金川 欣二:マックde記号論(言語学のお散歩)


【18歳未満お断り】

新解さんの謎を解く(金田一中年の事件簿)

自転車を漕ぐといふ歌句を子らわらふ
 辞書を示せばこれをしも嗤ふ   ------吉野 秀雄『含紅集』

チャンネルを回すという言葉を豚児笑う
 『新解』さんを示せばガハハと笑ってしまう  ------金川 欣二『冗句集』


 赤瀬川原平の『新解さんの謎』(文藝春秋)を寝転がって読んでいたら「読書」の項目が出てきて思わず、姿勢を正してしまった。「読書」は「[研究調査や受験勉強の時などと違って]想(ソウ)を思いきり浮世(フセイ)の外に馳(ハ)せ 精神を未知の世界に遊ばせたり 人生観を確固不動のものたらしめたりするために、時間の束縛を受けること無く 本を読むこと。[寝ころがって漫画本を見たり 電車の中で週刊誌をよんだりすることは、勝義の読書には含まれない]」となっているのだ。

 こうなったらもう、お殿さまに出会ったように、「ははーっ」と頭を下げるしかない。

 新解さんというのは商船高専のマドンナ・新開先生のことでも、石川県が生んだ大企業・信開マンションのことでもない。

 正確には『新明解国語辞典』(三省堂)のことである。僕らは「新明国」とかシンメイカイとか呼んでいたが、新解さんとするとグッと親近感が湧くから不思議なものである。『広辞苑』は広ちゃんと呼べばいいのだろうか。

 同じ手法で国語辞典や英和辞典の女性差別を扱った論文もあった。例えば、She〜で始まる英文を集めていけば女性をどう考えているか見えてくるのである。ここではそうした難しい問題を扱っていないので救われているし、ベストセラーにもなったのだ。


 多くの人は辞書が無色透明で無味乾燥、人畜無害と考えているが、実際はそうではない。現在の辞書の原型ともいうべきジョンソン博士の英語辞典からその毒が出ている(ヘンリー・ヒッチングズ『ジョンソン博士の『英語辞典』』みすず書房が参考になる)。

 有名なのはoats(カラス麦)である。「イングランドでは普通馬に与えられるが、スコットランドでは人々を養う」a grain, which in England is generally given to horses, but in Scotland supports the peopleとなっていて、ジョンソン博士の伝記を書いたボズウェルは「だから、スコットランド人は頭がいい」と言い返した。漱石も「倫敦消息」でこの話を書いている。

例のごとく「オートミール」を第一に食う。これは蘇格土蘭(スコットランド)人の常食だ。もっともあっちでは塩を入れて食う、我々は砂糖を入れて食う。麦の御粥(おかゆ)みたようなもので我輩は大好だ。「ジョンソン」の字引には「オートミール」……蘇国にては人が食い英国にては馬が食うものなりとある。しかし今の英国人としては朝食にこれを用いるのが別段例外でもないようだ。英人が馬に近くなったんだろう。それから「ベーコン」が一片に玉子一つまたはベーコン二片と相場がきまっている。そのほかに焼パン二片茶一杯、それでおしまいだ。

 また、“A fishing rod is a stick with a hook at one end and a fool at the other”となっていて「釣り竿というのは片方に餌、片方にバカが付いた棒」だという(駄ジャレになっているところが面白い)。lexicographer(辞書編纂者)は“A writer of dictionaries; a harmless drudge, that busies himself in tracing the original, and detailing the signification of words.”(辞書を書く人。語源をさぐり、細かく語意を定義するなどせっせと骨折り仕事をする何の害もない人物)となっている。ただ、面白いのは初版だけで第2版からは削られているものがある。

 なお、ジョンソン博士が辞書を完成してしばらくしてある女性が「わたしは、下品、わいせつなことばが大嫌いです。見ただけでもムカムカします。あなたのおつくりになった辞書は、その点、まことにもって感心です。ほとんどまったくありません」と言ってきたら、博士はすかさず「探したんですね!」と切り返したという話が有名だ。

 辞書編纂者は神ではない。『ジョンソン博士の『英語辞典』』によれば、“pastern”を「馬の膝」としてしまったことに対して、ある晩餐会でひとりの婦人が「“pastern”にあれほど不正確な定義をつけたのは何か理由があってのことでしょうか、と聞いたという。ジョンソンは間違いを認め、唯一考えられる理由は「鞭ですよ、鞭です」と答えたという。そして彼は暗い気分になり、その婦人がもっとお食事をと進めたところ「ナイフを手に立ち上がって、大声で『神に誓ってもう一口も食べられません』と叫び、居並ぶ人びとを大いにおののかせた」という。結局、「馬の脚の一部で、ひづめとくるぶし近くの接合部」と改訂された。

 「ソナタ」を「歌曲」としていたり、SOUPEをFOUPEと間違えたり、実際に多くの間違いがあって面白い。一部を見ると、

ELEPHANT(象)="In copulation, the female elephant is taken by the male lying on her back."(…メス象は仰向けになって受け入れる)

EXCISE(物品税)=物品に化せられた憎むべき税【…】物品税を納める部署に雇われた恥知らずな者たちによって判定される

JUNKET(甘い擬乳製品)=公費による物見遊山

TARANTULA(タランチュラ)=虫の一種で、刺されたら音楽を聞かなければ治らない

VEGETABLE(野菜)=何の感覚もなく植物として育つもの

 全く余談だが、ジョンソン博士は“King's evil”を患っていた。「瘰癧(るいれき)」と呼ばれて首の所にコブができるのである。金正日の親父・金日成も同じ病気だったので、写真を撮る方向は決まっていた。なぜ「王の病気」というかといえば、王様が触ったら治ると信じられていたからだ。イギリスのチャールズ2世は9万人以上の患者に触れたとされる。ジョンソン博士も触ってもらったが、治っていない。

 群ようこは岩波新書編集部編『辞書を語る』(岩波新書)の中で、小学校と中学校の国語の先生に辞書を引けとうるさく言われたという。ところが、中学3年の先生は違っていて、「辞書に載っていることがすべてだと思ってはいけない。参考にはしていいけれど、辞書をもとに、自分の頭で考えなければならないんだよ」と教えてくれたという。辞書を引くことは大切だが、万能だと思ってはいけない。


「夫婦」が「二組の主人と奴隷からなる」とされているのを始め、ビアス『悪魔の辞典』(岩波書店“The Devil's Dictionary”)は毒だらけだ。中でも、「辞書」の項には「ひとつの言葉の自由な成長を妨げ、その言葉を弾力のない固定したものにするために案出された悪意に満ちた文筆関係のしくみ【…】」、「辞書編纂者」は「有害な奴である。というのも、一つの言語の発達の、ある特定の段階を記録すると称して、できる限りその言語の成長をおしとどめ、その柔軟性を麻ひさせ、またその仕組みを機械的にしようとするからである【…】」と手厳しい。


 さて、新解さんも結構すごい。この辞書は言語学では「はぐれ辞書」として有名だったが、赤瀬川原平のように見事に抽出した人はいなかった。僕自身、やられた!と思った。

 僕は彼の主宰するトマソン(世の中の役に立たないものを見つける)運動に賛同するものだが、まさか、この路上観察から辞書論が生まれるとは思ってもいなかった。まして『磯野家の謎』と同じような手法で「研究」されていて実に悔しい。ちなみに、新解さんの「世の中」には「同時代に属する広域を、複雑な人間模様が織り成すものととらえた語。愛し合う人と憎み合う人、成功者と失意・不遇の人とが構造上同居し、常に矛盾に満ちながら、一方には持ちつ持たれつの関係にある世間」などと濃い解釈がなされている。

 僕も辞書を職業柄よく「読む」方である。というか、辞書論の論文も何本か書いている。いっぱい読んできたが、その中でもとりわけ、新解さんは面白い。赤瀬川に抜けていた視点は新解さん以外の辞書を比べて見なかったことであるが、比べればもっと面白いことに気づいていただろう。

 辞書を読むことは大変楽しいことだ。アナトール・フランスは辞書を「アルファベット順に置かれた宇宙」と表現していたが、まさに言葉の宇宙を眺めるようなものだ。最近ではマルチメディアというか、CD-ROMやネットになって、アルファベットやあいうえお順からも放たれて、ようやく人間の脳に近くなってきた。(ここだけの話だが)辞書を読むのは会議中に決めている。これだと疑われないどころか、辞書を調べて真面目な人と思ってくれるはずだ。

 電子辞書ではセレンディピティがない、という欠点がある。俳人の中原道夫に「褒美の字放屁(ほうひ)に隣(とな)るあたたかし」というのがあるが、活字辞書は変な言葉が一緒に並んでいるところが、まるで人生のように面白いのである。ただ「肥満」の後に「美味」があって、これは逆ではないだろうか?

 作家は辞書を語るのが大好きだ。チャールズ・ラムは“abiblia biblia”(書物でない書物)といっている。最も古いのは芥川龍之介が『大言海』の「猫」の項目を論じた文章だろう(『澄江堂雑記』)。『文藝春秋』1996年1月号に丸谷才一と井上ひさしが「今どきの四大国語辞典」と称して『広辞苑』(岩波書店)『大辞泉』(小学館)『大辞林』(三省堂)『日本語大辞典』(講談社)の比較検討を加えている(丸谷才一対談集『大いに盛りあがる』立風書房1997年所収)

 作家といえば、「文豪」だが、第4版では「(年をとった)大小説家」としか書いてなかったのに、第5版では「世人に鮮烈な影響を与え続ける、すぐれた作品を(多く)発表した小説家の称」となっている。

 詩人の新川和江は『ことばの森へ』で次のように述べている。

 わたしは辞書を引くとき、森に花摘みに出かけていく童話の中の少年少女のように、いそいそとした気分になります。美しい花や、まだ見たこともないめずらしい花が、森にはたくさん咲いています。おいしい木の実がこぼれているかもしれません。日に幾度となくことばの森へ出かけていきたくなったとしても当然でしょう。

 いきなり、森の真ん中に入っていって、五分でひきあげてくることもできますし、一日ゆっくり未知の世界を散歩することもできます。すぐに通りぬけてしまう町外れの森や林と違って、なにしろ言葉の森は、この地上のどこにもないくらい、深く大きく豊かなのです。ことばの一つ一つを発音しながら歩いていけば、数千数万羽の小鳥たちの楽園にふみこんだ心地がします。

 「本当にたのしそうですね。わたしもこれからは、まめに辞書を引くようにします」

 と、ピクニックに行く前の日のような明るい笑顔で、【詩を書く】若い人が言ってくれました。

 しかし、大岡信は『ことばの力』の「辞書二題」の中で次のように喝破している。

辞書というものに興味をもつようになったら、人は確実に中年のまっただなかにいるといえるのではないだろうか。

 ただ、フツーの人にとって辞書というのは知りたい言葉が容易に出てこないものとして記憶しているだろう。思春期にその手の言葉を国語辞典で調べたが、堂々めぐりで何も分からなかったという人も多いだろう。

 俵万智は古語の「みと‐の‐まぐわい」(【遘合】‥マグハヒ(トは入口。陰部の意) 男女の交合。まぐわい。記上「天の御柱を行き廻り逢ひて―為(セ)む」)------『広辞苑』」などという優雅な言葉を調べていたという。

一枚の膜を隔てて愛しあう君の理性をときに寂しむ」と『チョコレート革命』で歌った万智ちゃんも『日本国語大辞典』の次の説明にはびっくりするかもしれない。

「生」「生身の男女の●△。張形が吾妻形に対して実物をいう。また、避妊具を付けない状態での○×【一応、高校生が読むことも想定して伏せるが】をいう。※雑俳・柳多留-三五(1806)『長局いはんや生においておや』。しかし、これって新解さんのいうように「自然の状態のまま」という説明だけでも十分だったのではないだろうか。

 新解さんは「○×」のことを「成熟した男女が時を置いて合体する本能的行為」と定義してある。この「時を置いて」というところにおじさんはリアリズムを感じるところだが、高校生には「成熟した男女」というところに注目してほしいところだ。ちなみに『広辞苑』は「男女の性的な交わり。交接。媾合。房事」となっていてそっけない。

「恋愛」には「特定の異性に特別な愛情を懐いて、二人だけで一緒に居たい、出来るなら合体したいという気持ちを持ちながら、それが、常にはかなえられないで、ひどく心を苦しめる・(まれにかなえられて歓喜する)状態」と定義してある。ちなみに『漢和大字典』は愛という字の成り立ちを「心がせつなく詰まって、足もそぞろに進まないさま」と説明している。

「恋」は第4版までただ「恋愛」とあったものを「特定の異性に深い愛情を抱き、その存在を身近に感じられるときには、他のすべてを犠牲にしても惜しくないほどの満足感・充足感に酔って心が昂揚(こうよう)する一方、破局を恐れての不安と焦燥に駆られる心的状態」になった。

「射精」は「精液を出すこと」から第5版から「精液を勢いよく出すこと」になっているが、新解さんは年とっても元気ということか?

「オルガズム」〔orgasm の文字読み〕〔合体時における〕性的興奮(の極点)。オルガスムス」。

「セックス」〔sex〕性。〔広義では、性欲・合体を指す〕」。

「合体」は「『○×』の、この辞書におけるえん曲表現」としながらも「よがる」の項では本来の意味に加え、わざわざ[狭義では、○×時に女性がクライマックスに達することを指す]と丁寧に注が付けられている。全く、何を考えているんだか、新解さんは!

 赤瀬川が驚いているのに「▲×」の「男子の生殖器の一部で、さおのように伸び縮みする部分」というのがある。竿!確かに思春期にこんな語釈を読むと「僕のはこれでイインケエ」と悩んでしまうだろう。

 似たようなのに「微熱」の「(三七度二、三分程度の)平熱よりも少し高い体温」という注釈があり、これだと体温が低くなっている現代人はみんな「微熱」で悩んでしまう。

 東海林さだおには「青春の辞典」(『もっとコロッケな日本語を』文藝春秋)という爆笑エッセイがある。「芸術がバクハツであるように、青春はフンカなのだ」という東海林は辞書にある青春の言葉を調べあげている。

「愛撫」は『広辞苑』で「なでさすってかわいがること」と奥歯にひっかかるようなものがある。

「朝立ち」は新解さんに「朝早く出発すること」としか書いてない。東海林君は「嫌らしいまでの無視の仕方ではないか」という。

○唇」はATOKで変換されず、『広辞苑』でやたら詳しい。

「愛液」がどの辞書にもない(ATOKでも変換されず)ことや川上宗薫が好んで使った造語「抽送」という言葉も載っていないことが不満だという。そして、新解さんと『広辞苑』を比べた結果が次のとおりだという。

一般的に言って、広辞苑は人情味がない。
冷静、事務的に処理しようという姿勢が顕著である。
人情のつけ入るスキを見せない。
対するに新明解は「勃起」のところでもわかるように、「伸びて堅くなる」など、なるべくくだけた態度をとろうとしているように思える。
辞書に“人情味”が必要かどうかは、また別の論議をまちたい。

 『だれだってズルしたい!』(文藝春秋)では自作の「明解料理用語辞典」を載せている。

「あくぬき」は省略。

「うしおじる」潮汁=「牛のテールスープのこと」。

「にまいおろし」二枚おろし=「ズボンとパンツをいっしょに脱ぐこと【…】ステテコをはいている場合、パンティストッキングをはいている場合は『三枚おろし』」

 さて、「▲×」だが、「さお」というのはまるでアイヌの民話だな、と思った。アイヌの民話にパナンペ(川下の人)とペナンペ(川上の人)の話がある。パナンペが▲×を竿のように伸ばすと松前の殿様の城まで伸びて干された高価な洗濯物が全部、パナンペの元に入ってきて、これを真似たペナンペが汚いものを干されてひどい目に遭うというのがあった(cf.『知里真志保著作集1』平凡社)。

 ここで納得してしまったのだが、編纂者の筆頭にアイヌ語の専門家の金田一京助がいる!

 謎解きは面白い。まるで金田一少年になったような気持ちがする。

 そして、野生の思考から文化を考えることを金田一ならぬ「近代知」からの脱却と呼ぶのである。


 辞書の本領が出てくるのは基礎語彙に関してである。例えば、「右」「女」「東」「花」をそれぞれの辞書はどう説明しているだろうか。

 「右」を新解さんの第1版は「大部分の人がはしや金づちやペンなどを持つ方の手」であったが、新解さんの第4版では左利きの人や時計の変化を考慮して大変込み入っていて「アナログ時計の文字盤に向かった時に、一時から五時までの表示の有る側。(「明」という漢字の「月」が書かれている側)である。漢字の説明だけで十分だし、12時1分はどうなのだといいたくなってくる。『広辞苑』には「南を向いた時、西にあたる方」で、『旺文社国語辞典』などは「北を向いたとき、東にある側」であるし、『岩波国語辞典』では「相対的な位置の一つ。東を向いた時、南の方。また、この辞典を開いて読む時、偶数ページのある側をいう。」などとしている。『日本国語大辞典』では「正面を南に向けた時の西側にあたる側。人体を座標軸にしていう。人体で通常、心臓のある方と反対の側」である。大修館書店の『明鏡』には「人体を対称線に沿って二分したとき、心臓のない方」とあるが逆の人も稀にいるから「通常」とすべきかもしれない。

 ちなみにC.O.D.(Concise Oxford Dictionary)によれば「春分・秋分の日に太陽が沈む時、前向きなら北、後ろ向きなら南の方向」having the relation to front & backthat equinoctial sunrise has to north & south.としている。なお、メキシコのマヤ族のツェルタル語のように「右」も「左」もない言語が存在するからこれらが基礎語彙といえるかどうかは難しい。

 このような「右」の説明を操作的定義という。例えば、「甘い」というのを説明するのに「砂糖をなめた時の味」というようなものである。

 操作的定義で最高の例は『岩波国語辞典第3版第1刷』の「ごびゅう」で「【説謬】 あやまり。『---を犯す』」と誤謬を実践してみせてくれる。

 「女」を『旺文社国語辞典』では「女性。女子」と何も説明していないのに対して新解さんは「人間のうち、雌としての性機能を持つ方」、『岩波国語辞典』では「【…】子を生みうる身体の構造になっている方」という、少し踏み込んだ定義である。

 「花」は『旺文社国語辞典』が「植物の枝・茎などにつく生殖器官で、ふつう、がく・花冠・おしべ・めしべなどをそなえる。」と生殖器官と言われたら身も蓋もない。


 他の辞書と比べて新解さんは偏執的である。

 これが分かるのは「偏執」の項で、例えば、『広辞苑』はヘンシュウの項に説明を入れて(ヘンシツとも)と書き、ヘンシツの方には→ヘンシュウとなっていて、こちらが「正しい」ことを示唆している。また、『新潮国語辞典』でもヘンシュウの方が詳しくてヘンシツ→ヘンシュウと載せている。

 問題は新解さんだが、ヘンシツを正しい読み方として「ヘンシュウ=ヘンシツの老人語」と書いている。

 つまり、他の辞書は古い!と決めつけている訳である。新解さんは他の辞書に対抗意識を強く持っていたようである。

 「固執」に関してもコシツに固執している。新解さんの『私の語誌2』(三省堂)は「こだわり」という言葉だけにこだわった本である(元来は否定的な意味合いだったため)。

 これでどちらが偏執的かこれではっきりするだろう。

 他の辞書が編集的なのか、新解さんが変質的なのだろうか?


 新解さんで昔から有名だったのは「悪妻」「官僚的」「ごきぶり」「公約」「宿舎」「マンション」「動物園」などである。

 「悪妻」「第三者から「わるい つま」と目される女性。[被害者たる当の夫は案外気にしないことが多い]」と書いているが、言葉の繰り返しであるし、[ ]は余計なお世話だ。ちなみに『広辞苑』は「夫のためによくない妻。「―は六十年の不作」」と記している。

 サミュエル・ジョンソンは自分の英語辞書の序文に「言葉は政府と同じで、悪化する傾向をもともと備えている」と書いたが、新解さんは「官僚的」に「官僚一般に見られる、事に臨んでの好ましくない考え方や行動の傾向を持っている様子。[具体的には、形式主義や責任のがれの態度を指す]【五版で「具体的には、形式主義・事なかれ主義や責任のがれの態度などを指す」1と増えた】」と書いた。

「いたちごっこ」は第4版が爆走したのが有名だ(その後は大人しくなった)。「〔江戸時代後期にはやった子供の遊戯【=向かい合った二人が「鼬ごっこ鼠(ネズミ)ごっこ」と唱えながら相手の甲をつまんで順次に重ね行くことを際限無く繰り返した事】に基づく〕
(一)(A)互いに相手の上に出ようとして、実りの無いことの言い合いを繰り返すこと。 (B)たわいが無くて実りの無い問答を果てし無く繰り返すこと。
(二)(A)相反する関連に在る両者が、交互に優位に立つことを果てし無く繰り返すこと。「夏になると雑草との―が始まる」(B)相反する立場に在る両者が互いに優位に立とうとして果てし無い競争を繰り返すこと。「全国的に生息地として有名になると、かえってマニアが集まるという、保護と濫獲の―が続いています」(C)相対する一方が他方に熱い心を傾ければ傾けるほど、他方は心を段階的に かたくなに閉じてしまうことを飽きずに繰り返すこと。
(三)元来治まっておるべき両者の関連が調和を欠き、事有るごとにエスカレートして対抗を繰り返すこと。
(四)(A)一つのマイナスの状態が他のマイナスの状態を引き起こすという悪循環。「各地のローカル線が歩んできた道は、客離れ→便数減→新たな客離れ、という―」(B)甲がAという方策を案出すれば、乙はその上を越すBを考案する。甲はそれに対してaを案出し、乙はbをもって対抗するというぐあいに、止めど無く競争を繰り返すこと。(C)管理者側の行政的・機械的規制と、それに反撥(ハンパツ)して息抜き・自由の天地を求める側との間に繰り返される、不断の抗争。
(五)当局が取締りを強化すれば相手はその裏をかいたりさらに新たな抜け道をくふうしたりするというように、被取締り者の行動を封ずる当局の試みがなんら根本的な解決にはなっていないために、現在の好ましくない対立が止めど無く繰り返されること。」

 「ごきぶり」は「台所を初め、住宅のあらゆる部分に住む、油色の平たい害虫。触ると臭い」と書いてある。普通は触らないものだが、新解さんは触っている。ただ、「油色」というのが分からないので、わざわざ説明しているのだが、『岩波国語』では油のように光っているから「あぶらむし」という、と説明していて、こちらの方が正しいように思える。

 「公約」も選挙になると面白半分で取り上げられるのだが、注に[すぐ破られるものにたとえられる]とある。最近では膏薬を貼り替えるかのように「マニフェスト」という言葉になった。

 「どぶ板選挙」「どぶ板を越えて路地の奥まで入っていって、有権者の票を集めようとする選挙」。

 「善処」も「うまく処理すること」の後に「政治家の用語としては、さし当たってはなんの処置もしないことの表現に用いられる」とよほど政治家嫌いなのである。

 「マンション」は「スラムの感じが比較的少ないように作った高級アパート」!この定義で金田一春彦は記述に断じて賛同できないとして山田主幹に書換を求めたが、受け入れられず新解さんから降りることになった(柴田武監修『明解物語』三省堂)が、その後の版によって違ってきている。

 「宿舎」の2で「公務員などに、名目だけの安い家賃で提供される住宅」とあるが、「官舎」の説明ではないし、公務員に対する言いがかりにすぎない。初版・二版は「公務員などに、不当に安い家賃で提供される住宅」とあったが、五版ではさすがに「公務員などに安い家賃で提供される住宅」にトーンダウンした。

 「清廉」は「心が清くて私欲が無いこと。〔役人などが珍しく賄賂などによって動かされない時などに言う語〕」と第四版まで書かれていたが、第五版では「珍しく」がなくなった。

 「役人」はというと、初版、第二版が「官職にある人。公務員。官吏」だったのに第三版で「公務員」とあり、「役人根性(=役人特有のおうへいで、融通のきかない考え方)・小役人」となった。

 「官僚的」は「官僚一般に見られる、事に臨んでの独善的な考え方や行動の傾向を持っている様子〔具体的には、形式主義・事なかれ主義や責任のがれの態度などを指す〕」。

 「公僕」は「国民に奉仕する者としての公務員の称〔ただし実情は、理想とは程遠い〕」。旧版では「清廉」を「役人などが珍しく賄賂(わいろ)などによって動かされない時などに言う」と説明していた。しかも「由来」の用例で「だが、由来役人というものは、保身の術にたけているものだ。どんな窮地に追いこまれても、責任を他に転嫁して、自分の位置の安全を守ることだけは巧みにやってのける」。最近の版では「どんな窮地」以下はない。「選良」を「選出された、りっぱな人の意」と記し「理想像を述べたもので、現実は異なる」とわざわざ書いている。

 新解さんはよほど政治家が嫌いだったのだろう。池内紀は『世の中にひとこと』(NTT出版)の「おためごかし」で書いている。

 国語の辞書には「相手のためにするように見せかけて、実は自分自身の利益をはかること」(新明解国語辞典)と出ている。当今は死語同然で、ほとんど聞かれなくなった。政治家の言説、経済のしくみ、あふれ返る広告、選挙公約、すべて「実は自分自身の利益をはかること」の性質が色濃い。社会全体がおためごかしから成り立っているとすれば、何もわざわざいうこともないからだ。

 「実社会」には「実際の社会」に続けて「美化・様式化されたものとは違って複雑で、虚偽と欺瞞(ぎまん)とが充満し、毎日が試練の連続であると言える、きびしい社会を指す」と書いてある。

 「動物園」は初版では「捕らえてきた動物を、人工的環境と規則的な給餌とにより野生から遊離し、動く標本として都人士に見せる、啓蒙を兼ねた娯楽施設」となっていたが、さすがに「生態を公衆に見せ、かたわら保護を加えるためと称し、捕らえて来た多くの鳥獣・魚虫などに対し、狭い空間での生活を余儀なくし、飼い殺しにする、人間中心の施設」と変えたが、手厳しい。

 「火炎瓶」などは百科事典にも書いてない作り方が懇切丁寧に「ガラス瓶の底に濃○酸、その上に・ガソリン(石油)を入れ、瓶のふたに△×・塩酸●▲を付け、投げつけると発火するようにしたもの」と書いてあったという(が、僕がもっている初版21刷にはない)。学園紛争の頃は三省堂のある所まで含めて「神保町カルチェ・ラタン」と呼ばれたものだが、安田講堂で投げられた火炎瓶はどうやら三省堂で作られていたらしい。

 「国際人」は「1.世界中を股にかけて歩く人。コスモポリタン。2.外国人との交際の多い人。[狭義では、国内では余り知られていないが、外国では有名な人を指す]」とされる。

 「射幸」のは「なまけ者が自力で働かず、賭博やそれに類似の行為で一攫千金を夢見ること」。なまけ者!?

 「ふれあい」が新解さんに載ったのは89年の第四版からで「縁があって、今まで全く知らなかった人と親しくつきあうこと」となっていて、「親子のふれあい」などないことになっている。広辞苑は「ちょっとした交流」としている。というのは日本人には当たり前すぎて日本語になかったのかもしれない。

 他にも「ビキニスタイル」に対して「【…】乳の部分と下腹部とをそれぞれ申しわけ程度におおっただけで、大胆に裸体を露出したもの」などと「申しわけ」のところに編纂者の気持ちが入っている。

 『Wの悲劇』に出るとき、インタビューで「監督から脱ぐ必然性があるといわれたら脱ぎますか?」と聞かれた薬師丸ひろこが「必然性には負けません」と答えたのは痛快だった。ところで、新解さんの「脱ぐ」の項に[狭義では、女優などが裸になって演技することを指す]と書いてあるが、これなどは比喩的に使われるからわざわざ記述する必要のないものである。

 しかし、個人的な感慨を入れてしまうととんでもないことになる。太宰治の「(経済学は)人間というものはケチなもので、永遠にケチなものだという前提が無いと全く成り立たない学問…」(『斜陽』)とか、マーク・トウェインの「カリフラワーは要するにキャベツに大学教育を与えたものにすぎない」などという定義が増えてくることになる。では、「気象予報士」は「翌日の天気がどうなるか予報し、なぜそうならなかったのかを当日の夜に説明できる人物」となるのだろうか?

 悪口ばかりでは申し訳ないのでとても素敵な定義をあげておくと『岩波国語辞典』は「ユーモア」を「人間生活ににじみ出る、おかしみ。上品なしゃれ。人生の矛盾・滑稽(こっけい)等を、人間共通の弱点として寛大な態度でながめ楽しむ気持」としていて、英文学への深い造詣を感じさせて見事である。同辞書の「しゃれ」の項に「へたなしゃれは やめなしゃれ」と書いてあるのはそのまま編者に返したくなる。


 新解さんの編纂者として5人の名前が挙がっているが、語釈の中心は山田忠雄(元日本大学教授・1996年2月6日没)である。何しろ、お父さんが四大文法の一つ「山田文法」の山田孝雄(よしお=富山市出身の文化勲章受章者)で、子どもの定雄さんも国立国語研究所所員、弟で孝雄の三男が新解さんの敵である『新潮国語辞典』を編んだ山田俊雄(成城大学元学長)という素晴らしい一家なのだ。「もしや」の用例に「〜山田さんじゃありませんか」という用例が出てくるが、こういうのを「イースターエッグ」ということがあって、パソコンの辞書などでも作者の名前がどこかにひっそりと忍んでいることがある。例えば、「複文」という項目にお父さんの山田文法が取り上げられている。

 新解さんの、あまりにも強烈な語釈は学問に厳格であった父親への反発と弟への敵愾心から生まれたといっても過言ではない(やっぱり過言だ)。周りは破門されずに残った弟子と礼賛者ばかりだったから個人が前面に出てきているともいえる。また、山田孝雄は小中学校の教師から東北大の教授になった、元々、在野の人だけに「官僚」や「宿舎」のような偏見(?)が出てくるのである。

 この辺の事情は山田忠雄の『私の語誌1・2・3』(三省堂)を読んでもらいたいが、こうした立場は言語学的にはあまり有意義とはいえない。東大大学院の國廣哲彌先生のゼミで日本語の意義素論に参加していたが、こちらは多くの人間によるブレーン・ストーミングでできている。色々な人が用例を語感と解釈を持ち寄って「意義素」を決定していくものなのである。個人でやっているとどうしても方言や個人語や教養が出てしまって、日本語全体を捉えることが難しくなる。辞書で言語全体を捉えようとするのが無茶な話なのだが…。先生の成果は『ことばの意味』(平凡社)として出版されている。

 ただ、非常にうがった見方をすれば、新解さんをそのまま引き写したような辞書が多く、語釈を工夫することで、コピーを防いだともいえる。石山茂利夫『裏読み深読み国語辞書』(草思社)によれば、新解さんの初版に「親亀」があるのはこのためだという。

「親亀」「親に当たる大きなカメ」。「[早口言葉で]親ガメの背中に子ガメを乗せて、子ガメの背中に孫ガメ乗せて、孫ガメの背中にひい孫ガメ乗せて、親ガメこけたら子ガメ・孫ガメ・ひい孫ガメがこけた」[右の成句にたとえを取って、国語辞書の安易な編集ぶりを痛烈に批判した某誌の記事から、他社の辞書生産の際、そのまま採られる先行辞書にもとたえられる。ただし、某誌の批評が、ことごとく当たっているかどうかは別問題]

 なお、この「某誌」というのは『暮しの手帖』(1971年2月号)の「国語の辞書をテストする」という特集を指す。消費者側から辞書というものを検証した特集だった。

 「芋」には「芋辞書」という造語が載っていた。「大学院の学生などに下請けさせ、先行書の切り貼りで でっち上げた、ちゃちな辞書」と第1版、第2版にはあったが、なくなった。

 「パッチワーク」には「つぎはぎ細工」とあり、「創意の無い辞書編集にたとえられる」というのもあった。

 NHK富山の僕の番組で「国語辞典にみる富山」というのを作った(2002年5月29日放送)。新解さんは富山ゆかりの人で、新解さんには富山が出てくるという話にまとめた。富山関連の単語を拾ってみる。

「雷鳥」「立山(タテヤマ)などにすむ、中形の鳥。羽は、夏は茶色で冬は白く変わる。特別天然記念物。」これは第1版では「高山にすむ、中形の鳥。羽は、夏は茶色で冬は白く変わる。ほとんど飛ばない。」だったものだ。上高地にだってすんでいるものをわざわざ「立山」を引き合いに出しているところがうれしい。

「県花」の例で「富山の県花はチューリップ」と書いてある。実は、新潟もチューリップなのにわざわざ富山を出しているところがうれしい。ちなみに『広辞苑』には「県花」という項目がないのは読み下せばそのまま意味が分かるからである。新解さんにも「県木」「県鳥」「県獣」などが載っている訳でもないのに、県花だけはしっかり書いてある。

「雪雲」で「雪の降りそうな、鉛色の雲」と書いてあって、鉛色というのが実際に、富山の雪空を見ないと出てこない言葉だ。『広辞苑』などにはそんな文学的な表現はない。

「食パン」は「しょくぱん」が標準語形でATOKでもこれしか変換できないが、新解さんは「口語形はしょっパン」と書いている。わざわざ「口語形」というのも不自然な記述である。恐らく新解さんは「しょっぱん」が標準語形だと信じていた(名古屋を中心とする中部地方域と九州各県に見られる新方言)のだが、記述したら東京の誰かからそうはいわない、と指摘されて、口語形」という記述でごまかしたのだと推測される。

「かまがえり」【釜がえり】「炊き上がった飯をそのまま釜に入れておいたため、ふっくらした所が無くなってしまうこと」というのだが、広辞苑にも大辞林にも出てこない。大日本国語辞典にも「蝦蟇がえる」しか出てこない!日本方言大辞典も調べたし、日本民俗大辞典も調べたがない。ネット上でもこの語が不思議な語ということしか出てこない。柳瀬尚紀も問題にしていたように、実はこの語はNTTの「語彙数推定テスト」50問のうち49番目に出てくる単語なのだが、みんな分かるはずがない。つまり、考えられることは一つ!共通語ではないのに、新解さんが間違って入れたのだ。

※これについて山田俊雄は俵万智との「対談 字引は楽しい!」(『波』2000年2月号新潮社)の中で

山田 …実は、この言葉は、僕の母親がよく使っていたんです。「釜がえるから早くご飯を混ぜておいてね」というふうに。『新明解』の主幹である僕の兄(山田忠雄)は普通の言葉だと思って載せたんじゃないかな。僕は、あっ、これは字引の編者が非常に特殊な言葉であることを知らずに載せた例だと思いました。ですから、この言葉を知っている人の語彙数は七万とか、そんな問題ではないでしょう。

 よかった(笑)。

山田 そういう例は『大言海』にもあります。「こばかくさい」という言葉が載っていますが、これは仙台か一関の方言で、殆どの字引には載っていません。

「贅沢」の説明(最新の第5版のみ)で「贅沢は言わないが、せめて一戸建ての家ぐらいには住みたい」というのは、一戸建てというのはそれだけで贅沢なのに、持ち家率日本一の富山にルーツがある人のみが出せる例文だ。


 山田忠雄さんの後は息子さんが継いでいるようで、国語辞典を作るには三代かかるということかもしれない。

 『日本国語大辞典』(小学館)も松井簡治(かんじ)、驥(き)、栄一(しげかず)の三代で作られたものである。栄一の『出逢った日本語・50万語』(小学館)を読むとその執念が伝わってくる。中でも圧巻は」『近代国語辞書の歩み』---余説第二章について」という論文で山田忠雄述『近代国語辞書の歩み』で売られた喧嘩をしっかり買っている。『国語学』128号(昭和57年3月所収)に載ったのだが、『出逢った日本語』で再録している。どう読んでも、新解さんのやっかみに勝ち目はない。


 新解さんのもう一人の中心は見坊豪紀(けんぼう ひでとし)という故人で、『三省堂国語辞典』やこの辞書のための用例集めに一生を捧げた人である。東大国文を山田とともに1939年に卒業、見坊豪紀が主、山田忠雄が副となって『明解国語辞典』を編んだあと、『三省堂国語辞典』にも『新明解国語辞典』にも携わった(やがてきびしく対立して、山田忠雄が『新明解国語辞典』」第1版1972年に書いた序文に「見坊に事故有り、山田が主幹を代行……」と書いている)。おそらく、どんな辞書を見ても、辞書は「鑑=手本」と「鏡=反映」の二面を持っているという。前者は言葉をこうあるべきものとして、規範や基準としての立場を取る。見坊の方針は後者であって、言葉をあるがままに記述するという立場を取っている。規範としての立場とあるがままにとらえる立場には大きなギャップがあるが、凡人は規範を求めることが多い。

「凡人」というのが第一版ではフツーだが、第3版では「自らを高める努力を怠ったり 功名心を持ち合わせなかったりして、他に対する影響力が皆無のまま一生を終える人。[マイホーム主義から脱することの出来ない大多数の庶民の意味にも用いられる]」とパワーアップして凡人にはとても規範とはなりえない定義になっている。

 ジョンソン博士の辞書は画期的だったが、収録した語それぞれに低級(low)、適切(proper)、優雅(elegant)、俗悪(vulgar)という評価をつけた。つまり、辞書=鑑論だったのだ。

 しかし、言語学は話者の知識ではなく、意識を探る科学である。ソシュール以降の言語学とともに、国語辞典も知識を載せるのではなく、意識を載せることになってくる。

 さて、辞書=鏡論だから、新解さんにはあまり「これは誤り」という記述はない。僕が見つけたのは「破廉恥」の注に[若者の間では、誤って、かっこいい意味にも使われる]などとなっているだけだ。そのうち、「不倫」も[人妻の間では、誤って、気持ちいい意味にも使われる]となるかもしれない。

 若い人は「絶好調」「見劣り」の反意語として「絶不調」や「見勝り」という言葉を使うが、これまでの辞書にはなかった言葉だ。2002年に改訂された三省堂の『現代新国語辞典第二版』にはどちらも掲載された。

 斎藤美奈子は鋭い。『たまには、時事ネタ』(中央公論新社)で流行語大賞に異議を唱えている。この時は委員長の草柳大蔵がわざわざ声明を出してオウムの言葉は取らないといったのだが、その時から鏡としての賞でなくなっているというのだ。

 流行語大賞は変。私がそう思いはじめたのは一九九五年のことだった。九五年はいわずと知れた阪神淡路大震災とオウム真理教事件の年である。あの年あれほど流行った一連のオウム関連用語を、流行語大賞は選考の対象から外したのだった。その結果、「ボア」「グル」「サティアン」「サリン」「ああいえば上祐」などはすべて「なかったこと」にされ、この年の大賞は「無党派」「NOMO」「がんばろうKOBE」の三つが受賞するというマヌケな結果に終わった。流行語大賞の記録に残る九五年は、青島&ノック知事が誕生し、野茂が大リーグで活躍し、オリックスが優勝した年、なのである。

 たかが流行語、いちいち目くじらを大人げないといわれるかもしれない。でもね、私がこれにこだわるのは、言葉の収集の本質的な意義を認めるからなのだ。何年にどんな新語が定着し、どんな言葉が流行ったかを記録しておくことは、世相や時代をとらえる指標になるだけでなく、ゆくゆくは貴重な歴史的資料になるはずである。だからこそ、マジメにやれ!といいたいわけです。

 ちなみにいえば、85年には「イッキイッキ」が選ばれたがこれは社会問題となった言葉だ。きれいごとですむ話ではないのだ。

 鬼の首を取り損ねた話がある。怪奇作家(作家が怪奇みたいだが本人がそう書いている)の倉阪鬼一郎に校正の仕事についていた時の会社人間の実態を書いた面白い本『活字狂想曲---怪奇作家の長すぎた会社の日々』(時事通信社)の中で、「あまつさえ」というのが「あまっさえ」となっていた(p.162)。校正のプロでも間違うのかと思って、『新明解』を調べると、「あまつさえ」で立項されていて、[「余りさへ」の変化。古くは「あまっさへ」]と注があった。これで確認して、関係する編集者にメールをしたら、あっと驚いた。

 『広辞苑』には「アマリサエの音便。誤って、ツを促音とせず、アマツサエともいう」と書いてあるというのだ。つまり、倉阪鬼一郎は間違っていないことになる。

 ちなみに、講談社『日本語大辞典』では「あまつさえ」を見出し語に取って「『あまりさえ』の音便『あまっさえ』の転」と書いてあるという。『大辞林』の記述では〔「あまりさへ」の転。近世以前は「あまっさへ」。「あまさへ」とも表記した〕という注になっていた。

 規範主義の『広辞苑』がわざわざ「誤って」と書いているところが面白い。

 どれが正しいのかにわかに判断しがたい問題だった。英語の教師で「マルチメディア」を日本語の会話の中で、いちいち「マルティミーディア」と発音する人がいたのを思い出した。

 ちなみに、『活字狂想曲』には<苦手な野菜も上手に食べられます>のに校正が入っていて、<食べれます>に変えられていた話が出てくる。一生懸命に「正しい日本語」を学んだのに、若い人から変だといわれるような時代になっている。それを趨勢と思えるかどうか、という問題なのだ。アマリサエが音便になった段階でさえ、「誤って」アマッサエになったといえるはずで『広辞苑』の記述では納得しがたい。


 これと絡む話だが、辞書には実例主義と作例主義があって、どちらがいいか常に問題になる。実例主義は新聞記事や文学作品などの実例を見つけないと記述しない主義でこれは大変な努力を要する。しかし、ありもしない語を載せたり(「幽霊語」という)、勝手な語義を付けたり、などがなくなる。例えば、紀田順一郎は「雪たゝき」という幸田露伴の作品から「雪叩き」(下駄に挟まった雪を叩いて落とすこと)というものが存在するのかどうか綿密に調べている(『奥付の歳月』筑摩書房1994)が、「存在しない語彙」と決めつけている。

 Caught in the Webに書いているOEDなどは実例主義の金字塔のような辞書である。何年のどの作品の何行目に出ているか、実に緻密に調べてある。

 作例主義は場面に合うような使い方を自由に編纂者が作って記載するものである。でも、それは嘘だという人がいることも確かにいる。こうした批判に対して「どんどん作例をしなさい。後でその用例を全部使って私が小説を書いてあげるから」という編纂者もいる。ニュー・ディール政策で橋をいっぱい建造したルーズベルト大統領は側近に「もう架ける橋がありません」といわれた時に「だったら、川を掘って橋を架けろ」といった話を彷彿させる。まあ、どんな小説になるか、新解さんの逆の例で興味深いものがある。谷岡一郎『「社会調査」のウソ リサーチ・リテラシーのすすめ』(文春新書)を読んでいたら、次のように書いてあったが、統計学も似たようなものだと思った。「私は常々、学生たちに『私に調査企画を指揮させてくれたら、どんな結果でも出して見せる』と豪語している」という。

 なお、現代の言語学は多くの場合、作例で研究していく。つまり、「山にノボル」「×山にアガル」とか「×2階にノボル」(急な階段を行く時には使うかもしれない)「2階にアガル」などの例を対照して「ノボル」「アガル」の「意義素」を研究していくのだ。つまり、この場合、「ノボル」は途中の動作に視点があり、「アガル」は目的地に視点があると考えられるのである。

 作例主義は日本人が日本語をやるようにネイティブ・スピーカーとしての言語直観がある場合には概ね大丈夫だが、他の外国語になるとかなり怪しくなる。


 辞書の客観性を過信するととんでもないことになる。 特に共産主義圏の辞書の記述には時の権力者たちの見えざる介入があって、客観性とはほど遠いものがあった。日本でも哲学事典など、学派によってまるで違う記述になっている。

 ただ、辞書によっては最初から客観性を無視した辞書がある。

 ビアスの『悪魔の辞典』(岩波書店)がもっとも典型的だが、フロベールには『紋切型辞典』(岩波文庫)がある。後者では「女」=「アダムの肋骨」、「サーカスの道化師」=子どものときから体じゅう間接がはずれている」、「種馬」=「つねに精力旺盛。ご婦人は種馬と普通の馬とのちがいをわきまえていなくてはいけない」、「日本」=「この国ではすべてが瀬戸物で出来ている」などと書かれている。

 これらについては河盛好蔵の「楽しみ辞典」(『私の随想選 第7巻---私の茶話』新潮社1991)が詳しい。


 井上ひさしには『国語事件殺人辞典』(新潮文庫)という日本語論の戯曲があるが、ここに出てくる編纂者の花見万太郎の国語辞典は『岩波国語』のパロディになっていて理想としての国語辞典なのでなかなか完成しない。語釈が面白くて『岩波国語』が「食べる」を「食う」としか書いてないのに対して「食うの丁寧表現。生命を維持するために必要な食べ物を、口から尻へと押し出すこと」、「ドーナツ」が「砂糖、バター、卵などをまぜてこねた小麦粉で穴のまわりを囲い、それを油で揚げた洋菓子」としている。


 副島隆彦&Dictionary Bustersの『欠陥英和辞典の研究』(JICC出版局1989)という本で『研究社新英和中辞典』がおかしな記述ばかりだといって槍玉に上がったことがある。うちのK先生は「そんな問題となるような辞書を使わす訳にはいかない」と怒って別の辞書を指定することにしたが、実際に点検してみると批判をした人の方のアラが目立った。

 ただ、その中で決定的だったのはfavoriteの使い方でthe most favoriteというのが記載されていたことで、「お気に入り」はfavoriteだけでいいのであって畳語的に(畳み掛けるように)最上級にはしない。これなどは日本人の作例がありもしない用法を生み出したことになる。

 ついでに言っておくと、この『研究社新英和中辞典』は第1版が最高だったといわれる。実は僕自身もそれまでは『クラウン英和辞典』(三省堂)を使っていて、まるで英語が分からなくなって困っていたところに『研究社新英和中辞典』が発売されて至高の喜びに達したことがあった。というのも、高校の教科書に載っている用例がそのまま記載されていたからだ。その意味で大変便利だったのだが、著作権の問題でそういう用例を載せることができなくなった。著作権に引っかからないように元の文を少しずつ変えて載せたのだが、これがfavoriteのような間違いをいっぱい生み出す源泉となった。それを直すために第3版ではネイティブ・スピーカーを入れて大幅な改訂がなされた。それでも欠落した部分が出てきたのである。

 なお、研究社は批判した本を訴えて後に勝訴した。つまり、「トンデモ本」と認定された訳である。

 以上が僕の理解している『研究社新英和中辞典』の歴史である。


 さて、作例主義でいくと言語直観がある日本語だって怪しいものが出てくる可能性がある。言葉というのは揺れもあるし、そんなに論理的ではないからである。まして多くの辞書が他の辞書の項目も字義もそのままカット&ペーストしていて、間違いまでそのままペーストしてあることが多い。有名な話だが、「谷間」が「谷と谷の間」(だったら「山」だ)になっている辞書があってルーツを探していくと日本初の近代的国語辞典といえる『言海』に達したということがある。同様に『言海』が「新婚」を「新たに結婚すること」としたら、どの辞書もまねてコケたという。

 こうした限界を断ち切るためにも実例主義でないとダメだというのだ。

 新解さんは実例主義である。赤瀬川の本でびっくりしたと出てくる用例でいきなり実名が出てくるのは漱石や谷崎たちの小説から採られたからである。「つぎに」の例文は「東京で驚いたものはたくさんある。第一電車のちんちん鳴るので驚いた。それからそのちんちん鳴るあいだに、非常に多くの人間が乗ったり降りたりするので驚いた。次に丸の内で驚いた」であるがもちろん漱石の『三四郎』である。「ひととおり」の例文「一週間許りしたら学校の様子もひととおりは飲み込めたし、宿の夫婦の人物も大概は分つた」も『坊つちゃん』だ。だから、赤瀬川のここの部分の指摘はあまり面白くない。

 英語の辞書でも『プログレッシブ英和辞典』(小学館)のrecentの用例として他の用例がないのにWho is more carnal than a recent virgin?「処女を失ったばかりの女性ほど肉欲的なものがあるだろうか」という訳の分からないものが出てくる。これは編纂者が作ったものとは思えない。実はスタインベック(John Steinbeck)の有名な言葉なのである【記載することを決めたのは国広哲弥先生だというお話を先生自身から伺った】。

 『ジーニアス和英』第二版も面白い。

「攻撃」strikeの例文として“In the bottom of the fifth,the Tigers started the inning with a double by Akahoshi.”(5回裏のタイガースの攻撃は赤星の二塁打で始まった)

「大勝する」“The Tigers overwhelmed the Giants.”(阪神が巨人に大勝した)

 ただ、タイガース以外も出てくるので阪神びいきとはいえない。

「首位」“The Giants lead the Central League by five games.”(ジャイアンツは5ゲーム差をつけてセントラルリーグの首位を走ってる)

「抑える(封じる)」“Nomo held the Phillies to one run.”(野茂はフィリーズ打線を1点に抑えた)

 赤瀬川はもう少し新解さんについて周辺調査をした方がよかったと思える。ただ、いきなり、知らない人が出てくるのは確かに気持ち悪い。


 『広辞苑』が日本の代表的な辞書とされる。例えば、井上ひさしは『ベストセラーの戦後史』(文藝春秋)で次のように書いている。

 すなわち、左手の親指の腹を種蒔く人のマークに当てがって広辞苑を持てば、手の平が横波(種の盛り上り)と鷺(縦の盛り上り)のおかげで滑らない。滑らないどころか広辞苑が手に吸いついてくるのだ。

 ベストセラーになるのは岩波神話のなせる技で、実はちっともよくない。京大教授だった新村出がOEDに触発されて岡書店に企画を持ち込んだものだという。無理矢理頼まれたとの説もあって、溝江八男太という人の『辞苑』(博文館)の版権を買って、「広」をつけただけのものだ。だから、NHKテレビの「プロジェクトX」の「父と息子・執念燃ゆ大辞典」は噴飯ものだということになっている。それをOEDに比較するのは恥ずかしい。日本最大の辞書である『日本国語大辞典』(小学館)でさえ、遥かOEDに及ばない。

 僕は高校入学時にねだってプレゼントしてもらい、嬉しくて眠れなかったのだが、実際には現代語にも古語にも使えなかった。何しろ、「はいる」という言葉の漢字が「這入る」となっていた。正字はそうなのだろうけど(現代では「入る」を使うというような注は何もなく、語義の方に「入る」とあっていきなり『史記抄』からの引用が載っている)、こんな字で作文はとてもできない。「イタリヤ」「アジヤ」というのも戦前の思想を引きずっているようでいただけない。僕はすっかり落胆して『広辞苑』を枕にして眠ってしまった。だから、下手な文章しか書けなくなったのは『広辞苑』のせいだ。

 辞書に奪われた多感な時代を返せ!

 そして、「美少年」が出ていても「美少女」が出てない!「美少年」という言葉がもともと男女の区別なく、「美しい若年の人」のことを表しているため、広辞苑ではあえて「美少女」は載せていないというが、僕が青春時代に美少女と縁がなかったのは『広辞苑』のせいだ←新解さんも「美少年」のみ。

 言葉の堂々めぐりで何も分からないし、百科事典としても中途半端で失格である。

 と思っていたら、浅田次郎は『ひとは情熱がなければ生きていけない』(海竜社)で感動的な話を書いていた。広辞苑の編集者に読ませてあげたい。

 【私は】常に自らよろこんで学び続けてきた。今も読み書くことに苦痛を覚えたためにはない。その源泉はすべて、母があの日、「えらい、えらい」と泣きながら私に買い与えてくれた、三冊の辞書である。

 生家が没落していたにもかかわらず、お母さんは次郎のわがままを聞いてくれ、私立中学に合格した。発表を見た後、学用品を山のように買ってくれたという。

 小さな辞書には見向きもせず、広辞苑と、研究社の英和辞典と、大修館の中漢和を買い揃えてくれた。おかげで私はその後、吊り鞄のほかに三冊の大辞典を詰めたボストンバッグを提げて進学しなければならなかった。

 ただ、核」の説明が「女性の尿道出口の前方にある小突起。男性の茎に相当するが、きわめて小さく、尿道につらぬかれていない。性的興奮により充血し勃起する。梃。」とやたら詳しい。にもかかわらず、「しなたりくぼ」という項目には「。〈霊異記下訓釈〉」という意味が出ているが、この「女」がない(伏せ字だらけで余計におかしな気分になってくる)。語釈が同語反復(トートロジー)になっている(例:「生」=「死の反対」、「死」=「生の反対」)のも困るが、こんな風に袋小路になっているのも困る。

 だからダメというのではないが、何よりも語義が丁寧ではない。CD-ROMや電子ブックが出ているからよく使うが、満足はしてない。大体、鴬の声が聞こえたり、「利休鼠」の色が出てきても音の悪いスピーカーや画面の悪いモニターを使っている僕には無縁だし、クロスワードもしないから『逆引き』も関係ない。新しい言葉が載っていないからクロスワードにはイマイチ(これは載ってる)だ。

 『言海』当時の辞書は表記が定まっていなかった。「上京」が「じょうきょう」(『広辞林』『辞苑』)「ジョーキョー」(『大辞典』)「じょおきょお」(『明解国語辞典』)、「姪」が「めひ」(『広辞林』)「めい」(『辞苑』)「メイ」(『大辞典』)「めえ」(『明解国語辞典』)という違いがあって、簡単には引けなかった。

 こうした経験から『言海』や『広辞苑』が好きだ、という人はあまり信用していない。新解さんも『近代国語辞書の歩み--その模倣と創意と』(三省堂)で『広辞苑』を完全に無視している。もちろん、ごく一部の作家は別としても僕ら大衆には向かない辞書である。武藤康史は「国語辞典の利用者の系譜」(『近代日本文化論3 ハイカルチャー』岩波書店2000年)の中で、『言海』などが国語辞典としての実際の用に耐えるというような使い方がどれくらいなされていたか疑問視している。


 無色透明の辞書というのはありえない。「不可能」がなかったナポレオンの辞書がその筆頭である(ただし、彼は「不可能である(ということ)はフランス的ではない」とフランスを讃えていったらしい)が、逆説的に辞書を作ったのがビアスの『悪魔の辞典』やフローベルの『紋切り型辞典』である。僕の好きなのに『大語海』(ビックリハウス)というのがあって、例えば「百人一首」は「お化け」となっている。

 一般に使われる辞書は無色透明を心がけていたり、装ったりしているのだが、そうは問屋がおろさない。時々、辞書を使って議論する人がいるが、過ちの元である。

 ホントは学問というものが無色透明だと思っているところに大きな過ちがある。国文法だって山田文法も、時枝(誠記)文法も、橋本(進吉)文法、松下(大三郎 )文法もあって、一つではない。見方でどうとでも変わってくるものなのだ。

 すると主人は細君に向って「今鳴いた、にゃあと云う声は感投詞か、副詞か何だか知ってるか」と聞いた。
 細君はあまり突然な問なので、何にも云わない。【…】すると主人はたちまち大きな声で
「おい」と呼びかけた。
 細君は吃驚《びっくり》して「はい」と答えた。
「そのはいは感投詞か副詞か、どっちだ」
「どっちですか、そんな馬鹿気た事はどうでもいいじゃありませんか」
「いいものか、これが現に国語家の頭脳を支配している大問題だ」
「あらまあ、猫の鳴き声がですか、いやな事ねえ。だって、猫の鳴き声は日本語じゃあないじゃありませんか」
「それだからさ。それがむずかしい問題なんだよ。比較研究と云うんだ」
「そう」と細君は利口だから、こんな馬鹿な問題には関係しない。「それで、どっちだか分ったんですか」
「重要な問題だからそう急には分らんさ」と例の肴《さかな》をむしゃむしゃ食う。ついでにその隣にある豚と芋《いも》のにころばしを食う。「これは豚だな」「ええ豚でござんす」「ふん」と大軽蔑《だいけいべつ》の調子をもって飲み込んだ。「酒をもう一杯飲もう」と杯《さかずき》を出す。
「今夜はなかなかあがるのね。もう大分《だいぶ》赤くなっていらっしゃいますよ」

「一番長い字を教えてやろうか」「ええ。そうしたら御飯ですよ」「Archaiomelesidonophrunicherat…」という話の直前に出てくる『吾輩は猫である』の場面だ。この当時支配的だった『広日本文典』などの大槻文彦の文法(欧米の一般的な品詞分類を踏襲している)によれば、「ひゃあ」も「はい」も感投詞(「間投詞」とも)になる。ところが、山田文法では副詞・接続詞・感動詞(新解さんも「感動詞」として扱う)が一括して広義の「副詞」として扱われている。

 品詞、いや文法というものが学説の対立になっていることを漱石は分かっていて、揶揄したのである。

 ジョンソン博士が英語辞典を作ることになったのは「鑑」が欲しかったからである。英国国教会主教だったウイリアム・ウォーバートンは1747年に「わが国には文法も辞書もなく、この広大な言葉の海をわたるための海図も羅針盤もない」と嘆いたが、イギリスに先立つこと百数十年、イタリアとフランスは辞典編纂のためアカデミーを創設、何人もの人間を投入して半世紀近くをかけた辞典をつぎつぎに完成させていた。遅れをとったイギリスにとって、自国の由緒正しさを証明するものとしての英語を確認し、永久に確定するための辞典をつくることは、国家の急務だったからである。

 一般の人は辞書を「鏡」と「鑑」とどちらを期待するのだろうか。明らかに「鑑」であって、みんなが今ある語法や文法を知り、言語学者になりたいと思っているのではない。辞書に規範を求める心理は何だろう。

 国広哲弥先生は「規範主義と記述主義」(『言語』2000年5月号)で明確に答えている。

 第一は人間の本能な保守性である。昔から慣れ親しんできたものはモノであろうと言葉であろうと変化を嫌う。

 第二は情報の伝達に支障を来すからである。「気のおけない友達」というのが悪い意味に取られたら困る。

 第三は教養のある人間とみられたい、という社会的なものだ。知らずに規範に外れた言い方をして、陰で無教養な人間と思われたくない。

 ごく最近、マイクロソフトが謝罪したことがあった。つまり、「MSワード」の類語辞書の中のunchristian(非キリスト教徒)の類語としてsavage(野蛮な)と出てくるのでソフトを訂正することにした。これは多くの辞書に載っていたことだから不思議ではない。例えば、『研究社新英和中辞典』(第1版)にはchristianの反対語としてethnicとかbrute、savageが堂々と載っていてbehave like a christianの意味が「人間らしくふるまう」となっていた。これでエスニック・グループが問題にしないのはおかしいが、活字では無視されがちだった。これに対して、国境がない電子メディアの辞書の場合にはどうやら問題が大きくなりがちである。

 Savageで思い出したが、漱石の『吾輩は猫である』の苦沙弥先生のあだ名はsavage teaである。なぜかというとお茶の説明をしていた時に学生から「番茶」は英語で何ていうのですかと聞かれて「野蛮な茶」だから“savage tea”答えたことに由来している。

 このギャグは寅さんの中でも使われていて恩師の坪内散歩(逍遥ではない)先生が“savage tea”と答える場面がある。

 でも、本当はbanchaでいいのだ。『ウェブスター英語辞典』第3版にはちゃんとbanchaで載っている。しかも、語源もnumberからと正確に記述してある。

 この辞書はアメリカの構造主義言語学の影響も元で作られ、あるがままに言葉を捉えた辞書として有名だ。でも日本人には首をかしげたくなることもある。

 例えば、fuguにはany of various globefishes that contain a heat-stable toxic principle resembling curare and are somtimes eaten in Japan with suicidal intent、つまり「フグ科の魚で、クラーレに似た熱分解しない毒素を持ち、日本では自殺の目的で食べる」と書いてある(第2版には自殺の記述はない)。ちなみに「クラーレ」というのは南米の先住民が毒矢に使った植物性の猛毒のことだ。きっと「服毒自殺」を「フグ毒自殺」と間違えたんだ!

 富山の名産「ホタルイカ」firefly squidは「ぴかぴかと光沢のあるイカで西日本の海岸で採れる」まではいいのだが、「肥料にされる」a brilliantly luminescent squid(Watseonia scintillans) caught in great quantities off the western coast of Japan where it is used for fertilizerと書いてあって郷土愛に乏しい僕でも腹が立つ。

 輸送手段が完備するまで肥料に使われていたらしいが、大きなお世話だ。

 インターネットの青少年に与える影響を考えて検閲ソフトができた。おかげで「性別」という意味のsexという語が入ったホームページにアクセスできなくなっていてホワイトハウスのホームページも見られなくなっているという。このホームページも今、sexと書いてしまったのでアクセスできなくなるかもしれない。

 ATOKなどのFEP(日本語変換ソフト)もこうした研究の対象になる。例えば、明仁や徳仁(読める人は少ないんじゃないでしょうか、答「ナルヒト」)とか、秋篠宮(あきしののみや)、高円宮(たかまどのみや)が一発で変換できるのに差別語と呼ばれるものの多くが変換できなくなっているということがある。

 全ての言語表現は他人を傷つける可能性がある。コミュニケーションが自分でなく、他人に向けられたものだからである。だから、「障害者」も「障碍者」とか「障がい者」などと「害」のイメージを消され始めている。英語でも「ハンディキャップト」ではなく、「チャレンジド」とされるようになってきた。

 それなのに、例えば「基地外」とか「不素」「仕込め」「媚びと」「ツン簿」(「ツン簿桟敷」も)「算す毛」が変換できない。「器家人」というのも出てこない。

 2001年9月には民主党の鳩山由紀夫が「『狂』という言葉は日本では禁止されている。人間にだめなものを使うのは、牛の権利を侵害している」と「きょうじん」のようなことを言った。この「きょうじん」も「強靭」とか「凶刃」になるだけだ。さんざん食べておいて「牛の権利」もないものだと思うが、それ以降、あまり「狂牛病」というのは使われなくなって、BSEと呼ばれるようになったし、変換もできない。

 「聾学校」というのは差別語だから「特別支援学校」にしようという動きがある。そもそも「聾」という言葉が差別語からの言い換えにより普及したことが忘れられている。

 それなのに「片手落ち」が変換できるのは片手落ちと言えるかも知れない。

 ジョンソン博士は死の間際に次のように書いている。

 「辞書は時計のようなものだ。最悪でもないよりはましだし、裁量でもまったく正しいと期待することはできない」


      


※「片手落ち」というのは「片手」が落ちたことをさすのではなく、「手落ち」に「偏(かた)」がついたもので、「偏向した手落ち」と考えられるから差別語ではないはず。

※97年には國廣哲彌先生が『理想の国語辞典』(大修館)を出版された。

※98年には「新解さん探検隊」でSM嬢を名乗っていた鈴木マキコさんの『新解さんの読み方』(リトル・モア)も出版された。

※高島俊男は『お言葉ですが…4』(文藝春秋2000)で「広辞苑批判」をしている。

※2001年に柴田武監修・武藤康史編『明解物語』(三省堂)が出版された。

※2004年11月には新解さん第6版が出た。


※金武伸弥(かねたけ・のぶや)という読売新聞の校閲係をしていた人が“『広辞苑』は信頼できるか”(講談社2000)という本を出した。言語学者にはできそうもない視点で各種辞書を比較している。

 この本によると辞書の採点は次のようである。本人もこのランキングを絶対視されることは本意ではないというが紹介する。『広辞苑』の評価は高すぎる。

 <100項目チェックランキング>

三省堂国語辞典
61.5点
☆☆☆☆☆
大辞林
59.0点
☆☆☆☆
大辞泉
57.5点
☆☆☆☆
広辞苑
52.5点
☆☆☆☆
日本語大辞典
50.0点
☆☆☆☆
新選国語辞典
47.5点
☆☆☆
現代国語例解辞典
47.0点
☆☆☆
新明解国語辞典
46.5点
☆☆☆
集英社国語辞典
45.0点
☆☆☆
角川必携国語辞典
45.0点
☆☆☆
学研国語大辞典
42.5点
☆☆☆
辞林21
42.0点
☆☆☆
新潮現代国語辞典
37.5点
☆☆
旺文社国語辞典
36.5点
☆☆
国語大辞典
34.5点
☆☆
新潮国語辞典
34.0点
☆☆
岩波国語辞典
34.0点
☆☆
福武国語辞典
31.0点
☆☆
角川新国語辞典
23.0点

※NHKは2001年6月19日放送のプロジェクトXで『広辞苑』誕生の秘話「父と息子 執念燃ゆ大辞典〜30年・空前の言葉探し〜」を放送した。ところが、『辞苑』のことを紹介していなかったなどとして、プロデューサーが謝罪するという事件まで起きた。

※フランスはアカデミー・フランセーズがフランス語辞書を出している。レヴィ=ストロースもアカデミー・フランセーズの会員としてこの辞典に携わっているというが、ディディエ・エリボンに半生を語った『遠近の回想』(みすず書房)では「ブーメラン」という語をわずか3行で定義するのは結構頭を使う作業だと語っている。

 日本には小学館のものがあるが、まだ足りない。丸谷才一が「どこかの企業に『冠・日本語大辞典』を作ってほしいんです」と提案した。国語学者の大野晋に相談したところ、年に2000万円で15年、3億円あればいいものができるという。大企業は売り上げの5%を広告にかけている。年に1000億円くらい使っている企業はザラだ。そのうちの2000万円。巻数は20巻か25巻で『ソニー日本語大辞典』なんかが作られればいいなどと『東京人』(2000年3月号)は書いている。

 辞書にお金がかかるのはジョンソン博士の頃から同じで、チェスターフィールド伯爵に援助を仰いだのだがちょうど忙しくて門前払いになった。辞書が完成しそうになったとき、伯爵から援助の申し出があり、ジョンソンは「パトロンとは溺れそうになって必死にもがく人間には素知らぬ顔でいて、いざ岸にたどり着きそうになったときに、手を差し伸べる人間か」と書いた手紙に有名だ。辞書の定義には「賛同して、支援を与えたり、保護したりする人。たいていは傲慢な態度で支援する卑劣漢で、お返しにおべんちゃらを言ってもらう」としている。

※2001年に谷沢永一・渡部昇一『広辞苑の嘘』(光文社)という「トンデモ本」が出た。辞書は編者のフィルターがかかっているからといって、体制側から問題にするのは明らかに間違っている。もちろん、辞書としての間違いもあって理解できる部分もあるが、鬼の首をとったように騒ぐのはシャレにもなにもならない。こんな<博識芸者>(佐高信の言葉)たちに惑わされてはならない。「広辞苑は思想書」だというが、こんなシソウ膿漏な人間にひっかかってはいけない。彼らが問題にしているのは定義の問題であって、言葉の問題ではない。小谷野敦『退屈論』(弘文堂)は「この愚書の絶版を勧告し、谷沢永一には文筆活動からの引退を勧告したい」とまで書いているが、ここまでいうこともないだろう。

 なお、この本は裁判になった。文化勲章受章者の貝塚茂樹(中国古代史)を中傷したように記述され名誉を傷つけられたとして、加地伸行・大阪大名誉教授(中国哲学史)が、谷沢と出版元の光文社(東京)に出版差し止めや慰謝料などを求めた訴訟の判決が5月20日までに大阪地裁であった。村岡寛裁判長は「原告の社会的評価を低下させ、名誉権を侵害した」として、名誉棄損に当たる部分の出版差し止めと慰謝料50万円の支払いを命じた。判決によると、谷沢は、同書の中で、『広辞苑』で貝塚が取り上げられていることについて、「なぜ載っているかわからない」と論評。さらに、「加地伸行が中央公論社(当時)に電話して、あんなつまらん男の著作集を出すようではだめだな、とののしった」などと記述した。判決理由で村岡裁判長は「記述には、違法性を免れるような公共の利害や公益の目的は認められず、内容が真実という証明もない」と指摘して原告側が一部勝訴した。


Back Home        please send mail.