金川 欣二:マックde記号論(言語学のお散歩)


 

笑説 越中語大辞典



●「く」

 名古屋もそうだが、富山弁では「く」を省略する。「短くなる」→「短なる」、「早くなる」→「早なる」、「遅くなる」→「遅なる」となる。

 同じように「ければ」も省略されてしまうというのだ。「見なければわからない」→「見んとわからん」、「行かなくて話にならない」→「行かな話にならん」などとなる。

●食い合わせ

 「食べ合わせ」ともいう。一緒に食べると有害であると考えられている食べ物の組み合わせでウナギと梅干し、スイカと天ぷらなどや、それを同時に食べることをいう。「食べ合わせ禁忌集」は何よりも富山の売薬さんがおまけとして持っていったもので、台所の竃の後ろの壁や、分厚い作りつけの戸棚の引き戸に飯粒で貼りつけられていた。子ども心に、万が一間違って食べてしまったらどうしよう、と怖かったのを思い出す。今は非科学的だとされるが、同時に、正しかったという人もいる。

 安野光雅『絵のある人生』(岩波新書)の冒頭に次のように書いてある。安野の出身地・津和野まで富山の売薬さんが行っていたのにも驚く。

 わたしは子どもの頃から絵を見ることが好きでした。絵でさえあれば、なんでもよかったのです。今のような絵本はなく、駄菓子屋に売っている絵草紙のようなものしかありませんでした。

 富山の薬屋さんが置いていく「食べ合わせ」の注意書きなどを覚えています。そこには「ウナギとうめぼし」「カニと氷水」などといった絵が描いてありましたが、そんな絵も飽かずに眺めました。

 團伊玖磨も『パイプのけむり23巻 さわやかパイプのけむり』(朝日新聞社)に「食い合わせ」というエッセーを書いている。

●草刈り十字軍

 1974年、造林地帯への除草剤空中散布の対案として生まれた若者たちの実践活動で「富山の奇蹟」と呼ばれた。

 『草刈り十字軍』という映画も作られ、原作は『山へ入って草を刈ろう』(足立原貫・野口伸共著)、吉田一夫脚本・監督、加藤剛(俳優座)主演。

●草島ねぎ

 60年ぶりに畑での栽培が再開された富山の伝統野菜。草島ねぎは、柔らかくて甘く、一本の茎が5−7本に分かれる。ほかの種のネギに比べて寒さに強く、種は遅まきで冬季に収穫の最盛期を迎える。昭和初期まで、富山市草島地区や宮尾地区で広く栽培されていた。折れたり曲がったりしやすく手間がかかり、見た目が市場で劣ることから、1945年ごろを境に育てる農家がいなくなった。草島校下郷土史に、7世紀末に中国東北部から朝鮮半島北部にかけて誕生した渤海国の使節団が越中国にもたらしたとの記述があるという。

●くさらん

 宮本輝『天の夜曲 流転の海・第四部』で皮蛋(ピータン)が何故か富山の引っ越し先に着いた時に、嶋田が聞く。

「生卵……?腐らんがか?」

 日本語としての「腐らす」という意味とは少し異なるのだが、まあ、腐らすと言っても間違いではないかもしれない……。

●櫛田【くした】神社

 大門町にある、縁結びの神として有名。初詣には賑わう。雄山神社も賑わうのだが、知人で3回結婚した人が神主の息子なのでアルバイトをしていた。それを聞いてから行かなくなった。

●鯨

 少ないが、ときどき、富山湾にも鯨が入る。鯨の肉が売られることもある。昔から迷い込んできたものらしく、新湊市堀岡の堀岡新八景を詠んだ句の一つに「鰯網 はるかに汐吹く 鯨かな」というのがある。また、新湊では鯨が来ることを「鯨の八幡詣り」と称して、八幡宮の神徳を表すものだと考えた。

●くじる

 「ひっかく、むしる」。「(鼻を)くじる」などに使う。例:「くじったらあかん喧嘩やぞ」(ひっかいたらダメな喧嘩をしよう)・「くずしちゃ、くじって食べんががいっちばんおいしいちゃ」(蒲鉾は切らずにちぎって食べるのが一番おいしいね)。篠崎晃一+毎日新聞社『出身地がわかる!気づかない方言』(毎日新聞社)によれば、「くじる」は富山の他、石川や沖縄で少数ながら使用されているという。

●くずし〜くずす

 「蒲鉾」で「崩し」から。島根県、四国一帯など全国的にもかなり広くゆきわたっている。荒垣秀雄【朝日新聞編集委員で『天声人語』も書いた】の文章の中に富山のくずしが出てくる(『人世坐三十五年史』)が映画館・文芸坐の創設者・三角寛の奥さん・よしいが四方出身だったからである。「女伝」は女川傳右ェ門が創業して「女傳」として今も続く蒲鉾の会社。

 僕は池袋、彼(三角寛)は板橋警察署の裏に住んでいて、ある日「おれ女房もらったからちょっと家へ来てくれ」とうので行ったことがある。あの頃は披露宴なんてこともしなかったし、新婚旅行なんてこともしませんしね。で、板橋に行ったら「これがうちの女房で」といったような話でね。同郷の人か、ときいたら、いや越中富山の魚津だ、あの蜃気楼の出る港町だよといって、富山の女伝(オンナデン)のクズシ(かまぼこ)かなにかを御馳走してくれた。

●薬袋

 文字の読めない人も多かった時代に何の薬か一見してわかるよう考えられたデザインが、レトロで温かみのある味わいを感じさせる。

富山のくすり

 ゲームソフトメーカーの「バンプレスト」が富山の薬の袋を商品化している。昔懐かしい独特の色彩感が「レトロで新鮮」と、女子中高生らに受けているという。「六神丸」や「熊胆円」で知られる「廣貫堂」(富山市梅沢町)など、県内の製薬会社10社からデザイン使用の許可を得て、商品化が実現した。メモ帳(450円)、消しゴム(100円)、クリアファイル(250円)、シール(250円)の四つを「富山のくすり」シリーズとして、2002年11月から首都圏を中心に販売している。バンプレストが行った街頭インタビューで10〜20代前半の女性の約3割は富山の薬を知らなかったものの、パッケージデザインについては「女子中高生の間でレトロ感と温かみを感じると受け止められた」という。昔のものがかえって新鮮に映る。そんな若者の感覚に目をつけた開発チームは、女子中高生層をターゲットに、安く購入できる文具雑貨に富山の薬のパッケージをそのまま使った商品の開発を目指したという。

●ぐずる

 「(子どもが)ぐずぐず言う」。例:「ぐずっとってもなーんも買ってあげんからね、分かっとんがけ」(ぐずぐずとおねだりしても何も買ってあげないからね、分かってますか)。

●『崩れ』

 幸田文の晩年の長編のタイトル。常願寺川上流の立山カルデラ内の「鳶(とんび)の崩れ」について「憚(はばか)らずにいうなら、見た一瞬に、これが崩壊というものの本源的な姿かな、と動じたほど圧迫感があった」と書いているが72歳で人に背負われても見たいというその執念には驚く。99年10月に立山カルデラ砂防博物館の近く(多枝原平)に碑ができた(cf.由里幸子「幸田文『崩れ』その後」朝日新聞99年10月30日)。

 孫で作家の青木奈緒も『動くとき、動くもの』(講談社)という、世界の砂防現場を見たエッセイを書いていて、祖父と同じ場所を訪ねている。崩れと向かい合うたびに、身体の中にどこか呼応するものを感じ、崩壊からエネルギーをもらったという。「崩れは山が平穏をもとめて変貌する姿だ」と言う。

崩れ

松嶋久光さんに背負われて「崩れ」の現場を行く幸田文
(同行した写真家の八木下弘さん撮影)。

●くだはる

 「…くださる」。例:「こんなにでかいと仕事してくだはって、きのどくな」(こんなにたくさん仕事をしてくださってありがとう)。

●くたはれ〜くだはれ

 「…ください」。例:「ちょっこぉ、来てくたはれま」(ちょっと来て下さい)。

●『グッドラック富山』

 B6版のタウン誌の一つ。会員のお店(おそばやさんやレコード屋さんお菓子屋さん)では無料で配られ、本屋さんでは¥250で売られている。

●くどい

 「(味が)くどい」として使われる。金田一春彦は富山ならでの方言といっていたが北陸では使う。つまり、お醤油の味が濃い、塩辛い。更に色彩の度合いが強いことを「くどい」という。「塩辛い」は県東部から「しょっぱい」「しょっからい」「からい」と変化するが、西部では「くどい」を味の濃さ、「からい」を「塩辛い」と区別する。「しおくどい」ともいう。

 東日本ではショッパイが、西日本ではカライが一般的で、改まった言い方だと東西ともシオカライになる。

 (話が)「くどい」(「しつこい」)という使われ方は関西でも使う。人間にもあてはまり、「くどい人や」などと悪口をいわれる。

●くどくど

 「しつこく」。「くどい」から来た。例:「な〜ん、くどくどと話しとるがいね」。

●国井雅比古

 NHKアナウンサー。『プロジェクトX』が最も有名。山梨県都留市出身。東京学芸大学附属高校を経て東京大学卒業後、1973年入局。富山局→東京アナウンス室の順に勤務。彼のせいか、富山局出身者で活躍しているアナウンサーが多いような気がする。

●熊

 県内では時々、ツキノワグマが出てニュースになる。売薬の「熊の胆」(くまのい)になるからうれしそうなものだが、殺される人も出てくる。特に猛暑だった2004年9月には毎日のように被害が出て「日本一の熊被害県」となった。ちょうど言語学会が開かれて会長の挨拶は「言葉の好きな熊でなければいい」というものだった。富山藩士の古文書にクマ狩りのことが書いてあり、城内の舟橋に出没し、徳兵衛というものが射止め報奨金を受けたという。江戸時代も街中へ下りてきていたようだ。春にはツキノワグマが樹皮をはぎ取る「クマはぎ」という被害を受けて樹木が枯れてしまうこともある。2006年には地方紙に「クマ出没情報」欄が設けられた。「駆除」というのは「射殺」のこと。

●熊の胆【くまのい】

 小さい頃、ひどくお腹が痛くなると飲まされた売薬の一種で苦い。本来は熊の胆嚢を干したものだが、非常に高価なので実際にはどんな動物の胆嚢か分からない。2006年には密輸が多いのではないかと問題になった。

 胆汁は英語でgallといって苦い物の例えに使われる。

 僕は99年に胆嚢を切ったので、苦みのない人間になった。

●くめる

 「(口に)ふくめる」「くべる」。例:「いんころ、元気ないから何かぁ、くめてやって」(犬に元気がないので何か、口にふくめてやって)。

●蔵

 うちには蔵がある。名家のように見えるかもしれないが、そうだ。ではなくて、多くの家には蔵があった。「内蔵(うちくら)」といって家の奧に蔵がある。小さい頃、悪いことをすると蔵の中に入れられて1メートルほどの大きさの錠前をかけられた。土や漆喰(しっくい)で固められた内部は夏涼しくて冬暖かい。耐火性があるとされたが、今の消防ポンプに耐えられるかは疑問である。

 蔵の前の部屋は「くらんとまえ」(蔵の戸前)と呼ばれる。

 高岡市の御馬出町や守山町、木舟町は「山町筋」と呼ばれ、土蔵造りの町並みが有名である。

 2005年に「土蔵百選」が選ばれた。土扉に「竹に虎」「波に竜」のこて絵が描かれた国指定重要文化財の「旧森家土蔵」(富山市)や、国登録文化財の「内山邸土蔵」(同)、酒屋として再利用されている旧岩瀬米穀(同)、個人所有の土蔵を町が移転、改築し、古文書類の展示館として活用している米沢記念館土蔵(入善町)などが入った。〈1〉技術的、意匠的に価値が高い〈2〉規模が大きく、年代も古い〈3〉特殊用途・地域的特色が顕著〈4〉地域住民に親しまれ、所有者の保護も手厚い〈5〉地域活性化などに活用される――を基準に選んだ。

 県文化財課によると、県内には土蔵が2万軒ほどあり、多くが明治〜大正時代に建てられた。雨や風、雪などから蔵を守るため、蔵の出入り口前に、「戸前(とまえ)」と呼ばれる部屋が設けられているのが特徴だという。

 百選の一つ、千光寺土蔵(砺波市)には、戸前によって守られた出入り口の扉や壁などに、しっくいで作られた鶴や亀などの神獣などが色鮮やかに描かれた、鏝絵(こてえ)と言われる豪華な作品が残っている。

 選定した上野委員長は「富山の土蔵は、戸前で覆われている分、出入り口付近の装飾は豪華で素晴らしい。その価値を多くの人に知ってもらいたい」と話している。

●グラウジーズ

 富山県をホームとするバスケットボールのクラブチーム。「グラウジーズ(grouses)」とは富山県の鳥であるライチョウを意味する(複数形は「グラウシーズ」となるはず---grouserといえば「不平を言う人」、Chlamydiaというと性病)。富山国体の強化チームを母体として2000年発足。富山アトラスFCが母体となり2006年よりbjリーグ参戦(2005年にリーグができた)。北陸3県初のプロスポーツチームとなる。

●暗がり

 「暗闇」。「手暗がり」とは手で陰を作ってしまうこと。例:「朝暗がりからどこ行くがいね」(朝の暗闇の中、どこへ行くのですか)。

●「くらしたい国、富山」

 「いい人、いい味、いきいき富山」に代わるキャッチフレーズとして2006年にできたもの。折しも「美しい国、日本」が安倍晋三内閣のキャッチフレーズになった時だ。コピーライターの川崎仁志が手掛け、自然、安全安心、教育など富山の生活環境の良さを強調した。ロゴはデザイナーの山本洋司が手掛けたもので、北アルプスを配置し、文字の大きさを変えることで富山県の雄大さを表現。緑色を基本に、赤、青、黒の計四色を設定した。

 「引っ越してきたい国」なら他県の人に対するものだと分かるが、「くらしたい国」だと富山の人が今ちゃんと暮らせなくて、暮らせるようになりたいという願望にも見えてくる。それに、富山が「国」といっていいのかも分からない。持ち家率などで暮らしやすい県の上位にランクしていたことを踏まえていると思うが、これでは他県の人に伝わらない。ひねらずに「暮らしやすい町、富山」くらいで十分だろう。でも、暮らしやすいとは個人的に思ったことはない。

●グランドプラザ

 総曲輪の大和フェリオの横にある全天候型広場でフェリオの開店に合わせて建てられた。

●くらんとまえ

 「蔵の戸前」で、内蔵の前にある空間をいう。ちなみに、土蔵や酒蔵など、蔵の数え方は「戸前」だ。これは、蔵の入り口の戸の前を表し、「いっとまえ」、「にとまえ」と読む。

●倶利伽藍峠【くりからとうげ】

 倶利伽藍不動があるので倶利伽藍峠と名がついた。昔は石川県に抜けるのにこの峠を登らなければならなかったが、今は旧国鉄のトンネルを利用した倶利伽藍トンネルがあって楽だ。「くりから」の語源はインドのサンスクリット語。黒い竜を意味し、不動明王の化身の一つでもある。奈良時代、この地で悪さをしていた大蛇を退治しようとインドの高僧が祈りをささげると、天から宝の剣が降って蛇に突き刺さり、蛇は剣に巻き付きながら天へ昇っていった。

 木曽義仲による、最初の平氏との戦い「倶利伽羅源平合戦」があった古戦場である。源平合戦「火牛の計」というが、『源平盛衰記』によれば、183年、平維盛の軍勢と対峙した源義仲は相手が寝静まった夜半、角にたいまつを付けた4、5百頭もの牛を走らせる奇襲をかけて、7万もの平氏の軍勢を打ち破ったという。

 吉川英治『新平家物語』(四)「くりからの巻」にも出てくるが、海音寺潮五郎はこの「火牛の計」に対して否定説を採っている。中国の故事「田単火牛の計」の引用だと考えているのだ。

 義仲は京都に進軍し、平氏を追い落とす。しかし、率いた軍勢の乱暴な振る舞いが反感をかう。征夷大将軍に上りつめて「朝日将軍」とも呼ばれたが、落日も早かった。翌年にはいとこの義経と範頼軍の攻撃を受け、近江で敗死した。墓所は大津の義仲寺にある。

 芭蕉は倶利伽羅を通って金沢へ行ったのだが、「義仲の寝覚めの山か月悲し」の句を残している。更に、芭蕉は義仲寺に草庵を結び、軍事的な天賦の才に恵まれてはいても、政略の渦に沈んだ義仲をしのんだだけでなく、遺言で芭蕉自身もここに葬られた。境内に「木曽殿と背中合わせの寒さかな」の句碑が残っている。

●グリーンパーク

 グリーンパーク吉峰【よしみね】で富山地鉄・岩峅寺駅の東にある緑のテーマパーク。樹齢が約350年の大杉がある。かつては富山湾上からも見えたという。人魚の肉を食べて不老長寿になった白比丘尼(びくに)が植えたと伝わるもので「この木が枯れるとき、私が死んだと思ってください」と言い残して去ったとされる。

●「来る」と「行く」

 英語の用法と同じように相手の方へ行くことを「来る」という。北陸がそうだし、山陰などにもある用法だ。もっと言えば、平安時代でも英語と同じだった。例えば、百人一首の「名にし負はば逢坂山のさねかずら 人に知られで来るしよもがな」の「来る」はあなたの方へ「行く」という意味であった。

 こういう動詞を視点動詞ということがある。「行く/来る、あげる/もらう、売る/買う」などは指示する対象が話者やその時の状況で変化する。例えば、誰かが「明日、君のところに相談に行くよ」というと、聞き手にとっては相手が相談に「来る」ことになる。だから、何時に来訪するのか知りたい時は「明日の何時ごろ行くの?」ではなくて「明日の何時ごろ来るの?」と聞かなければならない。例:「分かったちゃ、すぐ来っちゃ」(分かったよ、すぐそちらに行きますよ)。

●呉高【くれこう】

 「県立呉羽高校」。JR呉羽駅近くにある新設校。音楽コースがある。近くに芸創(芸術創造センター)もあり、芸術性あふれる雰囲気がある。

●呉羽茶 

 呉羽はかつて「呉羽茶」で知られた県内最大の茶産地だったが、農家の後継者不足に加えて、茶摘みと田植えの時期が、ほぼ重なるため、出荷量は年々減少していき、21世紀には見られなくなった。復活させようという試みが始まっている。

●呉羽梨

 幸水(こうすい)を指すが、幸水の後は豊水(ほうすい)というのが出回る。

●呉羽紡績

 後の東洋紡。橋本龍太郎元首相は慶應大学を出て、呉羽紡績に就職。大門町の庄川工場を振り出しにサラリーマン生活を送った。初月給を懐に、新入社員仲間と高岡駅前の飲み屋街に繰り出したという。衆院議員で文相、厚相を務めた父、龍伍が急死し、26歳で衆院初当選した。

●呉羽山【くれはやま】

 富山市の西に位置する山でコピーは「街にポッカリ、自然のたから箱」。呉羽山(「八ヶ山=はっかやま」とも)には五百羅漢像で有名な長慶寺がある。近くの展望台から北アルプスが一望できる。もう一方の城山は豊臣秀吉が富山城の佐々成政を攻めた際に陣取ったという白鳥城跡でもある。

 呉羽山展望台からは立山を背景にして県都が一望にできる。夜景も美しい。

 山の名前は機織業を伝来した渡来人・呉織(クレハトリと読み、呉“ご”から我が国に織物を伝えた織工を指す/「はとり」は「機織り」の転)に由来するといわれる(『越中志徴』)。姉倉比売(あねくらひめ)神社の比売が機織の神であることも、クレハトリ伝承と関係がある。『源平盛衰記』巻28(北国所々合戦事)には寿永3年(1183年)木曾義仲の武将・今井兼平の軍勢が「御服山」に陣取ったと書いてある。クレハトリに呉服【呉+服部】の字が宛てられ、これが音読されてゴフクとなり、さらに御服・五福などの字が宛てられるに至ったと考える。山麓の五福(富山大学がある辺り)も山名からの転訛とみられる。天明3年(1783年)以前に成立した堀麦水の『三州奇談』に「くれはの宮」とあるのがクレハの形での文献初出とされる。

 この山を境に富山県は「呉東」(ごとう)と「呉西」(ごせい)に分かれる。「関東」「関西」の類推。

●呉人恵【くれびと・めぐみ】

 富山県関係者で教科書に載っている数少ない人。昔は堀田善衞の『インドで考えたこと』が高校の教科書に載っていただけだった(椎名誠は『ワシもインドで考えた』という本を出している)。

 呉人は富山大学の言語学科教授で『モンゴルに暮らす』(岩波新書1991年)が中学教科書(三省堂の『現代の国語』に「文化をうつすことば」の章の「『ありがとう』はいわなくても」として収録)に載っている。その他『危機言語を救え!』(大修館)が有名。1957年山梨県生まれ。旧姓、一ノ瀬。モンゴル国立大、内モンゴル大大学院と二度の留学をして、87年内モンゴル大の大学院生(後に京都大大学院)トゥグスと結婚した。その後トゥグスの日本国籍取得にともない、姓を呉人と改める。トゥグスは現在、アジア・アフリカ研究所。

 服部四郎がモンゴル語の権威だったせいもあり、モンゴル語研究は日本の言語学者の王道で、服部も調査中に現地の有力者の長の娘さんと結婚している。

●クロアワビ

 茨城以南の太平洋側、秋田以南の日本海側に生息するクロアワビは、こりこりした歯ご
たえに加え、うまみと甘みがあり、寿司ねたや刺し身に最高とされる。富山湾はもともとクロアワビ生息地だったが、最近はエゾアワビが増えているという。新湊漁協では2005年に養殖を始めた。

●黒作り

 富山の名産の一つ。スルメイカをイカの墨につけた塩辛。真っ白のご飯に真っ黒の黒作りをかけて食べれば最高! 

 いかの墨は毒消しといわれる。塩辛独特の臭みを和らげる効果もある。地のイカの胴を細義理にし、ワタ(内臓)とスミ(胆汁)を混ぜ、塩を振ってつぼに入れ、暗冷所に保存する。10〜11月に仕込んで、暮れからお正月頃が食べ頃。使うイカはスルメイカで、イカの甘味とイカ墨の深いコクが味わえる。

 イカ墨には、古くから防腐効果や薬効があることが知られていたが、癌に効果があるといわれるリゾチームを含む。

 寛文年間(1661〜73)冬期の保存食として作られはじめ、元禄時代(1688〜1704)に「イカの黒作り」の名がつけられたという。前田家では参勤交代の際、将軍家への献上品の一つとした。

 黒作りがあるのは富山や長崎、沖縄などと限られ、北前船といった海上交通と関係も考えられている。富山の名産だから国語辞典に載る筈がないのだが、『新明解国語』とその追従辞書には載っている。普通の塩辛は「赤作り」というが、保存が利きにくいので塩を多くする。麹を使って上品に仕上げたイカの塩辛を「白作り」と呼び分けることがある。

 最近、ホタルイカの黒作りが売り出されているそうだ。

 長崎県北松浦郡では「烏賊の墨和え」(戸田や旅館など)を出しているそうだが、1549年に平戸にやってきたフランシスコ・ザビエルらが日本人の口に合うようなイタリア料理を不況の一助として振る舞ったのが起源とされる(伊東椰子“ナギコ”『船が運んだ日本の食文化』調理栄養教育公社では「イカの黒み和え」【墨和え?】と紹介されている)。

 スペインではイカをはらわたと一緒に煮込んだ「イカの墨煮」caramars in sutinta が有名。イタリアでもイカ墨をパスタのソースにしたり、パスタそのものに練りこむ。またイカ墨のリゾットも有名。余談だが、セピア色というのはイカの墨汁を乾かしたもので、古来ヨーロッパでは貴重な色だった。これをもとに絵の具も作られセピアと呼ばれた。セピアというのはギリシャ語の甲イカ“σηπια” 由来のイカの(ラテン語の)学名 sepia だ。

 石毛直道によれば沖縄やフィリピンにも同様の塩辛があるそうだ。

●クロスランド小矢部

 小矢部市にある散居村が見えるタワー。どうして「クロスランド」というと能越自動車道と東海北陸自動車道のジャンクションがあるからだ。

 2007年にNPO「地域活性化支援センター」(静岡市)が選ぶ「恋人の聖地」に県内で初めて認定された。「恋人の聖地」は、同センターが少子化対策も考えて、若いカップル向けに全国の観光スポット約100カ所の認定を目標に選考している。前年から東京の六本木ヒルズや長崎県のハウステンボスなどが選ばれている。クロスランドおやべには、選定委員の1人、ブライダルデザイナーの桂由美さんが6月に訪れ、タワーの眺望や敷地内の池「オアシスの海」に浮かぶハート形の小島などを視察した。6月末の選定委員会で他の5カ所とともに選ばれ、全国49番目の聖地になった。

●黒部五郎岳

 深田久弥の『日本百名山』の一つ。岐阜県側からは「中ノ俣岳」(なかのまただけ)という。深田は『山さまざま』の中で、友人が黒部五郎岳を「不遇の天才」にたとえたのに対して、「あまり騒がれて荒らされないほうが、黒部五郎岳にとって幸福かもしれない」と書いた。

●黒部市

 黒部、宇奈月、入善、朝日の一市三町合併協議会は先送りしていた合併後の新市名を「黒部市」とすることが決めた。「黒部市」「黒部川市」「新川(にいかわ)市」のどれかで、かなりもめていた。

●黒部西瓜

 黒部スイカの栽培は、1883(明治16)年、荻生村(現在の黒部市)の農家が、米国産のラットルスネーク種で試作したのが始まりとされる。その後、品種改良が進み、1909年に「黒部スイカ」と命名された。皮が厚く、3カ月ほど日持ちするため、冷蔵庫がない時代は重宝された。ラグビーボール型という珍しさもあり、都会では観賞用としても親しまれていたという。しかし、栽培に手間がかかるうえ、丸玉種より甘みが少ないため、より甘みがある丸玉種に押され、次第に敬遠され始めた。昭和20年代後半〜30年代初めが生産のピークで、作付けは約80ヘクタール、生産量は約2千トンだった。しかし、現在は同市若栗の中瀬健二さんだけで、作付面積もわずか10アール。最近では約500個収穫し、和菓子用として納めたほか、なじみ客への販売や自家用などに利用した。農協としての出荷も94年ごろから停止したまま。黒部市では、あくまでも「昔ながらの皮の厚い黒部スイカ」の復活に力を入れる。

 隣の入善町が、品種改良を重ね、甘みがある「入善ジャンボ西瓜」は地域団体商標に登録された。俵形というかラグビーボールを大きくしたような西瓜で大きいものは40キロもある。明治10年代に誕生した特産品である。桟俵(さんだわら)と縄で縛られていてかっこがいい。主に贈答用なので県内の人はあまり食べない。僕も一度も食べたことがない。

 冬の間、農家の人は桟俵作りに励む。細長い果実が傷つかないよう保護するとともに、見栄えを良くする“わら衣装”である。桟俵は楕円形で、縦35センチ、横23センチ。スイカの丸みに合わせ、内側を少しくぼませてある。2枚でスイカ一個を挟むように取り付け、縄でしっかりとくくる。重さ20キロ前後の果実を持ち上げる際には、取っ手の役割も果たす。

 井上雪『その手を見せて』(冬樹社)に「黒部のすいか」という一章がある。

●黒部名水ポーク

 黒部川周辺の4軒の養豚農家が生産する豚肉。うまみ成分が多くジューシーなことや、コレステロールの含有率が少なくヘルシーなことから、県内外の消費者やピッグ・ブリーダー(優良な豚の繁殖家)から注目されている。呉東は豚で、呉西は氷見牛だ。

●黒四【くろよん】

 「黒部川第四ダム」の略。石原裕次郎主演の『黒部の太陽』という映画は、しかし、黒部ダムへつなぐ大町ルートのトンネル工事の話である。 

「黒四」(くろよん)という名前を普及させたのは人類学者の梅棹忠夫だという記事が北日本新聞の訃報に書いてあった。学生時代に黒部源流や薬師岳を踏破していたが、1957年頃に黒部川第四発電所の工事現場にヘリコプターで入った。作業員が「黒四」と呼んでいたのをルポに書いたのがきっかけで、全国に定着したという。でも、「黒四」以外に略称があっただろうかとも思う。

 黒部ダムには「黒部丸」という遊覧船があったが、2000年に「ガルベ」(黒部の語源になったアイヌ語だという)に代わった。

 NHKプロジェクトXも黒四を取り上げたことがあり、2002年の紅白では“初”出場の中島みゆきが「お礼の気持ちでいっぱい」ということで黒四から「風の中のすばる〜」で始まる「地上の星」を歌い、翌年には大ヒットした。

 泉麻人の『たのしい社会科旅行』(新潮社)に“「紅葉とダム」のテーマパーク”という探訪記がある。

●鍬崎山【くわさきやま】

 佐々成政が秀吉に攻められる前に百万両のお金を隠したとされる中で最も有力な山(2089メートル)。薬師岳の左手前にあって「越中富士」と呼ばれ、「富山のマッターホルン」とも呼ばれる。「朝日さす夕日輝く鍬崎に、七つむすび七むすび、黄金いっぱい光り輝く」という埋蔵金伝説の古い里歌にふさわしいたたずまいとなっている。

 成政は黄金の入った49個の壷を家来に背負わせて針ノ木峠に向かわせた。深い雪におおわれた峠は、吹雪が凍りついた岩肌に乱舞した。家来たちはやむなく、峠の途中で石室を造り、佐々家伝来の鍬形のかぶとと共に黄金の壷を隠した。阿部義行ひとりを監視に残して、方々に逃散した。阿部義行は猟師となって佐々家再興を夢みながら、深山で朽ち果てたという。

 後に長野県の由松という男が親方に連れられて鍬崎山に登った。その親方は成政の子孫で宝の隠し場所を書いた古絵図を持っていたという。親方は壷を捜しあてたが、他言したら殺すとおどした。やがて、親方が急死し、由松は黄金の入った壷を捜しにいったが、以前の道筋がわからない。毎年毎年、鍬崎山に入りびたり、由松はついに狂死したという。

 明治中期、静岡県から来た男が山中で小判の入った49個の瓶を見つけた。男は、なぜか瓶を残したまま下山し、その後、死亡したという。男が残した発見場所のメモをもとに、一攫千金を狙った人々が山に分け入ったが、まだ一人として小判を見たものはいない。水晶岳付近だという説もあり、早月川の谷の伊折の対岸に宝島という所があって、覚石(おぼえいし)という巨岩があり、成政が立山越えをしたとき、黄金を隠した目印にこの巨岩を置いていったと言われる。立山東西の内蔵助平の秘境だとする説もある。平家の落人部落である有峰の洞窟であるともいわれ、神岡町の桑崎山も、富山県の鍬崎山も、ともに有峰の近くにあるので神岡町の桑崎山の可能性もある。

 遠藤和子『佐々成政』(学陽書房→小学館M文庫)によれば、民衆から敬愛された成政が前田利家に追い落とされ、越中は加賀藩領になった。越中金山の採掘で加賀百万石は栄えたものの、領民たちはしいたげられた。成政の悲劇は民衆の悲劇であり、彼らが成政復活の願いを伝説に託したという。

 生駒忠一郎『幻の埋蔵金 佐々成政の生涯』(KTC中央出版)という本も出ている。

●(蚊に)くわれる

 「(蚊に)くわれる」といい、「さされる」とは言わない。篠崎晃一+毎日新聞社『出身地がわかる!気づかない方言』(毎日新聞社)によれば、1990年代に調べたときは「さされる」が全国で多数派だったというが、その後、「くわれる」が勢力を急速に伸ばし、東日本全域で「さされる」を圧倒したという。

●〜くんだり

 「〜辺りまで(わざわざ)」。例:「富山くんだりまで出かけていってなんかいいことあったけ?」(わざわざ富山まで出かけていって何かいいことあったのですか?)。


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