●きーうい
オーストラリア産の鳥のキウイ(キィウィ)に似ているところから名付けられた果物、ではなくて「気が憂い、滅入る」。例:「そのフルーツ、食べんがちょっときーうーてぇ」(その果物を食べるのが気が引ける)・「なーん、行くがぁ、気ーうぅてぇ出れんが」(いいえ、どうも行くのが気が滅入って出ていけないのですよ)。
●キウイ
富山市のキウイの消費量が日本一という統計があった。これの答えなど出せないだろう。バナナも多いはずで、食べやすいというのが一番かもしれない。キウイを最近はむかないで半分に切って、スプーンでくり抜いて食べるから、楽なのだ。これを共働きが多いからという理由とくっつけると答えが出てくる?!うがった見方をすれば、ニュージーランドなどで「キウイハズバンド」というのがいて、キウイのメスは産卵後は体力をなくしてしまっているので、オスが代わりに温めることから、子育てをする夫を指す。で、これも共働きとくっつけて、忙しい妻を手伝うキウイハズバンドが多い富山ではキウイの消費がどうしても増えていく…なんて。
●黄ーバス【キーバス】
2001年にできた富山市のコミュニティバス。「黄色」を「黄ー」というところが富山方言。なお、高岡のバスは「こみち」になった。
●気ー張る
「気を張る、気をつける」。例:「あそこなち、気ー張るところやから気ーつけられ」(あそこの家は気を張る家だから気をつけなさい)。
●木一本ブリ千本
富山湾の魚津と黒部沖の海底に淡水が湧き出ている。平均標高800〜1,200mの山々への降水が地下に浸透し、10〜20年をかけて海底から湧出し、河川の1.2〜2倍の栄養分を富山湾へ供給する。これらの山々にはブナ林が茂っており、海から蒸発した水分が雨となり森を養い、地下に潜った水が海へ回帰して海洋生物の成長を支えているという。張勁【ちょう・けい】富山大学の先生の説である。
●気ー悪い
「気が悪い」から「病気の、気持ち悪い」。この二つから分かるように、富山ではあんまり助詞というものを使わなかった。例:「けったくそ悪い、あんなもんと一緒におったら気ー悪うなってくっちゃ」(気色の悪い、あんな奴と一緒にいたら気持ち悪くなってくる)。
●祇園会(ぎおんえ)
富山市梅沢町三丁目の円隆寺(天台宗)では7月14、15日に祇園会がある。富山城下が佐々成政から前田家の世になったころからずっと、信者や住民たちは祇園会の2日間、キュウリを食べてはいけなかったという。断面の模様が前田家の「丁字梅鉢」紋に似ていて「前田家を食う」につながるからと禁止されたのだ。祇園会の宵に披露される「さんさい踊り」(市の無形民俗文化財)のはやし言葉も意味深長で「サーイサンサイ、ヨンサノヨヨナーイ」は「もう佐々の世ではない」とも聞こえるという。前城主を懐かしんでばかりおらず、前田の藩主に協力せよというわけだ。
●機械遺産
富山ではYKKのファスナー製造機械「CM6型機」が2011年度の「機械遺産」に認定されたのが最初。
●来がけの嫁はん
「来たばかりのお嫁さん」。例:「来がけの嫁はんのつもりで働きます」(新鮮な気持ちで大人しく働きます)。
●きかん
「気の強い」「強い」で「しっかり者」という意味もあるがやや批判的。「きかず」ということもある。金沢でも使う。例:「か、なんちゅう、きかん子やろか」・「きかん人やかあんなことできたがいねけ」・「あんた、何ちゅー、きかんこと言うがけ」。
●「聞く雑誌の会」
戦後の昭和20年代前半、富山市で数回開かれた催し。文学活動は紙不足の影響で、二十年代後半までは印刷もできない時期が続いたが、その中で考え出されたのが「雑誌を聴く」という趣向だったという。2003年に「聴く文学の集い」という名前で復活した。
●菊祭り
福野菊まつりが有名で、毎年11月3日に開幕される。1982年に始まった。
●聞くれる
「聞こえる」。例:「なん、言うとること聞くれなんだぁ」(いいえ、言っていること聞こえなかったよ)。
●きし〜きしゅ落ちる〜きしょ落ちる
「落っこちる」。例:「あっりゃぁ、車なぁ、崖からきしゅ落っちてしもうた」(あれぇ、車が崖から落っこちてしまった)。
●ぎじぎじ〜ぎじょぎじょ
頭の「旋毛、ゲジゲジ」。
●汽車
「電車」のことを富山の人は未だに「汽車」という。急行で「白雪」というのがなくなったし、夜行の「越前」もなくなり、「能登」だけだ。特急の「白山」も長野新幹線開通でなくなった。昔はどこにもSLが走っていた。
JRのは「汽車」(高山線、城端線、氷見線などはまだ気動車)、私鉄は「電車」と分けている人もいる。
札幌でも、最近は分からないが、汽車と電車を使い分けていて、汽車とは国鉄(JR)のことで、電車とは市電(路面電車)のことだった。
●きずい
「わがままだ」。
●キズバン
「カットバン」のことを「バンドエイド」とか「キズバン」という。篠崎晃一+毎日新聞社『出身地がわかる!気づかない方言』(毎日新聞社)によれば、「キズバン」は富山だけだという。
●木曽義仲
小矢部には倶利伽羅(くりから)合戦の舞台があり、合戦の前に戦勝祈願をした神社や、鬨(とき)の声を上げた場所などもある。馬渡川(富山市)や鞍川(氷見市)といった義仲にまつわる地名が多い。平安末期の武将・木曽義仲と、連れ添った巴(ともえ)御前を大河ドラマにしようという動きがある。富山、長野両県の18自治体が参加する「義仲・巴広域連携推進会議」がイラストも作っている。長野県出身の漫画家で義仲の研究もしている西川かおりが担当した。
●北アルプス
「飛騨山脈」の愛称。「北アルプス」「中央アルプス」「南アルプス」に分かれていて全体をヨーロッパ・アルプスにちなんで(パクッて?)「日本アルプス」と名付けられているのだが、「日本アルプス」ってあまり聞いたことのない人が多いと思う。
遭難が多くて1959年、県内山岳関係者による「県山岳遭難救助協力隊」が誕生した。隊長は佐伯文蔵。確かな技術と豊富な知識で人望を集めていた。県警も、機動隊を中心とする山岳救助隊(後の警備隊)を組織するが、経験も浅く、地元住民の協力なしには機能しなかった。県警救助チームの隊長を務めたのは富山県警上市署の鑑識係、伊藤忠夫40歳。伊藤はかつて最愛の弟を山で亡くしていた。昭和40年、伊藤を指揮官とする山岳警備隊が発足した。
NHK『プロジェクトX』では「魔の山大遭難 決死の救出劇」を放送した(2002年11月19日)。昭和44年正月、剣岳を記録的なドカ雪が襲い、15パーティー81人、史上空前の大量遭難が発生した。山岳警備隊は芦峅寺の男達に応援を頼み、山頂付近にいた金沢大学山岳部17人の救助に向かった。しかし猛吹雪の中、先頭を切っていたベテランガイドが谷に転落。あしくらじ芦峅寺の男達は仲間を救出、山を降りた。後には、3人の若き警備隊員が残された。「今こそ厳しい訓練の成果を見せる」遭難者が待つ山頂に、足を踏み出した…。
富山県警察山岳警備隊『ピッケルを持ったお巡りさん』(山と渓谷社)、谷口凱夫(かつお)『アルプス交番勤務を命ず』(山と渓谷社)、富山県警察山岳警備隊編『山岳警備隊出動せよ!』(東京新聞出版局)などに詳しい。
県警山岳警備隊の優秀さから「落ちるなら富山県側に」という言葉もあるようだが、富山県には県税を使って、遭難救助のために莫大な予算を使うのはどうか、という議論があることをマナーの悪い登山家は知っておくべきだ。
●「北アルプス銀河鉄道」
北陸新幹線の開通に伴って北陸本線がJRから第三セクターに経営が移る際のその社名案(県職員有志の富山県交通政策研究会の小冊子「同乗するなら金を出せ! 公共交通優先型社会への提案」に出てくる)。
●北アルプス市
大町市と八坂村、美麻村でつくる「大北地域任意合併協議会」は2003年に公募した新市名で1位(166件)が「北アルプス市」、2位は「仁科市」(137件)。3位は「大町市」((53件)、4位「黒部ダム市」(49件)。他に「大美八市」「北安曇野市」「信濃大町市」「高瀬市」「美岳市」などだった。富山県はとられて悔しくないのか?
●北アルプス文化会館
上市町にある立派なホールなのだが、「北アルプス」という名前が悪いのか、コンサートをここで開くといっても「遠い!」といわれてしまう。何だか立山連峰の中にあるように思われているみたいだ。
●木谷(のそろばん)
新湊にある木谷綜合学園の事業の一つ。全国展開しているからすごい。
●北日本
北日本新聞社という有力な地方紙がある関係で、富山に北日本がつく会社が多い。北日本銀行というのがあるが、これは盛岡に本店のある東北の銀行で、こちらを北日本と呼ぶのは妥当だと思う。
JR(東は直江津まで、南は猪谷までが「西日本」)や電気の周波数(長野は富山と同じ60サイクル)、NTTなどはみな西日本(東西会社間の収益格差があまりにも大きくなってしまうため)、高校野球(だから石川県と最初の試合でぶつかることがある)、サッカー、気象庁の区分けでは東日本で気象台がいう「北日本」は、新潟から上(つまり東北・北海道)、運輸省では中部日本だという。ゼンリンなどの電子地図帳では東日本扱い。マクドナルドをマックと呼ぶので東日本だ。コンビニは東京のセブンイレブンが一軒もなくて、ローソンが多い。そばが好きな県民性も東日本の象徴だ。雑煮を考えると四角いから東日本、餅は煮ることも焼くこともあるからどちらともいえる。方言や文化はもちろん、西日本。ただし、県内でも黒部川から東になるとずいぶん違う。
北日本新聞社がいつから「北日本」にしたのか?
これは結構新しくて、明治17年1月18日に北日本新聞の前身「中越新聞」第1号発行され、昭和15年8月1日に富山日報、高岡新聞、北陸日日新聞、北陸タイムズの4社を統合して、「北日本新聞」第1号を発刊したとされる。このうち、北陸タイムスは北日本新聞初代社長を務めた福野町の豪農、田中清文が自己資金を投じて設立したものだ(当時の新聞は、政党の機関紙的性格が強く、田中は中立的な新聞を目指し明治41(1908)年から発行を始めた)。
つまり、統合した時に名前を模索して、「北日本」で落ち着いたと考えられるのである。どうして「北日本」にしたか、当時の関係者に聞かなくてはならないが、一つは金沢の「北國新聞」(「ほっこく」明治26年=1893年8月5日創刊)に対抗してつけた名前ということがあっただろう。あちらが北國ならこちらは北日本だという対抗意識が働いておかしくはない。
金沢が「北國」というのも現在の地勢から考えるとおかしいが、東京中心にものを考えるから変に思えるのである。京都を中心と考えれば、「北國」というのは一つもおかしくない。例えば、「くだらない」という言葉があるが、上方の品が江戸よりも洗練されていて、江戸ではそれを「下り物」としてあがめたが、「下ることができないもの」を「くだらない」と言ったのだ。関西の方が「上り」だったのである(中江克己『江戸ことば100選』青春新書)。皇女和宮はさしずめ、究極の下り物ということになっていた。
江戸時代の文献からも「北國」とか「北國街道」(北陸街道と同義)というと北陸を指した。江戸時代には「北國廻船、北國路北前船、北國筋、北國船、北國米」などどれも「北陸」を指していたのだ。
言葉には「あやかり」という機能がある。仮に北日本新聞社と関係がなくても、その後の企業が「北日本」の名乗ることはままあることだ。
こうして、現代人には「北日本」「北國」というのが富山、石川に根付いたと考えられる。
それにしても、「南日本」というのがないことに気づいた(鹿児島にあるという)。
最後にどうして「北日本」が好まれるかということを考えてみると、石川の「加賀」「能登」に対して「越中」はなぜか語感が悪いからである。なぜ悪いかは、特にいわない。
※KNBから理由を訊ねられて考えたことだが、「ズームイン朝」の番組に取り上げられた。結論は、まあ、コウモリみたいな存在なのでしょうね。
●北日本文学賞
北日本新聞社が創設した文学賞。選者は井上靖から宮本輝となった。1989年度の第24回北日本文学賞に輝いたのは高嶋哲夫の「帰国」だったが、後に、サントリーミステリー大賞などを受賞した。『ミッドナイトイーグル』の原作者でもある。
●北原白秋
白秋と富山はとりあえず関係がない。しかし、長男の北原隆太郎は旧制富山高校を卒業している。遺稿集『父・白秋の周辺』(短歌新聞社)があり、1939年に剱岳や立山にあこがれて入学し、寮生活を送ったという。山岳部ではリーダーとして立山を相手に格闘した。遺稿集では歌人の木俣修や宮柊二ら、白秋と交わった人々を取り上げながら、富山で過ごした青春の日々を描いている。当時教授だった木俣の自宅を訪ね、ますずしやかまぼこをごちそうになった話や、白秋について講義した木俣が「君がいると、しゃべりにくいよ」と、こぼした。大雪で帰省をあきらめ、母を思って涙したこともある。
富山では「バイ船」ともいう。北前船というのは、日本海を交易していた船で船主が荷主を兼ねて、商売をしながら運送する商業形態のことで、船の種類・型ではない。そのため、「動く総合商社」とあだ名される。菱垣廻船(ひがきかいせん)や樽廻船(たるかいせん)(大阪〜江戸)というのは運賃船で船を提供しただけだった。
1670年頃、北国船という船が使われていた。1700年代には弁財船(べざいせん)が全国的に普及して、北陸でも北国船の長所を取り入れ、弁財船を改良したものが使われていた。外観的な特徴としては、側面から見ると波に船首が突っ込まないよう船尾が大きく反り上がり、正面から見た場合荷物を多く積むために帆幅が特に大きく造られていた。内部は、船底の強度向上と柱を少なくするなど簡素化されていて、操作性では、一本マストの一枚帆で抜群のスピードがあり、沿岸航路では足回りや荷の積み下ろし、接岸性などに便利だったという。また、北前船は追風に強く逆風に弱い船だったので、各地に避難港として風待港が設けられていた。
北前船がどうして一本マストなのかというと、戦国時代には「十九反帆(じゅっきゅうはんぽ)」という3本の帆柱の船があったにもかかわらず、徳川幕府が複数の帆柱を禁止したからだ。帆柱が一本の船は操船が難しい。
寛永十五(一六三八)年、三代藩主前田利常公は日本海と瀬戸内を結んで下関経由で藩米を上方へ送ることを思い立ち、試しに米百石を輸送して成功させた。それ以前、藩米は琵琶湖の大津経由で上方に運ばれていたのである。殿様の大胆不敵な試みが前人未到の活路を開き、正保四年(一六四七)年には藩米が上方雇いの廻船(かいせん)で上方へと運ばれた。さらに、明暦年間(一六五五―五七)年のころより、日本海・下関・瀬戸内海をたどって上方へいたる廻漕(かいそう)が本格化し、これが北前船の起源とされる。以降、加賀藩の海運は華々しく発展し、「陸で百万石、海で百万石」といわれたほどであった。
二代利長公にも船にまつわる逸話がある。利長公が船に乗る時にはいつでも、いかなる難風が吹いていようと、船が漕(こ)ぎ出したとたん直ちに順風に変わるというのである。この様子を見ていた旅人などは驚いて「ほおぅ、これは肥前様(利長の通称)風だ」と感心しきりであったと、『三壷記(みつぼき)』の「瑞龍院様の御噂(おうわさ)の事」に伝える。利長公は優秀な造船技術者を抱えており、文禄の役の時には大陸へ渡る軍艦の製造に携わった。また、先の伝説から察するに、いかなる難風の中をもみごとに帆を操って船をすすめる優れた水夫(かこ)たちを抱えていた。
富山県では「北前船の伝統で…」といえば、何でも話が通じる。これで北海道に米や藁(富山の藁は長くていいとされる)、北海道からは鰊や昆布などの名産を運んでいた。江差追分はもともとは、信濃の「追分節」が越後に伝わったもので、越後から北前船に乗って北海道へ運ばれたとされる。元々、「北前船」という言葉は運航していた北陸の船主らが呼んでいたものではなく、荷主である関西の商人が用いていたものである(でなければ、南前船という言い方をしてもおかしくない)。
北銀が北海道に支店がいっぱい持っているのは北前船の伝統があり、その後、北海道に移民した人が多かったためである。
「海の玄関口」と呼ばれる富山市岩瀬の大町通りはかつての北前船主の屋敷が軒を連ねて「海商の町」といわれる。中でも国指定重要文化財の北前船回船問屋「森家」(岩瀬大町)は贅を尽くしている。みかげ石の一枚岩を敷いた通庭(とおりにわ)、屋久杉仕上げの厠(かわや)、床柱は京都、みかげ石は小豆島という具合に、一級資材が使われている。
近くの神社には北前船を描いた立派な絵馬が奉納されている。江戸中期から北前船はあるのだが、富山との関係は明治期に盛んだったとされる。
明治30年代になると、乱獲によるニシンの資源不足が起こり、また、汽船や汽車の発達により、北前船は急速に衰退していった。
加藤貞仁『北前船』(無明舎出版)は北前船の各地での様子を写真で見せてくれる。北前船の模型が各地にあることが分かるが、民俗学者の宮本常一が音頭をとってできた佐渡国小木民俗博物館には原寸大に復元した白山丸(「千石船」という)が飾られている。全長約24メートル、最大幅7.3メートル、畳155枚大の帆。現存する板図を基に、町が約3億円を投じ、江戸時代に建造された船を1999(平成11)年、実物大のとして全国で初めて完成した。
●きちきち〜きっちきち
「ぎりぎり、すれすれ」で特に方言ということはないようだ。だが、時間に関して東京などでは使わないと思う。例:「きちきちの時間やったがいね」。
●きっつい〜きつい
「強い」。強い女性を「きつめろ、けつめろ」ということもあった。例:「あっりゃぁ、なんちゅー、きっつい嫁はんやろか」(あの人はまた、何という強いお嫁さんだろうか)・「風邪もひかんちゃ、何ちゅーきっついがいろか」(風邪も引かないとは何て丈夫なんでしょう)。
●きつめろ〜けつめろ
「お転婆」。石川や福井では「男めろ」という。
●来て行く
「来訪した」。標準語かどうか分からないが、富山ではよく使う。例:「さっき、来て行ったばっかりやがね」(さきほど来訪していったばかりだ)。
●きときと〜きっときと
「新鮮な」。「きっときとの一年生」「きっときとのパソコン」など。「きときとの魚」とか魚には使わないという人もいる。まあ、富山の魚はどれもきときとだからだ。金沢でも使うので近江町市場に行くと「この魚、きときとやぞ」などといわれる。魚津出身の室井滋には全国区ではない「きときと」という言葉をタイトルにした『きときとの魚』(マガジンハウス)という名著があって序文には次のように書いてある。
私の田舎、富山の言葉で“キトキト”というのがあります。
キトキトは、キョトキョトじゃあないし、キビキビでもなく、ギンギンやギトギトとも違う言葉です。
田舎の人は、たとえば元気に走り回っている子供を見て、
「本当にキトキトの子やわ」
と言ったり、なかなか寝つかない子供を見て、
「まあこの子、キトキトの目しとる」
と言ったりします。
また、キトキトは子供以外の大人や生き物にもよく使い、町内会の運動会で妙に張り切っているおじいちゃんを見て、
「どうされたんやろう、室井さん家(ち)のお父さん今日はキトキトになってるね」
なんて言ったり、魚屋さんへ行って、
「キトキトの魚、ちょうだいよ」
と、注文したりするのです。
キトキトは、やけに元気で、それでいてけなげ、異様に張り切っていて、ピチピチと生きがいい状態のことを言うのですが、かといってそれは、たとえばハッチャキのような派手な言葉ではありません。
そう……どちらかというと、普段とても地味なものが、このうえもなくイキイキしている様子というか、地味なものがけなげに頑張っているカンジ……そう、そういう言葉なんです。
私はこのこの“キトキト”にとても憧れているので、私自身も、そして私のこの本も、とびきりの“キトキトの魚”みたいになりたいなあ、という気持ちで書きました。『日本国語大辞典』にも『大辞林』でも「きと」を重ねた語という。
「きと」を重ねたものと考えれば『大辞林』によれば次のようだが…。(副)
(1)決意・意志などがはっきりしているさま。必ず。きっと。「申すべきことあり。―立ち寄り給へ/平家 3」
(2)きびしく申しつけるさま。きっぱりと。きっと。「しかじかせよと―言ひ教へて/おらが春」
(3)態度などがゆるみのないさま。きびしいさま。きっと。「かの物いふ目の瞳を―わが面に注ぎしときは/文づかひ(鴎外)」
(4)何げなしに。ふと。ちょっと。「きよみつさまのこと、―思ひ出られて/御伽草子・しくれ」
(5)唐突なさま。すばやいさま。「此のかぐや姫―影になりぬ/竹取」しかし、これらは富山の「きときと」の意味ではない。共通語では「きときと」はないが、「ぎとぎと」がある。「油が光って浮いたり、ついたりして、不快なさま」で「油で手が―する」などというように使う。
日本語には濁音にすることによって不快な感情や乾いた様子を表す機能がある。
- ころころ→ごろごろ
- ことこと→ごとごと
- とんとん→どんどん
- からから→がらがら
- ぱくぱく→ばくばく
「里回り」を嫌な意味で隠語化した言葉に「どさ回り」というのがあるが、本当は「とさまわり」となるべきところを濁音を入れることによって、不快な感情を出している。
ここで思い出すのは「ぎんぎんぎらぎら 夕日が沈む…」だ。高岡出身の室崎琴月の作曲で作詞は葛原(くずはら)しげる。葛原は最初「きんきんきらきら」にしていたのだが、子どもが「ぎんぎんぎらぎら」の方が夕日らしくていい、といったので変えた。また、最後の「…日が沈む」は室崎が加えたものである。夕日は「ぎんぎんぎらぎら」の方が似合っている。
これらから考えると「きときと」というのは「ぎとぎと」から「光っている」が「爽やかな」感じを出した言葉だといえる。
川崎洋『感じる日本語』(思潮社)には次のように書いてあるが、これからも大切にしたいものだ。
きときと
方言を勉強しに各地を訪ねましたが、富山でこの言葉に出会い、なんと口にして響きの楽しい、いい言葉だろうと感嘆しました。いのちあふれて生き生きしているさまを言います。「きときとした顔」と言えば、疲れやかげりなどみじんもない、血色のよい、はつらつとしたさわやかな表情のことであり、「きときとした魚」は獲れたての鮮度の高いぴちぴちした魚のこと。「大学出のきときと」は大学出たてのフレッシュマン。「靴をきときとに磨く」などとも使います。
●きっときと市場
新湊大橋の下、海王丸パークの西、漁港の東に2011年にできた観光客向けの市場。「きときと」ではなく「きっときと」としているところが新湊らしい。
●キトキトの日
射水市は2008年度から市内の全保育園で毎月1回、地元の食材を使った給食を園児に提供し、地産地消を学んでもらう「射水キトキトの日」を設定した。「地産地消」と食の大切さを学ぶ「食育」を広めようと実施している。
●絹ごし豆腐
富山では木綿ごし豆腐はほとんど使わない。絹ごしばかり売れている。
●紀伊國屋書店
2007年9月に総曲輪大和フェリオの開店と同時に入った。果たして都会型の本屋が富山で残れるかという大実験だった。
●気の毒な
「気の毒」からきて「気の毒になるような(気配りしてもらって)ありがとう」という意味の、労いの言葉。北陸共通で、「ありがとう」の意味。「ありがとう」には「大きに」系と「ごっつぉぅさま」系と「気の毒な」系があるが、最後の系列に当たる。富山出身の真田信治は『方言は絶滅するのか』(PHP新書)で「相手の気持ちを気づかって、感謝の意を表す北陸地方特有の表現形」と解説している。ただ、山形の米沢では「おしょうしな」というが、これは「恥ずかしい」という意味であり、これも最後の系列だといえるだろう。
ラジオ放送で方言について話したことがあるが、東京の人から「放送、気の毒に」といわれてしまった。「放送、ありがとう」を方言で言ったつもりなのだろうが、同情されたような気持ちになった。例:「こんなホームページ読んでもろてぇ気の毒なぁ」。
新湊出身の落語家・立川志の輔は小学館辞典編集部編の『私の好きなお国ことば』(小学館)で「気のどくな」が好きだと書いている。「きのどくな」が富山県だけだというところは間違っているが、いい文章である。
確かに意味に一つに「気の毒な」を含んではいる。共通語の「気の毒」は相手の状態を指す。「あの人、交通事故に遭ったそうだよ。気の毒だね」と。ところが富山弁のきのどくな」は「自分の為に、こんな苦労をしていただいて、あなたに気の毒な思いをさせてしまったね」と言う意味なのである。
つまりは「きのどくな」は同じ同情のようなニュアンスでも、自分の為に相手がそうなったことに対する労いの言葉なのである。
だから意味としてはその他に「ありがとう」「すいませんね」「おかげ様で」「感謝です」「申し訳ない」「助かりました」「お疲れでしょう」「ご苦労かけました」「休んでくださいよ」などなど。
これらすべてのそれぞれの意味を持っていると言えるし、これら全部を足して割ったような富山県民独特の相手に対する気遣いの表現なのです。【…】
●きびしょ
「急須」。『大辞林』には「煎茶(せんちや)を淹(い)れるのに用いる器具。葉茶を入れ、湯を注いで煎じ出す。普通、小形で横に取っ手のあるものをいう。茶出し。きびしょ。〔もと中国で酒の燗(かん)に用いた器が日本に伝わって煎茶器になったという〕」とちゃんと書いてある。
●歸命無量壽如来/帰命無量寿如来…
「歸命無量壽如来(きみょうむりょうじゅにょらい) 南無不可思議光(なむふかしぎこう)…」というのは浄土真宗の勤行(ごんぎょう)に使われる「正信偈(しょうしんげ)」という教え。七言百二十句からなる親鸞上人(しんらんしょうにん)の言葉だ。これが毎日のお勤めとして、富山の真宗の家庭では聞かされてきた。
●漁民義人塚
新湊にある塚。東西放生津の漁師総代、佐賀野屋九右衛門 と嵐屋四郎兵衛の「世直し義人」二人が祀られている。1718(享保3)年2月6日「バンドリ一揆」(バンドリ騒動) の首謀者で「バンドリ一揆」とは、当時漁民を支配していた悪徳商人が、利権のため買占め・中間搾取など思うままに漁業経済を支配していたのに不満を持った漁民の間に改革の機運が盛り上がり、ついに、バンドリ姿の漁民400人が密かに金沢城下におしかけ、藩の公事奉行に直訴に及んだ。直訴は、当時ご法度であり、暴動の参加者は全員入牢、首謀者の二人は 斬首の刑に処せられた。しかし、このことが契機となり、放生津漁場が 開設され、零細漁民の窮状が救われることになった。
2005年には演劇「波濤の碑」が上演された。「小川おさん物語」と同じく、劇団うりんこ(名古屋)の本田忠勝さん脚本、劇団劇奏(東京)の玉野井直樹さん演出で金川睦美が女忍者になった。
●きむら
木村さんではなく「気にむらがある人」。
●きめきめ
「決め決め」で律儀な様子を指す。例:「あっらぁ、きめきめの先生やから、どっだけん言うてもアカンねけぇ」(あの先生は律儀な先生だからどれだけ話し合っても無駄だ)。
●きもん
洋服を含めた「着物」。
●きゃ
間投詞で「これは」。例:「きゃ、何け?」(これは何ですか・これは一体どうしたことか)・「きゃ、何よ」(これは一体どうしたというのですか)。
●…きゃ
「…すれば」で「書けば」(条件法)は「書きゃ」となる。例:「すぐに書きゃ、いいがいろ〜やろ」(すぐに書けばいいんでしょ)。●ぎゃわず
「かわず」から「カエル」のこと。
●木遣り踊り
井波の木遣り踊りは、江戸時代に焼失した瑞泉寺再建のため、材木を運搬した時に歌った音頭を基に作られた。掛け声とともに丸太を引きながら、男性は采配を振り、女性は扇子を掲げる。同寺太子堂で続く伝統行事「太子伝会」に合わせ、毎年7月下旬に開く観光祭で、昭和40年ごろから町青年団が披露していた。平成に入り、青年団が解散したため流しは中断した。2004年に復活する動きが生まれる。
●旧家
観光バスが立ち寄るような旧家は少ないが、富山にも旧家と呼べる家がある。どれも有料。
- 金岡邸(富山市新庄)☆薬種商の館=富山の薬売りを代表する家柄。漱石などの短冊も飾られている。
- 浮田家(富山市太田)☆武家屋敷=映画『釣りバカ日誌13』で“製薬会社社長”の丹波哲郎の家として登場する。加賀藩の代官職を務めた宇喜田秀之に縁のある家。入ると囲炉裏に火がくべてある。
- 森家(富山市岩瀬)☆北前船の回船問屋=ベンガラ格子の家で、ギヤマンの硝子障子が入っている。北前船の栄華を偲ばせる博物館にもなっている。2005年には酒屋として利用されることになった。
- 県民会館分館・内山邸(富山市宮尾)☆豪農の家=元々は京都の人だったために風流さが残る。武田家住宅(高岡市太田)☆肝煎りの居宅=武田信玄の弟・逍遥軒信綱の子孫といわれる家柄。伏木の勝興寺の余材を使って建てられたという。竹垣が見事で、高さ約1メートルで、内山邸の周りを囲んでいる。半分に割った竹を垂直に敷き詰める「建仁寺垣」と呼ばれる様式で、270メートルもの長さは、県内ではほかに例がない。映画『少年時代』のロケ地にもなった。明治時代の報道写真を掲載したタブロイド紙『日本画報』が見つかった。明治時代の新聞「日本」が月に2度、発行していた付録で同分館には明治37年から39年までの三年間分が保存されていた。
- かいにょ苑・旧金岡家住宅(礪波市豊町)☆初昭和年発行の『日本民家史』でも紹介された豪農民家。1871(明治4)年の建造だが江戸時代の建築様式を残し、母屋は木造一部二階建てで、延べ床面積は約320平方メートル。2002年3月に市文化財となり、2003年4月オープン。
- 村上家(平村上梨)☆合掌造り=富山から行くと相倉合掌造り集落と菅沼合掌造り集落の間。流刑小屋やこきりこ唄の館も近くにある。
- 岩瀬家(平村西赤尾)☆合掌造り=五箇山最大の合掌造り。富山から行くと菅沼合掌造り集落の南。
●給食
富山市が中学校の給食で、男女によって給食のパンやご飯の量に差をつけていることが2002年5月に判明。男子の食パンが女子より1センチほど厚く、コッペパンは大きい。
給食1食あたりの平均を定める文科省の「平均所要栄養量基準」では、中学生ならパンの小麦粉の量は85グラム、米飯は110グラムと、男女差はない。富山市は中学校で給食を始めた75年から、パンの小麦粉の量は男子120グラム、女子90グラムとしてきた。「平均所要栄養量基準」が改訂され、87年からは、パンは男子100グラム、女子70グラム、米飯は男子120グラム、女子100グラムに変えた。
教職員の場合、全員が女子と同じ量。給食費も別で、女子と教職員には年度末に約1千円が返される。
市教委は「男女はエネルギー代謝が違う」「男女差別のつもりはない」と当面見直す予定はないと話していたが、2003年9月に見直され、性別に関係なく主食の量を2種類から選べる給食が始まった。1975年に給食が始まって以来、男女差を改めるのは初めてで生徒は、A量(約300キロカロリー)とB量(約380キロカロリー)の2種類の主食の量から選ぶ。これまでは、市教委が「男子はB量、女子はA量」と決めていた。女子用のA量を食べていた教員もどちらかを選べるようになった。
なお、高岡市には給食制度がないと聞いている。
●救助犬→災害救助犬
●旧8【きゅうはち】
「旧8号線」。国道8号線は市街地を走っていたのでバイパスが作られた。そのため、かつての8号線を「旧8」と呼ぶ。新しい方を「新8」と呼べば便利なのだが、いちいち「新しい(方の)8号線」と言っている。
●キュウリ
結婚後、仰け反ったことがある。妻がキュウリの味噌汁を出したのだ。後にこれが呉東の当たり前の習慣だと知る。八宝菜や酢豚にも入れる。娘の話によれば、石川出身の声優が味噌汁にキュウリを入れるといって馬鹿にされたいたというから、石川でもある風習らしい。
●共同洗い場
昔はどの町にも共同洗い場があった。わが町では下条川で洗っていたものだ。
一番有名で残っているのは黒部市の生地にある、6カ所の共同洗い場。上流から飲用、調理用、食器洗い用、洗濯用などといった順番になっている。
19世紀のパリでも公設の共同洗濯場が不可欠だったことはゾラの『居酒屋』などで知れる。女主人が番台に座っているところは銭湯の雰囲気だったのだ。当時の料金は1時間15スーだったが、桶一杯のお湯にも同じ料金が必要だった。ルネ・クレマンの映画『居酒屋』では、同棲していたランチエがアデールに走ってしまい、アデールの姉のヴィルジニーとジェルヴェーズがこの洗濯場で喧嘩するシーンがクライマックスの一つになっている。
●郷土料理百選
農林水産省は2007年に農山漁村で受け継がれているふるさとの味を「郷土料理百選」として発表した。富山県内からは「マスずし」と「ブリ大根」が選ばれた。石川県はカブラ寿司と治部煮、福井県は越前おろしそば、さばのへしこだった。
1.いも煮(山形)
2.鶏飯(鹿児島)
3.きりたんぽ鍋(秋田)
4.馬刺し(熊本)
5.きびなご料理(鹿児島)
6.ブリのあつめし(大分)
7.宇和島鯛めし(愛媛)
8.豚骨(とんこつ)料理(鹿児島)
9.じゃこ天(愛媛)
10. さつますもじ(鹿児島)●教文【きょうぶん】
富山県教育文化会館。できた頃は富山県に「教育文化」というのがあるのか、と文句を言われたそうだが、富山市体育文化センターに比べれば大したことがない。「教育会館&文化会館」のつもりなのだ。
●教養娯楽費
富山県は教養娯楽費への支出が少ないことで知られる。図書館の人口比が日本一にもかかわらず、図書購入費がワースト1位だったこともある(当時の中沖知事が県庁職員に命令して本を買わせてことがある)。
2002年の富山市の1世帯当たりの1カ月平均の消費支出(食費、教育費、小遣い、仕送りなど)は380018円で4年連続日本一。教養娯楽費への支出は32408円(8.53%)で、全国平均10.13%に対して低くて46位(つまりワースト3)だった。旅行費のうち1回当たりの海外パック旅行購入単価は159250円で全国平均の22万円を下回る。
そして、一番の原因は富山には通勤文化がない、ということだ。マイカー通勤がほとんどなので、週刊誌を買うことは少ないからである。
ただ、この「教養娯楽」という括り方はかなりおかしい。富山にはフーゾクがなくて、競馬などギャンブルは少なくて、繁華街も早く閉まってしまうので、「娯楽」自体が少ないから、ということにもなる。
●恐竜空白県
78年、岩手で国内初の恐竜化石が見つかって以来、富山は恐竜空白県と呼ばれていたことがある。1990年当時、福井でドロマエオサウルス、アロサウルス(以上88年)、イグアノドン(89年)、石川でブラキオサウルス(88年)、メガロサウルス(87年)、岐阜でヒプシロフォドン(88年)……だったが富山では出土しなかった。恐竜の骨が出るのは手取層(中生代白亜紀前期・1億3千万−1億2千万年前)で、恐竜時代の半ばに時期が重なる。富山から石川、福井、岐阜にまたがる。97年までの調査で、4足歩行の草食恐竜である竜脚類67カ所、肉類の獣足累10カ所2足歩行の草食恐竜の鳥脚類150カ所、鳥や不明75カ所の計302カ所を確認した。かつてはブロントサウルスと呼ばれたアパトサウルスを含む竜脚類の足跡には、全長1メートルの国内最大の足跡23カ所が含まれる99年11月には、肉食恐竜の歯の骨化石が見つかった。2000年8月には、左に隣接する崖じゃら国内初となるアンキロサウルスの足跡22カ所も出た。
2002年、県恐竜化石調査団が大山町南部の林道沿い斜面にある手取層群の地層で行った調査で、脊椎動物の骨化石50点やアンキロサウルス類の足跡化石2点などが見つかったという。もし恐竜の骨化石と確認されれば県内初の発見となる。
2005年、白亜紀前期(1億4千万〜1億年前)に生息した草食恐竜のイグアノドン類の歯の化石1点が、大山町内の調査現場から見つかった。イグアノドン類は鳥脚類に属する二足歩行の草食恐竜グループで、白亜紀前期に全世界に広く生息した。最大で体長約8メートル。福井、石川などで全身の骨や歯の化石などが発見されている。見つかった歯の化石は高さ約1・6センチ、幅約1センチの下あごの歯で、上の方が半分近く欠けている。この化石は中生代白亜紀前期(約1億1千万年前)の地層から02年に発掘。岩石を取り除く作業をしたところ、独特のふくらみやギザギザからイグアノドン類と確認したという。
●魚介の漬物
全国県庁所在地の消費動向で、富山はいつも魚介の漬物が1位になる。これには魚の味噌漬などが入るのだが、昆布〆もこの分類に入るので、量が多くなってしまう。
●漁業漁村の歴史文化財産百選
「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選」は水産業に対する理解を深めるのが目的で2006年に発表。インターネットなどで350カ所を公募し、都道府県による選定や学識経験者の選定委員会を経て、歴史的、文化的に価値が高いとされる100カ所を認定した。
氷見の漁業伝統(氷見市)=定置網、えびす講、起舟祭などを指す。特に定置網は氷見が発祥の地とされ、400年前から受け継がれている。 生地中橋(黒部市)=1982(昭和57)年に建設された日本初の旋回式の橋。 漁民義人塚(射水市新湊)=江戸時代に“悪徳商人”から漁民を解放したとされる漁師二人をまつっている。 ●曲水の宴
曲水の宴は古代に中国から伝わったとされる宮中行事。婦中町長沢の各願寺でも平安、江戸期に貴族や富山藩主を招いて行われたとされる。「ふちゅう曲水の宴」は町おこしの観光イベントとして平成元年に復活。各願寺境内で行われ、平安の時代絵巻を再現した典雅な風情で平安貴族の衣装をまとった歌人たちが歌を詠む。歌人たちが雅楽に先導されて入場。曲がりくねった小川沿いに座り、水鳥をかたどった台に載せた杯が流れてくるまでにお題を題材にした和歌を短冊にしたためた。歌は味わいのある節回しで朗詠される。
●巨人軍
ジャイアンツは正力松太郎が高岡出身なので、選挙の前には必ずサイン会が開かれた。いきなり、小学校の校庭に長嶋や王が来てサインをしていったのだ。王のお母さんは氷見出身だ。1967年の10月1日に、大阪の阪急百貨店がパ・リーグ初優勝記念バーゲンを始めたというが、富山では大和が優勝バーゲンをすることになっている。
だから富山県には巨人ファンしかいない。←と書かないと生き残れない。
●距離感
『志の輔の肩巾』(毎日新聞社)に映画『釣りバカ日誌13』に出た時の話が出ている。
映画の待ち時間はさすがに長かったけれど、その間に主演の西田敏行さんとゆっくりお話することができて得した気分。
富山を新たな角度から眺める視点を教わりました。
「富山の人の距離感のほどのよさがいいよね」
「距離感?」
「ホテルの部屋から下の道を眺めているとね、歩いてる人たちの距離感がみごとに、みんなほどがいいのね」
あのあったかい笑顔と声で、シャープな富山県民分析をしてくださいました。
指摘されて気が付きました。私自身もそうかもしれない。人間関係はベタベタせず、と言って冷たいわけではない。自慢下手だが、盛り上がりは大好きという、ほどよい県民性を見抜くところなどさすが一流は違う。
●キリコ
富山県でも新湊の人しか知らない。獅子舞の相方を務める子どもをキリコという。ちなみに、能登では大きな山車をキリコという。
98年末にネットの「キリコの部屋」を通して青酸カリが売られた事件があった時は僕のところにも「キリコ」のキーワードでいっぱいの人がアクセスした。あの場合は『ブラックジャック』の「ドクター・キリコ」だった。
僕はキリコを踊ったことがない。同級生だけでも男5人だから回って来なかった。実際、頼まれても嫌だといっただろうが、うちの長男は嫌がらなかった。2002年には男の子が足りなくなって長女もキリコを踊ることになった。
語源が分からなかったのだけど、「こきりこ節」の「こきりこ」から来ているようだ。子ども達が持つ竹が大きさも七寸五分で「かなかい」にならないような「こきりこ」なのである。
●きわ
「染み」で「きわつく」が「シミがつく」。例:「きもんにぃ、きわづかんように気ぃつけてぇ」(着物にシミが付かないように気をつけて)。
●ぎんぎん→「夕日」
●金大【きんだい】
金沢大学のこと。関西は当然だが、東京へ行くと、近畿大学である。家の近くに近大の施設があって、随分イメージの違う大学なので、困る(「音の衝突」という)。
ハイデルベルク大学と金大だけが城にあるといわれたが、昔は金沢城の中にあって、すぐに街に出ることができて便利だった。
県立近代美術館。The Museum of Modern Art, Toyamaとあるように、現代美術が中心になっている。日本画は水墨画美術館になる。富山市出身の美術評論家・作家である瀧口修造がジョアン・ミロ、マルセル・デュシャン等との交友関係があったため作られたことになっている。朝日の名物記者だった小川正隆が初代館長を務めた。ポスター・トリエンナーレ展と椅子のコレクションが有名かもしれない。富山出身の大浦信行の連作版画『遠近を抱えて』シリーズのコラージュ問題で裁判になった。県立図書館も絡んだ複雑な話になっている。富山の保守性と現代美術はマッチしないものがある。大島一洋『芸術とスキャンダル』(講談社現代新書)や地方出版の富山県立近代美術館問題を考える会『富山県立近代美術館問題・全記録』(桂書房)などがある。
名文中の名文は以下のとおりだろう。ボクは「生涯の友人と出会ったような気分だった」といい、ジャコメッティの「裸婦立像」が一番好きで…。
わくわくしながら階段を昇れば、サム・フランシスのでっかくて完璧な三枚組のカンバスが両手を広げて迎えてくれるようだった。たちまち歓喜に包まれたボクの魂は肉体から飛び出し、小魚の群れとなって色彩と戯れた。
そうか、芸術ってやつはお互いの魂が飛び出しちまうことなのか。深海魚の内臓だの目玉だのが飛び出すみたいにね。芸術作品はたまたま美しいことだってあるけれど、美しさなんてついでだよ。ほんとは関係ないんだ。-----絲山秋子『不愉快な本の続編』(新潮社)
●近代文学館
富山にないものの一つ。日本近代文学館に登録している各地の文学館は約500というが富山には一つもない。石川県には石川近代美術館、室生犀星記念館、泉鏡花記念館、金沢文芸館(石川銀行橋場支店跡)がある。富山にあるのは万葉歴史館だけである。2012年に高志の国文学館ができる。
●金太郎温泉
魚津にある温泉の名前で、温泉地の名前ではない。柴門ふみの『にっぽん入門』(文藝春秋)の「お座敷列車は人情列車」に出てきた。
●銀杏【ぎんなん】の里
イチョウの里。福光町南蟹谷(かんだに)地区をいう。地区には古くから、山の斜面などにイチョウがあったが、80年に始まった県営農用地開発事業を機にギンナン栽培に本腰を入れ、84年に県内初の「銀杏の里」として県の指定を受けた。
●きんの〜きんにょ
「勤皇」のことではない。「昨日」。例:「きんの、何しとったがいね」「富山行っとったがいちゃ」。
●勤美
県勤労者美術展。毎年主催してきた県は女性美術展と一緒に、財政難による事業見直しなどを理由に、2006年から廃止することにしたが、反対が多くて新しい美術展を模索。
●吟味
もちろん共通語だが、富山の人は「詳しく念入りに調べる」という意味で「吟味する」とよく使う。例:「ちゃんと吟味せんと渡してしもうて、すんまへん」。
●銀嶺【ぎんれい】
「銀嶺」というと立山のことを指す。富山には日本酒を始め、お店の名前にもよく使われる。
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