マックde記号論(言語学のお散歩)


 納骨の旅'97……喪の仕事

白き骨五つ六つを父と言われわれは小さき手をあわせたり-----岸上大作『意志表示』(角川文庫)


 父が亡くなって3カ月が過ぎた。仏壇も買った。お墓も建てた。

 家族みんなで京都に納骨に行くことになった。

 荒俣宏は古代エジプト人の死生観について「彼らは、生命は永遠に存在し続けると信じていた。死は完全な消滅ではなく、『霊的な旅』と考えられた」と書いているが、弔う者も旅をしなければならないのである。

 納骨は僕らにとっても子どもたちにとっても「喪の仕事」【mourning work】の総仕上げである。もちろん、散骨だって考えられなくはない。イブリン・ウォーの『ラブド・ワン』には宇宙層まで出てくるし、実際、現実的にはなっているが、昔はそんなものだったのだろう。

 円地文子の『女坂』で主人公倫(とも)は、自分の感情を抑え、夫の無理難題に文句を言わず従い、厳しく自らを律し、膨大の白川家の土地を管理し、女支配人(女主人ではなく)として君臨している。30歳くらいでセックスレスになり、書生ごときに「あの人は他人じゃないか」とすら言われる。死ぬまぎわの床で「死骸を品川の沖へ持って行って、海へざんぶりと捨てて下されば沢山でございますって……」という。夫の行友は「そんな莫迦な真似はさせない。この邸から立派に葬式を出す。そう言ってくれ」と倫の言葉を伝えた姪に答える。夫をそれだけ動揺させただけで倫は復讐した気持ちになるのだった。

 葬儀というのは本人のためではなくて、遺された者のためなのだ。葬儀をしない、という人もいるが、そうした「傲慢」はふつう許されないのである。

 アール・A・グロルマン(Earl A.Grollman)は『愛する人を亡くした時』(“What helped me when my loved one died.”春秋社)で対象喪失(喪の仕事)を癒す指針を次のように述べている。

1)いかなる感情もすべて受け入れ、感情を押さえ込まないで表出する。
2)悲しみが一夜にて癒えると思わない。時間が癒してくれる。
3)身近にいる人と共に癒す。孤独の世界に逃げ込むのは間違った方法。出来るだけ友人なり、自助グループの援助を受ける。また自分も援助してあげる。
4)カウンセリングなりを利用する。自分を大切にし、苦しい体験も意味のある体験にする。

つまり、思い切り泣くことはいいことだし、ひたすら時間の経過を待つべきだし、友達も大切で、それでもダメなら「心の風邪」なのだからお医者さんにかかろう、ということである。

 対象喪失を受けとめることは難しい。合理主義を生みだしたデカルトでさえ、夭逝した娘のフランシーヌにそっくりの人形をこしらえてトランクに入れて持ち歩いたという(種村李弘『幻想のエロス』河出書房新社)。スウェーデンへの船旅の途中、デカルトが船室でまるで生きた娘を相手にするかのように人形に話しかけているのを覗き見た船長は恐怖から、留守中に人形をトランクごと懐中に投じてしまったという。

 瀬尾まいこの『幸福な食卓』では読者も主人公の佐和子と同じような対象喪失を味わうことになる。

「いやだ。いやだ」私は泣きながらそう叫んでいた。止めようとしても、涙も声も止まらなかった。胸が痛くなるほど鼓動が鳴って、息が苦しくて、手足が震えた。身体は何一つ思うように動かなくて、涙も声もどんどん激しく突き上げてきた。もう自分では何もできなかった。歩くことも、泣くことを止めることもできなかった。

 村上春樹の「今は亡き王女のための」(『回転木馬のデッドヒート』所収)には学生時代のある夜、雑魚寝しているときにたまたま抱き合ってしまった女性の消息を、彼女と結婚している男性から聞くことになる。1人の子どもに恵まれたのだが、事故で生後まもなく亡くなってしまう。

「死というのは極めて特殊な出来事です。僕は時々人の生は、かなり大きな部分を他の誰かの死のもたらすエネルギーによって、あるいは欠損感と言ってもいいんですが、そういうものによって規定されているんじゃないかと感じることがあります。でも彼女はそういったことに対してあまりにも無防備でした。要するに【…】彼女は自分のことだけを真剣に考えることに慣れきっていたんです。それのおかげで、他人の不在がもたらす痛みというものを、彼女は想像することさえできなくなっていたんです」

 つまり、美貌と才能、裕福さを兼ね備えた「彼女」は「他人の不在がもたらす痛み」というものに対する「感情的な訓練」ができていなかったのだ。しかし、そんな彼女の方が以前の彼女よりも愛せると夫は話す。

 『ご冗談でしょう、ファインマンさん』に出てくる話だが、妻のアイリーンを亡くした時には泣けなかったのに、1ヶ月後に洋服屋で、いかにも「アイリーンが気に入るだろう」と思える服を見つける。その時に、「そうか、アイリーンはもういないんだ」と思い、顔を覆って泣いたという。辛いその瞬間は泣けもしないことがある。

ロンドンの精神分析医であるジョン・ボールビー(John Bowlby)は、母親から引き離された幼児がたどる喪のプロセス【mourning process】を段階別に分けた。 小此木啓吾の『対象喪失』(中公新書)などには、次のように抗議、絶望、離脱の3段階にまとめられるという。

第1段階:抗議(Protest)
乳幼児は母親を探し求め、帰りを待ち、自分が見棄てられる分離不安をあらわに示す。現実に抗議し、その運命にさからい、必死に失った対象を取り戻そうとしているように見える。苦痛と不安が高まる。泣いたり怒ったり、平静ではない。

第2段階:絶望(Despair)
母親を探し求める努力に疲れ、事実に落胆し、自分のあらゆる試みが無駄であることを悟る。激しい絶望と深刻な悲嘆が襲う。

第3段階:離脱(Detachment)
対象に興味を失って忘却したかのような態度が見られるようになる。やがて母親に代わる新しい対象を見つけ、心を再建する段階。

 そして、この鬱の状態から心が立ち直り、心からその喪失や別れを受容する心境に達する。第4段階というのは、ある意味で別れの受容であり、再生の希望が心の中に新しく生まれる段階である。

 なお、ホスピスケアに尽くした 医学博士(精神科医)キューブラ・ロス(Elisabeth Kubler-Ross)はこれを更に5段階に考えている。第1段階「死の否認と隔離」、第2段階「怒り」、第3段階「取り引き」、第4段階「抑鬱」、第5段階「死の受容」という。「取り引き」の心理というのは、人が死を直前にして、この願いがかなったら死という現実を受け入れてもいいと思うようになることである。ガンの告知をするか否かに関わるのはまさにこれで、告知すれば、最後の夢をどうかなえるか、多くの人が思いめぐらすことになるが、告知しなければ…。

 ただ、日本人は昔から「なんまんだぶつ」と手を合わせて、ひたすら「お迎え」を待っていたものだ。人が死ぬ度に「なんまいだ」、ありがたいことがある度に「なんまいだ」と言って人が生きていく奇跡を感謝していたのである。

 なお、キューブラ・ロス自身が何度も脳卒中に襲われて入院中であることを河合隼雄『平成おとぎ話』(潮出版社)で知った。

 河合隼雄は『子どもの宇宙』(岩波新書1987)で「喪の形骸化」として次のように書いている。

 死者を弔うこと、喪に服することは大切なことだが、現代社会では難しいことになってきている。現実社会のあまりの忙しさと、現代人の魂に訴える儀礼がほとんどなくなってきているために、弔いや喪はなおざりにされたり、形骸化してしまったりする。実際、仏教のお経を聞いていて、現代の日本人のどれだけが、それを真の弔いの言葉として感じることができるだろうか。そこで、いわゆる弔辞が読まれることになる。それも形骸化しるものは何をか言わんやであるが、それがたとい心を打つものであったとしても、魂にまでとどく言葉を述べるのは極めて難しいことである。

 このようなためもあってか、家庭内においてなおざりにされた弔いや喪の仕事を、その家の子どもが背負っている、としか思われないような場合がある。子どもが登校拒否や、原因不明の身体症状などでわれわれのところに来談し、遊戯療法を行うと、そのなかで弔いや喪の儀式が行われる。話を聞いてみると、その子の家族が少し以前に死亡し、それに対する弔いが真の意味で十分に行われていなかったと感じられることが判明する。そして、子どもの儀式が十分に行われた頃に、その子の問題は解決されていることになるのである。

 こんなことも書いている。

 子どもは思いのほかに死について考えている。しかし、そのことを大人に語ることは少ない。言ってみても、大人が不愉快な顔をするだけだったり、対して意味のあることを言ってくれないことを、彼らはよく知っているのであろう。大人が聴く耳をもっているときにのみ、子どもたちは死について彼らの考えを語りかけてくる。その中には、大人もはっとするような深い知恵が隠されていることもある。

 連続幼女殺人事件の宮崎勤の場合、おじいさんが亡くなったのが契機で病気が進んでしまったと考えられるが、喪の仕事が十分でなかったのかもしれない。

 寺山修司の「新しき仏壇買ひに行きしまま行方不明のおとうとと鳥」というのも「喪の仕事」をきちんとできなかった子どもを歌っているのかもしれない。

 内田樹はブログ(後に『村上春樹にご用心』アルテス所収)で次のように書いている。

「死ぬ」というのが「ちょっと、隣の家に行くような」感じになることは子供にも起こる。

そういう子供はすごく危険な存在だ。(自分にとっても周囲にとっても)

だから、子供にはまず死を怖れさせる必要がある。

その教育の甲斐あって、私たちはみんな死を怖れるようになる。

でも、成熟のある段階に来たら、死とのかかわり方を「元に」戻さないといけない。

「元」というのは、死者は「そこにいる」という感覚を取り戻すことだ。

ある種のコミュニケーションマナーを介するならば死者と交感することができるという、人類の黎明期における「(その後抑圧された)常識」を回復することだ。

別にオカルトの話をしているわけではない。

これが「常識」なのだ。(ただし「その後抑圧された」)

その「常識」を教える社会制度はもう存在しない。

武道と文学と哲学はそのためのレアな回路だけれど、「そういうふうに」思って武道の稽古をしたり哲学書を訳したり小説を読んだりしている人は、もうあまりいない。【…】

私がエマニュエル・レヴィナスと村上春樹を「同じように」読むのは、そういう意味なんだけどね。

 マリリン・モンローのことを精神分析で“attractive smiler”ということがあるけれど、モンローは私生児で生まれ、父親がいなくなってしまっていて、母親は精神病院に入っていた。思春期までに十数回も里親が代わったのだが、モンローの魅力というのは小さい時の孤児としての心細さが生みだしたものかもしれない。タレントに不幸な生い立ちの人が多いが、根性が座っているというだけでなく、“attractive smiler”ということもあるのかもしれない。

 ロンドンにフロイトの末娘の名前をとって「アンナ・フロイト・センター」というのがあるが、ここに「マリリン・モンロー・センター」というのができた。モンローが晩年に精神分析を受けていたことは知られているが、自分の遺産を使って孤児たちの世話をするセンターを設立したいと願っていたから生まれた施設である。

 最近の精神医学は「自己語り」ということに注目している(榎本博明『<ほんとうの自分>のつくり方』講談社現代新書)。カウンセラーは積極的なアドバイスをせず、相手から言葉を引き出すだけ。つまり、「自己物語」の形成に手を貸すだけだ。本当に辛いことは言葉にできない。言葉にできるような一般的な事実ではなく、個別の事実だからだ。それを言葉にするには、長い時間を要する。時が人を癒す。

 言葉に出来るようになったとき、社会的に開かれる。個別的な「悲しい」出来事が社会性を持ってくる。これが言葉によって癒されるということなのである。そして、すぐれたカウンセラーは「悲しみ」の社会化に必要な長い時間を、「悲しい」という言葉に置き換える手助けをする。

 仏教で「四十九日」は死者が今生の死の後、来世の生を得るまでの日数だという。死後の百箇日を「卒哭忌(そっこくき)」と呼ぶ。慟哭の「哭」は大声をあげて泣くことで、百日たったら泣くのをやめようというのが卒哭。いつまでも泣き続けていると、天界で亡き人が持つ灯火(ともしび)がその涙で消えてしまうなどとされる。

 父が亡くなって百日がたち、納骨に京都まで行くことにした。


  3月25日(火)

 朝5時に起きる。

 子どもたちは寝る前に「5時、5時、5時」と片足で飛ぶおまじないをしたせいか、5時半には起きる。盛装をして5時50分に車で出発。6時15分に小杉駅に到着。車を駐車場に置いて特急を待つ。改札を待っていたのに案内がないのでおかしいと思ったら「そのままお通りください」の看板を見つける。無人駅みたいだ。

 6時36分の特急雷鳥16号に乗り込む。一番遅い雷鳥で殆ど各駅停車で進む。子どもたちは乗る前から食べたいと言っていたパンを食べる。「長い旅が始まるからゆっくりね」というと祐貴が「旅って?」と聞く。「旅行のことだよ」というと納得。未蘭は電車に乗ったのが初めてだが、特にはしゃぐこともなく、未蘭らしさを醸し出している。

 納骨の旅行というと篠田正浩監督の『瀬戸内ムーンライト・セレナーデ』を思い出してしまう。戦争末期、淡路島に住む駐在の一家が、戦死した長男の遺骨を埋葬すべく、故郷の宮崎にむかうという話である。骨壺に納められていたものは?という映画なのだが、もの悲しかった。

 茨木のり子の『鎮魂歌』の冒頭は「花の名」は、ある男の「浜松はとても進歩的ですよ」というセリフから唐突に始まる。同棲しちまった甥を結婚させるために上京する男と父の葬儀を終えて故郷から帰京する女との会話はかみ合わない。何しろ、進歩的なのはストリップの話だ。「吉凶あいむかい賑やかに東海道をのぼるより/仕方がなさそうな」車中でやりとりがあって男が花の名前のことをたずねる。これをきっかけとして生前の父への回想へ入っていく。花の名前は泰山木だと教えたのだが、辛夷ではなかったかと悔やむところで、苦々しい父との会話を思い出す…。

 9時36分に京都駅着。10時からの儀式なので慌てる。タクシーを待ってようやく乗り込む。思っていた通り、基本料金で西本願寺に着いてしまったし、運転手が不愛想だったので千円を渡して「お釣りは要らない」と自分らしくない言葉を吐いてしまう。

 降りてすぐに参拝部を探して向かう。もう50分になっている。焦っていると「富山の金川さんはおいでですか」と呼ばれて「ハイ」と答えるとすぐに本堂に来て下さいとのこと。手続きを後にして本堂に向かう。たくさんの人が並んでいるのかと思ったら、うちの一家だけだった。

 電話で「ガク入り法要」と言われて何かと思ったら4人の坊さんが出てきて笙・篳篥入りの「(音)楽入り」だった。実は電話をかけて、「永代経」とか「家族別しゅう」とか「特別門徒講」とか言われても全然分からなかった。大谷廟も同様で「祖壇」とか「無量寿堂」とか訳の分からないことだらけだった。

 音楽はなかなか上手だ。他人の入れない所まで入ってお祈りしてもらい、リッチな気分になる。見物客も多い。終わってから手続きを済ませる。院号をもらうために1人20万と1万の2人分だ。

 「楽入り法要」となるのは二人で20万ずつ出しているからである。一人の場合はこんなに丁寧にならないらしい。軸の立派なのにする時には30万という話。うちでは結局、家に帰ってから軸にした。

 丁寧なので因業などとは思わない。

 ただ、お寺を通して同じ20万を払ってもこんなに丁寧な訳ではない(帰ってからお寺の住職にびっくりされた←怠慢!)。

 うちに「本願寺新報」まで送られてきているよ、というとびっくりされることが多い。

 信心深かったおじいちゃんの功徳とも家人はいうが、確かに京都まで足を伸ばした方がいい。

 生まれた時はタダだが、死んだ時は有料で予算によって違ってくる。宗派によって違うが、一般に男は「信士・居士・院居士・院大居士・院殿大居士」、女は「信女・大姉・院清大姉」などが付けられる。文字数によっても格付けが違う。値段は西本願寺で20万以上だが、東本願寺では寺に毎年納金して8万に達したら受けられる。「院殿大居士」ともなると1000万といわれる。

 渋谷基周『あなたの葬式あなたのお墓』(三一書房)は葬式を義務づけた仏典はない、墓に入れと説く仏典もない、戒名を付けろとする仏典もないという立場から、葬式仏教を徹底的に批判している。1990年に自宅葬は3年前の約半分の43.6%に減っているという数字に表れているように極端に産業化していることも指摘している。

 お寺専門のソフトには戒名をつけるためのソフトがついているものがある。パソコンで付けられた戒名って一体何だろう。それ以上に、一面識もない人がつける戒名って一体?

 熊崎さんに境内を案内してもらう。国宝の飛雲閣や能舞台やNHK大河ドラマ『秀吉』の冒頭で使われた鸛の間や庭園などを丁寧に説明してもらう。「世界遺産になっているんですよね」というと、知らない客が多いらしく、ものすごく喜ばれる。ときどき、梅小路車庫からSLの汽笛が聞こえてくる。未蘭を呼んでいたら「珍しい名前ですね、うちも珍しいけど」といわれる。娘さんの名前は「詩絵里」(シェリー)だそうで「ポエムの詩と書きます」などと自慢される。

 梅棹忠夫が「キバと幸福』(『著作集12』中央公論社)で書いているが、明治時代には東西本願寺の財政規模は京都市のそれにほぼ匹敵するほどであったが、今は京都市のわずか1パーセントにもならないという。それほど百年でいろいろなものが決定的に変わったと述懐している。

 1時間ほど回ってから食事。4人分の会席膳が出る(1人1万で20万につき2人分がついてくる)。昨日は雪が降ったというのに春めいた陽気の中で京の和食を楽しむことができた。行く前に菩提寺に聞いたら「そんなもん、出るかね」だったが、お寺はホントに何も知らず、何も教えてくれない。帰ってから院号などをお寺に知らせるようにというので知らせにいったが、全然興味なく、聞かれずに終わる。

 食事が済んでから残りの建物を案内してもらい、応接室で午後の行事を待つ。朝ドラ「ふたりっ子」のオーロラ輝子の劇的な死の日だったのでロビーでテレビを見る。

 法名をもらう帰敬式の方は20人位の参加者があった。子どもにもお剃刀を受けさせる家族もある。数珠や式章などが記念に渡される。厳かに法主が出てきて「お剃刀」が行われ、僕が代表者となって誓いの言葉を述べる。

 そういえば、釈迦仏と阿弥陀如来が吉原見物に出かけようとして、髪を整えようカミソリを手にした。馴れない手つきで、釈迦は阿弥陀の額に傷をつけた。阿弥陀顔をしかめて「ああ痛い、アミダが出た」と言ったところ、釈迦は「痛いも道理、今のはシャカ剃りであった」…。

 あっと言う間に終わって法名をもらう。僕は「養徳院釈宣正」、ママは「芳正院釈深念」となる。「養老院」でなくてよかったが、「宣正」というのは近所に評判の悪い、同名の男がいて母と笑ってしまう。まぁ、いいか。

 山口県長門市に「鯨墓(くじらばか)」というのがあるが、昔の人は捕獲した鯨一頭一頭に「寒誉妙白」「春誉妙栄」などという戒名をつけ、過去帳に記録してきたという。その程度のものだ。

 島田裕巳の『戒名』(法蔵館)によれば、戒名というのは1)俗人である支社に対し、2)死後、仏弟子となることの証しに、3)僧侶(寺院)が与える特別の名称、である。生前に戒を受けるのが本当という主張があるが、ほとんどの人は死後に戒名を受ける。

 ところが、こういう戒名は日本にしかないものらしい。インドでは、出家しても俗名のままで、特別な名前をもらうことはなかった。中国の僧侶は、特別な名前(法名)を授かったが、これは戒名と関係ない。まして、在家の信者が、死んだら名前をつけるなんていう習慣はないという。中国仏教が葬儀に関与しなかったこととも関係がある(道教が取り仕切ってきた)。

 こんな免罪符みたいなものがある限り、日本の仏教に未来はない。

 ちなみに信長は惣見院殿贈大相国一品泰厳尊儀、秀吉は国泰祐松院殿霊山俊龍大居士、家康が安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士だった。最近では美空ひばりの「慈唱院美空日和清大姉」が有名だ。

 さて、本願寺を後にして五条の橋を通って西大谷廟へ納骨に向かう。法名と俗名と命日、年齢、寺名、住所を忘れずに、そして数珠と骨も忘れずにと言われていた。

 高さ7センチ位の小さな壷に移し替えてある。一座経の5千円と永代経のお金を3万払う。読経をしてもらってから無量寿堂の中の菩提寺の場所に行く。待っているとお坊さんがきててきぱきと骨を納める。

 未蘭がいきなり「おじいちゃん、さようなら」と言う。

 祐貴が「あっ、未蘭、泣いている」と叫んだので見ると、本当に涙を流していた。 

 隣が清水寺なので上がることにする。未蘭は文句をいわずに上った。清水の舞台に入るところを撮影。眺めがいいが曇っている。「(美観を損ねる)京都ホテルの宿泊客は参拝するな」という看板が立っている。

 門前町を見ながら下ってタクシーで京都ロイヤルホテル。京都ホテルの目の前だ。

 5万円という超豪華版のパーラー・スイートなので3部屋続きでベッドが4つ。とてもシックな部屋の作りなので一同満足。外へ食べに行くが、2倍もあるオムライスが出てきてメマイする。周りを見るとジャンボなコロッケなどが出てきても誰も騒がない。母が気持ち悪くなって食べない。いっぱい余る。

 母の胃薬と未蘭の風邪薬を買って戻る。疲れたのか二人ともぐっすり寝る。


  26日(水)


 みんなゆっくり起きてロイヤルホテルのバイキングを食べる。リッチな気分になる。考えてみれば、結婚後、母親を連れて歩いたのは初めてだ。

 荷物を宅急便で送ってタクシーで太秦へ向かう。京都は昔、風葬だったという運転手さんだった。丸太町を通ってここが朱雀大路だったという話を聞かされたので最近の風水学の話をしてあげる。

 映画村は大人2000円、小人900円と結構高い。新しくパディオスというのがオープンしたばかりと言われて期待して中に入るが、何もなさそうでがっかり(後に、松竹の鎌倉シネマワールドに行くが、こちらは3000円もかかり、もっと馬鹿馬鹿しかった)。

 とにかく一巡するが、何もない。京橋のフィルムセンターもそうだが、ここの映画文化館も日本映画の文化の薄さを考えさせるためにある。それでも蝦蟇の油の実演を見たり、未蘭の名前入りの財布を作ったり、怪獣を見たりと楽しむ。お昼はソバやカツ丼などを食べるがここも量が多い。京都の人は胃が大きいのか。

 午後からは9分間の映画館やパディオスの立体映像を見せるが親は白けてしまう。

 できたばかりなのに壊れている箇所もいっぱいある。

 撮影は司馬遼太郎の『功名が辻』最終回でふみ壇、じゃなくて壇ふみが出演している。

 お土産に祐貴はミニ4駆を買いたいの一点張り。

 未蘭は『グレムリン』のギズモを見つけてほしいというので買ってあげる(帰ってから『グレムリン2』を見たいというので借りるが、祐貴にお腹が裂ける場面があると聞いて可哀想だと泣き始める)。

 早く見終わってしまい、母が行ったことがないというので広隆寺へ向かう。

 国宝の弥勒菩薩半跏思惟像などを見る。昔はボロボロの霊宝殿だったのに立派になり、うるさい案内放送までついた。あれじゃ、弥勒菩薩もゆっくりと思惟できないだろう。思わず「シー」と言ってしまった。

 太秦からタクシーで京都駅へ。運転手さんが4歳の時のおじいちゃんの臨終をはっきり覚えているという。未蘭もきっと覚えていてくれるだろう。

 降りた途端、未蘭がせき込んで吐いてしまう。駅のベンチを探すが改修中でどこにもないという。一体、あんな立派な駅舎にする必要があるのだろうか。

 喫茶店で時間をつぶして千円の幕の内を買ってサンダーバード7号に乗り込む。

 富山市の姉倉比女(あねくらひめ)神社の神主さんが僕らを見つけて挨拶にくる。今度の旅行はお寺で始まり、お宮で締めくくった。

 サンダーバードは130キロだというのに速くないと祐貴がいう。スピードではなくて、停まるのが福井と金沢と高岡だけだから速いのだ。

 途中、平和堂のマークを見つけて「アルプラザと同じだね、ここはお店ではないので買い物はできませんと書いてあったよ」という。あっと言う間に読んだのに驚く。

 高岡に着いてから10分ほど待って鈍行がくる。乗り換えて小杉駅。

 車に乗って8時半に帰宅する。

 帰宅してから未蘭がしみじみと「いい旅だったね」といった。


 お盆に祠堂(しどう)をした。菩提寺に対する寄付で袈裟を贈ったのだが、これには24万かかった。腹が立ったのは「4万余計にかかったので、その分、他の人の名前を入れましょうか」と聞いてきたことだ。他人と一緒に名前を入れられるのだったらたまらない。

 新盆が来た。お招来(精霊)といって海岸や川へ行って火のついた棒を回して「♪おしょうらい、おしょうらい、おじじも来ぉ、おばばも来ぉ♪」というのだ。今年は特に二人とも念入りに声を出した。

 帰ってから仏壇にお参りしているとき、未蘭が「7人いるね」というので6人しかいないのにおかしいと思っていたら、違った。

 「おじいちゃんも含めて7人だね」。


●西本願寺参拝部(075)371-5181

●大谷廟(075)531-4171


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