金川 欣二:マックde記号論(言語学のお散歩)


 

笑説 越中語大辞典



●こいが

 「こういうのも」。例:「こいがも分からんがけ」(こんなのも分からないのですか)。

●小出城【こいでじょう】

 佐々成政が越後の上杉景勝勢に対する最前線基地としていた城(JR水橋駅の南東約2キロの水田地帯で発掘された)。戦国史上に上杉勢と成政ら織田信長勢が戦火を交えた天正9(1581)年の「小出城の戦い」などの記録があるものの、正確な位置や規模は特定されていなかった。城域は南北150メートルと推定され、中世の平城としては県内最大規模になる。幅6メートル、延長33メートル以上、深さ1メートルの堀跡が見つかったほか、朱漆で模様を入れた塗り椀や灯明皿、長刀の一部など、戦国期の特徴的な遺物が大量に出土した。小出城の規模は『越中古城記』などの史料に、南北二十二間、東西三十間と記されている。

●恋人の聖地百選

 小矢部市のクロスランド小矢部。

 魚津市湯上の北陸自動車下り線の有磯海サービスエリア(SA)。

 この二つが、NPO法人地域活性化支援センターから「恋人の聖地」100選の認定を受けている。

●御印祭【ごいんまつり】

 高岡市金屋町で6月に開かれる祭。高岡の開祖で加賀二代藩主・前田利長公の恩義をしのぶ。利長は1611年、金屋町に7人の鋳物師を招き、「御印地」と呼ばれる土地を与えるなど鋳物産業を手厚く支えた。利長の死後、鋳物師らが命日に参ったのが始まりとされる。前夜祭では、かつて鋳物職人らが地金を溶かす炉に風を吹き込む大型のふいご「たたら」を踏む際、調子を一つに合わすため歌った民謡「弥栄節(やがえふ)」の踊りが演じられる。

●買う【こう】

 「買う」ことを「こう」といい、「借りる」ことを「借る」という。問題は共通語と混じる時で「これ、かって来たがいちゃ」といわれても「買ってきた」のか「借りてきた」のか分からなくなる。

●校下

 ATOKで「校下」は出ない。他の地区で「校区」というものを「城下」のような雰囲気で「校下」という。学校が上にあるのだ。一般には「学区」は東日本を中心とした広い範囲、「校区」は西日本、そして「校下」は北海道の一部と北陸で用いられている。

 正式名称は「通学区域」で通称としては「学区」が最も一般的。公立学校の場合、ふつう一定の通学範囲を設定していて、これは法制上は「通学区域」と呼ばれる。教育問題などを扱う番組で厳密に使う場合には、「○○小学校の通学区域」とするのがよいとされる。

●公害デパート県

 富山新聞社の『公害デパート県』から。高度成長期にイタイイタイ病や吉久の喘息など多くの公害が発生して「公害を勉強したければ富山県に来い」、「公害デパート県」といわれた。

●公会堂

 昔は現在のANAホテルの場所に富山市公会堂があった。母はここの婦人弁論大会に出たのが自慢で、妻もよくここで歌った。僕は市民大学の講師でよく使った。思い出の場所である。

 戦後、大演説会が開いてもいいようにキャパ(収容人数)2500のすごいホールにした。

 何でもありのホールだった。いや、ホールというよりは公会堂だった。

 演奏会の時に、ドアが開くと、大きな交差点の信号の曲が聞こえてきて最悪だった。

 楽屋も最悪で、おかげでミュージシャンが来ないとされたが、駅裏(富山駅北)にオーバードホールができて、役目を終えて取り壊され、ANAホテルになった。

●鋼管

 新湊にある日本鋼管を省略していう。市街の西側にあるが、東側には高周波の工場がある。

●交響詩「立山」

 立山町出身で東京交響楽団の楽団長を務める金山茂人の亡父・方象(ほうぞう)がヨーロッパ・アルプスに「アルプス交響曲」(R・シュトラウス)があるのだから、立山に「日本版アルプス交響曲」があってもおかしくない、と考え、作曲家の故黛敏郎に頼み込み、実現させた。立山黒部アルペンルートの全線開通記念で、松山善三監督の広報映画とともに作られたという。映画「黒部の太陽」の音楽も担当した黛は、創作意欲をかき立てられて「初めて見た立山は、思った通りすばらしかった。それは、力と、美と、神秘と、厳しさの、あらゆる多様性をそなえた巨大なパノラマであった」と書いている。富山を描いた楽曲では岩河三郎作曲の「富山に伝わる三つの民謡」が有名だが、交響詩「立山」を知る人は少ない。

●工芸

 富山で「工芸」というと高岡工芸高校を指す。ユニークな人材を輩出した学校である。「工芸」という英語がないので“Takaoka Kougei High School”となっている。「工業」というと富山工業高校だが、砺波などの時は「砺波工業」という。

●高校

 新湊を新高とい、高岡は高高《たかこう------Kei Yamashitaさん情報》というが、中部は「ちゅうぶ」で中高とはいわない(ちなみにライバルどうしの高崎高校は「たかたか」、前橋高校は「まえたか」という)。富山高校はただの富山で、富山商業は富商(とみしょう)で高岡商業は高商(たかしょう)、富山女子は富女(とみじょ)と呼ばれ、高岡女子も高女(たかじょ)と呼ばれたが、共学になって高岡西高(にしこう)になった。呉羽は呉高(くれこう)という。魚津高校はなんていうのかと思っていたら、「ぎょこう」だった。新高は近くに新港があって紛らわしいが、魚高も近くに漁港もあるのでややこしいだろう。前身に「魚中」とか「魚女」とか「魚実」とかがあっていずれも「ぎょ」と読む。富山工業は工業で高岡工芸は工芸という。

 かっこいいのは滑川高校で滑高(かっこう)といって「なめこう」とはいわない。可哀想だったのは女子短大付属高校で「ふこう」と呼ばれた(「付属」というと富大の小中を指したためだが、今は「国際大」)。

 しかし、他人の呼び名と内部の呼び名は違うので同窓会の人は是非、調査要(メールください)。それにしても、片山学園は高校ができたら何ていうのだろう。「片山」だけでは分かりにくい感じがする。

 公立女子高は富山女子、新川女子、砺波女子だけになったが、99年秋に県教委は、01年度から砺波女子(新川みどり野/魚津市木下新)、新川女子の両高校(となみ野/小矢部市清水)を午前・午後・夜間の三部制 の単位制定時制に変え、県民生涯学習カレッジを併設して一般社会人向けの生涯学習機能を持った新タイプの高校となった。富山女子は02年度に男女共学化で「富山いずみ高校」(「いずみ」は学校の所在地が「堀川小泉町」であることや、同校の同窓会名の「清泉同窓会」が「泉」の字を使っていることなどから採用。優しいイメージのひらがなで「いずみ」とした)になり、県内の女子高校はなくなった。

 新たな定時制設置により、泊、桜井、魚津、滑川、新湊の定時制と雄峰南砺分校は在校生が卒業した段階で廃止し、新設の両校に集約する。富山工業の定時制は残す。

 99年度から学科を海洋技術スポーツなどに改編した水産は00年度、校名を「海洋」に改めた。

●高校新聞コンクール

 2学期の新聞で各学校の新聞部や専門家が点数で最優秀を決める。魚津と国際大附属が最優秀の常連だった。

 「魚高新聞」は県高校新聞コンクールで2004年まで24年連続で最高賞を受賞していたが、2年5カ月ぶりに発行する。部員不足で04年7月を最後に休止していた。魚津高校は1950年に学校新聞を創刊し、83年に全国高校新聞コンテストで最優秀賞を受賞。2000年には通算200号に達するなど、県内の高校新聞界をリードしてきた。

●黄砂【こうさ】

 中国奥地のゴビ、タクラマカン砂漠や黄土地帯から、強風に吹き上げられた砂塵(さじん)が偏西風に乗って飛来し、しだいに降下してくる現象で霾(ばい)ともいう。春先、しばしば観察される。九州や中国地方に多かったのだが、発生地域が変化してきて、富山にも結構降る。「ライダー装置」が富山にある。レーザーを上空に放ち、その跳ね返り具合を測定し、どの高さに黄砂の粒子が流れているのか、どのように高度が変わるのかを、リアルタイムに観測することができる。黄砂の水平移動は人工衛星を使って既に調べられている。年々、日本での観測日数が増えるようだ。偏西風で太平洋を渡るから、アメリカでは「アジアのほこり」(Asian Dust)という。春の季語で「霾(つちふる)」といい、『奥の細道』にも「雲端に霾る心地して…」という文が残っている。杜門に「霾や太古の如く人ゆきゝ」というのもある。中国の人は「翠靄(すいあい)」、つまり緑のモヤという言葉でこの時期の自然を言い表したという。

●甲子園

 山藤章二はエッセイ集『まあ、そこへお坐り』(岩波)に「夏の高校野球がいい。最も暑いときに、最も熱い舞台。これがあって日本の夏にヘソができる」と書いているが、これがなかったら夏は暑いだけで終わってしまう。

 夏の甲子園は昔、新潟県と予選を戦っていた。新潟が弱かったので富商、高商がよく出場した。その後、人口での見直しがあったので石川県と組むようになり、星陵高校など石川県勢ばかりが出るようになった。一県一校制度になってからは乱立状態になってどの高校が出るか分からなくなった。

 問題は富山勢の甲子園での勝率がほとんど最低だということである。

 ちなみに、甲子園のど飴は富山で作っている。

●広辞苑

  2008年1月に刊行された岩波書店の国語辞典「広辞苑」(第六版)に、富山弁の「うまそい」「きときと」「はらうい」「へしない」が、新たに加わった。広辞苑編集部によると、うまそいは「丈夫そう」、きときとは「新鮮なさま」、へしないは「待ち遠しい」、はらういは「腹がいっぱいで苦しい」などの意で掲載した。

●高周波

 新湊の大きな工場は高周波と日本鋼管だった。高周波は市街の東側、越の潟の西側にある。新湊市中央文化会館はネーミングライトを買って「高周波文化ホール」となった。

●校章せんべい

 校章の焼き型が入ったせんべいを県内の小中学校で出されることがある。小杉町中老田新の「萬松堂本舗」が製造販売している。せんべいは三味線の胴体部分に似た「茶三味(ちゃしゃみ)」型。原料は小麦粉や卵、砂糖のみ。焼き印のデザインは各校が考案し、高岡市内の鋳物職人に作ってもらう。校章と校名が入ったものが大半で、地域に生息する天然記念物のトミヨをかたどったものもある。

 校章を焼き込むユニークな発想は、元々は富山市内にあったせんべい店が始めたサービスだったが、店じまいをしたので、小杉にある「萬松堂(まんしょうどう)本舗」が受け継ぐ形になった。

●ごうじる

 「豆汁」で「ごじる」というのは共通語で「呉汁」。大豆を摺って味噌汁にしたもの。地域によっては乾燥させ挽いた大豆を粉状にした豆粉を使うところもある。呉汁は報恩講での精進料理のひとつして、また一般家庭では冬の寒い時期に食べられている。

 うちは他におからに油揚げと葱を入れて味噌汁にする。栄養満点!呉汁と同じことだと思うのに、他県の人にはびっくりされる。

●高新【こうしん】

 高岡と新湊を合わせた言葉。橋や自動車学校がある。

●幸水【こうすい】

 呉羽梨の品種の一つ。二十世紀梨をもらうことがあるが、幸水の瑞々しさに勝てる品種はない。糖度が高いのですぐに食べなければならないのが唯一の難点。ワインにもなっている。8月の「幸水」に続き、9月初旬から同じ呉羽梨の「豊水」の収穫が始まる。

●高専

 富山で高専というと富山工業高等専門学校である。商船高専もあるのに、新聞でも「富山商船」とだけ書かれた。宴会を頼んでも「富山商船工専」などと書かれる。一度などは同じ会場で間違われていたので、殺気立った。洋食だったら、ナイフが飛び交っていたかもしれない。

 うちはしかも、「商船高校」と昔の名前で呼ばれることがある。似た名前の学校に「北陸工業専門学校」があったが、こちらは私立で専門学校。

 ちなみに北陸には福井、石川と私立の金沢高専がある。

 2004年度から独立行政法人になる。2009年に統合して「富山高等専門学校」、略して「富山高専」となり、射水キャンパス、本郷キャンパスとされ、それぞれ「高専射水」と「高専本郷」という省略形になる。

●構造改革特区

 富山では県と富山市など3市2町の「富山型デイサービス推進特区」と、八尾町の「越中八尾スロータウン特区」が県内で初めて構造改革特区に認定された。

●買うた【こうた】

 富山県西部方言では「買った」を「こうた」という。「借りた」を「かった」というので、「かった」というとどちらか分からなくなる。東日本では「買った」だが、西日本では「買うた」となる。ただ、富山市などでは「買った」というから県内で分かれていることになる。「買わない」「買わん」という対立もある。明治時代の全国調査で既に「越中飛騨美濃三河」の境界線が指摘されている。近年の調査でも変わらないから、残っていくだろう。

●光柱【こうちゅう】

 冬の富山の光の現象で夜空に光の柱が見えるもの。沖合のイカ釣り漁船の光が空に集まって幻想的な雰囲気を漂わせる。北海道などではサンピラー(太陽柱)現象と呼ばれる空気中で凍った水蒸気に太陽の光が反射し、光の柱のように見えるものがある。

●高等教育機関

 富山大学(富山大学と医薬大と高岡短大とが統合)、高岡法科大学、富山国際大学、富山県立大学、桐朋学園大学院大学、富山県立大学短期大学部、富山短大、富山福祉短大、富山高専(富山工業高専と富山商船高専が統合)。

●光徳寺

 棟方志効が疎開していた福光のお寺。

 文明3年(1471年)に建立された真宗寺院で、蓮如上人の直筆類や法宝物を所蔵。御本尊は、蓮如上人自作の黄金阿弥陀仏。板画家棟方志功が、戦時中同寺に疎開して創作活動を行ったことから、多くの名作を所蔵展示している。棟方志功と光徳寺とのつながりは、昭和13年、光徳寺住職高坂貫昭氏と棟方志功が、民芸運動の師河井寛次郎を通じて知り合ったことから始まった。その後、棟方は年に数回光徳寺を訪れる。昭和19年5月、光徳寺の裏山を散策中、突如激しい霊感をとらえ、寺に駆け戻ると、一気に二間半襖4枚続きと隣り合わせ3尺の2枚に、大胆荘厳な襖絵「華厳松」を描きあげた。

 N響の鶴我裕子『バイオリニストに花束を』(中央公論新社)の「福光のシュタイン」で高坂制立(こうさかせいりゅう)住職のおかげで本当の宴会を楽しんだというエッセイを書いている。

●郷義弘【ごうのよしひろ】

 鎌倉末期の刀工。越中国松倉(魚津市)の住人で相州五郎入道正宗に師事したといわれ、正宗十哲の一人と伝え、江戸時代、吉光・正宗と並び「天下の三作」と呼ばれた。生没年未詳。「郷」は越中国松倉郷に住していたからとか、姓が大江なので「江(ごう)」を「郷」にしたなどの説がある。また、昔から「郷と化け物は見たことがない」と言われるほど在銘刀は一振りもない。現存する物のほとんどは既に名刀として位置づけられている。

●こうばこ

 ズワイガニの雌。真田信治・友定賢治『地方別方言語源辞典』(東京堂出版)には金沢方言となっているが、富山でも使う。小ぶりなので「香箱」を見立てたからとされる。「甲羅の中の子は赤く、爪は白い」ので「紅白」から来たという人もいる。泉鏡花は『卵塔場の天女』で「朱色の子が美味であり、子をば食うカニか」といって、「子をば食う=こーばく」説を展開している。

●こうべん

 「頭(こうべ)」。例:「あっちゃぁ、こうべんから血ぃ出とっぜ、なめたげっちゃ」。

●弘法大師の清水

 上市町にある名水の一つ。穴の谷(あなんたんのみず)とともに南正時の『ご利益のある名水』(講談社α新書)で紹介されている。「飲むと頭がよくなる」ともいわれていて、受験生も多いらしい。

●こうもり

 「こうもり傘」のことで年寄りはよく使う。

●こうもりだい

 「カワハギ」で21世紀に入ってから高級魚となる。《魚名は魚名だけで一つのジャンルになるから深入りしない》

●こうりゃく

 「合力」(「攻略」とも)から「援助・手伝い・力を貸すこと」《だが、僕は使わない-----後略》。

●香林坊【こうりんぼう】

 金沢の繁華街。高岡から西の人は富山県で買い物をしないで香林坊まででかけることが多い。高山の人は総曲輪に憧れてくるというが、富山の人間は香林坊が憧れの地である。

●コーセル

 新湊出身の飴久晴社長が作った電源機器会社。最初、エルコーといっていたが、アメリカに進出する時に同じ名前の会社があったので、コーセルと変えた。ナショナルがパナソニックとしたのと似ている。コーセルを見学したことがあるが、大失敗した人は表彰される制度があって面白かった。「失敗は成功の元」なのである。

●氷水【こおりみず】

 「かき氷」のこと。全くの方言ではないが、通じない地域がある。また、「こおりすい」という地方もある。

●コールセンター

 コールセンターは電話などで加入の申し込みや契約者からの問い合わせを受け付ける窓口。保険会社などが富山にコールセンターを置くのが増えている。真面目で勤勉な性格がよかったという。ニッセンも2005年からコールセンターを設けた。データ処理のリビング・コンピューターも2006年から開設。

●ゴールドウィン

 小矢部市津沢生まれの社長が津沢メリヤス製造所を創業したが、63年に「ゴールド・ウィナー」からゴールドウィンと改名。64年の東京オリンピックで日本人選手が獲得した16個の金メダルのうち12個がこの会社のユニホームを着ていたというのが自慢。

 調子に乗った(?)ために赤字に転じるが、県が大量の国体用ユニホームを購入したために、長い間、県チームは小豆色の地味なユニホームで出場していた。うちの先生などは掃除の時にいつもこのユニホームを使っていた。2008年には扱っていたスピード社の水着が記録ラッシュを生んだというので注目を浴びる。

●ゴールドベルグ

 世界的バイオリニストのシモン・ゴールドベルク(Szymon Goldberg)。1993年に滞在中の立山国際ホテルで亡くなった。ポーランド生まれで19歳の時に、ベルリンフィルハーモニーのコンサートマスターになるなど才能を早くから開花させた。39年にナチス政権を発足させたドイツを脱出。第2次世界大戦中には、ジャワ島で日本軍の捕虜となり、2年半の収容所生活を送るなど、戦争に翻弄されながらも音楽を続けた。87年に日本に移り住み、新日本フィルハーモニー交響楽団指揮者として活躍。毎年、妻でピアニストのゴールドベルク山根美代子とともに立山国際ホテルを訪れ、84歳で生涯を閉じた。

 ゴールドベルクの愛器「グァルネリ・デル・ジェズ“バロン・ヴィッタ”」が、富山に帰ったことを記念したコンサート「こしのくに音楽祭」が2006年夏に開かれたが、山根美代子は音楽祭を見守るように亡くなった。

●五箇山【ごかやま】

 平、上平、利賀の三つの村からなるが、もともと五つの谷があるというのが民間語源である。実際には宮田登『正月とハレの日の民俗学』(大和書房1997)の「隠れ里の実相」で熊本県の五箇庄(ごかのしょう)について言及しているように「五箇」は「古賀、古閑、空閑、後閑」と同様の意味で「平地からみて、はるか山奥の未開墾の土地に付けられた地名」だと考えることができる。五箇庄も平家の落人伝説で知られる異境である。かつて、冬の五箇山は鳥も通わぬと歌われたが、今では立派な国道や高速道が通っている。

 明治期、庄川流域や近隣を含め合掌造りの家が1800棟もあったという。それが昭和20年には300棟。現在は3集落で90棟ほどだ。

 岐阜の白川郷とともに日本で6番目のユネスコ世界遺産に選ばれている。平家の落人が住み着いたとされ、加賀藩の塩硝(火薬の原料)を作っていたため、秘境として隠されていた。合掌造りで有名。県外の人を案内する時、僕はまず五箇山に行く。パターンは和紙の里に行って和紙を作り、渓流荘かどこかで蕎麦を食べ、相倉集落に行って、村上家を訪ねて、菅沼集落を見て、帰りは井波などに寄ってくる。

 柴門ふみの『にっぽん入門』(文藝春秋)の「お座敷列車は人情列車」に出てくる。小淵沢発、妙高高原駅からはバスに乗って金太郎温泉に行き、宴会をして翌日は五箇山からバスで小淵沢着というツアーに参加。

  司馬遼太郎『街道をゆく4 郡上・白川街道と越中街道』(朝日文庫)にはこんなことが書いてある。

「この庄川にイワナがいますか」
 と、むこうのTさんらに給仕している宿の若奥さんの背中にきくと、奥さんはふりむかず、ひざごとゆっくりこちらを向きなおって、おります、と答えた。五箇山のひとのお行儀にはどこか江戸期の風(ふう)が残っており、ひどく丁寧である。

●五箇山豆腐

 固くて、荒縄で縛って運べるというので有名な豆腐。堅さの秘密は絞りたての豆乳ににがりを加えた後、型箱に流し込み上から重石をかけ、充分に水分を切るのがポイントであり、その分だけ大豆の風味がより香ばしくなる。手作りをさせてくれる場所もある。

 井上雪『その手を見せて』(冬樹社)に「五箇山のとうふ」という一章がある。豆腐屋を訪ねた時に聞いた五箇山の民謡が紹介してある。

世間渡る時ゃ とうふで渡れ
まめで 四角で やわらかで……

●五箇山方言

 五箇山は山間部だけに方言が少し違う。詳しくは社会言語学者・真田信治のお母さんの書いた真田ふみ『方言百話 越中五箇山』『越中五箇山ことば歳時記』(桂書房)が詳しい。「お月様かくりゃっさった」などと天象に対して最上級の敬語が使われる。

 出掛ける人を見送る時は「アイサッサリ(気を付けて行きなさい)」と愛情をこめた表現を使うという。崖に人が近づくと「危ないっ。ハバじゃが、落っちるぞ」と言って注意を促すという。雪崩が起きるような険しい傾斜地を「ホーキ」と言い、切り立ったがけを「ショージ」、がけに囲まれた谷を「クラ」と呼ぶ。これらの言葉にちなんだ土地や地形の呼び名として「成出のホーキ」「障子倉」「相倉」などを挙げている。

●ごきぶり

 「御器かぶり」でゴキ(椀)までも「かぶる」(食べる)からそう呼ばれた(「御器覆り」という形状を取る説もある)。昔は富山にいなかったが温暖化とともに北上してきた。漫画で「アブラムシ」というのが出ていて訳が分からなかった。アブラムシというのはゴキブリの関西方言で『新明解国語辞典』には「台所を初め、住宅のあらゆる部分に住む、油色の平たい害虫。触ると臭い」と書いてある。

●筑子【こきりこ】

 五箇山の平村上梨の祭礼の神楽踊りに唄われた民謡。宮永正運の『越の下草』(1786年)によれば、上梨白山宮に奉納される神事舞であり、唄は今様、踊りは白拍子に似ているという。 1969年から文部省の音楽教材になっているので全国に知られる。「こきりこ」というのは歌の通り「七寸五分」(約23センチ)の竹の棒の打楽器で、これを両手にして打ち鳴らして歌ったり、もてあそんで踊る。歌詞に「こきりこの竹は七寸五分じゃ、長いは袖の金鉤(かなかい)じゃ」【かなかい=邪魔】とあるとおりである。平村の村上家に行けば実演してもらえる。

 文献では『看聞御記』1436年(永享8年)正月28日条に「次コキリコ詠小哥舞(こうたまい)」とあるのが古い。こきりこは中世には僧形の芸能者だった放下【ほうか=大道芸の一種で放下師・放下僧とも呼ばれ、品玉(しなだま)・輪鼓(りゆうご)などの散楽系の芸や、小切子(こきりこ)を打ちつつ歌う放下歌などを演じた】の持ち物で、室町時代の『閑吟集』にも「こきりこは放下に揉まるる、こきりこのふたつの竹の、世々をかさねて、打ちおさめたるみ代かな」の歌がある。室町時代に流行した小歌踊にもこきりこが用いられたが、民俗芸能としては各地にこきりこ踊が現存する。五箇山の他に新潟県柏崎市の綾子舞の一曲にも小切子踊がある。

●こく

 「嘘」は「つく」のではなく「こく」で、「嘘つき」は「嘘こき」といった。「屁」も「こく」という。「好ましくないことをする」場合の表現として「こく」を使うのは共通語。

●克雪・遊雪 

 富山出身というとスキーがお上手でしょうね、と言われることがある。雪国とスキーを結びつける気持は分かるが、富山の人がスキーを楽しむというのは当然ではない。というのも、富山は平野が多くて、クルマが発達するまでスキー場に遊びに行くというのは考えられなかったからである。富山のスキー人口が現在どれだけか分からないが、多くはないと思う。小さい頃、スキーを楽しんだが、多くは竹スキーかそれよりもちょっと大きいスキーで遊んだだけであった。

 雪博士として知られ、加賀市出身の中谷宇吉郎は「雪は、天から送られた手紙である」と詩情あふれる言葉を残した。雪の結晶の美しさに魅せられ、その研究に生涯を捧げたが、『雪』では、除雪の負担軽減や災害防止に並々ならぬ関心を示している。豪雪地帯として富山県の芦峅寺、黒部峡谷などを挙げ、雪と格闘する人々の苦労を思った。「雪から蒙る損害をいくらかでも少なくしようということに心を向け、また同時に雪を楽しむようにしたら、どんなに良かろうか」と書いた。確かにそうだが、積もった雪を見たり、道路でスリップしたりすると克雪・遊雪はまだまだ先のことにしか思えない。

●五具足【ごぐそく】

 仏壇になくてはならない仏具で花立、火立(燭台)、香炉(これらを三具足という)に花立と火立をもう一つずつ足して五具足という。各宗派とも、一般的には三具足を用い、法要などのときは五具足を用いる。お盆にお墓に花と蝋燭と線香を持って行くが、五具足の代わりということになる。

 「おけそく」(御華足=仏前に供える餅)と似ているので、小さい頃、何が何だか分からなかった。

●国体

 「国民体育大会」。1958年に一度開かれて、中沖県政の権勢を示すために2000年国体を開いた。立派な道路と残された施設はどうする?

●「古代神」【こだいじん】

 五箇山の古代神や新川古代神の民謡。ルーツは、越後十日町の「新保広大寺節」。異伝もある。土地の係争に絡み住職の悪口を歌にしたのがおもしろく街道を血管のように伝わり、北陸、関東、東北、中国地方へと縦横に広がっていったとされる。

●国泰寺【こくたいじ】

 高岡市西田【さいだ】にある臨済宗国泰寺派の総本山で、禅道場としても有名。近くの民宿では、春になると近くで取れる瑞々しい「西田の竹の子」を素材に竹の子ご飯に吸い物、天ぷら、田楽、刺し身など、竹の子づくしのメニューで楽しませてくれる。

 水上勉『破鞋 雪門玄松の生涯』【はあい】(岩波書店)は国泰寺の管長を務めた、型破りな禅僧・雪門禅師の生涯を描いたもの。「鞋」というのは「わらを編んで作ったはきもの、わらじ」のことで「破れた草鞋」で歩いた玄松のことをいうようだ。水上は相国寺で初めて玄松の話を聞いたという。雪門玄松は嘉永3年(1850年)に和歌山の商家の長男に生まれたが、若くして出家。京都の相国寺に入り荻野独園に師事。明治15年、中国に渡り3年間禅学を学んで帰国。その年、35歳で国泰寺の管長になる。18か19歳の鈴木貞太郎(後の大拙)も雪門を国泰寺に訪ねたことがある。当時の国泰寺は山岡鉄舟の援助で復興事業のさなかであった。前管長の遺志を継いで事業を完成させたが、完成と同時に退山。金沢の卯辰山に洗心庵を設立して西田幾太郎、鈴木大拙らに影響を与える。明治34年、急に還俗。傾いた生家の再建に翻弄するが失敗。大正2年に僧籍に戻り、若狭の無住寺・正法寺に入って2年後に死去。

 私事だが(っていつも私事だ)、うちに山岡鉄舟の掛け軸があって、小さい頃にぼろぼろにしてしまったのだが、どうせ偽物だろうと思っていた。ところが、この本によれば、明治11年に天皇が北陸巡幸をして随伴してきた山岡鉄舟が当時の管長の越叟義格の苦労を知って屏風1200双、掛軸、額1万枚の墨跡(水上はこの数字を大げさだと考えている)に没頭して「越中州射水郡摩頂山国泰寺天皇殿再修造募縁序」をつくって、加越能三国の有志に勧進を呼びかけたという。だから、当時は網元だった僕の家にあっても不思議ではなかったのだ。

 昭和39年に国泰寺派管長並び僧堂師家となった稲葉心田(いなばしんでん1906-1986)という管長は愛知県葉栗郡出身。道号は心田、室号を蟠龍窟。法諱は元明。台湾、臨済護国寺の山崎大耕老師につき得度。天竜寺、関精拙老師に参禅。のち相国寺で、大耕老師に嗣法する。天竜寺塔頭臨済院住職を経て、国泰寺に来る。達磨の絵が上手だったことで知られる。『心眼をひらく』(春秋社)などもある。

●国道

 東西に8号線、南北に41号線、156号線(危険個所が多かったのでイチコロとかヒトゴロシと呼ばれる)が走っている。商船の前には「良い子」?の415号線が走っている。

●コクヨ

 「国誉」という名前をカタカナにして作られた富山の会社である。富山大学に黒田講堂というのがあるが、コクヨの社長が寄贈したものである。

●国立

 「国立学校」のこと。2004年4月から独立行政法人になった。富山県内には富山大学(と付属幼稚園、小学校、中学校)、富山医科薬科大学、高岡短期大学(後に富山大学に統合)、富山工業高等専門学校、富山商船高等専門学校があり、小さい県としては多いといわれる。ちなみに石川県は金沢大学、北陸先端技術大学院大学、石川工業高等専門学校があるのみである(たぶん)。

●こけ

 「垢」と「きのこ」。富山県のキノコには食べられないものはない。ただし、二度と食べられないキノコがあるが…。例:「風呂でちゃんと洗わんかったから、こけ生えてしもとるねけ」(お風呂でちゃんと洗わなかったから、垢がついているではないですか)。

●ごげはん〜ごんげはん

 「権現さん」から寺の一番偉い住職。若い方は「若はん」という。

●「古語の博物館」

 真田信治(上平村出身)は『方言の日本地図』(講談社α新書)で富山県を「古語の博物館」と紹介している。「富山は北方系と南方系の言語が重層的に入り交じった所」だという。柳田國男のいう「方言周圏論」で、京都を中心とした波が富山まで来て、黒部川、親不知あたりで遮られて、西日本方言の到達地になっているためである。「吹きだまり」ともいえるのだが、「古語の博物館」というとかっこいい。

 『日本のまんなか 富山弁』の著者・蓑島良二は、古語が多く残る富山には「尊敬と親愛の助動詞」が生きているという。例えば「食べられ」「休まれ」など。江戸時代まで全国で使われていたが、今では富山と岡山にしかないという。ホントかどうか知らないが…。

●ここらたへん〜ここらったへん〜ここいらへん

 「ここらへん」で「この辺り」。

●御三家【ごさんけ】

 県立の富山中部、高岡、富山高校。東大入学者はほぼこの御三家で占めていて、三校のエリート意識は異常に高い。三校ともに理数科がある。普通高校の1.5倍のスピードで授業を進めて行く。

 「うちの学校の理数科は、年によりかなり差がありますが、大体変わったクラスが多いようです。普通科の生徒からは理数科の生徒は変人扱いされることも多々あります。うちの学校では、理数科は「理組」「R組」という略称が使われています。たまに普通科の人から「7組」(普通科は6組まで)といわれると、理数科の人は怒ります」《高岡高校理数科Kei Yamashitaさん》。

 富山の御三家に対抗するのは石川では金大附属、泉丘、福井では藤島である。

●越【こし】

 「越」の国が越前、越中、越後に分立したのはいつか分からないという。大宝二(七○二)年三月、越中国から四郡を分けて越後国に移したというのが「越中」の最初の記録である。それ以来、越中の東は今の境界になった。養老二(七一八)年五月、越前国より能登四郡が分かれて能登国が置かれ、天平十三(七四一)年十二月、それがそっくり越中に併合されて越中は大国になった。

●高志【こし】

 「越」では短すぎるし、「越中ふんどし」のイメージがあるので県内の施設には古代からの漢字「高志」を当てることが多い。県の教職員の共済会館は「高志会館」という。旧制富山高校教授だった木俣修の処女歌集は『高志』である。北原白秋に師事した木俣は宮城師範から旧制富山高校に移り、6年間、教べんをとった。

白鷺(しらさぎ)の低く輪を描(か)く野の雨間代田(しろた)の水は畔(くろ)にあふれぬ

 ちなみに、福井にも高志(こし)という高校がある。

 2004年の中越地震で大きな被害を受けた山古志村は古代の「高志国」の名を今に残すといわれていた。

●高志会館

 県の教職員の共済会館。「パレ・ブラン」ともいう。

●腰おきる

 「ぎっくり腰になる」。

●越の犬【こしのいぬ】

 富山、石川、福井などが原産の中型日本犬で、絶滅したと考えられる。体高50―60センチ、体重10―25キロ。額は広く耳は三角形。太ももや前脚の肩甲骨が発達し、飼い主によくなついたと言われる。国は洋犬との混血を避けるため、昭和6年に秋田犬、9年に甲斐犬、紀州犬、越の犬、12年に北海道犬、土佐犬、柴犬の計7種を天然記念物に指定した。1970年ごろまで県内で飼育されていたという。鏑木外岐雄は「石川県境にある医王山ろく方面には昔から立派な日本犬が相当いるとの事だった。富山では立山犬、石川では白山犬、福井では大野犬などと呼んでいる。同じ型の犬なのに名称が違うのは面白くなく、昔の越路の国の古語にちなみ『越の犬』と統合して、指定することになった」と『往古日本犬写真集』(誠文堂新光社)に書いている。

●越の潟【こしのかた】

 放生津潟の古名。昔は大きな海水浴場があって、海の家が並んだ。電車も夏の間だけ急行が止まった。遊覧船も出ていた。真ん中に弁天島という人工の島があった。「潟祭り」が最大のイベントで、この日、花火を見て西瓜を食べるのが楽しみだった。今は富山新港になって名残りはない。なお、「潟」は方言文字で【さんずい+写】と書かれることがある。

 あんなに西瓜もおいしかったのに、一体、進歩って何だろう。

 小泉八雲は宍道湖について『神々の国の首都』に「陽光を受けて雲のように金色に霞(かす)む幻の船は、【…】まるでほのかに青い光の中で宙に浮かんでいるかのようである」(池田雅之訳)と書いているが、越の潟も同じだったのだ。

●越の白柿

 三社(さんしゃ)柿は伝統的な干し柿で、南礪地方を中心に作られ、あめ色の肌に白い粉が吹き、独特の甘みがある。能登の志賀町でも少し小粒な「ころ柿」というのを作っている。

●コシノフユザクラ

 黒部市や上市町の民家の庭に咲いていた桜で新品種であることが分かったもの。「コシノフユザクラ」と命名された。県内で新品種が見つかるのは高岡市の「フタカミザクラ」以来、36年ぶりのことだという。花は11月と4月にピークを迎える。開花後、色が純白から少しずつピンクに変わるのが特徴だ。

●古志【こし】の松原

 富山市の東岩瀬から浜黒崎までのクロマツの並木。前田利長が1601年に街道の美観と積雪時の目印にと植林した。

●コシヒカリ

 富山の代表的な粳(うるち)米で「越の国に光輝く」という意味。生まれ故郷は福井県が定説になっているが、新潟県でもある。1944年、新潟での人工交配に始まる。戦後、子孫が福井へ譲渡され、改良が行われた。各県に送られ適応性が調査されたが、病気に弱い、倒れやすいなど、さんざんな悪評だった。本家本元の福井も栽培をあきらめる落第生だったが、56年、新潟県農業試験場が奨励品種に採用した。その時の場長が上市町出身の杉谷文之で「栽培法によって克服できる欠陥は、致命的欠陥にあらず」と、反対する技術者を説得した。「新潟県農試に杉谷がいなければ、到底奨励品種にはならなかった」(酒井義昭著『コシヒカリ物語』)。

 冷夏だった2003年に県が育成したわせの新品種「てんたかく」は、高温に強いだけでなく、低温や日照不足にも耐えられることが分かった。一等比率が90%を超え、うるち米全体の平均77.3%を大きく上回った。「てんたかく」は「ハナエチゼン」を母、「ひとめぼれ」を父として、県農業技術センターが1992年度に交配した新品種。「とがおとめ」は、利賀村など山間地向けの新品種として、同技術センターが開発。「ひとめぼれ」を母、「ハナエチゼン」を父にして交配した極わせで、収量性が高く耐冷性も備えている。

 わせの「越の華」と「はなひかり」の2品種が県の奨励品種から除外された。

 酒米としては「雄山錦」、餅米として「新大正糯」が有名。

 女優の室井滋が『ごはん物語』という本で亡き祖母が認知症を発症したときの思い出を書いている。高校時代まで一緒に暮らし、米どころ富山の出身とあって、二人とも大のごはん好きだった。やがて祖母は食べてもすぐに忘れ、「ごはん、ごはん」と言うようになる。食事が済むたびに赤い糸を小指に巻き付け、納得してもらっていたが、認知症が進むと、効き目がなくなってしまう。家族に冷たくされたと思い込んで泣く祖母を見ているのが悲しかったという。

 2008年、富山県は品種改良で「赤いコシヒカリ」を開発した。赤飯のような色合いとコシヒカリのおいしさを併せ持つのが特長。県農業試験場が8年かけて交配を繰り返し、古代米「赤米」の遺伝子をコシヒカリに取り込むことに成功した。コシヒカリの遺伝子を98%受け継いでいるために赤米に比べて色つやや味も優れているうえ、がん予防などに効果があるとされるポリフェノールを多く含んでいるという。栽培法や炊き方は一般のコメと同じ。ただ、通常のコシヒカリと同じ時期に穂が出るため、自然交雑しかねないという課題も残る。試験場はもみに色を付けて離して栽培するよう促したり、穂が出る時期をずらしたりする改良を進め、3年ほどで本格的な栽培を目指す。

●小正月

 小豆鍋を田に見立てる風習が残っている。似た風習に県下全域で見られた「豆占い」もあった。民俗学の佐伯安一によれば次のようである。

 1月15日の小正月を県内では「百姓の正月」とか「サツキ」という。サツキというのは「田植」のことで、この日一日を田植えの日のような気持ちで過ごし、前日の左義長から始まって、鳥追い、もの作り、庭田植・生(な)り木責めなどの予祝行事をする。小豆粥もその中の重要な行事である。砺波ではアズクゾーン、上新川ではアカゾロという。朝、大きな鍋に小豆汁を作り、その中へいろいろな形の団子を入れる。平べったいのは田んぼ、円筒形は稲株、稲の穂や俵、小さい球形はタノシ(たにし)で、″田主″にかけて田の神様だという。これを煮るときは豆がらや若木を焚く。清浄な食物だからである。煮立ってくると鍋の中を田に見立てて、前日に作っておいた農具の模型−鍬(くわ)・犂(すき)・エブリなどで鍋の中をかき回し、田をならす仕ぐさをする。そして、今年の田は柔らかいとか固いとかいう。煮上がると家族みんなでいただく。

 食事が終ると生り木責めをする。子供が2人で、一人は椀に小豆粥を入れ、一人は鉈(なた)を持って家の前の柿木のそばへ行き、鉈を持った方が「なるかならんか、ならんにゃかち伐るぞ」とおどすと、椀を持った方が「なります、なります」という。鉈で切り目を入れ、汁をかけて団子を食わせてやる。小豆粥にしろ生り木責めにしろ、願いをこめてわざおぎをしておくと、田や柿木はそれに感受して豊作になると考えられてきたのである。

『綜合日本民俗語彙』によると、このような生のシトギ餅を御供(ごく)として神に供えるのは九州各地のほか、山陰・東北からも数例の報告があり、近いところでは福井県敦賀市池河内の諏訪社の例を挙げている。県内では今のところ五箇山の他には聞かない。貴重な事例である。

●古城公園

 高岡の御旅屋通りを右手に大仏を見ながら、まっすぐ行くと入口だ。高岡のお城の跡は「古城公園」、富山は「城址公園」という。古城公園の方がしっとりとした森があって好きだ。動物園はかつて「最悪」(動物の環境を考えてなかった)といわれたが、無料で見られるので子ども達にとってはそれなりに楽しい。ただし、チンパンジーがフンを投げてくるので要注意。加賀藩主・前田利長が築いた高岡城の城址を明治時代に公園にしたもの。

 日本百名城、さくらの名所百選、日本の都市公園百選、日本の歴史公園百選に選ばれている。

●ごじる

 「呉汁」で「ごうじる」。

●呉仁館(ごじんかん)

 呉羽山頂にあるレストラン。

●ごじんぼふる

 子どものように「すねる」。

●こすい〜こっすい

 「狡い」(こすい)で方言とはいえないが、よく使う。

●小杉【こすぎ】

 誰も行かないところで、多くが丘陵地帯だったが、県営の太閤山団地ができて、平和堂のアルプラザが駅裏にできて一変した。ラポールという音楽ホールもある。何よりもサッカーの柳沢選手の出身地なので駅周辺には応援の看板が多い。

●小杉焼【こすぎやき】

 小杉焼は初代・高畑与右衛門から四代にわたり、江戸後期から明治末期にかけて小杉町で焼かれたもので、鴨徳利やひさご徳利に代表される優美な形と緑青、飴黒色のつややかな釉色が特徴だ。

●ごすむく〜ごとむく

 「くたばって死ぬ」で最近使う人はいない。「五道向く」からという説があり、富山だけの用法らしい。「五道」とは「地獄・餓鬼・畜生・人間・天上」の道のこと。例:「あんな奴ぅ、ごとむいてしまえ」。

●瞽女【ごぜ】

 盲目の女性旅芸人であり三味線を弾きながら唄をうたいながら村々をまわった盲目の女性旅芸人で水上勉の『はなれ瞽女おりん』が原作も篠田正浩監督の映画も有馬稲子の演劇も有名だ。瞽女にこだわって描いた画家に斉藤真一がいる。新潟県・高田瞽女が有名だが、富山でも昭和初期まで見ることができたらしく、宮成照子『瞽女の記憶』(桂書房)のなかでも、大山町出身の胡弓と唄の名手として有名な瞽女・佐藤千代の一生が紹介されている。

●こたえる

 「気になる、問題になる」。例:「そんなことされても、なん、こたえんちゃ」(そんなことされても、全然気にならないよ)。

●こだけん〜こっだけん

 「これだけ」。例:「こっだけん勉強しとんがに全然成績あがらんがちゃ、どういうこといね」(これだけ勉強しているのに全然成績上がらないというのはどういうことかね)・「こだけんしかあたらんがけ?」(これだけしかもらえないのですか?)。

●こちょがしい〜ちょこがしい

 「くすぐったい」。『富山県言語動態地図』によれば「コチョガシイ、コチョバシイ、コチョコバシイ、チョコガシイ、チョコバシイ、チョコシイ、コソガイ、コソバイ、クスグッタイ」が分布している。

●こっから先

 「これから先」で「今後」。例:「こっから先、おらっちゃどうしていきゃあ、いいがやろ」(これから先はどうして行けばいいのでしょう)。

●こつけ

 「子付け」。鱈の刺身に鱈の子をまぶしてある刺身で、本当は「親子刺身」と呼ぶべきもの。鱈の刺身だけで食べられることはない。金沢など他の地方にもあると思うが富山名産という人もいる。ただ、海水魚やイカに寄生している寄生虫アニサキスAnisakiasisの幼虫は長さ2〜3センチで、刺身などといっしょに食べられると、幼虫は人の胃や腸壁に侵入して激痛や嘔吐をおこし、胃潰瘍や盲腸のようなアニサキス症を起こすので注意。内視鏡で取り除くしかない。

 父は「鱈と河豚はたらふく煮るものだ」とよく言った。

●こっしゃえる

 「こさえる」から「作る」。例:「あんた、なん、こっしゃえとるがいね?」「愛やちゃ」。

●ごっしょさま〜ごっしょうさま

 「菩提寺」。例:「すみません、ごっしょさまにまで来てもろて」。

●コッタン

 「コールタール」(coal tar)のことで昔は色々なところにコールタールを塗って黒い家だらけだったものだった。

●こっちゃ

 「ことを言えば」。例:「あんたのこっちゃあ、賢いちゃ」(あなたのことを言えば、賢いですよ)。

●ごっつぉ

 「ご馳走」。

●こっぽり〜こっぽっと〜こっぽんと

 「こんもりと」で「こんもっと」ともいう。

●鏝絵【こてえ】

 左官職人が、石灰に麻糸などの繊維とフノリを混ぜた漆喰を使って、民家や土蔵の壁や扉などに図柄を鏝で盛り上げて描いた絵。鏝絵師として小杉町出身の竹内源造(1886-1942)が有名で、富山市佐藤家の「白拍子」や「鯉の瀧昇り」などが秀作である。源造の漆喰彫刻では砺波市名越家土蔵壁の巨大な双龍、砺波市千光寺土蔵窓に見られる唐破風型のまぐさの龍や観音扉の鷹が有名。

●呉東・呉西【ごとう・ごせい】

 富山県は富山市の西にある呉羽山を境に東部と西部に分けて呉東・呉西という(呉西を「ごさい」と言わなかったのが面白くて、関西学院大学みたいだ)。放送などでは市町村界によって区切った「県東部」「県西部」という名称も使われている。おおむね呉東・呉西に一致するが、富山市呉羽地区は呉西でありながら県東部に属する。他の県でも全体を何て分けるかは国語学の対象になる。石川は「能登」と「加賀」で分ける。福井は越前・若狭とか嶺北、嶺南。岐阜は飛騨と美濃(みの)。新潟は気象予報で「下越」「中越」「上越」「佐渡」と分け、注意報・警報では「長岡」「柏崎」「十日町」などの地名を入れている。多くの場合は都か鄙かという分類になるが、富山は文化の分水嶺になっている。

 おおざっぱにいって、味付けについて関東は濃口醤油を使った濃い味、関西は淡口醤油を使った薄い味が好まれる。京都ではインテリが食べるものは薄味であるべきだと考えているが、関東では肉体労働の田舎者が多かったために塩気を必要としたというまことしやかな説もある。尾張から上洛した織田信長に名人だった坪内石斎が料理を出したところ、まずいと怒りだしたという。今度は濃い味付けにして出したら信長は満足したというが、石斎は心の中で「やはり田舎者よ」とつぶやいたという(司馬遼太郎『国取り物語(四)』)。

 国道8号線の滑川地内に「大阪420キロ」「東京420キロ」の看板がある。

 気象台による県内の分類は従来「県東部」と「県西部」だけで、南北でずいぶんと気象状況が違っていた。2002年3月から「東部北」「東部南」「西部婦負」「西部北」「西部南」になった。ただ、富山市は「東部南」だが、岩瀬など北部の人に「南」はなじめないだろう。

気象台

 呉東と呉西という言葉がいつから使われたか定かではない。『日本国語大辞典』にも載っていないが、もちろん、関東、関西のマネである。江戸時代は川東、川西といったようだ。

 方言も例えば「お塩をなめた時の味」はごくごく単純に図式化すると次のように違う。「カライ」は日本の東部、「ショッパイ」は日本の西部で顕著な方言である。

「しおからい」の違い
呉西 富山市 呉東
クドイ
カライ
ショッパイ
シオカライ
シオッカライ
カライ
ショッカライ
シオカライ

 呉東、呉西の関係はかって富山藩が富山市中心で加賀藩が東西に分断されていたこともあり必ずしも良くはなく、対抗意識が顕著である。呉西の方が文化的なまとまりがあるように感じるが、ぼく自身が呉西だからかもしれない。ある情報誌で呉東と呉西とどちらに美人が多いかというアンケートがあったが、それぞれに美人が多いと考え、呉西は派手だというものだった。

 魚に関して、呉東の方が新巻をよく使うが、鮭は東日本の文化だということが関係している。西日本は鰤の文化で、新湊・氷見などがその中心である。日本海側では、新潟以北が鮭を正月魚とする地域、石川以南が鰤を正月魚とする地域、そして富山は両者の混淆地帯だ。また、太平洋側では概ね静岡県付近を境に東西に分かれるそうですね。このように、鮭と鰤の境界線は、概ね糸魚川市の西側を流れる姫川を起点とし、富士川に抜けるフォッサマグナとほぼ一致し、大きく「東日本の鮭、西日本の鰤」に分かれる。ちなみに北の魚である鮭は銚子あたりが南限であり、鰤は南方から北上し、富山湾あたりでシケのために湾内に逃げ込む。だから、鰤と鮭の需要範囲はおのずからほぼ一定となり、冬の美味で貴重な動物性蛋白質を日本人に与えることになる。

 麺類でいえば、呉東の7割は蕎麦で、呉西の7割がうどん。

 食肉では呉東の7割が豚肉に対して、呉西の7割が牛肉で、呉東に黒部名水ポークや桜井ハムなど豚関係の会社がある。

 お醤油は呉東が濃い口なのに対して、呉西は淡口(うすくち)で、お醤油の濃度の好みを調べた実験が民放であり、越中境SAから、小矢部SAまで徐々に濃い色から薄い色に変わっていくことが分かった。

 マルちゃんの「赤いきつね」にも違いがある。東京で食べる赤いきつねは、カツオだしをベースに普通のお醤油で味付けした、しっかりした味。一方、大阪で食べる赤いきつねは、カツオにコンブと煮干しを加えただしと薄口醤油を使った上品な味でになっている。東日本と西日本での嗜好の違いを考慮し、味を分ける事にしたという。味の分岐点は、東海道で言えば天下分け目の合戦で有名な関ヶ原のあたり。太平洋側では、三重県までは東向けで和歌山県からは西向け。日本海側では、新潟県までは東向けで富山県からは西向けになっている。蓋に東日本、西日本、関西という表示が書いてある。「かつお風味豊かなこだわりうどんつゆ」と書いてあるのが、東日本向けで「かつお、にぼし、昆布が効いたこだわりつゆ」と書いてあるのが、西日本向けの商品。さらに大阪府、京都府、兵庫県、滋賀県、奈良県、和歌山県の2府4県の地区のみ、「関西」という言葉がマークになっている。

 日清の「どん兵衛」は福井・石川・富山は東日本用、三重も東日本用だという。

 獅子舞は呉東が二人獅子なのに、呉西は百足獅子、七夕や天神様信仰や「つけとどけ」などは呉西が派手である。稚児舞いが付くのも呉西に多いし、山車は呉西に多い。結婚すると全て実家が用意して、チョハイ帰りに饅頭を配ったり、冬には寒鰤を届け(半分返してもらう)、男の子が生まれたら天神様の掛け軸(最近は井波彫刻)、女の子が生まれたらお雛様、そして、男の子だと五月人形がつき、七夕も大きなものが飾られることになる。だから、呉西にはお嫁に出したくないという風潮も生まれてくる。

 お墓も「呉東型」「呉西型」「富山型」に大別できる。「呉東型」が最も大きい。「呉西型」がこれに次いで大きく、仏石の頭部が陣笠の形をしているのが最大の特徴である。 「富山型」は最も小さくて仏石も四角である。

地図

(山田敏弘先生のHPの区分)

 司馬遼太郎『街道をゆく 四 郡上・白川街道と越中街道』(朝日文庫)には次のように書いてある。

この最高部が一四五メートルでしかないひくい丘陵が、人文的に大きな意味をもつのは、これを境界線にして富山県における関東文化圏と関西文化圏を大きく二つにわけていることである。東西は方言もちがい、生活意識や商売の仕方などもすこしずつちがっている人文的な分水嶺を県内にもつというのは、他の府県にはない。
「あの人はなにしろ呉西のひとだから」
 と呉東のひとがいう場合は、たいていがわるくちである。呉西は上方風でどこかやにっこく、呉東は江戸風で、なんとなく歯切れがいいということにもなるだろう。

 京・大阪の人文圏というのは、北陸をゆけば越前も加賀をもふくむ。さらに東へゆき、越中平野に入りこむが、しかしこの呉羽山丘陵の西麓をもって北限とするのである。

 童門冬二も次のように書いている。

 「加賀百万石前田家の分家」
として、江戸時代は支配されたが、これがどうも妙な歴史的感情を生んだようだ。いまでも富山市近辺の人びとは、石川県の金沢市に対して敵対意識を持つ人がいる。それは、
「金沢は、本家意識が強く、たとえば富山で最初にとれたうまいブリも、まず金沢城に献上しなければならなかった。本家は、分家をみくだしていたのではなかろうか」
というような意識がある。これはどこにでもある対立感情だが、それが呉東と呉西では違う。呉西になると、
「親金沢感情(親本家感情)」
があって、それほど呉東のように前田本家に対する対立感情は深くはない。
加賀百万石は、また“百万石文化”を生んだことで有名だ。今日に至っている。だからいま金沢にいって、観光客が金沢市のことを、
「ここは観光都市だ」
などといおうものなら、心ある市民から反論がわき起こる。反論する市民は、
「金沢は観光都市ではなく文化都市だ」
という。たしかにそういう流れがあるようだ。つまり加賀百万石文化というのは、前田家主導による「武家文化」であって、町から生まれた「町人文化」ではない。しかし、江戸時代から加賀の町民たちは、それを是としてきた。しかしこの百万石文化を育て、発展させるためにはなんといっても「財源」が必要だった。その財源になっていたのが、主要な年貢を収める大穀倉地帯であった、富山県の砺波(となみ)平野である。そういう関係もあってか、金沢本藩との結びつきは強く、呉東に残るような「反本家感情」は比較的少ない。

 こんなに明確に呉東と呉西が関東と関西のように分かれるとは思えない。同行した人や参考書の受け売りだとは思う。

 『金田一先生が語る日本語のこころ』(学習研究社)には次のように書いてある。

 この倶利伽羅谷は、地名から見ても注目すべきところです。と言いますのは、「谷」という字のつく地名を調べてみると、東と西で真二つに分かれるのです。東日本では、関東のように、渋谷、世田谷、幡ヶ谷、熊谷……などのように「ヤ」と読むのが多いのに対して、西日本では、関西の鹿ヶ谷や一ノ谷のようにタニと読むものばかりです。そうして太平洋岸のヤは、一番西は愛知県の刈谷、湯谷まで行っていますが、日本海岸のタニは、この倶利伽羅谷と石川県の九谷が東の果てで、これは苗字に比例しているように思えます。例えば、東日本の苗字は鈴木、佐藤、高橋、渡辺、小林のような威名と関係がないものが多いのに対して、西日本では田中、山田、吉田、木村、中村のように地名と関係があるものが多いのと分布状況が一致しています。

 これは、この国土に日本民族が渡って来た時に、東日本と西日本とで対立する民族が住み着いたことと関係があるのではないでしょうか。

 これも富山県内に人喰い谷、湯上谷というのがあるから正しいとはいえないだろう。

 関東と関西文化自体の違いについては大きな問題になるから避けるが、江戸歌舞伎が「荒事」(あらごと)を中心としているのに対して、上方歌舞伎は「和事」(わごと)を中心にしているとまとめればいいかもしれない。「荒事」は豪傑、神仏、妖魔などの超人的な強さを表現するために、顔や手足に隈取をし、鬘(かつら)、衣装、小道具、動作、発声など、すべて様式的に表現するもの。通説では、初世市川團十郎が当時流行した金平浄瑠璃にヒントを得て、1673年(延宝1)9月江戸・中村座上演の『四天王稚立』で初めて演じたといわれるが、その土台には、初期の歌舞伎にみられた武士、男伊達、奴、敵役などの荒々しい演技があったと考えられる。ただ「荒事」の語源には、神が現れることを意味する「あれる」があるといわれ、それが江戸歌舞伎随一の名家団十郎の「家の芸」として継承されることで明瞭になり、江戸歌舞伎の特色として定着するようになった。「和事」はやわらか事、やわら事とも呼び、優美な色男の恋愛描写を中心にした、柔らかみのある演技様式をいう。人間の情、人の心、心の動き、男と女の情愛に絡んだ話が大切で近松門左衛門の世界、『曾根崎心中』などが代表的と考えられる。この種の演技を主体にした役柄のことでもあり、これを得意とする俳優を「和事師」という。堅実な男子の写実に近い演技を中心にした「実事(じつごと)」に対するもので、初世嵐三右衛門(1635―90)や和事の祖と呼ばれる初世坂田藤十郎(“とうじゅうろう”1647―1709)ら京坂の名優が基礎をつくり、江戸でも同時代の初世中村七三郎(1622―1708)が『浅間嶽』の巴之丞、『曽我』の十郎など、この種の役柄を確立させたが、おもに江戸の荒事に対する上方歌舞伎の特色として発達、近年まで伝わってきた。

 酒井伸雄『日本人にひるめし』(中公新書)には「日露戦争による牛肉の高騰は、『東の豚、西の牛』の傾向をいっそう強めることになり、その傾向を固定したのである」と書いているが、富山でも黒部の方に「名水ポーク」があり、「桜井ハム」などがある。

 富山は関東と関西が入り交じっているから面白い。海外旅行雑誌『AB―ROAD』は成田版も関空版もどちらもある。ヤマダ電機は関東がポイント制で関西は値切りなのだが、富山のヤマダは商品によって異なる。エスカレーターは関東が右、関西が左を空けるが、富山には駅のエスカレーターがない。

 呉西は贈答文化が盛んだ。一方、呉東のは挨拶文化があり、例えば、「まめなけ」だが、富山市や上新川、中新川、婦負郡などで今でも年配の人が用いる言葉だ。呉西ではあまり聞かない。「いってさんじます」も「おしまいなはんしたか」「おしまいなはんせ」「おやすんなはんせ」という挨拶も呉東でよく聞かれる。

 「富山夢航海」(2002年8月7日)という番組では次のように結論づけた。

呉東は高等なコミュニケーション文化。

呉西は豪勢な贈答文化。

●後藤田正晴【ごとうだまさはる】

 東大法卒のエリート官僚から国会議員。高文試験に合格し、1939年に内務省へ入った。見習い期間を経て、富山が最初の勤務地となった。40年1月、県警察本部労政課長として着任している。徴兵のため3カ月で離任したが、地方勤務は、これが最初で最後となる。戦後は自衛隊の前身となる警察予備隊創設にかかわる。警察官僚として腕を振るい、長官に上り詰めた。「カミソリ正晴」「日本のアンドロポフ」の異名。

●ご当地愛

 リクルート(東京)の調査組織「じゃらんリサーチセンター」がまとめている「ご当地調査」。

 2010年版によると、「地元に愛着を感じる」と回答した比率が、甲信越・北陸エリア6県で最も高いのは42・0%の富山県だった。石川県は27・0%で、山梨県とともに最下位。福井県は27・7%で4位だった。全国順位は、富山県が11位、福井県が32位、石川県が35位。

 県民性に関し、設定したイメージごとに「あてはまる」「まああてはまる」の合計値を出したところ、石川県では「伝統を大事にする方だ」が81・0%で最も多かった。この比率は、全国順位でみると、京都、奈良に次ぐ3番目の高さだった。富山、福井県は、いずれも「まじめな方だ」との回答が最も多かった。「まじめ」の回答比率の高さは、富山が全国でトップ、福井が2位だった。

●子供歌舞伎

 4月に砺波市の出町新明社で行われる歌舞伎で華やかな衣装を着た子供役者が、曳山の舞台で見事な演技を披露する。江戸時代から伝わる出町地区の伝統行事で県指定無形民俗文化財。出町神明宮の春の祭礼で、同地区の東、中町、西町が毎年交代で同神社に奉納している。池内紀『祭りの季節』(みすず)には県内から唯一、子供歌舞伎が「明神の申し子 富山県砺波」として取り上げられている。

 曳山車そのものが舞台のつくりで、後ろに御簾(みす)があり、そこに「聲曲」の金文字がついている。お囃子方のいるところ。出演の七人を見ておどろいた。さながら菊五郎や吉右衛門である。団十郎もいれば、玉三郎もいる。左団次や三津五郎といったシブい脇役も欠けていない。ただからだの寸法が何割がた縮小しただけ。

●こどん

 「子ども」。「こどんども」(“子どもども”なのでおかしい)は「子どもたち」で「こどんらっちゃ」ともいう。

●このしろ

 魚の「こはだ」。娘を「国司の嫁に」と申し込まれたが、娘には好きな人がいた。困った父が、娘の死を装うため、コノシロを焼いて火葬の匂いを出した。以来、ツナシからコノシロ(子の代)と呼ばれるようになった。「この城」を食べるのは縁起が悪いと武士に嫌われた――など不吉な言い伝えが多い。「松田江の 浜行き暮らし、つなし取る 氷見の江過ぎて 多こ【示+古】の島」と家持は歌ったが、越中万葉に登場する海の魚はつなし(このしろ)と鮪(“しび”=マグロ)だけだという。

●このっさん

 「この人」。敬意も少しあるが冷やかす時にも使う。当然、「あの人」は「あのっさん」。例:「このっさん、何でもできる人ながいぜ」「だら言われんなま、オリンピックに出れっけよ」。

●このゆびとーまれ

 富山市富岡町355にあるデイケアハウス。惣万佳代子が始めたNPOで「誰でも、いつでも、必要なだけ」をモットーとしている。このやり方は「富山方式」として知られる。2002年5月にNHK「人間ドキュメント」で紹介された。

 なお、「デイケアハウス・にぎやか」の阪井由佳子はここに息子を預けたことが縁で独立した(阪井由佳子『親子じゃないけど家族です』雲母書房2002)。

 お年寄りと障害児者が一緒に小規模介護施設で短期入所(ショートステイ)できる「富山型福祉サービス特区」の内容が厚生労働省に認められ、2004年春から指定基準が緩和され、全国で実施できるようになった。特区は、ベッド数が20床未満の小規模介護施設でも、障害児者のショートステイができるようにするとの内容。現行の介護保険制度では、法人格を持った指定事業者以外の小規模施設では、障害児者を短期で受け入れることはできなかった。

●こひ

 「コーヒー」は標準語だが、富山の人が「コーヒー」といっても通じないことがある。まさかと思うが、「こひ」に聞こえることがある。富山はモーラ(mora)方言ではなく、シラビーム(syllabeme)、またはシラブル(syllable)方言だからである。モーラ方言というのは「コーヒー」を4拍で発音するが、シラビーム方言では2拍になってしまう。この現象は「コーヒー」だけではない。「食パン」を「しょっぱん」と発音するのも同じ現象である。

●五百羅漢

 呉羽山の長慶寺に並ぶ五百羅漢が有名。江戸時代後期の1799年、富山の米穀商で回船問屋の黒牧屋善次郎が佐渡の石工に彫らせて寄進したのが始まり。500体あまりを建立するまでに50年近くかかったという。羅漢像を撫でて、温かかったら、それが御先祖様だという。

●こぶじめ→こんぶじめ

●こぶた

 お祭りの返礼に子豚をつける。だったら面白いが、「宴会などの料理のお裾分けの折り詰め」で「小蓋」から来ているようだ。中身は鯛の蒲鉾や乾物、果物などである。例:「まっつんのこぶた用意せんにゃ」「ぶー」。

 向田邦子の『父の詫び状』の中には戦前・戦中の家庭でこうした折り詰めが宴会に付き物だったことを教えてくれる。

「この前は保雄が先だったか。それじゃあ今晩は邦子がイチだ」
 と長女の私の機嫌を取ったりしながら、自分で取皿に取り分けてくれる。宴会で手をつけなかった口取りや二の膳のものを詰めてくるのだろうが、今考えてもなかなか豪勢なものだった。
 鯛の尾頭つきをまん中にして、かまぼこ、きんとん、海老の鬼がら焼や緑色の羊羹まで入っていた。

 つまり、当時の料理が今の「喰い切り料理」ではなくて、会席膳だということを物語っている。つまり、食べ残しではなく、最初からお土産に用意されていたのだ。

●こぶら

 「こむら」。だから「こぶらがえり」は「こむら返り」(プロレスの「コブラツィスト」ではない)。

●ごぶる→ごぼる

●古墳 

 「柳田布尾山古墳」【やないだぬのおやまこふん】というのが98年に氷見で発見された。標高30mの丘陵頂部で、全長107m。富山考古学会員の西井龍儀(小矢部市、会社役員)が、氷見市史編纂のために遺跡を調査していて見つけたもの。伝承が途絶えていたこともあるが、大きすぎて分からなかったようだ。4世紀初めの古墳で日本海側最大の前方後円墳と考えられる。

 2003年には「阿尾【あお】島田A1号墳」が全長約70メートルで県内最大の前方後円墳であることが、富山大人文学部考古学研究室の調査で分かった。小矢部市の前方後円墳「関野1号墳」の全長約65メートルを5メートル上回り、県内の古墳としても「柳田布尾山古墳」に次ぐ規模。2カ所の埋葬施設(主体部)や大規模な木棺跡が確認されたほか、ガラス小玉や鉄製品など副葬品も出土し、地域の有力者が埋葬されていたと推測されている。柳田布尾山古墳と同時期の古墳時代前期(4世紀)に築造されたとみられ、99年秋に発見された。

●御文章【ごぶんしょう】

 浄土真宗の本願寺八世蓮如がその門下に与えた法語や消息を、孫の円如が集めたもの。五帖八〇通。平易な文章で、宗義の拡大に貢献。本願寺派では御文章(ごぶんしょう)、大谷派では御文(おふみ)という。お文様(ふみさま)とも。

 久世光彦は『薔薇に溺れて』の「仏壇」という文章で次のように書いている。

 …私の家では両親とも一向一揆の本場の北陸の出身だったから、お経は《帰命無量寿如来……》の「正信偈」と、蓮如上人の「御文章」のセットだった。その中に《されば、朝は紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり……》という一節があるのが嫌だった。人の世の無常は、子供心にも十分ひんやりと伝わってくるのである。斜め向いの家の、賑やかな団扇太鼓の日蓮宗が羨ましかった。大きくなったら浄土真宗をやめようと私は思っていた。

 蓮如が御文章を作成し、正信偈や和讃を刊行して独創的な伝道を展開し始めた1470年代はグーテンベルグの聖書が普及し始めた時期でもある。

●ごぼはん〜ごぼうはん

 「御坊さん」で「おぼうさん」。葬儀の数日後に「○×町の〜さん、ごぼはん、来てっしゃっから参(まい)っに来てくだはぃ、ヘイカ」と子ども達が案内する。お菓子をもらったり、駄賃をもらったりでちょっとうれしいアルバイトである。

●ごぼる

 雪道などで足が沈んで「ごぼりと浸かる」。真田信治・友定賢治『地方別方言語源辞典』(東京堂出版)では金沢方言としているが、北陸では使う。福井や富山では「がぼる」「がぶる」「ふんごむ」ともいう。例:「たんぼでごぼってしもうて抜けんようになった」(たんぼで足がごぼごぼと浸かってしまって足が抜けなくなった)。

●狛犬【こまいぬ】

 有峰村にあった狛犬が有名で、標高が高くてエサを求めて獣が来るのを避けるために作られたとされる。

●米一番

 JAいみず野(射水市)はこれまで三銘柄あった射水市産コシヒカリの名称を「越中いみず野 米一番」に統一すると発表した。新銘柄は最上品質の一等米のみを使用。関係者は「射水ブランドとして全国へ発信したい」と意気込んでいる。これまで生産者ごとに旧新湊市は「米一番」、旧小杉町は「すぎっこ米」、旧大門、旧大島町では「みしま野米」と銘打ち、流通させてきた。

●米作り

 富山は「耕地に占める水田率」「水稲種子更新率」「種もみの移出量」などが日本一である。近県では「ふりかけの購入額」(新潟)、「回転ずし機器の製造」(石川)、「塗りばしの生産」(福井県小浜市)というのがある。米がおいしいからである。

●米騒動

 富山の女性の強さを示す原点。1890年の富山市、1897年の魚津市の米騒動がある(江戸時代の「打ち毀し」の延長とされる)が、一般にはシベリア出兵を背景にした1918年の米騒動を指す。「越中女一揆」と新聞に報じられ、たちまち全国に波及した1918年の「米騒動」の発端は富山県魚津の漁師の妻たちの「井戸端会議」だった。最近の米の値上がりはたまらないとの世間話から始まった。当時の新聞は「女房軍いよいよ猛(たけ)る」「女軍の一隊、米船(こめぶね)を襲ふ」と伝えている。内閣を総辞職に追い込む一大騒乱の口火を切ったのは、米価の暴騰に怒る女たちだった。

 こうした「妹の力」の流れが上野千鶴子(東大教授)のフェミニズムにつながっている?

 なお、国際ジャーナリストのロバートソン黎子も富山出身。

 中国文学研究家・井波律子が富山県生まれというのも不思議。『酒池肉林』(講談社現代新書)で有名だから…。

 辺見じゅん『花子のくにの歳時記』(小学館)には次のような話が書いてある。

 富山では、七月、八月を鍋割月と呼ぶ。鍋を火にかけても何も入れるものがないので割れてしまうからだ。この鍋割月に米一揆が起きたのも象徴的であった。

 なお、富山県は公立学校の女性管理職の割合が高いことで知られる。2001年にそれが前年の21.2パーセントから1.3ポイント減の19.9パーセントとなり、栃木県(21.6パーセント)にトップを譲ったが過去5年間ずっと全国1位だった。小学校の女性校長の割合は38.1パーセントと依然1位(最下位の北海道の約7倍)。

●米つり祭り〜奉納

 富山の伝統行事の一つ。

 朝日町山崎の吉祥院では7年に一度の開帳日に合わせて行われる。1624年(寛永元年)、廃寺になっていた吉祥院が再建されたのを機に、米俵や酒だるを木につるして納めた祭りが始まりとされる。第二次大戦中や戦後に一時休止したが、1967年に住民が復活させた。「つり方」と呼ばれる男たちが、米俵や酒などを下げたつり棒を担いで練り歩く。つり棒には、音頭取りの男も乗せ、歌や笛、太鼓に合わせて「どっこい、どっこい」と声を掛けながら、三歩進んで二歩下がる歩き方で、500メートルほどの距離を約5時間かける。

 入善町舟見地区では「舟見奉納米吊(つ)り」が十三(じゅうそう)寺で、秘仏となっている三体の木造観音菩薩立像が6年ごとに開帳されるのに合わせて行われる。酒だるや米俵などを棒につって担ぎ、三歩進んで二歩下がる独特の歩調で、地区内を半日かけて五穀豊穣に感謝し、手にした竹を振り、「どっこいどっこい」の掛け声とともに同寺まで練り歩く。1983年、24年ぶりに祭りが復活。一部の町内会が世話をしていたが、2001年の祭りの後、地区全体で「舟見米吊り保存会」を設立した。

●こもたじ〜こもたず

 「子持たず」で子どものいない家族。

●こられ

 「おいでなさい」の意味。黒部には「コラーレ」という文化ホールがある。例:「こられま(ん)」・「一回、あそんにこられちゃ」(一度遊びにおいでなさい)。

●コロッケ

 コロッケ消費量が富山市は全国の県庁所在地ではトップ(ちなみに魚介類もトップ)。おやつ代わりにもなる。この理由に次のことが挙げられる。

(1)働いている女性が多いから。

(2)北前船の関係で北海道と関係が深くて、道産のジャガイモがたくさん入ってきたためだといわれる(富山、福井、金沢、新潟が消費上位県庁所在地)。札幌の「サンマルコ食品」は道産コロッケの大手だが、北海道には富山出身の食品業者が多いという。

(3)富山の人は持ち家を大事にしており、家で揚げ物をして油で壁を汚すのを嫌うためともいわれる。(4)スーパーの大阪屋のコロッケが安いためでもある。一番人気は「昔のコロッケ」。ジャガイモの素朴な甘みと、1個23円(5個100円!)の激安価格がセールスポイントだ。富山市など県東部を中心とする同社の県内19店舗で、月60万個を売り上げるという【2006年4月現在】。

 鳥取県はカレールーの消費が1位という(「共働きが多い」「砂丘でとれるラッキョウが県の特産」「食事に手間をかけない県民性にマッチした」などと言われる)が、これよりましだ。だって、コロッケだと他に作る料理があるから。

 高岡市はコロッケで町おこしをしようとしている。キャラクターに藤子不二雄・Fの『キテレツ大百科』に出てくる「コロ助」を採用したなり。

●こわい

 「固い」。例:「餅ぃ、こわーなってしもうとるねけ」(この餅は固くなってしまっているよ)。

●こわくさい

 「生意気だ」で小さい頃からしょっちゅう言われた言葉。例:「ありゃ、なんちゅー、こわくさいこというがや」(あいつはなんて生意気なことをいうのだろう)。

●こわす

 (お金を)「細かくする、崩す」。例:「五百円、こわいてくれんけ」「がっちゃん!」(なんてことはない)。真田信治・友定賢治『地方別方言語源辞典』(東京堂出版)には愛知・岐阜・富山方言となっている。

●こんか

 「米糠」(こめぬか→こぬか→こんか)。つや出しに「こんかぶくろ」を使った。

●こんかいわし

 「米糠鰯」で、富山のアンチョビーに相当する。

●こんがけ?

 「こないんですか?」。例:「明日こんがけ」。

●ごんごん祭り

 氷見の真言宗の古刹・上日寺で4月17日、18日に行われるお祭り。もともとは雨ごいのお礼にゴンゴンと鳴らしたことから始まった。現在は男性が50キロ、女性が20キロの丸太を持って何度鐘をつけるか競うようになっている。

 この上日寺境内にイチョウの巨木がそびえ立っている。樹高約24m、幹周12mで、秋には美しく黄葉し、多くの実を結ぶのでイチョウは氷見の特産となっている。

●こんじょよし

 「根性よし」で「気がよい」こと。金沢でも使う。例:「こんじょよっしゃもんやからぁ、騙されてばっかおっちゃ」(人がいいものだから騙されてばかりいる)。

●こんじょわる

 「根性悪」。例:「わしのこと好きなくせに、ほんとにこんじょわるながいから」(と言われてみたい)。

●こんだ

 「今度」。

●こんとくない

 僕は使わないし聞いたことがない。「みっともない」ということ。

●昆布【こんぶ〜こぶ】

 「こんぶ」よりも「喜ぶ」で語呂のいい「こぶ」がよく使われる。大石圭一『昆布の道』(第一書房)によれば、富山の昆布の使い方は北陸型で、とろろ昆布を主に使うという。出汁にも使うのだが、消費量1、2位を争う沖縄では出汁には使わない。上質の昆布は清(中国)へ輸出してしまい、結果、質の悪い昆布を食べたからだという。

 背景には真宗王国といわれ、精進料理が盛んな土地柄がある。

 なお、大石は“konbu”が英語の辞書に載っていないというが“kombu”(英語の表記は-mb-となるべき)はThe Oxford English Dictionary(2nd ed.)に1884年、Webster's Third New International Dictionary of the English Languageに1986年初出として登録されている。

 2002年にノーベル賞を受賞した富山出身の田中耕一は昆布が好物だと答えた。何度も噛むのが頭を刺激していいのだ、と勝手に思う。「ノーベル昆布」なんて名前で売ればいい。

 なぜ、海中に生えている昆布はだしが溶け出さないのか?

 答えは、生きた細胞膜には不要物を排出し、必要な成分を取り込む「選択透過性」の性質があり、うまみ成分のグルタミン酸やミネラルをためこむことができるのである。

 昆布で料理とバカの一つ覚えのようにいう人にこんな話。米原万里の『旅行者の朝食』(文藝春秋)に出てくるが、ソ連の社会主義国家時代は市場原理というものが働かないから、どれだけ人気のない食品でも絶えず生産され続けたという。深刻な食料品不足のときでも誰にも買われず商品棚を満たしていた缶詰に「昆布のトマト煮」というものがあったという。資本主義国家なら、売れなければ生産をやめる、見込みがあるなら改良するという発想が生まれるんだろうけれど、決してそうはならなかった。今ではもうなくなってしまったそうだ。ちなみに「旅行者の朝食」というのもまずくて、名前を聞いただけで笑えてしまうくらいの缶詰の商品名である。

●昆布〆【こぶじめ〜こんぶじめ】

 腐敗を防ぐためにお刺身を昆布〆にすることが多い。ザシ〜サシ(カジキマグロ)やシロエビ、タラやヒラメ、甘エビのほか、ススダケ、ゼンマイといった山菜や牛肉、鶏肉を使用する昆布〆もある。他の地方ではあまり見られないようだが、富山は売薬さんが北海道で昆布をとれることを仕入れてきて、藩の財政を潤したといわれるが、北前船が遠く北海道から昆布をもってきていたので、昆布の文化が広がっている。なお、昆布ジメは昆布も一緒に食べるのが本当なのだが、昆布から刺身だけ取って食べる「旅の人」も多い。

 米酢や日本酒などで昆布をふき、切り身にした魚介を一切れずつ並べて、昆布を巻き込んで4〜5時間そのままにする。昆布と刺身を交互に重ねるときもある。上品な味で、会席料理などにも用いられる。

 ダシ用の昆布(真昆布・利尻昆布・羅臼昆布など)で、お好きな食材を挟むだけ。富山では魚の他、山菜や豆腐、アスパラガスまで昆布〆にする。挟んでおく時間も、お好みで(目安は30分〜1時間)。なお、魚を昆布〆した後の昆布をダシにしてお味噌汁を作っても、味に違いは感じられない上、魚臭くもない。

 新たな富山ブランドにしようと、富山商工会議所の会員らがPRグループ「とやま昆布〆党」を結成している。

●昆布だし

 2007年10月25日放送の「秘密のケンミンSHOW」で富山県民はお茶代わりに昆布ダシを飲む !?というのが放映された。富山県ではお茶の代わりに、うっすらと茶色に色づいた昆布ダシを飲むという。富山県民代表の柴田理恵は「冷やして飲んでもおいしい」と、当たり前のように言うが、他県ではお茶代わりとしてはまず飲まないもの。ところが、スタジオで味見をしてみると…。という具合になっていたが、少なくとも僕の周りでそんなことをしている人はいない。

●昆布のおにぎり

 とろろ昆布(こぶ)を海苔の代わりに使ったおにぎり。コンビニなどで売っているのは富山だけという話もあるが、関西でも作られる。知っている限りでは青森、宮城、千葉、富山、石川、福井、愛知、兵庫、広島、鹿児島などである。

●昆布巻【こんぶまき〜こぶまき】

 身欠きニシンを芯に、昆布を巻き甘辛く煮付けたもの。酒と砂糖、醤油で味付けし、柔らかく煮ることで昆布とニシンの旨みが溶け出す。他地域に比べ、太巻きで食べ応えがあり、昆布と魚の味わいを存分に堪能することができる。福井県敦賀の名産でもある。

 もう一つ、昆布巻があってかまぼこの昆布巻がある。赤巻、白巻はどこでもあろうが、これは富山以外ではあまり見られない。初代、女川屋傳右ェ門が富山城主・前田利友に蒲鉾を献上し、それ以来 屋号を女傳としたが、この二代目傳右ェ門が昆布巻き蒲鉾を創作したという話になっている。

●「昆布ロード」

 昆布消費量は富山市が全国1位(那覇市が2位)ということから大石圭一『昆布の道』(第一書房)が明らかにした北海道、本州、薩摩、琉球、清までの昆布のルート。富山藩と薩摩藩の調所広郷(ずしょ・ひろさと)などと結託して密貿易をしていた。富山では密田家が中心だったといわれる。売薬を通じて物品情報を入手した富山藩が北前船で蝦夷地から昆布を積んで帰り、さらに薩摩へ運んだ(薩摩―琉球は輸送船がひんぱんに往来していた)があったからだ(cf.清水義範『どうころんでも社会科』講談社)。

 調所は江戸後期の薩摩藩家老で鹿児島城下に生まれた。前藩主島津重豪(しげひで)のお気に入りとなり、累進して御側用人となった。1827年(文政10)調所は財政改革主任を命ぜられ、以来死力を尽くして改革にあたった。ついにみごと財政改革に成功、天保末期に(1830〜44)は藩庫備蓄金50万両のほか、諸営繕費用200万両余に達したという。財政改革の功により家老となり、開明派の世子斉彬(なりあきら)と対立したが、幕府より密貿易の嫌疑を受け、嘉永元年12月18日急死、自害を強要されたものと考えられる。多くのドラマなどで極悪人として描かれているが、藩財政を立て直したから日産のゴーン社長のような存在?とも考えられる。

●ごんべ

 「割り勘」のこと。「ごんべ酒」は「割り勘の飲み会」。「権兵衛」は田舎者の代名詞だから、見下して使ったもののようだ。英語では“Dutch Count”ということがある。駅前に「ごんべい舎」という飲み屋があるが、ここから採った。

●ごんぼ

 「牛蒡」(ごぼう)。京都でも「ごんぼ」という。

●こんもち〜かんもち

 「氷餅」から「干し餅」のこと。ヨモギやクチナシ、赤カブなどで色とりどりに染めたり、豆や昆布を練り込み、短冊状に切ったこんもちを縄で縛って1〜2月にかけて寒風にさらし、乾燥させて作るもので、色とりどりにさらす様子は「おいしい暖簾」みたいだ。北陸では農家のおやつとして親しまれてきた。火であぶると、ふくらんでおかきのようになる。食べ飽きた頃、細かく刻んで、米と一緒に「煎り菓子」にしてお雛様にお供えする。

●こんもり〜こんもっと

 「こんもりと」。例:「ゴミがこんもっとたまっとった」(ゴミがこんもりとたまっているよ)。


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数字

序文

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