金川 欣二:マックde記号論(言語学のお散歩)


懸場帳

江戸のデータベース

 NHK富山「金川教授のこだわり見聞録」の2004年9月6日放送分のメモ。

 ディレクターの川尻さんのおばあちゃんが売薬さんを辞めるというので、この話を取り上げた。


 富山は何と言っても売薬で有名だ。

 隣のうちも、子どもの友達のうちも売薬さんだ。一旦、旅に出ると帰らないし、中には向こうに家を持っている人もいる。1960年代半ばから県外に家族ごと移住するケースも増えてきた。

 うちにも売薬さんが来たが、もちろん、近所の人ではなかった。

 売薬が生まれるまで庶民は薬とは縁がなかった。民間療法に頼るしかなかった。

 古来、病気は誰にとっても不安の対象であった。しかし医学の発展の恩恵に浴したのは一部の階級に限られていた。だからひとたび病気になれば、庶民の生活は、たちどころに崩壊してしまう。こうした厳しい社会の現実のなかから、自分たちの病気や怪我は自分で治そうという意識(セルフメディケーション)が生まれて来る。さまざまな古典籍に頻出する医薬に関する記述はこうした視点から捉えるべきであろう。
     -----吉岡信『江戸の生薬屋(きぐすりや)』(青蛙房)

 「薬九層倍」という言葉もある。フランスでも同じだ。『ボヴァリー夫人』では夫のボヴァリー医師よりも近くの薬剤師の方がはるかにいい暮らしをしている。福沢諭吉も『時事新報』の社説で「原料が粗悪で薬効もないのに」と売薬隆盛を批判しているという。「反魂丹丸め損ねて煮え湯呑み」という売薬税を詠んだ歌がある。営業税(直接税)だけだった売薬業がもうけ過ぎているという理由で明治15年印紙税(間接税)が設けられた。

 「先用後利」(先に使わせて後で儲ける)が営業の基本とされる。クレジットのはしりである。ただ、昔から支払いは盆暮れという風に決まっていて、必ずしも富山藩だけの独自というものではないだろう。奈良県も売薬が盛んだが、そういう言葉もなかったのに、今は富山に倣って使っているようだ。

 昔から「先義後利」という言葉があって、賢い人がこれを変形して使うようになったと考えられる。この言葉は中国の儒学の祖の一人、荀子の栄辱編の中にある「義を先にして利を後にする者は栄える」にある。日本ではデパートの大丸が元文元年(1736年)、業祖・下村彦右衛門によって「先義而後利者栄」を事業の根本理念として定めたことが知られている。

 新潟市生まれの坂口安吾は『安吾新日本風土記』の中に「富山の薬と越後の毒消し」という文章を書いている。特に富山の薬は「私の生活しに浅からぬ因縁」があり、戦争前に古本屋で『富山賣薬業史資料集』を買い求めたこともあったという。「反魂丹とケロリン」、「富山薬業の生態」の2章は自分の体験に基づいて書いた面白い文章である。

 蛇足だが、越後の毒消しは巻町を中心に有名で、宮城まり子の「毒消しゃいらんかね」という歌にもなっている。

 宮本輝『天の夜曲 流転の海・第四部』には主人公の友人・久保敏松が富山人というのは、地味ではあっても、進取の気概を内に秘めていて、粘り強く自分の仕事に工夫を凝らすという特質を持っているような気がする、という

「越中富山の反魂丹ちゅう独特の売薬制度はなァ、江戸時代に、越中よりも備前のほうが先に始めたっちゅう説もありましてなァ。備前の場合は、大庄屋廻しっちゅう販売制度で、つまり日本各地の庄屋の家に薬を置いて、使う分の代金を貰うて、そのときに薬の補充をしとくっちゅうやり方やったのを、富山の薬売りは、それをもっと広範囲に、それぞれの家に置くっちゅうやり方を考えて、備前を凌いでしもたんです」

 これを受けて主人公の松坂熊吾がいう。

「わしの子供のころにも、家に越中富山の反魂丹と書かれた袋が置いてあった。愛媛県の南の涯じゃぞ。全国津々浦々、薬を背負うて、草履を履いて、一軒一軒、薬を置き、代金を計算し……。生半可な忍耐力やあらせんぞ。その代わり、日本全国でいま何が起こっちょるのかは、花のお江戸よりも先に、この越中に届いとったことやろ。各藩のお家事情も、どこそこの商家の女房の間男も、越中富山の薬売りは、みんな知っちょったということになる」

 同じ話を天野祐吉は『天野祐吉のことばの原っぱ』(まどか書房)の「万金の知恵」で次のように書いている。

…とにかくひそひそと、熱心に、薄暗い小部屋で母と薬売りが話しこんでいたのを覚えている。

 大人になってわかったのだが、あれは別に密談をしていたわけじゃない、世間話をしていたのである。…話題の芝居や事件の錦絵を薬売りが持ってきたのも、あれは話題をふくらますための材料だったんだろう。

…富山の薬売りは、薬を売っていたのではなく、世間の話題を、ことばを売っていたのである。ことばで相手の心を開かせ、気分をなごませ、信頼の通路をつくっていたのだ。

…「マーケティングとは顧客の創造である」と言った人がいる。P・F・ドラッカーという、その道では著名な、そして実力もなかなかの学者である。…

 が、わざわざ「マーケティング」なんてカタカナのお世話にならなくても、富山の薬売りは三百年も昔から、「顧客の創造」を実践してきた。あの人たちは、薬を売る前に、話を売った。話を売ることで、相手とのいきいきした人間関係をつくり出した。もともとことばというのは、人と人との関係を新しくつくり出したり、その関係をいきいきさせるためにあるものだが、まさに富山の薬売りは、自分と相手との間に人間としての信頼関係を、友好関係を、井戸端関係をつくり出すことを、すべてに優先したのである。

 そういう人間関係の通路が開かれれば、商品もまたその通路を通って動きやすい状態になる。が、それでもまだ、富山の薬売りは、商品を売ろうとしない。「使っても使わなくてもいいから」と、商品を置いていくのである。ここまで人間関係ができたからには、あなたを一〇〇パーセント信用していますからという「ことばにならないことば」を、薬と一緒に薬箱につめて、薬売りはスタスタと去っていくのだ。ぼくのようなワルガキが、「越中富山の反魂丹、ハナクソ丸めて万金丹」なんて背中からはやし立てても「信頼関係」を売って歩くこの人は決して怒ることなく、ぼくらにまで商品名入りの四角い紙風船をくれたりしたものである。

 井上雪『その手を見せて』(冬樹社)にも「富山の薬売り」という一章がある。将軍様も含めて訛りが奇妙だが…。

 川内彩友美『まんが日本ばなし』(講談社)にも次のような話が載っている。関所破りが多くなったのは薬売りのせいだと思った将軍様が一人を捕まえて聞いたという。

「おら、なにも関所破りの手伝いなんかしてねぇ。たぶん、他の村の話をしてなぁ、○○村がごちそうがでた、とか××村は金が取れたとか話すからかなぁ」
って言ったのだと。
 将軍様は薬を売るのにしゃべんねぇわけにいかねぇもんdからどうにかせんねぇものか、と考えてなぁ。
「それならば、村の名前なんぞいわねぇで『むかしむかしある所に』と話せ」
て、言うもんだからそれからというもの富山の薬売りは「むかしむかし、あるところに」って言いながら色んな話をするようになったんだと。

 地方にレンゲで土壌を改良する方法を教えたり、種を配ったりというサービスもしていた。「安政の大地震のことを瀬戸内の人たちは富山の薬売りから聞いた」(清水義範『どうころんでも社会科』講談社)という。

 江戸時代に藩も関所もあって、自然の障壁も多かったろうによく回れたものだと感心する。方言もどうしていたのだろう。

 小さい頃もらった紙風船が印象的だった(おまけ商法の走りでもある)。北原照久は『「おまけ」の博物誌』(PHP新書)で「おまけ」のルーツを求め、「富山が生んだ日本初の販促ツール」という一章を設けている。この中で、売薬のおまけをまとめている。この中で懐かしいのは「喰合せ表」で、例えばスイカとウナギを同時に食べるとお腹を壊すというものだった。小さい頃、うっかりそんな喰合せをしてしまった時は、病気になるんじゃないかと震えたものだった。

大人向け・家庭向け 盃、銚子、湯呑、急須(九谷焼など)、輪島塗の器、箸(若狭塗)、箸袋、コースター、しゃもじ、缶切、栓抜、糸、糸巻、縫針(氷見産)、風呂敷、手拭い、状差し、暦、喰合せ表、扇子
子ども向け 紙風船、紙飛行機、折紙、トンガリ帽子(紙製)、雑記帳、豆本
その他 種籾(もみ)や牛耕などの農業技術

 小さい頃、最も不思議だったのは回収していった使わなかった薬を本当に捨てているのだろうか?ということだった。玉川しんめい『反魂丹の文化史』(晶文社)に詳しい。

 なお、売薬がいるのは富山だけではない。富山、奈良(大和)、近江(滋賀)、田代(たじろ=佐賀県鳥栖市と基山町にまたがる地域)が「四大売薬」に数えられる(田代を抜いて三大ということもある)。奈良売薬は大和売薬といって一番歴史が古い。ドラマ『水戸黄門』に出てくる風車の弥七という忍びの者は薬売りである。これは甲賀忍者と近江の薬との関係を匂わせる。

 富山の売薬は船に乗って鹿児島まで行ったり、北海道から樺太の端まで行っているところが他と違う。戦前は海外にまで進出していた。

 『真宗の宗教社会史』(吉川弘文館)などを書いた有元正雄(宗教社会史)は「全国的に真宗地帯には売薬行商が多い」と指摘。その理由として次の事柄をあげる。

〈1〉勤勉、正直、節倹、忍耐など真宗門徒の高い徳性が職業倫理を生んだ。
〈2〉真宗地帯では堕胎、間引きの風習がなく、人口増加が労働力を生んだ。
〈3〉加持祈祷を排し、医薬で治療を図るという合理的精神を育てた。

 つまり、有元の説だと富山の売薬が立山信仰から起こったとするのは無理があることになる。また、同じく「真宗王国」である福井や石川では売薬が生まれなかった。

 富山藩は北海道から北前船で昆布を仕入れ、そのまま薩摩、琉球、そして中国へと密貿易をしていた。中国からは日本で手に入りにくい薬の原料を手に入れた。富山と沖縄で昆布消費量が多いのもこの事情から生まれている。また、薩摩には「薩摩組」という特別な組織を作って密貿易に対応していた。

※これは「金川欣二のなんでもカルチャー」で2002年4月16日に「明治維新は富山藩が作った」としてとりあげた。

 余談だが、井上ひさし『紙屋町さくらホテル』では宿がなくて困っていた長谷川(海軍大将で海軍大臣候補)が富山の薬売りのふりをして、尾行している針生とがにわか劇団員になってさくらホテルに泊まることになる。薬売りだと怪しまれなかったのだ。

 四千日を旅に暮らした民俗学者の宮本常一はしばしば富山の薬売りと間違えられたという。汚れたリュックサックの負い革にコウモリ傘をつり下げ、ズック靴で歩くというのが、宮本流の旅のスタイルだった。ほとんど肩書きらしい肩書きをを持たずに、そんなむさくるしい恰好で見知らぬ土地を訪ね歩いた。

 NHKのニュースでは「家庭薬配置業」というようだが、普通には「売薬さん」であって、「売薬」はダメだといわれている。

 なお、三大配置薬は「六神丸」「赤玉はら薬」「熊胆(ゆうたん=「くまのい」と昔はゆうたんぜ)」である。大正時代には解熱鎮痛剤「ケロリン」が誕生。戦後は明快な命名と斬新な包装で発売された鎮痛剤「ズバリ(頭歯利)」なども登場した。パッケージのデザインは富山市立図書館でオンラインで公開している。

 なお、似たような商売に「オフィス・グリコ」というものができた。お菓子を各会社においてもらって代金は後払い、という方式だ。まず大阪で2000年2月に始まり、2002年2月には東京でもスタートした。商品を補充する際に、代金が足りなかったことはほとんどないという。


 売薬さんには「懸場帳」(かけばちょう)と呼ばれる顧客名簿があり、数千万単位で売買されることもある。家族構成なども書いてあってちょうど今のデータベースによる顧客管理のはしりである。この帳面は顧客の住所と来てもよいという承諾のハンコが押してある。その売薬さんたちは懸場帳というのを持ち歩いている。売薬さんの顧客名簿でデータベースである。売薬は立山信仰から始まったとされるが、懸場帳は宗教の檀那帳が発達したとされる。売薬を定期的に持ってきていいかどうかというハンコが押してあることもある。

 内田康夫『蜃気楼』ではこの懸場帳が盗まれるという殺人事件を扱ったサスペンスで、懸場帳というものの本質が分かってくるようになっている。そこに書かれた家族のようすが事件を解く鍵となるのである。

 懸場帳は不動産と同様に売買される(約3%の手数料)。その懸場帳の過去の売上金額から年間平均売上を算出し配置されている薬代を加え、 一年以上の不廻り(ふまわり:長期間得意先を訪問しない事、その期間は薬売りによって差がある) を除き、集金金額の割り出す、その金額に「文」(もん)と呼ばれる暖簾価値(のれんかち:商売から生じる無形の経済的利益・財産価値を示す) として2・3割の金額を加算するのが一般的だった。 さらに、古くからの得意先を抱えている・帳主が顧客から深い信用を得ている・売上高が高額で地域の将来性が高いといった、 懸場帳には5割までの暖簾価値がついたのである。

 今回の放送では川尻さんのおばあちゃんが四国で回っていた時の様子をビデオで流して、その後の話を加えることになった。まず、懸場帳を扱っている不動産業者のところへ行って、その実態を聞いた。

 驚いたことは売薬さんでも懸場帳に価値があることを知らない人がいて、本人が亡くなった後、そのまま廃棄されることもあるという。

 くれぐれも誤解のないように書いておくが、懸場帳は今はやりの名簿流出とは違う。お客さんの方に需要があって、その需要を引き継いでいくのである。

 最後に立山博物館の学芸員の福江充さんに隣接する教算坊で話を聞いてきた。福江さんは立山信仰の専門家なのに、僕にも分かりやすく話をしてくださった。

立山信仰 売薬
人物 御師(おし) 配置業
データベース 檀那帳 懸場帳
品物 護符+小間物

 売薬・立山信仰ルーツ説というのはとても証明できる段階ではないという。でも、実際に話を聞いてみると、江戸時代には江戸を中心として立山信仰をする人が多く、御師は老中のような人にまで対等に話ができたという。これは「廻檀日記帳」というのに詳しくかかれている。中には半年以上も江戸に滞在して、歌舞伎や吉原などを楽しんだ御師(おし)もいた。歌舞伎絵が売薬のお土産になっているのは、リアルタイムで見ていた人がいたからだろう。また、偉い人に会いに行くときには裃(かみしも)を着て行ったという。

 御師たちがエリート層にまで入っていけたのは、相当の教養を備えていたからだと考えられる。芦峅寺では15歳までの教育をみっちりやった後、更に30歳まで厳しい教育が課せられていた。こうした教育の中から佐伯彰一のような研究者が生まれてきたのだ。

 驚いたことに、御師は経帷子(きょうかたびら)やおふだなどを売るのが商売だったのだが、請われれば反魂丹などの薬も配っていた。経帷子やおふだ、薬などは村落の場合は庄屋に置いてもらって、使った分だけ翌年払ってもらったという。だから、システムは売薬と似ている。経帷子が売れたのは立山信仰のおかげであるが、ただの経帷子ではなくて、女人禁制で立山に登れなかった女性たちを救う布橋灌頂会(ぬのばしかんじょうえ)で三途の川の橋の上に敷かれた布を使ったものだったから、特に女性に売れたのだという。

 芦峅寺では最盛期には33もの宿坊が軒を連ねていたが、御師は豊かな坊とそうではない坊の御師とに分かれ、しまいには加賀藩から借金をしなければならない坊も出てきたという。

 御師は宗教者として登録されているが、同時に芦峅寺などで焼畑もしていたという。網野善彦の史観が明らかにしたように、明治以後、「百姓」や「水呑」が蔑称とされて「農民」といい換えることが慣例になったため、近代以前の史料に出てくる「百姓」も農民と解釈されるようになった。実際には、百姓は文字どおり「いろいろな民衆」であり、江戸時代には実際に農耕に従事していたのは全人口の半分以下ではないかというのが著者の推定だ。近代以前の農村は、従来考えられていたような自給自足の均質な農耕共同体ではなく、商人や職人などの多様な人々が村落の境界を超えて行き交う複合的な社会であり、女性も養蚕などにたずさわる生産者だったことがこのことからもよく分かる。

 御師はいろいろなところに泊めてもらっている。人類学者・中根千枝に『タテ社会の人間関係』という誤解を招く本があるが、江戸時代は芭蕉などからも分かるように、各地方に知人がいて、渡り歩けたのである。泊めてもらう庄屋などにはお金を出すのではなく、特別なおふだや祈祷をしてあげたのだという。

 御師の檀那帳を見せてもらったが、実に細かく日記として使っていて、大奥などにもしっかりと入っていることが分かった。解読不能の部分が多くて難しいというが、この日記がつまびらかにされ、実際の人物などと結びつけていけば相当面白いと思った。

 売薬=御師ということはできないが、システムとして非常に似通っていたことは間違いない。江戸時代には売薬もいて御師もいたということになる。

 売薬=御師ということを明確に否定しているのは富山医薬大の和漢薬研究所所長だった難波恒雄で、真鍋俊照『密教マンダラと文学・絵解き』(法蔵館)に掲載されている立山博物館での対談で次のように述べている。

 富山売薬の起源を立山信仰と結びつけ、立山衆徒が配札檀那廻りを行い、護符や経衣を予托して、あとからその代金をいただいたという点が、売薬の先用後利に似ているというセツがありますが、先用後利的な商法は、すでに中世の瀬戸内海の四国上人が瀬戸内の島々で行っていた事実がありますので、山岳信仰から発生したという説は関係ないと思います。江戸の初期に富山で売薬をつくっていたことは確かですが、原料となる漢薬類は、ほとんどが中国産で、堺の港にあがり京都を経て富山に運ばれてきたものです。室町時代の明応二年(1493)〜天正六年(1578)の富山城下のことを記した『富山之記』には、越中富山に薬種を営む「唐人の座」があったことが書かれていますが、この薬種も中国の記家人たちが本国から持ってきたものです。いままで、富山産の薬草が売薬の原料となったという例はほとんどありません。

 三霊山というのはもともと富山から生まれた言葉ではなくて、富士山と白山で「二禅定」(“に・ぜんじょう”二つの山を登ること)だったのが、三河の人々が立山信仰をするようになり、「三禅定」を唱えてからだという。

 今回はお笑いでもなく、言語系の話でもなかったのだが、一つひとつ、面白い結びつきを感じた。

 最後に、結論ではないのだが、売薬さんたちも小泉改革の一つで、薬をコンビニにまで置けるようになったことで、これから苦戦が強いられるだろう。これを救うのは恐らく、顧客との密接な関係であろう。


□立山信仰と立山曼荼羅の解説(福江充)

□立山信仰史における芦峅寺衆徒の廻檀配札活動と立山曼荼羅(福江充)


※「越中語大辞典」と重複がありますが、こちらをメインにしたいと思うので、後で調整します。


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