金川 欣二:マックde記号論(言語学のお散歩)


 

笑説 越中語大辞典



●ほいちゃ〜ほうちゃ

 「包丁」。例:「そこにある、ほいちゃ持ってきて」「ほいちゃ」(とは答えない)。

●ホイール

 富山空港などにクルマのホイールが飾ってあるが、富山に鍛造ホイールの工場があるからだ。ワシマイヤーという会社が作っていて、ドイツ・ポルシェ社、英国・ベントレー社の新型車に採用される。同社ホイールが海外の自動車メーカーに標準装備されるのは初めて。イタ
リア・フェラーリ社とも交渉を進めている。

●ぼう

 「追う」。「ぼっかっける」(おいかける)とも。例:「汚いいんころ、ぼうてしもうたちゃ」(汚い犬を追いやってしまいましたよ)。

●報恩講【ほうおんこう】→ほんこはん

●法科大

 高岡法科大学。

●望郷指数

 『真昼の星空』(中公文庫)にある、エッセイスト・米原万里の造語。少女時代に過ごしたプラハのソビエト学校に通っていたころに思いついた考えだという。この学校には50か国以上もの子どもたちがそれぞれの故国を離れて学んでいた。米原の最初の発見は、故国への愛着は故国から離れている時間と距離に比例するということだった。次に大きな国より小さな国、強い国より弱い国から来た子どもの方が母国を思う情熱が激しいことに気づいたという。

 富山県民の望郷指数はどれだけだろう。高いような気もするが、存外、新天地で楽しんでいるようにも思える。

●ほうきん

 井波の特産。「ほうきんの実」はホウキ草と呼ばれ、その実は精進料理などに格別の風味を添えるものとして大変重宝がられ、瑞泉寺では毎年11月の報恩講の料理として親しまれている。上品で淡白な味、軽く心地よい歯ざわりは新鮮な季節の味覚として、あえものなどに最適。

●方言詩

 富山の方言で書かれた詩がどれだけあるか寡聞にして知らない。川崎洋『日本方言詩集』(思潮社)にも富山の方言詩は載っていないのだが、筑後の方言詩「ゴルゴタの薄闇」(近藤洋太『水縄譚』思潮社1993)の後半「アリマタヤのヨセフの証言」が魚津の県会議員の言葉で語られている(理由は近藤の奥さんの生まれ故郷だったから)【川崎の本に書かれたタイトルは“ゴルゴタ”】。入善出身の女優・左幸子の話し方を聞いているような気になってくる。

 私が先生の遺骸の引き取りについて、ピラト総督の許可をもらいにゆきました時、総督さんはいらい機嫌が悪かったがです。「ヨセフ、お前もあのイエスとかいう贋預言者の仲間か」。総督さんの、直接私のほうを見んようにしとられて横顔の凄味のある陰惨な顔つきを忘れられんがです。勇を鼓してゆきました私もつい気が弱(よわ)なってしまいましたちゃ。違(ちご)た考えがあらっしゃたいろか。機嫌が悪い顔したまま、「放っておけば蛆もわく。よしなに処分するがよかろう」て低い声でゆわれましたんです。いま思えば、総督さんも人知れず不安な気持ちがしとられたんじゃなかろかね。当時、総督さんはローマでは評判が悪(わる)て、実際、それから何年も経たんで召還されて、免職となられたがですからね。

 急いで私はゴルゴダの丘にゆきましたがです。もう日は暮れかかっとりました。磔にされたままの先生のお顔は、戦いに矢尽き倒れた、戦士の姿そのものて感じやったがです。勿論、先生にとっては覚悟の上の行動だったに違いないと思とります。しかし、議員のひとりであります私が、何もしてあげれんかったことを後悔せんわけにはいかんがです。先生を十字架から降ろし、持ってきた亜麻布で包んであげながら、自分の力のなさを責めんわけにはいきませんでした。

 私がそこから帰ろうとした時、少し離れた所に、きれいなひとりの女のっさんがおられまして、静かに目礼されたがです。そのっさんに私はひきつけられました。なーんて悲しい姿、悲しい目をした人やろか。後で聞いた話ですけど、そのっさんがマグダラのマリアという人だったそうやがです。今でも私は錯覚することがあるがです。自分は無能な一介の議員に過ぎないくせして、悲しさは、あん時のマリアさんそのもののような。

●防災力 

自然災害や原子力事故、テロに対処する「地域防災力・危機管理能力」について、47都道府県が総務省消防庁のガイドラインに基づいて自己評価した数値。富山県が53.4で10位、石川県が66.5で3位、福井県が35.8で35位。全国の平均は百点満点で43.5点、1位は東京(69.4点)、最下位は群馬(25.7点)。

●奉射式

 氷見の伊勢玉神社では奉射式というのがある。

●放射冷却現象

 地表面や大気が長波放射(赤外放射)によって熱を失い冷える現象。要するに、冬のすごく寒い日。海や湖からは湯気が昇る「けあらし」が見られる。天気がよければ呉羽山や富山市役所の展望台にのぼるといい。深い雪に包まれた立山連峰が雲間に美しい姿をのぞかせる。

●放生津【ほうじょうづ】

 新湊市にある放生津潟は「越の潟」とも呼ばれる。室町幕府第10代将軍足利義材(よしき)は越中放生津に5年間滞在し、越中公方政権を樹立した。足利義材の騎馬像、坐像等が放生津橋にある。御座所は越中御所と呼ばれ、放生津は政治・文化の中心だった。

 那古(なご)の浦は新湊市堀岡の海岸を那呉の海、放生津潟を那呉の江というが、延喜式には「亘理湊(わたりのみなと)」とある。ここは八幡宮領で、礼祭に放生会(ほうしょうえ)を行ったので放生津という名が起こった。放生会というのは亀だの小鳥だの小動物を離してやることだ。

●放送局

 老舗の北日本放送(ラジオもある)、VHSで入ったBBT(「富山テレビ」といった)、インテックが力を入れているチューリップテレビの3局しか民放がない。うちはケーブル経由で北陸朝日放送が見られる。

 2004年10月からNHKと北日本で地上デジタル放送が始まる。

●暴走族

 富山の人は富山が暴走族の発祥の地と思っている。定かではないが、72年の夏に富山市総曲輪周辺に暴走族が出て、観客(後に「期待族」という)が出て大騒ぎになった。遊ぶところがないからで、都会型の暴走族とは違う。川村久志『土曜の夜の狼たち』(富山市)は富山市の暴走族事件を一人称で描いた作品である。

●ほおずき

 小さい頃、酸漿(ほおずき)の実を空にして姉が吹いていた。風船ガム代わりに使っていた。僕も作ろうとしたが、いつも失敗して、皮が破れるのだった。

●ぼうぶら〜ぼぶら

 山陰では「ぼうふら」というようだが、「かぼちゃ」のこと。「なんかん」ともいう。れっきとした語源があって、ポルトガル語の“abobora”に由来する。例:「ぼーぶら、作ってあげっちゃ」「ええっ、ボウフラを食べるんですか」「ぼうぶらやちゅが」「蚊の目玉のスープは珍味だけど蚊の子どもは美味しいんですか?」「ぼうぶらやちゅが」。

●ほおべた

 「ほっぺた」。

●ホール

 新湊市中央文化会館が市町村での最初のホールだったといわれるが、舟橋村など村にもホールがある。ホールのおかげで予算に大きなホールが空いている。

 妻は県内の公立ホール初の中央文化会館専属アーティストの妻が一番歌いやすいというのは実は、オーバードホールで、次に入善コスモホール、3番目に小杉ラポール、市民プラザのアンサンブルホールなどとなる。県民会館も古いがそんなに悪くないという。昔の公会堂は嫌いだった。

 コスモホールはベーゼンドルファーのピアノがあって音響もいいのでピアニストが多く録音する。ラポールは小編成のオケにとって音響がいいので、オーケストラ・アンサンブル金沢はここで録音するが、座席から舞台が見にくい。

●ほがほが

 「ほかほか」。例:「ほがほがといい匂いする」。

●北銀【ほくぎん】

 「北陸銀行」の略。長岡駅の「北銀」と書かれたキャッシュディスペンサーでお金を下ろしたら手数料を取られた。よく見たら「北越銀行」だった。盛岡に本店があって東北を中心に営業している「北銀」があるが、「北日本銀行」で「きたぎん」と呼ぶ。

 富山に本社があって北陸3県を中心としている。江戸時代に富を蓄えた有力な売薬業者は明治時代に入ると金融業に進出した。1879年(明治12年)に本県初の「富山第百二十三国立銀行」が誕生し、その後、合併や民営化を経て、第二次大戦下に生まれた「北陸銀行」の前身の一つとなった。『創業百年誌』にも「北陸地方は中世以来、浄土真宗が盛んで、真宗王国といわれてきた。この信仰を通じて温和性と御恩報謝の精神がはぐくまれ、配置行商に際して大きな心の支えになった」という記述がある。

 また、小樽を中心として北海道に支店が多い(2003年現在で道内に25の店舗)のは北前船以来の交流を示したものである。江戸時代すでに、越中と蝦夷の間では北前船や売薬商人の往来が盛んだった。明治、大正期には、農業や漁業で新天地を求める県人が大勢移住した。北海道移住が盛んになったのは、デフレで農村が疲弊したことが一因とされる。『創業百年誌』には「フロンティア精神も看過できない要因であった」と記されている。明治32年に前身の十二銀行が小樽に道内一号店を開設したのが始まりで北海道経済を支えた旧北海道拓殖銀行が開業したのは翌年のことだった。 北海道には他にも多くの地方銀行が進出したが、ほとんどが撤退した。十二銀行だけが店舗網を広げ、準地場銀行とも言える地位を築いた。

 99年10月に商工ローン業界の最大手「日栄」の強引な取り立てなどが社会問題になったが、日栄の松田一男社長はかつて北銀に長い間勤めていて、富山県人ばかり出世するのが嫌になって独立したのだという。

 北陸銀行(富山市堤町通り)と北海道銀行(札幌市中央区)は2003年5月に、持ち株会社方式による経営統合に基本合意した。経営統合が実現すれば、地方銀行では横浜銀行に次いで国内第2位の規模となる。

 名前はどうなるのだろう?「北前銀行」なんていかがでしょうか?←左前みたいでむりかな。

 なお、金沢には日本銀行の支店があって富山県民のコンプレックスを逆撫でしてくれる。

●北信越

 恐らく外から来た人は「北信越」という言葉を知らないだろう。これは「北陸、信州、越後」であり、5県で大会をするときに使うブロック名である。

●北電【ほくでん】

 「北陸電力」の略。富山に本社がある。

 札幌のテレビ塔の横にある北海道電力には「ほくでん」と大きく書いてある。じゃあ、東北電力も「北電」なんだろうか?「東電」だったら東京電力とぶつかるし…。ネット上で調べてみると北陸電力は「陸電」となっている。

 北電の人に聞いたら、北海道は「北電」、東北は「東北電」、東京は「東電」、中部は「中部電」、北陸は「北陸電」、関西は「関電」、中国は「中国電」、四国は「四電(よんでん)」、九州は「九電」、沖縄は「おきでん」と呼んでんだって。

 北電が経営しているプロバイダーはFITWebというが、このFITというのは「福井、石川、富山」の頭文字。

●ほくほくFG

 北海道銀行(札幌市)と北陸銀行(富山市)の金融持ち株会社「ほくほくフィナンシャルグループ(FG)」。2004年に経営統合した。本店所在の道県が異なる地銀同士としては初めての経営統合で、横浜銀行に次ぐ全国2番目の地銀グループが誕生した。

●ほくほく線

 長岡経由であった新幹線接続を越後湯沢経由にするバイパスとして作られたJRの路線。北越などの意味もあるだろうが、「ほくほく」するような暖かい路線になるようにと名付けられた。

●北陸

 「北陸」の定義がはっきりしない。というのも昔は新潟まで含めたからである。『新明解国語辞典』にも「…四県の総称」となっている。越後、越中、越前と同じ北陸で何が悪い、という感じだったが、新潟は新幹線ができてから「関東」に納まっている。現在は「北陸」というと3県で、特に「北陸三県」ということがある。新潟はある時は東北だったり、またある時は関東、甲信越だったりとコウモリみたいだった。こうした地理観は明治以降、特に戦後強くなったのだという。それまでは、古代からの「越の国」(越前、越中、越後)のとらえ方で、北陸といえば現在の福井県から新潟県までを指していた。つまり、北陸は本来四県なのと、富山県がまとめた「越の国構想研究調査報告書」は強調している。四県は積雪寒冷の気候風土が同じだし、古くから海上交易で結びついていた。文化的にも共通のものが多い。明治以降、太平洋側の三大都市圏が発展し、交通網や国の出先などの分断で北陸は引き裂かれた。

 将来の道州制をにらんだ「越の国州」連邦構想というのがあり、全国で最小の地域ブロックの北陸を新潟を含む四県で一つととらえるようという。人口は北海道に匹敵、面積は四国より大きく、名目GDP(国内総生産)でも四国を上回る。世界的に見れば、デンマークを上回る経済力になる、と報告書は指摘している。2006年に出された第28次地方制度調査会の道州制に関する答申では三つの区割が例示された。富山、石川は福井、新潟と四県で北陸州か、東海四県とで中部州(福井は関西州)かで、一般的に言われる「北陸三県」のくくりがない。今さら新潟に入られても困る。

 なお、富山は「中部」「東海・北陸」「北信越」「北陸(四県)」「北陸三県」「北日本」「西日本」「中日本」というブロックに入る。

 この事情は新潟も同様である。 「関東」=NHKのローカルニュース、大蔵省の管轄(新幹線のせいで  関東との一体感は強い)。 「北陸」=建設省や農水省の管轄、気候は北陸そのものだし「北陸地方の長期予報」も新潟気象台が出すし、都市ガスの会社も北陸ガス(富山にはない)。「東北」=電気は東北電力でかつて軍隊も仙台の師団の下にあったことが…。 「信越」=郵政省の管轄で電話帳は長野から運ばれて来る。「甲信越」=山梨、長野、新潟の三県。「中部」=名古屋とは文化的にも違いすぎる!

 日本道路公団は2005年秋の民営化で分割して発足する3つの新会社(東日本、中日本、西日本)の地域割りで、中日本会社は(1)北陸道の新潟県との県境に近い富山県の朝日インター(IC)以西(2)長野道の長野県・豊科IC以南(3)名神の滋賀県・八日市IC以東(4)近畿道敦賀線の小浜IC以東−などを管理し、東日本、西日本会社との事業範囲の境界とすることにした。

●北陸工専

 測量・土木・建築・情報処理の北陸工業専門学校で私立。高専(高等専門学校)とよく間違えられる。小矢部市の立山学園は1974年に高田学園として設立し、北陸工専を運営してきた。88年に学校法人の名称を変更した。2009年8月に倒産した。

●ホクリクサンショウウオ【英名:Hokuriku Salamander/学名:Hynobius takedai】

 ホクリクサンショウウオは富山、石川両県に生息する日本固有種で1984年に石川県羽咋市で発見新種となった。成長すると10センチ前後になる。水田の畦地や森林の水たまりなどに生息するが、開発や耕作放棄され管理されない水田が増えたことなどの影響で生息数が減少している。富山県内ではこれまで、3市4町(射水丘陵、呉羽丘陵、小矢部丘陵など)の40カ所以上で生息が確認された。

 ねいの里では1985年、ホクリクサンショウウオの生息環境を再現した人工池を造成し、90年から産卵が確認されていて国内では最大の生息地となっている。

●北陸三都

 金沢、高岡、富山とされたこともあったが、今では福井、金沢、富山。

●北陸新幹線

 「県民の悲願」だという。乗り換えなく東京まで2時間あまりで行けるのは夢だけど、後が大変だ。小渕内閣の棚ぼたで森喜朗内閣が生まれ、彼が石川県出身ということで富山までは着工が決まっている。その先はあまりにも露骨な政治新幹線と批判されるので決めていないが、実際には富山県内よりも工事が進んでいるようだ。長野−富山は完成しても新幹線がまともに走れない。新幹線を待機させたり整備したりする車両基地が、富山以西の松任(石川)に予定されているからだ。

 地元が活気づく、という人もいるが、秋田などでは「ストロー効果」といって、みんな東京で買い物をするようになったという。新幹線がほしいのではなくて、新幹線工事がほしいだけだったりする。

●北陸道

 北陸自動車道。名神や東名が「高速道路」なのに、こちらは速度規制が多いので「自動車道」になっている。車が少ないので高速運転の練習にはぴったしだ。他に東海北陸自動車道、能越自動車道が工事中である。99年10月には上越市で上信越自動車道とつながり、東京が近くなった。

 長期市政の悪影響で高岡インターがなくて、高岡で降りようとした人が長岡まで行ってしまった、というジョークも生まれたが、能越自動車道ができて高岡インターもできた。ジャンクション近くには交叉することから名付けられたクロスランド小矢部というタワーが立っている。

●北陸の商都

 高岡を「北陸の商都」と呼ぶことがあったが、今は昔。万葉のふるさと、国宝瑞龍寺、高岡御車山祭、伝統の高岡銅器や高岡漆器…など誇るものはあるのに。

●干柿

 富山で一番おいしいと思うのだが、子供らはカビが生えていると思うのか食べてくれない。水島柿といって新湊市の片口で採れたのが一番おいしい。

●補助輪付き自転車

 篠崎晃一+毎日新聞社『出身地がわかる!気づかない方言』(毎日新聞社)によれば、西日本ではバリエーションがあって愛知県とその周辺が「わっか付き」、近畿を中心に大阪、兵庫、奈良で「コマ付き」。広島、山口になると「コロ付き」、鹿児島では「ハマ付き」という。篠崎の調査では静岡で「ワッパ付き」、山梨で「ゴロ付き」、岐阜で「ゴマ付き」というのが出たし、毎日新聞のアンケートでは三重に「ワンタ付き」、福井で「ガラガラ付き」というのが出たという。

 補助輪付きの自転車はごく短い期間なので、こんなに不安定な分布をするのだといえる。

●ポスター

 富山市を「ポスターの街・とやま」として世界に発信しようという試みがある。県立美術館では3年に1度(2年に1度はビエンナーレ)「世界ポスタートリエンナーレトヤマ(IPT)」が開かれるが、これに合わせようという企画。2003年にはパリを真似てポスターのポストが設けられた。ちなみに『失われた時を求めて』にも出てくる、パリの「モリス広告塔」は原則として文字だけの小型ポスターに限られていた(鹿島茂『パリ・世紀末パノラマ館』角川春樹事務所参照)。

●干せる

 「乾く、乾かす」。「ほしもん」というと「干し物」。例:「ちゃんと手ぬぐい干せてからもってきてや」(ちゃんとてぬぐいが乾いてから持ってきてください)・「冬なぁ、きもん干せんで嫌になっちゃ」(冬というと、服が乾かなくて嫌になるね)。

●ホタル

 「手のうへに かなしく消ゆる 螢かな」---向井去来『去来発句集』   「じゃんけんで負けて蛍に生まれたの」---池田澄子。

 小泉八雲は『骨董』の「蛍」で様々な文学に登場する螢や伝承、当時の風俗などが記されてい。また「蛍合戦」では源氏と平家の名をいただく蛍が年に一度、京都の宇治川で熾烈(しれつ)な一戦をまじえる。この晩には、籠の蛍は全部放して、戦いに加われるようにしてやらねばならないのだという。参集した大群は光る雲のように見える。ぶつかり合って雲は崩れ、水面に散り、落ちた蛍は光りつつ流れ去る。「川は、漂い流れる蛍のなおきらきらと輝くむくろにおおわれて、さながら銀河のように見える」…。

 ゲンジボタルとヘイケボタルでは東西で分布拡大の様相が違う。 ゲンジの光に「方言」があることがホタル博士の大場信義の長年の研究でわかった。オスが光を同調させて飛ぶときの明滅間隔は西日本で2秒、東日本は4秒。境はフォッサマグナの東端の辺りだ。オリンパス研究開発本部の鈴木浩文が、ミトコンドリアのDNAを使って、この現象に挑んだ。他の昆虫で得られた分子の変異速度を当てはめると、方言ができたのは「500万年前」だった。 2.5〜4秒の不規則な発光間隔のクメジマボタルはゲンジと祖先が同じだと考えられており、その分岐は「1600万年前」。つまり、ゲンジの仲間は古くから日本に住み、列島の形成を反映しながら枝分かれしていったことになる。 一方のヘイケは、習性は多少違っているのに、分子レベルの差は、九州から北海道までほとんどない。比較的新しい時代になって列島全体に拡散した可能性が強い。水田の拡大などとも関係があるかもしれない。赤池学は『昆虫力』(小学館)でこの雄による雌へのラブコールの違いを「光の方言」と称している。

●ホタルイカ

 蛍烏賊モドキ科のイカ。何で本物なのにモドキ?

 「マツイカ」と呼んでいたが、明治38年に生物学者・渡瀬庄三郎(東京帝大教授)がホタルイカと命名した比較的新しい命名。Webster Dictionaryには“fire squid”は「ぴかぴかと光沢のあるイカで西日本の海岸で採れる」まではいいのだが、「肥料にされる」a brilliantly luminescent squid(Watseonia scintillans) caught in great quantities off the western coast of Japan where it is used for fertilizerと書いてある。実際、運送手段が発達していなかった1960年代まで肥料に使われていたことが多かったようだ。「コイカ」という呼び方もあるが、「小イカ」の説と共に「肥えイカ」という説がある。「マツイカ」というのも松の肥料に使われたからである。

 富山の名産だが、採れるのは富山湾だけではない。福井県や兵庫県沖の底引き網漁や相模湾でも時々獲れる。富山県より兵庫県の方が漁獲量が多いこともある。山陰や若狭沖での漁獲量が増えてきた。あちらは産卵場でもある。日本海を回遊し、富山湾にやってくるらしい。富山の定置網と違い、底引き網で大量に水揚げしている。
年平均漁獲量6千トンのうち4千トンが安価な他県産で占められるようになってきた。他県産は底引き網で取るため、早いものは12月から市場に出回り、未成熟で身が小さい。富山湾のホタルイカは、産卵のために浜近くまで上がってくるものを定置網で取るため、鮮度が高く、抱卵していることから甘みがあり、魚体も大きい。しかし、安価な他県産の影響で、富山湾産も価格が低迷している。 オホーツク海から日本海、および熊野灘以北の水深100〜600メートルぐらいの中層にすむという。3〜5月ごろの産卵期には富山湾に大集群が集まり、いわゆる「身投げ」がある。世を儚んでではなくて、産卵のためである。波打ち際に蛍イカが押し寄せてくる。

 黄身酢で食べることが多かった。卵の黄身1個、酢大匙2〜3、砂糖大匙1、味醂大匙1、塩小匙1/2、水大匙5、片栗粉小匙2くらいである。

 2000年6月に生のホタルイカから寄生虫が発見されたとニュースになった。検出されたのは線虫の一種で直径0.1ミリ、長さ1センチ程度の大きさでホタルイカの内臓に寄生し、生きたまま人体に入ると腸閉そくや皮膚のミミズばれを起こすことがあるという。凍結や加熱、内臓除去など殺虫処理を徹底すればいい。何よりも内蔵を取ることだ!

 ホタルイカは国の特別天然記念物になっている。正確にいうと天然記念物を食べる訳にはいかないので、ホタルイカ群遊海面を天然記念物にしている(富山市の常願寺川右岸から魚津市に至る約15km、沖合い約1.3kmまでの海域)。なお、4月にはホタルイカ観光といって午前3時からホタルイカの光る様子をみる船が出ている。

 『美味しんぼ』(第37巻第5話)では「生きた宝石」を食べる贅沢を描いている。 暗い海で強烈に輝くイカを網で掬い上げ、一匹つまんで踊り食いする。小さい体の中に、イカ特有のこってりとした味と身のしゃっきりとした味を同居させているという。

 富山ではホタルイカで春、白えびで夏、新米で秋、鰤で冬を感じる。

 ちなみに、フジテレビ「トリビアの泉」ではホタルイカは本当はホタルイカモドキだったという話を紹介していた。『原色世界イカ類図鑑』にはホタルイカはホタルイカモドキ科に分類されている。1905年に東京帝国大学の渡瀬庄三郎教授(1862〜1929)が富山湾にいるホタルのように光るイカを見つけ、その和名を「ホタルイカ」と名づけた。その後、1914年にホタルイカに似たイカが石川千代松博士によって発見され、これに「ホタルイカモドキ」という和名がつけられた。しかし、実際には1905年に日本でホタルイカが発見されるより前に大西洋でホタルのように光るイカはすでに発見されていて、このイカはホタルイカというよりも「ホタルイカモドキに近い種類」だった。このため、世界では「ホタルイカモドキ」に似た種類が基準となります。ということで、日本では「ホタルイカ」の後に「ホタルイカモドキ」が見つかったのだが、世界的にはすでに「ホタルイカモドキに近い種類」が基準となっていたことになる。

●『螢川』

 宮本輝の芥川賞受賞小説の名前。富山市外を南北に流れる「いたち川」がモデルで、この川沿いには地蔵や観音様が安置されている。特に石倉の延命地蔵尊と霊水が有名。螢には死者の魂が宿っているとされる。「其子等(そのこら)に捕へられむと母が魂(たま)蛍と成りて夜を来たるらし」と歌うのは妻を亡くした歌人の窪田空穂で、ふたりの幼子と蛍を見ているのである。そのあえかな光が遺された者のこころを揺さぶる。

 銀蔵爺さんの引く荷車が、雪見橋を渡って八人町への道に消えていった。……

 から始まり、次のように書き終えている。

 螢の綾なす妖光が人間の形で立っていた。

 映画は1986年に八尾町の別荘川上流で撮影され、後から蛍の乱舞が合成された。

『螢川』と同じように『天の夜曲 流転の海・第四部』では「伸仁」という名の少年として登場する。昭和31年、主人公・松坂熊吾は、心機一転、 新たなる事業を起こすべく新天地として雪の富山へと家族を伴い、やってくる。

 大阪から富山へと向かう立山一号は、昼過ぎに定刻どおりに出発し、さして遅れのないまま米原駅に着いたが、そこから北陸本線に入ると、松坂熊吾がこれまで見たこともない豪雪のなかを止まっては進み止まっては進みしながら、石川県の大聖寺駅でついに動かなくなった。 ……

 しかしそれも徒労に終わってしまう。妻の房江も喘息にかかって思う。

たしかに窓から見える立山の峰々は美しいし、延々とひろがる田園の豊かさにも見惚れる。けれども、どうかしたひょうしに、それらは恐しい孤独感を自分につのらせてくる。この恐しいほどの寂しさは、夫の郷里でも感じたことはないし、それ以前の、幼い頃からの転々とした生活で味わったものとも異なっている……。

 北陸の風土というものが、あまりにも自分にそぐわないとしか思えない。そしてこの気候。富山の亜紀はまだ体験していないが、きっと冬の予兆を孕(はら)んで、すぐそこの豪雪のしるしが鉛色に混じっていることだろう。

 秋はたちまち終わり、またあのすさまじい雪の季節に変わる……。

 谷崎潤一郎の「細雪」にも主人公の姉妹が岐阜を旅して、一夜を蛍狩りに興じる場面がある。「遠く、遠く、川のつづく限り、幾筋とない線を引いて両側から入り乱れつつ点滅していた…」。その夜、寝床のなかで、まぶたの裏に尾をひく光の残像を追いつつ、姉妹のひとりがつぶやく。「蛍狩と云うものは、お花見のような絵画的なものではなくて…絵にするよりは音楽にすべきものかも知れない」と。

 なお、螢が本当に乱舞する川として井波町北市の勧行寺川が知られている。この川ではゲンジボタルが飛び交う。上流で米から大豆への転作が進み、農薬散布量が減ったため、2003年から大発生するようになった。

●螢川

 「富山県のバラ」。県バラ会が2005年の創立50周年に向けて作った。ホタルの発光に似た黄色い花をつけるため、宮本輝の許可を得て命名した。鎌倉市の大月啓仲が2003年発表したとげの極端に少ない「鎌倉」が母体になっている。花弁の先がとがり、花の中央が高く渦巻く「剣弁高芯(けんべんこうしん)」と呼ばれる花型で、色は明るい黄色。黄色いバラは従来、病気に弱く、初心者には栽培が難しかったが、この新種は病気や雨にも強く、ガーデニングに適しているという。

●牡丹(ぼたん)寺

 砺波市秋元の法泉寺。五月になると、一気に開花し、 赤やピンクの大輪の花が雨粒を花びらに受けて鮮やかさを競い合う。庭園には住職が丹精して増やした30品種約150株のボタン が育てられている。ピンクの「玉芙蓉(ふよう)」「八千代椿」、純白の「友白髪」、赤色の「太陽」、ビロードのような深い赤黒色の「初烏(がらす)」などが咲く。

●ぼち

 「餅」。氷見で「ととぼち」(とと餅)は「魚のすり身」。

●渤海【ぼっかい】

 富大の入試によく出た問題である。698年から926年まで中国東北部に渤海という国ができて、渤海使の来日は919年まで34回に及ぶ。その3分の1が能登などに到着したもので、親密な関係を保っていたのである。越中漂着の例は確認できないが、平安時代の弘仁元年(810年)には、渤海国正使を越中に移し、下級官僚に渤海語を習わせている。

 28年から811年にかけて日本から渤海に13回にわたって派遣された公式の使節を遣渤海使という。日本と渤海との交渉は727年の渤海使来日に始まり、翌年初めて遣使が行われた。渤海の来日の目的は新羅とその宗主国、唐と緊張関係にあったので、渤海は軍事同盟を求め、日本へ使節を派遣することだったのだが、日本も新羅を避けて渡唐する経路として渤海を利用するために派遣を開始した。やがて渤海と唐との関係が修復されると、日渤国交の性格も政治的なものから経済・文化的なものへ変質し、日本は絹糸、織物、漆などをもたらし、渤海からは高級毛皮(貂“テン”)、ニンジン、蜂蜜などがもたらされた。渤海の都の跡からは、日本で鋳造された貨幣「和同開珎(わどうかいちん)」が出土している。海を越え人が行き来し交易が行われた。

 能登に使節受け入れのゲストハウスが置かれた。晩秋から初冬の西北風を利用し、能登半島を目印に来日、夏の東南風で帰国した。これは九州ルートよりはるかに安全な航路だったという。

 司馬遼太郎(『街道をゆく 四 郡上・白川街道と越中街道』朝日文庫)「海津の古港」に結構迷惑な朝貢だったことが書いてある。

●ほっかつけ〜ほかりつけ

 「ポカリスェット」ではなく「放りっぱなし」。例:「子ども、ほっかつけてどこ行っとるもんやら」(子どもを放ってどこへ行っているものだろう)。

●ほっかる〜ほかす〜ほっぱる〜ほっぽつける

 ゴミなどを「放る」こと。例:「あっらぁ、仕事ほっぱらかしてどこ行ったがいね」(あの男は、仕事を放ってどこへ行ったのだろう)・「わしのこと、ほっかっといて」(私のこと、放っておいて)・「あんた、な〜ん、わしにほっぱつけてどう言う気ぃながいね」(あなたは私に何を放って、どういうつもりなんですか)。

●ぼつくさ〜ぼとくさ

 「ぶつぶつ、ぼとぼと」。例:「なーん、ぼとくさ文句いうとんがけ?」(何をぶつぶつ文句言っているのですか?)。

●北国日和定めなし

 池田弥三郎の「越中の水・富山の水」(『魚津だより』)に出てくる言葉で、富山では聞いたことがない。芭蕉が敦賀で詠んだ「名月や北国日和定なき」に由来している。「晴れたと思うとたちまちに雨になるというように受け取ってしまうのだが、その裏も言えるはずなのであって、雨だと思っていると、たちまちに雲が切れて、日がさしてくることだってあるのである」。金沢では「弁当忘れても傘忘れるな」という言葉があってよく降るのだが、富山はどうだろう。

●ほっこり〜ほっこっと〜ほこっと

 「ぴったりとした気分」。「ほっこりせん」というと「腑に落ちない、納得できない」という意味。金沢でも使う。古語で(1)ほかほかと暖かいさま。「―(と)した芋」(2)色つやがよく鮮やかなさま。また、ほっとしたさま。「―と息つきたいが/滑稽本・続膝栗毛」(名)焼芋。ふかし芋。「―買うて喰てござるも/滑稽本・膝栗毛 8」 。例:「なーん、一回おうてみたけど、ちょっこぉほっこりせんがいちゃ」(いいえ、一度はお会いしたものの、ちょっとフィーリングがぴったり来ないのですよ)。

●堀田善衛【ほった・よしえ】

 小説家。1918年、射水郡伏木町(現・高岡市)に生まれる。父・堀田勝文、母・くにの三男で末っ子。父は野口財閥の野口遵の一族で、慶応義塾大学を卒業した後、堀田家に婿に入った(野口遵とは日本ではじめてカザーレ式アンモニア合成工場をつくった人物で、「日本窒素肥料」と朝鮮半島に進出した関連企業などにより、電気化学工業を中心とした野口財閥【日窒コンツェルンとも】を形作った人物)。生家は江戸時代から続く廻船問屋を営む旧家だった。慶応義塾大学予科を経て42年仏文科卒業。雑誌『批評』に参加、詩と評論を発表。国際文化振興会から派遣されて上海に渡る。南京で草野心平を知り、『歴程』の同人となる。第二次世界大戦敗戦後、中国国民党宣伝部に徴用され、46年『祖国喪失』『歯車』などを書き始める。47年(昭和22)帰国、雑誌『個性』『歴程』などに詩を発表する。51年に発表した『廣場の孤獨』『漢奸』で、52年に芥川賞を受賞し、「いちばん遅くやってきた戦後派」などと称された。52年長編『祖国喪失』を完成し、以後、『歴史』(52)、『時間』(53)、『鬼無鬼島』(56)と毎年のように長編問題作を発表する。このころから海外との交流にも力を入れ、アジア・アフリカ作家会議などに出席して『インドで考えたこと』(岩波新書)を書く。『審判』(1960〜63)、『海鳴りの底から』(60〜61)、『若き日の詩人たちの肖像』(66〜68)、『橋上幻像』(70)と長編の創作を続け、71年『方丈記私記』(70)で毎日出版文化賞を受賞。その後の作品に評伝『ゴヤ』(73〜76)、『定家明月記私抄』(81〜88)、モンテーニュの生涯を描いた『ミシェル城館の人・全3部』(94)で第8回和辻哲郎文化賞など。98年逝去。映画『モスラ』(1961)の原作である「発光妖精とモスラ」を中村真一郎、福永武彦と合作した。

 スタジオ・ジブリの宮崎駿がもっとも尊敬し、影響を受けた作家で、堀田善衛と司馬遼太郎との鼎談である『時代の風音』(朝日文芸文庫)というのがあり、堀田善衛の影響を受けたと言っている。92年にNHK教育で放映された「人間大学 時代と人間」をテクストにした堀田善衛『時代と人間』(徳間書店・スタジオジブリ事業本部)やDVD『ジブリ学術ライブラリー堀田善衞 時代と人間 』も発売されている。

 堀田さんは海原に屹立している巖のような方だった。潮に流されて自分の位置が判らなくなった時、ぼくは何度も堀田さんにたすけられた。-----宮崎駿

●ポートラム

 富山港線の路面電車化で導入された超低床式新車両の愛称。ポート(港)とトラム(電車)の造語。万葉線は「アイトラム」だった。全国でも珍しいことだったが、「富山ライトレール」は新設する4つの停留所の命名権を1500万円で売った。「インテック本社前」と「粟島(大阪屋ショップ前)」で「インテック本社前」は、情報通信業「インテック」(牛島新町)の本社周囲に住民が住んでおらず、場所がわかりやすいことから地名をはずした。一方、食品スーパー「大阪屋ショップ」の店舗は粟島以外にもあり、混乱することから地名を入れた。応募のなかった2電停については、永楽町が近くの交差点やバス停で使われている「奥田中学校前」、犬島新町は地名「犬島新町」をそのまま使用。仮称となっていた「富山駅北」もそのまま使用。

●ホッパ

 HOTSPARのこと。SPAR系のコンビニである。

●ぼっぼ

 「おんぶ」。

●北方領土

 北方領土から県内への引き揚げ者は、全国で北海道に次いで多い約1400人。大勢の県出身者が明治時代初期以降、北方領土近くの北海道根室市に移住したためだ。入善や生地から、色丹島や歯舞諸島へ移住した人が多かった。終戦後にソ連軍がやって来たが、漁船を持っていれば、人を乗れるだけ乗せて対岸の根室に逃げた。途中で遭難した船も多かった。抑留され、水産工場で働かされた人もいる。

 富山県人が多かったのは納沙布岬から7キロの水晶島である。大正期に越中衆が開拓した島で、人口は約千人の半数以上が県人で、富山弁が「公用語」だった。家族総出のコンブ漁は重労働だったものの、食べものに不自由はなかったという。

●ホテル

 名鉄ホテルが初めて都市型のホテルとして進出してきた。その後、ワシントンホテル(99年に「マンテンホテル」に)、第一ホテル(2001年に「富山地鉄ホテル」に)などができ、第一インもできた。東急インがあったが、別のところにエクセル東急を作った。ビジネスホテルのα1(アルファワン)は富山が発祥の地である。これで満杯のはずなのに富山市が力を入れて公会堂跡に全日空ホテルを作った(99年)。さらに冠婚葬祭のオークスがカナルパークホテルを作った。進開ホテルもあって、2000年国体の後はどうなることやら。

 高岡にはすったもんだの上にホテル・ニューオータニができたが高岡駅再開発で揺らいでいる。新湊には意地で作った第一イン新湊がある。福井へ行ったら、ホテルが一つしかないといわれたから、富山が多いことが分かる。

 いずれにしろ、面白い命名をしているホテルはない(面白さで客は入らないが)。

●ホトトギス

 柳田国男の『日本の昔話』の「時鳥(ほととぎす)の兄弟」に「越中」の話として載っているが、富山のホトトギスは「おとと恋し/掘って煮て食わそ/弟こいし/薯(はし)ほって食わそ」と鳴くようだ。親切な弟とその弟を憎んだ兄を描いたもの悲しい物語だ。

 弟は毎年五月になると、山からたくさんの山のイモを掘ってきて一番おいしいところを兄さんに食べさせた。疑い深い兄さんは、弟はもっとうまいところを食べているに違いないと思い、挙げ句の果てに弟を殺してしまう。ところが、弟の腹から出てきたのは、アワタいう筋ばかり。兄さんは、イモを掘るころになると「おとと恋し」と鳴きながら飛び回る…。

●ほねかいておく

 「放っておく」。例:「かんね、ずっとほねかいといて」。

●ほや〜ほーや

 「そう」。例:「ほや言うてもあかんもんなあかん」(そう言ったってダメなものはダメ)。

●堀岡【ほりおか】

  僕の生まれた町。北日本新聞社編『先用後利』(北日本新聞社)には昔の堀岡のことが出てくる。

 富山湾の海岸沿いにある堀岡地区では、明治時代から半農半漁で生計を立てていたが、明治末期から昭和初期にかけて沿岸漁業が衰退【うちの先祖も網元を辞めた】、いきおい農業にウエートが置かれるようになった。農閑期を利用して売薬行商に出かけるようになったのもこのころである。堀岡売薬が盛んになったのは、戦前の売薬統制が解かれて、自由競争時代に入った戦後で、全国津々浦々で新掛けを行った。

 だが、家に帰れば堀岡の田んぼは県内でも有数の強湿田。田植えや取り入れは田舟(田の中を押して物を運ぶ【“たづる”といった】)が主力で、農作業は困難をきわめ、収穫量も少なかった。

 このために堀岡地区青壮年連盟が作られ、農業改革を行ったという話になる。

●ポリテク

 北陸ポリテクカレッジ。北陸職業能力開発大学校の別名。

 同校は2000年に富山職業能力開発短期大学校に応用課程(二年)を加え、名称を改めた。組織上も石川(穴水町)、新潟(新発田市)の各職業能力開発短期大学校を傘下にした。3校の専門課程を経て応用課程に進める。

 職業能力開発大学校は労働省所轄の大学校で、雇用・能力開発機構が設置、運営。技術革新、産業構造の変化に対応するため、全国の職業能力開発短期大学校の再編を進めている。2001年度までに職業能力開発総合大学校と北海道、東北、北陸、近畿、四国、九州、沖縄(以上開校済み)、関東、東海、四国の10職業能力開発大学校がそろう。

●ボルファート

 駅北にある全労済のホテル。“Wohlfahrt”(ヴォルファールト)はドイツ語で「福祉、福祉事業、福祉事務所」である。ドイツ語を名前にしているのは稀でお堅いイメージを出そうとしたものと考えられる。

●ぼん

 「男の子」。他人は「ぼんとこ」。例:「うちのぼんなぁ、県庁入ったちゃ」。

●ほんご

 「反古」(ほご)からゴミのこと。廃品回収業者は「ほんごかい」と言った。ごみ箱は「ほんかご」と言った。

●ほんこはん〜ほんこさん

 「報恩講」(仏教諸宗派で一宗の祖師の恩に報ずるため、その忌日に営む法会)。オコウサマ(御講様)と呼ばれることもある。浄土真宗の西本願寺派では1月9日から16日まで、東本願寺派では11月21日から28日まで、宗祖親鸞をまつって法事を行う。御講(おこう)、御正忌(ごしようき)、お七夜とも。例えば、うちでは年末になるとお坊さんを呼んで報恩講を務める。一年に感謝するのである。報恩講料理を出す家もある。金川家でも1980年代まで出していた。昔はお坊さんだけでなく、近所の子どもも呼んでいたという。

 『美味しんぼ』では五箇山の報恩講料理が取り上げられている。五箇山は真宗が盛んな土地で「後生の一大事」を生涯心にかけた、蓮如の直弟子「妙好人道宗弥七」の聴聞の姿による感化が大きいとされる。「山棲みの民」は毎年秋になると、開祖親鷺の遺徳に報いるため、親類縁者を招待し、この日のために丹精した作物や山菜を手間ひまかけて料理してもてなす。ダシにも肉魚などは一切使わない。

五箇山の報恩講料理の内容(例)

◆つぼ
ささげ豆の煮豆 ◆こじり
ゆびす人参こんにゃくの煮物

◆じんだ
大豆(青豆)を柔らかく煮たのを石臼ですりつぶしたものを、ゴボウやワラビ、シイタケ、ニンジンを混ぜ合わせ塩味をつける

◆おへら
里芋、ごぼう、五箇山とうふ椎茸、こんにゃく、すす竹、人参の煮物

◆中盛
干ゼンマイの辛子和えサツマイモのナンバころがし

◆アズキおつけ
あずき、とうふ、里芋、
干ズイキ 味噌仕立のおみおつけ

◆白飯 香の物

◆お茶菓子(チャノコ)
栃もち


●砺波では里いもやほうきんの実などが使われるし、いとこ煮が作られる

 五箇山では「隣のじんだは酸(す)うてもうまい」と言って重箱に詰めて持ち帰り、家の味と食べ比べたという。

 西欧では冬至の頃に死者の動きが活発になるという。その死者の魂を迎える冬至の祭りでは子供たちが無礼講で騒いだ。大人になる前の子供は死者の代理で、子供への贈り物は死者への贈り物でもあった。キリスト教がそんな土着宗教や民俗的風習を吸収していく過程で生まれたのがクリスマスだそうだ(レヴィ=ストロース/中沢新一『サンタクロースの秘密』せりか書房)。

 クリスマスが冬至の行事とキリストの聖誕祭が結び付いたように、報恩講も冬至の行事と考えることができよう。昔の人は、だんだん太陽が衰えていく、と感じたらしい。最も衰える日が冬至である。「冬至から畳の目ほど日が延びる」とか「一陽来復」というが、翌日からまた日が長くなるのは経験上わかっても、ひょっとしてこのまま太陽が衰弱してしまいはしないかと恐れた。

 日本では、衰弱した太陽にではなく、各人の体に活力を与えようという風習が定着してきた。「冬至には、三吉の家でも南瓜(かぼちや)と蕗味噌(ふきみそ)を祝ふことにした」。故郷の長野県を舞台にした島崎藤村の小説「家」にもこんな一節が出てくる。

 この日に食べるものは地方によっていろいろだが、カボチャや小豆粥(あずきがゆ)を食べる風習は各地に残る。最も広く行き渡っているのは、柚湯(ゆずゆ)だろう。由来ははっきりしないが、江戸時代にはもう広がっていたようだ。栄養を補給し、体を暖めて寒さを乗り切ろうとの願いが込められる。

 世界各地に、同じような「衰弱からの再生」を祈り、祝う行事がある。 インドでは冬至にブランコの儀式が催されたそうだ。祭官がブランコに乗ってまず地面に触れ、太陽に向かって高く舞う。衰弱の極にある太陽が、大地の女神と交わって活力を与えられる、という考えからだ(『日本民俗文化大系 演者と観客』小学館)。

●ほんながけ?

 「そうなんですか」。もちろん、「そんながけ」とも言う。

●ほんなげる

 「放り投げる」。例:「ランドセル、ほんなげて富子なぁ、どこ行ったがいね」(ランドセルを放り投げて富子はどこへ行ったのだろう)。

●ぼんぼ〜ぼっぼ

 「おんぶ」。

●ぼんぼこ舞

 毎年行われる訳ではなく、前年が不漁だと行われる新湊の行事で狭義には海上神事のみを指す。『新湊の年中行事』によれば次の通りである。

 4月20日は、新湊にある西宮神社で、漁師の人々が崇敬している恵比寿の春祭りが行われる。これは、えびす舞いの囃子の太鼓が「ぼんぼこ」と響くことからつけられた俗称だ。「ぼんぼこ」の祭りは社殿神事に加えて、海上神事・氏子神事の三部から構成されている。

 社殿神事は神前で行われる祭事で、「ぼんぼこ」の舞いが奉納され、参の漁師にご幣が配られる。このご幣は漁師がおのおのの漁場に捧げて「真魚をあらしめよ」と祈願する時に使用する。

 海上神事を大道式(方言で、海上のことを大道という)とか、舟幸祭(しゅこうさい)ともいう。これは、西宮の社殿で出発式(おたちしき)を行い、ご神体を御舟代(みふねだい)にうつし、これを神輿船に乗せて海上を渡御する行事。赤・白・青の吹流しを立てた船に神主や舞人、囃し方などを乗せた船を先頭に神輿船や神饌船が続き、十数隻のくふい供奉船が大漁旗をはためかせながらにぎやかにお供をする。それから東は「甲部」の漁場、西は「鈴島」、中央は「部屋の下」あたりで祈祷木を沈め、ついで塩で浄め、お神酒を献じ、五穀の神饌を神に捧げ、えびす舞いを奉納して、海上安穏と大漁祈願をする。

 氏子神事は氏子宅のえびす舞いが中心。はじめに、社旗を持つ一行が氏子の家の前に立つ。続いて、舞人はえびす神代(かみしろ)の烏帽子をいただき、るしべ面をかむり腰あての鬼面をつけ、太刀をはき弓矢を手にして構える。そこで、ほら貝・笛・太鼓の囃し方の曲に合わせて紋付袴の脇役が青竹のササラで地面をたたいて悪魔を払い、ついで、家の腰板や格子戸を叩き、「入ったぞ!入ったぞ!」というかけ声とともに、えびすを家の中に追い入れる動作をする。この間には、玄関先でボンボコの舞いが勇壮に舞われ、最高潮になると土足のままで家の中に入り込んで舞い続けられる。この様子は一見して乱暴にみえるが、舞い人は神とみられるので、家の中に入らないと、立腹されることもあり、たびたび喧嘩となったという。

●ほんま

 関西はどこもそうだが、「本当」。例:「ほんまけ?」(本当か?)・「ほんまながけ?」(本当なのですか?)「ほんまにほんまながけ?」(本当に本当なんですか?)・「ほんまやちゃ、ほんまでなかったらどうすんがけ?」(本当ですよ。本当でなかったらどうするんですか?)。

●本屋さん

 富山は「総曲輪の瀬川、中央通りの茶の木屋(中田)」と呼ばれた。高岡は文苑堂でもっていた。縄張りがはっきりしていたのだが、郊外店が多くなって仁義なき戦いが繰り広げられている。特に郊外店に反対だった総曲輪通りの清明堂の立ち後れが目立つ。

 一番大きな書店として97年、明文堂が新庄にできた。

 2000年には瀬川書店(明治28年創業)が会社清算となった。

 書籍雑誌購入額が全国でも少なかったが、最近は多いようだ。人口千人当たり書籍雑誌小売店売場面積40.1平方メートルで全国1位である。2007年には大和フェリオができて、紀伊國屋書店が入った。


英語

数字

序文

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