「テイめられたシャ」------集団語とは何か
96年冬に亡くなった父親は時々、僕らの知らない単語を会話に出した。「オスタップ」といわれて何かよく分からなかったし、「レッコ」とか「ウェス」というのも分からなかった。
父の母校の商船高専に勤めるようになってから、ある程度、謎が解けてきた。
「オスタップ」というのはwash tubで「洗い桶」のことだった。「レッコ」というのはlet goということで「捨てる」という意味だった。「ウェス」というのはwasteのことでボロ雑巾などを指していた。
商船高専の学寮で使われている言葉もいくつかが分からなかった。ブッカンジョーというのは漢字で書けばすぐに分かるように「物干場」のことだった。ジョークのことはカタ振り、ジョークをいうことは「カタを振る」という。ベッドのことを「ボンク」というが、これは英語のbunkだった。
つまり、父親は船長をしていた頃の名残で商船関係の隠語を使っていたのである。
□ 先日、北陸新幹線問題を追求していて、本も出しているN先生が僕の部屋に飛んできて「スキームちゃ、何け?」と聞いてきた。
なかなか解決策が見いだせない県はミニ新幹線などを考える(つまり、グレードを落とすことになる)ことを「新しいスキームで考える」といってごまかしているのだ。これではかつての国鉄と同じ破産を招く。
国鉄で思い出したが、学生がJRの遅延証明書をもらってくることがあるが、これには「貴方の御乗車の列車が入きようのとおり延着したことを証明いたします。」となっている。「入きよう」とは何か?
持ってきた学生に聞いても分からない。
「入きよう」とは「入きょう」である。「入きょう」とは「入鋏」であるが、「鋏」が常用漢字ではないので優しく(?)平仮名にしている。「鋏」さえ分からない学生もいる。要するに切符にパンチを入れることを指している。他人に分かるようにするためなら、「印のとおり延着したことを」とすればいいのである。
他人が分からないような言葉を使って煙に巻くというのは大本営発表の「転進」(退却)、自衛隊の「護衛官」(駆逐艦)、「特車」(戦車)を始め、昔からある手口だ。借金を「ローン」とか「クレジット」というのも似ている。「人買い」のことを「スカウト」と言ったりもする。
近代だけでなく、もっと昔からすり替えはあった。田中章夫『揺れ動くニホン語』(東京堂出版)によれば、「敵愾心をあおり、志気を高めるために、敵方の場合と、味方の場合とで、ことばを使い分けることは、古くから行われ」ており、「陣中語」とか「武者詞」と呼ばれていたという。その例をあげれば、
「あな、心憂や。【…】あわてて舟に乗って、内裏を焼かせつる事こそ口惜しけれ」(『平家物語』)
ここで、「内裏を焼かれた」としないで「焼カセタ」として、武士の面目を保とうとするのだという。負け惜しみだと思うけど。
□ 更に「重言」という言い方があって、金田一春彦の『ことばの歳時記』によれば、「風呂に入る」などというと「お前は地方【軍隊ではないところ】の言葉を喋るのか!」と叱られたそうだ。軍隊の言葉では「入浴に入る」と「重言」で言わなければならないのだという。
国語学者の金田一春彦漢字を積み重ねた言葉は、ときに意味を誤りやすい、と言った。例えば、離れ島の活性化を指す「離島振興」は「島を離れろ」と奨励しているようにも聞こえる。最近では「無洗米」というのがあるが、洗ってない(米を研がずに洗うということ自体おかしいが)米という感じを与える。
差別語や言い替えの問題は別の所で書きたいが、井上ひさしは『ブラウン監獄の四季』で次のように書いている。
放送局が「日雇い」を「自由労働者」に言い換えても、彼等の生活は変わらない。「百姓」を「農民」に言い換えても、百姓は農業だけで立派にたべられるようになるわけではない。「漁夫」を「漁民」に言い換えても、汚れた海はきれいになりはしないのだ。
養老孟司は古館伊知郎との対談『記憶がウソをつく!』(扶桑社)の中で日本人のリセット文化に触れ、次のように語っている。
国体の護持というのは、ポツダム宣言受諾のときに日本が付けた唯一の条件ですよ。それくらい重要な概念だった。【…】新聞は国体という言葉を、国民体育大会の略語で使ったわけです。【…】しかも誰が考えたか知らないけど、知恵者がいて、国民体育大会には両陛下が必ずおいでになる。ゆえに、国体の議論は、戦後不可能になった(笑)。
□ 専門用語(technical term)というのもあって、例えばパソコン用語は素人にはチンプンカンプンで嫌みで書いているとしか思えないことがある。難しいのは日本美術で、「土坡(どは)」とか「すやり霞」とか「宝相華(ほうそうげ)」などと国語辞書にもないような言葉がたくさん使われている。
でも、専門用語というのは正確な定義を要求するから、ある程度仕方のないことである。例えば、「ソシュールのラリンジャル・セオリー(喉頭音理論)の中で扱っているヒッタイト語の内的再建に関しては…」とか「ロスの上位範疇優先規則の妥当性に関して…」などというのはこれ以外の説明ができないものである。
これに対して「チョムスキーのSSは…」とかいうのは既に隠語の域に入っている。というのもSSというのはSyntactic Structuresというチョムスキーの論文で、これを省略して他の人に分からなくなった段階で隠語なのである。
言語学の話に戻ると、小林英夫(秀雄にあらず)のソシュールの『講義』訳には「所記」「能記」(ATOKで変換できず)などという自作の用語が並べられていたが、言語学はまだいい方だ。
ひどいのは哲学だ。「(そのもの)らしさ」と訳せばいいものを「自己同一性」「ありのまま」とか「本当の姿」とか「隠れたもの」と訳せばいいものを「即自」(ATOKで変換できず)、「知性」とか「ものがわかる」とか「科学的思考」とか「常識」とかコンテクストに応じて訳せばいいものを「悟性」などと翻訳して自分が偉くなったような気分になっている。哲学者はヘーゲルなどであって、翻訳者は哲学学者にすぎないのに…。少し弁明すれば、元の言葉では日常語だったのが、日本語では別の言葉になったからといえる。つまり、“metaphysics”は“physics”の“meta”(後段)でしかないのに、「物理学」と「形而上学」では大きな隔たりがあるように、日本では思えてしまう。もともとはアリストテレスの著作を編集した時の配列順序だったそうだ。
カントが1797年に書いた『道徳の形而上学』は原題が“Die Metaphysik der Sitten”になっていて、この“Sitte”というのは「習俗」とか「しきたり」という意味である。日本ではニュアンスが違いすぎるが、ドイツ語では境目がない言葉なのだ。日常語が哲学用語としてそのまま出てくるのを日本人は分けて考えるのである。イタリア語の“storia”が「歴史」と「物語」の双方を意味するように、インド=ヨーロッパ語圏では、「歴史」という概念が「語ること」と不可分だったが、日本では大きく分断している。
内田樹だって「とんぼ返り」(salto mortale) を「有限性の舞踏」と訳したことだってあるという(Saltoはドイツ語で「宙返り」、体操の「ムーンサルト」は塚原光夫の命名なので、正式にはTsukaharaというらしい)。まあ、「深読み」ですね。これに対して内田は次のように述懐している。
誤訳が発生する理由はいくつかあるが、そのうちのひとつは相手を「怖れ」すぎて、「何いってんだかわかんない」ところを、「ああ、これはすごく深遠なことを言っているにちがいない」と思い込んでしまって、むずかしく訳してしまう、という「畏怖ゆえの勘違い」がある。(私の「有限性の舞踏」などがその恥ずべき典型だ。)
『こんにゃく問答』みたいなものである。
そのむかし、わが敬愛する故・沢崎浩平先生がバルトの翻訳で、draguer の訳語に窮して「浚渫する」と訳したら、蓮實重彦に「上品なサワザキ氏は draguer をあえて『浚渫する』とあいまいに訳しておられるが、やはりこれはずばり『ナンパする』でよろしいのでは」と書評で書かれたといって苦笑しておられたことを思い出した。
そのころ助手だった大平具彦氏がそれを聞いて、「フランスに留学したとき、まっさきに覚えた動詞ですけどね、ふふふ」と笑っていた顔も懐かしい。
爾来私は「よくわからないところ」については、「もしかすると、すんごく簡単な話をしているじゃないかなと疑う」というチェックを翻訳にさいして必ず行うことにしている。
そりゃ、僕だって賢く見せたい。「彼の言説は…」とか「ポストモダン」や「自己疎外」「脱構築」「物象化」「リゾーム」などをいっぱい散らした文章を書けば「異化」でどんなに賢く見られ、女性にもてるようになっているだろうなどと、考えただけで頭が痛くなってきた。
池内紀『世の中にひとこと』(NTT出版)は「がんぽんち」で次のようにいう。
国文学者・岩本素白(そはく)の随筆で知ったのだが、明治のころ「がんぽんち」と言ったそうだ。何やら難しい言葉をエラそうに使いたがる人のこと。
由来も述べてあった。参勤交代で遠国から江戸にやってきた侍が、そのころはやっていた小唄が気に入って書きとめた。恋の辻占(つじうら)風の唄で、「成ると成らぬは眼もとで知れる、今朝の眼もとは成る眼もと」。 当時の侍は学をひけらかすために漢字を好んだ。だからメモに書き付けた。
「成与不成眼本知、今朝眼本成眼本」。 国もとに帰って江戸みやげに披露しようとして、もとの文句が思い出せない。そこで書きとめたのを声高々に読みあげた。
「成(せい)と不成(ふせい)はがんぽんち、今朝(こんちょう)がんぽん、せいがんぽん」 おりにつけ、この随筆を思い出す。哲学や思想の本に、やたらと難解な日本語や外国語が出てくるときだ。しばらくつきあって、いぜんとしてそんな調子だと、あとは読まない。それを「言葉の虚栄心」と名づけている。そもそも虚栄心の強い人とはつき合いたくないものだが、言葉の世界でも同様である。 政治家や評論家で、しきりとカタカナ用語を用いたがる人がいる。ごくふつうの言葉でいえるのに、こなれの悪い英語をあてていう。たぶんアメリカでは政治や経済や社会問題の方面でたえず使われているのだろう。
しかし、その言葉が関連する局面も条件もまるきりちがう。そんなことはおかまいなし、まるでその言葉によって時代の先端にいることを示したがっているとしか思えない。
これは言葉の虚勢にあたる。どの分野でもそうだが、虚勢を張りたがるのは自信のない人なのだ。
難しい言葉に出合ってもビクつく必要は少しもない。「がんぽんち」組の一人だと笑っていればいいのである。
米原万里は『打ちのめされるようなすごい本』(文藝春秋)の中で次のように書いている。
もっとも、私ががたまらなく惹かれるのは、以下のようなくだり。『コペルニクスの太陽系の分析的解明』という論文を書き、優秀な成績で卒業したゲルツェンは、そのときの指導教官で天文学界の第一人者だったペレヴォシチコフ教授と卒業後、食事をする機会があった。教授は、ゲルツェンが天文学を続けなかったことをさかんに惜しむ。「でも誰でもかれもが、先生の後について天に昇るというわけには行かないでしょう。わたしたちはここで、地上で、何かかにか仕事をやっているのです」と答えるゲルツェンに教授は反論する。
「どんな仕事ですか。ヘーゲルの哲学ですか!アナタの論文は読ませていただきました。さっぱりわかりません。鳥の言葉です。これがどんな仕事なものですか」鳥の言葉。何といいえて妙なのだろう。人文系の学問に携わる人々の言葉が、恐ろしく難解になっていく一方で、一日平均30語で事足りている若者たちの群れ。この二者間の距離は絶望的に隔たるばかりで、同じ民族どころか、同じ人類とも呼べない状況になってきている現実は、同時通訳として、あれこれの学会の通訳に動員されるたびに、思い知らされている。でも、150年前のロシアでもそうだっのかと思うと、悲壮がってた自分が可笑しくなる。
やさしく言い換えるのが得意な学者もいる。政治思想史家の丸山眞男が日本と西洋を「たこつぼ型」「ささら型」で説明した。ナチス・ドイツに典型的に見られるように独裁国家は大衆を単一の政治意思のもとに統合しなくてはならないが、その手法はグライヒシャルトゥングと呼ばれるが、これも日本語に翻訳するのが難しい。丸山は「強制的画一化」や「セメント化」という言葉を使って説明した。
いずれにしろ、縦のものを横にしているだけという感じから逃れられない。これでは問題をアウフヘーベン(止揚、どっちも分からないね)していることに過ぎない。ちなみに、アウフヘーベンというと立派な統一的結論を見出すことのように思えるが、問題を先送りする時にも使われた。柴田元幸の『生半可な学者』(白水社)には次のような文章がある。
僕が大学生のころ、つまり現在十代・二十代の人たちにとっては旧石器時代のごとく遠い昔、そして僕および僕と同世代の人間にとっては他人事のように平然とふり返るにはまだいささか気恥ずかしい冷や汗ものの近過去のこと、平たくいえばだいたい十五年くらい前、僕らはよく「スカーレット・オハラる」という言葉を使った。
これって、分かっている人にしか分からないから隠語みたいなものだ。つまり、『風と共に去りぬ』のヒロインのように山積みする問題を横目に「明日は明日の風が吹く」と叫んで、さっさと寝てしまうことなのである。
岩城宏之は『音の影』(文藝春秋)の中で似たような話を書いている。武満徹の追悼番組で総合司会をしていた立花隆が最後のテレビの前で号泣したという。その後、札幌での追悼音楽会で岩城が武満の詩をろうどくしていて泣きそうになったのを見た武満の奥さん浅香さんが「岩城さんたら、タチバナりかけたでしょう。わたしもなりかけちゃった」。
□ 1884年(明治17年)、松山から上京した正岡子規が大学予備門(旧制一高の前身)の入試を受けた。英文和訳で分からない単語があり、隣の受験生に尋ねると「ホーカン」だという。子規は「幇間(ほうかん)=たいこもち」と訳したが、「法官」の間違いだった。「非常な大滑稽であった」と『墨汁一滴』に書いている。
法律用語も極端である。違法なことをしたことのない、僕ら一般市民が驚く言葉に「業務上過失」というのがある。普通のドライバーでも事故を起こせば「業務上過失」になってしまう。調べてみると法律上は「社会の中で生活をする上で、ある社会的な地位、立場に基づいて繰り返しするつもりで何かをする状態」だそうである。要は毎日繰り返していることで過失を犯したということらしい。『大辞林』では「社会生活上、ある活動を反復・継続して行う際に、必要な注意を怠ること。業務上過失犯は、一般の過失犯に比べ刑が加重される」と書かれているが、これで分かるだろうか?
日常語とかけ離れた法律用語は多いと思うが、際たるものは「自首」かもしれない。犯人が自主的に警察に行けば「自首」だと思っているが、法律では犯罪事実が発覚する前、または、犯人が誰であるか発覚する前に出てくる場合だけだ。だから、学生には悪いことをして犯人だと分かっている場合は逃げろ!と教えている…。
法律用語は、日常語と違って曖昧さを避けるためには仕方がない部分もある。例えば、「輸贏」(ゆえい=遊び)で「偶然の輸贏」なら賭博、「拐帯」(かいたい=持ち逃げ)、贓物(盗品)、欺罔(あざむくこと)というのがあってATOKではちゃんと使われることを考えて変換できる。変換できないものには「騙取」(へんしゅ=だまし取る)がある。これが条文となると例えば、次のようになる。
刑法第一八五条(賭博)偶然ノ輸贏ニ関シ財物ヲ以テ賭戯又ハ賭事ヲ為シタル者ハ千円以下ノ罰金又ハ科料ニ処ス但一時ニ娯楽ニ供スル物ヲ賭シタル者ハ此限ニ在ラス
明治40(1907)年に制定された片仮名の文語調の刑法は平成まで生き延びた。さすがに平成になってから、平仮名で分かりやすい言葉に改正されて「盗品」「人を欺いて」「賭博」などと表されているようになった。
民法では「僕婢(ぼくひ)」「厠坑(しこう)」「溝渠(こうきょ)」「薪炭油(しんたんゆ)」などが残っていて、2004年の改訂で現代語への言い換えが行われるという。なかには「木戸銭」など、ちょっと死語と片付けたくない言葉もある。が、法律用語としてはここは「入場料」しかない。
また、「遺言」はふつう「ゆいごん」だがの法律上の読み方は「いごん」である。「月」も期間を表す時は「禁錮六月=きんころくげつ」のように読む。「兄弟姉妹」も「けいていしまい」という。細かいことを言えば、法律では「意志」というのは使わず、「意思」を使う。「現状回復」としないで、「原状回復」と書く。笑えるのは「膃肭獣」(おっとじゅう)で「オットセイ」のことである。
法律上はさまざまな年齢の「児童」がいる。労働基準法では15歳を過ぎて最初の3月31日までを児童と呼び、原則として労働を禁じている。児童福祉法では18歳未満、道路交通法では6歳以上13歳未満が児童になっている。あげく、「児童に権利に関する条約」では「児童」の定義が複雑になるので、childをそのまま訳して「子どもの権利条約」という法が一般的になってしまった。
法律用語が日常語に入ると、とても嫌な、落ち着かない気持ちになる。2005年頃からよく使われるのが「担保する」である。「保証する」というような意味で使っているらしいが、広辞苑にも載っていない用法だ。ALCのオンライン辞書には何とか載っていて“secure a debt”と書いてあった。
隠語(jargon)というのはそれぞれの分野でその分野の人にしか分からない言葉を指し、「職業隠語」とされることがある。専門用語と違って閉鎖的で内にしか向いていない。とはいえ、日本の学界の論文には内側だけの言語に頼って、誰にも理解できないものが多い。難解さに価値はないのだが…。
□ 落語に「転失気」(てんしき)というのがある。和尚さんが医者を呼んだら、「てんしきはあるか」と聞かれて困ってしまう話だ。和尚さんは分からずに小僧に「転失気」を借りてこい、という。「転失気」というのは『傷寒論』という本にある言葉で、おならのことだった。正確には「屁が肛門まで来て、外に出ないで、音が内に反転すること」(『日本国語大辞典』)ということで、失気が転じることなのである。まあ、おならとげっぷは同じだってことだ。
嫁の堅苦しい言葉遣いに周囲が戸惑うのが「たらちね」だ、「今朝(こんちょう)は怒風(どふう)激しゅうして小砂眼入(しょうしゃがんにゅう)し、歩行なりがたし」と挨拶されたら訳が分からない。「門前に市をなす、賤(しず)の男。そなた携えし一文字草、値何文なりや」と言われても分からないだろう。「一文字草」とは「葱」のことだ。言葉は相手の胸に納まって初めて意味をもつ。逆にケムに巻く時には難しい言葉を使う。
落語の「青菜」は隠語を間違って使うのが面白い。植木屋に御馳走をして青菜を出そうとしたら、次の間から奥さまが「だんなさま、鞍馬山から牛若丸が出まして、名を九郎判官(くろうほうがん)」という。旦那は「義経」と答えるのだが、実は洒落で、菜は食べてしまってないから「菜は食らう=九郎」、「それならよしとけ=義経」という隠語だった。素晴らしいといって家でまねようとする。「おーい、奥や」といっても奥がないので、押入れから女房が転げだし、「だんなさま、鞍馬山から牛若丸がいでまして、その名を九郎判官義経」と先走ってしまう。亭主は困って「うーん、弁慶にしておけ」…。
そういえば、落語界にも当然、隠語はある。有名なのは「ふら」で「持って生まれたおかしな持ち味」というのがある。「へんきん」と「あまきん」というのもあり、「きん」は「巾着」から来ているというが、前者は笑わない変な客で、後者はよく笑う客である。
日本語は同じ漢字なのに分野によって読み方が違うのがあるからやっかいだ。落語や歌舞伎では「名跡」を「みょうせき」というが、相撲界では「めいせき」という。言語学者にとっては「口腔」は「こうこう」だが、医学関係者にとっては「こうくう」 である。うっかり間違うと排除されてしまうから気をつけなければならない。
□ 集団語なので集団ごとに隠語が存在する。学生もそうだし、芸能人、商人、医師、警察、軍隊などが有名だ。「俗語」slangというのもあるが、これは隠語も含めた上位概念である(ちょっと専門用語を使った)。集団語には親和機能と同時に正反対の排除機能がある。前者は仲間意識を生み、後者は部外者から見てかっこよく振る舞うことができる。
学生たちの隠語の特徴の一つは省略だ。「サテン、バイト、メット」などがあるし、地名でも「ジュク、ブクロ、ジョージ」(新宿、池袋、吉祥寺)などがある。他の省略語と違うところは、語頭ではなく語尾を残すところで、やくざの隠語の作り方と同じである。最近はマスコミ用語の影響も大きく、急に当てると「いきなり振らないでください」とか、「マキでお願いします」などといわれる。
医師の専門用語や隠語はそれなりに価値が認められる場合もある。ソルジェーニツィンの『ガン病棟』ではラテン語が病名で書かれていたのを友人が読んでしまう場面があるし、もし、病院の先生や看護婦の会話が全て日常語だったら病状にいちいちメマイしなければならない。これらは隠蔽する役目を果たしている。もう一つ、日本語だと長すぎるということもあるが…。
「人前で話もできぬ口べたがやむにやまれず左翼となりたり」と元・赤軍派メンバーの坂口弘(『坂口弘歌稿』)で歌っているが、口べただから、仲間内の、しかも新左翼の言葉しか話せず、赤軍派に入ってしまったという感慨が述べられている。
学校でのあだ名などは究極の隠語だ。家族の中だけなら「葉山」だけで「葉山に住んでいるおばさん」を意味できる。谷崎の『細雪』には「B足らん」という言葉が出てきて、ビタミンB不足から来る体の不調や不快感を指す。第一章は「B足らん」の注射を階下のお手伝いに向かって催促する末娘の妙子の「御寮人さん、注射しやはるで。――注射器消毒しといてや」で終っている。
茨木のり子「おんなのことば」 (詩華集『おんなのことば』)
いとしい人には
沢山の仇名をつけてあげよう
小動物やギリシャの神々
猛獣なんかになぞらえて
愛しあう夜には
やさしい言葉を
そっと呼びにゆこう
闇にまぎれて【…】閉ざされた集団の言葉しか使わないと、閉塞した状況をもたらすだけである。
ちなみに、やくざや遊女は地域から地域へ動いたから、「お控えなすって」とか、「ありんす」「くんなまし」などといった共通語を生みだしている。
□ 同じ時間でも次のようなジョークが生まれるような違いがある。
片側を空軍が使用し、反対側を民間が使用し、真ん中に管制塔のある空港があった。その管制塔に、あるとき飛行中の航空機から「今何時ですか」と問い合わせが入った。
「そちらはどなたですか」と管制官が応じた。
「人によって違うんですか」と航空機側が聞き返してきた。
「いろいろ違いがあるんです。そちらがアメリカン航空便なら3時ですし、空軍機であれば1500時です。海軍の航空機ですと6点鍾といいます。陸軍の航空機ならば、長針12、短針3と答えます。海兵隊の航空機であれば、ただいま木曜日の午後と答えるわけです」The tower replied, "It makes a lot of difference. If it is an American Airlines flight, it is 3 o'clock. If it is an Air Force plane, it is 1500 hours. If it is a Navy aircraft, it is 6 bells. If it is an Army aircraft, the big hand is on the 12 and the little hand is on the 3. If it is a Marine Corps aircraft, it's Thursday afternoon."
□ もちろん、元は隠語だったのが、広く使われることも多く、現代では放送用語などが典型的である。大体、「客が引いていく」とか「受けを狙う、受けにいる」など仲間内の言葉が平気で使われている。
考えてみれば、昔の芸人は「下ネタをしない」「客をいじらない」(客を巻き込む)「楽屋落ちにならない」という三大タブーがあったが、今ではタブーを破るのが芸だと勘違いしている「タレント」も多い。
タブーといえば、猪を「山鯨」、ウサギを「1羽、2羽」と鳥のように数えたのも肉を食べることがタブーだったからごまかしたのである。ちなみに、英語で「サンデー」というものがあるが、これは禁酒法時代にクリームソーダが作られたのだが、キリストの安息日に甘い飲み物を飲むとはいかかが、といって禁止してしまったために、ソーダ水にアイスを乗せるのではなく、シロップをかければ「飲み物」ではなくなるといって、売り出した。スペリングを“Sunday”とせずに“Sundae”としてのもごまかすためだったとされる。
相撲の隠語では「たにまち」が定着したし、何よりも「シカト」は相撲界からといわれている。これは花札の十点札からきていて横をフイと向いている鹿が図柄になっている。つまり、「シカ・トウ」が縮まってシカトになったとされる。
歌舞伎舞踊の「京鹿子(がのこ)娘道成寺」の幕あきに、騒々しく登場する寺僧が隠し持っていた「般若湯(はんにゃとう)という妙薬」を、股ぐらから取り出す場面がある。般若湯とは漢方薬、ではなくて、酒だ。仏教の五戒の一つに、飲酒をいましめる「不飲酒戒(ふおんじゅかい)」があり、これを破る飲んべえな僧たちが「体の薬に少し飲むだけだから」と、言い訳して呼んだらしい。僧侶はタブーが多くて、こんな風に隠語が発達した。ドジョウが「踊り子」、タコが「天蓋」、マグロが「赤豆腐」、卵が「遠目がね」というのが有名である。精進料理に飽きた坊さんたちが「この赤豆腐、おいしいね」といいながら目をギラつかせているのが目に浮かんでくる。逆に、「糟鶏(そうけい)」という料理があって、鶏という字を使っているが、コンニャクをタレ味噌で煮たものだという。つまり、獣肉が使えないから名前だけでもという感覚だったのだ。江戸には「ももんじ屋」というのがあって、猪、鹿、猿の肉まで売っていたという。
安藤広重の『名所江戸百県』の「びくにはし雪中」の左手に見えるのは獣肉料理店の尾張屋で「山くじら」とはいのししの肉である。
村上重夫によれば、古くは平安時代の神宮のための『斎宮忌詞(いつきのみやいみことば)』(塔をアララキ、僧をかみながい、打つをナヅ)があるし、宮廷女官の「女房詞(ことば)」(田楽をオデン、杓子をシャモジ、豆腐をオカベ)、僧侶の『学林秘語』(卵をシロナス、鮎をカミソリ、酒をゴマス)、大阪の人形遣いの用いた『占傍(せんぼう)』(金銭をセンタロウ)、漁師の「沖言葉」や猟師の「山言葉」がある。「女房詞」は「文字詞」ともいい、「杓子+文字」で「しゃもじ」、「鮨+文字」で「すもじ」、「鯉+文字」で「こもじ」、「恥+文字」で「おはもじ」、「お気の毒様+文字」で「おきもじさま」などというものである。
タブーというと結婚式などで「おしまい」とか「別れる」などを言い換えなければならないという、「忌み言葉」というのもある。隠語と違うのは、忌み言葉は使用しないと制裁を受けるということである。
小津安二郎の映画のいくつかに「しゃこ」を「ガレージ」と洒落るシーンがある。寿司屋なんかで、キュウリを「カッパ」(もちろん、河童が胡瓜を好むからだが)といったり、ご飯を「シャリ」(シャリシャリしているからと思っている人が多いが【仏】舎利=骨と色が似ているから)といったり、お醤油を「紫」(「助六」とも)いったり、塩を「浪の花」といったり、笹を「ヤマ」というのは山から取ってくることからである。おぼろを「さがや」(常磐津の文句で「さがやおぼろの花盛り(花吹雪)」から)といったりする。「ひかりもの」「げそ」「ひも」「あがり」などがある。マグロの腹側の脂肪に富んだ部分を指す「とろ」も元来、隠語である。「とろり」とする舌ざわりからかといわれている。江戸時代は捨てられていたものだが、近時、刺身・すし種として賞味され、マグロ以外にも使われることがある。甘酢に漬けた生姜の事を「ガリ」というが、これは噛んだ時の音感、又は削り器で削るときの音から来たとされている。「海苔巻き」を「鉄砲」とうのは形状からだし、「鉄火巻」は「鉄火場」(賭場)で食べられたからで、「干瓢」を「きづ」というのは名産地の京都・木津から来ているし、「げそ」というのはタコなどの「下足」が縮まったものだし、卵を「ぎょく」というのは「玉子」から、「あがり」が最後に上がるときに飲むもので本来は途中で飲むお茶は「お茶」でいいのだ。
こういう用語を職人が使うのはいいのだが、何も職人におもねって客がいうことはない。江戸っ子がそんな風に通ぶったはずもなく、後に「野暮な」人々が使い始めたのである。うーん、さびの利いていない文章だなぁ。
ちなみに、寿司屋の符丁は1ピン、2リャンコ、3ゲタ、4ダリ、5メノジ、6ロンジ、7セイナン、8バンド、9キワである。「ゲタ」というのは鼻緒が3つ開いているから。「ロンジ」は「ろ」の音から。「セイナン」は時計の西南の方向にあるから。「バンド」はゴムバンドに由来する。「ゲタメ」といわれると3500円ということになる。
そういえば、レストランなんかで客の方が「おあいそしてくる」というのは気になる。「おあいそ」というのは「お愛想尽かしでしょうが、よかったら勘定をいただきたいのですが」という意味である。ただし、これには諸説がある。
『マグロをまるごと味わう本』(渡辺文雄編)に出てくる編者の体験談だが、あるすし屋でカウンターに座った女性がトロを注文した。店の主人は奥の若い者に「冷蔵庫からマグロを出してくれ」と伝えた。するとその女性は言った。「頼んだのはマグロじゃなくて、トロよ」…。この女性は、マグロという魚とトロという魚がそれぞれいるものと思っていたらしい。その店の主人は別に珍しい話ではないと語っていたという。こういう「半可通」になったら恥ずかしいので僕は使わない。
隠語を使う客も嫌われるというが、同時にトロばかり頼む客も嫌われるという。嵐山光三郎の『文人悪食』(新潮文庫)に出てくる話だが、三島由紀夫は寿司屋でマグロのトロをえんえんと注文しつづけたというエピソードがある。店側は、あとの客に出す分がなくなって困ったというが、「三島嫌いの人のあいだで、三島批判の噂話としてよく持ち出された」というから、そのまま受け取ることはできない。
隠語を使った落語に落語の「青菜」(柳家小さんが上手だった)がある。仕事先で「鯉のあらい」と「柳陰」(味醂で作ったカクテルみたいなもの)を出され、「鞍馬山から牛若丸が出でまして、その名を九郎判官」 「そうか、義経にしておけ」 という掛け合いまで習った植木屋が付け焼き刃で、家でも同じことと実行しようとして失敗する噺である。
□ 武田信玄はトイレを隠語で「山」と呼んだ。軍学書『甲陽軍鑑』に「信玄公、閑所(かんじょ)(トイレ)を山と仰せられ…」とある。一説には、草木(臭き)に縁があるからという…みんな駄洒落が好きだった。
社会主義者の荒畑寒村が「監獄料理」(小島政二郎『あまカラ』六月社所収)の中で豚肉とジャガイモの煮付けを受刑者の隠語で「楽隊」と呼んだと書いている。ジャガブタジャガブタの駄洒落である。えも言われぬ美味であったと、という。出獄して夫人に作らせたが、いかにしてもその味が出ない。「お前も一度入って自分で味わってみろ。工夫がつく」。そう勧め、「バカを言うな」と夫人に叱られたこともある。何しろ「天下の珍味とは、余り威張れた話でもないが、実は監獄料理である」「入獄後十日もすると、もう初めはのどを通らなかった監獄料理がうまくて、うまくてたまらくなり、肥料桶から肥びしゃくで汲み出すような朝の味噌汁が、待ち遠しくて仕方なくなる」という人だから、食べ物は楽しまなければならない。
職人用語がそのまま一般の客に使われるようになったものに焼鳥屋の用語がある。多くが英語なのだが、気づいていない人も多い。
タンtongue=舌、ガツguts=胃袋、レバliver=肝臓、ハツheart=心臓、テールtail=尻尾、シビレsweetbread=(食用の)膵臓、ミノ、カルビは韓国語、センマイ、ハチノス、コブクロ=子宮、タマ=睾丸は日本語と語源が国際色豊かなのが特徴だ。渋谷のジャンジャンの前のホルモン焼き屋で「ワギナ」というのを食べて、女の子に「どういう意味?」と聞かれて困ったこともあった。
外国語と思われていて日本語なのは「ホルモン焼き」でこれは関西で使われた「放るもの」が訛ったとされるが、ロシアのキエフあたりの方言「フォルモヌ」が語源だという説もある。この語の意味は「こまかく切る」で、ホルモン焼きは臓器を細かく切って焼くからそういうのだそうだが、どうしてこんな複雑な語源説が出てくるのか分からないくらいだ。
どれも諸説があるが、隠語だけにホントの語源は分かりにくい。
細かい個々の単語については古いけれど楳垣実『隠語辞典』(東京堂)が詳しい(2001年に米川明彦の『隠語辞典』という決定版が出た)。
□ 隠語の構成法にはおよそ10種類が考えられる。安藤正次の『異名隠語の研究』が土台だが、安藤は最初の8つをあげている。
1)音節の転換 例、エンコ=公園、ドヤ=宿、ネタ=種、ドサ=里、チク(口)る=密告する
2)形状の類似 例、モク(雲)=煙草
3)色彩の類似 例、カラス=冬服巡査、アカトンボ=唐辛子
4)連想 例、フクロウ=昼寝、テラサカナ(寺肴)=豆腐
5)動作 例、コソドロ=小盗
6)比喩 例、ムスメ=土蔵
7)字謎 例、九ノ一=女、ミョウ(妙)=少女、ネトラマ=牛肉(子寅間)、情夫のことを「トイチ」と言うがこれは「ト一」で、「上」を分解したもの。
8)音節の省略 例、ノコ(ギリ)、(ケイ)サツ
9)読み換え 例、スイ=水、ガン=眼
10)人名化 例、〜公、〜太郎□ 字謎は結構面白い。無料のことを「ロハ」というがこれは「只」を分解したもの。卵を「御所車」というがこれは中にキミがいるからである。穴のない針を待ち針というのは糸が来るまで待っているからだが、小町針というのは結婚しなかった小野小町のように(ホントかどうかしらないが)穴が開いてないからだとされる【と書いていたら凸版印刷の人から袋の口の閉じてしまっているのを「小野小町」と言う話を聞いた】。針と女性を関係づけるのはフランス語も同じで、アソコを“chat”(猫!)というがこれは針の穴の意味の「めど」“chas”から取ったものだ。
中には分からなくなった隠語も多い。「キセル乗車」というが、キセルを知っている人が少なくなって、「金属と金属の間を竹でつないであるから、途中の運賃をごまかすこと」といっても分からない。ただ乗りのことを「薩摩のかみ」というが、「薩摩守忠度(さつまのかみただのり)」に由来する。狂言にも『薩摩守』というのがあって「船賃は」と問われて「薩摩守」と答えた旅僧が、「その心は」と問われて「忠度」と答えられず、無賃で川を渡るのに失敗する。
ジャズの方ではピアノをヤノピーといったり、マネージャーをジャーマネといったり、逆さまにする。富山の売薬さんたちの隠語も同じように逆さまにするものが多い。いつか日本ジャズ界における売薬の影響という論文を書こうと思っている。そういえば、シャープス&フラッツの原信夫さんは富山出身だ。
声楽家の妻から「ゲー万」とか初めて聞いた時には何が何だか分からなかった。ギャラのことを符丁でいうのだ。音階を数字に当てはめてCから始まるハ長調でいう。イタリア語のドレミを使わないで、ドイツ語読みする。1ツェー、2デー、3エー、4エフ、5ゲー、6ハー、7イー、8もツェーになるので、オクターブを略してタブということがある。9はナインスという。
数字を符丁にするのは値段を知られたくないためである。
「1・2・3・4・5・6・7・8・9」をそれぞれ、漁師は「シ・ラ・ハ・マ・ノ・ア・サ・ギ・リ」というし、荒物屋は「ツ・ル・カ・メ・マ・イ・ア・ソ・ブ」、古着屋は「フ・ク・ハ・キ・タ・リ・メ・デ・タ・ヤ」、大阪の八百屋は「ウ・メ・サ・ク・ラ・マ・ツ・タ・ケ」などという。
□ 小説で隠語が効果的に使われることがある。
井伏鱒二の『駅前旅館』も多かったが、田中小実昌『香具師(やし)の旅』には次にような隠語が出てきたので抜き出してみた。テレビでお馴染みになっている言葉も多い。
どういう構成になっているか考えながら見てほしい。語源については『隠語辞典』(東京堂)を見てほしい。
ゴラン=子供、ケズむ=貶む、ガイキチ=きちがい、バタコウ=乞食、バイ=商売、タンカバイ=口上商売(寅さんの商売、ロクマともいうが、催眠【ミンサイ】術、蛇【ネキ】屋などはジメ師という)、バイネタ=商売品、ゴロ=喧嘩、ロク=仏、ビタ=旅、ロクマ=易者、ブショウシ=賭博師、高市(タカマチ)=祭祀(⇔平日ヒラビ)、タレこむ=密告する、ゲソマツバ=靴修繕針、ゴト=いかさま、ムショ=刑務所、サマバア=婆様、パイオツ=乳房、ドエ=東京、ヘギバ=寝場所、ネリ公=シラミ、スイバレ=雨降、ゾウヨ=炊事、ナシ=話、キスグしてる=酔っぱらっている、タチケン=立見、ガツ=正月、ネタ=材料、ジン=人、ノリサマ=汽車賃、ランパリ=服、トモ=元、タク=口上、タンカ=口上、モンモン=入墨、トハをおる=サクラになる、バイナマ=売上金、サンズン=三寸台、コバイ=汽車で商売、ニワバ=縄張り、アイクチ=仁義、ベテン=頭、ハクい=良い
鱒二の『駅前旅館』では「ソハヤマタオ一メ三イマノタ」というのが出てくる。「長野の山田さん、殿方1名御婦人3名様が今列車に乗った」という電報で電報代を1字分でも節約する工夫だった。当時の旅館同士の符丁では、長野は名物のソバを略したソハだ。新潟はコチで、越後を逆さにしたゴエチを縮めたものというからやっぱり隠語になっている。
□ 映画『男はつらいよ』の寅さんもテキヤだけに隠語を使う。ただ、映画では分かりにくくなるのか頻繁には出てこない。
出てくるのは口上の時にだけである。
「てーしたもんだよカエルののしょんべん、見上げたもんだよ屋根屋の褌(ふんどし)」というのが最も多く使われるもので隠語の一種といえる。映画では「褌」だが「きんたま」と言ったらしい。
「てーしたもんだよ」が分かりにくいが、これは「田へしたものだよ」で訛って「てーしたもんだよ」になった。
□ 2000年2月にJR観光キャンペーンのキャッチコピーが取り替えられるという事件があった。
滋賀県のコピーが「さんずいの国へ」だったのが、「水色の国へ」と急に差し替えられたのである。
何と警察の隠語で「さんずい」が「汚」の偏から「汚職事件」を指すので逆にイメージを傷つけるという判断だった。
2万枚以上を撤去したというから過剰反応といえよう。
だって誰も知らない隠語だし、滋賀、大津、長浜など「さんずい」の国なのだから。
□ 文字にも集団語はある。学園紛争当時の立て看(板)がそうで、中国の略体字を使っていることが多かった。自衛隊には【車+ラ】で「ランチ」、【車+ト】で「トラック」というような略語があるそうだ。
ネットが普及してから使われているフェイスマークも集団語の一つと考えられる。(^^; とか (;_;) (/_;) (T_T) など色々な種類があって、これらは集団を形成しているという気持ちを共有させた。最近のように、誰でも使うようになると、その「隠語」的な雰囲気はなくなってきたが…。
□ 食堂などで注文の数の間違いを防ぐためにさまざまな符丁が用いられることがある。重金敦之が『食の名文家たち』(文藝春秋)の中で書いているのは不思議な蕎麦屋の符丁である。「天つき三杯ののかけ」(天ぷらそばが一杯に、かけ二杯)、「ざるまじり五枚のもり」(ざるそばが二枚、もりが三枚)で、つまり「つき」は一で、「まじり」は二を表す。もり、ざるは「枚」で数え、種ものは「杯」を使う。二種類の注文が奇数で出ると「勝ち」をつける。「天ぷら勝って五杯のおかめ」といえば、天ぷらそばが三杯で、おかめそばが二杯の意味で偶数なら「と」を使って、「天ぷらとおかめで六杯」という(それぞれ三杯)。
なお、反社会的な集団の符丁言葉には上記の香具師系、博徒系、掏摸系、盗賊系があるというから奥は深い。
最近、情けないのは「チョベリバ」だとか「チョベリグ」「ピー」だとかといって女子高生の隠語を最近の流行語で知らなければならない語のように扱う風潮である。女子供の言葉に中年男性が鼻を長くしている(本当に使っていたのかどうかも定かではないが、噂だけが残った)。
辞書はこうした流行語を流行を見切って登録しなければならないから大変だ。「ため口」というのを最初知らなかったが、そのうち、何となく分かってきて、最後には『三省堂国語辞典』などに載るようになってきた【[俗]同じ力関係(の人)。同い年。「あいつとおれは―だ・―口(ぐち)をきく[=対等なことばづかいをする]】。
「先ず顔を良く見て、面(ラツ)がハクけりゃ」といって銀座並木通りでナンパするのは『太陽の季節』だが、「ラツ」はなくて、「白い」は「〔もと、盗人・てき屋の隠語〕(主に容貌が)良い。美しい。『第一、容貌が―・いぢやありませんか/初すがた(天外)』」などと『大辞林』には記載されていた。
売春を「援助交際」というのは(きれいな言葉?への)言い替えでまだ罪の意識も感じられるが、これが縮められて隠語化して「エンコー」になった瞬間、罪の意識は消えてただの売春婦に成り下がるのだ。
蛇足ながら、吉原の遊女は里詞・廓詞(さとことば)、いわゆるアリンス言葉という特殊な言葉遣いをしていたでアリンス。この理由は、
1.田舎の訛りを隠すため
2.身分の上下のない『吉原』を強調するため
3.『里詞を熟知していれば通人』ということで、客を喜ばせ、呼び寄せるためといわれている。集団語を使ったとたん、急に仲間になって偉くなったと感じるようなものでアリンス。
□ 若者言葉の中でただ、「キヨブタする」は少しだけ評価していい。「清水寺の舞台から飛び降りたような気持ちで物事を始める」を一言で言い表しているからだ。もっとも江戸時代には「初鰹まだ舞台から落ちられぬ」という川柳があって、女房を売ってでも買おうかどうしようかという気持ちがよく出ている。「ドナドナ」で「上司の誘いを断れずに飲み屋に連行されること」をいうのもいいかも。
また、英語でも「ブランチ」というのはブレックファストとランチを合わせた言葉で積極性を感じる。これを「朝食兼昼食」といってしまうと、不精者の食事みたいでいけない。
米原万里は『心臓に毛が生えている理由』(角川学芸出版)の「あけおめ&ことよろ」で省略語を擁護している。
すでに四半世紀前に清水幾太郎も『日本語の技術』で「日本の小学校で四〇分間の授業で伝達しうる情報量は、アメリカの小学校で同じ四〇分間の授業で伝達し得る情報量の半分から三分の一」と指摘している。日本文学作品とそのロシア語訳、ロシア文学作品とその和訳の同じ箇所の音節数を較べてみても、日本語の方が二割以上多い。
そんな日本語が編み出した時間節約の天才的裏技が語の後部を潔くカットする方法。原子力発電所→原発、デモンストレーション→デモ、インスタントラーメン→インランという具合に。わたしも何度助けられたことか。だから、「メリクリ」と言っていた若者たちが一週間後には「あけおめ&ことよろ」と言葉交わすのに私は眉ひそめたりしない。ちゃんと日本語の伝統に則っているのだもの。
実は、僕も正月に学生に会って、しかも松の内を過ぎている時に、改まって「明けましておめでとうございます」というのが恥ずかしくて「あけおめ&ことよろ」と短縮形にしているところだ。
若者が積極的に新しい言葉を使うのは若者言葉に集団性があり、年寄りと違う言葉を使う快感があるからだ。若者言葉は娯楽機能と会話促進機能を兼ね備えているのである。
□ 最後に忘れてはいけないものに「マニュアル日本語」というのがある。これは隠語ではないし、内向きの言葉ではなくて外向きだが、型にはまっていて、ある集団しか使わないという意味で「集団語」の一つとして数えられるかもしれない。ファミレスに行って変な日本語と感じるのは多くが英語などのマニュアルをそのまま翻訳して日本語にしているからだ。
□ さて、ようやく本題に戻る。
「テイめられたシャ」というのは何か?
これはウチの学校の事務官が教官会議で条文を読むときに「定められた者」というのを「テイめられたシャ」と読んだことから取っている。
会社人間でも一日のことをイッピと呼ぶことがあるが、これと同じで「テイめられたシャ」と読むことによって、自分は事務官としての誇りと尊厳をもっているのだぞ、という言外の意味を伝えているのだ。何も長い語を縮めたわけではない。ただ、フツーの読み方をしていないのである。ある人に聞くと「立会」をリッカイと呼ぶこともあるという。
何も分からない頃、「官僚制」のどこが悪いのかよく分からなかった。勉強さえすればどんな家庭の人も平等に官僚になれるし、賢い人ばかりで何が問題なのだろうかと思っていた。
しかし、「勉強」の中身が問題だし、官僚になってからは他人のことを考えずに自分のことを考える人ばかりで、さすがに失望した。
「テイめられたシャ」とか、「該当のシャ」とか彼らが平気で使うのは官僚としての自分を誇示するためなのである。木っ端役人でも「テイめられたシャ」をやたら使いたがる。
明治の中頃だが、寺田寅彦が9歳のころ、父親が官職を辞した。寅彦少年は近所の人に「うちのお父さんはゲジゲジだよ」と話したという。後年の随筆によれば、当時の陸軍では官職にない人を俗に「ゲジゲジ」と呼んだという。非職の「非」を虫の形状になぞらえた。子供が口にするほどに広く流布していたらしい。官僚は人間をゲジゲジにしか見ていない。
気象庁では「百葉箱」というのは「ひゃくようそう」というのが正しかった。というのも「箱」は「窓」の意味だったから、という人もいる(最近は「ひゃくようばこ」でもよくなったが、百葉箱自体がなくなった)。
内閣法制局では、言葉に厳格に特定の意味をもたせ、「直ちに」には一番早く、「遅滞なく」は合理的な期間内に、「速やかに」は切迫性の最も薄いものだという。
石井研堂『明治事物起源』(ちくま学芸文庫)の「漢語の流行」によれば、日常会話に漢語を使うのが流行したのは不思議で、その原因は「維新の風雲に際会してにはかに擡頭せる官吏は、多く月落ち鳥啼いて的書生畑より出でし人々」だからだ、と分析している。書生出身の官吏が難しい法律用語を作ったのだ。
井上ひさしの『にほん語観察ノート』(中央公論新社)によれば、役人の言葉の特徴は次のようだと要約している。
- 漢語を多く使う
- カタカナ英語を多く使う
- 造語を多く発明する
- 独特の言い回しを多く使う
そして、官僚の精神を素描して次のようにいう。
<自分たちにはわからないということを隠すためにいっそうむずかしく表現して国民を煙に巻き、一方、わかり切ったことをわざわざむずかしく表現してみんなを面倒がらせ、それによって自分たちを堂堂として、おごそかで、いかめしい存在に見せたがる人たち>
□ ちなみに官僚用語は日本だけではない。英語でも格式張った表現を使う。例えば、
I would like to express my appreciation for...→Thank you.
due to the fact that→because
in the month of May→May
enclosed herewith, please find→here is【同封しますからご査収ください】また、単語でも難しくいう。
appreciable→many
optimum→best
consequently→so官僚用語は“gobbledegook/gobbledygook”というがアメリカ下院議員モーリー・マーヴェリック(Maury Maverick)が七面鳥の鳴き声から命名したといわれる。別に官僚でなくても使う。“Is there any history of cardiac arrest in your family?”といって“We never had no trouble with the police.”と誤解されたという話が残っているが、“arrest”は一般の人には「停止」ではなくて、「逮捕」という意味しかないからだ。
また、アメリカ商務省のパソコンには官僚用語の多用を防ぐために、特別なプログラムが組み込まれていて、官僚用語を使うと赤ランプが点滅するという噂を聞いたことがある。
□ 官僚制の腐敗が一般の人にそんなことが分かるはずもなく、言葉の表面的な意味に踊らされている。
日本の官僚が「スキーム」などという言葉を使うのは「北陸新幹線問題で後退した状況」というのをごまかすための言葉である。敗退のことを「転進」といっていた戦時中の大本営と変わらない。
ユビキタス (Ubiquitous) なんていうのも、もともとはキリストが至る所に存在することを示す宗教用語だったのだが、勝手に推賞されるようになった。アメリカでは“ubiquitous mosquitos”など「逃れられない」というマイナスのイメージもあるのに、である。
ただの「ゴミ置き場」を「ゴミステーション」なんて書いたりする。うちの近所では「バスステーション」の横にこの「ゴミステーション」があるので、おばあさんが間違ってそちらに立っていたら、そのまま捨てられた、なんてことがあった。
政治学者の丸山眞男は次のように『日本の思想』(岩波新書)の中で述べている。
(集団のタコツボ化がすすむと)会社であれ、大学であれ、組合であれ、当然うち同士だけで通用するいろんな価値規準なり、言葉というものが発生し、そこから集団内部の言葉の隠語化がおこってくるわけであります。その集団の内部だけで通用するものの考え方感じ方が発生し、しかもそれがだんだん沈殿してくるわけです。つまりアウツに対してインズの了解事項が集団の下層に沈殿してきますと、お互いの間同士ではそんなことは当然でいまさら議論の余地がないと思われることが、だんだん多くなってくる。take for grantedという、つまり当たりまえで、もう言わなくても分かっていて、問題はそこから先にあるとして片付けられる部分が、集団意識の下層に沈殿して非常に厚くなってくるわけです。
□ 官僚たちは大学で「難解」な哲学を学びすぎたのだろうか。
いいや、官僚たちが一般人に通用しない用語を使うのは、やくざと同じ精神構造なのである。隠語は閉鎖社会の闇に育つからである。
官僚たちの陰謀は一般社会にも及び、「名ばかり店長(管理職)」などといって残業手当をケチるために「店長」という名前が使われるようになった。しかし、これはアメリカでも同じらしくて、waiter/waitressがなくなり、serverと呼ばれるようになり、associateになっているという。associateというのは「共同経営者」とか「仲間」という意味だ。これを学んだ官僚たちは「助教授」(assistant professor)を止めて、「准教授」(associate professor)という落ち着きにない名前に変えてしまった。
最後にここまで偉そうに書いてきたが、僕自身が「者」だと思うことがある。こんな文章に触れた時だ。
ところで、私はこれまで自分を 自分を「学者」と自己規定したことは一度もない。私にとっての「学者像」は、まず専門分野について圧倒的な知識量があって、さらに学問としての「体系」を身につけている人というイメージである。私の「学者像」が少し古いのかもしれないが、それが私の感覚なのである。何かのまちがいで「国文学者」などと書かれてしまったことはあるかもしれないが、それは不本意なものでしかない。だから、無邪気に「学者」と名乗っている大学教員を見ると、見ているこちらの方が恥ずかしい思いに駆られるのが常である。-----石原千秋『漱石と三人の読者』(講談社現代新書)
つまり、僕は「言語・学者」ではなくて、「言語学・者」なのである。
※その後、ある人から次のようなメールが届いた。
私も現役の「事務官」なのですが、病院の窓口に出ていることもあり、できるだけ難解な言い回しはしないようにしています。
私の厚生省の内部では(現場にちかい職場では)あまり使われない言い回しですが、私たちの監督官庁では少しその傾向があるようです。
前に人事院の説明会に行って、「テイめるシャ」のような言葉を連発されまして、最初はなにのことだかわからずに、2回目からは「何でこんな言い方をするのだ」と発言したくなりました。長い言葉を省略するのならともかく、文字数なんかほとんど変わらないのにね。私たちの職場では立会(リッカイ)ぐらいです。
どの職場にもリッカイ不可能な言葉がある。
□ このエッセーを書いてから国語学者・米川明彦『若者語を科学する』(明治書院1998)が出版され、集団語のうちの、特に若者の隠語に関しての詳しい研究がされている。若者語とは「仲間内で、会話促進・娯楽・連帯・イメージ伝達・隠蔽・緩衝・浄化などのために使う、規範からの自由と遊びを特徴に持つ特有の語や言い回し」と定義されている。したがって「新方言」は必ずしも若者語ではないとしている。
定義にもあるが、若者語の機能を次のようにあげているが、僕は娯楽機能と隠蔽・連帯機能だけで充分説明できると思う。娯楽と会話促進、緩衝、浄化機能は似たようなものだし、イメージ伝達機能というのは若者語でなくてもあるからである。
2001年夏にフランスでも官僚用語は止めようと言う動きが出た。
フランスでは16世紀に行政文書をラテン語からフランス語へ変更したが、ラテン語を起源とする表現や用法が行政文書に数多く受け継がれている。持って回った表現が多く、一般国民からは「尊大な印象」「意味不明」「理解できない」といった不満が強かった。
仏政府は2000以上に上る各種の行政文書のうち、利用頻度の高い所得申告書や相続申告など6種類の文書を手始めに、秋までに分かりやすい文章スタイルに改める方針。 一方で、行政文書の表現からラテン語の起源を消すのは「国語力低下の裏返し」というフランスならではの声も出ているそうだ。
日本では2001年12月に文化庁の文化審議会(高階秀爾会長)が年明け早々にも公表する中間まとめについて審議した。しかし、事務方が提出した「中間まとめ案」の表現をめぐり、委員から「お役所言葉になっている」などの苦言が続出。よりメリハリのある表現に改められることになった。
審議会はこの日、中間まとめについて事務方の「案」をもとに詰めの審議を行ったが、その文中に「必要であると考えます」「求められると考えます」「考える必要があると考えます」など、歯切れの悪い表現が多用されていることに、批判の声が相次いだ。
ある委員は「最近の若者たちが使う『〜っていうか』や『〜みたいな』と同じで、責任が感じられない表現」と指摘。別の委員は「文中の『弾力的に』とか『検討する』とかはお役所言葉的。もっと明確に表現すべきだ」などと求めた。
ところが、中間まとめに日本語の悪い面が出てしまって委員から苦情が相次いだ。
2004年10月に中越地震が起きて、せき止められたところに水たまりができて「天然ダム」と名づけられた。「天然ダム」は学術用語なのだ。ところが、「天然ダム」の「天然」には美しく貴重といった意味合いがあって、悲惨な災害現場の表現としてふさわしくない。そんな意見もあり、新潟県中越地震の被災地の形容としてはひかえたい、と国土交通省が言いはじめ、代わりに「河道閉塞(かどうへいそく)」という言葉を使うことになった。読売新聞は「土砂崩れダム」という表現(これも学術用語)を使うという。朝日は「土砂ダム(天然ダム)」と表記するが、土砂が溜まったダムみたいだ。
東京の都立高校では2007から「奉仕体験活動」が必修科目になる。「奉仕」は、奉り、仕える。古来、上下関係を前提に主君や師に尽くすことを意味してきた。美しい言葉と思う人もいるかもしれないが、おしつけがましいと感じる人もいるだろう。「ボランティア」にすれば歴史の澱(おり)を感じさせないのにと思う。