金川 欣二:マックde記号論(言語学のお散歩)


    メメント・モリ(死を忘れるな)     

HAMLET

Not a whit, we defy augury: there's a special
providence in the fall of a sparrow. If it be now,
'tis not to come; if it be not to come, it will be
now; if it be not now, yet it will come: the
readiness is all: since no man has aught of what he
leaves, what is't to leave betimes?

The Tragedy of Hamlet, Prince of Denmark
Act 5, Scene 2

その必要はない。
前兆などいちいち気にしていてもはじまらぬ。
雀一羽落ちるのも神の摂理。
来るべきものは今来ればあとにはこない
今 いま来れば、あとには来ない…
あとに来ないならば、いま来るだろ。
いまでなくても来るものは来るのだ。 なによりも覚悟が肝心。
人間、すてるべきいのちについてなにがわかっている?
とすれば、早くすてることになったとしても、
それがどうしたというのだ?
かまうことはない。
   小田島雄志訳

Death destroys a man, but the idea of death saves him. (死は人を葬るが、死という想念は人を救う)------E. M. Forster(イギリスの作家)

「生命は刹那(せつな)の事実なり、死は永劫(えいごう)の事実なり」長谷川如是閑『如是閑語』

ベッドに横になるとき、想うがよい、
いまこうしてベッドに横たわっているように、
じきにこのからだは他人の手で、
墓のなかに横たえられることになるのだと ------ホイジンガ『中世の秋』(掘越孝一訳)

「かみさま、もし しんだあと いきるんなら、どうして にんげんは しななきゃいけないの?」
   -----『かみさまへのてがみ』(谷川俊太郎訳・サンリオ)

  【…】
  さくらふぶきの下を ふららと歩けば
  一瞬
  名僧のごとくにわかるのです
  死こそ常態
  生はいとしき蜃気楼と
   -----茨木のり子「さくら」より

「きれいな夜明けだった……今日も暑うなるぞ」-----小津安二郎『東京物語』笠智衆のセリフ

 死者は去るのではない。還って来ないのだ。と言うのは、死者は、生者に烈しい悲しみを遺さなければ、この世を去ることが出来ない、という意味だ。それは、死という言葉と一緒に生まれて来たと言ってもよいほど、この上なく尋常な死の意味である。宣長にしてみれば、そういう意味の死しか、古学の上で考えられなかった。死を虚無とする考えなど、勿論、古学の上では意味をなさない。死という物の正体を言うなら、これに出会う場所は、その悲しみのなかにしかないのだし、悲しみに忠実でありさえすれば、この出会いを妨げるような物は、なにもない。世間には識者で通っている人達が巧みに説くところに、深い疑いを持っていた彼には、学者の道は、凡人が、生きていく上で体得し、信仰しているところを掘り下げ、これを明らめるにあると、ごく自然に考えられていたのである。
   -----小林秀雄『本居宣長』

寅さん「わかんねぇもんだなぁ、人の命なんてなぁ」
博「そうですねぇ」
寅さん「早い話がよぉ、この俺が、今晩ぐっすり寝て、あしたの朝パチッーと目がさめたら死んでるかもしんねぇもんなぁ」
満男「死んでたらめさまさないよ」
寅さん「子供はむこういって勉強しろよ」
   -----『男はつらいよ』(第28作)

「そしてある日、あなたの中で何かが死んでしまうの」
 「死ぬって、どんなものが?」
 彼女は首を振った。
 「わからないわ。何かよ。東の地平線から上がって、中空を通り過ぎて、西の地平線に 沈んでいく太陽を毎日毎日繰り返して見ているうちに、あなたの中で何かがぷつんと 切れて死んでしまうの。そしてあなたは地面に鋤を放り出し、そのまま何も考えずに ずっと西に向けて歩いていくの。太陽の西に向けて。そして憑かれたように何日も何 日も飲まず食わずで歩き続けて、そのまま地面に倒れて死んでしまうの。それがヒス テリア・シベリアナ」
 僕は大地につっぷして死んでいくシベリアの農夫の姿を思い浮かべた。
 「太陽の西には一体何があるの?」
   -----村上春樹『国境の南、太陽の西』


大使たち

ハンス・ホルバイン「大使たち」(ナショナル・ギャラリー)
(実物はもっと緑っぽくて明るくてキレイ)


 父が亡くなって喪主を務めた。

 話には聞いていたが、大変な行事だった。

 親戚・知人が集まったり、礼服を着たり、挨拶をしたり、引き出物を考えたり、莫大なお金がかかったりと結婚式と似ているが、あちらには少しは楽しみというものがある。

 葬儀はイベントをこなすという大きな流れの中に忘れ物の心配など細かい仕事がいっぱいあって疲れてしまった。宗教行事と民俗行事が渾然としているのも大変だ。


 知人の青木新門さんが『納棺夫日記』を富山の出版社(桂書房)から出したが、ベストセラーになって96年には文庫本(文春文庫)となった。2008年には映画『おくりびと』の知られざる原作となり、映画は米アカデミー賞を取った。

 新門さんは著名人となり、全国講演の旅をしている。アメリカには納棺夫というのはなくて、この本の英訳本は“Coffinman”(Buddhist Education Center)となったが、“embalmer ”という死体に化粧(embalming)をする人もいる。土葬が多いので、発達した仕事であり、日本とは少し事情が違う。日本で一般的になったのは洞爺丸台風からだとされる。この事故で多くの犠牲者が出て、化粧をしたのが最初だとされる。

 新門さんの本で思い出すのはイーヴリン・ウォーの1948年の作品“The Loved One”(「囁きの霊園」『ブラック・ユーモア選集第2巻』早川書房1970)である。この小説は動物の葬儀屋の主人公と死体処理師と女性の死体化粧師タナトジェノスとの三角関係を描いたもので、葬儀をビジネスとするアメリカ社会がたっぷりと皮肉られている。トニー・リチャードソン監督が『ラブド・ワン』という映画にしたが、「宇宙葬」まで出てくるナンセンスなストーリーに発展させていた。

 95年にはデイヴィッド・ブリルが『葬儀よ、永久(とわ)につづけ』(東京創元社)という本を書き、葬儀ビジネスをアメリカ人の大好きなスポーツになぞらえて、グロテスクな冗談を書いている。

 新門さんの本はしかし、死、死体というものを真正面から描いた作品で、世界でも稀なドキュメンタリーになっている。

太陽と死は直視することができない     -----ラ・ロシュフーコー

 永六輔の『大往生』も岩波新書という信じられないメディアになって大ベストセラーになった。

 このブームは伊丹十三の映画監督としての地位を決定づけた『お葬式』以来続いている。この映画は当初『侘助の秋』という違ったタイトルも考えられていたのにズバリ『お葬式』となったところが面白い。

 また、女優・沢村貞子、政治学者・丸山真男らの「地味葬」(「地味婚」に対する言葉)も騒がれた。毎日がハレの日のような有名人にとって葬式というハレの通過儀礼は不要なのだろう。

 天才漫才師・横山やすしが亡くなった途端、無二の友人やら、パートナーが出てきて涙を流している。

 皮肉屋バーナード・ショーの父親は葬式の行列を見ると、おかしくてベッドに入って笑い転けていたという。

 日頃、いがみあったり、そねみあったりなのに殊勝な顔をして歩いているのが耐えられなかったのである。

生きていたときに、それくらい親切であってくれたらよかったのに     -----ルナール(『にんじん』の作家)

 クレオパトラとの愛に溺れていたアントニーはローマからの使者が「奥方ファルヴィアさまが亡くなりました」という知らせを聞いて「人間、憎んで捨てたものを、またとりもどしたくなるものだ」といい、「あれはいい女だった、死なれてみれば」と続ける(シェイクスピア『アントニーとクレオパトラ』第1幕第2場)。確かに、死なれてみれば、いい人はいっぱいいる。


 今、どうして死がこんなに話題や問題になるのだろう。

 「死ぬのはいつも他人」とマルセル・デュシャンがいったように、自分の死を体験することはできないからだ。

 僕の家では50年、葬式がなかった。生後間もなく亡くなった僕の兄の50回忌を済ませ、実際にはこの12月で喪が明けることになっていた。

 僕自身、平成になってから同じ親戚の不幸があって2度ばかり葬式を側から経験しただけである。2度目は働き盛りの交通事故死だったので大きなショックだった。

 昔は死人がたくさん出た。大河ドラマ『吉宗』(脚本ジェームズ・三木)は人の死ばかり出てきて、その度に一人一人の立場というか記号論的な価値が変化してきた。

 バッハは20人子供を生んだが、13人死なせている。毎年、お葬式を出してたことになる。その悲しみに耐えながら作曲を続けていたのだ。日本では明治天皇が11人中、10人亡くしている。

 死ぬ人が少ないから、誰もが葬式というもの、死というものから遠ざけられている。

 今は自宅で亡くなる人もほとんどいない。ひっそりと死ねば警察の検死の対象となる。友人のお母さんは階段から落ちて亡くなったのだが、やっぱり検死が行われ、親戚の人々は「(そんな死に方をさせて)みっともない」と批判していた。

 小さい頃、「三昧」(念仏三昧に耽ることなどから)と呼ばれる火葬場が村はずれにあってあって恐かったものである。氷見では「無常堂」(「祇園精舎の〜」)という、これも古いサンスクリット語が残っている。今は立派な施設になっていて目立たなかったので今回までどこにあるか知らなかった。村はずれの火葬場は怖かったけれど、死を近いものと実感させていた。それがなくなり、どこか知らないところに火葬場が作られていて、反対運動が起きている。知らない人の死まで受け入れる住民が少ないからである。

 死というのは事実ではなく、概念だ。死んだ子どもをずっと大事にしているサルの話を聞くことがあるが、死後も慈しんでいるのではなく、死というものが分かっていないのだ。ネアンデルタール人が最初に死者に花を手向けたという話(疑問視もされている)もあるが、いずれにしろ、動物が花を手向けたり、墓を掘ったりして死者を悼むことはない。死は人類の進化の過程で発見されたものだ。人間は死んだ人間を感じることができるのである。そして、死者が戻ってこないように、手厚く葬るのである。「死者の声が聞こえる動物」が人間なのだ。正確にいえば、手話で会話をしていたメスのローランドゴリラのココにパターソン博士の共同研究者が「ゴリラは死ぬとどう感じるか? 嬉しい、悲しい、それとも怖い?」と訊いた。するとココは「眠る」と答えたという。また別のときに、この女性は「ゴリラは死ぬとどこへ行くのか?」と尋ねている。このときココは「気持ちいい 穴 さようなら」とサインで答えた。ゴリラでも「死」ということは感じることができるが、ココだけの話なのか、他のゴリラもそうなのか定かではない。

 自分がいつかは死ななければならないということを知っているのは人間だけだ。だからこそ、人間は孤独を感じるのである。今ここにいない死者と対話して孤独を感得できるのも人間だけだ。

 死の発見は生の発見でもある。死は限りある命とその大切さを知ることなのである。

 古代ローマの哲人皇帝マルクス・アウレリウスは『自省録』の中で次のように書いている。

---エピクテートスがいったように「君は一つの死体をかついでいる小さな塊にすぎない」

 「メメント・モリ」(動詞“memini”「覚えている」の命令法が“memento”、“mori”は動詞 “morior”「死ぬ」の不定法)というのは十字軍の遠征以降、死と隣り合わせだった中世の言葉で「死を忘れるな」という意味である。かつて西洋の子供は自分がどこから来たかについて、「コウノトリが運んできた」と教えられ、生の起源を性と結びつけることはなかった。その代わり、親族の死の床で志を見つめるように銘じられた。『ホモ・ルーデンス』(“遊ぶ人間”中央公論社)で有名なオランダの歴史家ホイジンガの名著『中世の秋』(中央公論社)の「死のイメージ」には当時の死に対する考えが見事に描かれている。こうした状況は農業の革新が起きる18世紀まで続いた。交わされる会話が「メメント・モリ」だけという修道院もあった。どうやってコミュニケーションしていたかというとジャン=クロード・シュミットの『中世のみぶり』(みすず書房)によれば、例えば、両手を重ねて、顔を伏せ、ゆっくりとした足取りで歩き、回廊では「並んで沈黙を守り、合図をせず、衣服を締めつけ、度を越して阿蘇を伸ばさず、足を組まず、回廊を囲む低い壁に腰掛け」ないようにしなければならないとされた。そして、身振りやしぐさが大切にされたのである。

 また、イギリスの中世劇にEverymanというのがあり、この主題もメメント・モリだった。人間のはかなさ、死に際しては現世の友情も、財産も、知識も美も分別も役に立たないことを説いた。これらを知っているのだろう、漱石も「骸骨や是も美人のなれの果」という俳句を残している(英語には“Beauty is but skin-deep.”という表現もある)。

 「メメント・モリ」を寓意的に図像化した「死の舞踏」(danse macabre)という木版画(ホルバインが原画を描いた)もあった。木村尚三郎は『歴史の風景』(山川出版社)で「死はなぜ踊るのか」というエッセイを書いているが、結論は現実を前に踊るしかなかったというものである。

ホルバイン「死の舞踏」

 ハンス・ホルバインは死に憑かれた画家といってもいい。死せるキリストを描いた数多くの作品の中で異彩を放っているのが、「墓の中のキリスト」(1521年ごろ)である。これまで真正面から死をとらえた凄惨な描写は他には見あたらない。神の子としての威厳もない。

ホルバイン「墓の中のキリスト」

 ホルバインは宗教改革のルターと同時代人で、ルターが政道の扉に告発状を張り出した頃に成人を迎え、ローマ教会がルターを破門にした頃に画家としての仕事を始めた。初期に宗教画を手掛けたが、宗教改革によって宗教絵画が禁止されたドイツに見切りをつけてイギリスに渡り、肖像画家として活躍して、宮廷画家の地位まで得ている。イギリスでの後援者はトマス・モアだったが、後にモアは斬首刑になり、モアを断頭台に送ったクロムウェルがホルバインの後援者になった。そして、クロムウェルも処刑されているから、「メメント・モリ」というのは必ずしもペストの恐怖からだけではなかった。

 ちなみに、この絵をバーゼルで見たドストエフスキーは「この絵を見ると、信仰をなくしてしまう人間もいる」と語り、『カラマーゾフの兄弟』の執筆に影響を与えた。詳しくはアンナ・ドストエフスカヤ『アンナの日記』(河出書房新社)妻の記述があり、『白痴』の第2編の4、第3編の6に言及がある。

 アンドレ・ジードが名前を伏して書いた『一粒の麦もし死なずば』(Si le grain ne meurt)は『ヨハネ伝』の第12章24節のキリストの言葉「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし」に由来する。4年間かけて書かれた自己暴露の書である。

 日本では大江健三郎の『死者の奢り』に同じ主題が見られる。古い水槽に入れられている死体を新しい水槽に移すアルバイトの話である(実際にはないといわれる仕事だ)。「僕の鼻孔の粘膜に執拗にからみついた、その臭いが僕を始めて動揺させたが【…】顔をそむけないでいた」というような悪臭がする。途中で医学部の教授に「こんな仕事やって、君は恥ずかしくないのか? 君たちの世代には誇りの感情がないのか」などと揶揄されるし、管理人にも蔑みの表情があった。死体の少女の「セクス」を見て、「僕」は勃起する。同じアルバイトの女子学生は「とても臭うわ」と嫌な顔をしてくる。彼女は誰の子かわからないけれど孕んでいて、それを堕すお金を稼ぐためにアルバイトを引き受けたのだが、死体を見ているうちに、かえって子どもを産もうと決心する。「僕」は「出て行ってよ、臭いが嫌なのよ」といって追い払われる。この作品では臭いを通して、死と生のバランスが見事に描かれている。

死ななければ生まれることがない。

 生きることと死ぬことの不思議はどの民族でも共通していたから、神話が生まれた。日本には古事記のイザナギ、イザナミの話がある。ブッシュマン(サン族)の神話では月の神が「人間も月のように一度死んでも生き返る」との人への宣告をカメに託した。だがあまりにのろいカメにいら立った月の神はウサギを改めて派遣した。ウサギはすぐにカメを追い越すが、走りに夢中で肝心の伝言を誤って「一度死んだら生き返らない」と言ってしまう。おかげで人間は「死」を受け入れるはめになったという。

 われわれ現代人は今も昔も生きることに忙しすぎて、死ぬことを考える暇がない。中には死について考えることを拒否している人もいる。しかし、ハイデッガーも言うように人間は「死に至る存在」で、時が来れば、誰にも同じように死が訪れる。中世ヨーロッパの人々が、この人生の大前提を忘れないように心がけたのは、二度とない一期一会の「今」を輝いて生きるためだった。

 もちろん、全ての民族が死を忘れているのではない。原ひろ子の『ヘヤー・インディアンとその世界』(平凡社)は「ヘヤー・インディアンは何のために生きているのだろうか。美しい死に顔で死ぬために生きているのだ」と書いている。彼らは心の中に「守護霊」をもっていて、霊との対話によって自分の死期を知る。その時に親族を集めて思い出話などをし、絶食して死を待つ。そして、守護霊の助けによって「よい顔で死ぬ」ことを願う。「よい顔」で死んだ者は再生するという信仰によって支えられているからである。この本の中には動物の死に近い死に方をする老人が描かれている。厳寒の雪原を移動する生活に耐えきれなくなった老人が、移動していく家族や隣人についていくのを断り、キャンプ地に一人残って静かに死を迎えるのである。ただ、動物と違うのは、老人が後に残ることはみなに知らされ、出発するものは次々と老人と抱擁をかわす。そして、一ヶ月後に若者がそのキャンプ地を訪れて遺体を収容するのである。

今日は死ぬのにもってこいの日 (タオス・プエブロの古老の言葉)

今日は死ぬのにもってこいの日だ。
生きているものすべてが、私と呼吸を合わせている。
すべての声が、わたしの中で合唱している。
すべての美が、わたしの目の中で休もうとしてやって来た。  
あらゆる悪い考えは、わたしから立ち去っていった。
今日は死ぬのにもってこいの日だ。
わたしの土地は、わたしを静かに取り巻いている。
わたしの畑は、もう耕されることはない。
わたしの家は、笑い声に満ちている。
子どもたちは、うちに帰ってきた。
そう、今日は死ぬのにもってこいの日だ。

ナンシー・ウッド『今日は死ぬのにもってこいの日』(金関寿夫訳・めるくまーる)

 再生といえば、コッポラの『地獄の黙示録』は「死と再生」をモチーフにした映画だった。人類学者フレイザーの『金枝篇』に拠っている。「金枝」というのはヤドリギの枝である。ヨーロッパでは昔、ヤドリギが神聖視された。大地に根を張らず、しかも木々が葉を落とした冬に葉を茂らせていたからだという。死んだ木がそこだけ再生したように考えたのだ。だから「死と再生」の象徴として宗教行事に用いられ、キリスト教化してからもクリスマスの飾りになった。聖なる森の王になるには、その森のヤドリギの枝を切り取って現在の王を倒さねばならない−−そんな古俗への考察から世界各地の呪術やタブーを集めたこの本が書かれた。ヤドリギにまつわる死と再生のイメージは、血なまぐさい王の交代とも結びついていて、映画では闇の奥の王であるカーツの「死と再生」が見事に描かれている。

 インドの舎衛城(しゃえいじょう)にキサー・ゴータミーという娘がいた。大金持ちと結婚して子どもが生まれたのだが、ようやく歩き始めた頃に病気で死んでしまう。ゴータミーは死を受け入れられず、その子の冷たい骸(むくろ)を抱いて、町で会う人ごとに「この子の病気を治してくれ」と頼む。ある時、信者に勧められて釈迦に会う。静かにゴータミーの話を聞いていた釈迦は、やさしくこう言った。「この子の病を治すには、芥子の実が五、六粒いる。町へ行ってもらってくるがよい」。即座に町へ出かけようとするゴータミーに「ただし、その芥子の実は、まだ一度も死人を出したことのない家からもらってくるのだ」と釈迦は言った。ゴータミーは芥子の実を求めて町を彷徨っているうちに、生まれた者はいつか死ななければならないという現実を受け入れていくようになる…。こうしてゴータミーは釈迦の弟子の一人になるのだ。

 日本で「メメント・モリ」に相当する言葉は「後生の一大事」という言葉だろう。「後生」すなわち、あの世のことを「一大事」として見据えながら人生を生きる、という意味が込められている。「死」を考えることは「生」を考えることと表裏一体だということがこの言葉にはある。「死」を考えることによって「生」を深くて充実したものに変えることができるのだ。

 浄土真宗中興の祖・蓮如」に「朝(あした)は紅顔ありて、夕べには白骨となれる身なり」という「白骨の御文章」というのがあるが、まさにこの「メメント・モリ」である。

 美しく死ぬことを目標にしていた日本人もいたはずだったが、今はどうだろう?

 アメリカではエンバーミング(embalming)といって死者に化粧をすることが流行っているが、「よい死に顔」をではなくて、いつまでも死なない顔を望んでいるのではないかと思う。推測だが、キリスト教徒は聖人は腐らないと信じているようで、ルルドの奇跡のベルナデッタなど未だに腐らない状態で(実際には腐っていることも確認されているようだが)展示されている。現代でもレーニンや金正日の死に顔が展示されているはずだが、生き残った権力者のために利用されていることは明白だ(ズバルスキー&ハッチンソン『レーニンをミイラにした男』文春文庫はその辺りの権力闘争を描いた作品だ)。

 川井ゆう『迫真の境地 実物どおりに着彩された等身大の人形の歴史<欧米篇>』(ふみづき舎)によれば、ヨーロッパでは王様などが死ぬと等身大の人形をつくる習慣があり、1135年にイングランドのヘンリー1世がフランスで死んだ時に、搬送に20日以上かかってしまい、悪臭で大変だったという。これに懲りて死亡直後の姿を人形にすることが始まったという(funeral effigyという)。まあ、ミイラを作るのと同じ心理なのだろう。

 哲学者の土屋賢二は『ツチヤの軽はずみ』(文藝春秋)でちょっと戯画的に次のように書いている。 

 古来多くの人が「死を忘れるな」という警告を発してきた。ヨーロッパ中世の絵画には、通常の絵の隅にどくろを描いて死を思い起こさせる趣向のものがある。

 このように警告が鳴らされるには理由がある。死を忘れていると、生きていることのありがたさを忘れてしまう。死に直面するとき、はじめて人間は生きることの大切さを知る。それまで、異性に恵まれていない、脚が短い、金が自由にならない、病気ばかりしている、と不平ばかりいい、目先の利害に一喜一憂している人が、死を意識すると一時的に真人間にもどり、それまでの生活を悔い改め、自然の美を見出し、人類愛に目覚め、脚が短いことにも感謝するのである。人間が愚かな行為をするのは死を忘れているからだ。死と向かい合って生きるのが人間のあるべき姿である。こう考えられるのだ。

 病気から解放された現代では死が忘れ去られ、遠ざけられている。

 そのため、「死の教育」(Death Education)が必要な社会になっている。

 もちろん、テレビにもゲームにも死が溢れている。でも、それは遠いところの話だったり、ホントに死ではなくて、ドラマであったり、リセットすれば元に戻るような死である。肉体の死は遠ざけられてきた。子どもたちは死についてよく知っているが、死そのものを知らない。

 作家の清水義範は『バールのようなもの』(文藝春秋社)の「特別審査員」の中で高専生が作った(「たまごっち」が流行する前)“愛玩動物育成シミュレーション”について次のように言っている(もちろん、フィクションなのだが)。

コンピュータの画面の中でペットを飼ってどこが面白いのだろう。たとえばペットに餌をやらなくて死んでしまったとして、庭に穴を掘ってお墓を作る必要はないのだ。つまり、そのペットには死骸がないのである。死骸が腐敗することもない。そういう、ぬくもりのないクリーンなペットとのつきあいが、未来のものなんだろうか。子供たちは死を知ることなく育っていく。

 これらはちょうど性が遠ざけられている(いた)のに似ている。

 「セックスが解禁となり、死がタブー化した」状況をイギリスの社会学者ジョフリー・ゴーラーは「死のポルノグラフィー化」(『死と悲しみの社会学』ヨルダン社)と呼んだ。

 ゴーラーは、かつては性について語ることはタブーとされたが、死について語ることを憚ることはなかった。しかし今日ではセックスについて語ることはタブーにならず、死について語ることがタブーになっていると説く。

 霊柩車というものも死体を外の目から隠すものでありながら、これ見よがしに中に死体があることを暗示する。パンティが性を隠しながら中身を暗示しているのと同じである。西洋の霊柩車にはガラス張りのものがあり、ポルノ解禁寸前の状態になっている。そこから『白雪姫』がガラスに入れられていた理由を推察できる。

 つまり、死に関しての映画を見たり、本を読んだりするのがポルノと同じになっているのだ。

 映画『スタンド・バイ・ミー』は「死体」(The Body)という原作で子どもたちが死体を見に行くという行為を描いたものだ。『お葬式』(「死のポルノグラフィー化」をはき違えたようなシーンが出ていたが、不祝儀の時に浮気が多いという話も聞いている)や『社葬』はもちろん、『喪の仕事』という日本映画もできた。最近は死体写真を集めたCD-ROMも発売されている。

 新門さんの本も真面目に宗教を考えた本だが、うじ虫に蝕まれた死体の話などポルノと同じようにゾクゾクするものがあるようだ。

 うじ虫といえば、「ハムレット」で死んでいるはずのポローニアスのことを王クローディアスが訊ねると「食事中です」と意外な答が返ってくる。そして追い打ちをかけるようにハムレットは「うじ虫どもが…」と答える。

 性のポルノの方があまりにも身近になり、快感が薄れたのと対照的に死の方が刺激的になっている。

 「都市伝説」(Urban Legend)と呼ばれる噂の中でも子供たちの死にまつわる、一連の噂がある。ドラえもんののび太は本当は植物人間だとか、サザエさん一家はハワイ旅行の飛行機事故で亡くなり、みんな海に戻った、などというのがある。死の噂がポルノのようにアンダーグラウンドで広まっている。

 1987年に14歳の「酒鬼薔薇聖斗」による神戸連続児童殺傷事件があり、そしてその3年後に同世代だった17歳の少年たちが次々と殺人事件を犯した。愛知豊川市の主婦殺人事件で高校3年生は「人を殺す経験をしたかった」というし、西鉄バスジャック事件の少年も、根岸線でハンマーを使って人を殺そうとした少年も殺人をしてみたかったのだという。

 色々な精神的な症状や社会的な状況の説明があったが、うまく説明する人はいなかった。しかし、ゴーラーの説明で少しは納得できる。例えば、「酒鬼薔薇聖斗」の供述調書に次のように書いている。この供述が真実なら、死を徹底的に隠蔽してきた大人の責任でもある。

 何故、僕が人間の死に対して、この様に興味を持ったかということについて話しますが、僕自身、家族のことは、別に何とも思っていないものの、僕にとってお祖母ちゃんだけは大事な存在でした。
 ところが、僕が小学校の頃に、そのお祖母ちゃんが死んでしまったのです。
 僕からお祖母ちゃんを奪い取ったものは

というものであり、僕にとって、死とは一体何なのかという疑問が湧いてきたのです。
 そのため、「死とは何か」ということをどうしても知りたくなり、別の機会で話したように、最初は、ナメクジやカエルを殺したり、その後は猫を殺したりしていたものの、猫を殺すのに飽きて、中学校に入った頃からは、人間の死に興味が出てきて、人間はどうやったら死ぬのか、死んでいく時の様子はどうなのか、殺している時の気持ちはどうなのか、といったことを頭のなかで妄想するようになっていったのです。

 彼らは巷(ちまた)にあふれる死についてよく知っている。ゲームであれ、テレビであれ死には接しているのだが、これらはバーチャルなものでしかない。だからきっと、本当に死というものの本質を見極めたかったのである。

 2005年4月に大阪府東大阪市の公園で、幼稚園男児がハンマーで頭を殴られて重傷を負った事件があった。殺人未遂容疑で逮捕された無職少年(17)が、府警の調べに対し、少年は「公園に行く前に別の場所でも犯行の機会をうかがった。死体を見てみたいが、戦場に見に行くわけにはいかない」「人の死は怖いが、面白い」と死への関心を具体的に供述。自首した理由を「一撃で殺せると思っていたのに簡単にはできなかったので、面白くなくなった。それなら犯人として名乗り出て、新聞やテレビを騒がせた方が面白いと思った」と供述していることが分かった。ネットで焼死体を見たのが最初だったという。

 ネットといえば、最もネットがネットらしく機能しているのは出会い系と自殺系である。性と死がこんなにもお気楽に語られる場がネット社会で実現したのである。

 ちなみに僕が最初に死を意識したのは近くの踏切で中学生が電車に轢かれて死んだのを見に行った時である。

 そして、その前々日まで一緒に遊んでいた同級生がジフテリアに罹って亡くなった時だった。

 死って何だろうと幼な心に思ったものだった。

 若者との討論会で「どうして人を殺してはいけないのか?」と尋ねられて哲学者たちが困ったという話もある。「あなた」と呼んでいた人の、いわば「2人称の死」が遠ざけられ、「3人称の死」になってしまい、実感が沸かない事柄になってしまったのだ。人を殺すというのは自分も殺される、つまり「1人称の死」でもあるのだが、「3人称の死」で他人事のように思う若者が増えているのだ。

 『日本の名随筆8 死』(作品社)の編者の作家、野坂昭如は第二次世界大戦中に黒焦げの死体を何度も見た。そのせいか、少年期は肉親の死にショックを受けなかったが、戦後三十年を経て死が恐ろしくなり、父の告別式に出れなかったという。それ以降、いずれの葬儀にも参列していない。

 歌人の吉野秀雄は「生のこと死のこと」という随筆の中で、妻に先立たれ「あの世がないなら自分で実在させなくては」と思い詰めたが、その後「死後のことはわからぬというのがいちばんぴったりする」と思い直したと書いている。画家の横尾忠則は「生れ変り死に変る」の中で霊界を信じ、輪廻転生を「魂を向上させるために神が人間に与えてくれた絶好のチャンス」と言い切る。

 メーテルリンクの戯曲「青い鳥」で、チルチルとミチルは「思い出の国」を訪ね、亡くなった祖父母に会う。その国に住む人はいつも眠っている。現世の誰かが思い出してくれるたびに眠りからさめるという。祖母が孫たちに「わたしたちのことを思い出してくれるだけでいいのだよ。そうすれば、いつでもわたしたちは目がさめて、お前たちに会うことができるのだよ」と言う(新潮文庫・堀口大學訳)。実は人間だけが死者と語ることができる動物だというのはレヴィナスの思想で内田樹につながっていくのだが、人間だけが死を語ることができ、死者と話すことができるのである。

 荘子の「胡蝶の夢」は自分が人なのか蝶なのか分からないという話だ。アメリカ文学研究家の柴田元幸に『死んでいるかしら』(新書館)というエッセイがあって僕らの今現在の死生観の一つを表している。

 朝早く、駅へ向かって自転車のペダルをこぎながら、角を曲がるときなどに、ふと、僕はこないだの朝こうやってここの角を曲がろうとして、実は大型トラックと正面衝突して死んだんじゃないだろうか、という思いに襲われたりするのである。

 要するに寝ぼけているだけの話かもしれないのだが。

 これはたとえば、自分がいまここにいることへの微妙な違和感というか、生に対する根源的な疎隔感というか、生きていることを日頃からどうも実感できずにいるという、いわば存在論的次元などとは違う。

 実はこうした感覚は村上春樹の小説に多く見られる、ということは僕らがいつも感じていることなのだ。

 で、そのつぎの瞬間、いやいやそれは気の迷いというものだ、僕はこうしてちゃんと生きておるではないか、という確信が戻ってくるかというと、そこのところもいま一つ自信がない。さっき言ったように、生に対する根源的な疎隔感とかいった高級な感覚があるわけではないが、さりとて「僕はいま、ここでこうして生きているんだ!」と叫べるような確固たる生命感を抱いているわけでもないのだ。

 性の情報があふれていても、性的な飢餓状態が続いていたのと同じように、死の情報があふれているのに、死への飢餓状態が生まれていたと考えることができるのである。 

 性と死は正反対でありながら、人間の欲望のどこかと深くつながっている。

 深層心理でエロスばかりを考えていたフロイトが晩年にタナトス(死の本能)という概念にぶつかった。「人間には生の本能と死の本能があり、二つの本能の対立が人間の精神生活を支配している」と考えるようになった。エロスというのは生きるための原動力で、生きようとする本能であるが、タナトスは不快を求める傾向、死を求める破壊本能である。エロスのエネルギーはリビドー、タナトスのエネルギーはモルティドーと呼ばれる。

 通常、エロスとタナトスは融合していて、人間の行為は二面性を持っている。ものを食べるという行為は、食物と体を結合する側面をもっているが、その一方で食物を破壊する一面をもっている。性行為も同じように、もっとも密接に対象と結合するものでありながら、相手を支配しようとする攻撃性を伴っている。

 だから、セックスというのは「小さな死」なのである。

「その時」 茨木のり子『歳月』(花神社)

セクスには
死の匂いがある

新婚の夜のけだるさのなか
わたしは思わず呟いた

どちらが先に逝くのかしら
わたしとあなたと

そんなことは考えないでおこう
医師らしくもなかったあなたの答え

なるべく考えないで二十五年
銀婚の日もすぎて 遂に来てしまった

その時が
生木を裂くように

 フランソワ・トリュフォー監督の映画『夜霧の恋人たち』では探偵社の同僚が主人公のアントワーヌ・ドワネルに、祖父の葬式のあとに従妹と泣きながらセックスをしたという話をする。そして、この映画のなかでもっとも美しい一節が語られる。

 「セックスは死の代償だ。生きるための営みだよ」

 この言葉は、後半の伏線にもなっていて、ドワネルを探偵社に引き入れた上司のアンリが急死したとき、ドワネルは葬儀のあと、そのまま娼婦を買いに行く。墓地を俯瞰するカメラがパンしてそばの道路に立つ娼婦と近づくドワネルを捉えるシーンは悲しくて美しい。

 ちなみに、ギリシャ神話のタナトスは間が抜けている。人が寿命を迎えるとやってきて、髪を一房切り取って冥王ハデスにささげる。その上で人を冥界へ連れて行くという。ところが、王妃アルケスティスの魂を運ぼうとしてヘラクレスに力ずくで追い払われるし、冥界に連れ去ろうとしたコリント王シジフォスにはいいようにだまされて縛り上げられ、牢に監禁された。監禁されている間、人間は首を切られても死ななくなり、困惑した神々は軍神アレスを派遣してようやく救出して、人が死ねるようになったのだ。

 「そして」 谷川俊太郎『minimal』

夏になれば
また
蝉が鳴く

花火が
記憶の中で
フリーズしている

遠い国は
おぼろだが
宇宙は鼻の先

なんという恩寵
人は
死ねる

そしてという
接続詞だけを
残して

 川田順造は『コトバ・言葉・ことば』(青土社)でアフリカのモシ王国の人々について次のように書いている。

…性交の標準体位は、男右脇下、女左脇下の側臥位で、男は女の手とされる左手で女性を愛撫する。男女は別々の場所に埋葬されるが、悪いものが去って行く西向きに、性交のときと同じ体位で、男は北枕、女は南枕で横たえられる。

 こうした意味で『霊柩車の誕生』(朝日新聞)で日本人の葬儀を活写した井上章一が後に『愛の空間』(角川)でラブホテルを描いたのはよく分かる。

 シャーウィン・B・ヌーランドは『人間らしい死に方---人生の最終章を考える』(河出書房新社)で次のように述べている。

 めったに口にこそしないが、人は誰しも死とはどういうことかをくわしく知りたいと思っている。自分が最後に迎える病のたどる道筋が心配になるからか、それとも死の病にとりつかれた愛する人に何が起こっているのかを理解したいからか---というよりは一個の人間として誰もがもつ死への魅力からか---われわれは生命の終わりということを考えたくなる。たいていの人にとって、死はいまなお隠された秘密であり、恐れと同時に、エロティックな感情をもかきたてる。否応なしに、われわれはこの最も恐ろしいと思っている不安に魅せられるのだ。危険とたわむれることから生まれる素朴な興奮を覚えて、強く引かれるのである。光とそれに引き寄せられる蛾、死と人間---その関係に大差はない。

 ゴーラーの論文に刺激を受けたフィリップ・アリエス(フランスの歴史学者で『<子ども>の発見』が最も有名)は『死と歴史』(みすず書房)などの中で、死というものが時代によって異なる類型として現れることを指摘した。ヨーロッパにおける中世から現代までの「死への態度」の変化を研究したが、現代の死は人類史上初めての現象だという。人は自分の死に対して主役であったが、今は死がまるで存在しないかのように隠蔽され、生きている人間は他者の死に関与しなくなったという。

 死は日常的にありふれた出来事であった。人は「病の床に伏して」死を待った。死に向かう人は死が近いことを自覚し、死のための儀式を司った。死は個人のものであると同時に、公の儀式でもあった。臨終の関には、親戚、友人、隣人たちが立ち会う必要があった。今は排除される子どもたちも呼ばれ、死というものが慎み深く、身近で、穏やかで、恐ろしくないものであった。こうした死をアリエスは「飼い慣らされた死」と呼んだ。近代以前の「飼いならされた死」では、人は人々が見守る中で死んでいった。つまり公的な性格をもったものだった。人が死ねば周りの社会はその活動をいったん停止してその死を悼んだものだった。

 20世紀になって“倒錯した死”が広がると事態が変化して、死は見守られることもなく、人知れず訪れて、社会は何事もなかったかのように進んでいく。それだけならばいいけれど、死の告知を避けようとするために、死んでいく人には本当のことは言わなくなってしまった。

 死は本来、自然な過程であったが、今では死が医療の管理下にあって、ほとんどの人が病院で死ぬことになってしまった。

 自然な死がまるで病気のように扱われ、語ることさえも憚られるようになってしまった。死は恥ずべきものになり、タブー視されるようになった。人は健康であるか、健康であるかのように振る舞わなければならなくなり、幸福が求められた。


 生(性)と死は正反対でありながら近いものがある。エロスもタナトスもギリシャ神話の神でエロスは混沌の中から秩序を生み出して男女を結びつける愛の神であり、タナトスは秩序を乱して混沌に戻し、形あるものを破壊する死の神である。

 生のための行為になぜ人は「死ぬ」というのだろうか。

 全く知らない人とセックスをしたくなる願望は男性にも女性にもある。自分の社会性を脱ぎ捨てたいのだ。社会的地位の高い人ほど、他人から見ると信じられないような人を相手にすることがあるが、自己のもつ社会性が重すぎるからだ。社会性から逃れる方法はもう一つあって、死ぬことである。エロスとタナトスは同じ快楽なのだ。

 ムンクに「マドンナ」という絵がある。他にも「マドンナ」という絵があるのだが、こちらの「マドンナ」は表情や体の描き方は似ているが、周囲の枠に精子が泳いでいて、ムンク自身の説明では女性のオルガスムスを描いたものだという。自我意識を失った幸せな状態のはずなのに、なぜか死と隣り合わせになっている。

MUNCH

 『納棺夫日記』の中に納棺を終えてきた新門さんを妻が拒否する話が出てくる。もちろん、不浄と思えるからなのだが、その手で触られて「死ぬ、死ぬ」というのはホントに死んでいくような気がするからでもあろう。


 お寺は葬式に関して何も教えてくれなかった。葬式というのは宗教を教える絶好のチャンスなのに宗教的意義も何も知らされない。日本では確かに「死の教育」というものがなされていない。

 あるのは葬儀社や近所の人から聞いてくる、次はこれをしなければならないという予定だけだ。

 近所の人にはホントに世話になった。会社を休んで出てきてもらっている。香典をもらった人には返さなければならないので葬儀には敏感になった。恥ずかしながら、葬式で初めて「世間」というものを知った。

 喪主を務める、というのは世間を新しい世代に伝える儀式なのでもある。

 世間体とどれほど関係が深いか、『男はつらいよ 望郷篇』(シリーズ第5作/マドンナ長山藍子)で「家族のものは元気か?」という寅さんをおどしてやれ、といって、おいちゃんが重い病気といってしまい、寅さんが葬儀屋を呼んでしまう、という画面がある。何も葬儀屋まで呼ばなくてもと非難する家族に対して寅さんがいう。

寅 「仕方ねえだろ、俺アね、おいちゃんの死んだ時ぐらいしか、恩返し出来ねぇんだから……俺がちゃーんと取しきってよ、ああ流石はとらやの旦那さんだ、立派な葬式だったとみんなが羨むようなそんな葬式をやって見せてえと、俺あ旅先でいつも考えてたんだからな」
博 「しかし、それじゃおじさんが死ぬのを待ってたようなことになるな」
寅 「何ィ?…………」

 葬儀はそれほど大変な訳なのである。「村八分」という言葉があってイジメの原点みたいに言われているが、これはあくまで八分であって葬儀と火事の時は必ず出てくることになっていて学校のイジメのように100%閉塞している訳ではない。

 葬式に列席することは「世間」の中で最も重要な義務である。「世間」づきあいが特定の時期に集中して示されるのが葬儀の時である。親族や友人などで葬儀に参列しないことがあると、世間並のつきあいができない人とされてしまう。それだけでなく、葬儀の際の香典も重要な要素となる。世間並みのつきあいを維持しようとすれば、かつて誰かが葬儀の際に受け取った香典の額とのバランスを考えて香典の額を決めなければならない。ある家の主人が死去したときに受け取った香典の額が一万円だったとするとその半額に当たる額が香典返しの基準となる。そして香典返しをした家で主人が死んだ場合はかつて受け取ったのと同じ一万円を少なくとも香典として出さなければならない。縁者や友人などの死者の「世間」が広い場合には、これはなかなか大変な作業となる。また葬儀に列席する時の服装にも厳しい規定がある。葬儀の際の席次などにも厳格な慣習がある。

 葬儀の日取りを決める際にも友引には行えないなどの規定があり、それは火葬場が友引にはやってないから国家的に規定されているのと同じことになる。現在ではこのような規定はかなり崩れてきているように見えるが、それでもなかなか煩瑣(はんさ)なものである。そしてそのような規定はどこにも文書で示されていないのである。このようなときに年配者の記憶が頼りになる。そのような意味で葬儀は文字や言葉によらない知識によって維持されているのである。我が国の「世間」はすでに述べたように死者をも包含しているから、葬儀には「世間」の重要な要素がすべて現れているのである。

------阿部謹也『「教養」とは何か』(講談社現代新書)

 世間に抗することも大切だ。

 茨木のり子が『一本の茎の上に』(筑摩)の「花一輪といえども」の中で木下順二がお母さんを亡くされた時の挨拶状を紹介している。

 
 母 三愛(みえ)子、一九七二年三月十一日、十八日間ほどの臥床ののち、満九十三歳に一カ月を余して安らかに昇天いたしましたので、ひとことお知らせ申し上げます。病名は脳栓塞ですが、実際には何の苦痛も伴わぬ、老衰による平穏な終焉でありました。

 亡母と私とは、お互いそれぞれ、死後の儀式はすべてやめようと、何度も(第三者の前でも)話しあって約束しておりました。それはプロテスタントの母親が無宗教の息子に説得されたなどというには、その都度あまりにも自然な合意であり、合意というより、各自それぞれの発想をもとにした一致だったと思います。

 その発想の中身をここに長々しくしるすことはさし控えますが(いずれどこかに書くつもりですが)右の事情に従って今回もこのお知らせをお届けするのみにとどめ、通夜、葬儀、告別式など一切おこないません。この手紙落掌のおり、お受け取り下った方々おひとりびとりの自然なお気持ちに添うて、一度だけしばらく個人のことを思って頂ければ、それが個人の最も喜ぶところ、以て霊まったく安まるというのが、私どもの本心であります。

 そのような次第ですので、御香料そのほかも勝手ながら花一輪といえども御辞退申し上げます。一輪のお志を受けてしまうことは、大輪の花環を御辞退する理由をなくさせてしまいます事情、どうか御涼察下さいますよう。

 このお知らせに対するご返事、御弔辞などもまた一切必ず御無用とお考え下さりたく、重ねてお願い申しあげます」

 茨木のり子はこの葉書から葬儀万般を考えて次のようにいう。

 永訣は日々のなかにある。

 日々は出会いを雑に扱いながら、永訣の儀式には最高の哀しみで立ち会おうとする人間とはいったい何だろうか?席を変えてお酒などのむ時もしみじみ故人をしのぶでもなく、仕事の話、人々の噂で呵呵大笑、あっけにとられるばかりである。好きな人であればあっただけ行きたくなくなってくる。

 行かないことは、また来てもらわないことでもある。この葉書を大事に今まで保存してきたのも、一の日か私のための良き参考にと思ったからであった。

 そして、実際には次のような遺言が準備されていた。日付と死因だけが遺族によって書き加えられた。「一瞬思い出して下されば」というところが涙を誘う。

 このたび私 2006年2月17日クモ膜下出血にて この世におさらばすることになりました。
 これは生前に書き置くものです。
 私の意志で、葬儀・お別れ会は何もいたしません。
 この家も当分の間、無人となりますゆえ、弔慰の品はお花を含め、一切お送り下さいませんように。
 返送の無礼を重ねるだけと存じますので。
 「あの人も逝ったか」と一瞬、たったの一瞬思い出して下されば、それで十分でございます。
 あなたさまから頂いた長年にわたるあたたかなおつきあいは、見えざる宝石のように、私の胸にしまわれ、光芒を放ち、私の人生をどれほど豊かにして下さいましたことか・・・。
 深い感謝を捧げつつ、お別れの言葉に代えさせて頂きます。

 ありがとうございました。
                           2006年3月吉日


 オウム事件の時も既成の宗教家が殆ど発言をしなくて失望したが、何も教えてくれなくてお金だけは要求してくる宗教を見ていると、不透明な時代の若者が拠り所を求めて新興宗教に走るのもよく分かる。

 オウムに入った動機は林郁夫のように交通事故、青山弁護士のようにケガ、上祐のように超能力の3つに分けられるが、(他人から見ると)小さな挫折や子供だましで入信しているのである。挫折を支える所が家庭にも地域にも職場にもないのである。

 あんなにも簡単に人がだませるのか、と思うくらい、宗教に対して無防備であり、他人の死に関して無知・無関心である。

 フロイトは無神論者の立場から「宗教は幻想である。人間の社会は、やがて、科学的、合理的な精神が支配するようになる。社会に有用なのは、宗教ではなく科学である」(『ある幻想の未来』1927)と述べた。信仰が篤い人が神経症にかかることが少ないことは宗教を信仰する人は集団神経症にかかっていて、個人的に神経症になる必要がないと言った。ハイネの詩を引用して「天国は天使と雀にくれてやればいい」とも考えていた。

 今頃は宗教がなくなっているはずだが、科学が進歩して、ますます人間は非合理的な存在になってきている。

 そうした意味で特定に宗教に関わらない「宗教教育」というのが必要かもしれない。ちょうど「性教育」がタブーだった時代があったように、宗教のタブーから解放される時代が来ているかもしれない。

 死についての学問は可能だろうか?宗教学は元は科学だったが、今も科学であり続けられるのだろうか?

 死をめぐる「物語」を考察していくしかないだろう。内田樹はホームページで次のように書いている。

…私たちが生きている現実は「物語」として編成されており、そこで私たちは悪霊を恐れ、死者の祟りを鎮め、呪詛を送りまた祓い・・・という宗教的なみぶりを繰り返している。
どれほど科学的な人であっても、「人間は死んだらただの有機物だ」と言って、親の屍骸を「生ゴミ」に出すというようなことははばかる。
そこに何かに対する「冒涜」を感じるからである。
では、その「冒涜」の感覚において、その人は何を冒し、何を穢していると思っているのか?
手足をばらばらに切り刻んで「生ゴミ」に出しても、定型的な葬儀を通じて死体を処理しても、最終的に重油で焼かれて灰になることに変わりはない。
どこが違うのか?
問題は有機物の処理ではなく、かたちに見えない「何か」が死体に帯同しており、それをどう扱うかを配慮することを私たちは回避できないからである。
私たちはその「何か」を明示的な言語で名指すことはできない。
できなくて当たり前なのである。
その「名指し得ぬものを畏怖する」能力を獲得したことを通じて、人間はサルと分岐し、人間性を基礎づけたのだから。
「それ」そのものはどのような意味でもevidence-based な学術の対象にはならない。
私たちができるのは、人間が「それ」をどのように「避けた」(つもりになっている)のか、どのように「鎮めた」(つもりになっている)のか、それを考究するだけである。
いわば、透明人間が雪の上に残した足跡をたどって、透明人間の「歩き癖」を推測するようなものである。
しかし、これはこれで一つの学問であると私は思っている。


 葬式がこんなに大変なのは、簡単に死ねないのは生命の重みということもあるが、僕らが自由ではないからである。

 国学者の本居宣長は遺体の扱い方から墓所の設定、葬式の次第、葬列の組み方まで、事細かに指示したユニークな遺言状を残したことで知られている。小林秀雄は「まるで自分の葬式を楽しんでいるみたいだ」と語っている。

 中江兆民は死んだ時、葬式は営まず、直ちに荼毘(だび)に付すよう遺言した。親せきや弟子たちは葬式こそしなかったが、「告別式」を挙行。政治家や言論人ら約千人が列し、板垣退助伯爵(「板垣死すとも……」)が「永送の辞」をささげた。

 「ふらんすへ行きたしと思へども」の詩人萩原朔太郎は、かねがね「おっかさん、ぼくが死んでも線香だけはたかないでくれ」と頼んでいた。しかし息子の葬式を取り仕切った母親は、形式を重んじる人だった。代々の習慣に従って葬儀の間ずっと、詩人の嫌がった線香をたき続けた。

 作家吉行淳之介の父親(“あぐり”の夫)は、「火葬にはして、灰はそこらにまき散らしておけばいい」と言っていた。が、家族はそうもいかず、ふつうに葬式をした。「要するに、葬式は死んだ当人のためではなく」残った者のためにおこなわれる、と淳之介は書く。

 アインシュタインは「あなたにとって死とは」と聞かれ、「モーツァルトが聴けなくなるということだ」と答えた。

 『メメント・モリ』という本を書いた藤原新也はインド放浪を通して「人は山犬に食べられるほど自由である」といった。

 日本はまさにこの対極にある。

 いや、今の日本が対極にあるのであって、昔はそうではなかった。

 鎌倉時代の名僧、明恵(みょうえ)上人が13歳で自殺をしよう(「今は早十三に成りぬ。既に年老いたり」)として、同じ死ぬなら供養のために飢えている狼などに、わが身を捧げようとして捨身の決心をする。当時は墓地といっても、死体を転がしておいて、犬や狼などに喰われるにまかせていたという。だから明恵は夜に墓地に行って寝転がっていたが、何事も起こらずに残念に思って引きあげてきて、捨身の決意を思いとどまる。

 しかし、今の日本では医者の前以外で死ぬ自由もないし、少し前までは遺灰を撒く自由もなかった。

 死ぬ自由が奪われてきている。


 

 死の概念がなかったら、人間は今よりはるかに崇高ではなくなるだろう。もし人間が永遠に死ねないものであったなら、人間の悲劇は、これ以上ないまでに大きなものになるし、その弊害はかつて地上になかったほどの地獄のような様相を呈するだろう。その時、生きるものすべては精神異常になっているに違いない。 死があってこそ、初めて、我々人間は選択ということの責任を知る。自分がどんな生涯を送るか、自分で決める他はないことを知る。------曽野綾子

 僕たちは死ななければならないことを忘れている。死というものは死ぬほど嫌だが、誰も避けることができない。

 ゲームや機械が生活の周りにあふれ、機械に振り回されているのが現代人だが、機械には“いのち”はない。生きとし生きるものと機械の違いは“いのち”なのだが、機械に囲まれていて、今の子どもたちには“いのち”が見えにくくなっている。“いのち”が見えなければ“死”も見えない。“死”を意識してはじめて“いのち”の尊さが分かる。昨日、死んでいても不思議ではない生を、今日生きている。だから“いのち”の大切さを語る前に“死”という事実をもっと子どもたちに伝えるべきである。

 村上春樹の『ノルウェイの森』と双子のような小説『ガープの世界』は次の一節から始まる。

In the world according to Garp, we are all terminal cases.
      「ガープによればこの世界では、われわれはすべて死に至る患者なのである」

 そして、登場人物の半分が死ぬ『ノルウェーの森』(1987年)のテーマはメメント・モリだった。次のメッセージを思い出してもいいだろう。

 死は生の対極としてではなく、その一部として存在している

※蛇足ながら、「死は生の一部」というのは1994年の映画『フォレスト・ガンプ 一期一会』にも出てくる。




     「お葬式1996」      金川 欣二    

なぜ、わたしは葬式が嫌いかといえば、葬式は死者と全く関係がないからである。あれは生きている人間のためのものだ。もうひとつ言えば、葬式とは死者にかこつけて生者が虚栄心を満足させる儀式だからである。 ------井上ひさし『続 家庭口論』


 お葬式は死に対する感情教育である。

 96年11月1日、院長からいきなり父の命は長くて1カ月といわれた 

 父が入院してから毎日が臨戦態勢で何もできず、電話に戦々恐々。僕は禁酒して待機していた。

 高齢なので諦めて式の準備をすることにして、青木新門さんが専務をしている冠婚葬祭会社オークスの「プレニード」システムで事前説明を受けた。宣告されることも多いし、自分の葬儀の注文をする人もいて増えてきているといわれた。アメリカでは既にこのプレニードを利用する人が実に多いという(“preneed”はウェブスターにもランダムハウスにも載っていないが、実際に使われている言葉だ)。

 最近、声楽家の妻も葬儀(大抵はお別れ会)で歌を歌うことが多くなった。イタリアの歌が好きだっただからといって「オーソレミオ」を歌ったり、「アメージング・グレイス」を歌ったりということが増えてきた。「美しき天然」(天然の美)という、あのサーカスの曲が好きだといわれて歌ったこともある。

 プレニードシステムは死者にとっては意義のあることだが、遺族との意向が異なると大きな問題になることがある。葬儀は死者のためではなく、生者のためにあるからである。

 iさんから色々と書類を渡されていたのだが、小康状態が続いたこともあって油断してしまい、結局、あまり準備ができなかった。

 うちは浄土真宗本願寺派(お西)だが、東本願寺派とも違うし、宗派で大きく違うし、高岡と富山でも違うし、地域(うちは漁師町で腐ることを嫌う)で違うという。宗派と俗信とが混ざり合って、葬儀は葬儀屋にしか分からないものになっている。例えば、「清め塩」というのが一般的になっているが、これは「死は穢れ」という俗信に基づいたもので、多くの宗派で否定されるべきものだ。仏教では生と死を分けては考えていない。「生死一如」といって生と死は同じものだと捉える。浄土真宗では「名残惜しく思えども、娑婆の縁つきて、命終わるとき、彼の土へまいるべきなり」などといって、死は現世での縁がなくなって、阿弥陀如来のいる世界へいって仏と縁を結ぶということだと考えている。ちなみに、キリスト教でも同じような俗信がたくさんあり、結婚式のライスシャワーも教義に基づいたものではない。お米が稲をたくさん実らせることから多産を祈った俗信である。

 ようやく準備できたのは家の片づけと連絡メモとドリンク剤と非常食のカップ麺(葬儀の差し入れはこの二つに限る)であった。


 12月4日に父の血圧が下がったから誰か家人に来てくれと連絡があった。70以下というのは危篤状態というのは知らなかったし、教えてもらえなかった。

 寮の当直なので入っていると危なそうだと電話があり、慌てて城南病院に行くと病室に入った途端、「ご臨終です」といわれる。午後8時29分に肺炎で亡くなった。享年92。苦しまなかったから本当に大往生だ。

 僕は父が50歳くらいの時の子供だったので小さい頃からおじいちゃんという感じだった。だから父が亡くなったという感慨よりはおじいちゃんが死んだという方が強いかもしれない。

 祐貴(7歳)と未蘭(4歳)は僕が間に合うように祈っていたそうだ。

 大きくなってから覚えているだろうか?


 葬儀社に電話をかけて引き取りにきてもらう。白衣を着た葬儀屋然とした人がやってきた。本来は遺体引き取りの人がそのまま葬儀を取り仕切ることになっているのだが、亡くなったのは富山の病院で自宅は高岡の範囲なので富山支社から来てもらう(富山と高岡では文化が大きく異なる)。

 10時頃家に到着したら既に高岡支社から来て黒幕が張られて喪中になっていた。近所の人を呼んで座敷も片付けてある。待っても待っても移送車が着かず心配していたら、大きな道を遅いスピードで来るので遅かったという。北枕(これも俗信だというが)で寝させて母が書いた般若心経(宗派が違うのに)だかの袈裟を被せて寝かす。

 お寺に来てもらって枕経を唱えてもらう。今日は遅いから明後日の葬儀は延ばした方がいいといわれるが、職場の関係もあって翌々日の金曜日に決める。実際、3日後だったら精神的に疲れてしまっていただろう。その後、無上仏などの3点セットを借りに行く。無上仏というのは畏れ多い(有り難い?)のでお参りをするとき以外は前に幕を垂らして置かなければならない。これじゃ、まるで「フランダースの犬」だ。

 1時近くまで打ち合わせ。返礼品から引き出物(返品がきく)や葉書の種類や枚数まで決めた。写真は前から準備していたのだが、専門家の撮った写真(僕らの結婚式の親族写真)でなければダメといわれる。4センチのもので20万という死亡広告をどうしますかと聞かれたが、丁重に断った。最後に50万の祭壇に決める。もっと高いのもあったが、新しい方を選んだ。

 姉が来て線香を絶やしてはいけない(俗信!)というので言った本人に寝ずの番をしてもらう。子供らを寝させなければならないのだが、二人とも興奮してなかなか眠らない。


「童謡」 石垣りん

お父さんが死んだら
顔に白い布をかけた

出来上がった食事の支度に
白いふきんがかけられるように
みんなが泣くから
はあん お父さんの味はまずいんだな
涙がこぼれるほどたまらないのだな
と わかつた

いまにお母さんも死んだら
白い布をかけてやろう
それは僕たちが食べなければならない
三度のごはんみたいなものだ

そこで僕が死ぬ日には
僕はもつと上手に死ぬんだ
白い布の下の
上等な料理のように さ

魚や 鶏や 獣は
あんなにおいしいおいしい死に方をする

 5日は朝から親戚や学校などに連絡。近所からお参りにくる。「しもうていかれたそうで」(富山方言では死ぬことを「仕舞っていく」という)とお悔やみをいわれる。世話方に来てもらって生花(2万)や花輪(1万)、篭盛り(果物1万2千円、菓子1万)、お飾り(5千円=買い取りの地方もあるという)などを振り分けていく。お飾りは孫などに任されているという。

 人が来るたびに反応しなければならないので、大変だ。これは僕だけではなく、あの詩人の谷川俊太郎だって「父の死」(『世間知ラズ』思潮社)大変だったらしい。もっとも、お父さんの谷川撤三は哲学者で亡くなった時に天皇から香典と勲章が来たくらいだから一般人とはレベルが違うが…。

人が集まってきた。
次々に弔電が来た。
続々花篭が来た。
別居している私の妻が来た。私は二階で女と喧嘩した。
だんだん忙しくなって何がなんだか分からなくなってきた。

 今村三菜『お嬢さんはつらいよ!』(PHP)によれば平野威馬雄の葬儀で娘で三菜にとって叔母さんである平野レミは遺体の枕元にあった箸が一膳突き刺してあるご飯を見て「誰っ、こんなことしたのは。こんな気味の悪いことしてっ。これじゃ、まるで死んだみたいじゃない」と叫んだという。

 届いた空の棺桶に「おじいちゃんを一人で入れるのはかわいそう」と親族たちは代わる代わる入ったという。実にほほえましい。

 3時から納棺が始まる。納棺夫が汗だくになりながら布団から体を出さずに着せ替えが終わる。新門さんに教わることがあるかときいたが、見よう見まねで先輩から教わるのだという。担当者はみんなできるようになっていてしかも納棺料は取っていない。女性の納棺夫(婦?)もいるそうで、僕もできれば女性の方が往生できそうな気がする。最後に「良かった、良かった」と起きあがりそうだ。

 村上春樹の『ダンス、ダンス、ダンス』には札幌の食べ物屋の取材に出かけて、鮮やかに仕事をこなすプロを描いたシーンがある。

 我々はプロである。清潔な白手袋をはめ、大きなマスクをつけ、染みひとつないテニス・シューズをはいた死体処理係のように。我々はてきぱきと簡潔に仕事をする。余計なことは言わないし、お互いの仕事に経緯を払う。これが生活の為にやっているつまらない仕事だということはどちらもわかっている。でもしれが何であれ、やるからにはきちんとやる。そういう意味で我々はプロなのだ。三日めの夜には僕は原稿を全部仕上げてしまった。

 生前、父が好きだった将棋とトランプを入れる。

 お棺は本来「ひつぎ」という。「霊(ひ)」を継ぐ。つまり、死者の霊魂を受け継ぐべき容器がお棺。古代の人々は、霊魂の不滅を信じ、人が死ぬと霊魂は肉体を離れ、別の人間に引き継がれていく、と考えた。そのためのひとときの受け皿がお棺だと国文学者の中西進が『ことばの風景』(角川春樹事務所)で説いている。

 勝新太郎の時には天国で使えるようにと500万入れたというが、うちではもっと奮発して1000万円一緒に入れた。ただし、小切手にした。

 市役所への死亡届は葬儀社がやってくれた。その時、マスコミに載せる記事も出してくる。これを受けて夕方、新聞社から死亡記事の確認の電話がある。朝日は12月から死亡欄が始まったばかりだ。読売は本人か喪主の肩書きを載せるという。後で聞いたが何はなくとも死亡欄を読むという人が実に多かった。香典のお返しを考えると僕らもこれからチェックしていかなければならない。

 お寺にいくと飾りものの寄進者の「未蘭」という名前が「末蘭」になっていたので直してもらう。

 通夜にはたくさんの人に集まってもらう。

 挨拶がうまくできるか心配だった。「人をリンゴだと思えばいい」といわれたが、本堂に行ってみると篭盛りのリンゴがたくさんあって余計に上がってしまった。

 が、「よかった」といわれる。同僚で住職でもあるM先生から挨拶があるから正座は最初と最後だけにしておけと言われたので助かった。

 寺で泊まるつもりで出かけて焼香順を考える。親戚のTさんが帰っていいというので帰宅。Tさんは酔って3時まで皆を眠らせなかったそうだ。親戚には必ずこういう人がいる。世話にもなるが世話もかける。


 6日に葬儀。花輪の並び方を変えてもらったり、灯油の準備や焼香順最終チェック、弔電読み上げ順の準備などがあった。

 校長を始め大勢の人に集まってもらう。忙しいのに申し訳ない。300個用意した返礼品がなくなったから割と大きな葬儀だったといえる。

 300人ほどが葬儀にきてくれたということは人間のつき合う範囲というか「世間」がまさに250人から300人位ということである。

 どんな偉い人でも個人的に賀状を出すのは300人だし、これ以上だと管理できなくなる。

 内田樹は葬式は同窓会に似ているという。

さまざまな側面を知る関係者が一堂に会して、短い時間に集中的にそれぞれの視点から故人の肖像を公開し合い、そのモザイク的な断片をはりあわせて死者の全体像を再構築する。「事を定める」とはこのことである。

黒沢明の『生きる』は、葬儀のこの機能を映画的にうまく利用していた。 【…】

葬儀に参加するということは、そのようなモザイク作りに参加することである。

その作業によって、その人が「実は」なにものであったのか、という評価が関わった人たちにとっては確定する。

私たちが「自分の葬式」というものを想像すると、妙にどきどきしてしまうのはそのせいである。「自分の葬式」には誰が来るだろう。誰が泣いてくれるだろう。誰が葬儀委員長なんだろう。通夜の席でどんな話をみんなは披露するのだろう。そういうことを考えると、きりなく想像がひろがってゆく。

そのときに私が「実は」どういう人間だったのか、が衆議の末に確定するわけである。私はいったい何者だったということになるのであろうか。それを思うわくわくして寝つけない。ああ、こんなことなら一度死んでみたい。

そうもいかないので、私たちは飽きずに同窓会を開くのである。

 焼香や弔電が何とか終わった。

 挨拶では「……父は富山商船学校、現在の富山商船高等専門学校を卒業し、海の男として活躍してきました。世界を2度回ったとか、できたばかりのエンパイアステートビルを見てきたとか自慢していました。戦時中は船長をしていた船が3度沈められたといいます。戦後は市役所に勤めていましたが、実直そのものの性格でした。昨年までは元気に散歩をしていたのですが、今年の6月に入院して、一昨日、僕が病室に着いた、その瞬間に亡くなってしまいました……」という。

 注意はされなかったのだが、宗派によって言葉がずいぶんと違っている。

 例えば、浄土真宗では次の言葉が言い替えられる。例えば、「草葉の陰」というのはお墓の周りを指すが、これでは故人の霊が成仏できずにいることになってしまう。浄土真宗では阿弥陀如来の働きで、誰もが平等に臨終と同時に往生成仏させてもらうことになる。「天国から私たちを…」というのはキリスト教にしか思えない。

こうした機会をとらえて宗旨を教える努力がお寺には皆無だ。

 門徒総代までしていたのに寺から故人の遺徳を偲ぶ言葉がなかった。明治人間で、僕よりはお寺を大切にしていたと思うのでお布施に反映させることにする。

 お金をいくら包むか悩んでいた。聞けば聞くほど金額が上がっていく。それで少ない方に合わせて持っていった。恐る恐る「少ないと恥ずかしいのでいくらでしょうか?」と聞くと「お布施は別として本堂の使用料と無上仏の貸出料は相場がありまして7万と3万(言外にそれ以上という感じがあった)」といわれてその通りだったのでほっとした。そして、はっきりいうものだと感心した。でも、多かったといって返してくれる訳ではなさそうだ。本堂の使用料といっても本堂は門徒の寄進によってできているのだからタダでもいいはずだ、というのは貧乏人の論理だろう。

 世代交代を平均30年とすると、夫婦単位の檀家が15軒あれば、毎年葬式が出る。葬式の布施は勤労者の月収が相場なので、住職が人並みに暮らすための損益分岐点は檀家数180軒、という「坊さん術」が成立するという。

 後で、檀家と菩提寺というのは仲の悪いものだと言われる。うちの菩提寺はTさんの寄付で潤っているが、このTさんは本当の菩提寺から「お前のうちみたいな貧乏な所は相手にしない」と言われて発憤し、成功してから、うちの菩提寺に変えたのである。

 僕が位牌、母が遺影を持ち、白い装束の4人が棺を担いで前に出る。キャデラックの渋いリムジンの霊柩車が待っていて母は霊柩車が来てないのだと思ったという。というのもこの互助会の最初の頃、母が婦人会長時代に同業者の嫌がらせで来なかったことがあったからだ。

 僕自身も昔読んだ井上章一『霊柩車の誕生』で知っていた雲竜型のクルマだと思っていた。しかし、キャデラックの方が高いという話を聞いてホッとした。けちったと思われるのは嫌だった。旧式の霊柩車は葬儀場や火葬場近くの人からひどく嫌われるようになって少なくなったという。

 幸い、仏閣の付いた霊柩車と違ってリムジンだと家族が一緒に乗れるので心強い。

 火葬場に向かう時、雪が舞ってきた。

 運転手がおしゃべりで「親孝行したい時に親はなしといいますが、私も両親ともおりませんで…」と言い始め、終いには離婚した話まで聞かされてしまう。何で人の不幸の話をこんな時に聞かなければいけないのか…。ポンと肩を叩いてやろうと思った。死人がよみがえったと思ってびっくりするかもしれない。

 煙が既に出ていて『小早川家の秋』に出てくる笠智衆のような気分になってくる。この映画では笠智衆と望月優子が火葬場の煙を見て「やっぱり誰ぞ死んだんやわ、けむり出とるわ」などといいながら批評するシーンがある。

 チャップリンの『殺人狂時代』の冒頭ではチャップリンが薔薇の剪定をしていると、後ろの煙突から黒い煙が立ちのぼる。

 火葬場でお昼を食べる地方もあるが、一旦家に帰る(初七日をここですますことも多くなったようだ)。

 黒の喪服に着替えてお寿司を食べ、骨拾いに行く。ちょうどバスの中のBSで永六輔原作『大往生』が放送されていた。

 骨はキレイに焼けていた。みんな90歳を超えているのに骨太なのに驚く。「昔から鍛えておらっしゃったから」と誰かがいう。

 未蘭が長い箸を上手に使って骨壷に入れたのにはみんな驚いた。「もういい」というのに「未蘭、やる!」と言って聞かない【小6の時に思い出を聞くと「おじいちゃんがどこかへ行ってしまって、何かが郵送されてきたと思ったという】。

 裏の方では、この骨はどこの骨かという解説が始まっていた。

 帰ってから初七日を行う。かつては本当の七日目にやっていたのを縮めた行事であるが、便宜上早まったといわれる。初七日を葬儀場ですませてしまう葬式もあって驚いた。

 親族が食べてから最後に僕らが近所の人たちを接待しなければならないところを会社に頼んでいたのでホッとする。

 葬儀が終わった。焼香順など注意したつもりだが、2団体抜けた。初七日に呼ばれなかったと文句を言った人もいた。お寿司を出す(まずいからと反対したのだが------テレフォンカードの方がよかった)ことにしたのだが、もらえなかったという人もいた。

 親族とのトラブルはなかったものの伝統を重んじる(古いだけ)母親と合理主義(ケチなだけ)の僕とはその後も喧嘩のしどおしになった。仏壇も富山式の派手な仏壇と京式のしっとりした仏壇とでぶつかった。

 墓の法要の仕方だって白い石を24個集めてきて塩水で洗って「南無阿弥陀仏」と書いて納めなければならない(俗信!)とか、般若心経を3回書いたものを納めるとか、塩を撒くとか紅白のお餅を飾るとか、他人から聞いてくる度にすることが増えてくる。もう、やってられない。

 儀式に完璧を求めるのは無理だ。

 それを忘れて遺族を責めるのは間違っている。


 8日にお初夜(おせや)を行う。雨の中、子供たちに案内をしてもらう。「中町の○×さんところ、ごぼはん来らっしゃっかぁら参んに来てください」といって町内を回るのである。昔は最後になぜか「〜陛下」と付いた。一人千円で更にお菓子が付く。95年の正月に、祐貴は「(案内の)アルバイトしたお金でパパとママにアイス買ってあげようか」と言った。

 寺の若はんが来て話をするが、読経が始まると祐貴は念仏を一緒に唱え、未蘭は仏壇に行ったと思ったら仏典(聖典?)の正信偈(「げ」=歌)を出してきた!

 報恩講の時に仏壇から出してきたのを覚えていたらしい。

 若はんは途中何度も話が分からなくなって「なあん、言うとっか分からんようになってしもた」といって止まってしまう。何しろ、うちでの最初の報恩講の時に十八番をやりますと言いながら、止まってしまった人だ。別のうちで今度から○×経を増やしてくれ、といわれて次からお義母さんに交替してもらったこともある。「そっでも、若はん、上手になったよ」という声援を受けながらどうにか浄土の話にたどり着いた。落語家の後援会になったようでおヒネリが飛ばなかったのが不思議である。

 「若はんのお話も裸の大将からパチンコの話まで放浪の旅が続きましたが、ようやく浄土の話にたどり着けてホントによかった」とフォロー。

 お布施はまとめてではなく、今の分でくれと請求された。婿に入っているのでお金を見せないと話の中にあったように水風呂に入れられるからだろう。

 簡単にお布施というが、三種類あるといわれる。

 まず、人に仏法を説いて教えをいろいろ授けるのを「法施(ほうせ)」という。 

 次に、人の不安や恐れを取り除いて安らかにさせるのを「無畏施(むいせ)」という。

 そして、品物やお金を施したり、授けたりするのを「財施(ざいせ)」という。

 最後が一番好まれることは世界共通であろう。


 1週間忌引きなのだが、試験開始で心配になって学校へ行った。学生が「教官、まだ線香臭いよ」というので応えた。

 「当たり前だ。20年間センコーしてたら匂うだろうよ」。


 こうして葬儀はあっと言う間に終わってしまった。僕らのように予定されていた死の場合はそれなりにこなせるだろうが、突然死で悲しい別れの人々は一体どうやってこなしていくのだろう。

 これからゆっくり喪の仕事(mourning work)を続けなければならない。喪の仕事というのはフロイトの定義した言葉で人の死が知的には理解できても情的には理解できないことをいう。そしておよそ1年をもって喪の仕事を終えることができるのである。


 何をするにも先に立つものはお金である。

 葬儀社に支払をしたが、よくいわれるように葬儀費用と香典でトントンになった(210万)。

 いや、その他に墓があった。大雪になると墓が倒壊して気持ち悪いので移動・新造することに決めた(240万)。冒頭に書いた交通事故死をした親戚の墓はうちから分骨していったのだが、「墓博士」と呼ばれる人に設計してもらったという。それなのに不幸が続いた。こんな男は実にいい加減だと憤りを感じる。

 何!オワタマシ(墓のお披露目)だって?

 消費税が5%になるので思い切って仏壇も買うことにする(290万)。

 何!これもオアタマシ(仏壇のお披露目)だって?

 四十九日もある。

 京都への納骨もある。

 今度は僕らの戒名(法名)をもらってこなければならない。何!一人20万以上だって!

 入院中のお見舞金もあるだろう? ええっ、ボランティアに寄付しただって!

 祠堂(祈ってもらうために寺に出すお金)を付けて袈裟(24万)を贈るだって!

 香典帖だって今後、もらった人の不義理の時にはお返ししなければならない借金帳に見えてくる。

 お葬式は「金じゃ、金じゃ」の世界だったのだ。

 しかも、死者の貯金は遺産相続人の印鑑証明付のハンコが全部揃わないと出せないといわれた。病気になったらすぐ出せばよかったといわれたが、あんまりだ。証明書などを揃えていると金利よりもお金がかかってしまうという、実に皮肉な幕切れだった。

 何をするにも先立つものはお金だったのだ。


 祐貴は1年生の「はつらつ」という日記に「ほねをひろいながらおじいちゃんのことをおもいうかべていました。」と書いた。

 本七日に位牌の「至徳院釈晃専」という戒名の紙の後ろにメモが入っていたので見ると未蘭のたどたどしい字で「おじいちゃん ほんとにほんとにありがとう」と書いてあった(余談ながら、位牌が栗の木で作られるのは分解すると「西」「木」、つまり「西方浄土に生える木」ということで栗を使うという)。

 僕もおじいちゃんに夢の中で手紙を出そうとして、便箋をたたんで、封筒に宛名を書こうとして、考えこんでしまった。住所が不明だったのだ。


※冒頭のホルバインの絵には次のどくろが隠されている。人生はこれからだと思っている大使たちに「死を忘れるな」と諫めているのである。ちなみに、二人の大使はヘンリー八世の離婚問題で集まった。二人の大使の間に置かれた器具と書物は「四科の学」と呼ばれた当時の主要学問である天文学、算術、幾何学、音楽を象徴していて上段は天上、下段は地上を象徴する。同時に一番目立つリュートの弦が一本切れて垂れ下がっている。これはどくろと照応して「知」の虚しさを暗示している。二人の年齢はダントヴィユがもつ短剣の柄(つか)に<29>と刻まれ、セルヴが肘を置いている書物の柄部分に<SELVE 25>という文字が見える。この場面がダントヴィユ駐英大使の執務室または書斎であることがロンドンのウェストミンスター寺院と同じ床のモザイク模様で伝えている。二人が会ったのは1533年4月11日午前10時半である。棚の上段中央の四分儀が日付を示し、その手前の多面体日時計が時間を特定している。西暦はホルバインのサインに添えて記されている(というが見えない)。後にロンドンで未蘭と一緒に見ることになるとは思わなかった。

大使たち

 図版では分かりにくいが、背景の向かって左側のカーテンのわずかな隙間からキリストの磔刑像が見えている。キリスト像を描くことができなかった宗教改革の時代のせいか、復活の象徴として描いているのか定かではない。

キリスト

 なお、酒井健『絵画と現代思想』(新書館)が2003年に出版され、この中の「死の遠近法 ホルバインとフロイト」でホルバインを扱っている。この本の「死の舞踏」のスペリングが間違っていて“danse macabre”である。


■「納骨の旅'97」に続く。


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