には獅子舞などに「華」を打つ。
祭の御馳走はまずおこわを炊き、鰤やフクラギを入れた煮物を作る。うちでは「すばい」といって切り刻んだ大根と油揚げと人参とユズを入れた酢物を作る。干し貝柱と牛蒡を煮たものも用意する。巻きずしやいなり寿司を作ることも多かった。
柳田國男は『木綿以前の事』で次のように書いている。
田舎では、正月と盆とは申すに及ばず、大小の祭礼や休み日には、カハリモノと称して通例で無い食物を給与せられる。常の日の食物が思い切って平凡であるだけに、家族一同婦人小児までが、是に参与することを楽しみにしている。即ち今でも改まった晴の食事の機会は多いのである。節供(せっく)は本来は此食事を意味する語であった。供とは共同食事、神や祖霊と共に総ての家族が相饗(あいきょう)することであり、節は即ち折目、改まった日をいふことであった。オセチという語は年越の日の食事の名に残って居るが、或(あるい)は又餅を意味する地方もある。斯(こ)ういう晴の食事には、服も亦(また)晴のものを着た。
●まっで〜まんで
「まるで」。例:「おらっちゃ、まっでだらにされたようなもんや」(僕たちはまるで馬鹿にされたようなものだ)。
●松村謙三
富山でもっとも力のあった政治家の一人。日中友好に力を注ぎ、記念館も残っている。
●松本仁佐(まつもと・にさ)
漂泊画家。津幡町の歴史、文化を探求する住民グループ「津波多百韻会」は、町出身の漂泊の画家・松本仁佐の作品の発掘、保存に乗り出した。
仁佐は金沢市北部から富山県西部にかけての地域をさすらい、その風貌などから「津幡の山下清」の異名を持つ。1904(明治37)年に現在の津幡町北横根で生まれ育った。22歳ごろに父親と死別してから県境を中心として転々とし、74年に70歳で他界するまで独身で通した。
戦時中の国民服をまとい、長いひげとぼさぼさ頭。両肩にふろしきとカバン、首の後ろにこうもり傘を下げるのが定番のスタイルで、めったに口をきかなかったという。しかし独学で得た絵の腕は確かで、松山龍雲の雅号でトラや馬、仏画などを優しい筆遣いで描き、酒代や宿泊代の代わりに渡したとされる。作品は約200点に上ったとみられるが多くは現存していない。枕絵もよく描いたというが、もちろん残っていない。
「こだわり見聞録」で取り上げたことがあるが、「サヴァン」論と国文学者で民俗学者の折口信夫の「まれびと」論で説明した。まれに訪れる客人を「まれびと」というが、折口はまれびとを時を定め定期的に訪れる霊的存在と規定している。まれびとは海の彼方にあると信じられていた他界から村人を祝福に訪れる。村人はこのまれびとを心から歓迎した。今でも地方には、客人を手厚くもてなす風習が色濃く残る。折口はまれびとに対する信仰が、民俗信仰の根幹にあると考えた。放送後、仁佐の他にも同じような人がいっぱいいた、という反響があった。昔から「お客様は神様」だったのである。
●まなし
「間なし」から「ずっと」。例:「東京ちゃ、まなしに電車来っねけ」。
●「幻の赤かぶ」
「五箇山かぶら」。生産量が限られており、地元の人でも手に入りにくいことから、「幻」を冠して呼ばれることがある。
●「幻の魚」
深海魚のゲンゲ(幻魚)。
●「幻の滝」
剱沢大滝のことでNHKの番組で「幻の滝に挑む」として放送された(2004年1月2日)。この滝は黒部川下ノ廊下に流れ込む剱沢にあり、大小10の滝(落差計150メートル)で構成されている。極めて豊富な水量を誇り、険しさは国内随一。踏破には高度なクライミング技術が求められる。志水哲也の写真集『黒部 幻の滝』(ハート工房)も出ている。
●まま
「ごはん」。例:「まま、くわせん気か」(ご飯を食べさせない気か)「あんた、さっき食べたばっかやねか」。
●まむし
大阪でウナギを「まむし」ということがあるが、富山では使わない。蝮とは関係がなく、「ひつまぶし」と同じくご飯に「まむし」たから、そういうようになったとか、ご飯とご飯の間で蒸すから「間蒸し」だという説もある。上司小剣の「鱧の皮」には「まむし」がうまく使われている。
●まめ
「真面目な、律儀な、よく働く」で最高の褒め言葉で別の方言ではないが、富山では頻繁に使う。「元気な」という意味もあり「まめに暮らされ」(元気で暮らしてください)ともいう。東部では挨拶代わりに「まめなけ?」(お元気?)という。例:「まめにぃ仕事してっしゃるねけ」。
●豆占い
小正月の1月15日に県下全域で行われていたという。豆のよいものを12粒選んで、炉の灰の上に並べ、右から順に正月、二月と見立てる。白く灰になる月は晴れ、黒く焦げる月は雨、膨れ上がって破裂する月は風邪、早く焼ける月は日照りと占った。
●まめごわい
「豆強飯」から豆の入った赤飯。
●繭玉
正月に餅米で作った繭玉を飾るのは金沢ではよく見られる。富山県内では高岡など呉西が中心である。
JR富山駅前のビルで駅周辺がマリエのおかげで一変した。これだけで「マリエ富山の言語学」というエッセーを書いている。通学の高校生ばかりになった。
●マリエンボーン
オークスの結婚式場で富山にある。ミュンヘンのアマリエンブルグなどから採った名前。近くに「富山迎賓館」という赤坂迎賓館かと思う結婚式場もある。
●マリモ
国内のごく一部の自然湖沼にのみ生育するマリモが富山に自然繁殖している。第一発見者は廣明正一で、常願寺川扇状地上に位置する富山県立山町野口地区の民家の人工池に繁殖している。1998年、間違いなくマリモであると判明。しかもDNA鑑定の結果、北海道の種とは違う種類と分かった。
●まるける〜まっつける
「巻く」。
●丸の内
富山に丸の内があるのは当然だが、氷見にも丸の内町というのがある。昔、お城があったのかと聞いたら、新町名を考えるときに人気があったから丸の内にしたという。古くからの地名の改悪は許せない。
●まるまげ祭
氷見市で4月に行われるお祭りで幸町の千手寺の「観音大祭」のイベントの一つで戦前は「芸者祭」と言ったという。若い娘たちがまるまげを結って歩くだけのお祭りで、江戸時代からあるという説と、新しく1959年の明仁皇太子の結婚式を機に始まったという話がある。芸者が年に一度の「観音大祭」の休日に人妻のシンボルとされた丸まげを結って千手観音にお参りし、幸せな結婚を祈ったのがお祭りになった。芸者の減少で83年から一時途絶えていたが、87年から一般公募で再開。2004年からはホームページでも公募するようになった。
●漫画
富山が漫画に出ることは極めて少ない。藤子不二雄の『まんが道』、映画『少年時代』の原作となった藤子の漫画の他はなかったと思う。
2006年1月から始まった『ヤングサンデー』の「ほしのふるまち」は、氷見が舞台だ。主人公「堤恒太郎」が東京のエリート校で落ちこぼれ、「県立氷見ヶ丘高校」に転校してくる。漫画は遠縁の住む氷見に預けられた少年が氷見線で到着するところから始まる。これ以上線路のない終着駅の風景に、都落ちを実感し思わずキレてしまう。「東京やと見えん星も…場所が変わればちゃんと輝くんやね…」という言葉が田舎を表している。「レガッタ」などを手がけた原秀則が描いている。現地取材しただけあって、コンビニや民宿など、なじみのある風景が至るところに出てくる。せりふの多くは富山弁だ。居候先の隣に住む同級生の女の子との恋愛を軸に話が進む。
●漫画家
富山の漫画家というと何といっても、藤子不二雄である。のんびりした、上品な作風の山根赤鬼、青鬼という人もいた。「漫画王国」というと高知県だが、富山も結構、多いのではないかと思う。2005年8月には高岡工芸高校が全国高等学校漫画選手権大会(まんが甲子園)で日本一になった。
- 山根青鬼・赤鬼=本名・山根忠・孝の双子の漫画家。昭和20年、大阪から母の故郷の朝日町に疎開。そのころから漫画を描き始め、泊中学2年生だった1949年、双子の兄の山根青鬼(本名山根忠)さんと交代で北日本新聞に「北日(ほくにち)坊や」を描いてデビュー。これを読んだ田河水泡から「中学を卒業したら、東京へ出ていらっしゃい」となった。52年に一家で上京し、田河に弟子入りし、忠は「青鬼」、孝は「赤鬼」のペンネームをもらった。『山根青鬼・赤鬼漫画道中記』(草の根出版会)によれば、そのころ、まだ富山にいた藤子不二雄Aは「すごくジェラシーを感じた」、藤子・F・不二雄は「ぼくらをまんがの世界へかりたてる大きなエネルギー源になった」と述懐している。56年から赤鬼が『よたろうくん』を少年誌に長期連載。65年に『丸井せん平』、69年には毎日小学生新聞で『なぞ形平次とりもの帳』を連載した。88年『まんが5・7・5』で日本漫画家協会賞優秀賞を受賞。青鬼は『めだかちゃん』でヒットした。生活感のある、ほのぼのとしたユーモラスな作風で人気を集めた。89年、同門の永田竹丸とともに、田河から名作『のらくろ』の執筆権を譲り受け、新作を描き続けた。青鬼と共に漫画の通信教育をしている日本漫画学院が発行する漫画新聞に2001年1月から『のらくろちゃん』を始めた。赤鬼は03年に死去。
- 田河水泡の弟子。赤鬼の『よたろうくん』、青鬼の『名たんていカゲマン』など。
- 藤子・F・不二雄=本名・藤本弘。高岡市生まれ。『ドラえもん』『キテレツ大百科』など。
- 藤子不二雄
=本名・安孫子素雄。氷見市生まれ。『オバQ』『怪物くん』など。
- 花咲アキラ=本名・花崎昭。新湊市出身。『美味しんぼ』(雁屋哲・原作)の絵を描く。
- まつもと泉=高岡市出身。『気まぐれオレンジ★ロード』など。
- 今市子【いまいちこ】=氷見市出身。『百鬼夜行抄』など。『ネムキ1999年10月号今市子特集』(朝日ソノラマ)がある。
- 立野真琴=『BUT、BADボーイズ』『D−WALK』など。
- 藤谷みつる=富山市出身。実家の朝日湯のバンダイの経験を描いた『フロ屋のおきて』。
- 鳥図明児【ととあける】=小矢部市石動出身、高岡高校、奈良女子大卒。『虹神殿』『水蓮運河』『アフリカ遊び』など。
- CHOCO=富山市出身。メディアワークス発行の電撃大王にて『イグナクロス零号駅』を隔月連載。
- 西本英雄=黒部市出身。週刊少年マガジンにて『へなちょこ大作戦Z』連載。
- 三輪士郎。ウルトラジャンプにて「DOGS」を連載。
- 津田今日子=富山市出身。週刊少年ジャンプ 98年9号で、読切作品で「忍者総合学院IGA」掲載。
- 尾山泰永=18禁系で活躍。
- 芹沢由紀子=富山市出身。タウン情報とやまで『お注射します』連載。
- 都筑せつり=高岡市出身。『壊れはじめた天使たち』など。
- あさぎり夕=富山市出身。
- 津野裕子。
- 森みちこ=本名・大野倫子。京都出身、井波町在住。
●万金丹【まんきんたん】
「越中富山の反魂丹、鼻くそ丸めて万金丹、それを呑むのはあんぽんたん」といわれた薬。
「万金丹」という落語もある。二人の旅人が田舎のお寺に泊まる。にわか坊主になって弔いをする羽目になるのだ。極めつけは薬の袋に書いてあった名前を戒名だと誤魔化すくだりだ。「伊勢浅間霊法万金丹」と書いてあったのだが、仏が生きている時は威勢が良くて死んだらあさましいから「伊勢浅間」、お礼は法に則って払いなさい、で「霊法」、万屋の金兵衛が死んで「万金」、痰(たん)がからんで死んだから「万金丹」だという。ところが、金兵衛が死んだのは痰ではなくて、川で溺れて死んだといわれて、ならば「川におっこちたん“”」の「たん」にしておけ、という。オチは、但し書きに「白湯(さゆ)にて用うべし」と書いてあったので、「この仏は、水死したから、水にはこりている」。
●『万華鏡』【まんげきょう】
『富山写真語(しゃしんがたり) 万華鏡』。1988年に編集者・岡田順一と「ふるさと開発研究所」を開設した写真家・風間耕司(1938年東京都生まれ、日本大学芸術学部写真学科中退、1997年第19回サントリー地域文化賞)が1991年から続けている月刊誌。500円だが会員だけに販売される。第1号で立山神殿を選んだが、これがきっかけで神殿の平成の遷宮が行われたという。
※2002年11月6日に「とやま夢航海」に出演してもらう。
1号 立山神殿 2号 鰤 ブリ 3号 屋敷林
4号 称名滝 5号 先用後利 6号 鱒のすし
7号 擬洋風 8号 越中七大河 9号 五百羅漢
10号 富山湾 11号 五箇山 12号 北前船
13号 越中国 14号 木造校舎 15号 高岡銅器
16号 富山米 17号 天神様 18号 越中の神々
19号 越中の舞 20号 映画人 21号 土蔵
22号 越中万葉 23号 布橋 24号 治山治水
25号 井波彫刻 26号 瑞龍寺 27号 牡丹雪
28号 ホタルイカ 29号 チューリップ 30号 水
31号 鏝絵 32号 高岡御車山 33号 篤農家
34号 祠 ほこら 35号 剱岳 36号 鎮守の森
37号 石垣 38号 立山砂防 39号 婚礼蒲鉾
40号 立山鳥獣 41号 越中和紙 42号 越彼岸桜
43号 虻が島 44号 終着駅 45号 室堂平
46号 風の盆 47号 ヘルン文庫 48号 合掌造り
49号 富山大橋 50号 有峰湖 51号 ベニズワイガニ
52号 富山干柿 53号 報恩講 54号 富山弁
55号 あゆの風 56号 種籾 57号 螺旋水車
58号 如意の渡 59号 ヒスイ海岸 60号 黒部峡谷
61号 越中版画 62号 富岩運河 63号 金融王
64号 越中七かね山 65号 起業家 66号 特産果物
67号 富山城 68号 シラエビ 69号 潅漑用水
70号 磨崖仏 71号 樹 72号 厠
73号 まちかどの味 74号 看板 75号 煉瓦
76号 中島閘門 77号 散居の蔵 78号 ある風景
79号 碑 いしぶみ 80号 発酵 81号 再生
82号 川 83号 蔵印 くらじるし 84号 飾り瓦
85号 水天の石仏 86号 樹命 じゅみょう 87号 くすりの上袋
88号 越の狛犬 89号 なまこ壁 90号 冬期歩道
91号 餅 92号 道祖神 93号 栃
94号 垣 95号 二宮金次郎 96号 雪美
97号 かけ橋 98号 公衆便所 99号 仏壇
100号 立山連峰 101号 とやまの近代化 102号 艶麗エンレイ
103号 洞杉どうすぎ 104号 電気ビル 105号 古志の人の書斎
106号 富山の博物館「木彫」 107号 となみ野の不動さま 108号 奉安殿
109号 灰納屋 110号 とやまの形-鏝絵- 111号 棚田
112号 アズマダチ 113号 とやまの玩具 114号 松並木
115号 古刹・千光寺 116号 小さな町の物語 117号 とやまの伝承料理
118号 とやまべん 119号 富山の博物館「定置網」 120号 村社
121号 カイニョ(屋敷林) 122号 漂白と清閑の俳人 123号 花街
124号 南無仏太子像 125号 富山の博物館「祈りの形象」 126号 富山のお土産
127号 清水 128号 道・みち・路 129号 小屋 130号 境界…●まんぞう
「万雑費」で自治会費。元は「万雑公事(まんぞうくじ)」といって荘園において、年貢以外の、夫役を含むすべての雑税を指した。
●曼荼羅/曼陀羅【まんだら】
曼陀羅はサンスクリット語で mandala といい、本質、心髄、醍醐を意味するマンダmanda と所有を表す接尾辞ラ laを合成した語で「本質を所有するもの」「本質を図示・図解するもの」の意である。仏教では、旧訳(くやく)で壇(だん)、新訳で輪円具足(りんえんぐそく)、聚集(しゅうじゅう)と訳される。曼陀羅は密教の法具の中心で仏画のジャンルに入るが、元来日本でつくられたものではなく、空海が中国から経典などとともに持ち帰ったものだ。大きく両界曼荼羅(胎蔵界曼陀羅と金剛界曼陀羅)と別尊曼荼羅に分けられる。
悟りを求めて修行をする際の心の案内図の役をしたり、弟子が入門するときの儀式などに用いる道具あるいは舞台装置ともなる。一般に絵として描かれたものを意味するが、世界(宇宙)も、人間の身体も、さらには一人ひとりの心も曼陀羅と呼ばれる。例えば、京都の大文字焼き(「五山の送り火」というのが正しい)の時に、盆に張った水に「大」の文字を映して、その水を飲むが、「大」の文字を浮き上がらせている山、盆の水に映った山、それを見た人の心の3つはそれぞれ曼陀羅と呼ばれるのである。このように曼陀羅は、世界と心が元来は同じものであることを体験するための道具になっている。
富山では立山信仰を布教するための絵画である立山曼荼羅(「曼陀羅」とは書かない)が有名。これを用いて「絵解き」を行い、布教して回った。説明後に「免罪符」のようなものを買わせたり、立山に来ることを勧めた。
立山博物館で観るといい。辺見じゅん『花子のくにの歳時記』(小学館)には皇女和宮が夫家茂や母と兄を亡くした後の慶應3年に立山曼荼羅を寄進した話が出てくる。
曼陀羅で有名な前田常作(武蔵野美術大学長)は入善町出身。また、利賀村の瞑想館にネパールのトラチャンさんが富山で描いた曼陀羅がある。
●マンテンホテル
ワシントンホテルといったが、99年春にマンテンホテルになった。知っている限りでは最悪のネーミング。パーティを開いた時にみんなから「マウンテンホテルってお前、立山でやるのか?」といわれた。従業員が「めざせ、マンテン」というバッジを付けていた。
●まんなおし
まんなおしは不漁が続いた時に漁師たちが酒盛りをする習慣で共通語。伊丹十三が『あげまん』を撮った時、これはいやらしい意味ではない、と弁明していたが、それがこちらの「まん」である。元々「ま(間)」に撥音が添加されて「めぐりあわせ。運。ま」の意味になったもので、歌舞伎「幼稚子敵討」でも「悦べ、悦べ、まんが直つて来たぞ」という。
●「万葉」
天平年間に越中の国司として大伴家持が任ぜられ、ここで多くの和歌を作ったので高岡近辺には「万葉」の名を付けたものが多い。二上山(ふたがみさん)の中腹には万葉歴史館が1990年に建てられた。高岡万葉祭りには「万葉集全20巻朗唱の会」というのが行われ、様々な平安衣装を着けて3昼夜に亘ってリレーで朗唱される。
「越中万葉夢幻譚」も開かれる。これは1989年に始まった野外音楽劇で大伴家持がタイムスリップして出てくるというストーリーになっている。8月末の2日間公演が行われる。夢幻譚は、以来2001年まで13回開催された。市民俳優千人余りが歴史スペクタクルを熱演する日本最大規模の野外音楽劇で、94年に「サントリー地域文化賞」と「国土庁長官賞」を受賞、99年には「国際演劇年鑑」にその年の最も優れた舞台の一つとして掲載されるなど、市の代表的な行事に育ったが、2002年に休止となった。
大竹しのぶ主演、森田芳光監督の松竹映画『黒い家』(1999年)に庄川鉄橋を走る万葉線が情景として登場する。スタッフが「六渡寺駅周辺の風景が映画に不可欠」と固執して7月下旬に撮影が行われたのだ。大竹しのぶ夫婦の出身が中伏木という設定になっているが、ホラーなのであんまり嬉しくないことは事実だ。
新湊市と高岡市を結ぶ重要鉄道路線加越能鉄道高岡軌道線(12.8km)は、国鉄新湊線の旅客扱い廃止により、51年4月開通した。
かつては射水線で富山と新湊、高岡を結ぶ一大路線だった。中新湊駅の賑わいは大変なものだった。ところが、富山新港開港によって港口が切断されてしまい、新港東口と新富山駅を結ぶ射水線は80年に廃線となった。
高岡から六渡寺まで高岡軌道線とし、六渡寺から新富山までは射水線だったが、1980年12月(この年の3月末で射水線が廃止された)に「万葉線」と呼ばれるようになった。もちろん、万葉の歌枕だから名前を採った。高岡駅と伏木を結ぶ路線もあったがもっと前に廃止されている。
高岡―片原町―坂下町―本丸会館前【高岡市役所前】―広小路―志貴野中学前―高岡市民病院前―江尻―旭ヶ丘―荻野―新能町―米島口―新吉久―吉久―中伏木―六渡寺―庄川口―新湊市役所前【西新湊】―新町口―中新湊―東新湊―海王丸(越の潟口を移転)―越の潟。
中新湊―高岡は15分毎、越の潟―高岡は30分毎に走る。中新湊止まりの電車に乗ってしまい、中新湊で降ろされ、越の潟までは新たに乗車賃を払わなければならなくなって慌てる客も多い。
高岡駅前から越の潟まで約45分で結ぶ。
越の潟駅は昔の駅とは場所が違う。富山新港で切断されるまでは一大観光地で、海水浴客が多く来て、弁天島などをめぐる観光船も出ていた。弁天閣という旅館もあった。
過疎化とモータリゼーションと東西分断に負け、75年をピークに利用者が減少した。
2002年に加越能から第3セクターに移管された。
2004年に新しい車両「赤電車」が導入された。新潟トランシスが製造した2連節低床車両で熊本市交通局9700形・岡山電気軌道9200形(MOMO)の同型車となる。全長18.4メートル/幅2.4メートル/高さ3.4メートルで床面高さが約30センチでノンステップ式。車体は前年登場した岡山電気軌道9200形と似ているが、配色に車両コンセプトである「情熱:パッションと元気」を表す「赤」を大胆に使っている。地場産業を活用し、漆工芸の螺鈿(らでん)で万葉線のシンボルマークをあしらっている。運行時の安全を考慮し、通常路面電車にはないウインカーや尾灯を備える。日本産業デザイン振興会グッドデザイン選定委員などを務める工業デザイナー、佐藤康三がデザインを担当した。公募していた新型低床車両の愛称を「アイトラム(AI−TRAM)」に決めたと発表した。「アイ」は、豊かな海の幸をもたらす東風を意味する「あいの風」からとり、「トラム」は路面電車を指す。
746年、大伴家持は越中国府(富山県高岡市)に国司として赴任した。5年間の滞在中、立山や日本海の自然美を愛し、220首余りの秀歌を残した。それにちなんで、この町を走るチンチン電車は「万葉線」という。名は優美だが、経営マインドはたくましい。
この秋のダイヤ改正で、通勤時間帯や終電直前に、JRとゆっくり乗り継ぎができるよう工夫した。電車の無線設備を利用して、車内でインターネットが使える実験も始めた。来年1月から、真っ赤な車体の超低床バリアフリー車両が運行を始める。06年度までに6編成を導入する計画だ。
1948年に地元私鉄の一部として開業したが、クルマ社会化で乗客が激減した。20年がかりで、存廃が検討され、昨年4月、第三セクターとして再出発した。こういった動きが市民参加・主導の形で進んだことに、なにより価値がある。
商工団体や市民で結成したグループが、高齢化した町のこれからにどう役立てるか、などを訴え続けた。口だけではない。新会社の資本金のうち、約5000万円を市民が出資した。PR効果で、02年度の乗客は100万人に達した。黒字化には年間130万人以上の乗客が必要で、ハードルは高いが、不可能な数字ではない。
交通渋滞の元凶扱いされ、次々姿を消した路面電車はいまも、18都市で生き残っている。地球環境保護の視点から見直され、LRT(軽量軌道交通)の新しい呼び名で、JR線からの転換や新線建設の計画が進む。
今月22日、高岡市で「中部地区路面電車サミット」が開かれる。各地の代表が、路線存続への取り組みや活用のアイデアを持ち寄る。そこから、路面電車のある町の営みと人の暮らしの、好ましい未来像が見えてくるはずだ。
(毎日新聞「余録」2003年11月4日東京朝刊から)
2004年1月21日から赤電車が走り始めたのだが、寒さに弱いのか、脱線したり、動かなかったりしている。ちょっと心配。その後、2両目の車両が来たがいきなり脱線した。9月には2両とも故障して動かないという異常事態になり、月末に満を持して再開したが、その日に脱線。1センチ車輪を短くして解決した。
NHK「ご近所の底力」で同年9月2日に「生活の足 鉄道を守れ」の妙案で万葉線保存が取り上げられたが、そんなにうまく行くのか心配。2005年には新車両の導入を断念した。
富山県の高岡市と新湊市を結ぶ万葉線もかつては赤字が累積し、廃止の危機を迎えていた。そこで立ち上がったのが商店街で洋品店を営む島さんを中心とした「RACDA高岡」の人々。まず始めたのが勉強会。鉄道を街作りの中でどのように生かして行くべきかを皆で学び議論した。そして、地域の自治会などを通じて人々に集まってもらい「鉄道の存続」を訴える、いわゆる出前講座を開いた。当時は「赤字の鉄道は無用」「車の方が便利」「バスで充分」といった考え方がまん延していたが、出前講座を通じてこうした考え方をくつがえし、鉄道存続の賛同者を増やしていった。1年の間におよそ30カ所で出前講座を開催。地域では少しずつ鉄道の存続を求める声が高まっていった。住民のこうした声を受けて、高岡新湊両市の議会で鉄道存続が決定。万葉線は第三セクターとして走り続けることになった。 ※2004年2月4日の「とやま夢航海」で「万葉線☆徹底解剖」を放送した。
●万葉ロード
高岡駅に2011年完成した南北の歩行者用通路。一般の応募から「万葉ロード」が選ばれ、通路の南口は「瑞龍寺口」、通路北口は「古城公園口」となった。
●万歳
「加賀万歳」「越前万歳」という伝統芸能はあるが、「越中万歳」「富山万歳」というのは聞かない。
●万葉丸
富山新港遊覧航路に2005年4月29日就航した観光船。新湊観光船が運航。新港遊覧コースは月曜を除き毎日、建設中の新湊大橋(仮称)や新湊弁財天などを約30分間で巡る。
ん わ ら や ま は な た さ か あ り み ひ に ち し き い 英語 る ゆ む ふ ぬ つ す く う 数字 れ め へ ね て せ け え 序文 を ろ よ も ほ の と そ こ お