射水線物語
「春」 谷川俊太郎
かわいらしい郊外電車の沿線には
楽しげに白い家々があった
散歩を誘う小径があった降りもしない 乗りもしない
畑の中の駅
かわいらしい郊外電車の沿線には
しかし
養老院の煙突もみえた雲の多い三月の空の下
電車は速力をおとす
一瞬の運命線を
僕は梅の匂いにおきかえたかわいらしい郊外電車の沿線では
春以外は立入禁止である
夕日を浴びた郊外電車はこちらからあちらへ続く鉄橋を渡りもう二度と戻ってこない。青白い灯りのともる家に帰りついた乗客たちは土気色の眠りについたままもう二度と目を覚まさない。鮮血の流れる河の水は夜の海に流れ出ていつまでも黄金の月と戯れる。
沢木耕太郎『天涯2』
ロブ・ライナー監督の『スタンド・バイ・ミー』(1986年)を万葉線の米島口駅の前にある映画館で見た時、小さい頃のことをいろいろ思い出した。中でも、うちの町を走っていた射水線(いみずせん)のことを強烈に思い出した。
□ 一つは『スタンド・バイ・ミー』が「死体」(The Body)という原題の小説で、死体を見に行く映画だからであり、もう一つは鉄橋の思い出である。
この映画は行方不明になって話題となっている少年が30キロ先の森の奥で列車にはねられ、その死体が野ざらしになっているという話を聞いて、死体を発見したら町の英雄になれる!と出発することになった12歳の4人の少年たちの冒険物語である。「帰りはぼくたちはみんな無口だった」といい、「キャッスル・ロックに戻ると二日しかたっていないのに町は小さく、見知らぬ町に見えた」という。それだけ成長したのである。
僕が初めて死体を見たのは射水線の事故で亡くなった小杉町の中学生を見に行った時である。小学2年生位の頃のある日、遊んでいると友達が、「おい、電車の事故ぉ、あったがぁ、見に行かんまいけ」と言って来たのだ。脳味噌が出ているとも言われた。気持ち悪いとは思ったが、臆病だと言われるのはもっと怖かった。それで近くの事故現場まで見に行った。中学生は横にされ、筵(むしろ)か何か被せられていたが頭が見えた。脳味噌は豆腐のような色をしていた。初めて死の恐怖というものを感じた。人間は死ぬのだということを強く意識した。
この事故は「魔の踏切」と呼ばれている場所で起きたものだった。下条川沿いを走っている射水線が大きく南に膨らんでカーブする地点だった。悪いことにカーブの手前は「敬茂(けいも)はん」と呼ばれた大地主の塀に隠れており、左は銭湯で見えなくなっていた。ほんの20メートルだけが見えるのだが、見えた時には既に間に合わなかった。
小杉中学の学生たちがうちの近所の海岸まで海水浴に来ていて、みんなで渡っている時に起きた悲劇だった。中学の先生も一生懸命事故防止の注意をしていたのだろうが、間に合わなかったのだ。一人だけの事故ですんだのが不思議なくらいだった。
このカーブをバスが通過する時にはバスの車掌さんがわざわざ手前で降りて、下条川の橋の途中からカーブの両方向を確かめてから渡っていた。
その後、当時は珍しい信号機がつけられたが、それでも事故は減らなかった。それほど危ない箇所だったのだ。
子供と線路 谷川俊太郎(『絵本』)
子供はその日も忙しかった
線路を書くのに忙しかった
道一杯にどこまでも続く線路を【………】
そうして或る日
子供が電車に轢かれた時
夕日はまるで終点のように
白いチョークの線路の向こうにかかっていた□ 『スタンド・バイ・ミー』もまた、死体を探しに行く映画である。少年たちはちょうどティーンエージャーと呼ばれる13歳になろうという少年である。
鉄橋で汽車に追いかけられて死ぬ思いをするのが一つのクライマックスになっているが、射水線にも大きな鉄橋があった。
堀切鉄橋と呼ばれた、この鉄橋は放生津潟(越の潟)の海岸との開口部に架けられた橋だった。北側に道路の橋、真ん中に鉄橋があり、南側に堀切の水門があった。
途中に一カ所だけ避難用の出っ張りがあるだけの70メートル位の長い鉄橋だった。
子どもたちはここで肝試しをするのが常だった。5分に1本はどちらから電車が来るのだが、その間を縫って渡るのである。
もし、電車が来たら、慌てて海の中に飛び込まなければならない。
凸の形をした真っ黒な「デンカン」(電関=電気機関車)というのが時々、貨車を引っ張って走っていた。電車は乗客を残して追いかけることはできなかったが、こちらは徹底的に追いかけた。置き石など悪いことをしたら、デンカンに捕まったら大変だ、というのが子供らの噂だった。実際、デンカンが止まって子供を叱っているのを見たこともある。
だから、鉄橋を渡る前に線路に耳を置いて電車が来ないか確かめた。学校では「線路に頭を置いていてそのまま轢かれた子どもがいるから危険だ」といつも言われていた。実際にそんな子どもがいたのかどうか知らないが、線路を歩く時もみんな電車の音を確かめながら歩いた。
高校の英語の教科書に出ていたが、チェコ生まれのドボルザークも鉄道ファンだった。車の走行音を聞いて車体の不調を車掌に知らせた有名な話がある。小品「ユーモレスク」は列車の音を再現したものだという。プラハの下宿は駅の近くにあり、毎日のように飽かず列車を見に行った。招かれて「新世界」アメリカに渡ったのも、大陸の鉄道に乗れることが理由の一つだったらしい。駅に出掛けては特急列車の車両番号を控えるのを日課にしていたという。
↑富山湾
(←高岡) 堀切鉄橋 (新富山→)
↓越の潟死を意識することが大人への第一歩なのである。女優の岸惠子は戦時下に「子供を止めた日」(『私の人生アラカルト』講談社)を思い出して書いている。
直撃弾を受けて燃えあがり、身もだえする我が家を、松の木に登って見ていた私は、顫(ふる)えてはいたが悲壮感など微塵(みじん)もなく、「今日で子供を止めた」と思った。大人の言うことを聞いて急拵(きゅうごしら)えの防空壕(ごう)に避難した子供達(たち)は、爆風による土砂崩れでみんな死んだ。
射水線には小さい頃のいろいろな思い出が詰まっている。
一度だけ射水線で人助けをしたことがある。命を救ったのだ。
78年の4月何日だったか忘れたが、射水線に乗って富山に行く時、富山北口で発車寸前に降りようとした客がプラットフォームに降りたまま、鞄と手がドアに挟まってしまった。車掌がそれに気づかず、電車が出発してしまったのだ。客は電車と一緒に走り始めていた。
びっくりして、慌てて非常コックを開き、電車を止め、何とか事故にならずにすんだ。客はどこかで見たような人だったが、分からなかった。4月22日に扇一という氷見の民宿で付属高校のお別れ会があってあっと思った。僕と入れ替わりに入った新任の先生だと分かったので一度だけ挨拶したことがあったのだ。
世の中、ほんとに狭いものだと思った。
95年12月に三島駅で新幹線で31年目で最初の人身事故があったが、同じようにドアに挟まれてプラットフォームから振り落とされたものだった。
射水線での事故は、車掌が責任を取らされるのが怖かったのか、報告もされず終わったのだけど、運動神経が鈍いとばかりいわれてきた自分にとって、人の役に立たない学問を続けている自分にとって、唯一の心の救いとなっている。
射水線は1980年3月31日で廃止になった。最後の日は無料になったので富山まで行って写真を撮ったりした。
『スタンド・バイ・ミ−』でも冒険の旅に出た少年たちを一瞬、稲光が照らす。主人公がつぶやく。「神がわたしの写真をお撮りになった」と。
射水線は新富山―富山北口―八ヶ山(はっかやま)―八丁(はっちょう)―布目―鯰鉱泉前― 四方(よかた)―内出(うちいで)―本江(ほんごう)―練合(ねりや)―海老江(えびえ)―射北中学校前(しゃほく〜)―堀岡………(越の潟)と結んでいたが、切れてから新港東口駅ができた。ずっと前には堀岡と越の潟の間に堀切駅もあったそうだ。
昔は富山市内が8の字になっていて不二越まで行く路線とか西田地方(にしでんじがた)まで行く路線があったし、丸の内から右に折れて、西町まで行った。市内では30分以内なら乗り換え券がもらえた。ちょうど東京の地下鉄の便利さに通じるものがあった。
富山駅から西町を通り、山手線のように市内を循環する路線もあった。射水線や同じく廃止になった笹津線も乗り入れていた。市内一律10円という時代だった。全盛期は67年頃だったと思う。
大統合の後、昭和23年5月に全車両の集電装置をポール式からパンタグラフに改良した。この年の7月からデ5000形の電車が運行し始めた。その後、デ5000形とデ5010形を使用していたが、大沢野まで走っていた笹津線の廃線後、ここで使われていたデ5010形が移ってきて、全てデ5010形になった。
僕にとって車体の緑とのツートンカラーのベージュ色の額の部分に書いてある「5010」という文字が一番の思い出である。
□ 直通の電車が多かったし、本数も多く、最高は5分に1本だった。単線だから、3駅毎にスリカエて(交換して)行かなければならなかった。堀岡、海老江、本江、四方、布目、八ヶ山あたりがスリカエ駅だった。堀岡は高岡へいっても富山へ行っても40分位だったので、世界一便利な所だと思っていた。急行も走っていたことがある。ラッシュ時には4両編成で走ることもあり、かっこいいと思って見ていた。
「廃線鉄道の痕跡」というホームページに急行ができた当時の記事が書いてあったので、転載する。
地鉄射水線は十二月一日から急行を増設して運転することになったが、これによって富山―高岡間の運転所要時間が約三十分短縮(急行一時間十五分、普通一時間二十分)するので、ダイヤをつぎのように改正した。
【射水線】◇・・・・下り・・・・◇
以下省略
西町 新富山 四方 堀岡 中新湊 高岡着 ― 四方発 5.56 6.09 6.19 6.51 ― 四方発 6.15 6.30 6.41 7.15 6.27 6.39 6.58 7.11 7.20 7.56 ― ― 堀岡発 6.51 7.01 7.49 6.58 7.07 7.25 7.38 7.46 8.24 7.19 7.29 7.45 7.58 8.06 8.40 7.48 8.01 8.18 本江止 急8.05 8.16 8.28 8.40 8.49 9.22 ― ― ― 8.21 8.33 9.03
【新湊線】△中新湊発―高岡行(ローカル運転)五時五十分、九時十分から十八時五十一分まで四十分間隔で運転する。
△高岡発―中新湊行七時四十分から十八時六分まで四十分間隔で運転する。
【伏木線】省略
昭和29年【1954年】11月28日 北日本新聞□ 江ノ電(江ノ島電鉄)に初めて乗った時、射水線を思い出した。
どちらも民家の軒先を縫うように走っている。射水線の雰囲気を味わえるのはこれしかないだろうと思って、2000年の正月には子どもたちを葉山の姉の家から鎌倉に行き、江ノ電で江ノ島まで連れていった。
昔乗った時に比べて、電車がはるかにスマートになっていたが、家の周りの雰囲気やゴトゴト走るスピードは昔のままだった(これが黒澤明の『天国と地獄』でのモチーフになっていて脅迫電話の中に出てくる電車の音から江ノ電だと当てるのである)。
ただ、射水線は田圃の中を疾走することも多かった。八丁あたりでは春になるとレンゲの花が田圃に植えられてきれいだった。
打出辺りでは海の近くを走った。もちろん、堀切の鉄橋や庄川の鉄橋ではローカル線の醍醐味というのか、自分の電車だけがこの鉄橋を走っているという、満足感が得られた。
□ すごかったのは小学校1、2年の頃、新富山駅が完成した時である。巨大なビルだった。今から思うと3階位の建物だったのだが、偉容を誇ったのだ。その頃から電車のドアが自動になった。それまでは手動でえっちらおっちらドアを開けていたのがシュパッーという音と共に開いた。「発見カード」という毎日発見したことを書く宿題にその旨を書いた覚えがある。「自動扉」という字が文明を感じさせた。
中新湊駅も立派だった。何しろ、新湊は市なのに国鉄がなくなっていることがコンプレックスだったが、中新湊駅が立派に代役を果たしていた。まったく国鉄がなかったのではなく、貨物駅があり、当時は日本一の線路の長さを誇ったものだった。
中新湊駅には客も多かったし、駅員もいっぱいいた。最初は南側にあったのだが、後のナカシンデパートの辺りにできた。自動の時刻表ができた頃が最高だったのかもしれない。カシャカシャカシャと時刻表が自動的に変わるのだった。何て便利な時代になるのだろうかと思った。そのまま文明というのは進んでいくと思った。
□ 越の潟駅は急行は停まらなかったのだが、夏場だけ停まった。越の潟は当時の大海水浴場だった。駅を降りると道路を挟んで向こうに海水浴場が広がっていた。浜茶屋がいっぱい並び、それこそ「芋を洗う」ような賑わいだった。
越の潟には遊覧船があり、これで越の潟のど真ん中にあった弁天島周辺を周遊した。
潟祭というのがあり、大きな花火が打ち上げられた。僕らは堀切の橋の上から眺めていた。
新港のために弁天島はなくなり、水の上に浮かぶ少童社という神社が片口に建てられたが、経費がかかるというので弁天の像に代わった。
□ 海老江から堀岡への海岸を明神浜といった。慶長2年(1597年)に堀岡古明神の新左衛門が曳網をしたという記録があるという。享保元年(1716年)には大小12統の曳網があった。
打出から堀岡にかけては「寄り回り波」と呼ばれる大波が来ることがあった。風もないのに、大きな波が来るのだ。打出は6度も村を移転したという。
堀岡にある神明社も沖にあった神社が波で壊され、富籤で資金を作ったといわれる。
小さい頃、海老江は堀岡の家屋が「寄り回り波」被害を受けた。いきなり、大波が来て家が壊れたという。
射水線はそんな海岸線を走っていた。
□ 八ヶ山も大観光地だった。八ヶ山で降りて階段の上にある駅を出る。そのまま山を南にずっと向かうと天文台や五百羅漢などの辺りを通って、富山ヘルスセンターに出た。ヘルスセンターは今は富山観光ホテルとなっているが、当時はヘルスセンターがブームだった。船橋ヘルスセンターが日本で最初だったのだが、どこでも真似て開業していた。
色々な遊びがあったし、お風呂も大きかった。プールもあって、学校や児童会などではここが一番の場所になっていた。何しろ、健康的な施設だったのだ。3キロほど歩いてから着くというのも(遊びだけではないぞ、という)言い訳になっていた。
金沢には天神橋から上がって卯辰山の頂上に金沢ヘルスセンターがあった。動物園も水族館もある立派な施設だったが、時代の波とともに没落し、動物たちも危機状態におかれた。最終的には石川県が面倒をみて、1999年には移転が完了して立派な動物園になっている。
八ヶ山をちょっとすぎると平野になり、そのまま国鉄高山線の上を立体で越えて行った。真下にディーゼルカーが通ったりするとすごく興奮したことを覚えている。
□ 当時の駅はちょうど、朝ドラの『すずらん』のような雰囲気だった。難しそうな機械がいっぱいあり、かっこいい駅員が迅速な動きで切符を発行し、お釣りを計算して渡してくれた。
どの町も駅を中心として栄えていた。僕の町にはお菓子屋もあったし、靴屋もあった。何よりも「丸通」と呼ばれた日本通運が駅の側にあった。何か送る時には「丸通」に頼まなければならなかった。
駅前から小杉行のバスも出ていた。女性の車掌さんが乗って、てきぱきと切符を切ってくれた。最初に書いたようにお風呂屋の踏切で先に降りて誘導してくれたし、
中新湊駅からは江柱(えばしら)通りが続き、人も多くて活気があった。新湊の中心街だった。買い物は江柱通りでほとんどすますことができた。
今ではナカシンデパートという名前にかろうじて残っていたがナカシンデパートも倒産してしまった。そして、今はマンションが建てられている。
□ 射水線の東の車両基地は四方にあった。四方は富山と新港東口のちょうど真ん中にあって扇の要(かなめ)の位置だった。
西の基地は米島口にあり、分断後はそのまま万葉線の基地になった。
たくさんの電車が停まっていたし、保安関係の工場もあった。
四方には八重津浜という海水浴場もあったが、越の潟に及ばなかった。
□ タブレット交換というのを知っているだろうか?
単線の場合、「通行証」(タブレット)という大きな輪を交換することになっている。
結構面倒なので、廃止する路線も多いが、これがなければ走れないのだから、最も確実な方法であった。駅員がその任務を負うのだが、準急の通過駅などでは準急が駅で待機している鈍行のためにタブレットをちゃんと引っかける装置が作られていた。小さい頃、図鑑でタブレットというものの機能を知って、心底、感動した。
91年に第三セクターの信楽線の大事故があったが、これはタブレット交換をなくしていたのが原因の一つだ。
実はその前に、現在の万葉線でも衝突事故があった。タブレット交換をなくして、無線で指示をしていたのだが、係員がうっかり双方に出発OKを出してしまったのだ。そして、中新湊と新町口の間のカーブで衝突事故を起こした。
幸い、死者は出なかったものの、重傷を負った人が多かった。そして、母もこの電車に乗っていた。軽いケガをしただけですんだ。
射水線のタブレット交換は主要な駅でされていたのだが、1時間に1本となってからは四方駅だけで行われていた。
□ デンカンは時々、貨車ではなく漁業専用車を引っ張っていた。電車の半分位の大きさでモーターがついていないものだった。普通の電車の後につけられることもあった。これには魚売りのおばあさんたちが乗っていた。皆んな新湊で獲れた魚を行商で富山まで行った。20年前のことだが、まだまだ行商というのがあったのだ。
そして、行商のおばさんたちは普通の電車に乗ると匂いがひどくて嫌われたので専用車に乗っていたのだ。今から考えるとちゃんとおばさんたちの帰る時刻も設定されていたのだなぁと思う。
行商のおばあさんは射水線の廃止までいた。魚の匂いにはめまいしたが、その頑張る姿に驚いていた。最後は一人だったが、電車の中での大きなお弁当の食べっぷりが印象的だった。
後に鹿島茂『パリの秘密』(中央公論新社)を読んで、パリの街にポワソニエール(poissonniere女魚屋)とつく通りの名前が多いのは魚屋というのが昔から伝統的に女性の職業とされてきたからだということを知った。僕の頭の中で、射水線とエミール・ゾラの『パリの胃袋』の世界がつながったのである。
『パリの秘密』に書いてあるように、プルーストの『失われた時を求めて』の中には行商して歩く女魚屋の姿が捉えられている。「小エビィ、おいしい小エビィ、生きのいいのを」「揚げ物にタラァ、揚げ物にいかがあ」「サバがまいりましたあ、生きのいいサバァ……」(鈴木道彦訳)。おおっ、富山がパリに見えてくる。
□ 射水線のあった頃、僕の町は水郷地帯だった。下条川を中心として水路が入り組み、越の潟とだぶ潟というのがあって、川でも潟でも魚釣りが楽しめた。
「魔の踏切」があったカーブは川沿いで、フナ釣りを楽しむ竿がいっぱい並んでいた。遠くは石川県からも釣り客が来た。僕もよく釣りに行った。1時間に50匹以上も釣ったことがある。たくさん釣っては母親にフナをどうして食べるのよ!と言われたものだ。釣った後のことはよく考えていなかった。
投網をする人もいた。
また、シジミが採れるので、胸までのゴム靴?を履いて、網状になった、大きいスコップのようなものでシジミ採りをする人がいた。
当時は川で洗濯をしていたものだった。
川の淵には「だごの木」と呼ばれるトネリコが一定間隔に植えられていた。そこに「はさ」という横棒をつけて、刈った後に稲を干していた。
ずいぶん昔のように聞こえるかもしれないが、オンリー・イエスタデーなのである。
射水線関係年表
大正12.2.20
大正13.10.12
大正15.7.21
昭和 4.7.2
昭和5.12.23
昭和7.11.9
昭和8.12.25
昭和18.1.1
昭和23.4.10
昭和25.10.23
昭和26.3.31
昭和26.4.1昭和34.4.1
昭和36.7.18昭和36.9.15
昭和41.4.5
昭和41.12.1
昭和42.11.23昭和46.5.28
昭和46.9.1
昭和50.9.8
昭和51.9.11
昭和52.6.30
昭和52.8.31
昭和52.10.1
昭和54.5.16
昭和55.1.25
昭和55.3.31越中鉄道(株)創立
富山北口―四方(6.1キロ)営業開始
新富山(聯隊橋)―富山北口(1.0キロ)四方―打出(1.0キロ)営業開始
打出―堀岡(5.6キロ)営業開始
堀岡―東新湊(2.5キロ)営業開始
東新湊―庄川口(3.1キロ)営業開始
庄川口―新湊(0.6キロ)営業開始
富山県下交通大統合で富山地方鉄道(株)に合併
高岡軌道線 高岡―伏木港(7.3キロ)営業開始
加越能鉄道(株)設立
国鉄新湊線旅客扱廃止
高岡軌道線 米島口―新湊(3.6キロ)営業開始 高岡―西町直通運転開始高岡―新湊、米島口―伏木港間を富山地鉄から加越能に譲渡
射水線車両の西町乗り入れ廃止富山新港起工式
港口仮切断 射水線堀切鉄橋切断 堀岡で折り返し運転開始
越の潟―新湊(4.9キロ)を加越能に譲渡、名称は新湊港線
新港東口駅新設 射水線は新富山―新港東口(14.4キロ)
港口本切断 フェリーボート就航富山地鉄 定時株主総会で射水線廃止計画を発表
高岡軌道線・米島口―伏木港(2.9キロ)軌道廃止
第1回射水線問題三者協議会(県、富山、新湊両市)
新湊港線 水害で庄川鉄橋一部消失(新湊―越の潟代行バス運行)
運輸大臣 射水線を補助路線に認定
射水線 一部電車の富山市内乗り入れ再開(東口―富山駅6往復)
新湊港線 庄川鉄橋復旧 高岡―越の潟営業再開
富山地鉄 2年間の実績が最低基準を下回って廃止を両市に申し入れ
県知事 射水線の廃線を提案
富山地鉄 射水線営業廃止新産業都市計画が全てを変えた。地域を選んで計画が進むはずだったが、どの県も誘致して、どこも似たような立案がなされた。そして、生まれたのは公害と過疎化だった。
水郷の田圃は全て埋め立てられた。最初にせき止められて水浸しになった。だごの木は水の中に孤立していた。そして、富山新港を浚渫した泥が客土されて、全てが消えた。
富山新港を造るために堀切が切られた。町の住民は大反対したのだが、自治会の上層部がすっかり行政に丸め込まれていた。
こうして、おそるおそる渡っていた鉄橋も道路橋もなくなり、新湊市は東西に分断された。
□ 便利だった射水線が衰退した直接の原因はこの分断にあった。6000人を超えていた利用者が一気に3000人余りと半減した。これは富山―新湊―高岡を結ぶという越中鉄道創設時の使命を失ったからである。
新湊市内から富山へ通う人は皆んな射水線が使えなくなり、小杉経由で富山へ行った。そういう人達もやがてクルマを使うようになった。モータリゼーションが廃止へと拍車をかけた。
合理化も進み、昭和44年には駅が委託されたり、無人になったりして23名が減り、45年には工務関係8名、駅務県警11名が減り、46年のダイヤ改正には乗務員11名が減った。それでも総収入に対する人件費比率が130%で、赤字が続いた。
□ 金沢市は日本でもごく最初に市電をなくした町であった。城下町で入り組んでいて、交通渋滞を招くということだった。ところが、予想以上にクルマが入りこんできて、一年中、交通渋滞になっている。「パーク&ライド」方式を考えたり、市電を復活する案も出なくはないのだが、一度なくしたものは大きい。
□ 昭和45年の新港東口での乗降客が1779人という状況だった。僕が大学生になった頃には射水線の電車が1時間に1本という情けない状況になってきた。これは廃止の時まで同じなのだが、余計、人が使わなくなった。東京へ夜行で行く時は最終に乗ったのだが、一人だけということが多かった。てこ入れのために新富山から何本かの電車の富山駅までの乗り入れも行われたが、一旦離れた客をもどすことはできなかった。
□ 勤めてからは最初クルマを持たなかったので、射水線で新富山へ行き、「乙女のバス」と呼ばれた女子短大行のバスに乗り換えた。商船高専も射水線で通った。
朝、よく遅刻しそうになった。家を出てすぐのところでもう「魔の踏切」の音がした。慌てて走った。
廃止になってからもよく遅刻する夢を見た。実際に遅刻したことはなかったのだが、脅迫観念になっていたのだ。
学生たちも学校のある練合の駅でよく遅刻しそうになり、走っていた。運転手は待っていてくれた。
万葉線と違ってワンマンにする予算もなく、最後まで車掌がいた。
冬は東へ電車が行ったから、新港東口行が後何分という計算ができて便利だったし、何よりも正確だった。
□ 射水線が廃止され、バスが走り始めたのだが、堀岡⇔練合間の運賃だけは少し安くなった(区間の細かさのせいで170円からバス代160円に下がった)。
富山北口―八ヶ山―八丁の間はバス専用路線となっていて、朝のラッシュ時だけ、富山駅行のバスが独占的に利用している。神通大橋のすぐ横に出て、無理矢理、信号でラッシュのクルマの中に割り込み、そのまま神通川を遡っていき、富山大橋を渡り、城址公園前を通って富山駅に着く。
今は漁火(いさりび)歩道になっているが、利用する人は稀である。
僕が射水線から学んだことは文明というのが便利になるばかりで右肩上がりに進んで行く、のでは決してないということだ。
小さい頃の方が海や川、そして、田んぼや畦道など豊かな自然に囲まれ、そこに僅かな文明の息吹が感じられ、それなりに調和していたと思っていた。その調和がいつの間にか失われ、新産業都市計画などというもので日本の国土が、自然が簒奪(さんだつ)されてきたのはやっぱりおかしい。
僕は子どもたちに潮騒を残したかったし、浜辺で戯れることの楽しさというものを教えたかったのに、僕らの力の及ばぬところで、誰かが奪っていった。
誰かがというが、後に渡辺新湊市長でさえ、新産業都市計画は、富山新港は間違いだったという主旨の発言をしている。
その誰か、というのは今も、どこかで日本の国土を、自然を、そして、僕たちの心も奪っているような気がする。こうして奪っておきながら、「心の教育が大切」とお説教しているのかもしれない。
□ 時々、大人になりきれてないなぁと思うことがあるのだが、小さい頃、堀切の鉄橋を渡らなかったのがまずかったかなぁと反省している。
《あとがき》 懐古的なエッセーを書くようになったら進歩がなくなった証拠だと思う。実はもっと懐古的なエッセーも用意しているのだけれど、恥ずかしくて完成させていない。小さい頃は感性も豊かで何でも大事に思えるのだが、今は何にも感じなくなっている。衰えた感性で回顧しても無意味なことだと思う。
このエッセーは新湊のアマチュアカメラマンの大谷(だいたに)一郎さんが射水線の回顧ビデオを作るというので用意したもの。大谷さんは前に万葉線のビデオを作って優秀賞を得ている。その時、僕の示唆が役立ったとかで、新しいバージョンでは家族で話して説明するという形になった。回顧の部分でおばあちゃんが射水線の絵を描き、乗ったこともない妻が質問して、僕が解説をするというシナリオのビデオである。これをうちの家庭で撮ることになった。
大谷さんに借りた資料も使用した。感謝します。
なお、2001年のビデオコンクールでこの作品は2位になり、全国大会に出展されることになった【可哀想に子どもたちは学校の総合学習で見せられたそうだ---「家族の人たちが出てくるがいいか」とは言われたらしいが】。
□ 射水線がなくなって20年。今度はその片割れである万葉線が廃線寸前の状態になった【12月に第三セクターで運営されることが決まった】。
2000年になって新産業都市計画が終了することが検討されている。
そして、あの踏切のあった所のお風呂屋さん(「惣名さ」とみんな呼んでいた)も7月30日で休業してしまった。急に廃業してしまったので、子どもたちを連れていくチャンスを失ってしまった。隣町からもなくなったし、もう一軒あったお風呂屋さんも数年前になくなっていた。
ちょっと前には赤くて丸い郵便ポストも箱形に替えられている。
本当に文明って何だろう?「豊かさ」って何だろう?
□ 「鉄ちゃんブーム」のおかげで、射水線関係の本が出ている。
嵐山光三郎『新廃線紀行』(光文社)では「日本海の哀愁鉄道」として紀行文が出ている。最後に新港東口に辿り着き、表具店の「明神屋」にやってきている。そこで、おばあちゃんに話を聞いたら、港口切断の愚痴をいっぱい聞かされたようである。「老婦人の怒りはおさまらない。/廃線跡を辿ってきたが、こんなにあからさまに感情を出した人にはじめて出くわした。堀岡港【ママ】に来てみると、老婦人の怒りが実感としてわかる」と書いている。
【2000年8月15日】
※2008年現在『富山廃線紀行』(桂書房)『鉄道の記憶』(桂書房)が出ている。