金川 欣二:マックde記号論(言語学のお散歩)


 

笑説 越中語大辞典



●ば〜わ

 「わ」と「ば」は富山方言では同じ音である。西部は特に両唇摩擦音で発音するので、「ばーらっちゃ」(お前たち)なのか「わーらっちゃ」なのか分かりにくい。西部で「ばやく」は東部で「わやく」。

●ぱーこ

 「めんこ」。例:「ぱーこして遊ぼ」(めんこで遊ぼう)。

●ばーはん〜ばーま

 「おばあちゃん」。「ばばさ」とも。反対「じーま」。

●パーマ 

 「パーマをあてる」というか「パーマをかける」というか、富山ではどちらも使いそうだ。前者が関西、後者が関東と大ざっぱに分けることができるものだが、

●バイ貝

 富山湾の名産。「ベーゴマ」は形が「バイ貝」みたいなので訛ったといわれる(ただの「貝」ベイという説もある)。江戸時代の寛永の頃、誰かがバイの貝殻を胴の真ん中よりちょっと輪切りにして、螺旋状の上半分の内側に蝋を詰めて「バイ独楽」として遊びだしたものらしい。それが訛って「ベイ独楽」になった。明治に真鍮製や鉄製のベーゴマ(「鉄バイ」)ができた。昭和になって「サクラベエ」とか「ノラクロベエ」が作られた。

 富山でベーゴマはあまり遊ばれなかった。漫画に正月の風物詩としてタコ揚げとベーゴマなどが出てきたが、富山で冬は雪が積もっていて外で遊べなかった。

 バイは昔、竹篭でとったが、今は金網でとる。深海性のオオエッチュウバイがとれるようになってから、富山の味の代表格になってきた。特にバイ刺し(バイ貝の刺身)はとてもおいしくて富山でしか食べられなかったが、今では全国どこでも食べられる。

 日本海のバイというと「エッチュウバイ」がうまいと評判だが、富山湾では生息が確認されていないという。よく似たカガバイはいるが、こちらは富山湾にしかいない。富山湾で捕れるのは、いずれも深海性のカガバイ、ツバイ、オオエッチュウバイ、チヂミエゾボラ(エゾボラモドキ)の4種類だという。

 バイ貝は1988年4月1日に40円切手になった。

●はいから

 「ハイカラさんが通る」の前から富山や金沢では「ハイカラ」を使っていた。もちろん、英語のhigh-collarから。例:「ハイカラな人やねぇ」(ちょっと変わった人やね)。

●ばいぎ

 「薪」で「灰木」から。金沢でも使う。

●廃線

路線名 運行方式 軌間 廃止区間 廃止日 コメント

三井金属鉱山鉄道 DL 610mm 東町−殿(1.6Km)
六郎−東町(1.1Km)
神岡町−茂住(16.3Km)
猪谷−茂住(7.5km)
63/8/19
66/6/30
66/6/30
67/3/30
富山と岐阜の県境にあった路線。62年1月より旅客扱い廃止に。
超狭軌に超小型車両だった。
富山地方鉄道
射水線
EC 1067mm 新港東口−越ノ潟(0.7Km)
新富山−新港東口(14.4Km)
66/4/4
80/3/31
富山新港完成前は加越能鉄道を通して高岡まで直通していたが切断によって弱体化。
富山地方鉄道
黒部線
EC 1067mm 黒部−電鉄桜井(1.1Km) 69/8/16 路線変更による廃線。
富山地方鉄道
笹津線
EC 1067mm 南富山−地鉄笹津(12.4Km) 75/3/31 三井鉱山神岡鉱業の鉱石を運ぶのが目的。
加越能鉄道
伏木線
EC 1067mm 米島口−伏木港(2.9Km) 71/8/31 国鉄氷見線とほぼ平行した道路を走っていた。
加越能鉄道 加越線 EC 1067mm 石動−庄川町(19.5Km) 72/9/15 飛騨の木材輸送を目的としていた路線。

●バイ船

 バイともいい、北前船のことを富山などでこう呼んだ。「売買」のバイから取った。つまり、「売船」。ただ、富山では「倍々」と儲かるからとか、バイ貝に似ているからといわれる。「バイ船文化研究会」というのがある。

●灰付き若布【わかめ】

 朝日町特産の「宮崎灰付き若布(わかめ)」。沖合50−100メートルの岩場で、水深5メートルより浅い所に生えている天然若布を、長ざおで刈り取る。天然若布の根や硬い茎を取り除く。自家製の稲藁を燃やしてできた灰の中に入れて一日かけ天日干しされる。乾燥を早め、アクがなくなり、風味が増すからだとされる。生に近い弾力と歯切れのよさ、特有の香気が特徴。小さい頃は灰と聞いてぞっとしていたものだが、おいしい。2004年には水揚げ時期が遅くなり、品質のいい若布が採れなかったとして販売中止になった。

●ハイヤー

 富山では流しのタクシーはなくて、ほとんどがハイヤーになる。だから、あまり「タクシー」という言葉を使わない。

●売薬さん

「赤チン、こう薬、熊の胆(い)を入れておきます」。昭和33年を活写した西岸良平原作の漫画を映画化した『ALWAYS 三丁目の夕日』(2005年)に、気の良さそうなおじさんが置き薬を補充していくシーンがある。そばで子どもが紙風船を飛ばして遊んでいるが、ちょっと前まで日本のどの家庭にもあった風景だ。

 隣のうちも、子どもの友達のうちも売薬さんだ。一旦、旅に出ると帰らないし、中には向こうに家を持っている人もいる。1960年代半ばから県外に家族ごと移住するケースも増えてきた。

 うちにも売薬さんが来たが、近所の人ではなかった。

 売薬さんには「懸場帳」(かけばちょう)と呼ばれる顧客名簿があり、数千万単位で売買されることもある。家族構成なども書いてあってちょうど今のデータベースによる顧客管理のはしりである。この帳面は顧客の住所と来てもよいという承諾のハンコが押してある。

 売薬が生まれるまで庶民は薬とは縁がなかった。民間療法に頼るしかなかった。

 古来、病気は誰にとっても不安の対象であった。しかし医学の発展の恩恵に浴したのは一部の階級に限られていた。だからひとたび病気になれば、庶民の生活は、たちどころに崩壊してしまう。こうした厳しい社会の現実のなかから、自分たちの病気や怪我は自分で治そうという意識(セルフメディケーション)が生まれて来る。さまざまな古典籍に頻出する医薬に関する記述はこうした視点から捉えるべきであろう。
     -----吉岡信『江戸の生薬屋』

 「薬九層倍」という言葉もある。フランスでも『ボヴァリー夫人』などでは夫のボヴァリー医師よりも近くの薬剤師の方がはるかにいい暮らしをしている。福沢諭吉も『時事新報』の社説で「原料が粗悪で薬効もないのに」と売薬隆盛を批判しているという。「反魂丹丸め損ねて煮え湯呑み」という売薬税を詠んだ歌がある。営業税(直接税)だけだった売薬業がもうけ過ぎているという理由で明治15年印紙税(間接税)が設けられた。

 伝説では売薬のルーツは岡山にある。室町時代に備前国和気郡で医者となった医師一族・万代家である。江戸期の11代常閑が家伝の妙薬「延寿返魂丹(はんごんたん)」の製法を富山藩に伝え、富山売薬に大きな影響を与えたというものだ。岡山は「備中売薬」でも知られた。現在の総社市を中心に、戦前は100を超える業者が全国の家庭を回り、富山などとともに5大売薬の地に数えられたという。

 「先用後利」(先に使わせて後で儲ける)が営業の基本とされる。クレジットのはしりである。ただ、昔から支払いは盆暮れという風に決まっていて、これも必ずしも富山藩だけの独自というものではないだろう。奈良県も売薬が盛んだが、そういう言葉もなかったに、今は富山に倣って使っているようだ。

 新潟市生まれの坂口安吾は『安吾新日本風土記』の中に「富山の薬と越後の毒消し」という文章を書いている。特に富山の薬は「私の生活しに浅からぬ因縁」があり、戦争前に古本屋で『富山賣薬業史資料集』を買い求めたこともあったという。「反魂丹とケロリン」、「富山薬業の生態」の2章は自分の体験に基づいて書いた面白い文章である。

 宮本輝『天の夜曲 流転の海・第四部』には主人公の友人・久保敏松が富山人というのは、地味ではあっても、進取の気概を内に秘めていて、粘り強く自分の仕事に工夫を凝らすという特質を持っているような気がする、という

「越中富山の反魂丹ちゅう独特の売薬制度はなァ、江戸時代に、越中よりも備前のほうが先に始めたっちゅう説もありましてなァ。備前の場合は、大庄屋廻しっちゅう販売制度で、つまり日本各地の庄屋の家に薬を置いて、使う分の代金を貰うて、そのときに薬の補充をしとくっちゅうやり方やったのを、富山の薬売りは、それをもっと広範囲に、それぞれの家に置くっちゅうやり方を考えて、備前を凌いでしもたんです」

 これを受けて主人公の松坂熊吾がいう。

「わしの子供のころにも、家に越中富山の反魂丹と書かれた袋が置いてあった。愛媛県の南の涯じゃぞ。全国津々浦々、薬を背負うて、草履を履いて、一軒一軒、薬を置き、代金を計算し……。生半可な忍耐力やあらせんぞ。その代わり、日本全国でいま何が起こっちょるのかは、花のお江戸よりも先に、この越中に届いとったことやろ。各藩のお家事情も、どこそこの商家の女房の間男も、越中富山の薬売りは、みんな知っちょったということになる」

 同じ話を天野祐吉は『天野祐吉のことばの原っぱ』(まどか書房)の「万金の知恵」で次のように書いている。

…とにかくひそひそと、熱心に、薄暗い小部屋で母と薬売りが話しこんでいたのを覚えている。

 大人になってわかったのだが、あれは別に密談をしていたわけじゃない、世間話をしていたのである。…話題の芝居や事件の錦絵を薬売りが持ってきたのも、あれは話題をふくらますための材料だったんだろう。

…富山の薬売りは、薬を売っていたのではなく、世間の話題を、ことばを売っていたのである。ことばで相手の心を開かせ、気分をなごませ、信頼の通路をつくっていたのだ。

…「マーケティングとは顧客の創造である」と言った人がいる。P・F・ドラッカーという、その道では著名な、そして実力もなかなかの学者である。…

 が、わざわざ「マーケティング」なんてカタカナのお世話にならなくても、富山の薬売りは三百年も昔から、「顧客の創造」を実践してきた。あの人たちは、薬を売る前に、話を売った。話を売ることで、相手とのいきいきした人間関係をつくり出した。もともとことばというのは、人と人との関係を新しくつくり出したり、その関係をいきいきさせるためにあるものだが、まさに富山の薬売りは、自分と相手との間に人間としての信頼関係を、友好関係を、井戸端関係をつくり出すことを、すべてに優先したのである。

 そういう人間関係の通路が開かれれば、商品もまたその通路を通って動きやすい状態になる。が、それでもまだ、富山の薬売りは、商品を売ろうとしない。「使っても使わなくてもいいから」と、商品を置いていくのである。ここまで人間関係ができたからには、あなたを一〇〇パーセント信用していますからという「ことばにならないことば」を、薬と一緒に薬箱につめて、薬売りはスタスタと去っていくのだ。ぼくのようなワルガキが、「越中富山の反魂丹、ハナクソ丸めて万金丹」なんて背中からはやし立てても「信頼関係」を売って歩くこの人は決して怒ることなく、ぼくらにまで商品名入りの四角い紙風船をくれたりしたものである。

 地方にレンゲで土壌を改良する方法を教えたり、種を配ったりというサービスもしていた。「安政の大地震のことを瀬戸内の人たちは富山の薬売りから聞いた」(清水義範『どうころんでも社会科』講談社)という。

 江戸時代に藩も関所もあって、自然の障壁も多かったろうによく回れたものだと感心する。方言もどうしていたのだろう。

 小さい頃もらった紙風船が印象的だった(おまけ商法の走りでもある)。北原照久は『「おまけ」の博物誌』(PHP新書)で「おまけ」のルーツを求め、「富山が生んだ日本初の販促ツール」という一章を設けている。この中で、売薬のおまけをまとめている。この中で懐かしいのは「喰合せ表」で、例えばスイカとウナギを同時に食べるとお腹を壊すというものだった。小さい頃、うっかりそんな喰合せをしてしまった時は、病気になるんじゃないかと震えたものだった。

大人向け・家庭向け 盃、銚子、湯呑、急須(九谷焼など)、輪島塗の器、箸(若狭塗)、箸袋、コースター、しゃもじ、缶切、栓抜、糸、糸巻、縫針(氷見産)、風呂敷、手拭い、状差し、暦、喰合せ表、扇子
子ども向け 紙風船、紙飛行機、折紙、トンガリ帽子(紙製)、雑記帳、豆本
その他 種籾(もみ)や牛耕などの農業技術

 次のようなことを書いてある札もあったという。

高いつもりで低いのが教養
低いつもりで高いのが気位
深いつもりで浅いのが知識
浅いつもりで深いのが欲の皮
厚いつもりで薄いのが人情
薄いつもりで厚いのが面の皮
強いつもりで弱い根性
弱いつもりで強い自我
多いつもりで少ない分別
少ないつもりで多い無駄

 小さい頃、最も不思議だったのは回収していった使わなかった薬を本当に捨てているのだろうか?ということだった。玉川しんめい『反魂丹の文化史』(晶文社)に詳しい。

 なお、売薬がいるのは富山だけではない。富山、大和、近江(滋賀)、田代(たじろ=佐賀県鳥栖市と基山町にまたがる地域)が「四大売薬」に数えられる。奈良売薬は大和売薬といって一番歴史が古い。ドラマ『水戸黄門』に出てくる風車の弥七という忍びの者は薬売りである。これは甲賀忍者と近江の薬との関係を匂わせる。

 1954年の紅白で初出場の宮城まり子が「毒消しゃいらんかね」を歌ったが、これは巻町の特産「毒消丸」という、越後の薬の歌であった。

 富山の売薬は船に乗って鹿児島まで行ったり、北海道から樺太の端まで行っているところが他と違う。

 『真宗の宗教社会史』(吉川弘文館)などを書いた有元正雄(宗教社会史)は「全国的に真宗地帯には売薬行商が多い」と指摘。その理由として次の事柄をあげる。

〈1〉勤勉、正直、節倹、忍耐など真宗門徒の高い徳性が職業倫理を生んだ。
〈2〉真宗地帯では堕胎、間引きの風習がなく、人口増加が労働力を生んだ。
〈3〉加持祈祷を排し、医薬で治療を図るという合理的精神を育てた。

 つまり、有元の説だと富山の売薬が立山信仰から起こったとするのは無理があることになる。また、同じく「真宗王国」である福井や石川では売薬が生まれなかった。

 明治に入ると、資本を蓄えた売薬業者たちは、近代産業の旗手として活躍した。全国で相次ぎ設立された銀行の役員はほとんどが士族出身だったのに対して、富山では資本提供者が売薬商人だった。県内最初の銀行として明治11年に設立された富山第百二十三国立銀行(後の北陸銀行)。その副頭取に就いた密田林蔵、取締役の中田清兵衛はいずれも売薬商人だった。明治30年設立された富山電燈会社(後の北陸電力)は北陸初の電気事業会社になったが、社長に初代金岡又左衛門が就任するなど、多くの売薬商人が関わった。

 浄土真宗は、彼岸(つまりあの世)のことだけではなく、現世を重視し、この世で幸福を実現するため勤勉に働くことを求めた。このため、浄土真宗のことを「日本のプロテスタンティズム」と呼ぶ人もいる。

 余談だが、井上ひさし『紙屋町さくらホテル』では宿がなくて困っていた長谷川(海軍大将で海軍大臣候補)が富山の薬売りのふりをして、尾行している針生とがにわか劇団員になってさくらホテルに泊まることになる。薬売りだと怪しまれなかったのだ。

 四千日を旅に暮らした民俗学者の宮本常一はしばしば富山の薬売りと間違えられたという。汚れたリュックサックの負い革にコウモリ傘をつり下げ、ズック靴で歩くというのが、宮本流の旅のスタイルだった。ほとんど肩書きらしい肩書きをを持たずに、そんなむさくるしい恰好で見知らぬ土地を訪ね歩いた。

 NHKのニュースでは「家庭薬配置業」というようだが、普通には「売薬さん」であって、「売薬」はダメだといわれている。

 なお、三大配置薬は「六神丸」「赤玉はら薬」「熊胆(ゆうたん=「くまのい」と昔はゆうたんぜ)」である。大正時代には解熱鎮痛剤「ケロリン」が誕生。戦後は明快な命名と斬新な包装で発売された鎮痛剤「ズバリ(頭歯利)」なども登場した。パッケージのデザインは富山市立図書館でオンラインで公開している。

 なお、似たような商売に「オフィス・グリコ」というものができた。お菓子を各会社においてもらって代金は後払い、という方式だ。まず大阪で2000年2月に始まり、2002年2月には東京でもスタートした。商品を補充する際に、代金が足りなかったことはほとんどないという。

 井上雪『その手を見せて』(冬樹社)に「富山の薬売り」という一章がある。

 みうらじゅん『郷土LOVE』(スコラマガジン)は富山駅前にある薬売りの銅像に魅了されたという。

…これまでいろんな銅像を見てきましたが、「いちばん重い物を持っている」という印象を受けました。米だわら一俵を担いでいる銅像も見ましたし、いろんな大きなものを銅像は持っています。けれども、薬売りの銅像はそうとう重そうでした。やっぱりいろいろあるんでしょう。行商に言っても、思いのほか売れなかった状態の銅像だと、僕は思います。待ち合わせの広場で、こうべを垂れて立っていらっしゃいました。「明日があるよ」「明日、バカ売れだよ」、そう言ってあげたくなるようないい銅像でした。

 音曲師・柳家紫文(しもん)に「長谷川平蔵シリーズ」というのがある。

 火付け盗賊改め方の長谷川平蔵が、両国橋のたもとを歩いておりますと、1人の富山の薬売りが足早に平蔵の脇を通り抜ける。向かいからは水商売らしき1人の女。2人が橋の上ですれ違う。「もし、眠り薬はなくて?」「越中富山の薬売りは置き(起き)薬よ。

 こんなネタが商売違いで無数にあり、ネタの間を三味線でつなぐ。渋いしゃべりの合間にもばちが入る。艶っぽい本格派の音曲の後、脱力系のだじゃれで落とす。

 星新一には「健康の販売員」というショート・ショートがある。売薬さんと似たシステムなのだが、ほとんどお医者さんが家庭訪問しているような商売だ。カタログを見た妻が「テレパシー剤」を購入する。感覚と判断力を敏感にする薬で、カンが良くなるという。夫が浮気していないか見破ってやろうと思ったのである。販売員は代金を受け取るとすぐに主人の会社に電話をかけた。「テレパシー防止薬」を売るためだ…。

●はいる

 「今日、ドラえもん、はいる」とか「うちは北陸朝日もはいるぜ」というが「はいる」が方言だという人もいる。あれを「はいる」といわないでどういうのだろう。『大辞林』の「はいる」には次の項目がある。

(9)情報・技術・文化などが伝わる。「現地から第一報が―・る」「水墨画は室町時代に中国から―・った」
(10)あるものに他のものが割り込んだり加わったりする。「番組の途中にコマーシャルが―・る」

●はえぼぼ〜はいぼぼ

 「蝿」。

●はかいく

 信心深い富山県民が「お墓参りをすること」ではなくて、「はかどる」ことで「行く」との混淆と考えられる。例:「あんたぁ〜、仕事ぉ、はかいっとるけ」「なああん、あかんがになってしもてぇ、おしゃかになったちゃ」。

●はがやしい〜はんぎゃっしい

 富山・石川の方言で「歯痒ゆい」から「悔しい」で「はがやしくらしい」ということもある。「なんちゅう、はがやっしゃ」という。「はんぎゃっしゃ」は「歯がやしい」で「悔しい」「もどかしい」「じれったい」。子どもが言うことを聞かないと「はがやしい子やねぇ」などという。例:「なんちゅー、はんぎゃっしい奴やろか」・「何ちゅーはんぎゃっしーがね」(何と歯がゆいことであろうか)「はがやしないけ?」(悔しくはないですか)。新解さんこと山田忠雄の弟、山田俊雄も『ことば散策』(岩波新書)の「追憶の中のことば」で「はがやしい」を取り上げている。

母が、私に向って「ああ、はがやしや!」と歎(なげ)いた以外にも、妹の誰彼に向って、物忘れや朝寝坊をなじる時に用いていたことも覚えている。

●はがらかす

 「剥ぐ」。例:「壁紙、はがらかいといて」(壁紙を剥いでおいて)。

●パキスタン通り〜街道

 国道8号線の富山市寒江地区、小杉町北部、下村など国道8号線から北の地域にたくさんのロシア向け中古車販売店がある。ロシア人が買い付けた中古車は、伏木富山港から船便で送り出され、その多くはロシアのウラジオストク港に降ろされる。

 富山にはパキスタン人が多い。子どもの同級生にも何人かいる。中古車販売店を狙った強盗も多いし、道路を占拠して積み荷を行うために事故も多い。

 2001年には「コーラン廃棄事件」が起きた。パキスタン人の経営する富山県小杉町の中古車販売店に5月21日、イスラム教の聖典「コーラン」が破られて投げ込まれた。この行為に「イスラムへの冒とくだ」との怒りが広がり、22日、パキスタン人などイスラム教徒約250人が集まった。東京でも抗議行動が行われ、日本人がイスラム教に対して無知だったことを報せた事件となった。騒動が収束し、人々が事件の存在自体を忘れかけていた10月中旬、県警は容疑者女性の逮捕を発表。「不仲の父親を困らせたかった」という女性の供述により、事件は単なるいたずらだったことが分かった。

●はきたおす〜きたおす

 「はったおす」で「殴り倒す」。例:「なんちゅー、はんぎゃっしい奴やろか、はき倒してやろか」(何という嫌な、悔しい思いをさせる奴だろうか、殴り殺してやろうか)。

●白山信仰

 白山は石川県などの山だが、富山でも信仰している人がいる。白山を「はくさん」といい、立山を「たてやま」というのは「さん」と「やま」の境界になる。途中に医王山“いおう「ぜん」”がある。語源に関しては正しいかどうか分からないが谷有二『山名の不思議』(平凡社ライブラリー)に「白山はハクサンではなかった」という章があり、「しらやま」だったことを書いている。

●ハクチョウ

 富山市山本の田尻池はハクチョウの越冬地として知られる。池多小学校の子どもたちが観察をしている。

 94年に初めて確認された氷見市の十二町潟も有名になってきた。射水市の石畑池、富山市野中にも降り立つ。

 2006年、県内で確認されたハクチョウの個体数が、生息調査を始めた1969年度以降で最多の579羽を記録した。大雪で、富山より雪の多い新潟方面から餌場を求めてやってきたらしい。

●白鳥伝説

 『古事記』にある伝説で大島町と関係があるといわれる。垂仁天皇の皇子誉津別命(ホムチワケ)が大人になっても物を言わなかった。ある時、空高く飛ぶ鵠(くぐい)の声を聞いて、初めて「あぎとひ」(幼児の片言のような発声行為)をした。そこで山辺大タカ【帝+鳥】をつかわして、この鳥を捕らえさせた。彼は鵠を追って諸国をめぐり、越の国の和那美(わなみ)の水門(みなと)に網を張って鵠を捕らえ、朝廷に献上したという。和那美は罠網(わなあみ)、山辺大タカは鷹の擬人化で、鵠はハクチョウの古称で「くぐい」は「くぐ」とも言う。古代には鷹を使って白鳥を捕らえる風習があった。『日本書紀』にも同様の記述があるが、そちらは出雲で捕らえたとし、但馬で捕らえたとする説もある。この食い違いについて『富山県史・通史編I』は、日本海に面した地方に白鳥を献上する所が点在したとみる。『通史編I』には県内の神社と白鳥の関係も書いてある。鳥取の地名に加えて、久々江や久々湊という地名もある。捕まえたのはかつては水郷だったこの地帯ではないだろうか。江戸時代の国学者、本居宣長も候補地に挙げている。

 この伝説と新湊市の久々江(くぐえ)、久々湊(くぐみなと)という地名との関係に関しては谷川健一『続 日本の地名』(岩波新書)に詳しい。

 また、この伝説は大江光さんの「クイナ」の話に類似している。

 ホムチワケはヤマトタケルの父であり、景行天皇の前の垂仁天皇の息子である。河合隼雄はアンチヒーローだとしている。

 越中に赴任していた大伴家持も鳥の声に深く心を動かされた一人だった。「うらうらに照れる春日に雲雀あがり情(こころ)悲しも独りしおもへば」(『万葉集』4292)。

 柳田國男も『故郷七十年』の中で、鳥の声で正気に帰ったという話を書いている。14歳の頃、茨城の長兄の家に預けられていて、よく遊びに行っていた近所の家に小さな石の祠(ほこら)があって、見たかったのだけれど叱られるので我慢していた。誰もいない時にそっと中を開けると、一握りほどの美しい蝋石が収まっていた。それを見た瞬間、妙な気分になってその場に座り込んでしまった。晴れた空を見上げると、昼間なのに数十の星が輝いている。その時、ピーッと鵯(ひよどり)が鳴いてやっと我に返った。その石は中風を患っていたお婆さんが生前に体を撫でていたもので、死語お婆さんを祈念して祠ったと後で聞いたという。もし、鳥が鳴かなかったらそのまま気が変になっていたかもしれない、回想している。

 富山と白鳥の関係はもう一つある。日本武尊は東国遠征の帰途に薨じ、その御魂は白鳥となって飛び去ったとされ、その遺児仲哀天皇はまぼろしの父君を慕い、諸国に命じて武尊ゆかりの白鳥を貢させたところ、これに応じて越国から白鳥四隻(つがい)が献上されたという。単に高志(越)という広い地域名で記されるが、越中のこととしてうけとられている。後者の事件については、『延喜式』神名帳に所載の神社(式内社という)たる越中国婦負郡の白鳥神社の起源と伝えられる。

※河合隼雄『神話と日本人のこころ』(岩波書店)

 吉田敦彦「スサノヲ神話とホムチワケ・ヤマトタケル伝説」『現代思想』(青土社)10-12(1982) pp.48-68

●博物館

 富山市科学センター、民俗民芸村、県民公園自然博物館(ねいの里)、立山博物館、黒部市吉田科学館、交通安全博物館、魚津市埋没林博物館(ねっこランド)、井波歴史民俗資料館、高岡市万葉歴史館、新湊市博物館などがある。

●博物大名

 勤皇佐幕に騒がしい幕末にあって花や昆虫をこよなく愛した富山藩主前田利保( まえだとしやす1800〜59) のあだ名(池内紀『あだ名の人生』みすず)。 「博物大名」というあだ名の大名は他にもいる。

●はぐれ雲

 青少年自立支援のNPO。大沢野にある。乃南アサの『ドラマチック チルドレン』の舞台になっているし、足立倫行の『親と離れて「ひと」となる』にも取り上げられている。後者に名前の由来が書いてある。

 ちなみに、<はぐれ雲>の名称は、この頃川又と地域の人々が飲んでいる席で決まった。いろいろな名前を検討したが、ある一人が出した案が<浮浪雲>。大空の一隅に流れ漂うきままな雲というイメージが、「その時の俺の心情にピッタリ」と川又は思った。ただし、漢字表記はジョージ秋山の人気漫画と重なるため、平仮名の表記に変えた。

●はさ

 刈り取った稲を干しておくところ。「だごのき」(トネリコ)の木の間に作った。母親に聞くとはさに稲が架かった状態を「はさぶすま」といったそうだ。

 トネリコは一本だけだと役に立たないが、何本も並んで協力しあってはじめて人の役に立つ。

 『新明解国語辞典』には「稲架け」(いなかけ)に「『はさ・はせ』など地方名が多い」と書いてある。

●はさがけ

 はさに稲を懸けること。はさがけして十日間ほど天日干しすると、さらにうま味が増すことから「はさがけ米」というのを売っている人もいる。

●橋

 七大河川のある富山なので有名な橋が多い。また、新湊の内川にも変わった橋が多いので有名だ。

●はしかい

 「賢い、敏捷な」で北陸共通。共通語では「はしこい」に相当し、「動作がすばやい。機敏である。敏捷(びんしよう)だ。はしっこい。「―・い子供」「智慧に―・き幸助を傍に寄び私(ひそか)に其の意見を聞くに/黒岩涙香『鉄仮面』」。ただ、共通語と違って「はしかすぎて…」というのは「ずるい」という意味ももち、批判めいている。例:「箸を櫂にするちゃ、一寸法師いうたら、なんちゅー、はしかいがね」。

●はしごだん

 「梯子段」で「階段」。

●はじし

 「歯茎」で僕は使わないが母親は多用する。「歯」+「しし」(「いのしし」「しし踊り」「しし威し」の「宍(しし)」で「動物」から「肉」を指す)。例:「はじじなぁ、いとうてぇ、眠れんかった」(歯茎が痛くて眠れなかった)。

●長谷川等伯

 等伯は国宝「松林図」などで知られる桃山時代を代表する画家、長谷川派の祖。若年期信春(しんしゅん)と号し、初めは生国で仏画を中心に制作、その作品が現在能登地方一帯に相当数残されている。

 県内には信春時代の代表作「日蓮宗本尊曼荼羅図」(高岡市大法寺蔵)が残るほか、四十代半ばに手掛けた「日蓮宗高僧図」(個人蔵)が現存していた。2002年に富山市梅沢町の妙伝寺(日蓮宗)に代々伝わる仏画が、長谷川等伯の真筆「鬼子母神十羅刹女像」であることが分かった。「鬼子母神十羅刹女図」は縦103.5センチ、横38センチで、中央に安産や育児、法華経護持の神とされる鬼子母神を描き、周囲に十人の羅刹女(鬼女)が整然と並ぶ。赤色を施した衣服の細やかな表現が特徴。松嶋研究員が同年6月、「大日蓮展」の出品作調査のため別の作品を見に来た際、偶然渡された掛け軸に等伯と改号する前の長谷川信春の署名と印があるのを確認した。作品には「元亀二年」(1571年)や「妙傳寺常住 主日敬」の文字が記され、妙伝寺の第三世「日敬」が等伯に制作を依頼したものとみられる。

●馳越【はせこし】

 明治時代までの神通川は、市中心部で大きく蛇行し、洪水を繰り返していた。そこで、「馳越線」と呼ばれる水路を設けて川を直線化する工事が行われ、1903年(明治36年)に完成した。記録によると、明治時代、富山市を襲った水害は34回。中でも1896年(明治29年)には、市内の4分の3が被害を受けた。そこで、県は翌年から2年かけ、川幅を広げる第一次改修工事を実施。だが、それからわずか2年後の1901年には、蛇行部分に長さ約1.6キロ、幅約420メートルの馳越線をつくる工事を始めた。 工事は、左岸に1.5キロ、右岸に1.4キロの堤防を新設。その間に幅2メートルの細い水路を設け、流れ込む水の力で土砂を削る方法が採用された。水路開削を提案したのは、政府の雇われ技師だったオランダ人、ヨハネス・デ・レーケとわかった。県の土木技師高田雪太郎が残した日記に記されていたという。

 なお、「馳越」という言葉は大きな辞典にも載ってなくて富山での造語と考えられる。増水した川の水が堤防を乗り越え、度々水が溢れたので「山から馳せて来た水が堤を越すところ」と言う意味から「馳せ越す」「馳せ越し」と呼ばれたことに由来。また、神通川の改修において、もともとの堤防(岡堤)を馳せ越す水を新しい水路に流したことから、この水路を「馳越線」と呼んでいた。「馳せ工事」が訛ったともいわれる(『グッドラックとやま』2002年12月号に記述あり)。

 21年に、東流する旧本川と新河道(馳せ越し線)の間を閉め切ったので、旧本川(現在の松川に沿って北側に帯状に続く幅200〜300mの地帯)は、後世にかつての神通川の川筋を伝えるため残されることとなった現在の松川を除いて、完全に「廃川地」(はいせんち)となり、荒れ地になった。

●安口【はだかす】

 「サンショウウオ」だが知らなかった。この由来に関しては谷川健一『続 日本の地名』(岩波新書)に書いてある。

●裸放水 

 加賀鳶(とび)の伝統を今に伝えるもので、福野町の消防出初め式で披露される。

●ばたばた茶

 茶粥の一種。朝日町の蛭谷(びるだん)と入善町吉原に残るお茶で、後発酵茶(完全発酵茶)と呼ばれる黒茶を手作りの茶筅で「ばたばた」とかき回して泡をたて、その泡を飲む。先祖の命日や出産、成人などの祝いの席、毎月5日のお座、毎月10日の男のお講、25日の女のお講、特に28日の「お待ち受け」(親鸞聖人の命日)に順番で宿を決めて集まり、このお茶を飲んでいたそうだ。かつて耕地が少なく、男性が炭焼きや出稼ぎに出て家を空けることの多かった蛭谷では、しばしば家を守る女性たちの間で茶会が行われ、情報交換をする大切な場だった。ばたばた茶は動脈硬化に効果があるそうだ。

 昔はこうした振茶(ふりちゃ)/振り茶を各地で楽しんでいたようだ。煎茶に非常な関心をもっていた『雨月物語』の作者・上田秋成は振り茶は昔は各地で普通に行われていたという意味のことを書いているという。だが、現在、日本で残っているのは次の通り。

  • 島根県松江市周辺・鳥取県境港市のボテボテ茶…ハシマ(食事と食事の間)に飲まれ、 松江市の周辺で、田植えや草取りそして秋祭りなど、村の行事の際にお互い招きあったり、正月中は客の接待で忙しい女性たちが、一段落した15日ごろに集まって楽しむ女正月の席でも飲まれていた。また境港市では、弘法大師のお祭りや毎月の「お大師さん講」のときに飲まれていた)。宝珠を刻んだ飴色の茶碗に自家製の番茶を注ぎ、ササラに似た茶筅の先に塩を少々つけて泡立てます。これに黒豆とか赤飯、あるいは刻んだ漬物などを入れてまぜて食べるのです。山口県では「尻振り茶」といって箸を使わずに口に放り込むのが正しい食べ方だという所もあってご飯を空中を飛ばすことになる。
  • 奈良県橿原市中曽司(なかぞうし)…周りを壕に囲まれた環壕集落であった中曽司だけに伝わる喫茶習慣。この集落は、昔から共同体としての意識が強く、集落の人達がたくさん集まって頻繁に茶が飲まれていた。特に春と秋の大茶とよばれる行事でも、この茶が飲まれた。現在は集落の戸数も増え、茶会も出産のお祝いや冠婚葬祭のときに、近所の人達や親戚 だけを呼んで行うように変化した。
  • 愛知県奥三河地の「桶茶」…煮出した番茶を茶桶にくみ取り、塩を少し入れ、桶を左手でかかえるように持ち、右手の茶筅で手早くかきまぜて泡たてる。すると細かい泡で桶がいっぱいになるので、これを茶碗にくみ出し、香煎などを食べながら飲んだ。
  • 沖縄県那覇市のブクブク茶…沖縄は古くから東シナ海交易の中継地として栄え、各地の文物が伝えられました。特に茶道は、江戸時代になると、琉球王府の役人になるための必須条件として定められた。そして琉球の男性の間では、さまざまな芸ごとが盛んに行われるようになり、江戸時代の中ごろ、那覇の役人の家庭の婦人たちが、茶道に代わる楽しみとしてブクブク茶を考案したと言われている。明治時代には一般 に普及し、会合の席や、船出した人の航海の安全を祈って飲まれるようになり、戦前までは、劇場や市場にブクブク茶を売りに来る人もいたが、戦後はしだいに廃れてしまった。
  • 徳之島の「フイ茶」…数軒に残ってはいるが、日常ほとんど見られなくなってしまった。
  • 静岡市の玉川地区…郷土誌に記録があるだけで今は知る人もいないという。
  •  研究書として富山市出身の漆間元三の『振茶の習俗 民俗資料選集12』(国土地理協会1982年)、『続 振茶の習俗』(岩田書院2001年)、吉賀登・石川寛子『全集 日本の食文化第6巻和菓子・茶・酒』(雄山閣出版1996年)、南廣子『茶茶茶』(淡交社1990年)などがある。

     朝日町に行けば、缶入りのばたばた茶が自動販売機で売られているし、セットでお土産品としても売られている。

     日本各地にはその土地の貌(かお)を映し出す季節のことばがある。それを「地貌(ちぼう)季語」と称して発掘してきた俳人の宮坂静生は『語りかける季語 ゆるやかな日本』(岩波書店)で178語をとりあげた。標準語化された季題・季語ではなく、地に根ざしたことばに注目した。この中で出雲地方に伝わる「ぼてぼて茶」と一緒に富山のばたばた茶、沖縄のぶくぶく茶を取り上げている。乾燥させた茶の花と番茶、さらに具として煮豆、漬け物、昆布などをいれる。〈残り日や男ばかりのぼてぼて茶 土橋石楠花(しゃくなげ)〉。「荒粉干(あらこほ)す」は群馬県などコンニャク産地でかつて見られた風景だ。〈軒並に荒粉干したり四万路(しまじ)晴れ 朝比奈笙山〉。いずれも冬の季語。

    ●はちはん

     「気がねがいらないこと。おおっぴらなこと」(若い人は使わない)。

    ●はちめ

     「メバル」。鮮魚店で八目という表記を見たことがあるが、 ヤツメではないから宛字。特に、地色の赤い物(アカメバル)が一般的。

    ●パチンコ

     『パチンコ』(日本放送出版協会)には金沢の方言から「パチンコ」になったという。富山には競馬もソープもフーゾクも遊ぶところがないので、パチンコが一大産業になっている。

     パチンコ屋の名前としては(詳しくないのだが)金の玉【県外の人を連れている時はなんとも恥ずかしい】、ノースランド、金太郎、スーパーベンツ(東洋リゾートは2002年に倒産)、ダイナムなどがある。2003年には全国チェーンのマルハンが攻めてきた。

     パチンコ屋さんに“Pachinko Parlor”などと書かれているのは不思議だ。外国人を案内してパチンコ屋に行くことがあるが、彼らには間に玉を入れることさえ難しい。だから外国人がパチンコをするなんてことはない。

     富山市山室にあるノースランドは日本一のパチンコ屋だ。おかげでチューリップが富山の「県花」になっている。

    ●はちゃはちゃ

     「出しゃばった」。例:「なんちゅー、はちゃはちゃした子ぉいね」(何といううるさくて困った子どもだろう)。

    ●初午【はつうま】

     利賀村の伝統行事で一切の神事が子どもたちだけで行われる。わらで作った馬の舞などを披露して一年の家内安全や豊作を願る。かつて村で盛んだった養蚕の繁栄を願うが、起源は比較的新しく、1880年頃から始まったと伝えられる。1982年には文化庁の「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」に指定された。児童の減少で1999年から下村地区が取りやめ、児童数が最も多い上村地区だけになった。

     背中に「初午」と染め抜いたはんてんと鉢巻き姿で回る。大黒柱に観音像が描かれた木札を掲げて祝詞を読み上げた後、「―乗り込んだ 乗り込んだ お馬が乗り込んだ 繭はよう立つ 糸値は上がる 家のだんなは 身上(しんしょう)直す」という歌と太鼓に合わせ、馬役の二人が頭と尾を前後左右に振りながら元気良く舞う。俵ころがしでは「豊年の福俵でござーい」と、いかにも重そうなしぐさで俵を転がし、最後に「福之神 火の用心」と書いたお札を投げる。 

     全国的には稲荷信仰と結びついて2月最初の午の日が多いが、利賀村ではかつて盛んだった養蚕祈願の小正月行事として続いてきたために、以前は15日と決まっていた。ところが、2002年の「ハッピーマンデー法案」施行以後、移動するようになった。

     元正天皇の時代(715〜24)、五穀を司る神が京都の伏見稲荷に現れたのが2月の午の日で、稲荷の祭日とされる。稲荷は農耕神で「いなり」は「稲なり」にも通じる。その昔、初午稲荷祭には、各家庭の戸口に地口行燈が吊されていていた。 絵馬売りや太鼓売りが町々を行商し、子供たちが追い掛け回す。鈴木春信の「二月」には太鼓を担いで、稲荷大明神と書いた幟をかざして歩く子どもたちが描かれているが、初午の日だけ子どもは一日中太鼓を鳴らしても叱られなかった。稲荷講の行事が行われるが、その習俗はかならずしも稲荷とは関係なく、土地によって異なる。落語の『明烏(あけがらす)』ではお堅い旦那を「お稲荷さんのお篭もり」と騙して廓に連れていくのだが、横町のお稲荷さんは初午で賑やかだという話が出てくる。

     長野県では初午の日を道陸(どうろく)(祖)神の火事見舞いといって、小正月のどんど焼に小屋を焼かれた見舞いとして餅を搗(つ)いてこの神に供える祭りとしている。また蚕玉(こだま)祭といってカイコの神を祀っている所もある。栃木の旧野上村(安蘇郡田沼町)では、初午にシミズカリといって大根や鮭のおじやをつくり神前に供える。スミツカレ、シモツカレ、スム ツカレなど地方によって異なる呼ばれ方をするが、下野国(栃木県)の方から伝わったのが語源でシモツカレが正しいという人もいる。ただし、『宇治拾遺物語』に記載がある「すむつかり」が一番古い記述のようだ。

     三の酉(とり)の年に火事が多いという言い伝えがあるのと同様に、初午の日が早いと火事が多いといわれ、月の初めにあたると二の午の日に延期する例がある(5日過ぎればよいともいう)。青森県津軽地方では屋根に水桶をあげたり水を撒いたりする。どちらの季節も乾燥期なので火事に対する教訓的な戒めが習俗につながったものとも考えられる。

    ●ばっかい

     「面倒、世話」をみること。例:「こんなきかん子、ばっかいできんわ」(こんなに人のいうことを聞かない子どもは面倒が見切れない)。

    ●八ケ山【はっかやま】

     富山市の西にある呉羽丘陵のうち、北方の山。小さい頃は射水線の駅で降りて、ここを遠足することが多かった。歩いて富山ヘルスセンター(今は温泉になっている)に行ったのだ。

     呉羽山麓には五百羅漢(正確には535体)があって、撫でて温かみを感じるとそれがご先祖ということになっている。1799年に作り始めて50年かかったそうだ。

    ●八講布【はっこうぬの】

     富山の織物は桓武天皇の延暦13年(西紀794年)、勅命によって御霊場建立のため進物用として、現在の福光近郷で織らせた麻織物がそのはじまりであるとされている。

     徳川時代の初期には”八講布”(八講田“はっこうでん”という地名が残っている)とよばれ、庄川、小矢部川流域の砺波郡一帯で、地元産の苧麻を用いた麻織物がさかんとなり、元禄から宝永(1688年〜1704年)にかけての最盛期には年間12万匹の産額があったとされている。この麻織物の中心は福光だった。

    ●白骨の御文【おふみ】〜御文章【ごぶんしょう】

     蓮如上人が書いた「白骨の御文」のこと。「朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり」と人間の無常を語り、念仏をすすめる。浄土真宗の家では必ず語られるもの。 

     井伏鱒二『漂民宇三郎』には後に漂流することになる長者丸の出帆の時に、松前ですれ違いの船に付き当てられて伝馬船を壊され、修理に田ノ浦に寄るのだが、この時、一向宗の坊さんがお経を読みに来て「縁起でもない白骨の御文章」を読んだという。

    ●はっすん(がみ)

     「半紙」。八寸紙が語源で障子紙を指すこともある。障子はよこさんからよこさんまでの幅がだいたい四寸で、その二間の幅が八寸というわけで、その二間をまとめて張ることから生じたのが「はっすんがみ」という語ということになる。富山県、栃木県、岐阜県高山地方で用いられる方言。「雁皮(がんぴ)」も紙を指す富山の方言。

    ●はっすんびき

     「祝宴の引き出物」。載せて出す台が八寸だったから。

    ●はったおす

     「張り倒す」。

    ●はったはった

     (勝負などが)「互角」のこと。例:「新高と富商の試合、どっちもはったはったやからおもしい」(新湊高校と富山商業の試合はどちらも互角なので面白い)。

    ●初誕生

     1歳の誕生日はカイモチを作ってお尻にペタンとして、そろばん、帳簿、筆を添える。うちでは現代風に電卓、ノート、ワープロでも試して撮影した。誕生祝いの餅をよくもらったが、お尻がくっついた餅かと思って嫌いだった。

     近藤直也は『鬼子と誕生餅』(岩田書院)の中で次のように書いている。

     初誕生儀礼に際し、「鬼子」の記憶を強く残す一歳未満で歩く子供には、餅を背負わせて 無理やり倒していた。一方、満一歳までに歩かなかった子供に対しては、餅を背負わせ、足腰を支えて無理やりにでも歩かせ、儀礼上、初誕生日当日に歩き始めた事にしていた。満一歳の誕生日当日に、子供が歩くか否かによって、同一の儀礼が全く正反対意味を持つ。
     
     この点から、子供の実際の状態がどうであれ、儀礼的にはどんな子供も初誕生日当日に歩き始めるべきものという一つの枠組みが透けて見える。この枠組みを序章で詳述したが、ここでも「初誕生初歩きの原理」と名付けておきたい。這い這いから二足歩行へのケジメの儀礼なのである。

     つまり、富山でも餅を担がせていたのだろう。1歳の誕生日が子どもの成長の重要な節目だということを教える儀式だったのだ。

    ●ばっちゃんこく

     「割り込む」。例:「順番ながにばっちゃんこいたらあかんねけ」(順番ついているのに割り込んだらダメですよ)。

    ●ばっちゃん壊し

     せっかくみんなが力を合わせてまとまりかけた意見や計画を後から出てきて“根源的に見直そう”といって無に帰してしまうようなこと、またはその人。例:「そっで何も問題ないがに、あんなもんなぁ、ばっちゃん壊しやねか〜」。

    ●ハッチョウトンボ

     全長2〜3センチほどの日本最小のトンボ。成熟した雄は全身が赤くなり、初夏によく確認される。県のレッドデータブックで希少種に指定されている。

    ●八町米【はっちょうまい】

     “JAなのはな”のブランド米で品種はコシヒカリ。8号線を走っていると神通川の西側に「八町米」の看板のついたカントリーエレベーターが見える。

     八町村は富山藩倉垣荘の一部にあり、その昔には「セリやオオバコの根を絶やす」とまで言われたほど収穫の少ない地域だった。しかし江戸時代頃から神通川デルタ地帯の堆積物や有機質がたくさん含まれた地域で、病害虫や冷害に強いうすアメ色がかった八町米が生産されるようになり、牛ヶ首用水の開通により飛躍的な収穫高を見るようになった。

     「八町米」は加賀前田藩への献上米として別蔵積みにして保管され、また北前船や越中富山の薬売りになどにより全国的にも広がりを見せ、通称「マル八町」として珍重された。

    ●はっつぉ

     「初穂」(七五三などでは「初穂料」が取られる)から「初物」。例:「このきもん、はっつぉすっちゃ」(この着物はおろしたてで使おう)・「はっつぉの魚やちゃ」(初物の魚ですよ)。

    ●バット 

     木製バットの生産量で全国の7割を占める。以前屯田兵として北海道にいた人が、この地方に自生するトネリコを使って作り始めたのが発祥だという。これだけ根付いたのは井波の木彫の伝統があったからだろう。福光町では1920年代に生産が始まり、60年代の最盛期に10社以上の製造会社を数えた。金属バットの普及で減ってはいるが、職人芸と心意気は変わらない。2004年にはプロ・アマ野球選手の折れたバットをリサイクルして作られた箸「かっとばし」が売られ始めた。

     波多製作所は2006年に破産宣告を受けた。木製のバットやスキー板の製造で高い技術を持ち、長嶋茂雄や王貞治といった往年の名選手をはじめ高橋由伸(巨人)、立浪和義(中日)ら多くの選手にバットを提供。スキー界の草分け的存在だった三浦敬三が昭和30年代初めから約10年間、同社の技術アドバイザーを務めた。大正11年に個人創業し昭和13年に法人化。木製スポーツ用品を幅広く手掛けてきたが、昭和60年代前半に大口の不良債権が発生し業況が悪化した。

    ●はっとはりめ

     「目をかっと見開いて」。例:「なーんすっか分からんからはっとはりめで見とるらんにゃんあかんぞ」(何をするか分からないからしっかりと見てないとダメだぞ)。

    ●ハッピータイム

     チューリップテレビの番組で、お誕生日おめでとうコーナーになっている。難読の名前が増えていることをこの番組で知る。

    ●初吹【はつふき】

     新年初に行われる高岡銅器の鋳込み作業。鋳物職人が真っ赤に溶けた銅とスズの合金(青銅)を釣り鐘の鋳型に流し込む。

    ●はつる〜へつる

     「(角を)削る」。例:「角のとこ、ちょっこぉ、はつっといたから」。

    ●派手

     富山文化のキーワードの一つ。例えば、「呉西は派手」といわれるが、人付き合いにお金を使うという意味である。人付き合いといっても結婚後の両家の付き合いが派手なのである。しかも実家にその負担が押し寄せる。

     結婚する時に沢山の婚礼家具を持って行くし、(何の役にも立たない)宝舟まで付ける。これも結納金にスケールして決まる。結婚後盆暮れのものを実家が持っていかなければならないし、最初の暮れには大きな鰤を一匹持っていく。お祭りになると獅子舞などに華を打たなければならない。男の子が生まれると正月に天神様の掛け図、(昔はなかったはずだが)五月人形、七夕、女の子が生まれるとお雛様を持っていかなければならない。少し大きくなったら三輪車など、小学校に入ったらランドセルや机とキリがない。

     「いらない!」といってどれだけ妻の実家と喧嘩したか分からない。

     贈答はコミュニケーションの一つとはいえ、こんな不合理にお互いいつまで耐えられるだろうか。田舎の不合理をそのままにしておけば、誰も結婚しなくなる。

    ●果てん

     「果てしない」。例:「はてん仕事してしもとっちゃ」(いつ終わるか分からない仕事をしているよ)。

    ●パト音

     富山県警が2003年7月、全国で初めて導入した「パトロール音」で全国的に拡がる傾向にある。

     パトロール音は、制服を着た警察官を街頭に立たせる「見せる警戒」と同様、音でパトロールを知らせることも効果的と考えて導入した。音は緊急時のけたたましいサイレンではなく、消防車や視覚障害者用信号音など既存の音色と混同しない「ミ・ソ・ド」三音である。犯罪が多い地域や時間、住民の要望を踏まえ、県内各署で運用している。

     千葉県警は独自の三音をつくり、静岡県警は富山の音を参考に「ミソミド」の四音をつくったという。外国でも興味を引き、英国の「BBC」や中国の「人民日報」といったメディアの取材を受け、シンガポールの新聞には記事が掲載された。

    ●はどる

     「輪郭を描く」。

    ●はなが

     「鼻香」で「におい」。富山県だけらしい。例:「変なはなが、すっねけよ」(変な臭いがするよ)。

    ●花咲か爺

     呉智英『言葉の煎じ薬』(双葉社)に紹介してあったのを孫引きする。ちなみに森林太郎(鴎外)を撰者とした『日本お伽集』では名前はシロ、明治34年の幼年唱歌『はなさかじじい』で「ぽち」となった。『日本の唱歌』(講談社文庫)は、当時「ポチ」が最新流行の犬の名前だったので、そうしたところ、子供たちに大いに喜ばれたという團伊玖麿の説を紹介している。spotty,pooch,petitという説もあるが、呉智英は「ぽち袋」の「ぽち」ではないかと推測している。

     関敬吾『日本の昔ばなしII』(岩波文庫)には富山県に伝わる花咲か爺が採録されている。この花咲か爺の話は爺さんが山へ柴刈りに、婆さんが川へ洗濯にいくところから始まる。婆さんが川で大きな桃を拾い、それを持ち帰ると可愛い子犬が生まれて……、以下、我々がよく知る花咲か爺の話になるが、出だしは桃太郎と同系なのだ。

     この富山県の花咲か爺では、爺さんの名前もわからないし、犬も「犬ころ」としか出てこない。

    ●花時計

     県庁前の花時計が有名。4月になると2カ月交替で一般から応募したデザインの花が植えられる。降雪がなければ、12月25日まで稼働する。

    ●花火

     8月1日の神通川の花火が有名。新湊の海王丸パークでの花火も好きだ。庄川、氷見、滑川、魚津などで花火大会がある。神通川の花火は富山大空襲で亡くなった人を鎮魂する意味がある。打ち上げ花火が登場するのは享保18年(1733年)だったという。鍵屋が上げたのが最初で、この前年に関西を中心に大飢饉が発生して、江戸でも疫病で多数の死者が出たことへの慰霊と悪疫退散のために水神祭を催して、開催されたものである。

    ●花見

    みんなが心に握つてゐる桃色の三等切符を
    神様はしづかにお切りになる
    ごらん はらはらと花びらが散る
    -----杉山平一「桜」

     県内では3月中旬に二上山や呉羽丘陵などで見られるキンキマメザクラを筆頭にし、オクチョウジザクラ、エドヒガン、コシノヒガンザクラ、4月にはソメイヨシノ、ヤマザクラ、オオヤマザクラと開花が続く。7月の立山・美松坂や弥陀ヶ原で見られるタカネザクラまで、約4カ月という日本一長い開花リレーを満喫できる。また、身近に野生種が多く見られるという特徴がある。桜の野生種は日本には9種あると言われているが、県内には海岸部で半自生化しているオオシマザクラを含めると全種が確認されている。海から3千メートル級の立山連峰まで標高差があることや、雪が多いなど変化に富んだ自然環境が、野生種が多い原因と考えられる。古代日本人は桜の花を稲の花の先触れとして、これで稲の稔りを占ったのだと折口信夫が書いているが、ただ目出度いのではない。

    ●花嫁暖簾【のれん】

     明治時代始めごろに作られるようになったものが、大正時代には大変盛んになり、石川(加賀地方から中能登)や富山(特に呉西)などで披露される暖簾。正絹に花嫁の生家の家紋を染め抜き、加賀友禅で松竹梅や鶴亀、おしどり、花車などの吉祥文様が描かれたものが一般的である。「暖簾のように従順であれ」という教えもあるという。婚礼当日に嫁ぎ先の仏間に掲げられ、花嫁はそれをくぐって仏壇の先祖にお参りをした。『おもしろ金沢学』(北國新聞社)には婚礼の約一週間後に夫婦の部屋の入り口にも掛けられるという。「お部屋見舞い」と称して、両家の親類の女性が訪れて、嫁入り道具を見たり、新郎新婦を祝福するのだという。

     普通は一回だけなので無駄なことおびただしい。反対したのだが、実家から贈られてしまった。もう一度くらい使う訳にはいかないか…。

    ●はならかす

     「離す」。例:「早う、あの二人ぃ、離らかさんにゃんあかんちゃ」(早くあの二人離さないといけない)。

    ●パナワン

     売薬のロングセラー商品として知られる「六神丸」や「赤玉はら薬」、「熊胆(ゆうたん)」に続く、新ブランドを生み出そうと、薬連と富山医薬大和漢薬研究所、県薬事研究所の三機関が2001年に共同で開発研究会を作り、製剤の試作に取り組んできた製品。疲労回復などに効く薬用ニンジンなどを用いた滋養強壮保健薬で健胃作用などの効果があるコウボクや、動物生薬のゴオウなど計11種類を配合してある。「パナワン」の名称は業界内で募った約百点の応募案の中から選ばれた。成分に含まれる薬用ニンジンの学名「パナックスジンセン」と、中国語で王様を意味する「ワン」を掛け合わせ、万能薬のイメージを込めた。

    ●はね

     「おつり」。「はねる」(おつりを出す)という動詞も。「ピンはねしたもの」を「はね」というから同源か。「袋に扶持方米(ふちかたごめ)の―入れさせ(浮世草子・武道伝来記8)」。 例:「一万円ではねて」(一万円でおつりを出して)・「か、20円、はね足りんぜ」(これはこれは、20円おつりがたりませんよ)。

    ●「パノラマ きときと 富山に来られ」

     「いい人 いい味 いきいき富山」に変わる県のキャッチフレーズ。マークのデザインは関谷隆。

    ●ばばかつぎ

     「姉女房をもらった人、状態」。金の草鞋を履いてもというが、昔はひどいことを言ったものだ。

    ●はべん

     蒲鉾の一種。四角いタイプ。

    ●はまる

     (異性やゲームなどに)「はまる」ではなくて「おごる」。例:「今日、わし、あんたに、はまってあげっちゃ」(今日は僕がおごってあげるよ)。

    ●ばめく

     「わめく」。

    ●ばやく〜わやく

     「たくさん、混乱した」の意味でその状態を「ばやく候(そうろう)」ということがある。『方言大辞典』によれば青森県三戸郡でも「ばやぐや」という。古語の「枉惑・横惑」から来たという。「(名・形動ナリ)ごまかしだます・こと(さま)。「何(いか)なる―の奴(やつこ)、人謀(たばか)りて物取らむとて…『今昔物語』」 例:「ばやくに人おるねけ」・「何けぇ、教官の部屋ぁ、ばやくやねけぇ」。

    ●林忠正(はやし・ただまさ)

     1853年(嘉永6年)―1906年(明治39年)。高岡市一番町の蘭方医の二男に生まれ、富山藩の大参事林太仲(たちゅう)の養子となった。東大でフランス語を学び、パリ万博通訳の仕事に就いた縁で、パリに美術店を開く。日本文化伝達者の役割を担い、熱狂的なジャポニスム(日本主義)に沸くパリに、浮世絵をはじめとする日本文化を紹介した。モネ、ドガ、ピサロら印象派の画家やゴンクールら文化人と交流を深める。なじみの深い印象派の作品を日本へもたらした。日本人留学生、黒田清輝は当初、法律を学ぶことを目的とした留学であったが、パリで画家の山本芳翠や藤雅三、美術商の林忠正に出会い、1886年に画家に転向することを決意した。ラファエル・コランに師事する。黒田は後に東京美術学校に新設された西洋画科の講師(「メートル」と呼ばれた)となったことから分かるように、西洋画を日本に根づかせた功労者である。

     伊藤博文や西園寺公望の信任が厚く、パリ万博で事務官長を務めた。画商として数十万点もの浮世絵や古美術品を、欧米に売り巨富を得た。このため貴重な美術品を海外流出させた「国賊」と呼ばれた。最近では再評価がなされている。

     林は明治19年、高岡銅器の職人が海外で売れないことを悩んでいたので、「高岡銅器維持ノ意見」を三日三晩かかって書いた。

     J・M・ホイッスラーの「紫と金色のカプリッチォ:金屏風(きんびょうぶ)」(1864年)で、ワシントンD.C、フーリア美術館蔵。最初の絵に描かれている女性は、ホイッスラーの愛人、ジョー・ヒフアーナン。赤毛を束ねたジョーは、平安の宮廷風俗を描いた屏風の前に座り、しどけなく着物をまとっている。彼女は一枚の浮世絵を手にし、何枚かの絵を取り散らしているのだが、ぼんやりとした輪郭を見せるその版画の一枚は「越中富山船橋」だと、富山出身の谷田博幸は指摘している。

     ファン・ゴッホ美術館の所蔵である楕円形の板に描かれた、ゴッホの「三冊の小説」(1887年)はゾラの小説などの三冊を描いたもので、油彩画の裏面には、「起立工商會社」と記された毛筆の文字が見える。高岡出身の美術商、林忠正がかかわることとなった、美術品等の交易会社の名である。

     義理の孫の木々康子が筑摩書房から『林忠正とその時代――世紀末のパリと日本美術(ジャポニスム)――』などを出し、ゆまに書房から『林忠正コレクション全5巻』、国書刊行会から『林忠正書簡集』(全文フランス語)などが出版されている。小山ブリジット『夢見た日本 エドモン・ド・ゴンクールと林忠正』(平凡社)、林忠正シンポジウム実行委員会編『日本女子大学叢書3 林忠正 ジャポニスムと文化交流』(ブリュッケ)もある。『夢見た日本』はジャポニスムにとりつかれたゴンクールなどの交流を踏まえて書かれている。小山はフランス人で日本人と結婚した女性で、訳者の一人・高頭麻子は林の曾孫である。もっとも読みやすいのは鹿島茂『パリの日本人』(新潮選書)の「日本美術の大恩人・林忠正」だろう。

     木々康子は『蒼龍の系譜』で田村俊子賞をもらった文学者だが、木々にとって、富山出身で法整備に尽力した磯部四郎は母方の曽祖父にあたる。磯部と林がいとこなのである。

    ●ばやばや〜ばっやばや〜わやわや

     『方言大辞典』によれば「乱雑な様」で島根県でも使う。例:「何けぇ、教官の部屋ぁ、ばっやばややねけぇ」。

    ●はよらと

     「早く」「すぐに」。例:「はよらとこんにゃん困っがいぜ」(早く来てもらわないと困るよ)。

    ●はらうい

     「お腹がいっぱいで辛い」。

    ●はらき

     「腹気」で「剛胆な気持ち」。例:「ええっ、みんなにはまるちゃ、はらきやねぇ」(ええっ、みんなに奢るとは大層な気持ちだね)。

    ●原信夫とシャープス&フラッツ

      原信夫は1926年に、塚原信夫として富山市・岩瀬町に生まれる。近所で親類が映画館を経営していたことあって音楽好きであった。「ヘイ、シャープメン!」いい演奏には、黒人兵からそんな声が飛んだ。戦後間もなく、進駐軍相手に演奏していたころの話で、シャープは鋭い、切れ味のいいこと。シャープメンなら、かっこいい奴あたりだろうと考えて「原信夫とシャープス&フラッツ」を結成した。結成は1951年。2009年にその活動を終えた。

    ●パリ・コレ

     富山とパリ・コレは近い。新作デザイン発表会のパリ・コレクションは年2回、春夏物と秋冬物に分けて行われる世界最大のファッションショーである。

     富山出身のモデル・沢樹舞がパリ・コレに出ていた。

     富山市南央町にある富士メリヤス(“Fuji Medias Co.,Ltd.”mediasはスペイン語)は2004年3月、パリ・コレクションに参加する。国内の衣料品メーカーが出品するのは初めて。作品は同社が得意とする手法をふんだんに用いるほか、同社がほぼ独占的に使用しているジャコウウシの産毛を使った作品や1着に数十色を織り込んだものも並べた。ファッションショーの美術などを担当するアートディレクターは富山の洋画家の古川通泰が務める。デザイナーには社外から、パリでプレタ・オートクチュールのデザイン、パターニングの経験を持つ若手の山本克洋、安藤真弓を起用した。大崎和紀社長はパリ・コレへの参加費は総額で約1億円と見込んでいる。「FUJIM(フジム)」ブランドでホテルインターコンチネンタル・パリで開かれた。富士メリヤスは2008年3月で自己破産した。

     メリヤスをなぜメリヤスというかについては鹿島茂『上等舶来・ふらんすモノ語り』(文藝春秋)が詳しい。

    ●針供養

     和裁や洋裁に従事する人が、日ごろ世話になっている針に感謝する行事。針供養は富山をはじめ西日本では12月8日に行う師走の恒例行事だ。一年の「事納め」の日となっている。だが、関東では2月8日になり、趣旨も「事始め」となる。問題は金沢で2月8日に針供養するところがあって、理由が分からない。

    ●針千本

     新湊市付近ではしゅうとめにいじめられた嫁が針山の針を盗んだという無実の罪をきせられて海に身を投げたのが12月8日で前日から海が荒れるのだと伝えている。日本海沿岸では一般にこの針供養の日に針千本という魚が吹きよせられてくるという。

     ハリセンボンは熱帯性の魚で水温が下がると弱って海浜に打ち上げられるらしく、その性質や形姿から針供養と結びつけられたと思われる。能登地方ではハリセエボとなまり、歳暮のこととも解している。また針のようなとげが多いことから、魔よけとして門口につるす土地もある。

    ●…はる〜いらはる

     敬語の語尾で「…しておられる」。「行かはる」は「お行きになる」、「食べはる」は「お食べになる」、「来らはる」(おいでになる)。子どもにも敬語を使う人がいる。例:「つんまっとぉ、勉強してはったぜ」(じっくりと勉強しておられたよ)。

    ●はるよこい

     県林業技術センター林業試験場(立山町)が育成した無花粉スギの名称。2004年度から苗木の育成に乗り出し、11年度をめどに供給を始める。無花粉スギは、花粉症の原因の一つとなる花粉を全く飛散しない。普通のスギと同じように雄花はつくられるが、遺伝子の突然変異で花粉の殻ができないため、花粉同士が融合し、最終的には花粉がなくなってしまう。同試験場の職員が1992年、富山市内の神社で花粉を飛散させないタテヤマスギを発見し、このスギから採取した種子で苗木を育てた。童謡にもある「はるよこい」は親しみやすい上、花粉の飛ばないさわやかな春が来てほしいとの願いが込められているとして採用した。

    ●…はれ

     新湊だけかもしれないが「…さい」。例:「ハーレー・ダビッドソンに乗してくだはれ」(乗せて下さい)・「そこのお醤油、取ってったはれ」(そこのお醤油取って下さい)。

    ●ばれこと〜われこと

     「悪いこと」から。「火遊び」は「火ぃばれこと」という。例:「ばれことせんからホテル行こ」。

    ●パレ・ブラン

     県の教職員の共済会館「高志会館」 。

    ●パロ

     いやし効果を持つアザラシ型ロボット。2004年に実用化された。産業技術総合研究所(茨城県つくば市)が開発したもので商品化は産総研の支援で設立されたベンチャー企業「知能システム」(富山県城端町)が行った。パロは、本物のペット導入が衛生面などから難しい施設で、いやし効果を発揮するロボットとして、産総研の柴田崇徳主任研究員(城端町出身)らが1993年から開発。アザラシの赤ちゃんをモデルに開発して体長57センチ、体重2.7キロ。頭をなでると喜んで動き出したり、たたくと怒ったりする。簡単な言葉は学習でき、名前を繰り返し呼ぶと、振り向くようになる。ストレスの軽減や脳機能の活性化などの効果が確認されているという。高齢者福祉施設や小児科病棟の実験で、うつ改善やストレス低減などに役立つことが実証され、世界一のいやしロボットとしてギネスブックにも認定されている。

     パロの評判を聞き、デンマークの映画会社が映画化を申し出た。06年中に撮影し、17年の上映を目指す。

    ●…はん

     「…さん」。例:「お医者はん、じんだはん、ひんなはん」など。

    ●はんがい

     「しゃもじ」。「櫂」というのはご飯をよそうものを指した。ご飯を「はん」というところから「飯櫂」となった。県外の人が戸惑う方言の一つ。

    ●はんかくさい

     北海道方言だと思っていたが、ある時、母が「北海道でも富山と同じ言葉を使っている」というので驚いた。「間が抜けた」という意味。

    ●半殺し

     落語で旅人が道に迷って泊めてもらった家でおじいさんとおばあさんが「どうすべぇ、半殺しにすべえか、手打ちにすべぇか」と言っているのを聞いてほうほうのテイでで逃げたというのがある。半殺しはお米を半分だけ殺した「おはぎ」で手打ちは「蕎麦」である。落語の中の話かと思っていたら、富山県でも西部の福光あたりで「はんごろし」を使う。

      昔、「003・5は半殺しの番号」という映画がありました(なかったか)。
         -----村上春樹「命まではとらない。二度半殺しにする」(『うさぎおいしーフランス人』文藝春秋)

    ●反魂丹

     「越中富山の反魂丹、鼻くそ丸けて万金丹」と言われた。

     この名前は中国の「反魂香」(死者の魂をも呼び返すといわれた)に基づいている。中国の武帝は愛する李夫人を亡くした後に「反魂香」をたいて、彼女の面影を見たという。この故事が白楽天の「李夫人」という詩に描かれて、日本に渡ってきた。「反魂香」は楓に似た「反魂樹」という幻の木の根から取るのだという。ただ、幻なので、中部地方より北の山や高原に生える背の高い草を反魂草と呼ぶようになった。

     落語にも「反魂丹」(「反魂香」とも)というのがあるし、また、「万金丹」という別の落語もある。「反魂丹」は次のよう。

     因州鳥取の浪人、島田重三郎(「十三」とも)。絶世の美女、三浦屋の高尾太夫と二世の契りをかわした仲だったが、高尾が非業の死を遂げたため、坊主になって裏長屋に住いをしていた。この島重が夜な夜なカンカン鉦をたたくから、長屋の者が怖がって眠れない。隣の八五郎が怒鳴りこむと、島重は事の次第を明かし、鉦を打ち、生前高尾から託された香を焚いて、菩提を弔っているのだという。

     この香がすごい。焚くと、煙のなかから高尾の姿が現れ、島重と芝居がかったやりとりをする。

    「おまえは島田重三さま」
    「そちゃ女房高尾じゃないか」
    「徒にや焚いて下さんすな。香の切れ目がえにしの切れ目」
    「そりゃ焚くまいと思えども、そなたの顔が見たきゆえ」

     これを見た八五郎、自分も三年前に死に別れた女房の顔が見たくなり、分けてくれるように頼む。が、島重は高尾の形見だからといって断る。八五郎は、このしみったれめと肚を立て、反魂香を求めに生薬屋へ走るが、名前が出てこないで「反魂丹くれ」と言ったりする。

     夜中に八五郎がいろりに火を入れ、薬屋で買ってきた反魂香をくべると、黄色い煙がすぅっとたちます。もうひとくべすると、また黄色い煙がひとすじ天井まで立ち上ります。嬉しくなった男が、買ってきた反魂香を全部いろりにくべると、部屋中もうもうと黄色い煙でいっぱいになり、男はけむくて咳き込むやら、涙が出るやらで訳が分からなくなりつつ、奥さんが現れるのを今か今かと待ち受けていると、表で戸を叩く音がします。喜びで転がるように急いで扉を開けて「そちゃ女房お梅じゃないか」というと、「いいや、あたしは隣のお竹だけどね、なんかきな臭いけど、火事かい?」

     由来は諸説あって、立山権現の夢のお告げによって創製された(『越中富山反魂丹之記』)ともいうし、藩主前田正甫(まさとし)に藩士が岡山の医師にもらったものを献上して、効果があったために藩内で調整させたとも、正甫の家来・日比野小兵衛が藩命で長崎にいたとき、備前の医師から「反魂丹」という薬をもらって帰藩したいう。この備前岡山の医師というのは萬代掃部助(“もず”後に“まんだい”かもんのすけ)の祖父・萬代常閑(“万代”浄閑)で、彼が泉州境に住んでいた時に、漂着した異人を介抱して、その礼に製法を伝授されたものを子孫が伝えたという。

     備前地方はもとより、西国各地に知られていた萬代家の「延寿返魂丹」(えんじゅはんごんたん)の評判を前田正甫が聞いたことは間違いないが、常閑が富山へ出向いたのか、正甫が備前を訪れたのか、どんないきさつで、家伝薬の作り方が伝わったのか、詳しいことに関しては、いくつも諸説があり、謎である。ただ、萬代家文書によると「延寿返魂丹」が「越中反魂丹」の元になったのはたしかであり、11代常閑が富山売薬の始祖であることは間違いないという。

     正甫は常閑からの製法を富山の松井屋源右衛門に伝授することになり、その後松井屋源右衛門は許可を得て「反魂丹」を製造に成功、前田正甫から他領商売勝手の許しがでた事によって八重崎屋源六(やえさきげんろく)が売薬商売を始める。富山城下の町人による、売薬の始まりといわれる。 常閑、正甫、源右衛門、源六は富山売薬四人祖とも呼ばれるようだ。

     返魂丹は岡山領内では「大庄屋廻し」とよばれる独特の方法で販売された。これは返魂丹一粒を銭40文とし、大庄屋組ごとに100粒ずつを預け、年々その代金を徴収するという、藩の支配機構を利用した置き薬方式であったが、郡代高木右門の時(19世紀初頭)大庄屋廻しが廃止されると、以後販売は思うにまかせなかったと考えられる。これに対し、富山藩では明和2年(1765)「反魂丹役所」が設置され、販路を各家庭に拡大していったところが違う。つまり、薬屋方式から訪問販売方式に替えたのが大きかった。

     西行が「反魂法」という秘術を行なった話が説話集『撰集抄』に載っている。西行は全国を放浪し山野に起臥していたため孤独であった。あるときその孤独に耐えられなくなり、反魂法を用いて友人を作ろうと思い立って次のように行った。

    1.野晒しの人骨を拾い集める。
    2.骨を人の形に並べる。
    3.砒霜石(砒素を含む鉱物)から作った薬を骨に塗る。
    4.イチゴとハコベの葉を揉み合わせて骨にのせる。
    5.フジの若葉から糸を作り、骨を繋ぎ合わせる。
    6.水で数回洗う。
    7.サイカチとムクゲの葉を焼いた灰を頭部に擦りつける。
    8.土の上にゴザを敷いて骨をうつ伏せにする。
    9.風が入らないように全体をゴザで包む。
    10.14日間放置する。
    11.沈香を焚き、反魂の真言を唱える。

     出来上がったものは「人の姿に似侍りしかども。色あしくすべて心もなく侍りき。聲は有れども。絃管聲のごとし」。つまり、人に似てはいるが顔色は不快なものでありまったく感情がない。また、声は琴や笛のようであったという。西行は結局、この腐っていないゾンビーを高野山の奥地に捨ててしまった。後日、都に上がった西行は反魂法の大家として名高い源師仲を訪ねてこのことを話した。彼が言うには「大筋は正しいが、反魂の術が未熟だ。実は私もその術を使って人を作り、その男は今では大臣になっている。だがその名を明かせば、作った者も作られた者も、たちまち溶け失せてしまう」。この反魂法はフランケンシュタイン博士の怪物のはしりだったのだ。

    ●はんちゃ

     「半纏」。

    ●はんちゃくれ

     「やんちゃくれ」は98年後半の朝ドラだったが、これは「中途半端」の意味。福岡町では「はんちゃくじ」というが、僕はどちらも使わない。

    ●バンドエイド

     「カットバン」のことを「バンドエイド」とか「キズバン」という。「カットバン」は篠崎晃一+毎日新聞社『出身地がわかる!気づかない方言』(毎日新聞社)によれば、東北、中国四国、九州で幅広く使われているという。この本によれば「キズバン」は富山だけだという。他には北海道の「サビオ」、九州で熊本中心の「リバテープ」がある。

    ●ばんどり

     肩かけだけで背あてのない「蓑」(みの)のこと。「会津の世直し」と並んで世に名高い「ばんどり騒動」というのがあった。

    ●ばんどり騒動

     1869年(明治2年)に金沢藩領越中国新川郡で起きた事件で「越中ばんどり党」が年貢の軽減を求めた。「米騒動」ともいわれる。ばんどり(簑)をつけたのは顔が分からないようにするためでもあった。

     明治維新で納米方法が古桝から新京桝に変わったにも拘らず、時の郡宰と村役人は私服を肥やすことのみを考え、古桝を改めようとしなかった。1869年大凶作に見舞われ、農民が飢餓に頻し貢祖軽減を求める為に信望の厚かった塚越村(立山町)の宮崎忠次郎をたて、郡宰山本又九郎に嘆願書を提出した。回答がくるという10月29日は朝から各村の人々がむしろ旗に村の名を大書し、すげがさ・ばんどり・草り姿で棒や竹やりを持ち、松明をかざし舟橋村竹内の無量寺に集合した。郡治局からの回答は、日暮れに及んでも音沙汰なく、農民らは再度嘆願のため、ほら貝、鐘、太鼓を打ち鳴らし無量寺を出発した。その後2万人(5万とも)にも達した農民は、滑川で郡治局役人と衝突した。しかし11月3日に、藩の鉄砲隊の前に数十名の死傷者を出して鎮圧された。その結果やむを得ぬ行動であったため忠次郎だけが斬罪、あとは罪を問われなかった。このあと十村(とむら=10ヶ村前後を束ねる村役人)の大幅な入れ替えなどの成果をもたらしたこの騒動は、この時期の代表的な世直し一揆の一つである。

    ●(雪)ばんば

     木でできたスコップのようなヘラ(羽子板を長くしたようなもの)で、これを使って昔の子どもは雪遊びをした。井上靖の自伝的小説『しろばんば』はこの話だと思っていた。新潟では「こすき」というようだ。

    ●ばんばい

     「弁償」。例:「後でぇ、ばんばいしてもらうからね」。

    ●馬場島【ばんばじま】

     上市町伊折にある冬山登山の基地で上市警察署馬場島警備派出所が設けられる。標高750mの馬場島から長大な早月尾根が一直線に、2,998mの剱岳山頂に至る。登山者は派出所で遭難者の発見に役立つ電波発信機「ヤマタン」を1つずつ受け取り、首から下げる。県自然保護課が独自に開発したものである。

    ●ばんばん

     「ちゃんとしている、立派な、それなり」。例:「このパソコン、直したらばんばんに動くねけ」(このパソコンは直したら、それなりに動くじゃないですか)・「ばんばんの婿はんやちゃ」(それなりに立派なお婿さんだ)。

    ●磐持【ばんも】ち

     収穫を感謝する農村の力自慢。7月の城端・善徳寺や、11月の新湊市・寺塚原の行事が有名。半世紀ほど前は、収穫を感謝する農村の行事として各地で行われていたが、いつのまにか姿を消した。江戸時代は米俵の代わりに石を持ち上げたという。「磐持ち場」には、その名残のごろんとした石が4個残っているという。4斗(60キロ)の米俵からスタート。肩に持ち上げたまま、1回ぐるりと回ることができれば成功。5斗、6斗、9斗、1石(150キロ)……とだんだん重くなる。この日は、若者の参加が少なく、5斗どまり。優勝者にはカップと、人に似た紙形の御幣(ごへい)、「横綱」の名誉が与えられる。

    ●番屋

     回転寿司の名前にもなっているが、「漁師小屋」で共通語。


    英語

    数字

    序文

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