新湊・第九公演の15年 「師走」 川崎洋 『言葉遊びうた』(思潮社)
【…】
ベートーベンの第九
♪オー フロイデン の中に
<風呂>
入浴中のきれいどころ
暮れに歌う第九の歌詞を口ずさむ
どうやら暗記できた ゴロ合わせの歌詞のおかげ台寝 津会うベル ビンでん 黴でる
バスでぃ 詣で 酒取れん 下駄いると
【…】
新湊市で15年間続いたベートーベン第九交響曲の演奏会が1999年で終了した。
僕は第一回から参加して途中少し抜けているが、最終回にも参加しているので記録として残しておく。特に思い出深いのは第一回と全国からの第九ファンが集まった海王丸夕涼み第九コンサートと佐藤しのぶが出た最終回である。
僕は合唱団員の一人としてうろうろしていただけだが、15年も継続してこられた関係者に感謝します。
ベートーベンの交響曲第九番の日本初演は1918年6月だったとされる。捕虜として徳島県の収容所に入れられていたドイツ兵が演奏した。第一次世界大戦の末期、ドイツが敗色濃厚なころである。
収容所は比較的自由な雰囲気で文化活動も盛んだった。それにしても楽器をそろえるだけでも大変だったろう。手製の楽器もあったろうし、ファゴットをオルガンで代用させるなどの工夫もしたという。初演は45人のオーケストラに90人の合唱団という堂々たる編成だった。
第二次世界大戦中にも第九は流れた。日本の敗色が深まっていく44年夏のことだ。東大の出陣学徒壮行会で演奏された。出陣学徒が奔走した結果だった。 食糧難著しいころである。頼まれたオーケストラは「体力不足で第九は無理だ」と渋ったが、第3、4楽章だけでも、ということで実現した。切迫した空気のなかで流れた第九は格別の感動をもたらしたことだろう。
今は、クラシック演奏家のためのボーナスをひねり出す手段となっている。これはとてもいいことだ。山村から切り出した小松や松の枝などを都会で使うことになれば、山村の年末年始もいくらか利潤が生まれると佐藤春夫は書いている。キリギリスにも愛を!というのが「人類は皆兄弟になる」という第九に歌われた精神かもしれない。
「都市の金銭を山村や農村にも融通するための一方法として、松飾りやしめ飾りは、無用の用ともいうべき用を果たしているようにわたくしには思える」(『定本 佐藤春夫全集』臨川書店) 。
第九しかないのか、という人もいるだろうが、とりあえず、第九からクラシックに入ってくれればいいと思う。
もちろん、ベートーベンが感動したシラーの詩というのはあまりにもストレートで恥ずかしい気がするものだ。昔、「ジッキンゲン論争」(Sickingen-Debatte)というのがあって、ラサール(Lassalle)という男が「フランツ・フォン・ジッキンゲン」(Franz von Sickingen)という戯曲を出して、マルクスとエンゲルスに送って批評を求めたことがあった。これに対してマルクスは「君はそこで、みずからもっとシェイクスピア風に書くべきだったのだ。ところが、君のは、諸個人を時代精神のたんなるメガホンにしてしまうシラー式だから、僕はそれを君の【作品の】最も重要な欠点と見なすのだ」(1859年4月19日『マルクス=エンゲルス 芸術・文学論』大月書店)と書いている。つまり、シラーはメッセージが直接的過ぎるのであるが、世が世だけにいいだろう。
また、パート一つひとつに対して高すぎる音を出さなければならないが、コーラスでみんながまとまれるのも第九が一番だ。
第一楽章からずっと、オーケストラがああでもない、こうでもないとやるのは、一体何だったのかということにもなるが、これがベートーベン流なのだろう。第四楽章までが長い。「歓喜の歌」の合唱も大分進んでからで、ソロのバリトンがおもむろに歌い出す。「おお、友よ このような歌ではない/もっと喜びに満ちた歌を/声を合わせて歌おうではないか」。そして、やっと合唱団の出番だ。こうした長い演奏の間にその年の1月から起きたことを回顧して、最後に歌いまくるから12月にふさわしいのだろう。
■第一回第九コンサート(1985年)
■海王丸夕涼み第九コンサート(1992年)
■最終回第九コンサート(1999年)
■射水市第九コンサート(2006年)
オーケストラ 指揮者 ソプラノ アルト テノール バリトン その他 85年12月24日 東京フィル 外山雄三 秋山恵美子 安念千重子 饗場知昭 高橋啓三 記念すべき第一回 86年12月23日 京都市交響楽団 手塚幸紀 秋山恵美子 志村年子 五十嵐修 松本 進 遠藤雅古を招いて特別練習 87年12月24日 東京交響楽団 秋山和慶 曽我栄子 志村年子 大野徹也 松本 進 新湊合唱クラブ結成 88年12月22日 新日本フィル 山田一雄 大倉由紀獲 志村年子 黒田晋也 松本 進 89年12月24日 東京交響楽団 秋山和慶 曽我栄子 安念千重子 黒田晋也 松本 進 七尾第九に有志参加 90年12月24日 東京交響楽団 秋山和慶 三縄みどり 岩森美里 五十嵐修 松本 進 91年12月23日 東京交響楽団 秋山和慶 三縄みどり 岩森美里 五十嵐修 松本 進 92年8月22日 富山シティフィル 土井 浩 金川睦美 串田淑子 澤武紀行 内山太一 海王丸パークでの夕涼みコンサート 92年12月24日 東京交響楽団 秋山和慶 松薗まゆみ 岩森美里 五十嵐修 松本 進 93年12月23日 東京交響楽団 秋山和慶 松薗まゆみ 岩森美里 福井 敬 松本 進 94年12月25日 東京交響楽団 秋山和慶 松薗まゆみ 岩森美里 福井 敬 松本 進 北日本新聞地域社会賞受賞 95年12月24日 東京交響楽団 秋山和慶 松薗まゆみ 岩森美里 星 洋二 松本 進 96年12月23日 東京交響楽団 大友直人 岩井理花 坂本 朱 吉田伸昭 黒田 博 97年12月23日 東京交響楽団 大友直人 岩井理花 菅有実子 吉田伸昭 黒田 博 国際音楽祭開催 98年12月25日 東京交響楽団 秋山和慶 松薗まゆみ 岩森美里 井ノ上了史 松本 進 更埴市第九に有志参加 99年12月21日 東京交響楽団 秋山和慶 佐藤しのぶ 坂本 朱 福井 敬 直野 資 最終回で児童も参加 第一回第九コンサート(1985年) 1985年というのは上越新幹線が上野開業して筑波科学博開幕が開かれて、電電、専売公社が民営化したり、豊田商事永野会長刺殺事件などがあった。日航ジャンボ機墜落事故があり、プラザ合意からバブル経済が始まった年である。テレビではジェームズ・三木脚本で沢口靖子のデビュー作『澪つくし』があった年である。
富山では1960年以来、毎年年末に第九が演奏されていたが、新湊の青年会議所の分家静男さん(99年から市長)や東保力さんを初めとする人たちが是非、新湊でも第九をということで運動が始まった。この運動の基底には青年会議所が力を入れて実現した新湊市中央文化会館(81年完成)をいかに盛り上げていくかという課題があった。今ではどの町にも村にもホールがあるが、当時は県内の市町村で初めての本格的なホールだったのである。何かイベントをということで第九が選ばれたようである。山田洋次監督のリアリズム3部作に『同胞』(はらから)という、町の青年団が劇団を呼んで公演を成功させるというのがあるが、このノリだった。
中央文化会館に『新湊第九を歌う会』がおかれた。
2月から団員の募集が始まり、商船高専の看護婦さんまでも参加しようと頑張っていた(が、ドイツ語に挫折)。住友アルミがなくなる前で、他県の出身者も多かった。
みんな何も知らなかった。今では「だいく」と誰もが呼ぶが「だいきゅう」と呼んでいる人も多かった。「すごいねぇ、加山雄三が指揮に来るのか」と言っていた人もいた。そういえば、参加した留学生に「シンフォニー・ナンバー・ナイン」と説明しただけで感動していた人もいた。合唱団がいつ入場するかも知らなかった。最初から入るのか第三楽章の前に入るのかスタイルはいろいろあるようだった。
5月12日に発会式があって合計41回(!)の練習が始まった。誰も音が取れなかったので教える方も大変だったと思う。教える人も足りなかったので、洗足短大の器楽の武藤先生まで教えに来ていた。富山では最初から暗譜でなかったというが、新湊では第1回から暗譜だった。練習も回数も問題だったが、これで脱落していった人も多い。発会式では満員の人だったが、残ったのは300人だった。
取材も多かった。田舎だからイベントが少ないので、一つのことに集中してしまう。「ズームイン朝」でも取り上げられて北日本放送のアナウンサーが「漁師さんも歌っている」というと徳光アナが不愉快そうに「下町で本当の大工さんが歌ったこともあります」と話していた。第九を歌うというのは別に珍しいことではなくなっていたのだ。
秋分の日に外山雄三さん自身が講演と指導のために新湊に来られた。指揮者は誰もお話が上手だが、外山さんも実に上手で、第一回のプレッシャーをなくしながらも恥ずかしい演奏にならないように一生懸命に話された。
僕ら男声の多くは新湊に先立って23日(月)に富山市公会堂でも歌った。富山の公演は1960年から続いている「老舗」だが、工事現場みたいな足場だった。富山では高校生が多く参加していてまるで「六甲おろし」を歌っているみたいで、歌ではなくて応援だった。昔、こんな演奏に感激していたのかと思うと少し情けなかった。その後、新湊の方が落ち着いた音色だといわれるようになるが、当然だと思う。それでも、合唱団員の人数は倍近くもいるし、女声は合唱団経験者が多かったので、割と安心して歌うことができた。
■ 新湊では翌24日(火)で皆んな緊張して大変だった。喉飴が新湊で売り切れてしまった。ただ、外山さんも第九の前に目をつぶって集中させてから舞台に向かわれたのに感動した。嫌になるほど第九を演奏しているだろうに、こんな田舎の合唱団と一緒にやるのに、クラシックなんか聞いたこともないような人に聞かせるのに、手抜きをしないぞ、という気合いが見えた。
演奏が始まると「へぇ、これが第九か」なんていう人もいた。大体、第九の前には「レオノーレ」か「エグモント」などが軽く演奏されることになっているのだが、彼は知らなかったのだ。
第二楽章が始まって舞台に上がり、第四楽章で無我夢中で終わったが、さすがに皆んな緊張感があり、充実感があった。指揮者の顔を前から見るのも、オーケストラを間近で聴くなんて体験も初めてだった。ティンパニの音が印象的だった。
アンコールで「きよしこの夜」と「蛍の光」をロウソクを灯して歌った。
打ち上げパーティには外山さんも駆け付け、引きつりながらも「観客に喜んでもらえればそれでいいのではないですか」と(苦しそうに)挨拶した。外山さんは本当に丁寧な指導と分かりやすい指揮だった。特に合唱団がフライングをしそうなところでは観客から分からないように隠した指を一本一本折っていって教えてくださった。
森川紀博先生を始め、皆んなで「ミカド」までいって大いに盛り上がった。分家さんが酔ってガラスのテーブルの上で歌ったためにガラスを割ってしまう事件もあった。
毎年続ければ補助金が出るという条件だったらしく、来年も続けようということに自然になった(今まで富山だけだったのを新湊でも同時に行うことでコストを下げようという意図もあった)。しかし、15年も続くとは思わなかった。
そして、僕はまさか第九のソロを歌うような女性と結婚するとは夢にも思わなかった。
海王丸夕涼み第九コンサート(1992年) 運輸省の大型帆船海王丸を誘致した海王丸パークが新しくなったのを記念して野外コンサートが開かれて妻がソリストになった。僕らは88年に結婚したのだった。
92年というのはブッシュ米大統領が来日して倒れたり、アルベールビル五輪やバルセロナ五輪があったり、PKO法案が通過したり、佐川急便事件があった年でバブルが弾け始めていた。貴花田(貴乃花)と宮沢りえの婚約の発表があった(年が開けると破棄になっていた)。大河ドラマは『信長』で朝ドラは『ひらり』だった。
6月15日に発会式があり、七尾から医者で第九マニアの横山先生が来ていて「金川睦美先生には七尾で歌っていただいたことがあり、その澄んだ声は……」といった。前年に七尾で歌っていてよくご存知だったのだが恥ずかしかった。
7月5日(日)に新しい海王丸パークが完成した。海王丸というのは運輸省の練習船で僕の教え子などが訓練した帆船である。姉妹船の日本丸は横浜に保存されている。
21日にその海王丸パークでリハーサルがあった。立派な特設舞台が作られていてびっくりした。リハが終わってから、東保実行委員長がみんなの前で「ソリストは華ですから是非、奇麗な格好で」といわれて、迷っていたが、一番豪華なゴールドのドレスを着ることにした。
■ 22日当日の朝は雨の音で目が覚めた。土砂降りだった。その後ずっと曇っており、妻が美容院に行っている11時頃には土砂降りに戻った。体育館になったら困るな、と思いながらお昼に祐貴を迎えに行く頃には晴れてきた。ゲネプロの時には日差しが強くなり過ぎ、弦楽器が壊れるので抜いて練習した。
ボランティアの人たちがパークの舗装に溜まっている水を丁寧に雑巾で拭いて取っていたのには感謝、感謝だった。
夕方になって暗くなってからコンサートが始まった。ライトアップされた海王丸を前にした幻想的な雰囲気で、ホールでの第九とは趣が異なっていた。
県内から300人、釧路や福岡などからも呼びかけに応じて200人集まるという、大コンサートになった。
僕も団員だったので、5月に生まれたばかりの長女たちは母に任せていた。終わってから「祐貴、聞いとったけ?」と母に聞くと「大事なところになったらトイレに行くって言って聞いてない」と不満げだった。
無料だったこともあって5000人の観客があった(終わってからの渋滞もすごかった)。
終わると大喝采、そして海王丸をバックに大きな花火が打ち上げられ、合唱に負けないくらいのハーモニーを醸し出していた。妻はみんなからシンデレラみたいだったといって誉められたり、発声がよくてこちらもつられて喉が痛くなかったなどといわれて満足していた。
最終回第九コンサート(1999年) 一年前からこれで最終回になる、ソプラノは佐藤しのぶさんになる、という話になっていた。団員が多くなるかもしれないので早めに申し込むようにということだった。
そして、99年はノストラダムスの予言の年で不況から脱しきれないまま、JCOの臨界事故やトンネル崩落などがあり、世紀末の様相の強い年で、奇怪な事件が多かった。大河ドラマは『元禄繚乱』で朝ドラは限りなく暗い『すずらん』と和菓子屋の『あすか』だった。
この間に何度か「あゆの風 であいの風 音楽祭」などを開いていたし、『新湊第九を歌う会』は地域社会賞を受賞していた。
個人的には忙しくなっていたし、胆石で手術もしたので、パスしようと思ったが、やっぱり有終の美を飾りたかった。
結局、練習に参加したのは12月11日からだった。この日は東京交響楽団の前副指揮者の堀俊輔さんの特別練習があった。堀さんは「ホリヤン」と呼ばれる人柄で、顔の面白さで合唱団を引っ張っていった。
数年のブランクがあるものの、歌詞は体で(?)覚えているので何とかなった。砺波で10月にリトアニア管弦楽団との第九公演があったばかりなので、そのまま新湊に参加している耳鼻科の先生もいた。半分くらいのメンバーが顔見知りで、聞いてみると全てのコンサートに出ている人が多いのに驚いた。
■ 21日は前日からの大雪で「寒気の歌」にふさわしい天候だった。指導の森川先生が勤める高岡高校で教師が教え子の下着を盗んでいる事件とか横山ノック大阪府知事がセクハラで辞職においこまれるとか桶川市の女子大生の一千万円での委託殺人事件など報道され、京都伏見で小学2年生が校庭で殺された、JCOの臨界事故で重体だった人が亡くなったり、「すべての人は兄弟になる」というベートーベンの理想とはかけ離れた日だった。
ゲネプロで朝比奈さんは最後の部分をものすごく早く振ったので驚いた。佐藤しのぶさんは前からしか見たことがなかったが、後ろから見るとコンパクトな体つきなのに驚く。
未蘭たちは5時に弁当をもってやってくる。自分たちは喫茶店で食事をする。
6時半に開演。本当は舞台の裏で音を聞きたいのに…と思ったが、合唱団員には最後の細かなチェックがなされる。最終的に150人という合唱団ということになった(富山は550人になった)。
ソリストは現在考えられる最高のメンバーで佐藤しのぶさん、坂本朱さん、福井敬さん、直野資さんの声がホールに響いた。
アンコールの「きよしこの夜」と「蛍の光」ではいつもそうなのだが、一年間が走馬燈のように頭の中を駆けめぐって、一人で感動していた。今回は小学生をアンコールの合唱団に加えることになったので、4年生の祐貴も一緒に歌った。妻は小杉のラポールのコンサートなどで祐貴と共演しているが、僕は初めてだったので嬉しかった。
大きな拍手があって元市長で第九を歌う会の会長・松木康祐さんの挨拶があった。「今年が今までで最高です」と毎年同じことを話していた。
更埴市の人も3時間かかるので打ち上げに出ないで帰っていった。
僕らも打ち上げに出ないかといわれたが、雪道だし、子どもたちが帰りたいというのでそのまま帰る。
翌日の新聞の写真に映った白髪だらけの自分の姿を見て、15年の歳月を感じた。
■ あと10日もすれば2000年。
ベートーベンの理想が実現される社会になっているだろうか?
【1999年12月21日】
新湊市市制50周年コンサート(2001年) 2001年9月11日には同時多発テロが起き、アフガニスタン、イラクで戦争が起きて理想の世界から遙かに遠くなってきた。
全く知らなかったのだが、市制50周年を記念した第九があったことを2006年のコンサートのパンフレットで知る。第1回から出ているという大野先生だって知らなかったという。
オーケストラ 指揮者 ソプラノ アルト テノール バリトン その他 年月日
射水市・第九コンサート(2006年) 2005年11月1日に5つの市町村が合併して射水市になった。翌年、これを記念して射水市として第九が演奏されることになった。朝ドラは「純情きらり」「芋たこなんきん」で大河が「功名ヶ辻」の年で、北朝鮮の核実験が行われた年だった。ちなみに、初代射水市長には分家静男がなっている。
バリトンには木村俊光を呼ぶことになった。中央文化会館も射水市新湊中央文化会館となっている。また、この年はモーツァルト生誕250周年だった。射水市と一緒なので、練習に半分以上出席しないと歌わせない、という厳しいものだった。9月30日にはシティフィルと合同の練習が行われた。手塚先生は第2回以来となったが、喉を悪くされて、苦労されながらの指揮となった。合唱団は190名あまりだったが、半数が初心者だった。合併の効果で練習場所があちらこちらになったので、面倒だった。合唱指導にあたった宮丸勝先生は本当に熱心だった。当日は高2の長男が模試で、中2の長女が学園祭で鑑賞できなかった。商船高専の創立百周年があって、超多忙の中で歌えたのが、奇跡的だった。
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打ち上げで木村俊光は「今回のベートーベンは本当の意味でのベートーベンでした。11月5日日曜大工」と、どこでも使っていそうな駄ジャレで挨拶した。
オーケストラ 指揮者 ソプラノ アルト テノール バリトン その他 06年11月5日 富山シティフィル 手塚幸紀 金川睦美 串田淑子 澤武紀行 木村俊光 射水市として初
日本の聴衆が第九に求めているのはそうした【イタリアの客演指揮者がヴィルトゥオーゾ・オーケストラで振ったようなストラヴィンスキーのような第九】こけおどしではなく、癒しと励ましだったのである。第九のコンサートは苦難の一年を振り返り、次の年も腐らずに頑張ってみようという元気を取り戻す儀式であり、無宗教者のためのミサなのである。
島田雅彦「年末の第九」『快楽急行』(朝日新聞社)
射水市・第九コンサート(2009年) 新湊中央文化会館のリニューアル記念だった。
今回僕は参加しなかった。辞書の編纂の予定があったため(出版社の経営危機で結局つぶれたのだが)、娘の誕生日だったこともあって、しかも娘も中間試験だったので聴きにも行かなかった。この前日に新型インフルエンザ(豚インフル)が日本で初の感染が確認されて、当日は大阪でも見つかった。大阪からのオケなので、1週間おくれていたら、中止になっていたかもしれない。
オーケストラ 指揮者 ソプラノ アルト テノール バリトン その他 09年5月17日 大阪チェンバーオーケストラ 宮丸勝 金川睦美 串田淑子 木下進 竹内雅挙 ソリストはいずれも県ゆかりの声楽家で、ソプラノが金川睦美(射水市在住)、アルトが武部薫(高岡市出身)、テノールが木下進(南砺市出身)、バリトンが竹内雅挙(射水市出身)。
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