●ビアガーデン
関西風に「ビアガーデン」を使い、関東風に「ビアホール」とは言わない。
●干烏賊【ひいか】
「するめ」。塩漬けで生乾きの烏賊は「塩烏賊」と呼ばれる。
●ビーチボール
朝日町が発祥の地である。昭和30年代に農村の生活改善の一環として「腰まがりの予防」 のためにバレーボール競技を取り入れ、作業姿勢の改善に取り組んで、その中でビーチボールとバドミントンコートを利用することが始まった。ただ、不規則にボールが飛ぶためにアキレス腱を切る人が多いので注意。
●飛越【ひえつ】
「飛騨」と「越中」で岐阜・富山両県を指すときに使う。
●東
富山東高校。富山大学にたくさん入学するので有名。
●ピカデリー
映画館・高岡ピカデリー。1980年に万葉線米島口に出来た4つのスクリーンを持つシネコンの奔り。その後、6スクリーンのワーナーマイカルができ、8スクリーンのイオン東宝プレックスができて、2006年1月15日で閉館。
●ひがんどる
「僻む」から「よじれた、ひねくらた」。例:「どうしてそんなにひがんどるがいね」(どうしてそんなにひねくれたままでいるんですか)。
●彼岸花(ヒガンバナ)
彼岸花は「幽霊花」「死人花」などの他、「嫁の簪(かんざし)」「御神輿(おみこし)」「馬の舌曲がり」「手腐り花」「野松明(たいまつ)」など1000以上も異名を持っているとされる。「毒花」や「痺(しび)れ花」は、ヒガンバナが持つ有毒成分からか。花の形をとった「天蓋(てんがい)花」もある。田んぼの畔や墓地で見かけるのは、野ネズミなどが畔に穴を開けたり、獣が土葬の死体を荒らすのを防ごうと、球根に毒がある彼岸花が植えられたためらしい。根は毒を除けば食用でき飢饉対策の意味もあったという。
日本で最も一般的な異名「曼珠沙華(まんじゅしゃげ)」はサンスクリット語manjusakaの音訳で「天上の花」の意味だという。山口百恵の「曼珠沙華(まんじゅしゃか)」では、さびの部分で「マンジューシャカ」と強く繰り返される。
異名の一つに「はみずはなみず」もあるが、これは花の咲く時期に葉がなく、葉が生えるときには花がないためという。「葉みず花みず秋の野に/ぽつんと咲いたまんじゅしゃげ/から紅(くれない)に燃えながら/葉の見えぬこそさびしけれ」は中勘助の詩だ。秋いきなり花を咲かせ、他の草が枯れるころに葉を茂らせる。緑芽吹く春には枯れて、夏は土の中で眠っている。しかしこれがライバルのいない冬の太陽を独り占めし、栄養を球根に蓄える生存戦略なのだ。日本のヒガンバナは花は咲いても種子を結ばないから、増殖には人手がかかわっている。その毒でモグラなどを防ごうと植えたり、毒抜きをして飢饉の際の食料にしたり、そんな人の暮らしと共に彼岸花は生育地を広げてきたようだ。大田栄太郎『とやま弁にしひがし』によれば、「ハミズハナミズ」は砺波地方で使われるそうだ。「オヤシラズコシラズ(親知らず子知らず)」も同様のことという。
「天声人語」朝日新聞2011年10月2日
またの名を「ハミズハナミズ(葉見ず花見ず)」と言うそうだ。彼岸花のことである。葉が出る前にするすると茎が伸びて花が咲き、葉は花が終わってから出る。葉と花をいちどきに見られないゆえの異名だと、ものの本にある。〈前略でいきなり咲きし彼岸花〉神田衿子▼それ以外にも彼岸花は土地土地で様々に呼ばれ、異名は50を超えるそうだ。「曼珠沙華(まんじゅしゃげ)」はよく知られる。「死人花(しびとばな)」は墓地に咲くことが多いためらしい。わが郷里では、花の形からか「舌曲がり」と呼んだ。この名もどこか禁忌のニュアンス
がある▼その赤い花が、仕事で訪ねた上州の山里で、土手に畦(あぜ)に咲いていた。群れ咲く姿は遠目にも、火を焚(た)くように浮かび上がる。赤トンボも舞って里は秋の匂いがした。ススキが揺れて「おいでおいで」と人を呼ぶ【…】英語名は海の女神「リコリス」lycoris、とか「ハリケーンリリー」「スパイダ−リリー」「クラスターアマリリス」(束になったアマリリス)という呼び名もあるそうだ。
小津監督の『彼岸花』は英語の題名が“Equinox Flower”、つまり「秋分の日の花」となっている。
●引き札
江戸〜大正時代の宣伝広告用のポスター。図柄や暦に商店名があしらわれ、現在のカレンダーのように年末年始に取引先などに配っていた。美人画や風景画の美しい図柄、商品広告などさまざまなデザインがあり、芸術的にも評価されているという。岩瀬の回船問屋五大家の一つとされる宮城家には、明治〜大正時代の引き札が約200枚残されていた。刷られた商店名を見ると金物屋や八百屋、家庭薬配置業などもあり、北海道や秋田、京都の店もあることから宮城家の広い交友関係がうかがえる。
●曳山
富山は曳山祭りが多いのが特徴。高岡のように「見る祭り」と新湊や伏木、岩瀬のように「する祭り」がある。
高岡がもっとも古いが、伝統を守るために戦ってきた。高岡以外には曳き山を持ちたがる町があった。山町衆はこうした動きをとどめ、さらに放生津や今石動、城端と争い、曳き山運行の差し止めを求めている。時には実力行使をともなう騒ぎとなり、犠牲者さえ出した。文化8(1811)年に、金沢の町がよく似た山車を曳き始めた。この時に山町衆は、高岡町奉行を通じて金沢町奉行と交渉し、差し止めに成功している。御車山の持つ特別な歴史と伝統を認めさせた。金沢では早々に山車の運行をやめたという(『高岡市史』)。
●福光春まつり 4月15日/西礪波郡福光町/宇佐八幡宮
庵屋台が練り歩く。所望する家の前に止め、三味線に合わせて庵唄が唄われる。
●出町の子供歌舞伎 4月16・17日/砺波市出町/神明社
曳山の壇を舞台として小学生による子供歌舞伎が熱演される。曳山は東町、中町、西町に各1台あり、かつては3基そろって出たが今は交代で1基ずつ出る。
●石動曳山祭 4月23・24日/小矢部市石動/愛宕神社
11基の曳山が御旅屋の前に集結し、午後より巡行する(2日目に行っていた勢ぞろいを日曜日の初日に変更)。●御車山(みくるまやま)祭り 5月1日/高岡市/関野神社
北陸随一の曳山祭り。彫金をふんだんに施された御所車型の御車山は7基あり、江戸工芸の粋を伝える。国の重要有形無形民俗文化財指定。
●八尾曳山祭 5月2・3日/婦負郡八尾町/八幡宮
八ツ棟造と呼ばれる二重屋根の六基が今町の聞名寺前に勢ぞろい。法被姿の若衆が「ほうりきのみっつのようかんぼう」の掛け声に合わせて綱を引くと、重厚なきしみ音を発して動き出す。三味線、笛、太鼓の囃子が響き、典雅な風情を漂わせる。夜になると、堤灯山になる。曳山の起源は、18世紀半ばと伝えられる。
●福野曳山祭 5月3日/東砺波郡福野町/福野神明社
高岡型の曳山が出る。前日・前々日の宵祭りは夜高祭として有名。2日深夜から3日未明にかけて行われるハイライトの「引き合い」は狭い道でぶつかりあい、5メートルの高さでの戦いになるので、けが人も多い。上町・七ツ屋と横町だけが昭和40年代に巡行を復活させ、2004年2月に町有形民俗文化財に指定された。刺激を受けた浦町・辰巳町が33年ぶりに蔵から出し5月の祭礼で公開。新町も8月に70年ぶりに蔵出しし、花傘を新調して公開した。文化庁のふるさと文化再興事業の助成(約千万円)を受け、伝承者養成、曳山修繕、映像記録作成などを行う。2005年には4基が揃う。「上町・七津屋」「浦町・辰巳町」「新町」「横町」の四基の屋台には「素戔嗚尊」「弁慶と牛若丸」などの人形が飾られている。●庄川の夜高祭り 5月10日/砺波郡庄川町
各町内からでた武者絵などの夜高行灯が、威勢よく担ぎ町を練り廻る。
京都の伏見稲荷の祭を継承したもので、豪華な神輿や料亭などを模した庵屋台が出る。庵屋台は底抜け屋台で、中で歩きながら庵唄を奏でる。
●城端曳山祭(城端神明宮春季祭礼) 5月14・15日(4.5日に変更)/東砺波郡城端町/城端神明宮
御神像を安置した6基の曳山と、京都祇園の一力茶屋や江戸吉原の料亭を模して造られた6基の庵屋台が練り歩く。
●伏木のけんか山車祭り 5月15日/高岡市伏木/伏木神社
6基の山車は昼間、花で飾り囃子に合わせて曳かれる。七福神だったのが、「寿老人」が伏木の大火で消失して2004年に復元された。15日の夜は「カッチャ」と呼ばれる山車同士のぶつけ合いがある。午後7時と10時ごろから伏木支所前と本町広場で行われる。2002年から女性の曳き子を認めるようになった。
●岩瀬のけんか祭り 5月17・18日/富山市岩瀬/諏訪神社
「たてもん」が町を練り歩く。狭い道路で上り下りの山車がすれ違う時や追い越しの時、山車と山車が接触したことがきっかけでけんかとなる。「曳き合い」と呼ばれるけんかははっぴ姿の男衆が「ヤサーッ、ヤサーッ」のかけ声とともに山車を引っ張り、勢いよくぶつけ合う。
●氷見祇園祭り 7月13・14日/氷見市/日吉神社
3基の曳山が太鼓台と一緒に曳き出される。●海老江曳山まつり 9月23日/新湊市海老江/海老江加茂社
天保・安政年間に造られた3基の曳山が、昼は花山、夜は提灯山に飾られ町中を練り廻る。西町の童子の顔が瞬時に猿の顔に変身する「唐猿童子」などそれぞれに精巧な操り人形をもつ。夜は「ちょうちん山」に装いを変え、木遣りや、やんさ踊りでまつりは最高潮に達する。●新湊曳山まつり(放生津八幡宮祭礼) 10月1・2日/新湊市放生津町/八幡神社
13基が八幡宮に勢揃いし、祓いを受けた後、各町内を曳き廻される。勇壮な若者たちと見事な装飾、操り人形で有名。夜は提灯山で「昼の華、夜の雅(みやび)」がキャッチコピー。2日は築山の神事。●大門曳山まつり 10月3連休の日曜/射水郡大門町/大門神社
塗箔された高岡型の曳山4基が大門神社に揃い、町内を曳き廻される。住民の幸せや五穀豊穣を願って明治時代に始まったとされる。2002年から子どもたちも引くようになった。夜は提灯山。曳山祭は呉西が圧倒的に多くて、呉東では少ない。岩瀬や八尾が一番東側かもしれない。岩瀬と伏木が「けんか山」になる。
それぞれの花山車には祭神が祀られ、中央に花笠、その上に「だし」が取り付けられている。昼は「花山」、夜は「提灯山」にして町中を練り廻る姿は絢爛豪華である。 築山が原型とされる。曳山の中にはデクと呼ばれる前人形をつけているものも多い。
八尾曳山祭は300年余りの歴史があり、旧町の上新町、諏訪町、東町、西町、下新町、今町の6町が豪壮な曳山を保存する。囃子は浄瑠璃や端唄などを基に生まれたとされ、5月3日の本番では囃子方が曳山に乗り込み、多彩な調べを披露する。
ちなみに日本三大曳山祭りは秩父夜祭り(埼玉県秩父市)、高山祭り(岐阜県高山市)、祇園祭(京都京都市)で長浜曳山祭(滋賀県長浜市)が入ることもある。富山の三大曳山祭りは高岡、新湊は確定で伏木と岩瀬が拮抗することになる。
□ 新湊は13基もあってとても雄壮だ。と僕らは思うが、高岡の人は「うるさい」といって何度も曳山を潰しにかかったといわれる。
曳山が左右にずれるのを修正するのに、東西南北を新湊では「高周波、鋼管、田圃、浜」(町内によって異なる)などという。伏木の喧嘩山は、曳いている人と乗って指示する人が同じように前を向いているので「右」とか「左」というだけで分かるという。ただし、前山(まえやま)、後山(うしろやま)の人の拍子木がとても大切で、重要な役割だという。新湊は乗って指示する人と曳く人は向かいあっているから絶対的な位置関係で指示をしなければならないのだ。また、激しく動くので誤解を避けるために隠語を使うのだ。→富山の右と左
●「秘境」
五箇山、黒部などに冠される言葉。五箇山は現在、秘境ではなくなっているが、昔は冬に閉ざされたのでダムからダムへ船を乗り継いで行かなければならなかった。
●飛行場
「空港」。まあ、電車を「汽車」というようなものだ。商船高専の近くには昔、倉垣飛行場があった。そのため、周りに何もない地域が広がっている。
『富山県の昭和史』(北日本新聞社)によれば、昭和7年には弥陀ヶ原に飛行場を作る計画が立てられた。中部山岳国立公園の指定を2年後に控え、北アルプスの観光開発に活用し、国防上も重要と位置付けられた。冬季は雪上飛行場とするアイデアもあったが、専門家の意見で実現しなかったという。その後、婦負郡倉垣村(現富山市布目)が建設地に決定、同8年に「富山飛行場」が開場した。滑走路は約7百メートルで、現在の富山空港の3分の1ほど。翌年から富山−東京間に初の定期便が就航した。しかし戦時体制が強まり、14年からは軍事目的のみの利用となった。戦後は田畑に戻され、現在は中学校の敷地や住宅地となっている。昭和38年に現在の富山空港が開港した。
●菱の実
母が『菱の実』という俳句集を編集したことがあるがもう誰にも分からなくなっていた。新湊は水郷地帯で水辺に菱がなった。秋になると親に命ぜられて菱の実を採りに回った。味は栗と芋を合わせたような感じだった。
●美術館
県立近代美術館が最大で近代美術を見事に展示している(が理解されているかどうかは疑問)。99年には県の水墨画美術館も完成した。高岡美術館も新装になってからよくなった。ここは向かいの間島で120円のソフトクリームを買う楽しみがある。「百河豚(いっぷく)美術館」(河豚料理で儲けた人が作ったから)など私立の美術館も多いが一服してしまう。
●聖川湧(ひじりかわゆう)
作曲家。本名・岩井実。実は僕の母校の出身者。歌手でデビューした時も覚えている。62年、下宿の隣にいた歌手の新川二郎に拾われて金沢ヘルスセンター専属バンド結成。翌年上京、多田敏夫とスイングナインに加入。スカウトされ、65年、ビクターから「赤いエレキ」で歌手デビュー。70年、野路由紀子の「私が生まれて育った所」で作曲家デビュー。80年、三笠優子「夫婦舟」が122週連続ロングセラーに。90年、香西かおり「雨酒場」が80万枚を売り、大ヒット。成世昌平「はぐれコキリコ」が第44回日本レコード大賞作曲賞、有線大賞作曲賞、藤田まさと賞受賞。石川さゆり、川中みゆき、細川たかしら人気演歌歌手の曲を手掛ける。東京都在住。「雨酒場」のB面は「新湊慕情」である。「聖川湧」という名前は若い頃、渋谷のハチ公前で見知らぬお坊さんにもらったという。
●美人
富山美人がどうしていないか、という不届きものに対して「富山美人の謎」という文章を書いているのだが、「医学都市伝説」の著者が見事に僕の文章をまとめているので、紹介する。
かねてより感服しつつ読ませて頂いている「マックde記号論」というサイトがある。言語学者によるさまざまな領域に関する面白エッセイが満載されていて、実に読み応えがあって、かつ蒙が啓かれる。最近の記事の中に、「富山美人の謎−『日本海飛び飛び伝説』などぶっ飛ばせ!」というものがあって、これがまことに味わい深い。
そもそも私は「日本海飛び飛び伝説」なるものの存在を知らなかったのだが、それは結構人口に膾炙しているそうだ。引用すると「日本海側は『秋田美人』『越後美人』『加賀美人』『京美人』、ちょっと飛んで『出雲美人』『博多美人』と言うように一県ずつ飛び飛びに美人の県があるという説」なのだそうだ。つまり、この伝説を裏返すと、山形、富山、福井、兵庫、鳥取、山口には美人がいないということだ。兵庫と鳥取が並んでいるのがいささか難だが、どうせ島根と鳥取の区別が付く人はあまりいない。
サイト作者である金川先生は、富山で生まれ育ち、今は富山商船高専で教官をしておられるのだが、富山と言う土地を深く愛しておられ、この地を貶めるような伝説には敏感なようだ。いろいろな論拠をあげて、富山に美人がいないという謬説に反論しておられる。
いわく、富山美人は語感が悪い、越中美人と言い直しても、どこかゆるんでいるようでいけない、富山を代表するタレントが室井滋と柴田理恵というのもイメージを限定する、有力大学がないので旬の女性が流出してしまう、美人がいても絵になる背景がない、兼六園も三寧坂もない、黒部ダムではぶち壊しである、浄土真宗信仰のため、悪人正機説のごとく「ブス正機説」という居直りの態度が生まれた、などなど (注:一部かなり換骨奪胎あり) 。
そして、結論ともいえるのが「謙遜」説。金川先生によれば、富山には美人がいないのではなく、富山美人と言う言葉がなかっただけなのだ。実に言語学者らしい結論である。その理由の最大のものが、自らの土地に「美人」などと思いあがった言葉をつけるのを恥じる、富山県民の謙遜という美徳なのだと。そして、「謙遜は、日本人みんなが持っていた美徳なのである。みんな忘れかかっているのを富山県民だけがずっと保っているのだ」。「それにしても、富山には美人がいっぱいだ。ただ、不幸なことに、僕が出会っていないだけだ」。実に謙遜に満ちた論の閉じ方である。教え子や、同僚の女性たちに張り倒されなかったかと、心配してしまう。
●翡翠(ひすい)海岸
富山の東北部にある宮崎海岸(タラ汁でも有名)には新潟県の姫川から流れ着く翡翠が取れるので有名だ。嵐の後など翡翠を探す人があふれる。古代には匂玉(くがたま)の原料となり、日本はおろか、新羅や百済まで運ばれた形跡がある。境A遺跡にはそうした名残がみられる。
『古事記』には姫川下流の「高志の国」に賢く美しい沼河比売(ぬなかわひめ)がおり、出雲の国から大国主命(おおくにぬしのみこと)が求婚に訪れたことが記されている。日本海沿岸は天然の良港「潟湖(せきこ)」が多くあり、人々は航海技術を駆使し遠隔地まで雄飛したのだ。
森浩一編の『古代王権と玉の謎』(新人物往来社)によれば、勾玉は大体、硬玉つまり翡翠で作られており、ほぼ百%糸魚川で産出された石から加工されているという。そして翡翠を玉あるいは霊的な装飾として使う文化圏は、世界で二つしかなく、日本とアステカなど中米の先住文化だけだという。日本の産地は、東北日本と近畿天皇勢力圏の協会をつくる富山・糸魚川・常陸ラインに集中している。北海道や東北の旧石器遺跡で、翡翠の勾玉が多く出土するという。縄文人は木の若芽に見立てて「生命力の象徴」とし、「不老長寿の霊力」も秘めていると考えて珍重したという。
姫川はいろいろな宝石の原石が出てくる川である。99年には姫川から石を採取した教師が河川法違反で捕まって退職になった。宝石は怖い!
●ピースフルハウスはぐれ雲
推理小説家・乃南アサの最初のノンフィクション『ドラマチック・チルドレン』(読売新聞社1996→新潮文庫)に出てくる民間の施設。心に傷をもった子ども達の施設を描いたもの。
●ひっさける〜ひさける
「破れる」。
●ひっとつも
「ひとつも」。
●人さらえ〜さらい
「誘拐犯」。例:「遅ーまでかいどで遊んどったら人さらえ、来てしもうぞ」(遅くまで外で遊んでいると誘拐されてしまうよ)。
●ひどつけない
富山・石川で「ひどい、むごい」。例:「なんちゅう、子どもにひどつけないことすんがけ」(子どもに何というむごいことをするんですか)。
●ひとはん
「人様」。
●ひともじ
「葱」の一種で細いもの。語源は「一文字」で「葱」を「き」と言ったことから。言語学では「文字詞(もじことば)」という。ついでに「ふたもじ」というと「韮」の意味になる。
●ひどらと
「ひどく」。例:「そんなにひどらとわしのこと、言わんでもいいねけ」(そんなにひどく私のことを言わなくてもいいじゃないですか)。
●ひなはん〜ひんなはん
「御雛様」。高岡では土蔵造りのまち資料館(小馬出町)、国指定重要文化財の菅野家(木舟町)、太田家(守山町)をメーン会場に「山町筋のひなまつり」が2月に開かれる。菅野家では宮家などにも愛用された京都の老舗「丸平大木人形店」の明治中期の段飾りが飾られる。
雛祭りには金花糖が飾られる。金花糖は溶かした砂糖を野菜、果物、魚介類などの木型に流し込んで固め、色づけしたお菓子だ。女の子が食べ物に困らないようにと、娘の嫁ぎ先の孫娘に贈る風習がある。
●ひねくらしい
「年寄りじみた」。反対語は「わらびしい」。例:「なんちゅー、ひねくらしい嫁はんやろ」(何というブスの嫁さんだろう)「このきもん、ひねくらしいけ」(この着物は年寄りくさいですか)。
●「ビバ・クイズ」
北日本放送の長寿番組だった。子どもを対象にしたクイズで面白い問題や答が多かったので、深夜放送で全国的に馬鹿にされたこともある。週チャンピオンが集うグランドチャンピオン大会で勝った人はハワイ旅行だった。
僕も出たかったが、小さい頃、なかった。子どもを出したかったが終わった。
●ひぼつける〜へぼつける
「いいがかりをつける」。
●火祭り
県内では「愛宕社の火祭り」が有名。1月に魚津神社境内で行われる行事で、防火を願って火消しのまといに似せた御幣を燃やす。氏子町内会が、火伏せの神カグツチノミコトに奉納するために、街角に立てていた大御幣(おおごへい)を次々と境内に運び込み、拝殿でおはらいを受けた後、燃え盛る火にくべる。大御幣は高さ約六メートルの青竹にサカキを刺し、金、銀、白紙を長く切った飾りを付けて火消しのまといに似せて作られている。大御幣に取り付ける天狗(てんぐ)やおかめの面は、災いを除き、福を招く意味が込められている。江戸時代中期に魚津で大火が続いたことから、住民が火消しのまといをかたどった御幣を作り、鎮火の神を祭る愛宕社に奉納したのが始まりといわれる。
朝日町の海辺の集落、赤川地区では「裸若衆火祭り」が行われる。 大漁などを祈願して2日間にわたり、家々をみこしが回る地元・五社明(ごしゃみょう)神社の春の例祭のクライマックスが火祭りだ。巡行を終えた御輿を裸若衆が担ぎ上げ、通りを行きつ戻りつ駆け抜けて、境内に燃える火の間をくぐり拝殿に納める神事で「ちょうさ」と呼ばれる。 御輿は約250年前、石川県能登地方から海を渡って伝わったのが由来とされる。
●氷見【ひみ】
富山県北西部の市。海の向こうに立山が見える氷見からの景観は世界的?にも有名。県内で一番有名な町かもしれない。暖流と寒流がぶつかり、暖かくて海の幸が豊かだ。
奈良時代の蝦夷防備の狼煙(のろし)が朝日山に設けられて「火見」と書いた(家持は「比美乃江」と表記)。ところが、火事が多いので「氷見」と改名したとされる。言霊思想から来る「忌み言葉」で、江戸時代に「亀梨」(「無し」が含まれる)を「亀有」という地名にしたのも同じである。「小坂」という土地を景気よく「大坂」に変え、坂は「土に反(かえ)る」で縁起が悪いからと「大阪」にしてしまう地名の三段跳びだってある。どうせなら、「美味」で「ひみ」と呼ばせればよかったのに。
嵐山光三郎の『日本詣で』(集英社)には「立山連峰からのぼる日が見えるところから『日美』の名がついたという」と書いてある。語源は難しい。
2010年の毎日新聞「余録:歌舞伎座の千穐楽」に次のようなことが書いてあったが、縁起をかつぐ気持ちは誰も変わらない。
歌舞伎で千秋楽を「千穐楽」と書くのは、小屋の火事が多かった江戸時代、縁起をかつぎ「火」という文字を避けたからという。秋の異体字に穐があって「亀」ならめでたいという事情もあった▲たとえば日本橋の中村座と市村座は元禄から享保年間までの23年間に9度全焼した。何と2年半に1度の割合だ。江戸中期を通算しても約6年に1度の割で全焼しており、よく芝居ができたものだと思える頻度である。これでは「火」の文字を見るのもいやになろう▲明治に歌舞伎座ができてからも、戦前の建物の寿命は長くなかった。1889年にできた初代歌舞伎座は22年後に大改修され、その2代目も10年後に漏電で焼失する。震災での工事中断を経て完成した3代目も20年後には戦災で焼け、今の劇場は戦後建てた4代目だ【…】
武田泰淳の『貴族の階段』に氷見子というヒロインが出てくるが、武田は1955年頃に氷見を訪れている。
石川県の七尾市と隣接するのだが、ややこしいことに七尾という市長が誕生したことがある。よせばいいのに、七尾市長と協議をしたこともあるのだが、「氷見・七尾市長」って誰のことか分からず、混乱させた。
●氷見鰯【ひみいわし】
『大言海』に「『ひみいわし』(名)氷見鰯 魚ノ名。越中の海上ニ産ジ、同國、射水郡、氷見港ヲ最とスレバ名トス。鰯ニ似テ大キク、乾シテ遠キニ送ル。味、甚ダ美ナリ。」という記述がある。『広辞苑』にも「富山県氷見市から産出する鰯。干して食べる」と記述があるように、丸干しが有名なイワシ。最近ではマイワシの代わりに、多少は揚がるウルメイワシの形の良いものを使っているという。「丸干し」とか「めざし」とも言った。
井上雪『その手を見せて』(冬樹社)に「氷見の干イワシ」という一章があって「その販路は、国内の六大都市が大半である。ウルメイワシは上乾に、マイワシは八分乾にする。イワシの大きさは十四センチ前後も最もおいしいこと、塩あまであること、光沢があること、そしてもうひとつ、お買い時は三月から五月までが最も良いと教えてもらった」と書いてある。
●氷見牛【ひみうし】
能登牛に対抗しているブランド和牛。東には黒部名水ポークがあるので、文化圏の違いが現れている。氷見には古くから農耕・運搬などに使う日本在来種の牛が飼われていたが、昭和に入ってから兵庫県の但馬より雌牛を導入し、それに改良を加え資質の優れた黒毛和牛の氷見牛となった。
●ヒミウッド
氷見を映画産業の中心地ハリウッドと同じにしようという計画。既に氷見で撮られた映画も多い。氷見は海岸から山までの距離が近く、絶好の撮影ポイントが多い。能越自動車道など高速道路を使うと、金沢や東海へのアクセスも良く、 氷見に製作拠点を置いて日帰りで他県でロケを行うこともできる。
●氷見牛カレー
レトルトカレー。ステーキ専門店などを経営する柿里(砺波市高道)が作っている。2008年5月16日夜に放映された民放番組で大食いタレントのギャル曽根が47都道府県のご当地レトルトカレーを食べ比べて順位付けした中で、全国区の知名度を持つ松阪牛や飛騨牛、近江牛などを抜いて氷見牛カレーが1位に輝いた。ご当地カレーのはしりとなった。
●氷見うどん
氷見のうどんはおいしい。氷見の親戚からもらうのが、楽しみだった。江戸時代に能登より伝わったという。半乾燥の手延うどんなので放っておくと大変だ(乾燥したものもある)。うどんのこしを強くするため小麦粉を塩水で練った固まりを、手で引き延ばしてだんだん細く麺線にしていく。さばきやすいように、麺線を二本の細竹の間に八の字に綾掛けして、吊り下げ寒風にさらす。その後室内で4〜5時間かけて半乾きにする。
2002年7月に商標をめぐるトラブルが発生した。北日本新聞によればおよそ次の通りだ。「氷見うどん」の商標権を持つ氷見市内最大手のめん類製造「氷見うどん海津屋」が市内の老舗「高岡屋」と「氷見うどん美濃屋」に対し、両社が「氷見うどん」の文言を商品パッケージなどに表示して営業展開し損害を受けたとして、「氷見うどん」の使用禁止を求める仮処分を地裁高岡支部に申し立てた。これに対し、両社は「地名を入れた一般的な名称の『氷見うどん』を独占使用するのは疑問」と主張し、全面的に争うことになった。「立山」の商標をめぐって酒造会社が争ったのと似ている。
海津屋は1975年の創業以来、商品名を「氷見うどん」として営業、86年に商標登録を出願し、94年に認められた。高岡屋は95年、特許庁に無効を申し立てたが、2000年に却下。美濃屋は94年、「氷見うどん美濃屋」を商号登録し、高岡屋は97年、別会社の「氷見うどん高岡屋本舗」を設立。両社とも「氷見うどん」の名称を入れた社名をパッケージに書き、高岡屋は「氷見うどん発祥元祖」と表示している。
海津屋は「両社は商標登録の出願後、社名に『氷見うどん』を付け加えた。消費者がわが社の製品と誤解する」と主張。パッケージや看板で「氷見うどん」を使用しないよう求めている。これに対し、高岡屋は「海津屋よりも歴史が古く、わが社の商品が昔から氷見うどんと親しまれてきた」と反論。美濃屋は「札幌ラーメンのように、氷見うどんの名称を市内の業者が使用すれば、氷見ブランドを広く発信できる。独占は権利の乱用」という。
高岡屋は「氷見糸うどん」、美濃屋は「美乃氷見磯うどん」(比美乃江といったことからの命名で、金箔がついてくる)などを商標登録しているが、海津屋はこの名称の使用の禁止までは求めていなかった。2003年10月に海津屋が申し立てを取り下げ。決着が着かなかった。
2006年の判決によると、被告の高岡屋本舗は97年9月〜05年3月、岡山県の業者が製造しためんを「氷見糸うどん」などの名称で販売、約4億円の利益を上げた。判決は「『氷見うどん』は『サツマイモ』や『佃煮』などと違い、一般名称とまでは言えない。『氷見』は、製造地か原産地が氷見市内だと理解されるのが一般的」とした。被告のめん製造は現在、氷見市内の自社工場に移っている。
●氷見海岸
能登国定公園。晴れて立山連峰がよく見える日に氷見海岸を走るのは快適だ。夜、漁り火を見ながら走るのも気持ちがいい。
●氷見サバ
近県のスーパーで「氷見サバ」が売られ、人気が高い。富山県民にとっては意外なことである。氷見の寒鰤がブランドになっているおかげか。
●氷見線
高岡と氷見を結ぶJR線。途中、伏木を通り、その後、トンネルを通って海岸線を走るのが嬉しい。旅番組では必ず出てくる画面である。小さい頃はSLが走っていたので、大好きだった。今はディーゼルなのでつまらない。
●氷見宗忠
室町時代の能面師で、越中とも関係の深い「善知鳥」などに使われる「痩男」(やせおとこ)を得意とした。永和(1375〜1378)ころ越中氷見郡氷見村の朝日観音堂、朝日山公園の麓にある「上日寺」に住んでいた法華宗の僧侶でつねに能面を打って観音に奉納したといわれる。荒海を前にして一年を雪の中で暮らしながら肉や皮は一切念願になくただ骨というものを究めつくした宗忠は痩せたる面を得意とした後世にその類をみない名人とされる。十体が知られる。杉本苑子のデビュー作『燐の譜』や能坂利雄「氷見宗忠の面」がある。
赤鶴が雄雄しい夏の太陽とすれば
龍右衛門はおぼろ月に匂ふ春の花であろう
幽玄の本道を形づくる陽の名匠たちに対して陰の世界を拓いたのが氷見宗忠である(金剛巌『能と能面』創元社)。
名称 丈 幅 厚 特記 発行 童子 207 140 72 宝生大夫憲成(花押)の極め「日永作」 井伊家秘蔵 痩男 216 160 87 死んで呵責にさいなまれる苦しみの表情、頬はこけ眼窩は落ち 三井家・能面 姥 204 146 出目満茂の極め、老年の潔癖さと静かな心情を示す 毛利家伝来の能面 老女 206 147 77 肌にはつやがなく痩せ衰えた姿ではあるが気品を漂わせている 三井家・能面 老女小町 213 157 能登の七尾の僧 梅若六郎家 能の華 野干 221 161 98 「殺生石」 喜多家伝来の面 金剛家の面 泥眼 213 141 「葵上」の生霊に最もふさわし、く抑圧された恋の皇女「定家」の後シテ、「砧」の亡霊にもふさわしい。女の恨み、悲しみが一線を越えようとする表情 梅若六郎家 能の華 痩男 203 152 84 「藤戸」「通小町」 金剛家の面 痩男 198 144 「出目栄満」の極め 毛利家伝来の能面 痩男 210 142 「出目栄満」の極め 毛利家伝来の能面 痩女 210 140 82 「定家」「卒塔婆小町」 金剛家の面 痩女 208 140 地獄での呵責にやつれ果てた弱さ、哀れさの表情がよく表現されている 毛利家伝来の能面 痩女 201 141 78 眼窩が窪み頬の肉が落ち憔悴した面だが気品さを感じる 古能面傑作五十撰 痩女 この痩せていく骨にまとわりついてく美しさの品格は最高 鑑賞と打ち方・梅若家 痩女 205 145 69 白目の部分を他の面より奥、つまり瞼の縁を厚くして緩みを強調している 三井家・能面 ●氷見はとむぎ茶
JA氷見市が2006年3月に売り出したペットボトルのお茶。地域ブランドに申請した第1号。
●氷見ブリ〜氷見の寒鰤【ひみのかんぶり】
大分の関漁港で獲れる関鯖(大分・佐賀関産)のようにブランドになっている。新湊でも寒鰤は獲れるのだが氷見がブランドを確立したように見える。新湊はシロエビで追い上げているが…。関係者にすごいねぇと言ったら、ブランドを作るのに30年もかかった、と自慢された。
定置網でとれたブリを船内でシャーベット状の氷につけることで「沖づけ」と呼ばれる仮死状態にして鮮度を保つ。
2010年末に偽装問題が表面化した。ある業者から築地に入ったものが氷見ブリではないのではないか、ということになったのだが、「氷見ブリ」の定義というのも難しいことが明らかとなった。マスコミが連日取り上げることで「氷見ブリ」は逆に有名になってしまった。これを「漁夫の利」という。
●ひみぼうず
藤子不二雄
が出身の氷見市のために作ったキャラクター。アンボス、ブリンス、エイチョウ、イカゾウ、カニ丸、シマシマ、ハカセ、タコ八。トビーというのもある。
●「百姓ノ持チタル國」
長享2年(1488)、加賀国一向一揆が蜂起して守護富樫政親(まさちか)の高尾城を攻め落し、政親を自殺させて加賀一国を一揆持ちの国、いわゆる「百姓の持ちたる国」とした。 本願寺蓮如が吉崎を退去してから13年後のことであった。7年前の文明13年(1481)、越中国砺波郡が一揆持ちの国となっていた。 文明7年(1475)、蓮如の吉崎退去の要因になった、再度の本願寺門徒の蜂起のとき、加賀で守護勢力に敗れた門徒たちは井波瑞泉寺を頼って亡命したが、本願寺宗主第五代の綽如以来の瑞泉寺には、 蓮如の次男蓮乗がいたからだ。加賀国守護富樫政親が本願寺門徒の蜂起を鎮圧したのに呼応して、越中国守護の畠山氏の被官として砺波郡に福光城を構える石黒光義は、比叡山天台宗の惣海寺衆徒をかたらって瑞泉寺の一向一揆を攻めた。2月18日、山田川の田屋河原に石黒勢千六百、一揆方五千の軍勢が対峙し、一揆勢は福光城に火をかけ、 惣海寺を焼き払ったため、石黒勢は浮き足立って大敗して滅亡。砺波郡の守護代遊佐氏まで一揆方に取り込まれて、越中国の3分の1にあたる砺波郡は一向一揆持ちの国となったのである。
以後約100年間一向宗(浄土真宗本願寺派)門徒が支配した。
●百万石行列
金沢は「百万石祭り」があり、百万石行列も有名だ。富山では大沢野町猪谷(いのたに)の素盞嗚(すさのお)社で20年に一度行われるものがある。この神社では1903年(明治36年)まで、20年ごとに神殿を建て直す「遷宮式」が行われていたが、建て替えが難しくなったため、ご神体を御輿に乗せて地区を回る「遷座祭」に切り替えられた。高齢化していて後継者が心配される。
江戸時代、この地区を貫く飛騨往来の東猪谷関所があった。これは文禄年間(1592―96年)、越中と飛騨を結ぶ重要な街道だった大沢野町猪谷の神通川右岸に、前田利家が設置したもので、富山藩の西猪谷関所(細入村猪谷)とともに、塩ブリや米、薬などが行き交う飛越国境の要衝だったが、1869年(明治2年)に廃止された。ここの番人らが、加賀藩の大名行列をまねたのが「加賀百万石行列」の由来とされる。神事の後、道を清める「道掃」や「塩まき」を先頭に、まとい持ちや右大臣、左大臣、顔に赤色の長いひげを描いた法被姿のやっこらにふんした行列が、総代の家や関所跡などを練り歩く。
●百名城
日本百名城として高岡城が選ばれている。石川は金沢城、七尾城、福井は丸岡城、一乗谷城である。
●冷やし中華
関東で「冷やし中華、関西で「冷麺」、北海道で「冷やしラーメン」というが、富山は「冷やし中華」である。名古屋のようにマヨネーズは入れなかった。
●病院
中心は県立中央病院(「県中」という)である。改築前は汚くてゴキブリが出たが、今は出ないだろう。医薬大付属病院もよく使われる。各市町村に市立病院がある。砺波に徳州会病院が進出するといって大騒ぎになったこともある。全体に金沢に比べて少ない。医薬大を除く、多くの病院が「金大閥」だという。
交通事故で危険な時は呉東は県中、呉西は厚生連高岡病院(昔の農協病院)へ運ばれる。
●氷河
氷河は1年中解けず、自らの重みで変形したり岩盤の上を滑ったりして、長い間移動し続けているものを指す。温暖な日本に氷河は残っていないと考えられていたが、立山カルデラ砂防博物館の研究チームが雪渓内の氷塊が氷河のように移動していることを確認した。氷塊は、立山の主峰・雄山(おやま)(3003メートル)東斜面の御前沢雪渓にあり、長さ700メートル、幅は最大200メートル、厚さは同30メートル。チームは氷河でよく見られるマンホール状の深い穴を御前沢雪渓で発見。2010年8〜10月に全地球測位システム(GPS)で観測したところ、氷塊が約1か月で6〜30センチ動いていることがわかった。
●氷筍【ひょうじゅん】
氷の筍(たけのこ)で、厳冬期、につららと逆に下から「生えて」くる氷。黒部ダムと長野県大町市の扇沢を結ぶ標高1560メートルの関西電力工事用トンネル内にできるのが有名。この氷をスケートリンクに使おうという試みが長野五輪で行われたが、間に合わなかった。氷筍水(ひょうじゅんすい)は天然水。
「いきいき地ビール」(氷見市小竹)では「氷筍水」仕込みの黒ビール「黒部氷筍ビール」を発売している。氷筍水を使ったビールは全国で初めてという。この水は1リットル当たり50ミリグラムのカルシウム分を含む「中硬水」。冬季は採水ができないため、醸造期間は5−11月までの限定。
●瓢箪【ひょうたん】
立山町の特産で立山ひょうたん村協同組合(運営:立山ひょうたん)という組合ができている。
「縄文ヒョウタン」というのもあり、これは小矢部市の桜町JOMONパークで、同市の桜町遺跡の土を使って栽培されたものだ。桜町遺跡から縄文時代中期末・後期初頭(約4千年前)のヒョウタンが出土したことから、市民らでつくる「ひょうたんと縄文の会」が遺跡の土で畑を造り、2002年から「百成」や「長大」などの品種を栽培している。
●瓢箪石【ひょうたんいし】
氷見に「飯久保の瓢箪石」がある。飯久保地区の狭い範囲にしか見られない不思議な形の石で、卵形やまゆ形の石がつながっており、ひょうたんを思わせることからこの名前がついた。国指定天然記念物にもなっている。なぜこのような形になるのか、産出地域が限定されているのかは、未だに謎だ。
●屏風
立山連峰は屏風にたとえられることが多い。安西水丸の『たびたびの旅』(フレーベル館)に「フクラギを食べに行く(富山・氷見)というエッセイがあって、このイラストにも「水平線の向うに立山連峰が屏風みたいに見える」と書いてある。
●ひよこ
東京土産のお菓子として有名、というか、帰省の時期になると「ひよこ」のCMがまことしやかに富山で流れて、東京もんが買ってくる、という構図になっている。ところで、この「ひよこ」は東京ではなくて福岡の代表的な土産なのだ。でも、最近は福岡へも「ひよこ」を買って帰る人もいるという。
●ひょつんと〜ひょこんと〜ひょつなんと
「ひょっこり」。例:「ひょつんとヒョウタン島」。
●ひらた海老→シロエビ
●ピラミッド
標高559メートルの尖山(とがりやま・とんがりやま)という立山町の南端にある山がピラミッドとかUFOの基地だともいわれる。県道富山・立山公園線からは、北アルプスを背にした姿が望める。県道からは「尖山入り口」と書かれた標柱を目印に、東に折れて林道に入る。20分も歩けば登山口。
●平山郁夫
日本画壇の巨匠。1994年7月に、ヘリコプターで黒部川上流を飛んだ。ホバリングしながら十字峡の支流にある剣大滝をデッサンし、翌日は宇奈月町の欅平から黒部ルートを通って黒部ダムに抜けた。この時に描いた「幻の瀧」「黒部ダム」「仙人谷ダム」などの作品11点がセレネ美術館に常時展示されている。また、氷見の海を描いた「潮」という絵が近代美術館にある。
●ひりょうず〜ひろうす
がんもどきは関東と同じように「がんもどき」といって、関西みたいに「飛龍頭(ひりょうず)」「ひろうす」とは言わない(語源はポルトガル語のfilhosというお菓子)。
●蛭谷(びるだん)
朝日町にある地域でバタバタ茶で有名だが、炭や和紙でも有名。
●蛭谷炭
朝日町蛭谷にはかつて炭焼きを生業とする人たちがいた。現在は「やまびこの郷」という組織で炭焼きを続けている。炭にするのはカイニョ(屋敷林)の不要な雑木が多い。自分たちで近くの木を切り出すこともある。
●蛭谷和紙
蛭谷和紙は、八尾和紙、五箇山和紙とともに「越中和紙」として、国の伝統的工芸品に指定されている。蛭谷では、木地師(きじし)が伝えたといわれ、「元禄中農隙所作村々寄帳」(1688〜1704)に、蛭谷村「中折紙少々漉申候」と記されているという。農林業が盛んな蛭谷では、和紙作りは雪の降る冬でもできる副業だった。明治末から大正時代にかけて100軒余りの集落のほとんどが紙をすいていたとされる。主に障子紙として生産されていたが、生活様式の変化や洋紙の進出などで経済的に成り立たなくなり、次第に姿を消してしまった。21世紀になってから一人の若者が継いで賞ももらっていたが、2010年に休業した。年収100万だったそうだ。
1年かかる。トロロアオイは春に種をまき、自生するコウゾは秋に刈り取る。トロロアオイは腐りやすく、作業は冬に限られる。コウゾを使うには、蒸したり皮をはいだりといった準備が必要だ。コウゾは半日ほど煮たあと、木づちで丁寧に叩くことで繊維が傷みにくく、薄く丈夫な和紙になるという。
●廣川まさき
八尾町出身の作家。会社員を経て、カナダなどで牧場仕事を経験。100年ほど前、日本からアラスカに渡った実在の人物、フランク安田(恭輔)の生涯を描いた新田次郎『アラスカ物語』(新潮文庫)に惹かれてユーコン川を目指した『ウーマンアローン』で第2回開高健ノンフィクション賞を受賞。将来の夢は牧場経営だという。授賞式で「自分もだれかに夢や希望を伝えられるという自信ができた」と語った。
●ひろてきた
「拾ってきた」から「ぼろくそに」。例:「ひろてきたよにいわんで」(ぼろくそに言わないで)。
●火渡り
火渡りは、火によって穢れ、邪気を焼き払うという神仏混交の行事。
大門町の二口熊野社で9月8日に行われる神事。神事に先立ち、若者7人1組で操る3頭の百足獅子が、周辺の家々を厄払いして回る。その後、神社の鳥居の前で、約2メートルもの高さの炎を上げて燃えさかる稲わらの上を走り抜け、境内へ入る。百足獅子が火渡りを行うのは全国的にも珍しく、町無形文化財に指定されている。
串田の櫛田神社でも火渡り神事がある。地元の4集落の御旅所を巡った獅子舞、ご神体を載せた神輿、古代衣装に身を包んだ氏子らの行列が、境内に到着。参道に積み上げたスギの枯れ葉に点火され、燃えさかる火の中を獅子舞、神輿が次々に駆け抜ける。
●ピンズ
「北陸の旅ピンズ」というピンで留めるバッジが2005年にJRサービスネット金沢(金沢市)が旅の記念にと企画販売。大きさ約2センチで正方形、長方形、長円、正五角形の4種類ある。富山、金沢、福井のJR各駅の駅名標(駅名を記した看板)や、おわら風の盆、立山黒部アルペンルート、兼六園、東尋坊などの観光地、特急「雷鳥」と「サンダーバード」の列車2台をあしらった計10種類がプリントされている。
●ひんなはん
「お雛様」。これも実家が婚家に送る風習がある。例:「ひんなはん、はようしもうてしまわんにゃ、あかんちゃ」。
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