英語教育の言語学的基礎
第1章 不毛な英語教育論争と国際社会
戦後、英語教育は英会話ブームや視聴覚機器の発達、交通の利便化、外国人教師の増加などにより飛躍的に発展してきたようにみえる。その一方で多くの知識人が嘆いているとおり(cf.竹蓋1982)、日本人の英語能力は伸びていないし、環境が整わなかった明治期のエリートに比べて数段劣るようにみえる。実際、100年間にわたる英語教育史を見ていくと、英語に対する位置付けが不安定で、「英語論争」と「英語新教授法」の繰り返しだったことが分かる。しかも他の教科に比べるとその歴史は長く、かなり頻繁なものであった。
不思議なことに、例えば数学という教科で微積分を社会に出て使う人は稀だからやめてしまおうとか、国語という教科がもしかしたら不要ではないか、という議論が出ないのに拘わらず、英語の場合、様々な立場の人が、様々な角度から要・不要論がかまびすしく繰り返されてきた。国民全体を巻き込んだ形でこうした議論が出ること自体、英語教育が単なる技能教育ではなくて、道徳教育と同じようにイデオロギーとしての側面をもっている証左となるであろう。言語学的に英語教育を見直すために論争史と理論史を簡単に振り返ってみたい。
大正時代の大岡育造・村井知至論争をはじめ、加藤周一らの批判、ごく最近では平泉渉・渡部昇一(1975)の英語教育論争が知られている。その歴史を顧みるとき、際立ってみえることは英語教育論が社会的な情勢に左右されてきたことである。後の初代文部大臣・森有礼が日本語を廃して、英語を国語に採用するという発表をしたのが、恐らく、その最初である。大正中期以降は英語の存廃がたびたび論じられるようになってきた。その背後には日本の国力充実に伴う民族主義、国粋主義の台頭、翻訳書の増加、「役に立つ、話せる」英語力が伸びないという現実があった。戦中の「敵性語」として排斥されたのに対し、、一転して戦後は英語教育の必要性が従来より強く説かれた。この背景には勿論、アメリカ軍による日本の占領があった。その後ほぼ十年ごとに英語教育批判が噴出している。
これらの対立は実用主義と教養主義の対立と単純化できる。一般に外国語教育の目標は二つあると考えられる。一つは、言語としての外国語を学ぶことによって学生の言語意識を鋭くし、国語(日本語)に対する理解と意識を高めること。もう一つは、言語の表現する内容の理解を通じて諸外国の文化に接触させ、これによって国民文化をいっそう深く理解させることである。
したがって、外国語教育の目的には特定部門を専攻するための基礎を習得させる実用的かつ専門的教育と、一般教養的な教育との2方向が含まれている。後述するように、これらはクルマの両輪みたいなもので、英語文化に対する理解が欠如していれば、円滑なコミュニケーションは望めないし、英語そのものができなければ英米の文化を理解することができない。実用主義と教養主義の対立をしているうちに国際情勢の方が大きく変わってしまい、海外出張、海外赴任が日常茶飯事となり、海外帰国子女の扱いが社会問題の一つになっている。否応なしに日本は国際社会化している中で、これ以上不毛な論争を繰り返すのはむだである。今はむしろ、実用的な英語をどうやって習得させ、外国および自国の文化に対する教養をどのように英語を通して身につけさせるかが大きな課題となっている。
第2章 「流行」の中の英語教育理論史
日本の英語教育は、広義には洋学輸入の歴史であり、当初の蘭学から英学へと変化したものの、西欧の物質文化、後の精神文化を含めての輸入の媒介としての実利的な出発点をもっていた。1870年の「小学規則」に独、仏、蘭語に加えて英語があげられ、72年の「学制」で中学、尋常小学で外国語が課せられた(79年削除、84年一時復活)。当時は文書を通しての英語であり、その性格から変則英語教育(漢文を解釈する方法を使う)を含む訳読法が中心だった。中には外山正一らによって発音、会話と直読直解を重視する正則英語教育が唱えられたことがあったが、勢力を得るに至らなかった。
その後、日本で最も影響が大きかった教授法は二つある。一つは1922年にH・E・Palmerが文部省の外国語教授顧問として来日し、提唱したオーラル・メソッド(oral 〈direct〉 methodである。これは発音と口頭作業、英語で考え(thinking in English)、直接英語で反応する訓練を強調した。これは、しかし、教師の力不足や生徒数の多さ、周囲の無理解で広く普及しなかった。
もう一つはC・C・Fries(1945)をはじめとするアメリカ構造言語学(structural linguistics)の理論の応用であるオーラル・アプローチ(oral approach)で、これは1955年以降、一世を風靡した。これはパタン・プラクティス、ミニマル・ペアや口頭練習をその特徴としていた。Palmerと違い、理論的な基盤を持ち、教材も体系化され、母語の使用や訳読に厳しい制限をつけず、教師、学生とともに受け入れ易いものであった。他方、同じパタンの繰り返しが多く、機械的すぎるという批判も多かった。
65年以降はN.Chomskyの変形生成文法(transformational generative grammar)の影響で様々な実践例や研究が発表された。これはアメリカ構造主義の理論を(そしてその背景である行動主義心理学をも)否定するところから生まれ、J.B.CarrolやD.P.Ausubelらの心理学者の批判も加わり、次第に認知理論に基づいた教授法に代わってきている。
明治以降日本に紹介された教授法は活用されなかったものも含めると次の通りである(cf.伊藤1984)。 Basic English Direct Method Graded Direct Method Grammar-Translation Method Mastery Method Natural Method Oral Approach Oral Method Phonetic Method Psychological Method Reading Method
いずれも出現当時は「新教授法」と呼ばれたが、次々と教授法が出現し、忘れ去られていった。1970年代初頭オーディオ・リンガル・アプローチが行き詰まったとして、認知論的な教授法が多くなり、最近のものだけでこれだけある(cf.ibid.)。 Community Language Learning Confluent Approach Comprehension Approach Drama Method Natural Approach Notional Approach OHR Sens-It-Cell Silent Way Suggestopedia Total Physical Response Approach.
教育理論と相俟って、戦後、テレビ放送が開始し、テープレコーダーやLLが普及し、視聴覚機材は飛躍的に進歩し、CAI(computer aided instruction)さえ叫ばれるようになり、多くのネイティブ・スピーカーが来日し、学生の前で授業をする機会も飛躍的に増大してきた。英語は元来、西洋の事物を摂取する媒体であったが、英語教師は敏感に様々なものを消化・吸収してきた。しかし、輸入するのにあまりにも急で、LLを代表としてこれらの補助機材が必ずしも十分に活用されていない状況がある。
問題はこれらの理論や手法が西欧では「ささら型」の学問的土壌から生まれてきているのに、「たこつぼ型」の日本では脈絡なしに「新教授法」として摂取されることが多いことである。生成文法にしても構造主義言語学のいわばアンチテーゼとして生まれ、あくまで言語学の一つの理論でしかないのに、あたかも前者が否定され、時代遅れであるように評価され、教育理論としても「新しく」て優れているかのように受け入れられている。進歩ではなく、ここで「流行」という一例をあげれば、Chomskyが彼の言語学の一つの帰結としてcommunicative competenceを取り上げると、早速、日本ではcommunicative grammarが重視しようという声が揚がるからである。他の教科でこれ程「新教授法」が輸入されているとは思えない。
これは日本の大学の在り方とも関係している。まず、事実よりも方法論が優先される。次に、教育学部にも文学偏重の大学教師や学生が多い。また、大学教師の任務の一つに「新しい」理論を発展させて研究を進めていくことがある。英語教師の大半はそうした大学教師のもとで教育されるのであるが、学問の全体像よりむしろ、在籍時に研究されていた教育理論のみを学び、教育現場に赴くことになる。その後も研修などで「新教授法」を教わり、実践していく。英語教師には英語を職業にしようという目的もあったし、大学で英語に触れる量も比較的多い。英語をそうして習得している教師の方はいいが、「流行」の教授法を押し付けられる学生の方は受験英語を前にして、ひたすら混乱する。また、Doctors disagree.であり、「教室の文法」と「書斎の文法」は本来(教室で後者を披露する事はあっても)区別されるべきものである。例えば、動名詞と現在分詞の範囲(例/We are surprised at the boy visiting…)は学者によって異なるが、そのまま提示して教育現場を混乱させてはならないだろう。従って、理論をそのまま授業に導入するのが、応用言語学ではない。
これではいつまでも国際化社会に対応した日本人は作りえないし、日本人に適応した英語教育が確立されることなく、英語教育が論争の種になり続けることになる。以下では「新教授法」を提唱するのではなく、上述のような社会情勢や流行に左右されない英語教育の在り方を再検討したい。
第3章 言語学から見た英語教育の問題点
まず、教える英語の内容を検討してみたい。この問題は教師だけの問題ではなく、教科書の問題でもある。最近では工夫の多い教科書が次々と出版され、後述する問題の一部が解決されているものもあるし、これら全てを薄い教科書や僅かの授業で網羅することはできないという批判もあるだろう。しかし、教師自身に内容に対する確固とした観点がなければ改善の余地はないであろう。
現在、日本の学校ではアメリカ英語が教えられているが、アメリカ英語が行われているのは本国、カナダの一部、南米の一部、フィリピンぐらいでその他はイギリス英語である。今後の国際化を考慮すると、いまだにイギリス英語の方が重要である。また、この違いが時には神経質に教えられることがあるが(英in the street/米on the street、at once/right away)、英米の違いによってコミュニケーションが阻害されることは少なく、むしろ有害である(in the streetの方が限定的という説明もできる)。また、例えば、underground/subwayがそれぞれ英米で「地下鉄」(逆に米英で「地下道」)を表すことまでは触れられるが、言語学の「偽りの同系語」(deceptive cognate)として教えられることはない。例えば、日本語と英語ではfeministが正反対の意味で使用されているとか、日本語の「東西」「手紙」が中国語で「商品」「トイレット・ペーパー」と違う現象と同じである。逆に日本語の「新方言」(例えば、関東/関西の「月極駐車場」/「モータープール」)のように語形が異なるものもある。
方言に関する配慮も少ない。方言を教えるべきというのではなく、英語には様々な変種があることを記述すべきである。例えば、ロンドンの下町の方言であるCockneyについて触れてあることは少ない(My Fair Ladyが教材として取り上げられることがある。ここで問題にしているのは教材としてではない)また、その一つの方言であるオーストラリアやニュージーランドの英語に関して取り上げられることは少なく、学生たちは外国人を見ればアメリカ人だと思い、更にみんな均一のアメリカ英語を話すものだと考える。そのため、「違う」英語を話された時、円滑にコニュニケートできず、それを英語教育のせいにしたりする。また、同じイギリス国内でもウェールズ語(Welsh)や系統の違うゲール語(Gaelic)などが存在することに、すなわち、英語が日本語と同じように一枚岩(monolithic)でないことを教える必要がある。
結局、「部族語」としての英語ばかりが強調され、「国際語」としての英語が教えられることも少ない。これからの日本人が接するのは英米人ばかりではない。変種に富んだ英語を話す英米以外の外国人の方が多くなるであろう。そのためにも鈴木孝夫(1975)の提唱するEnglicを取り込む必要がある(それ以前に小田実も類似のEnglantoを提唱している)。
鈴木は「英語国民に特有の思考の枠組、文化(そして独特なイディオムと発音)からできるだけ解放された英語を、イングリックEnglicと呼び、英国の英語、アメリカの英語を基本として考えるイングリッシュEnglishと区別すべきだ」と述べ、さらに「EnglishとEnglicはたしかに歴史的、発生的には密接な関係があるが、今では別のものとなっている」という。また、国際補助語としてはイングリックの方がよいと述べ、その理由として「英国人でないもの同士が、英国的なものを仲介しなければ、相互に理解し得ないと考えるのは馬鹿げている」「このことが経済性だけでは測れぬ精神文化的な重要性を持っている」ことをあげている。そして、日本の英語教育もイングリックへ移行させる必要があるといい、実践の具体的方法として、内容把握中心、徹底的な英語使用、文学排除をあげている。
これに関連していえば、従来、日本の学校で教えられてきた英語は英米文化を「受信」するためのものであったが、今後は日本文化を外国や外国人に対し、「発信」する英語でなければならない。アメリカの文化には精通していても、いざ日本の生活や文化を語ろうとすると、全く英語で説明できないことに気がつく。JambalayaやHalloweenは知っていても、soy sauceやお盆について何も語れない日本人が多い。つまり、how to say ばかり強調するのではなく、 what to sayをも取り入れて行かなければならない。外国人に積極的に話し掛ける人の会話がいつも「箸は使えますか、刺身は食べられますか」では相手を英会話の機械としか考えていないことになる。このままでは「日本人の3S」(silent,Sleep,smile)の汚名は免れない。
二つの意味で「外国語訛り」(foreign accent)に関する注意を喚起することも重要である。一つは話者の訛りである。つまり、「オーソドックス」な英語以外の話者の基層(substratum)言語による干渉(interference)を類推し、その英語を理解することである。例えば、thirty-threeをterty-tree(日本人はserty-sree?)のように発音する英語の話者がいるが、その「訛り」を理解しなければならない。勿論、英語の授業にPidgin Englishなどを導入する余裕はないが、究極的にはこうした英語の変種の話者ともコミュニケートできる人材を作ることが望ましい。実際に、英会話講師として教壇に立つのはその方言を無視して圧倒的に白人の英米人やカナダ人であるが、インド人やフィリピン人なども積極的に取り入れるべきである(黒人はすべてblack Englishを話すという偏見をとるためにも)。
もう一つは日本人が話者になる場合の干渉をできるだけ減らすことである。例えば、【l/r】の区別ができないとか、開音節構造をもつ日本語のせいでstrikeをsutoraiku/sutoraiki、Christmasをkurisumasuと発音する(これは恥じるべきことではなく、構造が違うだけである。音素の少ないハワイ語ではkalikimakaになるし、逆に英米人は日本語の撥音、促音、長音がうまく発音できない)といった訛りを矯正するためである(場合によっては、日本人の訛りを説明してから(l/r、th/s,ti/chi,si/shiなどを混同すること)会話を交わすほうが円滑にいく場合がある)し、あるいはそうした英語でも十分に通じ合えるから、発音にこだわり過ぎるよりは話す内容が大切なことを教育で重視すべきである。従来はl/rを混同するとlice/rice(蚤/ご飯)で大変な間違いをする、といったコンプレックスを助長することが多かった。逆に、英米人に「軽井沢」を正確に発音させてみればいい(日本人の方がキャルイザワと被占領国であるかのように英語風に話すことがある)。
さて、実際に外国人と話そうとすると早速、困難に出会う。一つは弱形(weak form)や短縮形(reduced form)の存在のせいである。もう一つは俗語(slang)のせいである。弱形は基本形(full form)さえ、しっかりしていれば類推できる程度のものであるが、もっと教授すべきである。俗語は急激に変化していくものであるから不要であるが、英会話をもっとup to dateなものに工夫する必要がある。逆に殆ど使用されない文語のbut forやlest〜should…、be tired with(fromが現代的)などが教えられることのないようにスピーチレベル(usage level)に関する教育と表示が必要である。
これに関連していわゆる「受験英語」「学校英語」が問題であるが、入試自体が変わらなければ解決にならない。入試が変わるには教科書が変わらなければいけない。
英語の入門時に学生が発音に対して困難を感じることが二つある。一つは上述した日英の発音の違いから感じる英語の発音の難しさであり、もう一つは文字と音声の関係である。日英の音声の違いに関して記述してあっても音韻構造に関して記述してある教科は少ない。あるのは母音三角形や綴字と発音の関係、発音記号だけである。母音が三つしかない言語(例.アラビア語)や有気/無気で対立する言語(例.中国語、ハングル)や日本語との違いなど言語全体の音韻体系の中で説明してある方が、英語の発音だけより学生に理解しやすいはずである。教師自身、教員養成課程で「英語」音声学は教授されることがあるが、日本語やその他の外国語との関連で音韻論を、つまり、音素(phoneme)について学ぶことは少ない。そのため、例えば、英語の授業で【s/sh】の発音の違いを注意することはあっても、英語では音素として弁別的(distinctive)であるが、日本語では異音(allophone)であるといった注意や、英語の円唇の【u】と日本語の非円唇の【u】に関しての母音体系を中心とする説明はなされない。音韻論の裏付けのない音声学ばかり指導されてきた。
文字と音声の関係もおろそかにされてきた(アルファベットの「筆順」や大文字/小文字、ピリオドの有無は重視される)。ほぼ1対1で文字とは発音が対応する日本語と大きく違い、多対多で対応する英語には戸惑う学生が多い。日本語の音変化(例/てふてふ>ちょうちょう)と関連付けて、文字と発音の関係を教授することが望ましい。例えば、「大母音推移」(Great Vowel Shift)について説明すると、学生は英語の綴字の奇妙さを理解してくれる。英語教師は(自分達がそうしたように)つい、一つ一つ単語毎に覚えるよう指導することが多い。しかし、学生は教師ほど多量の英語に接することはなく、いつまでたっても勘を身につけることはできない。言語学的な裏付けのある「フォニックス」(phonics)のような規則を与えて発音の勘を養う工夫が必要である。また、ギリシャ文字やハングルなど英語以外の文字体系にも言及して外国語の知識を植え付けるべきである。英語教師でも「北京」に対してPekingとBeijingの2種の英語がある理由を説明できる位であって欲しい。
NVC(ノンバーバル・コミュニケーション)に関しても注意が必要である。make a warning gestureを「警告を発するしぐさをした」と訳しても日本人には分かりにくい。これは彼らが人差し指を相手の目の前に突き付け、チラチラ振って、メーッとする。この場合、左右に振るより、上下に振る方が激しい怒りを表すが、これらは日本人が普通しないしぐさである。 最近ではNVCが教科書に取り上げられることは多くなってきたが、それはあくまで英米のNVCであって、これだけでは危険性がある。例えば、親指と人差し指で円を作る動作のことを日本では「お金」を意味するが、欧米で「OK」の意味になるということまでは教えられるだろうが、Morris(1979)が示しているようにこの動作の分布と意味はヨーロッパ内で、イギリス内でも異なる。「OK」の他に「穴」や「ゼロ」、「脅迫」その他を表し、使用されない地域もある。NVCを教える場合でも「アメリカではこうだ」という教え方ではなく、NVCが普遍的ではない(インドではyesで首を横に振る人もいる)ことを教えるほうが重要である。そうしなければいつまでも、手まね足まねで外国人と通じ合えるという神話がまかり通るばかりである。また、Lafcadio Hearnのようにthe Japanese smileを東洋的神秘と感じる外国人もいるだろうが、得体が知れずに、気持ち悪いと感じる外国人もいることを忘れてはならない。
言語には「ゆれ」(fluctuation)がある。例えば、often は[-fn]の他に[-ftn]という発音もある。教師の宿命として「正解」を教えなければならないからといって前者の発音だけを教え、ゆれがあることにまで言及しない。A rolling stone gathers no moss.も同様で英米でイメージの違いがある(英ではマイナス、米ではプラス)が、「転石苔を生せず」という「意味」だけを提示することがある。多くの言語現象にはゆれがあり、「正解」はない。國廣(1983)によれば、日本語には次のようなゆれがある。 音声 語形 アクセント 漢字の読み 漢字の用法 文法 成句 語句の連想 送り仮名。このうち、英語にあるものを追加して例示しておくと、 often center/centre automobile have動詞 A rolling stone gathers no moss. toiletなどである。ところが、文法偏重の教師は唯一の「正解」を教え込む傾向があり、例えば、どの名詞にa/the/φかなど、普通の会話では余り意味のない複雑な規則に固執する。学生の文法嫌い、英語嫌いを作る原因がここにある。
学校は成績評価と密接な関係があるため、必要以上に完全主義をとる教師がいる。ルース・ベネディクトが『菊と刀』で述べたように日本文化は「恥の文化」だとすれば、他人の目を気にし過ぎ、ややもすれば深刻になり過ぎる。そうした文化的な背景を考慮して教えなければ、ますます「外人コンプレックス」に陥り、英会話の苦手な日本人ばかりを作り上げることになる。
言語が余剰性(redundancy)にとんだ構造をもつことを忘れてはならない。一つの内容(意味)が様々な形式(言い回し)で表現することができる。また、金属でなくても「お金」というし、論理学と違って「西は西、東は東」という言葉は同語反復(tautology)にならず、ある意味をもつことができる。
これとは逆に、「不正解」をもっと教えなければならない。Error Analysisのような指導法もあるが、ここでは非文(ungrammatical sentence)の指導を指す。つまり、英語ではこういう表現はできない、ということを教えなければならない。例えば、*Your team is probable to win the game.とか*It is probable for your team to win the game.とはいえないという指導である(『小学館英和中辞典』など記載されている辞書もある)。従来の指導はむしろ、文法的な文だけを並べて、これを記憶させるような指導が多かった。無論、丸暗記にも意義があるし、何故、非文法的か説明をするのは困難なものもあるが、こうした文法現象があることを提示しながら指導するのが「無味乾燥」の文法に対する興味を増すためにも望ましいであろう。
日本人が英語を苦手という時、多くは「話せない、聞き取れない」ということである。これに関して竹蓋(1983)が『ある愛の詩』Love Storyの会話部分【主人公はHarvardとLadcliffの学生】を分析したら、1310語で、中学校の教科書の語彙1540語より少なかったという。したがって中学で学ぶ語彙と発音だけで英会話はある程度充分なのである。竹蓋はこれらから日本人に不足しているものは 言語運用 語義、表現法 発想だというが、実例を補足して考えてみよう。
運用面で例えば、英語教師は日本語を特殊な言語とみなし、敬語を日本語に特殊との認識から、英語の敬語を教えないことがある。例えば、What's your name, please? のようにplease をつけた言い方を教えない。pleaseがなければ外国人には大変失礼な言い方に聞こえる。had betterはよく「〜したほうがいい」 という訳がついているが、脅迫的な言い回しに聞こえ、誤解の原因となる。
女性語に関しても同様である。女性語はタイ語やいくつかのアメリカ・インディアン語にあり、日本語に特有ではなく、更に英語にもある。教科書によってはトピックとしてとりあげるものも出てきたが、女性はvery muchの代わりにso muchを使う、といった語法中心である。Ms.やchairpersonを使わなければいけない、とか、女性の自立を妨げるような行動はいけないといった配慮をすることはフェミニズム(feminism)のたかまりとともに無視することはできない。文化を無視してコミュニケートすることは不可能であるからである(例えば「フェミニスト」とfeministを混同して使用することは誤解の原因となる)。「今や法律で平等の権利を認められて、女ではなくて『人間』として目醒めはじめた女性たちは『女らしい話し方』から解放され、自信を持って歩きはじめている。彼女たちには『女らしい話し方』のメリットを認める余裕はまだないようだが、今までのように期待される『女らしい話し方』の抑圧に屈し、女であるために、個性を伸ばし、発揮できなかったかも知れない去勢された姿に自分たちを押しこめるという慣習から脱するのに成功しはじめている」(井出1979)
また、例えば、英米では小さなこと(街でぶつかった時)にはSorryといわなければならないが、大きなこと(自動車事故など)に対してI'm sorry.ということは責任を認めたことになるので充分、留意しなければならない。挨拶がわりにWhere are you going?などと話しかけるのをプライバシーの侵害だと考える外国人もいる。ごちそうを作って謙譲表現でSorry we have nothing to serve you.といったらThen,let's go to a restaurant!といわれることがある(直塚1980)。こうしたことは英会話の強調だけでは指導しきれない。むしろ、語用論(pragmatics)的な立場に立った教育が重要である。 語彙は大学入試で要求される量で充分であろう。文法について詳しくても英語の発想について教科書で触れられることは少ない。一例をあげれば、英語の名詞を中心とした発想法と日本語の動詞を中心とした発想法との違いがある。つまり、「私は絵が得意だ」の英訳 I'm good at painting./I'm a good artist.の双方が正解ではあるが、表現としては後者の方が英語「らしい」という指導法である。Nobody knows it.など否定が主語となる文や、「物主構文」も発想が違うことに注意しなければI can't stand my face.という英訳をし続けることになる。
さて、ここで日本人が英語を苦手とする理由を考えてみると、まず、地理的要因がある。国境のある諸外国と違い、国内にいれば、他言語に接することはいまだに稀で、日本は多言語国家ではない。また、明治期に多くの専門語が作られ、日本語だけで大学まで教育できる。第三に、「あんなに英語をやって…」といわれる程には時間がかかっていない。中学では週3時間のみであり、明治期のエリートたちが学んだ旧制高校が語学学校と化していたのと大きな違いがある。また、英語教育における文法偏重がある。コミュニケーションという目的が果たせたら充分なのに文法的な間違いばかり指摘する。次に、文化に起因するものがある。つまり、「恥の文化」で、完璧でないと会話できないと思って外国人を見たら逃げたりする。逆にあまり英語がうますぎると『英語屋さん』として煙たがられる。海外帰国子女も差別の対象となり、英語を下手にする「脱教育」(diseducation)をしなければ日本に適応できない。これは外国人に対しても同じで、日本語に精通すればするほど評価の点が辛くなる。これをG.Millerは「逆報酬の法則」と名付けている(ハルミ・ベフ1987による)。第六に、漢文の伝統から来る文字偏重がある。読解が中心となり、ナマのコミュニケーションはおろそかにされる。第七に、英米人には通用しない英語、つまり奇妙な外来語(例/dead ball、avec、free Arbeiter)が多すぎる。また、英語とは音韻を含めた言語構造が違い過ぎることも一つの原因となる(ただし、同じ膠着語でも英語の得意な人の多い国もある)。この他、角田忠信(1978)が述べている日本人の脳の特殊性、すなわち、日本人が左脳で言語音も鳥の声や雨の音も聞くのに対し、殆どの外国人は自然音はすべて右脳で聞くという説がある(グロータースの反論があるが)。
Lennebergなどのいう「臨界期」(critical period)の理論に関していえば、言語習得はこの時期(生まれてから思春期まで)を過ぎると人間は言語を習得できなくなる。したがって、早期学習の重要性とか、それ以後の意識学習(conscious learning)の必要性とか、英語教育論ではなく、言語理論の裏付けが大切である(叱咤激励するだけではいけない)。英語教師は中学における英語週3時間を「許して」しまったが、これは言語の早期教育の必要性からは全く逆行している訳で、その意味では教師に理論的な裏付けが欠けていたと非難されても仕方がない。ただし、かつて波多野完治が「IQが130以下の生徒には英語習得は無理である」といったような発言(帰国子女の英語力を見れば誤りが明らかであるが)にはすぐに飛び付かないように言語理論を研究しなければならない。
さて、日本語に対する理解が少ないと、訳文の日本語に対する注意が希薄になることがある。一つには1対1で日本語と英語を結び付けることである。ちょうど『吾輩は猫である』の苦沙弥先生のように「番茶」をsavage teaと訳す間違いが多いのである(因みに、番茶はbanchaとしてWebsterに記載されている)。yesを「はい」、 noを「いいえ」と教えるのは否定疑問文の答えとしては既に破綻している(フランス語のようにouiとsiのように区別する言語も多いのだが、その対比で教えられることは少ない)。また、「ウソ」=a lieではなく、軽い気持ちでIt's a lie.というと騙そうとしたようにとられ、誤解を招く。また、日本語の「兄弟姉妹」と英語のbrother/sisterとは後者が性別だけを関与的に表現するという違いがあるが、インドネシア語(kakak/adik)のように年令だけを関与的に表現する言語もあることを教えたならば、英語が特殊だとか、日本語が特殊だとか思わなくなるであろう。
更に、いわゆる訳読法(grammar-translation method)が氾濫する翻訳書の悪訳とともに未だに幅をきかせている。This is a pen.を「これは一本のペンです」と和訳しなければ正解としなかったり、逆にWhat made her do so? などの「物主構文」を「何が彼女をそうさせたか」という訳でも受け付けたり、関係詞を「〜ところの」という翻訳調で訳したり、My son!を「息子よ」と訳して憚らなかったり(日本語には目下の人に対する呼称が欠如している)、する。訳読法の名残で as though +仮定法を「あたかも〜のように」としたり、as soon asを「〜するや否や」と旧態依然に教えたりすることがある。「外国語の習得にとって日本語もその外国語と同じ言語であり、外国語を磨き上げるのと同じように日本語にも注意するよう目を向けさせることは学習の初期の段階から必要なことで、この点への配慮をおこたらないことも語学教師にとっての大切なポイントである」(千野1987)。
文法偏重の中で文法に関心をもつ学生は稀である。後述するが、日本語文法と英語文法の連携がうまくいけば、文法教育はもっとスムーズにいく。「ウナギ文」(「僕はウナギだ」)の奇妙さ(英語で全く使わない訳ではない)とか、「富士山にノボル」といえても「*富士山にアガル」といえない、というような文法現象を考えさせることによって、興味をひきつけていくこともできよう。
言語学的な観点に立てば、英文法の授業にも違いが出てくる。例えば、三人称単数現在の-sや、所有格の'sを特別な形として教えている(中学生は二つを混同しがち)が、それぞれ、かつては全ての人称、数に活用(conjugation)形があり(ラテン語ならamo,amas,amat/amamus,amatis,amant)、その名残として残っているとか、格(case)の一つである属格(genitive)であり、言語によっては同じ名詞が様々に変化(declension)するのであり、特別変わった言語ではないことを教える必要があろう。もっと複雑な言語も多く、英語はそうした言語の一つにすぎないことを教授すべきであろう。
be動詞に関しても同様である。be動詞には 辞(copula)としての機能と、「存在」を表す全く別の二つの機能がある。ところが、中学段階でbe動詞は「〜は…である」という意味と、There is構文で「いる/ある」という意味を教わってくることが多い。その結果、「〜は…している」という一般動詞を使う文にもbe動詞を使う誤りを犯すことになる。言語によっては(例えば、スワヒリ語)この二つの機能を違う形式で表したり、 辞が省略可能だったり(例えば、ラテン語)、なかったり(例えば、アラビア語や日本語 cf.第4章)するが、こうした言語事実を踏まえた教授法が必要である。
英語教師には英語以外の外国語の知識も重要である。森鴎外のように語源にさかのぼって単語を覚えるためにも必要だが、それ以上に言語構造を理解するためである。類型論的にみて、屈折語、膠着語、孤立語、抱合語の知識が必要であるが、大学では訳読が中心になり、英独比較文法を学ぶ機会は僅少である。英語と同じ孤立語である中国語との関連でSVO型と日本語のようなSOV型との違い、他にVSO型の言語(ケルト語など)もあることを説明すると効果的であるが、「英語」の教師であることに執着し、敷衍できない。例えば授業で漢文との類似性に気付かせることができる。また、屈折語の一つとして規則が単純なエスペラント語について簡単に概説するのは有意義である。これは学生に英語と日本語の中間言語(即ち「橋渡し」)を与えることなるし、言語現象への興味を喚起することになる。そうした知識はまた、機械言語の理解にも役立つ。
外国語を教える目的の一つに自国以外の文化に触れさせるということがある。ところが、英語の優位性を強調する余り、英米文化の情報ばかり与え、その優位性をも説くことになる。国際社会においては各国文化が相対的であり、それぞれが独自性をもち、優劣はないと考えなければいけないのに、たまたま優位となった英語を絶対的なものとして教育しがちになる。すなわち、「イデオロギーとしての英会話」(ラミス1979)という側面があるのを忘れてはいけない。英語があくまで国際補助語(international auxiliary language)であることを銘記すべきである。
言語戦争(language conflict)の存在も教授すべきである。例えば、教科書にEnglish is spoken in Canada.という文が受動態の説明の箇所でみられるが、カナダで話されるのは英語だけではなく、フランス語圏と英語圏が言語戦争をしている事実やアメリカでHispanicのような問題が存在することを忘れてはならない。フランス人のように英語が嫌いな民族もあり、英語偏重主義では限界がある。 英語は国際化の一つの手段であるが、目的と化すと危険性がある。internationalではなく、binationalまたはbiculturalに英語教師が留まらないよう慎まなければならない。英米文化だけでその他の外国文化を推し量ろうとするのはethnocentricism(自国文化中心主義)の別のあらわれといえ、先入観(bias)を含む。この例として文化による評価基準の違いをあげることができるだろう。例えば、日本人にとって「草」はマイナス・イメージがあるが、英米人にとっては牧草や芝生を想起させ、決してマイナス・イメージではない。他にもイルカやクジラに関するイメージの違いが国際問題を起こしていることをみれば充分である。「赤十字」(Red Cross)は日本人や西洋人にとって平和の象徴であるが、十字を嫌い、「赤新月」(Red Crescent)としてその活動をしているイスラム諸国がある。 さらに十字も新月も拒むイスラエルの扱いも難しい。国旗中央の星形の印を赤くした「ダビデの赤盾」を独自の標章としていて、オブザーバー資格しか認められていない。経緯は吹浦忠正『赤十字とアンリ・デュナン』(中公新書)などに詳しいが。実は明治期に活動に参加した日本も当初「博愛社」の名で、日の丸の下に赤い横線入りの標章を使っていた。 赤い十字のマークは、創立者アンリ・デュナンの祖国で、赤十字の創設に寄与したスイスに敬意を表し、国旗の配色を逆にして定められた。マークには宗教的意味合いは含まれていないというが、かつては日本でも赤い十字を避けた時期があった。
※その後新たに「赤いひし形(通称レッド・クリスタル)」を第3の標章に認定しようという動きが出てきた。イスラエルの「ダビデの赤盾社」を国際赤十字運動の一員として正式承認することに道を開くもの。2005年内にも開かれるジュネーブ条約締約国会議で、認定に必要な追加議定書について協議が行われる見通し。新標章は、白地にひし形の赤い枠をデザインしたもの。特定の宗教や政治的な意味を排除したとされる。
クリスマスもあくまでキリスト教の行事なので、クリスマスソングに嫌悪感を示す人々も多い。カードも誰にでも「メリー・クリスマス」(Merry Christmas)というわけにはいかない。ユダヤ教徒には「ハッピー・ハヌカー」(Happy Hanukkah)。黒人の権利にこだわる人々には「ハッピー・クワンザ」(Happy Kwanza)。同じキリスト教でもカトリックが主流のヒスパニック系には「ハッピー・スリーキングズ・デー」(Happy Three Kings Day)といった定型がある。
NVCに関しても、会話の際、日本人は目をそらすが、英米では目を離してはいけない。扇子をバタバタさせる行為も西欧では(女性のみが使用していたため)女性的な行為に映る。こうした「文化訛り」(cultural accent)が出ることがある。例えば、外国人との交渉時に話を聞いているという意味の相槌を日本人がすると、内容を受諾したものと誤解されることがある。これらは単に英語を言語事象だけから教えていてはいけないという例証となる。文化に関する概念の違いもある。プライバシーやリベラリズムにしても文化が違い、翻訳語も定まっていないし、逆に日本語の「根回し」や「甘え」「義理」について説明はできても翻訳不能である。
Total Physical Response Approachはバーバルもノンバーバル・コミュニケーションも、文法も文化も全てを分割することなく、一切を含めて教えなければならないという教授法である。異文化間コミュニケーション(crosscultural communication)を重視するものであり、そのためには英米の文化、更には世界の文化に関する知識(少なくともコミュニケートしようとする相手の文化)を身につけなければならない。 例えば、「異文化との間でことがおこったときは、早急に結論を出すべきではない。自分の慣れ親しんだ価値観だけをたよりに、相手を道義的立場から非難するのは、最も危険である。相手は、相手なりの価値観をもっているのだから」(直塚玲子1985p.244f.)というような配慮がなければコミュニケーションが円滑に行われたとはいえないのである。その形式も日本だけで通じるisland formではなくcontinental form(外山滋比古の用語)を教えなければならない。
さて、ここで英語の教師になる途について考えてみる。英語を教えるから英語を使う学科を出るというのは当然だが、ここに問題がある。まず、これらの学科で研究する内容に関して、学生達はアメリカ文学、イギリス文学、または英語学を専門とするが、彼らは英「文学」を学びにいくのであり、英語自体は付随的なものである。また、教育の現場で文学偏重になる可能性がある。文学そのものは更に進んだ段階での専門教育の分野である。教育学部の学生も教師も文学を専門としがちで、教育論は二次的になる。英語学が開講されてない大学が多く、教職単位を実際には英米文学で集めることになる。英語学を専攻する場合でも、古典的な規範文法を研究するより、学生当時流行している英語学の理論を追及する傾向がある。これは単に学生の側のみの問題ではなく、大学教師の問題でもある。大学教師は学問の最先端を学生に提示しなければならず、過去の理論より現在の理論に講義も傾きがちである。教師自身には学問的なつながりがあるかもしれないが、次々と巣立って行く学生はある理論の一派だけ(例えば生成文法のうち、GB理論だけとか、バリア理論だけとか)を学んで行くことが多い英語と類型が違う言語を習得する機会も少ない。
更に大きな問題はアメリカで言語学と英語学との間に境界は見当たらないのに(同じlinguisticsであるのに)、日本では「言語学」と「英語学」(そして「国語学」)との間には境界があることである。しかも多くの場合、「言語学」といって実は「英語学」を教えている。例えば、「言語学」においては比較言語学からde Saussureにいたり、Prague学派やCopenhagen学派に言及するのが、常であるが、「英語学」は最も新しいアメリカのlinguisticsを意味し、その学問的源泉にまで言及されることは皆無である。伝統文法と「英語学」の間には毛利可信『橋渡し英文法』(1983)のような本がが必要になってきている。また、文法偏重になる可能性がある。英語史を専攻する学生もいるが、ゲルマン緒語や印欧祖語に遡及されることは少ない。言語学に根差さず、いわば学問の上澄みだけを応用してきた結果がそのまま日本の英語教授法の変遷に反映されているといえる。
竹蓋(1982p.208)は次のように述べている。
言語・言語活動の事実について総合的に学ぶというのは、どのような場合にも適切なアドバイスができるように、特に教師に要求されることであるが、それには少なくとも次の4つの分野の学習が必要となる。それは、 言語記号および信号のシステム、 言語と社会との関連、 言語の使用者としての人間の行動、 言語、言語活動の科学的な研究方法論、である。このように考えてくると、伝統的なわが国の英語教員養成課程の必修科目、「英語学」「英米文学」「英語教育」の、しかも、それぞれにほとんど独立した学習ではまったく不充分である。
勿論、哲学や心理学を初めとするできるだけ多くの学問を英語教師は理解しているべきであるが、実際に大学の4年間では余裕がない。第二外国語を多く習得させるのも同様である。せめて、英語教員になるための教科として言語学を導入(戦前には義務付けされていたが、大学の教員不足で廃止。従って「復活」)すればこうした弊害を軽減することができる。英語のみを対象とした英語学ではなく、自然言語の一つとしての英語を研究する言語学の必要性がある。時代によって代がわりしていく英語教授法ではなく、比較言語学以来の伝統と学問的発展のある言語理論を大学教育、とりわけ英語教員の養成カリキュラムのなかに取り入れていくのが、英語を文化のコンテクストの中で、英語を世界の言語の一つとして、英語を人間理解の手段として考え、教育していく際の近道ではないだろうか。
第4章 学生に対する言語教育と言語学
第3章で述べたことが英語の授業で教えられているならば、彼らの言語に対する見方も変わってくるであろう。しかし、実際には教科書にない事項は無視され、授業と関連深い言語学的な事項も時間の関係で省略されることが多く、体系的な教授法は期待できない。また、学生が英語を学ぶときの難点の一つに文法全体に関する知識の不足があげられる。国文法を学習するのは中学では少なく、むしろ、古典文法として高校で学ぶことが多い。問題は国文法と英文法の間に関連が薄い(例/用言・体言)ことである。これは勿論、英語と日本語の文法体系の違い(例/形容動詞、これは形容詞として扱うことが考えられる)にもよるが、それ以上に英語学と国語学の学問的な遊離が関係している(例/morpheme「形態素」が国文法に使われると「原辞」(松下大三郎)となる。外国語ができないから国語学へ行く、といわれた時代があった)。言語学が開講されていない大学が多く、英語教員を目指す学生が言語学を学ぶことは少ない(言語学科のない教育学部では更に稀)が、国語学を学ぶことは更に少ない。そのため、学生はこれらの文法が同じ根っこから出ているものとは考えず、別個のものとして覚えていく
例えば、日本語の格助詞をなぜ「格」助詞と呼ぶか、を英語とラテン語などとの比較で教授されることはない。「AがBをCする」という関係を日本語では助詞で、英語では文型(語順)で、ラテン語などでは格で示すのであるが、普通は5文型を闇雲に暗記させるだけである。また、なぜ「がのにを…」の順で覚えるのか(伝統文法の主格、属格、与格、対格の順)、前置詞とどのように異なるのか(「後置詞」postpositionと呼ぶことができる)など、授業で注意を喚起されることは少ない。これは国文法にも責任があり、例えば、「ダ」や「デス」を概ね指定または断定の助動詞と説明しているが、これは英文法のauxiliary verbを訳したものだが、英語の助動詞とは全く性格が異なり、混乱のもととなる。日本語には 辞がなく、これらを接尾辞の一つと考えるべきだが、必ずしも定説になっていない(cf.奥津1980)。日本語の「は」「が」を英語の定/不定冠詞との関連で論じられることもない。日英語の様々な比較を通して、両言語に対する知識や興味を増大させる必要があろうが、そのような配慮がなされている教科書は少ない。この根底には森有礼や志賀直哉らの日本語不完全論、特異論がある。また、例えば、「氷/水/お湯」とice/waterの違いに言及されることはあっても、これらの概念をすべて包括する言語の存在(マレー語など)に触れられることはまずない。
ジョークも教えるべきだろう。米国人記者が「アメリカは民主的だから、ホワイトハウスの前で『大統領は大バカだ』と叫んでも全く問題ない」と胸を張った。するとロシア人記者が応じた。「ソ連だって民主的さ。クレムリンの前で『米大統領は大バカだ』と叫んでも全く問題ない」というアネクドートがあるが、話法の変換を教える時にでも紹介して、コミュニケーションにおけるジョークの大切さを教えなければならない。
海外の日本人は自分達だけでグループを作りがちであると非難を受けることが多い。日本文化の集団性にも問題があるが、外国語の問題も大きい。現地の言語が話せず、日本語の通じ合うものどうしで固まったり、現地の人々とうまくコミュニケートできないのである。これではアメリカ人と同じ自国語中心主義の陥穽に陥ってしまう。これを防ぐには現地の言語・習慣に少しでも適応できる位に言語学の素養をつけておけばいい(例えば、音声記号が並んでいるだけで閉口する人が多い)。
アジアやアフリカの言語を含めて様々な言語ができる日本人を作っておくことが「武器としてのことば」(鈴木1986)というか、日本の国際戦略にも適っている。英語を学ぶことがその他の外国語への入門となるのに必ずしも機能していない。国際音声字母(IPA)などを取り入れるだけで随分恐怖心がなくなってくるだろうし、外国語をできるだけ多く学ぶことが個々の外国語を上達するコツをつかむことになるが(千野1987)、英語がむしろ恐怖心を煽る道具になっている。
理想論をいえば、高校段階でも言語学を教科に取り入れるべきである。勿論、言語学は発展中の学問であり、英語にいくつ音素を設定するかということにも定説がない。Chomskyのように音素を否定する立場さえある。しかし、これは何も言語学だけのことだけではなく、他の教科と同様にminimum essentialを決めていけば解決することである。言語学によって多様な言語や言語活動、文化(NVCなど)があり、全てが相対的で、それぞれに価値があることを学び、これによって英米以外の外国の生活、文化や思考法を理解することができる。また、日英双方の言語に対する観察力をつけることは現在不足が問題になっている日本語教師の補填となる。つまり、日本語を学ぼうとする外国人が多いからといって多くのアメリカ人のように外国語を学ぶことを止めるのではなく、その手助けをして、彼らの日本への要望に応えることが重要である。
そのためにも言語学が英語教員を目指す大学生や、更には高校生の基本的な学科となることが望ましいのである。
《参考文献》
Fries,Charles C.(1945)The Teaching and Learning of English as a Foreign Language:University of Michigan Press
Morris,Desmond(1979)Gestures:Jonathan Cape
Palmer,H.E.(1969)A Grammar of Spoken English:W.Heffer&Sons
千野栄一(1986)『外国語上達法』岩波新書
語学教育研究所編(1984)『日本の英語教育 過去・現在・未来』中教出版
ハルミ・ベフ(1987)『イデオロギーとしての日本文化論』思想の科学社
井出祥子(1979)『女のことば 男のことば』日本経済通信社
伊藤嘉一(1984)『英語教授法のすべて』大修館
國廣哲彌(1983)「ことばのゆれ」(東京大学公開講座『ことば』東京大学出版会)
増田純男(1978)『言語戦争』大修館
毛利可信(1983)『橋渡し英文法』大修館
直塚玲子(1980)『欧米人が沈黙するとき』大修館
奥津敬一郎(1980)「「ダ」の文法」月刊『言語』No.96 大修館
ラミス、ダグラス(1976)『イデオロギーとしての英会話』晶文社
竹蓋幸生(1982)『日本人英語の科学』研究社出版
竹蓋幸生(1983)「中学英語を見直す」月刊『言語』No.138
鈴木孝夫(1975)『閉ざされた言語・日本語の世界』新潮社
鈴木孝夫(1986)『武器としてのことば』新潮社
徳川宗賢編(1985)『日米のコミュニケーション 言語と文化』南雲堂
角田忠信(1978)『日本人の脳』大修館
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