北陸新幹線問題を論ず
名前ってなに?バラと呼んでいる花を
別の名前にしてみても美しい香りはそのまま。
だからロミオというお名前をやめたところで
あの非のうちどころもないお姿は、呼び名はなくても
そのままのはず。ロミオ、その名をおすてになって、
あなたとかかわりのないその名をすてたかわりに、
この私を受けとって。
------シェイクスピア『ロミオとジュリエット』(小田島雄志訳)美しき花もその名を知らずして文にも書きがたきはいと口惜し。
------正岡子規『墨汁一滴』星野富弘 「花の名前」(『鈴』)
花の名前を 知らない
そのことが
今朝は ばかに嬉しい
花だって たぶん
自分に付けられている
名前を知らないで
咲いている「【裁判制度というものは】たとえば、そうだな、タコのようなものだよ。深い海の底に住む巨大なタコ。たくましい生命力を持ち、たくさんの長い足をくねらせて、暗い海の中をどこかに進んでいく。僕は裁判を傍聴しながら、そういう生き物の姿を想像しないわけにはいかなかった。そいつはいろんなかたちをとる。国家というかたちをとるときもあるし、法律というかたちをとるときもある。もっとややこしい、やっかいなかたちをとることもある。切っても切っても、あとから足が生えてくる。そいつを殺すことは誰にもできない。あまりにも強いし、あまりにも深いところに住んでいるから。心臓がどこにあるかだってわからない。僕がそのときに感じたのは、深い恐怖だ。それから、どれだけ遠くまで逃げても、そいつから逃れることはできないんだという絶望感みたいなもの。そいつはね、僕が僕であり、君が君であるなんてことはこれっぽっちも考えてくれない。そいつの前では、あらゆる人間が名前を失い、顔をなくしてしまうんだ。僕らはみんなただの記号になってしまう。ただの番号になってしまう」
------村上春樹『アフターダーク』何とも、すごいね、このタイトル。
これではまるで政治的な問題を真剣に語るみたいだ。
でも、北陸新幹線をめぐる言語学的諸問題とは「長野行新幹線」の名称をめぐっての話である。
□ 長野五輪の直前、97年10月に長野まで新幹線が開通した。
特急「白山」で東京を往復したものにとって、横川―軽井沢間は2両連結の「ロクサン」とか「峠のシェルパ」とか呼ばれたEF63に牽かれてのんびりと碓氷峠を越えたことが実に懐かしい。
昔はアプト式と呼ばれる歯車のついた第3軌条があってもっとゆっくりしていたようだ。スイスの登山電車にはまだいっぱいアプト式が使われている。勾配はもっとすごくて、ケーブルカーのようである。
「白山」は54年10月客車急行でデビューして72年3月に特急に、10月には2往復、73年に3往復となった。85年の上越新幹線開業で2往復、92年1往復になってしまっていた。新幹線利用が最短で3時間8分なのに5時間38分もかかった。特に碓氷峠は2両の機関車の切り離しがあって4分間停車となった。
僕自身、新幹線が大宮止まりの時は利用したこともあったが、東京乗り入れしてから「白山」に乗ることは少なくなってしまった。
そして、峠の釜飯も懐かしい。うちまであの釜を持ってきて雑炊か何か作る時に使おう、なんていいながらゴミになった家庭がいっぱいあることだろう。
新幹線の車内で売ることに決まったが、重くなるので容器は軽いものになるそうだ。
□ この路線が新幹線のために廃止され、その新幹線の名称が「長野行新幹線」(「行」は小さく書くのが本当)になった。
じゃあ、東京行きは「長野戻り新幹線」なのかというとそうではない。
どうしてすっきりと「長野新幹線」にならないかというと、富山や石川などの北陸新幹線を期待している県が反発するからである。長野新幹線というと北陸新幹線の灯が消えたように感じるからダメなのだという。
では、「北陸新幹線」ではどうかというと、表面的には「北陸方面に向かわれるお客さんが間違われると困る」といっているが、北陸まで作る気がないJRは長野で打ち止めしたいので使いたくないのだ。
国の新幹線建設計画の中での路線名(路線名と線路名は異なる)は「北陸新幹線」なのだからカンシンセン話なのだ。
「長野行新幹線」というのはそうした政治状況の産物なのだが、困るのはお客である。
大宮駅で切符を買う人は「長野行新幹線の東京行きください」などと紛らわしいことをいわなければならない。
高崎から時間ぎりぎりに間にあって乗り込んだお客が汗を拭いているといきなり、「本日は長野行新幹線をご利用いただきありがとうござました」といわれると度肝を脱ぐことになる。慌てて飛び降りて死ぬ人がいっぱい出てくる?
こうなったらいっそ「長野止新幹線」という名前にすれば分かりやすい。
実際に長野駅では「長野行」ではなく、単純に「新幹線」というらしい。そりゃそうだ。和風割烹に行って「酒」といえば日本酒だもの…。
テレビも新聞も車内放送も「長野新幹線」となるという。テレビで英語表記を見ていたらNagano Shinkansenになっていた。
笑えたのは長野新幹線は「浅間山」から取った「あさま」だったのだが、上越新幹線の「あさひ」と誤乗車する人が絶えず、2002年12月から「あさひ」を昔の名前の「とき」に替えたことだった(「とき」というのは1997年まで上越新幹線の名前として実際に使っていたが、列車名を行き先別に変えたことで、なくなっていた)。「ま」の抜けた話だったが、確かに長野・上越新幹線のホームは結構遠くて、探しているうちにギリギリになり、そのまま間違えて乗りそうになる。
「上越」といえば、新潟県では地図上の上にある地域を「下越」と呼び、「上越」は地図上の下にある地域を指す。これは京都を中心に昔は考えたからである。北関東でも「下野」が上の方にあり、「上野」は下の方にある。
□ 新幹線問題は富山県にとっての大問題である。加越トンネルという、路線が変わって無駄になってしまった建築物も抱えている。インターネットで加越トンネルの活用法を探っているが、トンネルの先は闇だ(現在ホームページはトンネル同様に閉鎖)。
この話はTBSの『噂の東京マガジン』の「噂の現場」にも取り上げられた。
政治課題で在来線がなくなるといわれているのに、政治家は在来線も残して新幹線も作るといっている。虫の良すぎる話である。横川―軽井沢がなくなったのは「県民性の違い」だというが、県民性の違いで天からお金が降ってくることはない。「ストロー効果」で客がみんな東京へ流れる可能性も大きい。
実はややこしいのは名前だけでなく、規格も随分複雑になっている。つまり、広軌の従来型新幹線用の路線とミニ新幹線用の路線とが計画されていて、しかも両方の起動を走ることができる(車輪の間が狭くなる)新幹線の話も進められていて誰にも分からなくなっているのだ。
僕自身は新幹線があればいいとは思うが、ミニ新幹線でもしなければ後が大変だと思う。新幹線が欲しい、という人の多くは新幹線工事が欲しいだけである。
□ 多くの新聞では「長野新幹線」と表記することにしたらしい。でも、北陸と関連づける時には「長野(北陸)新幹線」と表記するようだ。しかし、すぐに(北陸)が取れることは明らかだ。
そのうち、『長野行新幹線東京行新幹線内殺人事件』という推理小説が出るに違いない。時刻表トリックを使い、内容は北陸新幹線を実現しようとしている政治家が殺されて、その背後に善光寺のお坊さんと金沢にいる愛人と富山の薬売りの三角関係、そして…という事件だ。冒頭はお坊さんが金沢駅で、後の愛人に声を掛ける。「姉さん、粋だねぇ」「いえ、帰りなのよ」…。
と、僕が考えなくても、CMがやっていた。Wikipediaによれば、次のようなJR東日本のCMがあったという。通信士役として田中麗奈が出演したが、秋田新幹線版と2本あったという。何のパロディか?
1997年秋の長野新幹線開業に際し放映されたもの。
長野へ向かう作戦に際して潜水艦ごと長野へ向かおうとする艦長に対し、海のない長野へどうやって行くのかと副長が疑問を呈したところ、通信士が長野へは新幹線が便利である旨を上申する。副長がそれを支持するも、艦長は川を遡り長野へ向かえと命令を下す。それを「あなたは間違っている!」と副長が諫める内容。
30秒枠版では新幹線案を支持する副長に対し、艦長が「貴様は鉄道マニアか。電車の旅大好き人間か!」と罵倒するという、鉄道会社にとっては自虐的ともいえるシーンがあった。
#98年6月の時刻表から「行」が取れていることが判明した。上記のCMは『クリムゾン・タイド』のパロディになっている。
そう思っていたら、村上春樹がこんなのを書いていた。
「最近の新幹線はどうもいかんですなあ。この前なんか、広島まで行こうと思ったら、仙台でおろされまして」
「いや、私の乗った新幹線もひどかったです。ちょっと運転席を見たら、大きな猿が運転しているのです」【…】-----村上春樹『うさぎおいしーフランス人』(文藝春秋)
□ ついでに鉄道の路線名に関して言語学的な話をしておく。
正確に言うと路線名と線路名というのは違って、前者は山の手線など運行している路線の名前であり、後者は「山の手線」は東北線と、東海道線、山の手線などを使っていることになる。つまり、東北線や東海道線を走っている「京浜東北線」という路線はあっても線路はないことになる。「埼京線」も同じだ。
さて、路線名は大きく五つに分けられる。
一つは地域方式であり、これは東北本線、北陸本線、東海道線というように走る地域をそのまま使っているものである。もちろん、北陸本線が米原まで行っているように地域のずれがある。
二つ目は終着駅方式である。氷見線とか城端線とか富山港線とか、終着駅の名前を路線名にしている場合が多い。無関係だが、ロシアには終着駅を始発駅の名前にする慣習があり、つまり、東京駅を終点から取って神戸駅と命名するようなことが行われている。
三つ目は両端方式である。これは東北になぜか多いのだが、東京にもある。目蒲線というのは目黒と蒲田を結んでいるからである。東北では仙山線とか仙石線とかパッと聞いただけでは分からない名前が並んでいる。仙台―山形、仙台―石巻などの両終着駅を使ったものである。どちらを大切にするか迷ったあげくの政治的な命名だといえる。
都営地下鉄のように七号線とか三号線とかいう、番号方式というのもあったが、これは命名を拒絶したもので、東京都が利用者をいかに無視していたか分かる。
最後が通過駅方式である。これが一番問題で、東京の地下鉄が分からない原因のほとんどがこれである。つまり、最初に銀座線、次に丸の内線ができたところまではいいが、その後、どれも似たような地域、つまり、繁華街を通過することを自慢にしたために日比谷線、千代田線などがあって分からなくなり、有楽町線とか半蔵門線とかになるとまるで分からなくなってしまう。
挙げ句の果てに東西線や南北線ができて、都営地下鉄が番号方式を止めて三田線とか浅草線とかいってきたので、更に私鉄と乗り入れをしているので、ぽっと出の田舎者にはまるで分からなくなってしまった。
□ しっかし、都営地下鉄の中でも「20世紀の掉尾を飾る、お間抜け命名」として有名になったのが2000年に開業した「大江戸線」(都営12号線と仮に呼ばれていたが12番目の路線ではない)だ。
当初、路線名を公募の中から選考委員会が検討し「東京環状線」愛称「ゆめもぐら」(これも何だか分からない)と決まりかけたが、石原慎太郎都知事が6の字運転を理由に激怒して結局は第二候補及び知事が気に入っていた「大江戸線」に決まった。
都知事の秀逸なギャグセンスに拍手を送った都民も少なくないが、「三国人」などの発言もある石原都知事の時代錯誤もここまで来たかと驚く。6の字運転も右回りしか運行されないのだろうし、次の路線はきっと「高天原線」ということになるだろう。
違和感は他の路線名が「空間」的なものなのに対し、「大江戸線」だけが「時間」的なものだから生じてくる。
地名から来た「銀座線」「浅草線」や方角から来た「東西線」「南北線」など、空間的な名称です。他の都市も変わらないだろうし、昔のように「○号線」と呼んだ方がまだいい。
大江戸線はきっと職員に「大江戸捜査網」のような格好をさせて運行するのだろう。それとも、石原は営団も全部統合(大英断?)して「大江戸地下鉄網」と呼ぶのだろうか?
□ 話を元に戻すと、「長野行新幹線」というのは終着駅方式だったのか、通過駅方式だったのだろうか?
大江戸線の前に、どうでもよくなった。
春 安西冬衛(『軍艦茉莉』)
鰊(にしん)が地下鉄道をくぐつて食卓に運ばれてくる。
実は駅名についてもかなりの言語学的な話ができるのだが、簡単にしておく。欧米では目的地の名前を駅名につけることがある。パリのリヨン駅というのはリヨンに向かう鉄道が出ているから名前がつけられた。ロシアでも同じでモスクワの場合、シベリア方面はヤロスラブリ駅、サンクトペテルブルク(旧レニングラード)方面はレニングラード駅、ベラルーシ方面はベラルーシ駅などといった具合である。逆にサンクトペテルブルクにはモスクワ方面に行くモスクワ駅がある。住所を小さい方から書くのと同じように、日本人的な感覚からするとかなり変だ。
駅名については人類学者の川田順造が『コトバ・言葉・ことば』(青土社)で怒っている。東京モノレールの「羽田整備場」という駅名は「羽田」の前に来るので間違いやすい。「整備場」だけでいいはずで、わざわざ「空港は次です」などと無駄なアナウンスをしなくていい。「大井競馬場前」というのも他のどの駅も「前」でしかないのにここだけが「前」というのは不自然だ、という。
こうしたことはキリのない話で、品川駅があるのは品川区ではなくて港区だし、福岡市にあっても博多駅になっている(福岡駅は富山にある)。
□ 政治的な北陸新幹線の結論はまだまだ出ていないが、言語学的な結論は「名は体を表さない」ということだ。分かりやすくいうと、「新・幹線」はかなり古いということだ。東京駅の待合所の「銀の鈴」は銅製だということだ。「オロナミンC」にはビタミンCが入っているが、「アリナミンA」にビタミンAは入っていないということでもいい。
六十のそれも早少女(さおとめ)とこそ申せ---正岡子規
(他の句は「早乙女」となっているのにこれだけ違う字になっている)『吾輩は猫である』八で、みすぼらしい安下宿が「群鶴館」(ぐんかくかん)という美しい名前であるのを見て、猫が言う。「しかしこの下宿が群鶴館なら先生の居(きょ)はたしかに臥竜窟(がりょうくつ)くらいな価値はある。名前に税はかからんから御互(おたがい)にえらそうな奴を勝手次第に付ける」と。その後でこんな文章が出てくる。「鴨南蛮」がカラスの肉を使っていることは今はないだろうが、カモであるとは断言できない。
…職業によると逆上はよほど大切な者で、逆上せんと何にも出来ない事がある。その中(うち)でもっとも逆上を重んずるのは詩人である。詩人に逆上が必要なる事は汽船に石炭が欠くべからざるような者で、この供給が一日でも途切れると彼れ等は手を拱(こまぬ)いて飯を食うよりほかに何等の能もない凡人になってしまう。もっとも逆上は気違の異名(いみょう)で、気違にならないと家業(かぎょう)が立ち行かんとあっては世間体(せけんてい)が悪いから、彼等の仲間では逆上を呼ぶに逆上の名をもってしない。申し合せてインスピレーション、インスピレーションとさも勿体(もったい)そうに称(とな)えている。これは彼等が世間を瞞着(まんちゃく)するために製造した名でその実は正に逆上である。プレートーは彼等の肩を持ってこの種の逆上を神聖なる狂気と号したが、いくら神聖でも狂気では人が相手にしない。やはりインスピレーションと云う新発明の売薬のような名を付けておく方が彼等のためによかろうと思う。しかし蒲鉾(かまぼこ)の種が山芋(やまいも)であるごとく、観音(かんのん)の像が一寸八分の朽木(くちき)であるごとく、鴨南蛮(かもなんばん)の材料が烏であるごとく、下宿屋の牛鍋(ぎゅうなべ)が馬肉であるごとくインスピレーションも実は逆上である。逆上であって見れば臨時の気違である。巣鴨へ入院せずに済むのは単に臨時気違であるからだ。ところがこの臨時の気違を製造する事が困難なのである。一生涯(いっしょうがい)の狂人はかえって出来安いが、筆を執(と)って紙に向う間(あいだ)だけ気違にするのは、いかに巧者(こうしゃ)な神様でもよほど骨が折れると見えて、なかなか拵(こしら)えて見せない。【…】
ウニにバフンウニというのがあって、おいしいのだが、形が馬糞に似ていたためにこの名がついた。植物にヘクソカズラにイヌノフグリというのがある。ウメモドキもまるでまがい物のような響きをもつ。モチノキ科に属し、バラ科の梅とは縁遠いが、葉の形が似ているばかりに名前で損ばかりしている。
余録:ドクダミの季節(毎日新聞 2011年6月14日)
一名「ジゴクソバ」というからおどろおどろしい。東日本の一部でのドクダミの異名で、深く広がる白い地下茎を地獄のそばになぞらえたらしい。西日本では「ニュウドウグサ」と呼ぶところも多いが、各地でさまざまな異名を持つドクダミだ▲ひどいのでは「イヌノヘドグサ」というのもある。いうまでもなくあの独特の生臭いにおいのせいである。他にも「ホトケグサ」「ヘビクサ」「ドクダメ」などなど概して暗いイメージは拭えない。古名の「シブキ」も、毒気がたまるという意味に由来するといわれる▲となると「毒痛み」が転じたという「ドクダミ」も恐ろしげに聞こえるが、これは逆に毒や痛みに効く、毒を矯める‐‐つまり薬効を示すものだというのだ。俳句の季語ではもっぱら十種の薬効を示す「十薬」で通っている。今も、お茶や入浴に用いる方もおられよう▲こんな異名を調べたのも、雨の日の生け垣の下に点々と咲く白いかれんな十字の花を見たからだ。地面を覆う暗緑色の葉を背景に「今年もちゃんと咲いたよ」とそれぞれに語りかけてくる小さな妖精たちである。梅雨景色の暗がりにポッと光がともるような異空間だ▲花だけでなく、品種によって葉も楽しめるドクダミである。ゴシキドクダミという日本産のドクダミは赤やクリーム色に斑(ふ)入りの葉を変化させるのが欧米で人気となり、「カメレオン」の異名で広がった。地味ながら海外にもファンをもつ日本のスーパー雑草である▲強烈な個性ゆえにひどい名もつくが、多くの異名はむしろ実力の証明といえる梅雨時の古くからの友だ。<どくだみや真昼の闇に白十字 川端茅舎>
実はこの問題は深い。最古の言語論とされるプラトンの『クラテュロス』の中で「ヘルモネゲス」という名の人物は、もう一人の登場人物のクラテュロスから「君の名前は君本来の名前ではないね」とからかわれている。「ヘルモネゲス」とは「ヘルメスから生まれた者」の意であり、ヘルメスは富と幸運の神なのに、このヘルモネゲス君は貧乏だ。つまり、太っているのに細井さん、中畑なのに清さん、貧乏なのに金川さんというようなものだ。
この問題は20世紀にソシュールが言語記号の恣意性をごく当たり前のように講義するまで、西欧の言語思想史の核心をなしてきた(ただし、ソシュールの恣意性の考えがオリジナルかどうかというのは別の問題になる)。このあたりの事情はR・H・ロウビンズ『ヨーロッパ古代中世文法論』(南雲堂)に詳しい。また、恣意的でないという考えを「クラチュロス幻想」ということがある。
「おおい」 川崎洋(『詩集言葉遊びうた』思潮社)
【…】
おおい ウミネコ
おまえを
ミャーオと名づけ
ネコを
リクミャーオ
と呼んでもよかったな
【…】□ 「名前ってなに?バラと呼んでいる花を/別の名前にしてみても美しい香りはそのまま」とジュリエットはいうけれど、「キムチシャバダバナットークサヤダバユバオヤジノクツシタペペンペチートイドラドラ」という名前でも、薔薇の香りは同じかしら、と哲学者の土屋賢二が問うていた。
シクラメンは和名を「豚の饅頭」という。この名前で愛を歌うことができるだろうか?「かほり」を楽しむことができようか?西洋でシクラメンの根や茎が豚のえさになったことに由来するsowbread(豚のパン)の翻訳だそうだ。ただ、異名にもう一つあって「かがりびそう」(篝火草)といって、いくらかねじれた蝶形の花弁を篝火の炎に見立てた名前という。
オスカー・ワイルドに「真面目が肝心」(The Importance of Being Earnest)という戯曲があって、宝塚の「アーネスト・イン・ラブ」(瀬奈じゅん!)で知っている人も多いかもしれないが、これは拾われた子だったジャックがアーネスト(「真面目」)という名前で求婚したのだが、恋人はどうしても「アーネスト」でなければ絶対にダメ、という。つまり、ジュリエットとは正反対の主張をするので、困ってしまうというお話だ。そのうち、生い立ちが分かってきて…。
□ 「病気や飢え・寒さなどのために、路上で倒れること。また、倒れて死ぬこと」だから、帰宅途中に亡くなっても「行き倒れ」ということから分かるように、名は体を表さない。
また例えば、紙なのに「お金」といったり、CDばかりなのにレコード屋という。稲垣吉彦は『ことばの輪』(文芸春秋)で紹「木を使ってないのに枕木はおかしい」「ビニールなのに吊
つり革は変だ」という人が多いという。ならば、「枕コン」や「吊りビニール」とでも言うのか…と稲垣は嘆息している。言葉尻をとらえるのはヤボの骨頂だ。魚でもないのに「鯨」と書いたりするのは非常に多い現象である。
杉山秋人(週刊住宅情報) 近頃、娘の帰りが遅いので、
門限は8時だぞ、と注意したら、
うち、門なんてないじゃない、
と言うのですよ。金原瑞人は「カネハラ言ノ葉研究所」で次のように書いていた。
さて、この“ sperm ”でいつも頭に浮かぶのが、鯨。英語では「精液鯨」という鯨がいるのだ。“ sperm whale ”。発音すると「スパーム・ホエール」。どんなすごい鯨かというと、なんのことはない、捕鯨でおなじみのマッコウクジラ(潜水が得意で 3000 メートルくらい潜ることもあるといわれている)。最初、この英単語にぶつかったときは、なんでこの鯨が「精液」なのか不思議でならなかった。だいたい、「精液鯨」なんて、ネーミングのセンスを疑ってしまう。英語圏では、子どもといっしょに『海の生き物』なんて図鑑をみては、お母さんと子どもが「ほら、これが精液鯨」「セイエキってなに?」とかいってるんだろうか。
なぜそんな名前がついているかというと、マッコウクジラの頭にある白いどろどろの液体が精液に似ているからとのこと。これは「脳油」とか「鯨蝋」と呼ばれるらしい。それにしても、あまりな名づけ方だと思う。
これに対し、日本語のマッコウクジラは漢字で書けば「抹香鯨」。「抹香」というのは「シキミの葉・皮を粉末にして作った香……古くはジンコウとセンダンとの粉末」(大辞泉)。つまりは「香」のこと。なぜこんな名前がついたかというと、マッコウクジラの大腸にごくたまに「竜涎香(リュウゼンコウ)」という松脂みたいな物質が見つかることがあって(海岸に打ち寄せられることもある)、これがとても香りがよいので香料の原料となるからだ。ただし、どのマッコウクジラにも見つかるわけではなくて、いわゆる「病的生成物」(平凡社世界百科事典)。つまり、なにかの病気か異変によってできる珍しい物らしい。
1943 年 12 月 8 日に日本捕鯨業水産組合が発行した捕鯨便覧に、竜涎香に関する研究成果が発表されている。それによると、明治 42 年から昭和 11 年までの 28 年間に、日本捕鯨は約 4 万頭のマッコウクジラを捕獲し、そのうち雌 13 頭、雄 8 頭から竜涎香を採取したという(「海中開発と人間」より)。
まあ、英語の場合は頭の中身、日本語は大腸の中身に注目した次第……と書いたところで、中国人にたずねたら、中国語でも「抹香鯨」とのこと。ということは中国語が先なんだろうな。
ちなみに、「リュウゼンコウ」、音はかっこいいけど、漢字で書くと「竜涎香」。つまり、「竜のよだれの香」で、ちょっとつや消しなのだ。よだれたらした竜って、だめでしょう。
「豆腐」と「納豆」は逆のほうがすっきりする。美子さんが美人とは限らない。フランスでもセーヌ川に架かるポン・ヌフ(Pont Neuf)は「新橋」という意味だが、一番古くなっている。
電気ウナギはウナギではない。フレンチ・キスはフランス生まれに決まっているが、フレンチ・ホルンはドイツ生まれた。冷血動物の体温は温血動物のそれよりも高いことがある。風邪は英語でcoldというが、ベンジャミン・フランクリンが指摘したように寒さが原因ではない。
「あるのに梨」「一匹でもハチ」などというのは古来、「無理問答」といった。アッサム州はインドに、アッツ島はアリューシャン列島にある。
JR寝台特急「なは」は名前の通りに那覇には行かない。海を渡っては行けない。熊本―京都を走るだけだ。1968年に誕生し、沖縄の本土復帰を願って命名されたという(08年に廃止)。
東京の渋谷駅では「地下鉄」銀座線が3階から発車している!丸の内線だって、後楽園駅は2階だ(後に進駐軍にまだまだ日本は復興できていなくて、「地下鉄」など造れないのですよ、というスタンスからそうなったという噂を聞いた)。
上りの横須賀線は品川からずっと地下に入るがあれは「地下鉄」なのだろうか、「トンネル」なのだろうか?地下鉄に入るJRは「トンネル」を通っているのだろうか、地下鉄を走っているのだろうか?
豊島区の「南大塚」は「大塚」の南にあるし、「北品川駅」は品川駅の「南」にある。池袋で西武デパートが東口にあって、東武デパートが西口にあるのも何とかしてほしい。
「これはパイプではない」
ルネ・マグリット(Rene Magritte)なお、ミシェル・フーコーに『これはパイプではない』(哲学書房)という論考がある。
言語学者は一字一句気になる。
だからどうしてイチジクは花が咲くのに「無花果」というのか不思議だと思う。初夏、葉のつけ根にビワの実形の花托(かたく=花のつけね)がつき、この中に無数の花がある。雌雄の花がこの花托、つまり「イチジクの実」に隠れてしまうから「無花果」とつけたらしい。
また気になる。どうして浣腸がイチジクなのか?
イチジクの形が使うのに便利とだけ思っている人がいるかもしれないが、イチジクの花托はそのまま食べると美味しいが、干したものは緩下剤になる。元々イチジクに便秘を治す効用があったのだ。不思議なことに昔はイチジクの木をトイレの汲み取りの近くに植えていた家が多かった。ヤツデも多かった。
辞書によれば「いちじゅく」が正しいとも書いてある。語源は中世ペルシャ語Anjirヒンズー語Injirで中国で音訳して「(映日)インジー(果)クォ」と発音していたのが、日本で「イチジク」となったらしい。日に映えて育つ実ということで「映日果」だという説もあるし、一月で熟するから「一熟」という説もある(まあ、無理がある)。
「非時香菓」というのを知っているだろうか。「ときじくのかぐのみ」、もしくは「ときじくのかぐのこ」と読む。タチバナの実の別名だ。「ときじく」は形容詞「時じ」の連用形でいつも芳香を漂わせる木の実という意味だ。ここから不老不死の霊果ということになり、日本書紀には、天皇が田道間守(たじまもり)を常世国に遣わし、非時香菓を求めたと書かれている。万葉集では大伴家持が「この橘を等伎自久能可久能木実(ときじくのかぐのこのみ)と名づけらしも」と詠んでいる。
柳沼重剛『西洋古典こぼればなし』(岩波同時代ライブラリー)には無花果と西洋文化に関する長い考察がある。特に漱石の『吾輩は猫である』八で驢馬が無花果を食べるのを見て笑い死んだ男の話のネタがどこにあるか、という話が面白い。ディオゲネスの『ギリシア哲学者列伝』のクリュシッポスの最後の方(『岩波文庫』中巻p.360)に出ているという。でもどうして?
「 昔し希臘にクリシッパスと云う哲学者があったが、君は知るまい 」
「 知らない。それがどうしたのさ 」
「 その男が笑い過ぎて死んだんだ 」
「 へえー、そいつは不思議だね、しかしそりゃ昔の事だから…」
「 昔しだって今だって変りがあるものか。驢馬が銀の丼から無花果を食うのを見て、おかしくってたまらなくって無暗に笑ったんだ。ところがどうしても笑いがとまらない。とうとう笑い死にに死んだんだあね 」ピーナッツを「落花生」というのは正しい。花が咲き終わると、本当に生み落とすように土中へ潜り込んで、ピーナッツが実るからだ。
□ 余談(ばかり)だが、薬の名前に「〜ン」で終わるのが多いが、これはビタミンAとかBなどの影響下にあると思われる。また、語感がいいし、「運」がつくともいわれた。
今では横書き文字はすべて左から右へ読むが、昭和20年代の初めまでは右から左に読んでいた。切り替わった時、「トラベルミン」を「ンミルベラト」と逆から読んでしまうような人が多かったが、「ン」で始まる日本語はないから、すぐに左から「トラベルミン」と読むことに気づく。その辺を考えて終戦直後のカタカナの薬品名は「ン」をよく使ったともいわれている。
ちなみに、最初のカタカナ名の売薬は文化8年(1811年)に発売された「ウルユス」とされる。当時、蘭方医学がもてはやされていた頃で、西洋のイメージを醸し出すカタカナのネーミングが人々の心をとらえて爆発的に売れたという。実は、このネーミングは腸内を「空にする」という下剤のような薬効にもとづくもので、「空」の漢字を三分割して、[ウ(カンムリ)+ル+ユ]に動詞の[スル]をつけて「ウルユス」という文字遊びだった。大槻文彦は『大言海』の中で、その由来を知って抱腹絶倒したと書いている。
「名は体を表す」と言ったのはお釈迦様だった。「名詮自性(自称)」(みょうせんじしょう)というが、仏教語で「名はその物の性質をおのずから表すということ」である。
ネーミングのいい商品はヒットするなんてことはとっくに昔にお釈迦様に言われていたことなのだ。
これを突き詰めていくと、ユングのいうシンクロニシティ(synchronicity)というか、名前の偶然の一致による運命のいたずら、みたいな話になっていくので止める。
言葉はモノではない。地図は現地ではない、のと同じである。
□ 栗せんべいというのがあった。ところが、公正取引委員会が栗が入っていないのは不当表示だと排除した。大好きだったという永六輔が『学校ごっこ』(日本放送出版協会)でかみついた(『商人(あきんど)』岩波新書では「では、キリンビールにはキリンが入っているのか?…かっぱえびせんにはカッパは入っているのか?」)。
僕はいいました。
「栗せんべいのなかに栗が入ってなくても不満はありません。それはべつにかまわないと思いますが」
「でも、栗が入っていない以上は不当表示ですから、栗せんべいという名前で売ることは許可できません」
「じゃあ、うぐいす餅のなかにウグイスが入っていますか?ブルドックソースのなかにブルドッグが入っていますか?あるいはキリンビールのなかにキリンが入っているんですか?」
相手は大笑いしたあげくにいいました。
「永さん、常識です。入っていません」
「それが常識なんだったら、栗せんべいだっていいんじゃないですか」
「栗せんべいの場合は“栗が入っていない”というのは常識といえないんです。人は栗が入っているかもしれないと思う。そのことが不当表示に当たるんです」
そんなところは見逃してくれればいいじゃないですか。そうなのだ。ファンタ・オレンジにもオレンジは入っていない。だって「無果汁」って書いてあるじゃないか!?
お祭りのたこ焼き屋のおじさんに「たこ焼きにタコが入ってないよ」と文句をいったら、「メロンパンにもメロンが入ってないでしょ」と言われた。なるほど。「鉄板焼きには鉄板が入ってますか?」と言われたこともあった。こちらの方が説得力が強い?!
東京駅の地下で人形焼きの「ゴジラ焼き」というのを売っていたので「おじさん、ゴジラの肉が入っているの?」と冷やかしたら「ああ、入っているよ、はい、ひとつ」とあっさり買わされてしまった。
確かに卵焼きは卵を焼いたものだが、目玉焼きは目玉を焼いたものではない。人形焼きも人形を焼いたのではなく、人形の形に焼いたものである。イカ焼きはイカを焼いたものだが、たこ焼きはたこを焼いたものではない。明石焼きは明石を焼いたものではない。鯛焼きも鯛を焼いたものではなくて、鯛の形に焼いたものである。ゴジラ焼きにゴジラの肉が入っている訳ではない。ドラ焼きも銅鑼の形に焼いたものであるが、今川焼きは川の形をしている訳ではなく、今川が発祥のドラ焼きのことである。お好み焼きはお好みの材料をいれたものだ。鮭と野菜を鉄板で焼いたちゃんちゃん焼きはお父ちゃんが焼くからという説や、鮭を焼く時に「チャンチャン」という音がするからという説、仕事中の漁師が親方の目を盗んで浜でスコップで鮭を焼いて食べた時にちゃんちゃんこで身を隠していたことや焚き火を起こすときの火打石の音からという説など様々だ。塩焼きは塩を焼いたものではなく、塩味に焼いたものだ。生姜焼きも生姜で味を付けたものだ。でも、炭火焼きは炭火の味にしたものでなく、炭火で焼いたものだ。炉端焼きは炉端を焼いたものでなく、炭火で焼く。ホルモン焼きはホルモン(ホルモンが付く訳ではなく「放るもの」が訛ったとされる)を焼いたのだ。鉄板焼きは鉄板で焼いたものだが、すき焼きは昔は鍬で焼いたものの、今は使わずに肉を焼いてから煮る。串焼きは串を焼くのではなくて、串に刺したものを焼く。石焼きは石を使って焼くのだが、直接石を使うのではない。鍋焼きは鍋で焼くのではなくて煮る料理である。雀焼きは雀を開いて頭ごと照り焼きにしたもの(「頭ごと背びらきにしたフナのつけ焼き」で形がふくら雀に似ているので言う)だが、鴫(しぎ)焼きは「ナスに油をぬり、火であぶってみそをつけた料理」だ。田楽焼きは「野菜・魚などを串に刺して焼き、みそをぬった料理」である。「岡焼き」というと野焼きの一種ではなくて、「直接自分にかかわりがないのに、他人の仲のいいのをねたむこと」である。野焼きは野を、山焼きは山を焼くが、浜焼きは浜を焼くのではなくて、浜で魚介類を焼くものだったり、「鯛などを高熱の釜で塩焼きにしたもの。もと、浜べの塩釜で蒸焼きにした」ものである。産業廃棄物を焼くのも「野焼き」というが、窯に入れないで陶芸を焼くのも「野焼き」だ。炭焼きは炭で焼くこともあるが、炭を焼くこともある。照り焼きは「魚の切身を、みりん・しょうゆを混ぜた汁につけて、照り(つや)がでるように焼くこと」だが、同じことをしていてもウナギやハモは蒲焼きされる。蒲焼きは樺を焼いたものではなく、ウナギなどを丸のまま縦に串刺しにして焼いたものが、蒲(がま)の穂に似ていたからとも、形・色が樺(かば)の皮に似るからともいう。白(しら)焼きは「魚の肉などを、何もつけずに焼くこと」だが、黒焼きは黒くなるまで蒸し焼きにすることだ。軽焼きは「もち米の粉に砂糖を加え、ふくれるように焼いたもの」で軽く焼いた煎餅だが、カルメ焼きは軽めに焼くのではなくて、カルメラを作るものである。大文字焼きは山に「大文字」と焼くことであるが、地元で「大文字焼き」というのは、銀閣寺近辺で売っているアンコの入った太鼓焼き・ドラ焼きを指すので「五山の送り火」が正しい。お好み焼きをゆるくした感じのもんじゃ焼きは「文字焼(もんじ)やき」〕から来ているが文字を焼いたりはしない。どんど焼きはどうしてどんどというか分からないが、どんどん焼くからだとも言われる。根性焼きは「根性」と焼くのではなく、根性を入れる?ためにタバコで体を焼くことだ(いい子は真似しないでね)。これに唐津焼、瀬戸焼、伊万里焼、薩摩焼や九谷焼など陶磁器が加わるが、広島焼きは広島の材料をいれたものではなくて、広島で有名なお好み焼きの一種で広島以外で焼いても広島焼き。ろうそく焼きはカラスの肉も骨も一緒によくたたいて味をつけ、串の周りにろうそくのように塗りつけて焼く(里見真三『賢者の食欲』文藝春秋)。陶板焼きも陶器の板で焼くからで、陶板を焼くものではない。楽焼きは場所でも、楽に焼くことでもなく、豊臣秀吉に「楽」字の印を賜った楽長次郎に始まる。苦労して焼いても楽焼きだ。以上、大きなお世話かもしれないが、世話焼きは火で世話を焼くのではない。焼き餅焼きは焼いた餅を二度焼く人でもないことはもちろん、餅を焼く人でもなく、心を焦がす人である……と考えていると焼きが回りそうだ。
こんな風に「〜焼き」だけでも難しいから、ドナルド・キーンほどの人でも「今川焼き」を陶器の一種と誤訳するのである。
村上春樹には「とんがり焼の盛衰」という短編(『カンガルー日和』所収)がある。「とんがり焼」の新製品を作って「とんがり焼」だけを食べて生きている「特殊な鴉の一族」に合否を決定してもらう。結局、大乱闘になって「僕」は落選してしまう。
村上春樹は『うさぎおいしーフランス人』(文藝春秋)で「高僧の香草焼き」というのまで発明している(ただの火あぶりだったりして)。
ちなみに、大阪でタコを入れた「たこ焼き」が誕生したのは昭和10年で、それ以前は、タコではなく、コンニャクや牛すじ、豆などを入れ「ラヂオ焼き」と呼ばれていた。由来は「当時ハイカラな食べ物だった小麦粉と同じく、ハイカラの象徴だったラヂオをひっかけて」という説が最有力なのだが、「ラヂオ」焼くんか、お前らは!
もちろん、商品のネーミングは逆手逆手で考えるから97年9月に発売されたラーメンに「濃厚とんこつコクみそラーメン シャッキリもやし入り」とか「濃厚とんこつ背あぶら醤油ラーメン ねぎチャーシュー入り」などと目一杯に体を表しているものもある(「お千代の秘密」とか「う」「そ」などの対抗馬と考えられる)。
丸谷才一は『思考のレッスン』(文藝春秋)で「『白玉クリームあんみつ』を排す」という章を設けている。
【文芸評論家の前田愛が】「夏の月」と命名するような奥ゆかしさがまったくなくなって、ただ並列的、団子の串ざし的になっている。これが現代日本文化なんだなあと思ってびっくりしたというんですね。
□ 英語のジョークにこんなのがある。
If a vegitarian eats vegetables, what does humanitarian eat?
(ベジタリアンが野菜を食べるなら、ヒューマニタリアン=人道主義者は何を食べるのか?)□ 名前を知っていることが実体を知っていることにはならない。マルカム・ブラドベリの『超哲学者マンソンジュ氏』(平凡社)は現代思想について次のように皮肉っている。
三十数年前の、どんな田舎臭いコーヒーハウスでもサルトルとカミュの名前が聞かれぬ日はなかった時代の名声と信望が、今日また新たに復活したのである。あたかも最高級ワインの銘柄か何かのように、偉大なる名前、最高のラベルがいたるところで口にされている(実際、「デリダ」や「フーコー」を、ワインの名と勘違いしている人も少なくない)。それにまた、ワインの場合と同じく、ラベルを知っている人々がボトルの中身を知っているとは限らない。
□ ウルグアイ・ラウンドで94年に合意した知的財産権の保護協定(TRIPS協定)では、実際の原産地も併記するなどして消費者に誤解を与えないようにすれば、原則的には商品名に地名を使っても構わないとされた。この結果、「インドカレー」という商品名も、インド産カレーでなく、インド風味のカレーだと解釈される限りでは許容範囲とされた。ところが、 世界貿易機関(WTO)の新ラウンド(多角的貿易交渉)で、欧州連合(EU)が、世界各地で販売される各種商品の名前に生産地を使う際のルールを厳しくすることになった。
提案が実現すれば、原産地と異なる地域名を商品に付けることは許されなくなり、インドで実際に作ったカレーでなければ「インドカレー」といった商品名を付けられなくなる。WTOでは2002年内に結論を出すが、日本政府も「産地ブランドを守ることは重要だ」として、原則、賛成する方向で検討している。EUは具体的な対象品目を明らかにしていないが、「ブルガリアヨーグルト」「パルマハム」「パルメザンチーズ」といった商品名は、実際に現地で生産していなければ表示できなくなる可能性がある。一方、日本も日本酒や日本米、みそ、しょうゆなどで国内産地ブランドが保護される可能性がある。
これがこうじると鋤の上で焼かない限り、「すき焼き」とはいえなくなるかもしれない。
□ 落語の「てれすこ」のような事態も起きている。
1999年にJAS法が改正(2000年に施行)されて生鮮食料品に名称や原産地を表示することが義務づけられ、00年から消費者や水産業者の代表でつくられた水産庁の「水産物表示検討会」が魚介類の名前のあり方を検討してきた。
×
ギンムツ→
アマダイ→
オキブリ→
ホタテガイ→
チリアワビ→○
マジェラン・アイナメ、メロ
キングクリップ
シルバー、シルバーワレフー
ムラサキイタヤガイ
ロコガイ一番有名なギンムツは南米が原産でムツ科ではなくて、ノトセニア科で深海魚なので「マジェラン・アイナメ」「メロ」といわなければならないという。アマダイもアシロ科、オキブリもイボダイ科だという。「子持ちシシャモ」も「カペリン」というのが本当で、ノルウェーから輸入品だ。
ただ、ガイドラインは「魚介類の内容を的確に表し一般的に理解される名称がある場合は、その名称を記載できる」としていて、標準和名より一般的に広まり、過剰な高級感を与えない名前の使用は認めたという。だから、「アマエビ」は「ホッコクアカエビ」といわなくてもいいし、「キングサーモン」も「マスノスケ」といわなくてすむようになった。
ブランド名はどうかというと「関サバ」(標準名・まさば)、「越前ガニ」(〃・ずわいがに)、「明石ダコ」(〃・まだこ)は名称として使えないが、任意で併記することは認められた。
出世魚など成長段階や季節に応じた名前がある場合も「一般に理解されるものである場合は記載できる」とした。だから、富山の「ツバイソ」「フクラギ」「ガンド」は使えることになった。
□ 宮沢賢治に『よだかの星』という作品がある。普通の鳥なのに名前が「たか」ということで鷹から名前を変えろといじめられ、一方自分が虫を食べることが殺生で嫌になっている鳥の話だ。鷹に殺されるか、飢え死にする前に、もう消えていなくなって星になりたい、と願うのだ。「たか」になった一つはよだかのはねが無暗(むやみ)に強くて、風を切って翔(か)けるときなどは、まるで鷹のように見えたことと、も一つはなきごえがするどくて、やはりどこか鷹に似ていた為だった。
ある夕方、とうとう、鷹がよだかのうちへやって参りました。
「おい。居るかい。まだお前は名前をかえないのか。ずいぶんお前も恥知らずだな。お前とおれでは、よっぽど人格がちがうんだよ。たとえばおれは、青いそらをどこまででも飛んで行く。おまえは、曇ってうすぐらい日か、夜でなくちゃ、出て来ない。それから、おれのくちばしやつめを見ろ。そして、よくお前のとくらべて見るがいい。」
「鷹さん。それはあんまり無理です。私の名前は私が勝手につけたのではありません。神さまから下さったのです。」
「いいや。おれの名なら、神さまから貰ったのだと云ってもよかろうが、お前のは、云わば、おれと夜と、両方から借りてあるんだ。さあ返せ。」
「鷹さん。それは無理です。」
「無理じゃない。おれがいい名を教えてやろう。市蔵(いちぞう)というんだ。市蔵とな。いい名だろう。そこで、名前を変えるには、改名の披露というものをしないといけない。いいか。それはな、首へ市蔵と書いたふだをぶらさげて、私は以来市蔵と申しますと、口上を云って、みんなの所をおじぎしてまわるのだ。」□ 翻訳家の岸本佐知子は『ねにもつタイプ』(筑摩書房)で「赤ん坊」というのが意味を知らないで出会ったら、どんなものを想像するだろうかという。
よくわからないが、たぶん何らかの生き物なのだろう。全身が真っ赤でてらてらしている。入道のように毛のない頭から湯気を立てている。夜行性で「シャーッ」と鳴く。凶暴な性格で、小動物や人を捕らえて生で食らう。後ろ足止で立ち上がると体長十五メートルほど、大きいもので五十メートルにもなる。
嫌すぎる。見回せば、実体を知らずに字だけ見たら大変なことになりそうな言葉は他にもある。
刺身。全身をめった刺しにされて血まみれの常体。またはその人。多くはすでに死んで冷たい。
好々爺。妖怪の一種。老人のエロスに対する飽くなき執着が実体化したもの。人間に危害は加えないが、ときどき里に下りてきて風呂を覗くなどの悪さをする。【…】□ 最近は「男の保母さん」が生まれていて複雑になっている。保父さん(ワープロで変換できた!)とか保母さんとか分けること自体が男女差別につながっているからどちらもホボ同じなどといっていられない。
※この直後の97年11月に「保母」から「保育士」となることが決まった。無色透明で愛着を感じない命名だが、「保母」「保父」などは愛称として残るだろう。
□ 名前を支配することが人や物を支配する第一歩である。佐々木健一『タイトルの魔力』(中公新書)は次のように書いている。
【芸術作品に限らず】ひとでも、花でも、動物でも、強く関心をひくものに出会うと、われわれはどうしてもその名を知りたくなる。名を知るまでは、わたくしをみりょうしたそのものを本当につかまえたと思うことができない。そこにある「不安」が生まれる。青春の日々、見初めた異性が、どこの誰なのか分からなければ、その名を知りたいという欲求は切実であろう。そして、その名を知ったとき、その名は魔力を喪(うしな)うどころか、ますます輝いてくるのではないか。平凡な名であってもかまわない。彼女あるいは彼について認めた美点のすべてが、その名に響き合う。スタンダールは恋愛感情に「結晶作用」を認めたが、恋人の名は結晶の核となる。
言葉はアイデンティティと深い関わりがある。
「インディアン」を止めて「ネイティブ・アメリカン」というのもそうだし、「黒人」といわずに「アフリカ系アメリカ人」などというのもそうだ。
「エスキモー」といわずに「イヌイット」というのもそうだが、椎名誠はペンクラブの講演で次のように語っていた。
今回は日本ペンクラブという表現者の集まりですので、最初にお話ししておきます。今エスキモーという言葉は差別語だというので禁句になっていて、書いてはいけないことになっています。ところが、実際現地へ行ってみて分かったのですが、アラスカはエスキモーでいいんです。カナダではイヌイット、ロシアではユーピックと、それぞれ違うのです。
アラスカのエスキモーに聞きましたらね、「エスキモーでいいんだ」と言ってます。エスキモーはなぜいけないかって言うと、〈生肉を食う輩・奴ら〉という意味で、蔑称というふうに言われているから使ってはいけないとなっている。
しかし、実際に彼らの生活を見て一緒に生活をしていますと、彼らは生肉がすごく好きだし、生肉はおいしいし、彼らがエスキモーと呼ばれることは全く問題ない。
イヌイットっていうのは〈真の人間〉という意味なんです。カナダ政府はイヌイットと言わせるようにしているのですが、イヌイットの人たちも「俺たちはエスキモーだ」と言っています。
2008年にアイヌ民族で最大の団体、北海道ウタリ協会が、「北海道アイヌ協会」への名称変更をすることにして承認されれば2009年度から変更する。「名称変更は、私たちの子どもや孫の世代が『自分たちはアイヌ民族だ』と胸を張って生きていくための第一歩だ」という。アイヌ語でアイヌは「人間」、ウタリは「同胞」の意。2007年9月に「先住民族の権利に関する宣言」(国連先住民族宣言)が国連で採択され、協会が国にアイヌ民族の諸権利実現を求めている現状などを踏まえて、理事会が全員一致で提案を決めた。同協会は1946年の設立当時、北海道アイヌ協会の名称だったが「アイヌという言葉に差別を感じる」という会員の意見を受け、61年に現在の名称に変更した。
□ 時代と命名は深い関係がある。
「東亜国内航空」は国内線だけだったらよかったが、規制緩和で国外にも出ることができるようになって困ってしまった。「東南アジア国内航空」では昔の「八紘一宇」という感じで東南アジアの国々から反発を買うのでJAS「日本エアシステム」という割と訳の分からない会社名にしてしまった。おかげで、大阪からJASを利用した時、隣の女子大生みたいな子がきれいだったのでこれも何かの縁と思い「どちらまで?」と聞いたら、「えっ、これって全部羽田行きじゃないの」と、取り付く島がなかった。
国文学・国語学の出版社、桜楓社が名前を「おうふう」に変えた。読めない人が増えたからと「おうふう」のセールスマンが言っていて国文関係でも読めない学生がいるのか!とびっくりしたが、取り次ぎする書店員の方に問題がありそうである。
まあ、どうせなら国文関係なのだから「わふう」にしてほしかった。
□ そんなお米が売れる時代が来るとは思わなかったが、最近、売れている「無洗米」というのも奇妙だ。「無添加、無農薬、無着色」の「無」は「○○していない」意味だが、「無洗米」は洗わずにすむという米だ。米を「研ぐ」といわずに「洗う」というのにも腹が立つが、「洗っていない」米ではない。「不洗米」だと汚そうだし、「洗浄不要米」というと長くて、要らないお米だと思ってしまう。「非洗米」も落ち着かないし、「手間いらず」だと何の手間が要らないのか分かりにくいし、「洗いいらず米」がぴったりするが、長すぎる。「既洗米」や「既研米」は直接的で味気ない。じゃあ、どういえば、いいのかと聞かれると困ってしまう。
□ 東京教育大学というのも昔あった。この大学は大昔の東京高等師範学校の名残がある(田山荷袋の『田舎教師』は高師に入れないでもがく田舎教師が描かれている)のだが、東京高師の後は東京文理科大学になり、東京教育大学になった。
でも、高師の伝統を受け継いでいるのは教育学部であり、体育学部であった。別に文学部があったのだが、これはただ単に、東大ほどの文学部ではないよ、という意味しかない。
まあ、教科書裁判の家永三郎教授と英文科以外は目立たない存在だったので知らない人が多い。若い人は誰も知らなくて「潰れた大学だ」というと本当にお金がなくて潰れた三流大学だと思われて同情される。まあ、あまり立派な人も悪人も出さなかった大学だ。
他の教育大学はまさに教員養成のための大学になっている。
だから、教育大学を出ていたら教育者として適任かというとそうではない。文学部を出ているから関係がないのに教育関係の人間としか扱われない。
この割を食っているのが東京学芸大学だった。「教育大学」というのがあるものだから「学芸」と一歩下がった(?関係者はごめんなさい)表現になった。
東京教育大学が廃校になった時に名前を実態にあった「教育大学」にしようという話も聞いた。
しかし、時の流れというのはすごいもので、今ではどの大学の教育学部も教員養成からは離れていてむしろ、「東京学芸大学」の方が実態に近いものとなった。
今では他の教育大学や教育学部が学芸大学、学芸学部に変えたいと考えているだろう。
もっとも、北海道大学教育学部に入試の出前(遠隔地で入試を行う)に行ったとき、事務官が「うちは教育学部といっても教員養成ではなく、教育学を研究するところです」と自慢げに話していた。教育学というのは教員そのものよりも偉いものらしい。
トイレに入ったら、「大を出したらすぐに流して臭いが残らないようにしましょう」という張り紙がしてあって、そういう教育を大学生にしなければならない教育学だということが分かって納得した。
□ 国公立大の教員養成課程の定員は減る一方でピークは86年の20100人。 98年度は14515人である。文部省は平成12年度までに1万人に減らす計画だという。
教員資格を取ってもなかなか先生にはなれない状況だ。97年3月、国立大の教員養成 大学・学部を卒業した人で先生になった人は40.8パーセント(うち正規採用者は 21.7パーセント)に過ぎない。過去最低だ。富山大も30パーセントと、全国で三番目の低さである。子供の減少で教員の新規採用が減っていることや景気の低迷で教育系学部以外の人が、先生を目指すからだ。
激戦を勝ち抜いたのだから、優秀な先生が集まったかというとそうでもない。ぞうきんの搾り方が分からない先生、竹ぼうきの使い方を知らない先生がいる。ウサギが出産したら動転して殺してしまった問題教師もいる。同僚や保護者と会話ができない、子供をまとめる力もない新米教師も多い。幅広い教養に欠けた人も多いような気がする。優等生なのかもしれないが、面白味がない。
横浜国大、新潟大、山梨大などでは、98年度入試から教育学部の名称が消えた。4月からは、新設される教育人間科学部の中に教員養成課程として組み込まれる。
だから、慌てて名前を変えると、また変えなければならないハメに陥る。
□ 笑ってしまうのは大学統合に向けて、どの大学も名称をどうするか悩んでいることである。東京商船大と水産大がくっついたら何て名前になるのだろう【海洋大学になった】。
富山大と富山医薬大と高岡短大も統合に向けて話し合いをしていて、難航しているところだが、富山大は「富山大学」と、医薬大は「富山日本海大学」「富山高峰大学」と、高岡短大は「富山総合大学」と考えている。富山大は入試ミス隠蔽事件があって、今、一番、ブランド名の悪い時であるのに自分の名前に拘っている。医薬大の「高峰」というのは高峰譲吉が富山県出身だからであり、「こうほう」と読ませるのかもしれない。「日本海大学」では商船高専とイメージが重なるので採用はされないだろう。実際、高岡法科大学は高岡大学にしたかったのだが、高岡短大が先にあったので使えなかった【富山大学になった】。
いしいひさいちのマンガに捕まった隠密が「どの藩か言え」と言われて舌を噛みきって事切れた。「さすが隠密…」と感嘆されて、四駒目に「生米生麦生米卵藩」という看板が見えてくるというのがあった。大学は既に学部や大学院の改組が続いていて、お笑いの領域に入っている。英文科だったのが「言語文化学科英語圏欧州言語文化講座」になったり、心理学が「人間生活学科発達臨床講座」になったりして、舌を噛みそうになる。
□ では、「富山商船高等専門学校」はどうなるのか。既に商船学科は4分の1になっているのに「商船高専」といわれるので、他学科の学生はいろんな人に「船乗りになるの?」「船関係の情報処理でしょ?」と聞かれて困っている。縷々説明して納得してもらったと思った瞬間に「でも、船に乗るのんでしょ?」と言われる。
教員はあまり感じないが、いちいち「言い訳」をしなければならない学生にとってはあまり気分のいいものではないようだ。
商船以外の学科ができた時も話があったが、その時、目先で改名をしてなくてよかった。
□ 直木賞の直木三十五という作家を知っている人は少ない(僕も作品を読んだことがない)かもしれないが、彼は毎年名前を直木三十一、三十二…と変えていたが、そのうち、面倒になって三十五で止めてしまった。正確には次のよう(松楓庵さん)。
私が以前読んだ『日本史こぼれ話』(角川書店)によると、「直木三十六」に増やしたときに編集者が書き間違いだと思って「三十五」に直してしまい、それから固定されたのだとか。
黒澤明の『用心棒』『椿三十郎』は姉妹編みたいになっているのだが、ともに名前を聞かれて、三船敏郎はふっと外を見て「桑畑三十郎、もうすぐ四十郎だが…」とか「椿、椿三十郎、もうすぐ四十郎だが…」というセリフがある。
この伝でいくと、商船も改組される毎に「富山高専85」「富山高専88」「富山高専96」とやっていけばいいのかもしれない。
□ 真面目な話に戻ろう。
高専初の純粋な文科系の学科もあり、やっぱり「富山商船高専」ではまずい。商船学科から離れなければならない。
だが、いい案が見つからない。
単科の工業高専でも商船高専でもないので「総合高専」が妥当なのだろうか。
「総合高専」ではおこがましい。
それとも高専制度の上にある技術科学大学に配慮して「技術科学高専」とすべきだろうか。
「新富山高専」では富山工業高専に悪いし、何だか安っぽい。
「富山文理科高専」というのもいい。どうせなら「富山国際流通商船電子情報高専」?
どこかの銀行のように「さくら高専」とか「トマト高専」とか…。でも、由縁がないから無理だ。
近くに鯰鉱泉という温泉があるので、いっそ「くじら高専」という風にごまかしたらいい。
□ 考えてみると高専自体が名前を変えようとしたことがあった。いわゆる「専科大学構想」である。これは短大と同じ資格なのに「専門学校」では卒業生の肩身が狭いということで「大学」と名前を変えようとしたのだけれど、短期大学が突然怒り出して(短気大学?)絶対に認めないと猛反発した。
結局、何も変わらず、短期大学は温存されたのだが、皮肉なことに大学と高専の狭間で短大離れを起こしている。
□ 富山市ではなく新湊市にあるので「新湊○×高専」とすべきだろうが、これはあまりにもローカル過ぎる。ただ、多摩大学は当初「東京産業大学」にしようとしたのだが、「東産大」では「倒産大」で経営学を教えるのにまずいというので地域に根ざした「多摩大学」にしたという。どちらかというと右よりのイメージのある京都産業大学は「きょうさん大」という度に嫌な思いをしているだろう。
ならば「新湊高専」か?千葉にあっても東京ディズニーランドというようでなければメジャーになれない。
文科系に配慮して「万葉○×高専」では最先端技術という気がしないで、何か手工業の学校みたいだ。
「日本海○×高専」というのは他の国が「日本海」を認めていないので国際流通学科として問題がある。「北西太平洋○×高専」では迫力がない。
「富山湾○×高専」とか(海王丸にちなんで)「海王高専」というとやっぱり船の学校みたいだ。
「北陸高専」が北陸工業専門学校が既にあるのでダメだ。高岡法科大学が高岡大学としようとしたら、国立高岡短期大学があるからダメと文部省からいわれたという事情もある。
「越中高専」ではぐっと引き締まるかもしれないが、褌みたいだし、「裏日本高専」は田中冬二の詩みたいで、もの悲しい。
□ 結局、一番新しそうで強そうなのは「スペシウム高専」じゃないかしら?
と話していたら、お前には「吉本こうぎょう高専」がいいと笑われた。
新川和江「名づけられた葉」
ポプラの木には ポプラの葉
何千何万芽をふいて
緑の小さな 緑の小さな 手をひろげ
いっしんにひらひらさせても
ひとつひとつのてのひらに
載せられる名はみな同じわたしも
いちまいの葉にすぎないけれど
あつい血の樹液をもつ
にんげんの歴史の幹から分かれた小枝に
不安げにしがみついた
おさない葉っぱにすぎないけれど
わたしは呼ばれる
わたしは呼ばれる
わたしだけの名で 朝に夕に
※2000年12月には整備新幹線の予算が付き、富山までのフル規格での着工が決定した。
※2001年12月には小泉内閣の聖域なき構造改革のために大幅な削減を強いられることになった。
※2001年5月15日、欧州連合(EU)のたばこ規制指令(法)が欧州議会で成立した。2002年9月末に発効し、「喫煙は人を殺す」といった直接的な警告文が義務づけられる。03年9月からは、製造地を問わずEUで売られるたばこから「マイルド」「ライト」などの名称が追放され、欧州での人気銘柄、米フィリップ・モリス社の「マールボロ・ライト」などが改称を迫られる。
新規制によると、警告文にはパッケージ表側の3割、裏側の4割以上の面積を使う。文案は表が「喫煙は殺す」など3種類、裏が「喫煙者は若死にする」など14種類から選び、し好品としてのイメージは一変する。2004年からはニコチンと煙の一酸化炭素の量にも制限が加わる。
名称規制は、一見健康に良いかのような印象を避けるのが狙いで、「マイルドセブン」の売り込みに努める日本たばこ産業(JT)も改称を検討せざるを得なくなった。
※2006年9月に富山高専と商船高専の統合が発表され、本当に新しい名前を考えなければならなくなった。 2009年10月に統合することになったのだが、結局、「富山高等専門学校」「富山高専」ということになった。うちは「富山商船」、工業高専は「富山高専」と新聞などでは省略されていたのだが、これでは相手に吸収されたことになってしまう。
昔、親の職業欄に「大工業」と書くのが嫌だという学生がいた。「じゃあ、お前のお父さんは農業か商業か工業か?」と聞いたら「工業」だという。「じゃあ、大きいものを作っているのか、小さいものを作っているのか?」と聞いたら「大きいものだ」という。「じゃあ、大工業だな」ということで納得してもらった。そんな話を思い出した。