金川 欣二:マックde記号論(言語学のお散歩)


新人類のための図書館利用法

川辺でバーベキューを楽しむ以外に意味を持つ営みが何ひとつとしてない日があるのと同じように、読書をしなければその日の存在意義が永久に失われてしまうような日もある。
     -----デビット・ゾペティ『いちげんさん』(集英社)

午後の図書館に 眠ってしまうわが前の
         光源氏の晩年近し
     -----佐々木幸綱


 「本が読めて何になる?」と言ったのは太陽王ルイ14世だった。王様でもない僕らには本を読むことが力となる(はずだ)。

 実は読書が大事というのはごく最近の言説である。ルソーだって『エミール』の中で「世界の他にはどんな書物もあってはならない…。読む子どもは考えないし、知識を身につけないで、ただ言葉を学ぶだけだ」といっている。日本でも本ばかり読むのは害悪だと思われていたから、本当は危ないことなのかもしれない。

 読書は最も身近な異文化体験である。安いし、いつでも止められる。危険もない(人生を変えるという意味で危険な読書もあるが…)。

 昔は図書館にしかクーラーがなかったから、みんな利用したが、今は家庭にあるので、さほど図書館で勉強する人はいないだろう。それでも静かだ。もっとも、漱石は朝日新聞に入る時の「入社の辞」の中で、(おそらく冗談まじりで)こんなことを書いている。

 大学で一番心持ちの善(よ)かったのは図書館の閲覧室で新着の雑誌抔(など)を見る時であった。然し多忙で思う様に之(これ)を利用する事が出来なかったのは残念至極(しごく)である。しかも余が閲覧室へ這入(はい)ると隣室に居る館員が、無暗(むやみ)に大きな声で話をする、笑う、ふざける。清興を妨げる事は莫大(ばくだい)であった。ある時余は坪井学長に書面を奉(たてまつっ)て、恐れながら御成敗を願った。学長は取り合われなかった。余の講義のまずかったのは半分は是(これ)が為めである。学生には御気の毒だが、図書館と学長がわるいのだから、不平があるなら其方(そっち)へ持って行って貰いたい。余の学力が足らんのだと思われては甚(はなは)だ迷惑である。

 他の先生にいわせると僕は図書館利用の新人類だという。

 確かによく利用している。まず小説は自分で買わない。エッセーも文庫本になるまで待つ。この「主義」は大学に入りたての時に決めた。それでも毎月数万円の本代がかかっているのだから、徹底しなかったら大変なことになっていた。

 年間500冊が当面の目標だから図書館を利用しなくては地獄になっていた。図書館を利用する利点は多い。

●コスト…本代が浮く。毎年200冊は借りるから1冊平均1500円として30万円の節約になる。一度しか読まない本の必要な部分はカードにするし、更に必要ならコピーをとっておく。

●スペース…200冊に一冊平均2センチをかけると4メートル分も書架が必要になる。買った本だけで毎年本棚が1個ふえるのだから、これ以上の余裕はない。図書館にはゆったりとしたスペースがあり、書物たちもゆとりの人生を楽しんでいるようである。

●エネルギー…図書館には専門の司書がおり、分類や保存がきちんとなされている。自宅ではこうはいかない。「あそこに入れたはず」だと思ってもなかなか出てこない。ムダなエネルギーを使わずにすむ。おまけに必要な本を書店まで買いに行くエネルギーも省くことができる。僕は自宅で出ないときは図書館に走ることにしている。ハンガリー語の徳永康元先生は目指す本が出てこないときは新しく買うので本が増えてばかりだと嘆いていた。

●読み捨て…気に食わない本があれば、すぐに読むのをやめられる。ムダな本を買ってしまったと悩まずにすみ、精神の健康にもよい。年を取ると2度買う本も出てきて、それを知った時に嘆かずにすむ。

●タイム・リミット…2週間の貸し出し期限があるから時間を調整してでも読んでしまう。自分で買った本はいつでも読めるという安心感から、つい「横ん読」になりがちである。本もコピーも持っているだけで読んだような気持になるので恐い。1年で消える本ばかりなら、もっと一生懸命に読んで、今ごろは大学者になっていたはずだ。

●分野…将来役に立つだろうと思って買う本はどうしても専門に傾よりがちになる。その点、図書館には色々な分野の本が豊富にそろっていて、歴史書だの経済学の本など気軽に読める。図書館のおかげで「浅く広く」読めることになる。「学際的」になれるのである。

●専門性…特定の分野に関しても有能な司書のおかげで専門的に本がとりそろえてある。その気になれば「深く狭く」利用することもできる。

●古書…すでに絶版になっていて入手できない本も図書館なら置いてある可能性がある。洋書なども入手に時間がかかることがあるが、図書館にありさえすれば、その日に読める。

 ざっと、これだけの利点があるのに図書館を利用しない手はない。学生時代はそうしていたが、できれば図書館の近くに住みたいものだ。こんな難しい本は誰も読まないだろうと見ると先客があったり、自分の大好きな本がたくさんの人に読まれているのを知った時、見知らぬ読者に共感をおぽえ、心うれしいものである。書評でとりあげられている本が既に新刊コーナーに並んでたりすると、司書の人に握手を求めたくなる。公立図書館と違い、学校の図書館は一旦、卒業してしまうと大変利用しにくくなるものである。今のうちにせいぜい利用していって欲しいと心から願っている。

 エエッ、新人類は本を読まないって!?


 その後、商船の図書館にはLDをたくさん入れたし、パソコンも並べてインターネットも楽しめるようになった。インターネットがどんなに発達しても図書館の優位性は変わらないと思う(思いたい)。

 本を読まない新人類に対して、活字で訴えてみても切ないことだった。

 その後、「新人類」という言葉が使われなくなった。じゃあ、彼らは一体何なんだったのだろう?


 作家の町田康は「二十七歳まで図書館に行ったことがなかった」という。

 試験が近づくとノートを写し合うために、同級生は図書館に集まっていた。ふだん勉強していないのにやったようにごまかす。「やらないならやらないで最後まで押し通すべきだ。そんなところにだれが行くか」などと嘯(うそぶ)いていたのだ。

 二十七歳のある日、立派な建物があったのでぶらり入ったら、万巻の書物。しかもただで読める。セコな奴らが偽善にまみれてノートを写し合う場所でなく、パラダイスだった。以後、三年間毎日図書館に通ったという。

 パラダイスを利用しない手はない。


 フランスの作家で高校教師もしているダニエル・ペナック『奔放な読書』(藤原書店)は読者の権利十カ条を挙げている。ただし、これは本を読まなくなった若者に気軽に読んでほしいという願いが込められている。

 

  1. 読まない
  2. 飛ばし読みする
  3. 最後まで読まない
  4. 読み返す
  5. 手当たり次第に何でも読む
  6. ボヴァリズム(小説に書いてあることに染まりやすい病気)
  7. どこでも読んでもいい
  8. あちこち拾い読みする
  9. 声を出して読む
  10. 黙っている

 


 じっくり読むことが少なくなったと思う。それだけ生活に忙しいのは分かるが…。 

 葉柳和則のホームページに次のような文章が載っていた。

「見ることと見ないことのあいだ」

 私が大学に入った次の年(だったと思う)に、浅田彰の『構造と力』と中沢新一の『チベットのモーツアルト』が出版され、ニューアカ・ブームなるものが湧き起こった。だが正直に告白すれば、『構造と力』は第一章(大学論のようなもの)を除いてはよくわからなかったし、『チベット…』もカスタネダが出てくるところあたりまでしかついていけなかった。
 学生寮の上の階に住んでいた我が人生の師青木秀樹さんに、相談すると、「構造主義や記号論についての基本文献を読んでいないと、浅田や中沢のようなポスト構造主義の論客の議論は理解できないよ」と教えてくれた。
 そこで、まずはレヴィ=ストロースやソシュールの翻訳書を手に取ったのだが、これまた部分的にしかわからない。
 青木さんに再度悩みを打ち明けると、山口昌男や丸山圭三郎の著作を紹介してくれた。
 山口の『文化と両義性』や丸山の『ソシュールを読む』は頭の中にすんなりと入ってきた。日常生活の中で漠然と感じたり考えたりしていたことが、「中心と周縁」、「意味するものと意味されるもの」といった概念装置を媒介にすることで、くっきりとした輪郭をもって浮かび上がってくるというのは実に印象的な経験だった。
 それからしばらく私は、こうした概念装置の手助けを借りて、自分の生活世界の様々な現象を説明することに熱中した(たぶんうっとうしいやつだったと思う)。
 (半年くらい経って、浅田や中沢の著作を再読してみると、今度はあまり抵抗なく読み進むことができた。レヴィ=ストロースやソシュールもじっくり読めば、理路を追えるようになった。最初に読んだときどうしてあそこまでわからなかったのか、わからないほどであった。)
 しかしながら、しかるべき概念装置を手に入れれば生活世界の全てが説明できる、という高揚感はそう長くは続かなかった。概念とは見るための道具であると同時に、見ないための、さらに言えば、抑圧の道具であることが「見えて」きたからだ。
 それでもしばらくは、衣装/意匠を変えながらも、概念装置を用いて現象を説明しつくしたいという欲望を完全に捨て去ることはできなかった。しかし、この衣替えという行為を通じて、「選択と排除」、「見えることと見えないこと」のメカニズムを体感することができた。
 このようにして私は、概念装置を通じて現象の全てを説明することは原理的に不可能であるということ、何かを見ることは別の何かを見ないことと同時的に生起するということ、そして、この自己限定こそが研究という行為を可能にするのだということを理解した。このとき初めて私は素人から脱却するための初めの一歩を踏み出したのだと思う。


Back Home        please send mail.