金川 欣二:マックde記号論(言語学のお散歩)


 

笑説 越中語大辞典



●「ファイアウォール」

 富山商船高専のロボット。2002年の高専ロボコンでロボコン大賞を取った。その後、映画『ロボコン』にも出演し、長澤まさみチームと決勝戦でぶつかるも敗退するという憂き目に遭う。商船の図書館に飾ってあり、時々、イベントに出演している。

●ファーストバンク

 「富山第一銀行」。元は富山相互銀行だったのが、相互銀行がなくなって現在の名前になった。一応、先行の「富山銀行」に了承は取ってあるという。

●ファボーレ

 2000年10月6日に開店した、婦中町にある大型ショッピングセンター。英語の“favor”と同じ「好意、好み」を意味するイタリア語“favore”から採った。10館のシネコンがある(“WELCOME TO FAVORE TOHO”という母音だらけの表示が出ると何となく奇妙な感じがする=おかしいのではないが…)。

●ファミリーパーク

 富山市ファミリーパーク。1984年に開園。呉羽山の自然を壊して作ったために日本で唯一の里山を持つ動物園になっている。動物の生態系を考えた動物園だというが、やっぱり象もカバもいない動物園は寂しい。2007年には観覧車が解体された。

 珍獣を見たい人は昔は金沢の卯辰山にあるヘルスセンターに行った。倒産してから県が代行し、今は「いしかわ動物園」となっている。飼育動物の種類ではファミリーパークが130種、いしかわ動物園が135種とほぼ同じだが、子ども受けする動物が揃っている。

 高岡の古城公園にも小さな動物園がある。無料なので楽しむ人も多い。

●ファミレス

 富山県では「アップルグリム」と「ココス」がどちらも似たような所にお店を構えている。斜め向かいどうしということもある。どちらも誕生日のお祝いをしてくれたが、ココスの方は少し恥ずかしい。アップルグリムは廃止してしまった。「ジョイフル」というファミレスも進出してきたが、“Joyfull”というスペリングが気になる(正しい英語は“Joyful”)。

●フィッシャマンズワーフ

 「フィッシャーマンズワーフ海鮮館」が氷見にある。“Fisherman's Wharf”で「漁師波止場」。サンフランシスコにあるものが有名。

●フィッシャリーナ

  水橋フィッシャリーナ。富山市が水橋漁港内に2011年整備。敷地面積は約2万9千平方メートル で、水面と陸上で150隻分の係留場所があり、市民らが散歩や釣りを楽しむ防波堤も備えた。

●フーゾク

 富山県内にはフーゾクはない。金沢や加賀温泉郷と大きく異なるところだ。

●プール

 高校でのプール設置率が全国ワースト1位。というよりも、高校にはどこにもプールはない。「ウォーターボーイズ」が生まれる余地は富山にはない。受験体制の中で泳がされているだけだ!

●風力発電

 県内の風力発電は、高岡市の伏木海陸運送と日本ゼオンが、それぞれ最大2〜4キロワットの風車1基を稼働させている。2004年に小矢部市の稲葉山の山頂に建設されていた民間企業による風力発電の風車が完成した。

●フェリオ

 西町大和に替わる店舗として造られた富山市総曲輪の再開発ビルの愛称。正式には「総曲輪フェリオ」。フェリオは、イタリア語で「幸福な」を意味する「フェリーチェ」Felicita(幸せな)と、スペイン語やポルトガル語で「大河」を意味するRio「リオ」を掛け合わせた造語で砺波市の主婦川島愛子さんが応募したものだという。でも、その前にホンダのシビックに「フェリオ」というのがあるからまったくのオリジナルとは思えない。ロゴは赤色で「FERIO」、黒色で「SGAWA」を、丸みを帯びた字体で描いたもの。

 2007年9月21日(金)に開店。初日に8万、ライトレールや市電が無料化された3連休は7万、10万、8万と4日間で33万人が来場した。最上階に紀伊國屋書店が初めて入った。

●フェーン現象【foehn】

 富山が涼しいと思ったら大間違い。富山・高岡は夏の最高気温の常連となっている。春にも夏にも秋にも冬にも山脈の風下側でおこる温暖で乾燥した南風が吹いてくる。強風を伴うのでしばしば大火を招く。台風が日本海を通過する時などが典型的で、気持ちの悪いほどの暖かい風が吹いてくる。この言葉は初めヨーロッパ・アルプスを吹き越す風についていわれたが、現在は広く一般に、そのような山から吹いてくる風をフェーンとよび、その風の影響下で生じた気象状況を「フェーン現象」などとよんでいる。

 戦前に中央気象台長を務めた岡田武松はフェーンを「風炎」と訳した。英語のtyphoonを「颱風(たいふう)(台風)」と訳したも岡田だった。

●フェリー

 富山新港の新港東口と越の潟との間を県営フェリーが行き来している(1967年11月から運航)。もともとは地続きで、射水線で結ばれていたのだが、新港を開港するために港口が切断されてフェリーになった。日本で一番安いフェリーと呼ばれたが今はタダ。最初は無料パスなども作っていたのだが、集金するほどの人も乗らなくなった。こちらは「フェリー」というが伏木の如意の渡しは「渡し船」と呼ばれる。ちなみに「海竜丸」と「越の潟丸」というのがメイン。

 24時間で夜も運航していたが、2004年度から午後10時半から翌朝6時までの運航を取りやめ、無料バスで代替することになった。2006年度から3隻から2隻の体制となり、1隻往復運航・1隻予備となったため、港の途中で行き交うこともなくなった。

●「フォーカス・イン」

 富山県が提供している、BBTのクイズ番組。リニューアルされた時に頼まれて出たのだが、結果がさんざんだった。「先生はアタック25のタイプだよ」とか「教官は富山県のこと一番知っとるいうていわれとるがでないがけ」などといわれた。

 こちらはご愛敬のつもりで出たのに、見ている人は真剣だった。

●フォルツァ(総曲輪)

 総曲輪三丁目の総曲輪ウィズビルにある多目的ホール。イタリア語の「力」。シネマホールは176席で、車いす用のスペースを用意。スクリーンの前に舞台をつくり、監督との対談などもできるようにした。ライブホールにはステージや照明、音響施設を整備し、演奏や演劇、講演など多目的で利用できるという。富山市が2005年に所有者から無償で譲り受けて改装した。国と市が管理運営費を出し、市民グループが運営する。

●フォレレ

 総曲輪通りの裏にあった音楽喫茶の名前。シューベルト(作詞シューバルト)の「鱒」のドイツ語Forelleに由来した。

●富岩運河【ふがんうんが】

 富山港と富山市の西宮町を結ぶ全長5.1キロの閘門(こうもん)式運河で富山と岩瀬を結ぶから「富岩」。戦前には工場がいっぱいあったらしいが、今はウォーターフロントとして再開発されている。富山駅北のサンフォルテの裏へ行けば絶景が広がる。カナルパークホテルもできた。98年には国の登録有形文化財に指定された。

 1901年に市街地の真ん中で大きく蛇行し、洪水が起こりやすかった神通川下流を、真っすぐにする工事が始まった(小矢部川と庄川も河口が同じで洪水が多かったために分離された)。工事によって生まれた廃川地(現在のJR富山駅周辺)を埋め立てるために大量の土砂が必要になり、富岩運河は、その土砂をまかなうために1930−34年に掘られた。通常、川を横切る形で作られる運河だったが、川に平行して作られ、全国的にも珍しい運河となった。2.5メートルの水位差を調節するために、運河のほぼ真ん中、河口から約3.1キロの地点に中島閘門二対の扉で設置された。ちょうどパナマ運河のように船が水位調節を待つ閘室(こうしつ)は、石組み鉄筋コンクリート造りで耐震性がある他、底面には千鳥配置に割石が敷き詰められ、船がさおを使って移動しやすいように工夫されている。運河の完成により、周辺に工業地帯が出来た。いかだを組んで木材を運ぶ姿も多く見られ、戦後の復興期には活況を見せたという。しかし、高度経済成長期に入った60年ごろから、トラック輸送が中心になると、全国の他の運河と同じく、一気に衰退、水面貯木場と化し、水は汚れ、草がぼうぼうに生えるなど、環境問題にもなった。富山県も79年に埋め立て方針を表明したが、84年に「貴重な水面をなんとか活用したい」と、中沖豊知事が再生方針を表明し、富山駅北地区の再開発計画と連携させて、まちづくりの一環として運河を再生させることになった。

 富岩運河環水公園や富岩水上ラインがある。

●不吹堂・風宮・吹かぬ堂【ふかんどう】

 風神を祀った吹かぬ堂と称する風神堂が砺波から新川の山岳地方に点在している。全国的に有名なのは奈良県の竜田神社で、毎年、風鎮祭が盛大におこなわれる。ここは大阪湾から強風が吹き込むところで、天御柱(あめのみはしら)・国御柱(くにのみはしら)の風の神二柱を祀ったのである。現在では6月28日から7月4日まで、伊勢太神楽、竜田神楽、湯立てなどが奉納される。『延喜式』の神名帳(じんみょうちょう)に出てくる諸国の穴師神社も、また風神を祀ったものである。

 風神は古事記で「志那都(しなつ)比古神(ひこのかみ)」、日本書紀では「級長戸(しなと)辺命(べのみこと)」と名前を記す。女の神様は「志那都比売命(ひめのみこと)」である。この風神を祭り、五穀豊穣を願う不吹堂が砺波などの一帯にある。城端町是安の級長戸辺社などが知られる。

 県内の堂については田口克敏に「吹かぬ堂(風神堂)について」(『富山史壇』38号)に所在が書いてある。

 特に農村地帯では、作物を風害から守るために、二百十日頃といえば旧暦の八月一日、すなわち「八朔(はっさく)」に様々な祈願が行われる。いまは一月おくれの新暦九月一日におこなうところが多いが、八朔はもともと稲作の進行にともなう儀礼で、西日本では稲の穂出しを祈願し、東日本では穂掛け、すなわち刈り初めの神事をおこなう日であるが、同時に風祈祷(きとう)・風祭りがおこなわれるところが多い。この風鎮めの祭の一つが八尾の旧暦二百十日からの「風の盆」になったと考えられる。信仰は婦負や上新川地方にも広がっている。いずれも南風が強く吹き下ろす川筋だ。旧大山町福沢は、元は吹沢と書いた。吹が福に転じ今の名になった。風が強く「やせた男は婿に行くな」との言い伝えがあったという(「とやまの民俗芸能」北日本新聞社)。

 平成2年4月からNHKテレビで「おはようサンデー」(日曜の朝7時から45分間)という新番組が始まり、私もこれに参加して「気象歳時記」というコーナーを受け持ち、各地の季節の風物を伝えることになった。

 7、8月に放送した各地の川の風物詩のシリーズが終わりに近づき、9月からは初秋の花を取り上げることになり、9月の第一日曜日は何の花にするかが話し合われた時、私は、「夏の終わりに咲くフヨウは、”別れの花”。この花は、夏休みに知り合った友達との別れなど、ひと夏の思い出に結びつきやすい。そしてフヨウならスイフヨウ。スイフヨウなら”風の盆”・・・だから八尾に行きたい」と提案し、8月30、31日と北海道・旭川での仕事を終えた後、9月1日に八尾に行って夜遅くまでロケーションをして、翌2日朝、富山局から全国放送して、直ちに帰京するという、やや慌ただしい仕事をすることになった。
短い時間の取材だったが、関係者のご協力のお蔭で「風の盆」の姿と心に触れることができた。坂道の脇の「雪流し」の溝を、夏も清冽な水が音高く流れ下っていた。軒ごとに鉢植えのスイフヨウが並んでいるのは、高橋治さんの作品の影響と思われた。
番組を準備している時、大急ぎで「風の盆」という呼び名の由来を調べてみた。風の災害の起こらないことを祈る祭りが、昔から台風厄日とされてきた210日を中心に行われるのは、極めて自然なことである。210日は立春から数えて210日目で、立春の日付は太陽の位置で決まるから、これは陰暦の上に刻まれた「太陽の季節点」であり、現行の太陽暦では9月1日に固定している(まれに8月31日になる年がある)。

 陰暦7月15日の「旧盆」は、年により、いまの暦の8月7日から9月6日の間を移動する。210日と「盆」は重なりやすかったのである。風の祭りを8朔(はっさく、旧暦8月1日)に行う所が全国的に多いが、これも210日・220日を含む現行暦の8月24日から9月3日の間を移動する。

 「風の盆」の呼び名の背景には、もう一つ、昔から富山県には「休みを何かにつけてボンといい、盆日と称する」民俗があったことである(平山敏治郎著「歳時習俗考」法政大学出版局、「オシメリ正月・雨降り盆」)例えば、「種子まき盆(4月16日)」「植え付け盆(6月上旬)」など多数あり、石川県も同様である。正月を休みの代名詞として、雨降りで休むのを「おしめり正月」とか「雨降り正月」と呼ぶ例は他の県にもあるが、富山県では「雨降り盆」である。北陸地方で正月より盆の方が休みや祭りの代名詞に使われている例が際立って多いのは、雪に埋もれる正月よりは、明るい収穫の季節の晩夏・初秋の方が、休日のイメージに近かったからではなかろうか。

 前掲の平山さんの著書には、東砺波郡北山田村是安にある風の宮の不吹堂(ふかんど)の例祭を「フカンドボン(不吹堂盆)」と呼ぶとある。その不吹堂については大正年間の伏木測候所の文献(田口克敏調査)に13社があげられており、それらが砺波、婦負、上新川郡の山麓地方に限って分布していることが、指摘されている。(図参照)。

 富山気象台や伏木測候所の観測記録を見ると、記録的な暴風は、台風や強い温帯低気圧が日本海を通っている時に、それに吹き込む南風によって起こっている。南風は山脈を越えてフェーン(乾熱風)となって富山平野に吹き下る。それは農作物に大きい被害をもたらすだけでなく、しばしば大災害の原因にもなってきたのである。

 「風の盆」には、大略、以上に述べたような民俗学的、気象学的背景があったといえる。しかし、私の番組では、不吹堂について現地の人に尋ねても、ほとんどの方がご存じなく、ようやく知っている人に出会ったが、そこを訪れる時間がなく、次の週の仕事のため帰京せざるを得なかった。
     -----「風の盆」の季節 − 酔芙蓉・210日・不吹堂 (倉嶋厚=理学博士、気象キャスター)

●福梅【ふくうめ】

 迎春に欠かせない和菓子。金沢で用いられるが、富山でも呉西で出される。加賀藩前田家の家紋「剣梅鉢」をかたどった最中(もなか)菓子で表面に砂糖をまぶしてある。中の小豆の粒あんは日持ちさせるために飴が加えてある。グレードを決めるのは小豆と飴で、上等なものには皮の柔らかい小豆と米飴、中等以下は小さな小豆に馬鈴薯飴になる。

 餡菓子で梅のかたちをしたお菓子もある。正月に紅白で出されるが、菅原道真の末裔だといって梅の紋の前田家と関係の深い金沢や富山県西部で主に出される。金沢では氷室饅頭と福梅が二大季節菓子に位置づけられている。

 『おもしろ金沢学』(北國新聞社)によれば、菅原道真の大祭に、千家が執り行う献茶子規に寒紅梅(かんこうばい)という餅菓子が使われていたという。前田家の京都加賀藩邸役目方が神餞(しんせん)と共にこのお菓子をいただき、9日〜11日をかけて金沢城の二の丸御殿に届けるのが習わしだったという。この寒紅梅をヒントに前田家が創案したのが福梅だ。藩主の家紋が入ったお菓子を庶民が食べるはずもなく、明治以降に氷室饅頭と同様、売り出されたものだ。

 

福梅

 なお、金沢では「寿せんべい」といって紅白のせんべいに引き蜜で「寿」を浮き立たせたせんべいも婚礼などに用いられる(ルーツは亀の子せんべいだという)。

 お正月には「辻占(つじうら)」という、巾着包みされたお菓子が出されることもある。中に占いの紙が入っていて1年を占う。

 「福徳(ふっとく)」という、打ち出の小槌や俵、巾着などの形をした最中の皮(中は空洞)もある。皮を二つに割ると、「福徳種」とyばれる、小さな金花糖(きんかとう)や土の豆人形が入っていて、中をあける時の楽しみがある。

●福岡駅

 高岡から西へ二つ目の駅がJR福岡駅である。西福岡駅は九州にある。だからよく間違って降りて「博多はどこですか?」という客がいる。

●フグ給食

 新湊は「カニ給食」が有名だが、2010年には近畿大水産研究所富山実験場と堀岡養殖漁協で養殖されたトラフグの試食会が堀岡小学校であった。実験場は堀岡小近くにあり、漁協と共同で、富山湾の深層水を使ったトラフグの養殖研究に取り組んでいる。

●福野縞【ふくのじま】

 縦縞の素朴なデザインと太い糸を使って織った丈夫な生地が特徴の綿織物。この綿織物生産は麻、絹織物よりかなり遅く、天安年間だったといわれる。藩侯も木綿製造のための棉の栽培を奨励したこともあって、文政年間(1818年〜29年)には福野縞が、安政年間(1854年代)には戸出縞【といでじま】が創出された。福野縞は縦縞の素朴なデザインと太い糸を使って織った丈夫な生地や色落ちの少なさが特徴。もんぺなど農作業着に使われ、大正期をピークに人気を集めたが、洋服が普及し戦後、次第に作られなくなった。野原リヨ子『梭(ひ)の音 資料に見る福野の織物』(自費出版)がある。

●ふく福柿

 砺波市栴檀山(せんだんやま)地区で特産化が進む、さわし柿で幸せがやって来る、めでたい柿という命名。1997年から出荷組合を設立して栽培を始めた。さわし柿は炭酸ガスなどで渋ガキの渋みを抜いて、あっさりした甘みが特徴で早生(わせ)種の刀根(とね)が使用される。渋柿の大王とも言われる「刀根早生」は「平核無柿(ひらたねなしがき)」の枝変わりで、奈良県天理市の刀根淑民のほ場で見つかり、80年に品種登録されたものだ。

●ふくらがる

 「ふくらむ」。例:「餅、ふくらがってきた」。

●フクラギ

 出世魚の鰤、ガンド鰤の小さいもので、ハマチに相当する。鰤などよりも安い。0歳ツバイソ→0歳フクラギ→1歳ガンド→2歳(小ブリ)→3歳ブリとなる。

 安西水丸の『たびたびの旅』(フレーベル館)に「フクラギを食べに行く(富山・氷見)というエッセイがある。

 富山にフクラハギを食べに行った。

 あっ、まちがえた。フクラギを食べに行った。フクラハギなどを食べに行ったらとんでもないことになる。

●ふくろびる

 「ほろこびる」。例:「あんたとわしの関係はもうふくろびてしもとっちゃ」(あなたの私の関係は既に破綻してしまっている)。

●「藤」

 能の一つ。富山関係の能は「善知鳥」と「山姥」(やまんば)と「藤」だけ。

●藤井能三【ふじいのうそう】

 本名は「のうぞう」だったが、愛称の「のうそう」で通っている。回船問屋の八代目として生まれ、伏木港を開き、富山県初の公立小学校である伏木小学校を建て、洋式灯台を建てた。

 明治初期の伏木港は、水深が浅く座礁事故が絶えない危険な港だった。しかし米や北海道移民の移送など、伏木港は重要な役割を持っていた。明治24年(1891)、能三は『伏木築港論』を著して、北陸の近代化のためには陸海の交通を結びつけ、対岸地域との貿易推進が必要であり、伏木港を近代化すべきだと力説した。能三が口火を切ったこの主張はやがて人々を動かし、明治33年(1900)には高岡・伏木間に中越鉄道が開通し、さらに大正元年(1912)に伏木築港工事が完成した。

●伏木【ふしき】

 小矢部川の河口にある港町で駅もある。勇壮なケンカ山(山車)で知られる。素人相撲でも知られている。堀田善衛が生まれた町としても知られる。堀田の「夜来香」は「伏木ーといっても知らない人の方が多いだろうが、北陸のある湾の奥にあるこの小さな河港の町はずれに、ナギサホテルというしゃれた名前のホテルがある。しゃれているのはしかし、名前ばかりで…」と始まる。戦時中、伏木港の管理官だった主人公の披露伊作が小説を書くために戻ってきた…。

●伏木小学校

 藤井能三が私財をなげうって建てた、富山で最初の公立小学校。「公立小学校発祥之地」という碑も建っているが、上に載っているのは当時、ここで世界を示すために使われた地球儀を表している。外国へ行くのは船しかない時代だったので、船酔いに強い子どもを作るためにブランコを置いて三半規管を鍛えたというが、特に能三の独創ということもないと思う。富国強兵をはかる明治政府がドイツに倣って、体力増強のために西洋式のブランコを輸入したのが始まりで、腕力、腹筋、背筋を鍛え、さらにバランス感覚やリズム感を養うというわけである。

●伏木【ふしき】測候所

 高岡市にある明治期の代表的な木造建築で「旧富山地方気象台伏木測候所」と呼ばれる。旧伏木測候所は、1883(明治16)年に開設された県内初の気象観測施設。1880年(明治13年)、富山湾の沿岸地域が寄り回り波の大きな被害を受けた。伏木港の回船問屋・藤井能三が海難事故防止のために私費を投じて伏木港に建てた洋式灯台(灯明台)の一室を測候所にあてた。87年県立測候所となり、1909年、現在地の伏木古国府に移転新築された。当時の平屋の建物が雪雨風にさらされ、痛みがひどくなった。98年に無人となり、気象観測は隣接地に置かれた自動気象観測装置で行っている。2005年に高岡市が気象資料館として再整備。

 藤井能三は地元で「能三(のうそう)さん」と親しみを込めて呼ばれる実業家であり、明治から大正にかけて、伏木の近代化に尽した先覚である。

●藤子不二雄【ふじこふじお】

 藤子不二雄( 本名:安孫子素雄)。1934年3月10日生まれ。 氷見市出身。『の人生』という自伝的な本もある。

 藤子・F・不二雄(本名・藤本弘)。1933年12月1日生まれ。1997年9月23日没。享年62。高岡市出身。

 二人は1944年、我孫子の転校によって定塚小学校5年2組で同級、以後、一緒にまんが道を極める。「手塚治虫」をもじってペンネームを「手塚不二雄」としたが、すぐに「足塚不二雄」とする(いろいろ変遷)。49年に初めて「藤子不二雄」と名乗る。

 高岡市は藤子・F・不二雄の遺産を譲り受けようとしていたが、川崎市に取られる。

●ふそう

 「ふさわしい」。例:「よう、ふそうた夫婦やねけ」(よく似合った夫婦じゃないですか)。

●附属

 富山大学人間発達学部(旧・教育学部)附属幼稚園、小学校、中学校。県内唯一の「エリート校」で気位の高い保護者が多いという。幸い、富大には付属高校がない(国際大付属はあるが)。成績で入るが、最終的にくじ引きとなる。2005年までは独占していたが、片山学園中学ができて進学地図が変わった。同年から教育学部は人間発達学部となった。富山商船の元教官が富大に異動してから小学校や中学校の校長になったこともある。

●二上山【ふたがみさん】

 小さい頃、遠足は東なら八ケ山、西なら二上山と決まっていた。大伴家持のいた国府があったので、万葉の歌枕になっている(その場合は「ふたがみやま」というが、昔、二神山とも呼んだ)。同じ歌枕でも奈良と大阪の境にある二上山は「にじょうさん」というが、もとは「ふたかみやま」と呼ばれていた。五木寛之『風の王国』にも出てくる。

 晴れた日に237メートルの山から富山平野を見下ろすのは気持ちがいい。

 万葉ラインという道路があるが冬は閉鎖される。夜中に暴走する人がいて閉鎖になることもある。

 麓には本願寺派の寺院、伏木の勝興寺があって境内には家持が司った越中国府庁跡があり、「七不思議」と宝物の「洛中洛外図」が有名。

 中腹には正力松太郎が作った仏舎利塔があり、平和の鐘がある。

●二上橋

 高岡市守護町の小矢部川に架かる県道の橋。全長168メートルで、1960年に完成した。

●ブータン

 Bhutan。 山岳地帯にあり、中国とインドに挟まれている小国だが、「国民総幸福」を掲げている。

 富山との関係は作曲にある。国際協力機構(JICA)の青年海外協力隊員としてブータンに派遣されている富山市松若町出身の神谷桂二郎(当時32)がワンチュク国王とペマ王妃の結婚祝賀曲を作曲した。日本とブータンの国交樹立25周年記念式典でも披露された。神谷は2011年6月から首都・ティンプーの音楽学校でピアノを教えるなどしていた。作曲は、ワンチュク国王夫妻の結婚が間近に迫った7月、派遣先の音楽学校の理事会から依頼された。国王夫妻がいつくもの困難を乗り越え、未来に向かう姿をイメージし、曲名を「Happy Chant in Unity(歓喜の唱和)」とした。ネットで知り合った大阪府寝屋川市のシンガー・ソングライター、北前佐枝子が英語で歌詞を付けた。結婚式当日の10月15日、首都中心部で行われた祝賀式典で大勢の国民が見守る中、神谷さんが指揮し音楽学校の子どもたち30人と歌い上げた。国王夫妻はこの年、日本に国賓として新婚旅行に来て話題を巻いた。

 また、丸新志鷹建設が日本の国内企業として初めてブータンの事業を受注した。機材はネパールにある支店から運ぶ。

●ぶたじる

 「豚汁」を「とんじる」と呼ぶか「ぶたじる」というか、地域差がある。富山では圧倒的に「ぶたじる」だったが、若い人は違ってきているかもしれない。2007年のNHKの調査では(20歳以上2000人を対象に実施)、「とんじる」と呼ぶ人は東日本に多く、「ぶたじる」と呼ぶ人は西日本や北海道に多いから富山は西日本に入る。全国平均では「とんじる」が54%、「ぶたじる」が46%だったという。ちなみに、東日本は豚肉消費圏、西日本は牛肉消費圏であることと関係があるのかもしれない。関西で肉というと牛を指すので、それ以外の時はわざわざ「ブタまん」みたいに「ブタ」をつける。お好み焼きも「ブタたま」ということになる。

 ついでに「チャーハン」は「焼き飯」と言っていた。「綿飴」とはいわないで、「綿菓子」だった。

●豚汁の具

 豚汁の具は地域によって違う。東がジャガイモで、富山はジャガイモ/サトイモ、石川がサトイモ/サツマイモ、西がサツマイモが多い。ちなみに呉西にある金川家はジャガイモだった。呉東に育った人はサトイモだったというが、悉皆調査が必要。

●二股膏薬【ふたまたこうやく】

 「どちらにもつく人」で方言ではないだろう。

●豚まん

 中華饅頭を関西風に「豚まん」とはいわず、関東風に「肉まん」という。

●婦中鵜坂

 富山市婦中町西本郷地内のJR高山線に設置さられた新駅の名称。新駅設置は、富山市が2008年3月のダイヤ改正時から始めたJR高山線第二期活性化社会実験の目玉事業。広いエリアの地名で知名度の高い「婦中」(婦中町があった)と、鵜坂神社や鵜坂小がある「鵜坂」を組み合わせたという。

 鵜坂という地名は天平20(748)年、越中の国守大伴家持が国内を巡行した折、婦負郡で和歌を詠んで「鵜坂川渡る瀬多みこの吾(あ)が馬の足掻(あがき)の水に衣濡(ぬ)れにけり」(『万葉集』巻十七)いて、これが「鵜坂」の名の初見とされる。『婦中町史』によると、9世紀に編さんされた『続日本後記』、10世紀に完成した『日本三代実録』に、いずれも「鵜坂神社」の位階が記されている。鵜坂は古くから、信仰の地でもあったという。

●仏生寺弥助【ぶっしょうじやすけ】

 津本陽『修羅の剣』、峰隆一郎『幕末人斬り伝 剣鬼・仏生寺弥助』で描かれた剣豪。

 弥助は越中国氷見郡仏生寺村の百姓弥兵衛の子として生まれた。貧しい暮らしのなかで、このまま一生を終わりたくないと思った弥助は同じ村の出身で「幕末三剣豪」の一人・斎藤弥九郎を頼って江戸に出て、神道無念流道場・練兵館の下男となる。試してみると才能もあり、筋もよい。たちまち上達し多くの道場生の手に負えなくなり、17才で皆伝を許されるまでになる。やがて弥助は斎藤歓之助と共に練兵館をあずかる身となり、「練兵館の鬼神」と呼ばれ無敵を誇る。しかし無教養の悲しさ。天才剣といわれながら塾頭にはなれず、無頼に拍車がかかり、ついには道場を飛び出して、身を持ち崩し、やくざの用心棒に落ちたり、流行の浪士の群に加わったりした。勤王か佐幕か、主義主張のない弥助は京都で新撰組の芹沢鴨や京都見廻組の佐々木只三郎から勧誘を受け、面倒をみてくれた桂小五郎(斎藤の弟子で塾頭になっていた/後の木戸孝允)との関係をこじらせる。弥助は土佐勤王党の岡田以蔵や、練兵館と勇士組の13人の侍と対峙した。慶応3年7月、33才で、京都で暗殺されたとなっているが、定かではない。

●仏壇(仏檀---と書かないと「お前の店は泥で作った仏檀を売っているのか」といわれるそうだ)

新しき仏壇買ひに行きしまま行方不明のおとうとと鳥-----寺山修司『田園に死す』

 県外の人が富山に来ると驚くのは座敷や欄間もそうだが、仏壇だ。宗派によってもちろん違うのだが、県外の人は誰も立派な仏壇だと驚く。あるクイズ番組で若い女性が750万円を獲得して司会者に「何を買うのですか?」と聞かれて「家の仏壇を新しくしたい」といった時には驚いた。仏壇屋さんの話では富山の売れ筋は300万位のが多くて(うちのもそれだけだ)、1000万から800万のもあるという。

 金沢も立派な仏壇が多いし、高岡には仏壇店が多い。砺波の散居村には本当に立派な仏壇が並ぶ。実際、仏壇の立派なおうちが多くて、葬儀が自宅で行われることも多い。仏壇そのものも大きいが、仏間自体が大きい。仏間という心のよりどころとする、癒しの空間を家の中に持っていることはとても大切だと思う。朝ドラなどでは東京の制作だとほとんど仏壇が出てこないが、大阪の制作だとよく出てくる。

 仏壇は朝日新聞の調べによれば全国で約52%というが、富山は多くの家庭が持っているだろう(もちろん、宗派によって異なるし、ない家庭もあるだろうが…)。江戸時代には仏壇がない家は「邪宗門」と考えられ、仏壇がキリシタンではない証の一つだった。

 富山の仏壇がどうしてこんなに立派かというと

  1. 真宗王国であった――信心が深く、信仰が家の中で生きていた。
  2. 金との深い関係があった――佐々成政が金を所蔵していたのはよく知られているし、金沢も名前が金洗い沢から来ていて、金箔工芸が盛んだった。金沢仏壇では見えないようなところにまで蒔絵を使っている。
  3. 砺波などは特に立派な仏壇が多い。信仰心が厚いこともあったが、米の産地で豊かだった。
  4. 「お座(法座)回り」などが自宅で行われることも多く、どうしても他人に見せる機会が多かった。「三方開き飾り付き」という仏壇は富山の発明のようだが、行事の時には横幅が2倍になるように工夫されたものだった。「講」ということ自体、蓮如上人の発明で、仏と一緒に食べる「共食」の原理が働いていた(うちでも報恩講料理を1980年代まで出していた)。
  5. 長い冬、暗い家の中で明るいところが欲しかった。昔の家は木で作った雪囲いをしていて、冬は本当に暗かった。ちょうど九谷焼が派手なように暗い空間に明るく光る浄土みたいなところが好まれたのではないだろうか。---実際、うちでは京仏壇にしたいという僕らと派手な富山仏壇の方がいいという母親と喧嘩になったのだが、富山仏壇を入れてみて、町屋で暗いわが家にはやっぱり富山仏壇が似合っていた。

 で、実際に調べてみると、葬式やお墓の本というのはいっぱい出ているのだが、仏壇のことはあまりよく分かっていない(中江勁『現代の仏壇・仏具』(鎌倉新書)、ひろさちや『お墓・仏壇入門』ゴマブックス。富山では雑誌『万華鏡』第99号が参考文献としてあるくらい)。つまり、教義にはなくて、仏壇店の主導で様々な意匠が考えられてきたようだ。今も「新創作仏壇」というのが考え出されていて、シンプルでモダンなデザインになっている。

 富山の仏壇は城端仏壇、高岡仏壇、富山仏壇、魚津仏壇などがあるが、大体同じような特徴をもっている。金仏壇というだけでなく、欄間を使っているところが特徴である。また、銅の金具を使って、実用的にしているのが違う!金沢仏壇も銅や真鍮の素材を使っているがいぶし銀の色にコーティングされている。赤い銅をそのまま使ってしまうところが実利的な富山にぴったりという感じ。ちょうど、昔の高校生の革鞄の縁に金具が打ってあったようなものだ。

 富山の仏壇店によれば、明るさ、透明感、暖かさを大切に仏壇を作っているという。なるほど、久世光彦は『薔薇に溺れて』の「仏壇」という文章で次のように書いている。

 私が子供のころ、仏壇の観音開きは、幻想への国への扉だった。近所のどの家でも、だいたい仏壇は西向きの部屋の、しかも奥まったところに嵌め込んであったから、太陽に正面(まとも)に照らされるということはまずなかった。夕日も部屋の真ん中辺りまでは射し込んでも、仏壇までは届かない。いくら有難い西方浄土を向いているのだと言われても、三、四歳の私にとって、部屋のその辺りは、いつも湿って薄暗い、気味の悪い場所だった。---つまり、仏壇は怖かった。

 若い頃、アメリカ人が日曜に教会へ行くのを見て、宗教が息づいていると驚いたものだが、富山ではお寺が家の中にあるからわざわざ出かけなくてもいいのだ。

※仏壇に関しては2002年10月16日の「とやま夢航海」(NHK富山)で番組にした。同僚で僧侶をしている先生から「仏壇というものは祖先をおまつりしてあるのではなく阿弥陀様だ」といわれた---分かっているけれど細かいところまで短い時間で説明できない。

●仏壇参り

 富山だけではないと思うが、花嫁専用タクシーというものがある。これは結婚式の直前に「仏壇参り」をしなければならないから、その移動のために作られたタクシーで、角隠しを付けても頭が使えないように後部の天井が高くなっている。仏壇に参る前に、家の玄関で「お水合わせ」というのがあって両家の水を合わせて、その盃を割るという行事がある。仏壇参りの時に婿さんはお嫁さんを見せてもらえない。

●ふどくる〜ふどこる

 「懐に入れる」から「盗む」。例:「ひとっでぇ、ふどくってしもうた」(一人で懐に入れてしまった)。

●鮒【ふな】

 小さい頃、周りは水郷地帯だったので、鮒がいっぱい釣れた。鯰も釣れた。鯉もたまに釣れた。県内からみんな釣りに来たものだった。石川県からも観光バスで来ることがあった。

 でも、釣った鮒の処理に困った。川魚はおいしくないのだ。

●舟橋村

 富山市郊外の村。総面積3・47平方キロと県内の自治体で最小の舟橋村が、全国各地で続く市町村合併の影響で、2006年3月27日に「日本一」面積が小さい自治体となった。変わった村長で紀元節の日に小学生を交えて行事をしていた。

●『不毛地帯』

 山崎豊子の小説とその映画。主人公のモデルとなったのが小矢部出身の瀬島龍三である。中曽根康弘、竹下登両元首相らと太いパイプを持ち、政財界で幅広く活躍していた。陸軍大学校を出て、太平洋戦争中に大本営陸軍参謀や中国東北部に駐屯した関東軍の参謀を務めた。敗戦後はソ連軍の捕虜となってシベリアに抑留された。帰国後、58年に伊藤忠商事に入ってからは航空機部門や業務部門を担当。77年の同社と安宅産業との合併では中心的な役割を果たし、翌78年から会長を務めた。東京商工会議所副会頭など財界団体の役員も歴任した。

●冬

 北陸の冬はきっぱりとは来ない。いつの間にか雪景色に変わっている。

冬が来た  高村光太郎

きっぱりと冬が来た
やつでの白い花も消え
公孫樹(いちょう)の木も箒(ほうき)になった

きりきりともみこむような冬が来た
人にいやがられる冬
草木に背(そむ)かれ、虫類に逃げられる
冬が来た

冬よ
ぼくに来い、ぼくに来い
ぼくは冬の力、冬はぼくの餌食(えじき)だ

しみ通れ、突きぬけ
火事を出せ、雪で埋めろ
刃物のような冬が来た

 獅子文六が『食味歳時記』に「冬が始まって、ものがうまくなるというのは日本独特の現象ではないのか」と書いているように冬の味はまた格別である。富山には寒ブリがあり、ベニズワイガニがあり、かぶらずしも作られる。

●ブラウンラーメン

  「富山ブラック(ラーメン」)に対抗して?入善町商工会青年部の有志らが、めんに地元の海洋深層水を使ったご当地ラーメン「入善ブラウンラーメン」。入善町をPRしようと、12人で合同会社「善商」を立ち上げて商品化を目指していたもので2010年から販売している。名前の「ブラウン」は入善町の大地の色をイメージした。中太のめんには海洋深層水が練り込んであり、スープは少しピリ辛のエビみそスープ。濃厚だが、後味がさっぱりしているのが特徴だが、ただの味噌ラーメンだとツッコミを入れる人もいる。

●ブラックラーメン

 「富山ブラック(ラーメン)」。富山市にある大喜のラーメンが元祖で、店長は鱒の寿司に次ぐ名産にしたいと考えている。

●ブランド市

 ブランド総合研究所では、2006年8月に国内全779市を対象にした認知度や魅力度、イメージなど全103項目からなる「地域ブランド調査2006市版」を実施し、全国の消費者2万4536人から回答を得た。その結果、全国でもっとも魅力的な市は札幌市(60.5点)となった。また2位は神戸市(58.0点)、3位は函館市と横浜市(57.6点)、5位は京都市(56.3点)となった。

 ちなみに、石川では金沢が12位、輪島が65位だが、富山県、福井県からは1市も入らなかった。

●鰤【ぶり】

 「鰤が人より美しかりき暮れの町」加藤楸邨

 富山は呉東が関東と同じ鮭文化圏で、呉西が関西と同じ鰤文化圏である。いずれにしろ、富山湾の出世魚の代表。関西で出世魚として珍重されたのは商家が多かったからかもしれない。生きてるだけで出世する鰤が羨ましい。「鰤っ子」を「松田聖子」とはいわず、富山では「こづくら」(「つばいそ」が主流になってきた)、「ふくらぎ」となって「がんど」、そして「ぶり」になる。

 11月から1月がシーズンだが、結婚すると実家はお歳暮に鰤を一匹、婚家へ持っていく風習(「嫁ブリ」ということがある)がある。そして半分は実家に返すということになっている。あんなでかいもん、一体誰が食べるんじゃ!

 加賀では出世魚でめでたいとして「歩利」と当てるという。

 前田普羅に「鰤網(ぶりあみ)を越す大波(おおなみ)の見えにけり」という句がある。

 鰤は越中ばかりでなく、飛騨でも信州でも「年取り魚」(大晦日の年越しの膳に白飯とともにつける魚)、縁起魚としてお正月に欠かせないものであった。

 富山湾の鰤は落語でも語られるほど名高い。文禄4年(1595)年、加賀藩初代藩主 前田利家は、氷見灘浦で獲れたぶりを歳暮用に京都へ送るように指示している。また、正保4年(1647)に出た俳書『毛吹書』には、「越中ぶり、丹後伊禰浦(いねうら)ぶり、出雲友島ぶり、壱岐(いき)ぶり、対馬(つしま)ぶり」と越中ぶりをトップにあげており、古くから天下に有名であった。九州近海で捕れるブリと比べると、別の魚かと思うほど越中ブリは丸々と太っている。ブリは、夏から秋に北海道で餌をたっぷり食べて脂肪を蓄え、晩秋から初冬に富山湾へ回遊してくる。産卵のため南下し、九州にたどり着くころにはすっかりやせてしまうからだ。

 「塩ブリ」というものも作られる。魚津市持光寺の「ヨ八魚問屋」が中心に作っているが、魚津では塩ブリを娘の嫁ぎ先への歳暮として利用されていたからだ(他の地方は生のブリ)。ブリは全体に塩が浸透するまで2日間貯蔵し、さらに塩水に一昼夜つけた後、5日から1週間陰干し、冷蔵庫に入れて身を引き締める。富山湾のブリの水揚げが少ないときは養殖ブリが中心という。価格は1本7000−3万円で、県内の企業や一般家庭の贈答品が大半という。イタリア料理の「パンチェッタ」(pancetta)という塩漬け豚バラ肉だと思えばいい。

 料理法は刺し身をはじめ、照り焼き、塩焼き、鰤大根やかぶら寿司がある。鰤大根は富山の味覚とされるが、富山では刺身にして食べるのが圧倒的。かぶら寿司は金沢ではブリを材料とするが、富山では鯖(サバ)を使うのが一般的である。「鰤シャブ」というのもある。

 なお、鰤は「越中鰤」として野麦峠を越えて信州へ運ばれて 「ぶり街道」と呼ばれた。糸魚川と松本を結ぶ道は、かつて「塩の道」と言った。

 富山のどこでも富山湾の鰤が楽しめるかというと難しい。そのまま大都会に運ばれるからである。都内の料亭では、ブリのコース料理が2万円ほどで設定され、客でにぎわっているという。特に氷見産は東京の築地市場でも高値で取り引きされるほどブランド品として別格の扱いである。

 新湊漁港はカニのタグと同様、2003年から「横綱タグ」をつけることにした。白いロープが巻き付けた特注品で金と銀の水引に囲まれた直径6.5センチ。樹脂製の丸いタグには「特選越中ぶり 新湊漁港」の金色の文字が入る。一度取り付けると切らない限り外せない。タグには1つずつ異なる番号を入れ、同漁協が水揚げ日と漁業者名などを番号ごとに記録、管理する。タグを付けるのは、新湊沖の定置網に掛かり、同漁港に水揚げされたブリの中から、型が良く適切な鮮度処理が行われたものに限定。当面は重さ12キロ以上を対象に、競りの前に漁業者と漁協職員が吟味した「お墨付き」のブリの尾びれの付け根に巻き付ける。

 魚津ではブリを生きたまま締め上げ、血を抜いて臭みを取る「活(い)け締め脱血」の手法で処理し、箱に「ブランド証明書」などを張って出荷する。店頭では、魚の履歴を消費者に明確に伝える「トレーサビリティーシステム」を導入する。

 『日本国語大辞典』には5つの語源の説を紹介しており、最初に掲げてあるのが「アブラの略転」である。アブラの「ア」が省略され、「ラ」が「リ」に転じてブリになったという。貝原益軒は『日本釈名』に「あぶら多き魚なり。あぶらの上を略す」と書いているそうだ。大槻文彦もアブラ説で『大言海』には「あぶらノ略轉(てん)カ」と記してあるが、何も分からないということだ。

 黄色い模様があるので英語では“yellowtail”。

●鰤おこし

日本海に稲妻の尾が入れられる-----夏石番矢(なついしばんや)

 11月末から12月にかけて起きる雷雨。「雪おこし」とも言う。大陸から寒気団が流れ込み、北西の季節風が強くなると鳴り始め、雪をもたらし、鰤が出てくる。

 ちなみに、秋田に鰰(ハタハタ)という魚がいるが、ハタハタとは雷の事である。雷が轟くとこれに感応して海岸に押し寄せる習性がある。ここから、ハタハタが海岸に近づくのを見ると、雷が落ちると占った。幕末の菅江真澄が書いている話だ。

 鮎も占いに使ったからこの字になった。鮎を釣るのは女性に限るという伝説が九州にあり、神功皇后もこの占いをし、釣針のない釣糸で釣る。鮎が釣れると吉、釣れないと凶とした。中国では「鮎」と書くと「ナマズ」だが、鯰を占いに使ったのだ。

●鰤街道

 「ぶり街道」は富山から高山を経て松本を結ぶ街道で、古くは江戸時代から、ぶりの流通が盛んであり、富山湾で揚がった「越中ぶり」が塩漬けにされ、越中街道を通って高山に入り「飛騨ぶり」と名前を変え、野麦峠を越えて松本方面まで運ばれ、正月のご馳走として貴重品扱いされた。

 2003年には「ぶりノーベル出世街道」としてノーベル街道とつなげてPRすることになった。

 飛騨文化自然誌調査会調査・執筆/岐阜総合研究所企画・編集『飛騨ぶり街道物語 ぶり街道の文化と自然』(岐阜新聞社)などがある。

●ブリしゃぶ

 薄い切り身にしてだし汁にさっとくぐらせ、脂が少し落ちた、さっぱりした食味が売り。「天然ブリは刺し身が一番」として、これまで地元でもなじみの料理とはなっていなかった。2007年秋からキリンビールが「ブリしゃぶ」のCMを始めた。俳優佐藤浩市がブリしゃぶを味わうビールのCMで人気が高まっており、ブランド化も目指している。富山を代表する鍋になりつつある。

●鰤大根

 富山の味覚の一つ。最初にブリを煮たら湯こぼすことが大切。そうしないと生臭くなる。インスタントコーヒーを入れて匂いを取るレシピもある。鍋に水350ccを入れ、インスタントコーヒー小さじ2杯のほか、酒と醤油を大さじ2・5杯ずつ、砂糖を大さじ1・5杯加えて煮立てる。あとはブリを並べて煮るだけ。青魚特有の生臭さが消えるほか、表面が黒っぽくなって中の白さが際だち、食欲をそそる。苦みはない。僕は最後に生姜を刻んで入れる。

 ぶり大根ステーキというのがすぐに出来ていい。大根は柔らかい真ん中あたりを使う。筋が出ないように深く輪切りにして1センチくらいの幅で切っておく。大根おろしもつくっておく。ぶりは小麦粉をまぶせる。これをフライパンで焼き、みりん、酒、醤油を1,1,1で作った出汁をかける。柚子を削ったものをかけて、食べる。

●プリマ

 『Dr.SLUMP アラレちゃん』の中でセンベエさんがプリマを目指して頑張るという巻がある(単行本で第6巻)。ストーリーがずっと進行していってから「ところでプリマって何だ?」と誰かがいったのに対して「ハムじゃないか?」というシーンがある。

 プリマハムは高岡が発祥の地であった。他にも「桜井ハム」(県畜産加工販売農業協同組合連合会)や天狗ハム(金沢)があり、かまぼこの伝統が続いている?

●ブリュッセル

 富山がブリュッセルに似ているといわれて驚く。

【…】ブリュッセルに似てるなって、最初の印象で思った。駅のまわりなんか立派なもんだよ。ボクの記憶のブリュッセルが正しいかどうかなんてことは問題じゃない。大きな町じゃないが重厚な石貼りの建築が多くて、道は車道も歩道も広いし、なによりわかりやすい。これもやっぱり空襲のせい。富山の人間は二言目には、
「富山は焼けたから道が広くなったけど、金沢は焼けてないから道がわかりにくい」
と言う。焼けた焼けてないというのは、新潟の人と同じだ。

     -----絲山秋子『不愉快な本の続編』(新潮社)

●鰤分け神事

 毎年1月1日に下村加茂神社で行われる新年慶賀祭での塩ブリを奉納して無病息災を願う神事。出世魚であるブリにあやかって氏子の繁栄を祈る。平安時代から続くとされる。全国でも珍しいとされる。

 社殿には還暦や喜寿を迎える氏子らが集まり、宮司が祝詞を奏上。氏子代表が幣殿で一匹ずつブリを持ち上げながら、「加茂」「小杉」「柳瀬」と3つの地区名を大きな声で読み上げる。その後、一人ずつが玉ぐしを奉納し、一年間の息災を願う。奉納されたブリは氏子によって切り分けられ、鏡餅とともに3地区の氏子宅に配られる。各家庭では無病息災や家内安全を願って味わう、という美味しい行事。 元旦に射水市加茂中部の加茂神社で行われる神事。

●プリンセス、プリンスチューリップ

 礪波市では1974年から「ミスチューリップ」として募集していたコンテストを2001年から「プリンセス、プリンスチューリップ」として男性も、既婚者も応募できるようにした。県内では「ミスター曳山」(新湊市)や「ミスター浦島」(滑川市)と男性枠を設けるケースや、氷見市の「マリンメイツ」のように「ミス」を使わないところもある。県の「特産の女王」や「雪の女王」では既婚者でも応募できる。

●ふるこはん

 高岡市伏木の二上山にある雲龍山勝興寺(しょうこうじ)。浄土真宗本願寺派の県内きっての古刹で「ふるこはん」の名で親しまれる。「ふるこはん」とは地名の「古国府」(ふるこくふ)に「はん」(さん)をつけたもので、この地名は昔、大伴家持の時代、国府だった場所だったからである。「勝興寺の七不思議」が有名。

●ふるさと回帰支援センター

 「団塊の世代よ、ふるさとへ帰ろう」という試みのための機関。農業、農村の持続的発展や世界貿易機関(WTO)の農業交渉への関心を高めようと、1999年3月に農林漁業の関係団体が中心となり、「食料・農林漁業・環境フォーラム」という会合を発足させた。その中で日本労働組合総連合会(連合)から、都市と農村の交流を進めようと提案があり、運動が具体化した。

●ふるさと煮

 タクアンや白菜の古漬けを酒かすで煮た「かす煮」。この煮物は酸っぱくなった古漬けをうまく生かした家庭料理。作り方は、タクアンの古漬けは輪切りにして、湯がき、そのまま水に入れて塩気を抜く。生の大根の千切りを敷いた鍋にタクアンを敷き、酒を少し回しかけてから、さいの目に切った「板かす」をのせて煮る。大根から水気が出てくる。みそと小口切りのトウガラシを入れ、仕上げにしょうゆを少し垂らして味を調えて完成。

●ふるさとの偉人

 総務省などが各地域の発展に貢献した人の話などを集めた「伝えたい ふるさとの百話」を作り、その中に選定された人。県内では富山のチューリップ球根生産の父と言われる水野豊造(砺波市)、日本経済発展の一翼を担った実業家兄弟の大谷米太郎、大谷竹次郎(小矢部市)が取り上げられた。

 水野は県内のチューリップ球根生産を全国トップに押し上げた草分け的な存在。県花き球根組合の設立にも中心的な役割を果たした。

 大谷兄弟は「家が貧乏で学校に行けんかった」というのが口癖で、教育関係への寄付は特に熱心だった。米太郎は県立大谷技術短大(現・県立大学)の設立を支援し、小矢部市庁舎の建設にも寄付をした。

 竹次郎は同市石動小、大谷小の建設費に寄付をした。大谷小の校名は名字から取った。1962年に兄弟そろって名誉市民になっている。

●古しい

 「古い」。例:「こんな古しい新聞、いつまで取っとくがいね」・「古しい話、やめんまいけ」(古い話はよしましょう)。

●ふるしき

 「風呂敷」の古式発音だと思っていたが、今井邦彦『なぜ日本人は日本語が話せるのか』(大修館)の中で、江戸っ子の曾祖母が「ふるしき」を使っていたというので驚いた。「昨日」は「きんのう」と言っていたというし、「ゆんべ」は「夕方」ではなく、「昨夜」のことだったという。

●古洞【ふるどう】の森

 富山市の西に古洞ダムがあって、近辺を古洞の森と呼ぶ。バーベキューなどができる。

●フレッシュ

 ポーション型のコーヒーに入れるミルクを「フレッシュ」とは言わない。「スジャータ」とも言わない。「ミルク」だけだと思う。「コーヒーミルク」という番組を見たことがあるが、これだとコーヒー牛乳」のことになってしまう。篠崎晃一+毎日新聞社『出身地がわかる!気づかない方言』(毎日新聞社)によれば、「フレッシュ」を西日本、特に近畿と中国四国の人が東京でも使うという。

●ブロック

 富山県は行政上、四つのブロックに分けられる。東から新川(にいかわ)、富山、高岡、砺波である。

●プロバイダー

 富山県のプロバイダーには北電が中心のFITWEB、トナミ運輸が中心のCORALNET、日本海ネットが中心のNSKなどがある。

 どうしてFITWEBだろうと思っていたら、「福井、石川、富山」の頭文字だった。

●文化会館

 箱物行政のおかげで、どの町にも村にも立派な文化ホールができた。池内紀は『世の中にひとこと』(NTT出版)の「いい町の条件」で書いている。

 旅好きで、国の内外をとわずよく出かける。経験をつむとカンができるもので、ひとまわりすると町のようすがほぼわかる。 少し行くと公園があって頑丈なベンチが据えてあったり、ふと寄り道をしたくなるような喫茶店があるのは、いい町である。公共の建物がヘンに居丈高で、あちこちに禁止の注意書きが立ててある町は、いごこちが悪い。【…】

 年に一度出かけるかどうかの豪華な文化会館よりも、毎日やさしく迎えられ、くつろげるところ、そんな場を身近に持つことこそ文化なのだ。

●文化勲章

 山田孝雄(よしお)=国語・国文学者。

 篠原三代平=経済学者。自分をエコノミストと言わない。エコノミストとは経済成長率などの数字に騒ぐ人。理論と実証の間を行き来するのが、真の経済学者だと自負する。象牙の塔にこもって、理論モデルをいじくる経済学者を「えせ」と定義した。高岡の商家の生まれ。三代平とは一風変わった名前で小学生のころ「三代子」と間違われたという。祖父が名付けたが、長男だから「三代目として店を継いでくれ」との願いが込められている。

●文化的景観

 地域の風土を象徴する農地や林地などの文化的景観で県内からは次の5地域が選ばれた。

 

  • 平村の茅場(かやば)と茅刈(かやか)り風景
  • 氷見市の大敷網
  • 福岡町の菅田(すげた)と菅干(すげぼ)し
  • 砺波平野の散居村
  • 黒部川扇状地
  •  報告書は農林水産業に関連する文化的景観を「きわめて地域色が豊かで身近な存在。日本人のふるさとや心の原風景にも通じる文化遺産」と位置付け、保存の重要性を強調した。固有の歴史や文化とかかわり、独特の風土的特色を持っていることから、保護の主体が地域住民になると指摘。周辺地域を含めた一体的な保護が必要とした。文化庁の重要地域にはこのほか、北海道を代表する雄大な景観をつくっている富良野盆地の農業景観や、川端康成の小説「古都」で知られる京都市北西部の北山杉の林業景観などが選ばれた。12分野180地域に絞り込んだ。北陸三県では石川で4地域、福井で1地域が選ばれている。最多は愛媛県の10地域。

    ●ふんどし一貫

     ふんどし一丁。真田信治『都道府県別気持ちが伝わる名方言141』(講談社+α新書)ではこれが通じるのは富山だけだという。「パンツ一丁」と「裸一貫」が混淆したものだろう。

    ●分廻し【ぶんまわし】

     分度器。


    英語

    数字

    序文

    IMIDAS   Back Home    please send mail.