金川 欣二:マックde記号論(言語学のお散歩)

実り豊かな講演のための“紙”上講演

権力に対して真実を語ること。これはパングロス的な理想論ではない。それは、さまざまな選択肢を慎重に吟味し、正しい選択肢を選び、それを最善をなしうるところ、また正しい変化をもたしうるところで知的に表象(レプリゼント)することなのである。
     -----サイード『知識人とは何か』(平凡社)
【パングロス=“Pangloss”ヴォルテール『カンディード』Candide andrew, ou l'Optimisme, ("Candide, or Optimism") の教師で楽天家の代名詞(「全ての」+「言葉」)】  


 完璧な講演などというものは存在しない。完璧な絶望が存在しないように…。

 講演を頼まれることが時折あるが、なかなか難しい。客層が分からないで失敗することとかあまりにも情報を詰め込みすぎたり、計画通りに笑いが取れなかったりと、終わってから鬱々としてしまう。日本人だけが苦手なのではなく、アメリカでも「死の次に怖いのが講演だ」という。土屋賢二も講演が嫌で、これを解決するには病気になるしかない…と考えたという。僕らは予約業みたいなもので、一度頼まれると病気にもなれないのだ。野村万之丞さんが病気になられて、ピンチヒッターを務めたことがある。観客の失望感がよく見えて本当に嫌だった。そしてまもなく、万之丞さんは亡くなられた。

 一度講演をしておくとある事柄に対する自分の視座を作ることができるから講演は拒まないのだが、十分満足して終わる講演というのは少ない。なるべく専門と離れた講演の方が脳の活性化につながるので嬉しいのだが、色々な限度が分からないで苦労する。

 教師をしていると話すのがうまいのではないかと思われるが、多くの教師がなおざりに話す。上級学校へ進めば進むほどいい加減である。ちょっと話の組み立て方を変えるだけで違うと思うのに、知っていることを羅列する教師が多い。ちゃんと調理しないと言葉はおいしくならない。火を通したり、煮たり焼いたり、調味料だけでもいい。ちょっと工夫をすることが大切だ。

 これは講演や市民大学の講座のためのマニュアルで講演用のファイルの最初にメモとして書いておいたものをエッセーにしたものである。 

 理科系や学会の発表に関しては木下是雄『理科系の作文技術』(中公新書)の「学会講演の要領」を参考にしてもらいたい。

 あまり他人の講演を聴くのが好きではないが、それでも色々聴いて、こうすればもっといいのに…と思うことも多い。その時に気づいたことも書いてみた。

 プレゼンテーションにも役に立つかもしれないし、立たないかもしれない。僕には有用だが、他人には有毒かもしれない。

 僕自身は講演は嫌いではない。自分の考えをまとめる絶好の機会になる。心理学で「即時強化の法則」というのがあって、憶えたことはすぐに使ってみると忘れにくくなる。講演で自分のボケ防止をしているのだ。それに、本代をわずかでも回収できるのは講演の時しかない。

 講演が嫌いだという人もいる。小谷野敦は『軟弱者の言い分』(晶文社)で次のように書いている。

 一つには、やはり不特定多数を相手に話すと、思ったような反応が得られないことがあり、その徒労感が嫌になった、ということがあると思う。ふたつには、自分の言いたいことは文章で伝えた方がいい、と思うようになったことがあるだろう。

 なるほど、分かるのだが、不特定だからその最大公約数を見つけて話そうという気にもなるし、一部の人にでも受けたら、それなりにうれしいものである。それに、僕らは小谷野のように言いたいことを文章で伝えることができない、という事情もある。

 僕も講演を依頼する側に回っているのだが、講師選びは難しい。実際に聞いていないと、どんなに活字がよくても話が面白くない人などザラだからだ。講演料に比例して面白い、ということも確かにある。高いから、しっかり聞くということもあるのだが…。

 いずれにしても、素人に講演を依頼してはいけない。玄人に限る!

 この“講演”は次回からはもっと上手になろうという自戒である。

 

●タイトル(魅力的に)
●客層(早めに掴め)
●展開(どれだけ脱線してもいいから本筋を追え)
●内容(ほどほどの情報量を)
●マクラ(「ツカミ」はOK?)
●サワリ(これだけあれば…)
●サゲ(地口落ちは止めよう)
●資料(簡単な資料を用意)
●AV機器(頼りすぎるな)
●ユーモア(多く笑わせたら勝ち)
●ネタ(たっぷりと、でも捨てることも大切)
●口調(ゆっくりと落ち着いて話す)
●スタイル(コツで賢く見せろ)
●時間(時間泥棒にならないように)
●自慢と悪口(ちょっとだけPRとチクリと一刺し)
●講演直後(まとめと質問に要注意)
●謝礼(ハンコと口座番号を忘れないように)
●最後に(よい講演とは客の心に補助線を引くこと)

 

●タイトル(魅力的に)

 演題は客を呼ぶにも大きな要素となる。高専の、まして商船の教授くらいの話は誰も聴きに来てくれない。せめてタイトルを考えることになる。

 もちろん、タイトルは主催者が何を話してほしいかによって決まってくるものなのだが、何について話せばいいのですか?と聞くと「何でも」といわれて、困ってしまうことも多い。

 そりゃ、こっちもプロだから、どんなお題でも一時間から一時間半持たせろといわれたら持たせるけれど、どういう主旨の集まりか分からなければ、話せないではないか!?僕には専門というものがあるのに、何でもいいって一体何なんだ!

 と、カッカしないで、せっせと魅力的なタイトルと内容を考えることにしている。

 『米原万里の「愛の法則」』(集英社新書)は講演集なのだが、「愛の法則」というのは金沢二水高校でやったものだ。あらゆる男は、A・ぜひ寝てみたい男、B・まあ、寝てもいいかなっていうタイプ、C・たとえ大金をもらっても絶対寝たくない男、の三つに分けられ、私の場合九〇%強はCだ、なんて話でいっぱいなのだから、さすがに主催者もメマイしたことだろう。「何でもいい」っていうからだ。二水は名門高校だから、確信犯でやったのかもしれないが…。

 冒頭から飛ばしている!

 こんにちは。米原です。
 私が、「愛の法則」を研究しはじめたのは、中学生の後半ぐらいでした。すごく興味を持っていたんですね。セックスのことと異性のことばかり考えていました。当時、あまりテレビがなかったものだから、それらについての情報がいちばん集まるのは本だったんです。本をたくさん読んでいたので親は喜んでいましたけれども、私はそのところばかり興味を持って、『千一夜物語(アラビアン・ナイト)』は十三巻全部読んだし、文芸大作と言われるものはほとんど全部、読みました。
『三銃士』は皆さん、子ども用の『三銃士』しか読んだことがないでしょう? でも、あれは原典を読むとすごいですよ。ダルタニアンとミレディの濡れ場ばっかり、ベッドシーンばっかりですから。それから、『レ・ミゼラブル』って『ああ無情』って訳されてるけれども、この作品も子ども用のしか、皆さんは読んでないでしょう? 大人用の原典のほうを読んでないでしょう? 原典を読むと、コゼットのお母さんが売春婦をしていた話などもちゃんと出てきますからね。

 講演ではないが、富山市民大学の映画の講座名が「名画鑑賞会」になったことがある。係員の知恵だったのだが、絵画の鑑賞会だと思ってきた人が半分くらいいた。おまけに文句まで言われたのだが、内容をよく見れば映画の題名がずらりと並んでいて分からないはずはないし、どんな名画を見せて説明するのだ!?という気がするのだが、分からない人が多いと最初から観念すべきだった。

 「誤解の言語学」でも書いているが日本語の起源説を扱っていて、途中の質問で「“きげんせつ”いうたら11月3日やねけ」といわれてメマイした。外山滋比古さんが童話教育の大切さを語って終わってから「同和問題とどう関係があるのですか?」と聞かれたという。メルヘンも何もない観客がいて目が点にも変になる。

 冗談だと思う人がいるかもしれないが、そういう観客が多いと思った方が気楽だ。中国史を研究している同僚が「満漢全席」で話したら、料理教室だと思って参加した人が多かったという。馬鹿な奴らと思ったが、彼が「酒池肉林」で話す予告が出た時は僕も慌てて申し込んでしまった。

 「あなたの子どもを天才にするには」と「天才の栄光と悲惨」というタイトルでどちらが受けるだろうか?「これであなたも億万長者」というのと「貧乏だって楽しい」という講演だとどっちが入るだろうか?

 本のタイトルを考える時と同じ努力が必要である。それにしても最近はタイトルのつけるのが上手な出版社がいっぱいあって、草思社などは「タイトル会議」を行って決めているが、『楽観主義者』が『他人をほめる人、けなす人』になってしまう。『チーズはどこへ消えた?』とか『金持ち父さん 貧乏父さん』、『仕事ができる人できない人』なんていうのは脅し文句にもなっている。いっそ、『仕事ができる金持ち父さんはどこへ消えた?』なんて本を出せば儲かるかもしれない。

 講演は聞き手が違うので、オールマイティのタイトルもある。TBSラジオの「秋山ちえ子の談話室」で有名な秋山ちえ子はどこへ行っても通用する演題「この頃思うこと」というので通しているという。ただ、ある日、文藝春秋の講演会で水上勉と一緒になったのだが、水上は「近頃思うこと」だったという。

 井上靖のような作家は「シルクロードと私」という紀行文を思わせるタイトルでもいいが、凡人はそういかない。

 あんまり説明的なタイトルもまずい。「最近の非行にみる親の育児への関わりと明るい家庭を築くための一考察」とか「ケニアのマサイ族における放牧から見た21世紀の日本人に対する教訓」とか「モンゴル語における“折れ”の現象と普遍文法に対する意義と問題点」みたいなタイトルでは誰も来ない。僕も行かない。

 僕は誤解を招かないように、新聞と同じように二本見出しにすることが多い(エッセーのタイトルも多くが二本になっている)。「インターネット時代の教育------感性と知性のはざまで」などとするのだが、一度、二本と言うことが分からずに一本のように書かれていて、困ってしまった。

 解剖学の養老孟司が富山に来て、「唯脳論から見た立山曼陀羅」というタイトルで話した。観客に合わせて内容を決めるとはさすがに東大名誉教授!と思って出かけた。 

 2時間たっぷり情報と人間の話をして、立山の話になりかけたら「あっ、時間が来た」といっていきなり話を止めてしまった。彼のようなのを「頭脳犯」というのだろうか?

 「言葉の森を散歩して」「言葉の海を渡る」とか「ことばの宇宙を彷徨って」なんていうのはロマンチックなタイトルで、いつだってどこだって何だって話せる万能タイトルだ。

 でも、知名度があれば、人は集まるだろうが、このタイトルで僕が話したら4人(母親も動員して家族だけ)しか集まりそうもない(し、途中で兄弟喧嘩しかねない)。

 人が集まらない講演をするくらいだったら、こんなエッセーを書いて我慢するしかない。


●客層(早めに掴め)

 これほど分からないものはない。授業でもそうだが、レベルの違う学生が多いと、度の合わない眼鏡をかけたような気分になってしまう。同じジョークでも年寄りにナンセンスなものは分からない(「そんながけぇ」と変に納得されてしまう)。誰も分かっていそうもないから、一人でも首を振って納得してくれる観客や学生がいると嬉しい。「優」をあげたくなる。

 20世紀は大衆の時代だったと思うが、大衆ほど分からないのに権力をもった存在はいない。タダで聞いているくせに、講演が面白くなかったら、金を返せと要求しかねない(くらいの権力である)。

 大衆を侮ると大変なことになる。会場に知人の大学教授がいたりすると、途端に慌ててしまう。これで慌てずに堂々と話ができる人がいたらタダの能天気というものである。

 能天気といえば、映画『第三の男』では、『サンタフェ無宿』『ダブルX牧場の殺人』なんて駄作を書いている三文作家のジョゼフ・コットンが文化教育局のお偉いさんと知り合いになり、著名作家と間違われ、現代小説の講演会で演説させられることになる。「信仰の危機」についてお話を、と言われてしまい、何のことか分からない。あげくの果てに「意識の流れを信じますか?」「ジェイムズ・ジョイスをどのように位置づけていますか?」と矢継ぎ早に質問されてしどろもどろになってしまう(原作と細かく異なるが…)

 ブレンダ・マドクス『ノーラ ジェイムズ・ジョイスの妻となった女』(集英社文庫)を読んでいて笑ってしまった。ノーラは『フィネガンズ・ウェイク』が好きだといいながら、本当は何も分かっていなかったらしい。未亡人になってから、アンドレ・ジードについてどう思うかと聞かれて「世界でいちばん偉大な作家と結婚していたら、マイナーな作家たちのことはいちいち憶えていられないものよ」と答え、ジョイスは何を読んでいたかという質問には「だいたい自分の本を読んでいたわ」と答えたという。

 僕の場合は多くて100人くらいだった。学校の講演で7人を相手に話したことがある。

 やっぱり多い方がいいに決まっているが、多ければ多いほど、焦点が絞りにくくなる。

 「不特定多数」だということを忘れるな。

 観客に質問をしてレベルが分かることもある。前の方に座っているのは間違いなく熱心な観客なのだから、その人に合わせてもいい。

 ただ、皮肉っぽい観客は真ん中辺りの左右に座っていることもあるから気を付けよう。

 「聴者の耳を満足させない言葉はつねに人に退屈または嫌悪を与える。相手がじっとしているのを見た場合には、話していることが相手をよろこばせていると確信してよい」とレオナルドさえ書いている(『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』岩波文庫)。

 客層がつかめたら、ついでに“よいしょ”もしておこう。

 「この会社はいつも通るたびにいい会社だなぁと思っていました…」なんて、さりげなく。

 丸谷才一の『男のポケット』の「御当地ばなし…」によれば、講演の始めのいわゆる「マクラ」は聴く人と語り手との関係を円滑にするのが狙いといい、冗談以外の方法に講演会場の土地の話題を取り上げる御当地ばなしがある。水上勉は御当地ばなしが大変うまかった。北海道へ行けばバター、秋田なら秋田杉、紀州だと紀州犬という調子で「まことになだらかにマクラをふってから、さて一転して、人生についてしみじみと語る」という。

 コミュニケーションでお世辞は大切だが、大切なことは一つだけ誉めることである。

 リップサービスはタダだ。調子に乗って「天皇を中心とする神の国」とか「国体を守る」なんて言わなければの話だが…。

 失言しても忘れよう。暴言は他人を傷つけ、相手は一生忘れないかもしれないが、失言はすぐに忘れ去られる。それを悔やんでも仕方がない。まして、主催者に「あそこであんな失敗をした」などというのは禁物である。せっかく自信を持って喚んでくれた人に(せっかく大成功だと思っているかもしれないのに)嫌な思いをさせるだけである。

 前向きに生きよう。

 僕らは総理大臣ではないのだから…。

 客層というのは依頼者の集め方によって決まるのだが、依頼者の意図に気をつけなければならない。お笑いで呼んでいるのか、教養で呼んでいるのか、それとも政治的な意図があるのか、しっかり見極めないといけない。

 田中克彦が『差別語からはいる言語学入門』(明石書店)で書いているが、ある市からの依頼で講演に行ったのだが、出席していた市長の顔が見る見るうちに変わったという。つまり、依頼者の意図とは正反対の方向の話をしてしまっていたのだ。

 逆に観客として考えると、行政側が行う講演の多くに意図を感じなければならないということだ。

 客層に合わせることは大切だが、今の若者たちに講演というのは無理である。語彙が違う、興味がすれ違っている、関心がない、でどんな話も駄ジャレも成立しないのである。

 だから「成人式の講演を」と頼まれたら、どんなにおいしい話でも断るのが正解なのである。二十歳になったからといって七五三の格好をするような者に、しんみりとした話を聞かせることは悪魔に魂を売ってもできない相談だ。

 町沢静夫の『自己中心が子どもを壊す』(日本経済新聞社)の中に自己中心的な中学生が講演を全然聞こうとしなかったために説教する場面が出てくる。それが成人にもそのまま当てはまるから恐い。

 こうして私が依頼されて話をしているというのに、君たちは、なかには話を聞きたいという人もいるとは思わないのですか。そのような人の邪魔をするのは、非常に失礼なことです。もし聞きたくないのであれば、すぐにこの講堂から出ていってください。私は怒りはしません。そもそも君たちは、親からおこづかいをもらい、食事を作ってもらい、洋服を買ってもらい、そして塾にいくお金を出してもらいというように、何もかもみんなしてもらっている、いわばまだ一人立ちできない人間ではないか。それを、まるで学校や家のなかの権力者であるように、思いのままに騒いでいるというのは、倫理的に許されることではありません。

 君たちは、決して世界の中心にいるのではなく、また家のなかの中心にいるのでもない、むしろ保護されている力の弱い人間なのです。それなのに、あたかも力があるかのように生きるのは全くの誤解です。もちろん、君たちの将来には期待するけれども、今の君たちは、まだ大人の保護がなければ生きられないのです。そうであるからには、君たちが王様のように好き勝手に騒ぐというのは、とても許されることではありません。

 観客の悪口ばかり言っているみたいだが、よき聞き手こそ、「心の鏡」となる。人と話しているうちに考えがまとまってくることが実に多い。文章でもよい読者がいると考えがまとまってくるものだ。

 リンカーンは奴隷解放をすべきか迷っていた時、ケンタッキーから幼なじみをワシントンに呼んだ。旧友を前に奴隷解放をすべきだという演説を始め、終わると「いや、君の意見は大変参考になったよ。ありがとう」と言った。

 講演は、だから、自分自身の「心の鏡」であるし、新たなアイデアのインキュベーター(incubator“孵卵器”)なのである。

 当たり前だけど、客層に合わせるのは客にこびることではない。サイードの『知識人とは何か』(平凡社)から抜き出しておく。

聴衆に迎合するだけの知識人というものは、そもそも存在すべきではない。知識人の語ることは、総じて、聴衆を困惑させたり、聴衆の気持ちを逆なでしたり、さらには不快でだったりすべきなのだ。

したがって、結局のところ、重要なのは、代表的(=代弁する)人物としての知識人のありかたである---なんらかの立場をはっきりと表象=代弁する人間、また、あらゆる障害をものともせず、聴衆に対して明確な言語表象をかたちづくる人間。わたしの論旨は、知識人が、表象=代弁する技能を使命としておびた個人であるということにつきる。この使命は、どのようなかたちで実現されてもよい。おしゃべりでも、ものを書くことでも、教えることでも、テレビに出演することでも。

 最後に、高校生や中学生が相手の講演は断ろう。無理です。自分が天才でもなければ。詩人の荒川洋治は『黙読の山』(みすず)の中で高校へ行って講演をしたことを書いている。

…話す前に、靴をぬぐことになった。スリッパにはきかえるのだ。ぼくはそれだけで、動揺した。話をする前には、いろいろとシミュレーションをするものである。人数、男女比、世代比、座席のようす、窓からの光など。だが、あしもとまでは、考えなかった。スリッパで、つまずくとは。その童謡は、話しはじめてからも身のうちをただよい、五分間ほどは、スリッパのおどろきを、どうふりはらうかで頭がいっぱい、話どころではない。スリッパはいわばぼくにとっての新しい、未知の言語である。講演にも講義にも授業にも、ふたをあけてはじめてわかる、このスリッパのようなものがある。その衝撃をどのように吸収するか。


 

●展開(どれだけ脱線してもいいから本筋を追え)

 起承転結に限る。なんてことはない。日本人のスピーチは全体が見えないと言われる原因である。

 実はマクラ、サワリ、サゲ(オチ)があれば後はどうなろうといいのである。時間が余った時に困るので、マクラやサワリは長い方がいい。

 講演というのは立派な枝葉のついた大木を育てるようなものである。大河ドラマのように大きな幹があって、そこに豊かな枝や葉っぱを付けていけばいい。どれだけ脱線しても構わないが、そのうち幹に戻って来なければならない。話の途中でこの話が受けそうだと分かれば、そちらの方向で話を膨らませるといい。

 また、小さなネタを多く持たなければならない。全く無関係の話をいくつか用意していて、適宜使えば時間調整ができる。機知の入ったフォルダーをどれだけ持っているかが講演の正否を決める。フォルダーの中からエピソードというか小話を引き出せればいい。ネタは豊富で新鮮な方がいい。もちろん、そのために普段からストックしておかなければならない。「リソースフル」な人間になろう。

 講演ではなく、スピーチで困ることがある。それは自分の前の人が似たような話をしてしまうことで、そのためにもすぐに差し替えられるリソースを増やしておかなければならない。ということは、講演が成功するかどうかはその前から決まっていることなのだ。

 本と違って講演は話がリニアに流れていく。ソシュールのいわゆる「線条性」というやつだ。本だともう一度戻ることも可能だが、講演ではそうはいかない。「くくり」というか、話を少しずつまとめておく。全体を3分割で考えておく。その中でもいくつかに分割して話を組み立てた方がいい。

 いきなり60分話せ、といわれても無理なので、5分のネタを12個用意するという気持ちで組み立てればいい。難しい言葉を使うのは構わないと思うが、後で必ずフォローしておく。人の名前も相手が知っていると思わないで話した方がいい。

「その場の真実」というものがある、と私は思っている。せっかく足を運んでその場に来られたのだから、書物とは異なって、「その場の真実」を伝えられるような話し方が必要ではないか。このように思うので、私は講演というときは、だいたい何も準備せずに行くことにしている。聴衆を舞えにして話しはじめると、聴衆から反応があり、それによって話がどちらへ行くかわからない。この方法は、スリルもあるし、聴いているほうも面白いのではないかと思う。ただ、書物のときのように、全体的な構成や、まとまりという点では欠けるところが出てくるし、誤解も生じやすい。しかし、まとまった知識を得たいのだったら、本を読まれるといいと思う。たくさんに本があるのにわざわざ会場に来られたのだから、やっぱり少々は穴があいていても、なまの感じが伝わるほうがいいのではないだろうか。

     河合隼雄『「出会い」の不思議』(紀伊国屋) 

 「脱線」について一言。僕はどこへ行くか分からないような話をするのが大好きなのだが、同じような人が多い。フランス文学者の山田稔は『ア・プロポ』という本を書いていて、鹿島茂も「ア・プロポ」(A propos)というエッセイをまとめて『上等舶来・ふらんすモノ語り』(文藝春秋)にした。

 対談の最中、突然、話題を変えてしまうことがある。文章でもすぐに「ところで」と書きたくなる。前の話題と次の話題は頭の中ではつながっていて、最後には元に戻る予定の「脱線」なのだが、とにかく、いったん話のベクトルを変えたくなる。どうも私の思考のくせらしい。フランス語ではこんなとき「ア・プロポ」という。このコラムは、いっそ居直って「ア・プロポ」の流儀で通してみようかと思っている。

 ただ、「脱線」はそのままにしておいたら大事故だ。必ず、元の線路に戻る必要がある。

 「脱線」しながらも本筋を追うというのが大切だ。話全体を大きな樹木とすると、太い幹はそのままで枝葉を豊かに実らすことが大切なのだ。

 筋を通すというか、テーマをしっかり持たなければならない。サワリがあればそれでいい。

 これは別に講演でなくても、論文でもエッセーでも、落語でも同じことだ。ただ、講義は講演ではないので、きちんとした論理展開が必要だ。とはいえ、予定調和はいけない。先が見えるような展開にしてしまうと、観客は講師を見くびってしまう。ええっ、この話はどう繋がるのだろう、と思わせた方がいい。

 内田樹が日記で書いていた。

落語家はいいよな。
『火炎太鼓』とか『唐茄子屋政談』とか、「同じ話」を聞きにお客が来てくれるんだから・・・とつい愚痴をこぼす。
こちらは毎度「新ネタ」をおろさないといけない。
たぶんお客さんは、前回と同じネタでも、にこやかに笑って聞き流してくれるんだろうけれど、芸人の「業」というか、「こいつ、いったい何の話をするんだ・・・こんなマクラを振って、どこに落とす当てがあるんだ」という私自身の不安に聴衆のみなさまをも巻き込んで、「一緒に不安になる」というスリリングな瞬間がないと、芸人ははやっている甲斐がない。
わずか90分の講演だけれど、まさに「骨身を削る」ような感じなのである。
用意したネタは40分くらいしかないので、とにかくあとは「マクラ」の小噺を必死で引き延ばす。
ぴったり90分で、話が終わったけれども、最後の方は「次回のおたのしみ」でつないだ。

 忘れてはいけないことは冒頭に話す内容とメニューを提示しておくことだ。エッセー風のどこへ行くか分からない進め方は作家やタレントのもので、学者のものではない。

 観客はどこへ連れて行かれるのか不安になるものだが、大体、この辺りの話になっているという位置と帰り時間が計算できる。面白くない話をする人は絶対に必要なことだが、そういう人ほど身勝手に話すものである。

 学校でも今はシラバスを提示しているが、観客に今回のテーマをしっかりと確認しておかなければならない。

 でも、最近はシラバスから離れると「予定どおりに進んでください」という学生が増えてきたという。脱線の楽しさを知らないらしい、というか、演劇的知というものが分かっていない。講義も講演も座談もパフォーマンスなのだ!

 話の順番をちょっと考えるだけでコミュニケーションは魅力的になる。


 

●内容(ほどほどの情報量を)

 内容がないような講演はしない方がいい。

 偉くなっただけで講演ができると思っている人が多いが、大きな間違いである。特に大学教授の場合は、そうした幻想に駆られて失敗する。当たり前で、学生たちは単位という人参があるから聴いているのであって、タダの観客はつまらなかったらつまらない顔をする。その様子を察知しないで延々と話す人がいて、思わずリモコンを探したりする。テレビではないので、目の前から消えてくれることはないが…。わざと難しい話をしてケムに巻くのも止めよう。

「同じ馬鹿でも偉ぶった馬鹿ほど鼻持ちならないものはない。……自分の馬鹿さ加減を隠すため、偉そうなでたらめを並べたてて人を恐れ入らせようとするようなもったいぶった馬鹿だけは、僕は絶対にがまんできない!」
     -----ファインマン『ご冗談でしょう、ファインマンさん』(岩波書店)

 主旨が分かりやすい、いわゆる“audience-friendly”な話をしよう。

 もちろん、大学教授でも芳賀徹などは内容も濃く、口調も見事である。

 情報量が問題だ。特に僕はあれもこれもと喋りすぎる傾向があって自戒しなければならない。情報量が多ければいいと思っている人がいるかもしれないが、それは講義である。講義でさえ要点が一つあればいいのである。観客のまるで知らないようなことばかり話していて、これだけ知識を伝えたから十分だろうというのは間違いである。良いフォアグラが手に入ったからといってそのまま出すわけにはいかない。良い材料にはとびきりの料理が必要だ。

 新情報と旧情報(観客の知っていること)をうまく組合せて、旧情報を見直すことができるような講演が一番いい(が、難しい)。

 20年ほど前に「蓮如と平和思想」というのを講演したことがあるが、浄土真宗の盛んな富山で蓮如はよく知られているが、今までの話はお坊さんからの情報ばかりであったのを、もっと違った視点から捉えようとしたものだ。

 観客は知っている話になると(多くの人が知らないだろう知識になればなるほど)「知ってる、知ってる」と首を振ってくれるものだ。

 何よりも前提となる旧情報がなければ、コミュニケーションは成立しないのである。

 中国の作家の郁達夫(イク・タップ)についての講演を聞いたことがあるが、あまりにも接点がなくて、辛かった。林達夫だったらよく理解できたのに…。

 難しい話でも、どんなに新奇な話でもいいが、ちょっとだけ観客の側に降りて来なければならないということなのだ。

 新旧の割合は7:3くらいであろう。

 あまり難しい話ばかりではダメだからといって、知っていることばかりでは意味がない。

 ある文学作品が、出現した歴史的瞬間に、最初の読者公衆の期待を満たしたり、超えたり、失望させたり、あるいは覆す流儀様式は、明らかに、その作品の美的価値決定の一つの判断基準となる。期待の地平と作品との隔たり、すなわち在来の美的経験ですでに親しんでいたものと、新しい作品の受容によって要求される「地平の変更」との隔たりが、受容美学的に文学作品の芸術性格を決定するのである。
     -----ヤウス『挑発としての文学史』(岩波書店)

 つまり、小説でも同じなのだが、観客や読者は予測を立てながら付いていく。「期待の地平」どおり終わったとすれば、何かをもたらさなかったことになる。一方で「期待の地平」が裏切られたとするなら、その講演や小説は新しい何かをもたらしたことになる。予定調和的な成長物語よりも退廃的な物語の方が「期待の地平」を破ることが多く、芸術としての価値も高いことになる。

 観客を不安にさせてはいけない。例えば、「パラサイト・シングル」という言葉を使って話を進めていると、中に分からなそうな人がいたら、途中でその説明に戻らなければならない。

 学校の授業と違って生涯教育で講演が好まれるのは教師からの質問がないからである。当てられる、と思ったら誰も出席しなくなる。だから、間違っても、「あなた知りませんね」という顔をしてはいけない。

 講演は講演の中で完結していなければならない。つまり、分からないことを宿題みたいに放っておいたまま終わってはいけない。なかなか実践はできないけれど、努力しなければならない。

 情報量とも大いに関係があるが、難易度は客層によってそれぞれである。

 村上春樹は「ドーナツ、再び」(『夜のくもざる』平凡社)の中で次のような講演をしたと書いている(架空の講演です)。

「ドーナツが現代文学においてもし力を持ち得るとすれば、それは意識化の領域をアイデンティファイするある種の個人的収束力にダイレクトにコミットする不可欠のファクターとして……」と僕は語った。謝礼は五万円だった。

 相手構わず喋る人がいるが、未消化なままに講演が終わってはいけない。

 ある程度、時事性、話題性をもたないとダメだ。せめて「今蘇る万葉の心」みたいにするか…。シェイクスピアの劇は普遍的に見えるかもしれないが、“topical allusion”(時事的なほのめかし)というものがあって、当時の観客にとって楽屋落ちに相当するものがあったのである。

 タイムリーだったのは有田芳生の講演でオウムについての講演のその日に富山から坂本弁護士の子どもさんの遺体が発見されたので、超満員。講演で外にまで並んだのは初めてだった。押しつぶされそうになった人もいた。

 内田樹は次のように書いている。

90分一本勝負的な大ネタをかけるのは聴衆に過分な負荷をかけることになって、よほどコアなオーディエンス以外は避けた方がよろしい。
大ネタだとどうしても途中で、抽象的な概念に頼った論理的な「いのちがけの跳躍」が必要だが、よほど助走をうまくつけて、「せーの」で飛ばないと、その部分でしばしば聴衆の大半が脱落してしまう。
「テイクオフ」で搭乗に失敗してあとに置いておかれたお客さんというのも気の毒であるし、ほとんど誰も理解されない話をしているこちらも不幸せである。
だから、講演では、10分単位くらいの一話完結の「小ネタ」を五つ六つ繋ぐことにしている。
小ネタとして選定されるのは、具体的な出来事に取材した「なんとなく気持ちの片づかない話」である。
サキの短編みたいな「不思議な味わいのする、オチのない話」がネタとしては最高なので、私はいつもネタを探している。
良質のネタに出会うとネタ帳につけておいて、「いつか使ってやろう」と熟成させておくのである。

 忘れてはいけないことは学問は僕らの主人ではないことだ。エキスパートというのは専門的知識で重武装しているつもりで、足かせになっていることが多く、一つの分野に呪縛され、ひたすら何かに奉仕しているだけだ。

 知識はもっと軽やかで楽しいものである。サイードは『知識人とは何か』の中でアマチュアこそが各分野を自在に横断できて、つねにアウトサイダーとなって、みずから生きる社会を冷静に見据えることができるという。何かに全面的に奉仕するのではなく、世俗的に個人として生きる、つまりマイノリティとして生きることだと考えている。


 

●マクラ(「ツカミ」はOK?

 基本的には本題と関係ない話を「マクラ」という。評論家の小林秀雄は志ん生のレコードをしっかり聞いて講演の練習をしたという。「マクラ」が大切なことは落語も講演も寝る時も同じだ。講演も文章も始まりと終わりは飛行機の離陸と着陸のようなもので一番気を使うところだ。9・11のテロリストが簡単に旅客機を操縦できたのも、離陸と着陸がなかったからだ。

 歌舞伎などでは「埃鎮め(ほこりしずめ)」という言葉があって、元の意味は水や雨で埃を鎮めるという意味だが、芝居ではまだざわついている観客に主役を出してもムダなので、脇役などが場面にあった雰囲気作りをすることを指す。円滑な導入部があった方が親切というものである。

 最初の3分は勝負ドコロ。「ツカミ」のネタは、必ず台本にしてブラッシュアップすることが大切だ。

 アメリカには「ジョーク集」だけでなくオープニング・ジョーク集」などの本も多く売られている。最初にガツンと一発かませないと何かが始まらないのである。

 だから、あるアメリカ人は次のようにスピーチを始めた。

 日本人はお詫びで話を始め、アメリカ人はジョークで話を始めるといいます。でも、今日の話にはジョークはありません。最初にお詫びしておきます。

 なお、シモネッタこと田丸公美子さんによれば、イタリア人はスピーチの時に、無言で会場を見渡すという。女性出席者の品定めをして、あとでくどきに行く相手をまず決めてから話し始めるのだ。

 オープニング・ジョークは一つは観客とのラポール(関係性)を作ること、もう一つは互いの緊張を解くこと、最後は客層をつかむために必要だ。

 最初に「今ご紹介頂いた僕のことですが、多くの人は『どこの馬の骨よ』とお思いになるかもしれないので、本題に入る前にもうちょっとその『馬の骨』の部分を少し話しておきたいと思います」なんていって、堅苦しい講師紹介で分からないことを説明することがある。

 ラポールを作るための常套手段は田中小実昌がいうように「ご当地は死んだ女房の里」というのが正しい。殺したくない女房がいる時には親戚をうまく作る(!)ことである。家系を調べる人はいないだろうから、安心してウソがつける。または、その会で有名な人がいたら(その場合だけ)その人との関係を少し話すことだ。できれば、その人をちょっと誉めた方がいい。報酬が増えることはないが、主催者というのはいつも講師が期待通りの話をしてくれるか、観客がちゃんと聴いてくれるか、講演が成功するか、謝礼は足りるだろうか、などと気を揉むことが多い。そのねぎらいのためにも誉める。そして、ラポールをつけることが大切だ。

 ラポールといえば、ジョークなども「ある人が…」というよりは「私の友人が…」とやった方が人は聞いてくれるものである。なるべく自分と観客に引き寄せて語ることだ。

 ノーベル賞作家でもラポールを大切にする。大江健三郎が入善コスモホールで話した時、「宇奈月温泉の植生は私の田舎に似ている」とか「柏原兵三【漫画&映画『少年時代』の原作『長い道』を書いた独文学者】さんとは政治的な問題で、石原慎太郎や江藤淳のように喧嘩してしまいまして、これは彼が疎開してきた側で、僕が疎開を受け入れる側で、立場が違ったから自然なことだったと思います」というのをマクラにした。極めつけは「コスモホールの設計者の大江さんには一度お会いしたことがあります。中学の頃、“大江匡房”のすごさを知って、母親に、うちも大江匡房の子孫かもしれないね、といったら、みんなの目の前で“大江匡房が学者だった頃、うちの先祖は裏山でサルをしていた”と笑われて、ショックだった。でも、大江さんは本当に匡房の末裔なのです」などと念を入れたことだった。

 間違ってはならないことは講演の依頼の過程を長々と話すことで、文章でも同じである。「このテーマについてはとても私が話せるものではないのですが、1ヶ月前、電話がかかってきまして、その電話の内容がかくかくしかじかで、どうしても〜」などとやる位なら講演も文章も止めた方がいい。最初から言い訳していいわけがない。

 大切なのは観客とこの講演が無関係ではないという気にさせることだ。この講演ではあなたの運命が語られる、という位の脅しが必要だ。

 緊張を解くためにもジョークは必要で、もし、最初に笑わせなかったら、後のジョークが全て笑われずに終わるという悲惨な結果を生むことになる。どんなに笑わせようとしても、本気にしてメモに取る人がいる。「今のジョーダンですから……」といっても笑わない(で必死にメモを取る)。

 学校でも初めてのクラスは緊張する。馬鹿だと思われるのではないか、つまらなくて寝てしまうのではないか…。

 妻は全くあがらない人間なので羨ましい。対人恐怖症気味なのに、大舞台はあがらない。人が多いほどいいらしいからビョーキだ。

 手に「人」と書いて飲み込めばいいと言われていっぱい飲み込んだらお腹が痛くなった。

 お酒を飲んで気を大きくして始めたら人が二重に映って、二倍いるように思えてよけいあがってしまった。

 観客をジャガイモだと思え、と教えられて試したが効果はなかった。その代わり、スーパーに行ってどきどきすると思ったら目の前にジャガイモがあった…。

 しかし、観客をジャガイモだのキャベツだのと考えろ、というのは観客を見ていないのである。実際に話し合わなくても観客と目で対話しているような講演だったら大成功だ。

 NHKのアナウンサーに聞いた話では、深呼吸するより、息を3回ほどゆっくり吐いた方がいいという。これは実践している。

 しかし、アガルのは日本人だけではない。英語でも“stage fright”という言い方がある。ギリシャ時代でもソクラテスがアルキビアデスを励ましたこと、という話がアイリアノスの『ギリシア奇談集』にある(クセノポン版ではカルミデスとなっている)。アルキビアデスという若者が議会で演説することになって、心配していたという。そこでソクラテスが激励した。先ず靴屋の親父を指さして「君はあの親父を馬鹿にしているだろう」というと若者がうなづく。今度は「あそこで叫んでいる触れ役のことも、それからあちらのテント屋のことも、見下しているだろう」といった。若者がうなづくとソクラテスは「アテナイの議会というのはあの手の連中の寄せ集めじゃないか。一人ひとりを見下しているなら、寄せ集めだって見下さなくちゃいけない」と説得し、アルキビアデスは元気になったという話である。

 オープニング・ジョークですぐに反応があれば、その後はぐいぐいジョークで押していっても構わない。受けなかったら、ちょっと控えめに話す。それでも反応がない観客(学生もだが)ほど話し手泣かせの聴衆はない。

 板東英二は富山で話す場合、「蜃気楼旋風」と呼ばれる魚津高校との延長引き分け再試合で勝った時の話から始める。「勝ったのは私なんですよ、でも翌日の新聞には“一輪の村椿落つ”なんて書いてあって腹が立ちました」(村椿というのは魚津の投手)なんて話をする。

 丸谷才一は「私は日本三大音声(おんじょう)と呼ばれているくらいでマイクもいらない」なんて始めていた。

 おすぎとピーコのピーコはちょうどエイズと同性愛の関係が疑われている時に、「今日も電車の中でエイズだ、エイズだといわれまして、みんな逃げて行くんですよ」というマクラにしていたが、ちょっと寂しそうだった。


 

●サワリ(これだけあれば…)

 サワリというか「聞かせどころ」が最も重要である。元々、義太夫などで「一曲中で眼目とする、聞かせ所」という意味で使われていた。帰ってから観客が他人に内容を話せるような「お土産」が必要だ。ちょっとだけ相手の役に立つ話ということである。

 弁論大会の指導をすることも多いが、弁論の場合(多くは)7分間の短い間に、このサワリをどこにどう入れるかが最大の問題となる。

 歌舞伎で言うと「見得を切る」ことだ。元は「最高潮に達した場面であることを示して、役者が目立つ表情・動作をすること」であるが、フリをつけることはない。論理の階段をずっと上まで上がることである。しみじみとした話を聞かせて、一挙に結論まで行ってしまうことだ。具体的で、人との出会いとか、自分が感動した話を入れる。なるべく最後に持ってくる。

 例えば、板東英二は「超二流への道」という講演の中でサワリを次のように展開する。

 自分は長嶋や王よりも多くの契約金をもらって入団した(ここのところ細かな話を連ねる)。

 ところがプロになってから一流だと思っていたのに、努力もしているのに「本能」だけで打ってくる長嶋のような、ごくごく一部の「一流」の選手にバカスカ打たれた。

 自分は「一流」ではない。だから別の生き方を見出そう。それは「超二流」の生き方で、二流の中で輝いた人生を送りたいと思った。

 サワリがいくつ必要かは時間によって決まる。90分だと3つ〜5つほどだろう。あんまりこてこてでも相手は疲れる。

 もう一つ、専門用語で「じわ」というのがある。「じわじわ」から来ていて「劇場で、クライマックスや入神絶妙の演技の直後に、観客が詰めていた息を一斉に吐くために起こる低いどよめき」のことをいう。

 講演にも演劇的知というものが必要である。


 

●サゲ(地口落ちは止めよう)

 余韻が残る講演は、シメの話がうまいもの。3分くらいのシメトークを必ず用意する。シメをしっかり言えれば、その直前ははしょってもいいので、時間調整ができる。

 科学的な講演の場合は結論は決まっているが、サゲというかオチというか結論がなければならない。

 オチを“地口落ち”つまり、シャレでやってしまうのは危険だ。内容も濃い僕の話(ウソ)でさえ、最後に駄ジャレで終わると信用されなくなる。

 しみじみとした終わり方がいいみたいだ。年下の人が多かったら励ましもいい。

 「これからは君たちの時代です。これからの君たちに期待しています」なんてね。

 サゲに至るまで、どこかで伏線が必要だ。マクラの中でさりげなく伏線を張るのがもっとも効果的かもしれない。

 大江健三郎は「<人間らしさ>再考」などといって、自分は「想像」を文学に生かす取り組みを続けてきたが、光さんの障害は「自分
が想像できなかったことだった」などとマクラで話し、最後に次のように締めくくった。

 伊丹十三が亡くなった時、妹で光の母である妻は非常に悲しみまして、週刊誌の広告を見る度に泣きまして、私も出版社の社長に「あんな週刊誌は廃刊にしてくれ」と頼んだくらいなのですが、それを見ていた光が慰めるための曲を作りました。それが“I.T.A.M.I.”というのですが、ローマ字にしたら、週刊誌と違って“伊丹”という名前は分からないだろうと本人は暗号だと思ってつけたのです。障害を持つ人間は表現ができなくても、苦しみがあり、それを乗り越えて生きています。弱い人間の『人間らしさ』が生きる社会こそ、上品で“decent”な、誇らしい社会です。


 

●資料(簡単な資料を用意)

 有名タレントでもない限り、簡単な資料を用意していった方がいい。

 観客は何かもらうと嬉しいものである。たとえ、一枚でもいいから用意すること。

 レジュメにしてしまうと、まるで電車の運転手になったようにメニューをこなしていくような講演になってしまうので、止めた方がいい。むしろ、読む必要のある、一部の資料の切り張りコピーを用意することだ。

 例えば、言語学の国広哲弥先生(綺麗な字で書いてある)や哲学の丸山圭三郎先生はいっぱいの資料を抱えて授業に来られた。人数分を用意するだけで僕は嫌になるから人間性が全然違うと思った。


 

●AV機器(頼りすぎるな)

 AVやパソコンを使ってプレゼンをすることは僕自身は稀である。苦手ということもあるし、場所によって準備が大変ということもある。学生がパワーポイントを使って発表するようになると内容が薄くなる。キーワードを並べるだけになったり、ちゃんとした論理展開ができていないのに、スライドをパッパッと変えて誤魔化されてしまう。

 やっぱり、言葉で勝負しないと!と慰めることにする。

 実際、そういうプレゼンを受けると、僕自身白けてしまう。パワーポイントのこの機能を使ったな、なんて興味が横に向いてしまう。面白がっているのは本人だけだ。パソコンを使うと聴衆を見ないでパソコンの操作の方に気が回り、臨機応変の話ができない。何よりもパワーポイントを使うと、話の流れがみんな同じになってしまうという悪い点がある。

※実際問題としてパソコンを使う時は自分のパソコンを持参した方が危険は少ない。バージョンが違うと受け付けないことが多いからだ。

 ただ、視覚情報は言葉の情報などよりもずっと心に残る。高岡市出身のロバートソン黎子は『戦火の勇気』という映画の前に日米文化を比較するのに歌と共に第九の歌詞、正信偈(しょうしんげ)、映画のセリフなどをパソコン画面で出して語ったのがとても印象的だった。最後に「個人主義万歳、高岡万歳!」で終わったのにも驚いた。

 時折、板書することも大切だ。話がずっと続いていると飽きるからでもある。

 そういえば、記号論の池上嘉彦先生は黒板にしがみついているように話される。先生くらいになればいいけれど、僕のような教師だと蔭で何をされるか分からないし、後ろから刺されそうだ。

 難しい漢字やキーワードを板書する。ただ、間違うと教養が疑われるので、自信がなかったら最初から書かない(失敗を防ぐためにメモにしっかり書いておく)。

 山口昌男のようにマンガが描ければ最高。

 歌を歌うことも効果的だ。授業で時々、ワンフレーズを歌うが美声?もあって好評だ。

 バイオノートが出たばかりの頃、ソニーのデザイン室のことに言及したかったのと、ホームページの実際を見せたかったのと、(本当は)バイオを持っているだけで自慢したかったのとで観客に回したのだが、途中でくちゃくちゃに色々なファイルを開かれてしまった。

 挙げ句の果て「これ、熱くなってますが大丈夫ですか」とか「もらっていいですか」といわれてメマイした。


 

●ユーモア(多く笑わせたら勝ち)

 ユーモアはコミュニケーションの潤滑油である。講演にジョークというかユーモアがないと観客は飽きる。何しろタダなのだから元を取ろうという気にもなってない。この地獄から早く逃げたいと思っているだけかもしれない。

 笑わせるだけ笑わすことができれば大成功だ。高校や大学の先生の授業の内容は忘れていて、しっかり覚えていれば大学者になったかもしれないが、ジョークだけ覚えている。

 謹厳で知られる僕が授業で冗談を言うようになったのは一駒90分を保たせる工夫だ。合間のCMタイムのようなものである。シェイクスピアの悲劇でもコミック・リリーフと呼ばれるお笑いが必ずある。メリハリをつけるためでもあるが、笑いがあるから悲劇がより深くなるのである。

 ユーモアは心のゆとりである。ロンドンが空襲されてデパートが壊れた時に「本日営業します。門を広くしました。」などとできるのはゆとりである。

 「遊びはゆとりであり、ゆとりはその国の文化だ」という言葉があるが、「ユーモアはゆとりであり、ゆとりはその人の教養だ」といいかえてもいい。

 板東英二は見事だった。丸谷才一もユーモアに富んでいた。

 さだまさしは音楽家にしておくのがもったいないくらいで、噺だけで何冊も本が出ている。あれだけにネタをもっているというのはすごい。

 仏文学者の河盛好蔵の「エスプリとユーモア」(同名の岩波新書もある)という講演を聴いたこともあるが、ユーモアもエスプリもなかった。ユーモアを語ることは難しい。

 駄ジャレは講演用ではない。「ちゃんとキケロの話を聞けろ」とか「『オセロー』の中に嫉妬を『緑色の目をした怪物』なんてイアーゴーがいいますが、緑色だなんて学生時代には“しっとも”知らなかったので先生にちゃんとオセローなんて言いました」なんて、人格を下げるだけである(十分下がっていたりする)。駄ジャレで誰も笑ってくれない。笑わないから新しい駄ジャレをなんて、悪循環に陥るだけである。

 駄ジャレばかり言っているとしまいには笑われてしまう。

 最悪の駄ジャレを飛ばす人もいる。「迷う方の“迷人”です」とか言ったり、「この紙上講演は“至上の講演のために”というもので、最初の“しじょう”は“紙の上”で二つ目は“至るに上”です」なんて駄ジャレを説明するようになったらお終いだ。笑いは説明ではない。

 ユーモアには文法があって、きちんと教わらなければならないのに、誰でも簡単に言えるものだと誤解されている。だから不用意にユーモアのつもりで、言い過ぎてしまうのである。

 講演が成功するためにはどのユーモアが受けるか、早めに客層をつかまなければならない。

 ユーモアには共通の教養が必要だ。僕のが「親父ギャグ」なんて学生たちにいわれるのは教養というものの内容や質が違うからである。と慰めている。

 アメリカのアカデミー賞授賞式を見ているとみんなスピーチが上手だ。ショーとなっている。一番好きなのは『スターウォーズ』の年にボブ・ホープが司会をしていて、「今日はいっぱいの俳優・女優さんが集まっていますね。これがホントの『スターウォーズ』」なんていったことだ。

 彼らにはちゃんとしたライターがいるし、クリントン大統領にもギャグ作家がいる。アメリカでは昔からクロケット・オルマナックというジョークを書いたカレンダーが売られていたくらいだ。

 何か気の利いたことを言わなければスピーチではないとアメリカ人は思っている。日本人はジョークをいうと人間性が下がると錯覚し、祝詞のようなスピーチを続ける。

 他人の下手なスピーチを聞いていると頭の悪さに同情すると同時に、直したくなる。直すとどれも5分の1の短さになる。それほど内容がない。ないならスカート同様、短い方がいい。

 ある学校の校長は卒業式で20歳の卒業生に向かって「失敗は成功の元」という言葉で何かを説明しようとした。おいおい、今更、何を言うんねん、と聞いている方が赤面してしまった。

 ジョークはタダではない。仕入れにお金も時間もかかっている。だから聞く方もお賽銭をあげる気持ちで聞いていなければならない。主催者も「今日はギャグが35個もありましたから講師料は35000円増しです」なんて気持ちにならなければならない。

 それを「寒い!」なんていうのは言語道断だ。誰か「暖めてあげようか」といえばいいと書いていたが、それこそ親父ギャグである。

 どうか講演中に感動したら、“おひねり”というか投げ銭して下さい。金属のコインは危険なので、お札で、よかったら飛行機なんかにして…。

 笑いを取るときには絶対に自分が笑ってはいけない。バスター・キートンみたいにポーカーフェイスで笑わせなければならない。ただ、時々、ひどく受けたりすると笑いが止まらなくなって困ることがある。

 おかしな人間がおかしなことを言っても当たり前だ。僕のような真面目な人間がおかしなことを言うから活きるのである。

 やってはいけないことは漫才と同じく客をいじること(観客に色々と言ったり、質問して遊ぶと浅薄な内容だと思われる)、下ネタを話すこと(どんなに上品にやっても軽蔑される)、楽屋オチになること(舞台裏を話す)である。

 駄ジャレも含めて、こんなのは4,5人で飲んだ時に交わす密室のコミュニケーションであって、講演などの開かれた場所でのコミュニケーションではない。

 ええっ、このエッセーは舞台裏を書いているから楽屋オチと同じだってぇ…。


 

●仕込み(たっぷりと、でも捨てることも大切)

 話す内容を全てプリントしてもってくる講師がいる。例えば、座談の名手とされる丸谷才一でも、大勢の前でまとまって話す時はきちんと文章を書いてきて、時折それに目を走らせながら話す。

 僕にはそんなに立派はないので、メモを用意するだけにしている。

 僕の場合は、全体の流れとその場にいうべきジョークのヒントを書いておく。せっかく用意したジョークを話さない手はない。

 ところが、うっかりと忘れて次の項目へ行ったりする。何とか元に戻ろうとするのだが、流れを考えるとムダにしてしまう。

 昔はカードを使っていた。一枚は流れを書いたメモ、その他はカード専用のクリアファイルにいれて順番に使えるようにしていた。

 人類学者の山口昌男はカード派なので、机の上にトランプを広げるようにカードを広げて講演をしている。その方がカードの一部を使って話していくのでいいと思うが、問題はどこに何が書いてあるか詰まってしまった時である。「ええぇ…」などといって“歌留多取り”するのはあまりかっこのいいものではない。

 あんまり準備しすぎると時間が押していても全部喋らなければならないと思うのは危険である。飛ばしても要旨が伝われば十分だ。

 ただ、講演が多い人は当然、特別の準備もできないし、また、聴衆の様子もつかめているので準備は不要だ。『現場主義の知的生産法』(ちくま新書)の関満博は全く準備をしないという。ただし、関には話の引き出しがいっぱいあるから僕らには参考にならないかもしれない。

まず基本は「できるだけ『平明』な組み立てと、話し方にする」「一つでも『記憶』に残る話を提供できるように努力する」「聴衆に『希望』と『勇気』を与える」を心懸けている。そのためには、できるだけ臨場感のある「ごく最近自分の経験した『現場』の話を適宜入れる」ことに努めている。

 場合によってはぶっつけ本番で話す方が話が生きてくることがある。ジャズのようにインプロビゼーション(即興)に走るのだ。カチンと決めてしまうと講演も女性も面白くない。ちょっとくだけたスタイルがいい。例えば、河合隼雄は『「出会い」の不思議』(創元社)の中で「その場の真実」というものがある、と書いている。

せっかく足を運んでその場に来られたのだから、書物とは異なって「その場の真実」を伝えられるような話し方が必要ではないか。このように思うので、私は講演というときはだいたい何も準備せずに行くことにしている。聴衆を前にして話し始めると、聴衆から反応があり、それによって話がどちらへ行くか分からない。この方法は、スリルもあるし、聴いているほうも面白いではないかと思う。ただ、書物のときのように、全体的な構成や、まとまりという点では欠けるところが出てくるし、誤解も生じやすい。しかし、まとまった知識を得たいのだったら、本を読まれるといいと思う。たくさんに本があるのにわざわざ会場に来られたのだから、やっぱり少々は穴があいていても、なまの感じの伝わるほうがいいのではないだろうか。

 内田樹も朝日カルチャーセンターで講演した時の口述を見直して次のように述懐している(日記から)。

いつも、ろくな準備をせずに会場までよたよたとでかけ、聴衆のみなさんの前で絶句の危険におびえつつ、その場で思いついたことをとにかくしゃべって90分間つなぐ、という綱渡り的レクチャーである。
これが、面白い、やっぱり。
今読み返しても、どうしてそんなトピックを思いついたのか、その理路が見えない展開になっている。
だから、一望俯瞰的な視点から論旨を整えるというより、そのときの思考の回路にもう一度憑依して、「なるほど、ふーむ。で、この前振りをどうやって落とすんだろう、こいつは?」とけっこうわくわくしながら読み進むことになる。
案の定、話を振っただけで、「落ちない」箇所が散見される。
まあ、そういうこともある。それはそれで、笑って読み流して頂きたい。
読み返してみたら、けっこう面白かった。かなり面白いというか、めちゃ面白いと申し上げても過言ではないのではないか。

 僕ら素人にはスリルがありすぎる!

 同じように「その場で思いついた話」と「かねて用意してきた話」を聞き分けるにはコツがいるという。

分りやすい指標は「その場で思いついた話」は「くどい」ということである。
「くどい」というと語弊があるが、同一のテーマが繰り返し形式を変えながら演奏されるのである。
それは山登りにも似ている。
登り道は山の周りをスパイラル杖にくるくる回っている。
だから定期的に「同じ景色」が見える。
「なんだよ、さっきと同じ景色じゃないか」と文句を言ってはいけません。
実際にはぐるぐると回っているあいだに高度は少しずつ上がっているのである。
そのうちに気がつくと、「同じ景色」だったはずのものがまるで「違う景色」になってしまうのである。
自分のゲラを読んでいても、その場で思いついた話はくどい。
同じことばが何度も繰り返される。
酔っぱらいが、カウンターで同じ話を最初から最後までもう一度繰り返すのとちょっと似ている。
あれは自分の話に本人が「感動」しちゃっているのである。
いい映画を見ると、もう一度はじめから全部見直したくなるのといっしょである。

 話は違うが、観客の中にメモ魔がいることがある。

 全て書き留めていく人がいる。僕の母親がそうで、手帳を見ると行かなくてもどんな話だったかよく分かる。

 でも、報告書を書く人以外は、実際にその後の活動に利用している人は少ないのではないだろうか。

 情報が多い、知的な講演でないかぎり、その場限りの出会いを楽しみたいと思うのだが…。

 笑って楽しければそれでいい。それ以上の情報は著作があるし、ホームページがある。

 仕込みといえば、早めに行って全体の予習をしておこう、というのも危険である。

 事務局に入った途端、色々な人から挨拶されて(中にはわざわざ応対係を決めている団体もある)、何もできずに演台に向かうことになるからである。

※僕の時は放っておいてくださいね。

 それでもスピーチに自信がない人はリハーサルをしよう。家族の前でもいいし、同僚の前でもいいだろう。

 僕の場合は、講義中にこっそり一部を使って練習してしまうことがある。

 ある時、しっかりと仕込みをして、出かけたのだが、草稿を忘れてしまった。メマイだったが、そこは器量?で突っ走った。


 

●口調(ゆっくりと落ち着いて話す)

 自信たっぷりに、ゆったりと話すことだ。話の主導権はこちらにある。教育実習の時、「ここは付属高校であなた方よりも賢い子がいっぱいいます。ですが、答えは、主導権というか、ゆとりはあなた方にあるのですからしっかり教えて下さい」と言われた。

 立て板に水、という感じで話すのが、東大の学長・蓮實重彦で映画解説の時は寝台特急のようによどみなく話す。見事である。初めて見た時は美人のフランス人の奥さんを連れてきていて学問を積むことの大切さが身にしみた。僕も妻を自分の講演に連れていくことがあるが、外山滋比古は『お山の大将』(みすず書房)の「旅の恥」の中で「(細君をつれてきて、平気で話をする)その気、その神経がわからない」と書いている。終わってから悪い所は直してもらえるし、他人に初めて話すことは妻にとっても初めて話す内容だから、ちっとも奇妙ではない。そんなつまらないことを言っていたら、声楽家の妻をもったらコンサートに行けなくなる。

 ゆったりとした、訥々(とつとつ)とした口調で楽しめるのが水上勉である。

 賢そうな口調は森本哲郎である。弟の森本毅郎アナそっくりだ(3兄弟は有名)。

 大江健三郎は少し吃音になるのだが、そこが知性なのかもしれない(イギリスでもインテリは吃音の傾向がある)。当たり前だが、小説よりは講演の方が分かりやすい。 

 テレビで聴いただけだが、アンチロマンの旗手のアラン・ロブ・グリエの講演も内容も話し方も立派なものだった。

 井上靖の講演を聴いた時はもう既に天然記念物を見る雰囲気になっていたが、立派だったことだけは覚えている。

 淀川長治の講演は映画のシーンを一人で語るところが口承文学のようになっていた。

 歴史家の羽仁五郎(映画監督・羽仁進の父)はアジテーションがうまいのでそのまま革命に行きたくなるという話だったが、聞いたことがないので革命家にならずにすんだ。

 森繁久弥だったか、徳川夢声だったか、芸について「自分と同じぐらいのうまさと思ったときは相手の方が数段上」と言っていたから、すごい人たちに勝とうと思わないことだ。

 僕らは彼らのような語り部にはなりえない。そんな饒舌を求めてもダメだ。バスガイドみたいなしゃべり方になったらおしまいだ。

 内田樹は3時間半の講演を頼まれたことがあるという。3時間半!

ふつう人間が耐えることのできる講演時間は90分が限界である。
それを超えたらどれほど話題が興味深くても人間は寝てしまう。
もちろん、聴衆を覚醒させ続けるためには、それなりの技というものがある。
「声のピッチやイントネーションを絶えず切り替える」「話題のたびに別人格に憑依する」「壇上で挙動不審なふるまいをする」などがそれである。
今回は3時間半ピンの話芸であるので、やむなくそれらすべての必殺技を駆使することになる。
とりあえず、いちばん簡単な「挙動不審の人物を演じる」から入る。
これは私自身が布教使のかたがたからははなから「誰だろ、こいつは?」的な怪しい人物に見えているはずなので、普段通りふるまっているだけで、十分な挙動不審性は確保できるのである。
挙動不審の次には、「何を言いたいのか聞いてもよくわからない」という技を繰り出す。
これも私の得意技である。
人前で話す機会のあまりない方はしばしば誤解することであるが、聴衆の関心をある程度以上長い時間ひきつけ続けるためには、理路整然、口跡明瞭、言いたいことがきっちり伝達されるような話し方をしてはいけない。
一つ一つのセンテンスは統辞的に明瞭であるにもかかわらず、あるセンテンスの次にどういうセンテンスが続くのか、まったく予測できないような乱数的コンテクストを展開することが必要なのである。
「別人格への憑依」は言い換えると「物まね」である。
子どもの話をするときは子どもになってみせる。おばさんの話をするときはおばさんになってみせる。
声色をかえ、しなをつくり、壇上を歩き回り、ガンを飛ばし、つばきを飛ばし、しゃがみこみ、飛び上がり・・・いろいろな人物を演じ分けてみせる。
手持ちの秘技を次々と繰り出しているうちに、ついに手札が尽きたころに、なんとか予定の3時間半が終了。
やれやれ。

 田中角栄の演説は面白いしリズム感があったし、説得力があった。家に帰ってから、あれ、おかしいなと思ったりするのだが…。娘の眞紀子さんもうまいが、演説が上手になるにはいいDNAに恵まれないとダメだ。きっと。

 親を選べなかった僕たちは、せめてしっかりと伝わるように「あえいうえおあおあいうえお、かけきくけこかこ……」と発声練習をしてから講演に向かうのである。

 間が大切なことはいうまでもない。もっといえば、会話にリズム感が必要である。

 講演を聞くことは絶対にないが、どうしようもなく話下手だと思うのが、英語学者の恥、渡部昇一である。文章に論理はないし、品位もなく、内容も空疎で、どうしようもないのだが、話す口調はもっと最低である。ぼそぼそっと話して、満足していて実に気持ちが悪い。

 でも、右翼の中にはヒトラーのように演説に長けたのがいるから気をつけなければならない。ヒトラーは単純なことを繰り返して人民の心に忍び寄ったのであった。

 僕は早口になってしまうので、失格だ。知的な集まりにはそれでもいいが、講演はゆっくり、しかもリズム感をもって!

 ぼそぼそっと話す人がいるが、哲学者でない限り、講演は止めてほしい。

 適当な間合いも必要だ。観客に考える余地を与えることだ。

 喋らない時間を作って、「どうしたんだろう」と顔を上げさせることも大切だ。昔からこれを「頓絶法」(とんぜつほうaposiopesis)といって一つのテクニックになっている。「いや、それは……」とか「まあ、そうですが……」などである。

 ハイドンの「驚愕」のように急に大きな声を出すのもいいかもしれないが…。

 上智大学の元学長ヨゼフ・ピタウさんの講演では、日本を離れて日本語が上手ではないこともあったのだが、ゆっくりとゆっくりと話されてすぐに眠ってしまった。

 あんまり心地よくしゃべるのは止めよう。

 妻は朗読が上手なだけあって講演もうまくて、勝てそうもない。つまってきたら「では、歌にしましょう」と逃げることも知っている。

 そういえば、フランスの女優のジャンヌ・モローの講演をテレビで見たことがあるが、講演の途中で「つむじ風」という歌を歌ってみせたり、サービス満点だった。

 歌手の藤山一郎の講演も右翼的な言動には辟易したが、ちょっと話すと歌が入って得をした気になる講演だった。

 われわれ大衆はちょっと得をした気持ちになりたいために講演に行くのだ。

 腹の得になるのが栄養なら、心の得になるのが教養というものなのである。

 すると、頭の得になるのが大学の講義のはず…。


 

●スタイル(コツで賢く見せろ)

 ここまで書いていいのか分からないが、賢く見せるコツがある(「お前はそう見られていない」ってぇ?!)。

 人生には、講演には「演劇的知」というものが必要だ。

 例えば、講演の前の予習で『ローマの休日』は1951年の映画だと言うことが分かっていても、「えぇと、『ローマの休日』が作られたのは何年でしたっけ、そうそう、確か1951年の映画ですね。この年って〜」というように思い出したように見せる。ギラギラを見せたら、講演も恋愛もうまく行かない。

 僕はやったことはないが、ふっとため息をつくのも効果的かもしれない。

 話が脱線していって、(ちゃんと分かっているのに)「う〜ん、そうですねぇ」とか「えっ、どこまで話をしましたっけ」なんていうのも、「ああ、この人は賢すぎて発想が飛んでしまうのだなぁ、凡人とは違うなぁ」と思わすことができるかもしれない(多用するとタダの馬鹿だと思われる)。

 誤魔化し方もいろいろあって「この問題は学者によって扱いがさまざまで、僕個人とすれば…」というのが一般的だ。言語や文化の多様性を前にすれば、真理なんてないに等しい。

 読み方とか分からなくなったら二種類とも話して「まあ、どちらの言い方もしますが…」と誤魔化す(大体、「誤魔化す」というのも「護摩」から来ているから「護摩化す」が正しいはずだ)。

 いざとなれば「真理は何も一つでなくてもええんや」などと話す。

 方言で思い出したが、京都弁を使うと説得力がある。共感を呼ぶらしいんや。

 富山弁で話す講師も知っているが、大衆に媚びている感じで野卑だし、僕は好きではない。方言は嫌いではないが、密室向きの言語であって、開かれた言語ではないと思う。

 スタイルというともっと楽な形のもある。杉浦日向子は友だちというアナウンサーを連れてきて、トークショーという形を取っていた。河合隼雄もNHKのアナウンサーを東京から連れてきて、相手に質問をさせたり、絵本を読ませたりして進めた。しかも、フルートの演奏まで付けていた!

 講演にメリハリをつけたいときは、「クイズ形式」にして、聞き手に質問することも大切だ。

 コミュニケーションには言葉だけでなく、体を使った“physical skills”とか“presentation skills”というものがある。

 例えば、“catch a pair of eyes”という手法がある。聴衆の一人ひとりを(実際には特定の多数の)目を見て、5秒間話す。話の途中で目を動かさないで、区切りのいいところで一段落した時だけ、目を動かすといいと言われる。

 流し目で有名な杉良太郎は場内で3人位、どちらかというと美人でないほうを選んでじっと流し目を使うと「ああ、杉さまは私だけに…」という気になるという。

 僕がやったら、目にゴミでも入ったのかと思われるのがオチであるが…。ただ、目をこれほどコミュニケーションに使えるのは人間の特権である。ゴリラの赤ちゃん以外の動物には白目がない。人間は白目があることによって黒目で見ている方向を示せるのだ。

 アイコンタクト(視線の交差“eye contact”)で一言付け加えておけば、対人コミュニケーションでは視線が重要な意味を持っている。相手を見つめることを注視(gaze)といい、互いに見ることを相互注視(mutual gaze)という。そして、これらを称してアイコンタクトというのだ。北アメリカの中産階級などでは相手の目を見ないで話すのは、関心がないか、隠し事があるととられることがある。だから「話をするときは相手の目をみる」よう親や教師から教えられるのである。

…ところがこれが本気でやると、思いの外ドキドキする。じっと見つめ、見つめられているうちに、妙な気分になるのである。

 なにしろ相手はたいがい、マッチ棒が数本乗りそうなほどの長いまつげと美しく大きな瞳をしておられるのだ。それが若い男性だったりした日にゃ、心が動揺するのも無理はないでしょう。そんなつぶらな瞳を間近にしていると、そのうち何を話しているのかわからなくなって、答えは上の空。じっと一点に集中するあまり、涙まで流れてきて、勘違いされることはなはだしい。そこで何も起こらなかったのは、喜ぶべきか悲しむべきか、しかし悪い気分ではなかった。
     -----阿川佐和子「東京の目つき」(『いつもひとりで』大和書房)

 日本や他のアジアの国、そしてネイティブ・アメリカンでは失礼になることだから、アイコンタクトについて誤解や摩擦に発展することがある。

 「どこを見て話していいかわからない」時は一生懸命聞いている「うなずきくん」を探す。会場の前の方に必ず数人はいるはずである。

 講演での引用は少しならいいが、講演の間中、「ゲーテ曰く」なんてやっていたら、イヤミになるし、「コイツは自分の考えがないのか」と思われる。「ゲーテの語らなかった真理は一つもない」といわれているくらいだから、ゲーテに頼ってはいけない。どんなに立派な言葉でも自分なりに咀嚼して、自分の言葉として語った方がいい。

 オペラ歌手の錦織健は「まあ、こんなこと言っていていいのかな」と自分を反省しながら講演していた。「ええー」などと何度も言うし、語り口調は上手ではないが、喩えが面白くて「オペラは昔のミュージカル、ミュージカルは今のオペラという気持ちで観てもらいたい」とか「元老院って煩いじいいの集まりですね」とか「『ポッペーアの戴冠』は高校生にはちょっと激しい話が多くて、でも、土曜ドラマとか小柳ルミ子の話に慣れていたら大丈夫ですね」などと話す。

 質問を受けた時もたじろがないことが大切だ。定義を相手にさせるのである。つまり、「西洋音楽っていつからあるんですか?」と聞かれたら、「西洋音楽ってどういうものを指しておいでなのでしょうか?」といって、「ベートーベンとか…」と言われたら、「いわゆるバッハやベートーベンのような音楽は〜」と始める。それでもダメだったら「定義によりますねぇ」と逃げる。

 プルーストが『サントブーブに逆らって』というエッセーの中で「人の美しさ」というものはない、ただ「美しい人」がいるだけだ、と書いている。定義をどんなにしてみても本当の美しさから離れていくだけである。定義の虚しさを知らせることが大切だ。

 もっと逃げる場合は、最初から「えぇっ、この問題には専門家ではないので何ともいえませんが、私の考えでは〜」と逃げる。間違っていても答えを出しておいた方がいい(学者の良心は別の所で使おう)。錦織健も「オペラの話をしますが、私は評論家でもないし、大学教授でもありません」と逃げを打っていた。「オペラにやたら詳しくて知識をひけらかす人がいますが、それが何になるのでしょう」と批判もしていた。こう言っているのに質問で「『ポッペーアの戴冠』がイタリアオペラではどんな位置にあるのでしょうか」と質問をしている馬鹿がいた(答えは「レコード屋さんでもオペラではなくバロックのところに入っていることがある」だった)。

 ま、僕の場合は他の分野の質問だと逃げられるし、英語の話をされると言語学だからと逃げて、言語学の話だといわれると、言語人類学の方が専門でしてと逃げて、言語人類学の話ですといわれると、三流の学者ですからと逃げて……(そこまで追いつめて来る人はいないが)。

 藤原正彦は講演を元にした『国家の品格』(新潮新書)をベストセラーにしたが、米原万里はこれを評して「論理の世界の住人である数学者が、先進国で進行する荒廃の根源を、近代的合理精神の破綻と偽善だと見抜いたのが面白い。『女房に言わせると、私の話の半分は誤りと勘違い、残りの半分は誇張と大風呂敷』と断りを入れることで、過激に語りまくる権利を得たのがうまい!」と絶賛していた。

 箇条書きにしたり、理解しやすいように分類することも賢く見せるコツである。

 質問を受けると、「その問題には3つに分けて考えられます」なんてとりあえず言う。3つが4つになっても「そうそう、もう1つありましたね」なんて付け加えればすむ。

 こんな小手先の賢さでは僕のように、すぐに化けの皮がはがれるが…。

 服装について。村上龍ははっきり「私は見かけで人を判断する」といっている。僕はあまりスタイルにこだわらない方だが、観客になめられない格好が必要だ。どの場面にもふさわしい格好が存在する。

 ある女性は年長者の多い講演では淡いグリーンなどのスーツにしておじさんたちに「娘みたい!」と言わせ、若いOLの多い講演ではニューヨークのキャリア・ウーマンのスタイルで出かけるという。

 斎藤茂太は『口のきき方私の人間学』(三笠書房1995)の中でベストドレッサーとベストユーモリストに必要な条件は同じで次の通りだという。どちらも「私を見てください」という気持ちが大切なのである。


 

●時間(時間泥棒にならないように)

 2000年の8月、富山出身の綿貫衆院議長が国連でスピーチをして長いので国連の議長から降壇を命令されてしまった。5分なのに6分だと思っていたというが信じられないことである。相手構わずに話すという日本人の悪い癖が出てしまった。自己中心ではスピーチをする資格はない。

 井上ひさしは時間を無視して、ずっと話し続ける。面白くて本人も止まらなくなるからいいのだが、僕らがやったら石が飛んでくる。石が飛んでこなくても靴くらいは飛んでくる。

 昔は「もうちょっと」と思わせた方がいいと考えて、5分ほど前に終わったが、主催者が「それではちょっとお時間が残っていますので、先生にご質問は?」と言ったりするので、きっちり終わることにしている。

 大体、10分から5分ほど前に時計を見て、「もう×分ですね」といって終わりの予告をしておく。ゴールが見えると相手も安心できる。

 多くの講演が1時間から1時間半といわれる。僕らの授業の1駒分だが、1時間も保たない観客が増えている。映画だって1時間50分が緊張の限度のように講演だと50分というものだろう。融通がきく催しだったら、特に若い人相手だったら「50分ならOKです」と主催者に話しておいた方がいいかもしれない。

 時間を超過する講師は最低だ。観客にも主催者側にも時間の都合がある。そういう講師に限って途中退場する人を咎めたりする。

 そんな人は時間の配分ができていないのだ。大まかなタイムスケジュールをメモに書いておいて、時間調整しながら話さなければならない。

 100人の観客がいて10分の超過だと1000分の「時間泥棒」だ。

 逆に追加料金をもらいたい、というほどの講師には出会ったことはない。

 講演と違って講義の場合、松本克己先生を始め、恩師の中には永遠に話し続けてほしい、という先生が多かった。

 理科系の発表はもちろん、違っていて木下是雄によれば10分の講演なら目的を1分内外で言って、後の9分を序論、研究方法、結果、論議(考察)の4つに公平に割り振って話すのがいいそうだ。

 勤務校の文化講演会で南日という筑波大の元の副学長が「技術と海のロマン」という話をしたのだが、僕でさえ知っている話ばかりで、全然面白くなかった。学生が静かなのでどうしたのかと思ったら、12月になっていて寒くてみんな冬眠状態になっていた。もう終わるかと思った矢先に「富山湾では……」と始まり、学生がみんな怒って話し始めてしまった(思わず「もうちょっとの辛抱じゃないか」と言いたくなった)。しかも通学バスの運行時間を過ぎても話し続けているので、「一体、南日は何日話すつもりか」とうんざり。終わると講師よりも先に学生たちが出口に急いだので、たぎってしまった先生(筑波大卒)もいた。

 僕も学生たちは失礼だと思うが、それ以上に、時間を超過して延々と得意になって話している人の方が失礼だと思った。


 

●自慢と悪口(ちょっとだけPRとチクリと一刺し)

 自慢はしない方がいいに決まっているが、僅かにでも、しておいた方が無難である。

 というのも観客は偉い人の、ありがたい話を聴きに来ているのであって、話している人が偉くないと思ったら、ありがたく思ってくれないものである。「そうか、そんな偉い人なのかぁ」などと思わせる一言を入れるべきである。

 僕ら大衆は富山大学の先生(失礼!)と東大の先生の講演だと後者を選ぶ。北日本放送のアナウンサー(失礼!)よりはフジテレビのアナを、小泉今日子(失礼!)よりも深田恭子の方を選ぶ。

 権威づけが必要なのだ。人気のある方を見たいのだ。中身は既に著作で熟知している人もいるから、講演を聴く心理はパンダを見る心理とあまり変わらなかったりする。

※僕の場合は持ちネタがないのでホームページを見て頼むことにしました、と言われると話すことがなくなって困る。集中講義に行ったら、先生の参考文献を全部読んでおけ、といわれていて話すことがなかったとぼやいていた恩師もいる。

 テレビ朝日の「人気者で行こう」を見たことがあるだろうか?30万のワインと1500円のワインの違いが分からない人が多い。でも、目の前で「30万のワインです」と出されると褒めちぎって飲むことは間違いない。権威づけがないと「こちらのワインはのっぺりした味で芳醇さも深みもない」などといってしまうのが大衆なのである。

 知名度があれば、内容がなくても大成功は間違いない。「“ふかきょん”と同じ空気を吸っている」ということだけが大切なのだ。

 成功体験を「誰にでもできるスキル」に落とし込んで話せば、自慢話にならない。

 僕が知っている有名人は一般の人には馴染みのない言語学者ばかりだからダメ(ごめんなさい)だが、妻の方はそれなりに有名人を知っているので時々、「切り札」として使う。

 講演の中で有名な先生のエピソードを適当に散らして使うと、反応がまるで違うという。「虎の威を借りる」方がいいし、観客も得をした気持ちで帰宅してくれるというものである。

 モーツァルトを友人のように語ることが大切だ。

 しかし、自慢は隠し味程度でいい。自慢を主食にしてしまう講師ほど嫌な人はいない。沸々と殺意さえわいてくる。

 講演で一番ひどかったのは発明王・中松義郎で講演に先立って紹介用で「頭のよくなる椅子」の宣伝が入る映画を見せられ、講演では自著の紹介と、これまた自慢話で終わってしまった。アメリカでドクター・中松の日が開かれるとか名誉市民になっているというが、こういうのはお金で買える資格であることは後に知った(し、知人にも名誉市民がいる)。

 商船高専の講演で卒業生でホテルの社長をしている人が講演に来た。朝鮮戦争の時に船をたくさん用意して米軍のために尽くしたというのが自慢でもあり、いろいろ功労賞も受けている。自分から講演の売り込みがあって、実現したのだが、自慢に終始して、朝鮮戦争も知らない学生はキョトンとしていた。ところが、キャンパスに来ていたリンカーンを見て学生は感動。講演よりはリンカーンを見せた方が金持ちになるとこんな贅沢を尽くせるという説得力が出てくると思ったものだった。実は父の商船での同級生で家までリンカーンで挨拶に来た------おおっ、自慢になってしまった。

 授業でも昔、商船にいたN澤という教授(近くに来ると蕁麻疹が出るので「サバ」とあだ名された)は3分の2が自慢話だと言われた。我慢して聴いている者だけが進級できる「サバ・イバル教室」と呼ばれた。

 まあ、こういうのは自慢することがない人間のひがみかもしれない。

 自慢と言えば、最初に講師の紹介があるが、これも紹介用のプロフィールを用意しておいた方がいい。長いものをそのまま渡すと、ずっと読まれるなんてことがある。プロフィールで講演が終わりそうになる。

 この場合も、ちょっと自慢をした方がいいと思う。

 観客は立派な人の話を聞きたいと思うのであるから、立派でなくても、しっかり自慢しよう。

 僕はそういう自慢することがないので、今度こんな風に紹介してもらおうと思う。

 「先生は東京の、入るのはとても難しい大学を出られ【潰れているから誰も入れない】、言語学を研究され【「お笑いにされ」が本当】、50カ国語も話せる【50カ国語の名前を挙げるのは簡単】国際人【外国へ行った経験があれば「国際人」】で、テレビ・ラジオでご活躍され【数回出たことがあるぞ】、「知る人ぞ知る」【「知らない人は誰も知らない」】、有名な【近所でヒマだと有名な】文化人です」なんて経歴を話したら、観客の目の輝きが違ってくるだろうなぁ、と思う。

 ついでに、ちょっと咳き込んで「今日は、日本人が多いようなので、日本語でお話をします。風邪で調子が悪いので講演の途中、ギリシャ語なんかぶつぶつ出てきたらごめんなさい」なんてね。終わってから若い女の子が“おつきあい”したいと寄ってくるかもしれない

※夢見ていなさい!と家人に言われた。

 自慢と反対に謙遜も大切だ。しかし、謙遜は難しいとフランクリンだって書いているくらいだから難しい。フランクリンは自伝で「徳の技法」として知られる12の資質があげている。規律(時間管理)が難しかったようなのと、自分が独自の基準に従って生きてきたと驕っていることに気づいて、13番目の資質、謙虚を付け加えた。節制、科目、規律、決意、倹約、勤勉、誠実、正義、中庸、清潔、沈着、貞節、謙遜となっていて、謙遜は「キリストとソクラテスにならう」としている。

 英語には“deprecating humor”という言い方があるが、ちょっと自分を貶めて、というか、くさして話すことだ。

 水上勉は自分の絵本『ブンナよ、木からおりてこい』を説明して、「檄」などという誰も知らない言葉を使って自衛隊員の前で決起を促したことを批判して、「あの時、お〜い、おりてこい」と自衛隊員が言ったんですが、同じレベルに降りてこなければならないのです。それを思ってこの絵本を書きました」と三島由紀夫を批判していた。

 板東英二はさんざん長嶋などの悪口を言った後で「他の所で板東がこんなこと言っていたなんて話さないでくださいね。ようやく掴んだ幸せなんですから」と笑わせていた。

 まあ、オフレコということで、他人の悪口を少しくらい言った方が講師のスタンスというのが分かるから面白いと思うが、言っていいのはホンのちょっとだけだ。皮肉はダメだ。

 藤山一郎は外国人による日本語弁論大会の講師で来て、講演の間、ソ連を皮肉ってばかりいた。ソ連の人も参加していたのに…。

 面白くしようとして人を傷つけないように気を付けよう。先日も、フィジーからの留学生を迎えたパーティで、ある先生が「フィジーというと人喰い人種が…」と始めて、不興を買ってしまった。おまけにアメリカに留学したいと言い出して大変だった。

 落語家を見ればよく分かるようにマスコミに出る時と、高座では話が違う。当たり前で放送コードにひっかかるようなことを高座では話すからだ。講演では(自分が政治家でない限り)差し障りのあることを少しは話してもいいだろう。鈴木孝夫先生は『アメリカを知るための英語、アメリカから離れるための英語』(文藝春秋)で次のようなことを話している。

 もっとも私は差しさわりのある話しかしないので有名なんです。差しさわりのない話というのはつまらないのでね。私は、大正生まれで年は七十五ですから、失うものはもう何もないわけです。お金もある程度暮らせるだけあるし、勲章はもらうことができないように、叙勲対象から外されていますから。政府の悪口をある審議会で言いましてね。そうしたら、「あなたは叙勲対象から外れてもいいか」と言われた。悪口言うと外されるって知らなかったんですよ。ですけど、言われた途端にハッと思いついて、「芥川龍之介が勲章をもらった喜ぶよう人間は軍人と子供だけだと『侏儒の言葉』に書いていますよ」と言ったら、「ご承知なら結構です」といって、賞勲局の叙勲対象者のリストから抹殺された由です。そうすると、もう勲章もらうためにはこれ以上言ってはまずいなという心配をする必要がない。ご老人の多くが何で会長を退いて相談役になって、さらにまた名誉顧問になっても、いつまでも会社と縁を切らないのかというと、勲章をもらうためだそうです。もうお金も女もいらないし食欲もないと。残るは勲章のみという老害がはびこっているそうです。私はもらうつもりがないから、勝手なことが言えるのです。

 こんな風に差しさわりのあることは話してもいいけれど、観客には色々な人がいるから、十分に気をつけなければならない。「実は○×の私は妹でして…」なんていわれかねない(「あっ、お兄さんにしっかり言っておいて下さいね」と切り返そう)。下手すると揚げ足を取られて職を失うことになりかねない。

 基本はちょっとだけプライベートなことを話すことだ。


 

●講演直後(まとめと質問に要注意)

 講演が終わってからも油断できない。司会者が「今日のご講演は大変面白く、こうして生活している私たちにとってもためになりました」などという。そこまではいいのだが、中には「いかがでしたか、今日のお話、私はなるほどなるほどと、うなづきながら聞かせてもらいました。今日のお話を私なりにまとめてみますと…」といい始める輩がいる。 

 それって何?

 僕の1時間半の話は1分でまとめられるの?

 落語が終わって「今日の落語は…」ってまとめる人がいるの?と思う。

 聞いた人がそれぞれ別々の感想を持つから面白いのであって、たった一つの結論、テーマを話すために講演してるんじゃない!中にはそんなこと話したっけというようなまとめ方をする司会者もいて、メマイする。何を聞いていたのだろう。全てぶちこわしだ。

 討論会では最後に口を利いたものが勝ちだ。その議論の印象を決定づける。政党座談会で終わりの言葉の取り合いになるのもそのせいだ。自分の意図と違う方向でまとめられたら困る。どんなにお金を積まれても(10万以上だったら文句をいわないかもしれないが…いや、絶対に文句はいいません)虚しく会場を去り、家に帰ってもやけ酒になってしまう。

 中には質問の時間を設ける司会者もいる。評論家の平岡正明(歌手の平尾正明にあらず)が「講演の後の質問は百害あって一利なし」と明言しているくらいで、質問の時間はない方がいい。ローマに魅せられたアン王女ではない。「みなさんとお話したい…」なんて言ってはならない。僕の例では「ちょっと自己紹介して」というと履歴書まで持ってきて、みんなの前で健康法までしゃべった人がいた。

 NHKの山根基世アナウンサーは『「ことば」ほどおいしいものはない』(講談社)で書いているが、名古屋で講演した後、話の中に「ほんとに」という言葉が40回出てきたが「これは若い人のあいだの流行なのかうかがいたい」と質問されたと書いている。どこにも嫌味ったらしい人がいるものだ。他の人から「名古屋を嫌いにならないで」と言われたことが救いになったという話になっているのだが、講師の気分を悪くさせて得意がっている人は必ずいる。人の揚げ足を取ることで自分が偉くなったと勘違いしているようだ。

 ヨゼフ・ピタウさんの講演を聴いた時には質問時間に、長い長い科学の話をして、途中で司会に止められた。結局、宗教は科学を、科学は宗教を干渉すべきではない、ということをピタウさんが話して事なきを得たが、会場全体を暗くした。養老孟司の時は観客から「先生に質問していいですか!?」という声がして、馬鹿な司会者が受けてしまった。ところが、10分近くも自分の説を述べるだけで、何が質問か分からなかった。僕は「唯脳論と立山曼陀羅というタイトルなのに詐欺ではないか?」と質問したかったのに…。

 話す側とすれば、話の主導権を渡すべきではない。質問する人は聞きたいのではなく自分のことを話したいだけなのだ。だから、知らないことを聞かれたら困る。知っていることだけを、持ち札だけで勝負しているからゆとりがあるのだ。

 しかも、どんなインテリが隠れているか分からない。どんなアホが潜んでいるか分からない。

 ただ、平川祐弘(『日本をいかに説明するか』葦書房)のように質問好きの人もいる。平川の講演を聴いたことがあるが、(思想はさておき)面白い。

 講演後に質問が出るのは嬉しい…次々に質問することこそ講師に対する礼儀なのだ。そう心得ている私は、つとめて質問するたちなので、自分の講演後だれも手を挙げないと、さては話がつまらなかったか、などと一瞬思ったりする。

 実際には質問といってもなかなか出ないのが普通で、出たら変な質問だったりする(答えは質問の中にある)。どんな“分からんちん”が紛れているか分からない。とりあえず「いいご質問ですね」と軽く誉めてから応答した方がいい。噛みつかれてケガをするだけだ。ただ、開高健がいうように「良い質問には答えが半分隠されている」からその人に結論を出させるのが一番いい。

 結局、日本人は質問力が足りないことに帰結する。インタビューも下手だ。質問の意味が曖昧なだけでなく、何を質問したいのか、質問する人自身が分かっていないことがある。でなければ、「音楽って先生にとって何ですか?」などと、一言で人生を仕切え、とでも言いたいような質問をする人がいる。「結局、今日の話は…」ととんちんかんなことをいう人もいる。

 僕自身、内容に疑問があってつっこみたいと思う人は質問時間を設けていない。本能なのだろうか?

 興味を後につなげることも忘れてはいけない。質問が出なかったら、適当に参考文献とか、軽い雑談をして、早めに切り上げる。

 主催者に(ウソでいいから)「この後、会議がありまして○×まで行かなければならないので」と言っておけば「先生はこの後も会議をお持ちで、お忙しい中…」ということでシャンシャン大会で終わることができる。

※僕の場合はウソではないですから、すぐに送り出して下さいね。

 最初に戻るが、質問者は自分のことをいいたいのだから精神科医の心得を身に付けるのが一番いい。クライアント自身に語らせることが大事だ。これについては河合隼雄がサイコセラピストとして大事な台詞が三つあってこの三つで生きてきたという。

 まず第一に「ベリー・ディフィカルト」。来た人に何か意味を聞かれたら、「ベリー・ディフィカルト」と言う。また何か聞かれたら「アイ・ドント・ノウ」と言うんです。でも、プロフェッショナルになるためには、三番目のセンテンスが大事なんです。クライアントが帰る時に、「プリーズ・ペイ・ザ・フィー」と言うんです。これが言えなかったらプロフェッショナルじゃない…。


 

●謝礼(ハンコと口座番号を忘れないように)

 謝礼と講演の成功度は正比例する。うまい講師は値段が高いし、それだけの価値がある。どうしてそんなことになるかというと、観客が欲しているのは講師の「有名度」だけなのである。したがって、知られていない安い講師がどんなに内容のある講演をしても、有名な、高い講師には勝てない。彼らは何を話しても、聞く方は至福の時をすごすのだから…。

 著名人は「パラテクスト」にあふれている。「パラテクスト」というのは本でいえば、作者名、タイトル、装丁、判型、広告のコピーなど事前に知っている情報である。ゼロの状態で本と出会うことはない。タレントは自分の子どもよりももしかしたらよく知っているかもしれないから、名前も聞いたこともない講師より、テレビに出ている人の方が講演に対する期待が高まるのである。

 夏目漱石の有名な講演「私の個人主義」には「価値ある講義」を日常聞き慣れているはずの学生が自分の講演などありがたがるのは単に珍しいからではないかといって「目黒のさんま」を引き合いに出している。

 この会はいつごろから始まって今日まで続いているのか存じませんが、そのつどあなたがたがよその人を連れて来て、講演をさせるのは、一般の慣例として毫(ごう)も不都合でないと私も認めているのですが、また一方から見ると、それほどあなた方の希望するような面白い講演は、いくらどこからどんな人を引張(ひっぱ)って来ても容易に聞かれるものではなかろうとも思うのです。あなたがたにはただよその人が珍(めず)らしく見えるのではありますまいか。
 私が落語家(はなしか)から聞いた話の中にこんな諷刺的(ふうしてき)のがあります。--昔(むか)しあるお大名が二人(ふたり)目黒辺へ鷹狩(たかがり)に行って、所々方々を馳(か)け廻(まわ)った末、大変空腹になったが、あいにく弁当の用意もなし、家来とも離(はな)れ離(ばな)れになって口腹を充(み)たす糧(かて)を受ける事ができず、仕方なしに二人はそこにある汚(きた)ない百姓家(ひゃくしょうや)へ馳け込んで、何でも好いから食わせろと云ったそうです。するとその農家の爺(じい)さんと婆(ばあ)さんが気の毒がって、ありあわせの秋刀魚(さんま)を炙(あぶ)って二人の大名に麦飯を勧めたと云います。二人はその秋刀魚を肴(さかな)に非常に旨(うま)く飯を済まして、そこを立出(たちいで)たが、翌日になっても昨日の秋刀魚の香(かおり)がぷんぷん鼻を衝(つ)くといった始末で、どうしてもその味を忘れる事ができないのです。それで二人のうちの一人が他を招待して、秋刀魚のご馳走(ちそう)をする事になりました。その旨(むね)を承(うけたま)わって驚ろいたのは家来です。しかし主命ですから反抗(はんこう)する訳にも行きませんので、料理人に命じて秋刀魚の細い骨を毛抜(けぬき)で一本一本抜(ぬ)かして、それを味淋(みりん)か何かに漬(つ)けたのを、ほどよく焼いて、主人と客とに勧めました。ところが食う方は腹も減っていず、また馬鹿丁寧(ばかていねい)な料理方で秋刀魚の味を失った妙(みょう)な肴を箸(はし)で突(つ)っついてみたところで、ちっとも旨くないのです。そこで二人が顔を見合せて、どうも秋刀魚は目黒に限るねといったような変な言葉を発したと云うのが話の落(おち)になっているのですが、私から見ると、この学習院という立派な学校で、立派な先生に始終接している諸君が、わざわざ私のようなものの講演を、春から秋の末まで待ってもお聞きになろうというのは、ちょうど大牢の美味に飽(あ)いた結果、目黒の秋刀魚がちょっと味わってみたくなったのではないかと思われるのです。
 この席におられる大森教授は私と同年かまたは前後して大学を出られた方ですが、その大森さんが、かつて私にどうも近頃(ちかごろ)の生徒は自分の講義をよく聴(き)かないで困る、どうも真面目(まじめ)が足りないで不都合(ふつごう)だというような事を云われた事があります。その評はこの学校の生徒についてではなく、どこかの私立学校の生徒についてだったろうと記憶していますが、何しろ私はその時大森さんに対して失礼な事を云いました。
 ここで繰り返していうのもお恥(は)ずかしい訳ですが、私はその時、君などの講義をありがたがって聴く生徒がどこの国にいるものかと申したのです。もっとも私の主意はその時の大森君には通じていなかったかも知れませんから、この機会を利用して、誤解を防いでおきますが、私どもの書生時代、あなたがたと同年輩(どうねんぱい)、もしくはもう少し大きくなった時代、には、今のあなたがたよりよほど横着で、先生の講義などはほとんど聴いた事がないと云っても好いくらいのものでした。もちろんこれは私や私の周囲のものを本位として述べるのでありますから、圏外(けんがい)にいたものには通用しないかも知れませんけれども、どうも今の私からふり返ってみると、そんな気がどこかでするように思われるのです。現にこの私は上部(うわべ)だけは温順らしく見えながら、けっして講義などに耳を傾(かたむ)ける性質ではありませんでした。始終怠(なま)けてのらくらしていました。その記憶をもって、真面目な今の生徒を見ると、どうしても大森君のように、彼らを攻撃(こうげき)する勇気が出て来ないのです。そう云った意味からして、つい大森さんに対してすまない乱暴を申したのであります。今日は大森君に詫(あや)まるためにわざわざ出かけた次第ではありませんけれども、ついでだからみんなのいる前で、謝罪しておくのです。

 養老孟司が日下公人と『「バカの壁」をぶち壊せ! 正しい頭の使い方』(ビジネス社)で対談をしていて、日下は次のように発言している。

 地方に講演に行くと、聴衆は一生懸命に聞いています。だけど、それを商売に結びつけようとはしません。商売に役立つ話より、聴衆が求めているのはもっと崇高な話なんです。なぜかと言うと、「受け売り」をしたいからです。「今日東京から来た有名な人の話を聞いてきたぞ」と周りの人に自慢するためです。そのための仕入れであって、本人の仕入れではありません。私は、「高度情報化社会」というのは嘘だと思っています。そうじゃなくて、「高度受け売り社会」です。一つも身についていない。全部、駄目です。

 地方は“ぼられて”いる。カモにされている。ちょっとしたタレントだと50万で有名な文化人だと100万はざらだ。テレビにどれだけ出ているかが、謝礼の違いとなって表れる。どこかに番付表があると思うが、一番高いのは御用学者の竹村健一で300万くらいだという。

 タレントに比べたら、僕らはタダ同然だ。しかも、有名タレントはサイン本まで売れる。

 どんなに安くても、もらえるだけの話をしなければならない。

 主催者側は100万出しても1000人来れば大成功となるので(何しろ動員数だけが問題となる)、文化の秋にはタレントがあちこちで同じような話をすることになる。藤本義一などは同じ話でどれだけ稼いでいるのだろう?

 タレントがうまいのは同じ話を何度もしていて、練り上げられているからだ。僕らも客層が違えば同じ話をしていった方がいいのだが、そんなに依頼があちこちから来ない。

 金田一春彦は毎回同じ講演をするのが嫌だったから変化させたりしていたが、担当の人が同じ話の方が、時間がよく分かっていい、というので、そのままどこへ行っても同じ話をしたという。

 できれば、『一杯のかけそば』の栗良平みたいに?一つの話を暖めていくのが講師にとっても観客にとっても一番いい。

 僕の場合はいくらでもいいのだが、妻の場合は問題だ。ピアニストのレベルにも絡んでくるからである。「おいくら?」と言われても困ってしまう。

 最近ではどこもお金がないようで、値切られる。

 最初からはっきり予算を言ってもらいたい。言ってもらえることは皆無だ。だから、梅棹忠夫は講演料はお布施と同じだという。依頼者の格と講師の格で決まるからだ。

 もちろん、主催者との関係や、重要度、聴衆の量と質、出張して講演する場合などタイムロスの長さなど簡単にいくらとは決められない。そして、何よりも講師の知名度というものが講演料を決定する。

 恩師のC先生は「○万」と提示されて、他のことを考えながら黙っていたら、「では、×万」と値が上がったそうだ。以来、「沈黙は金(かね)」と言っていた。まるで落語の「はてなの茶碗」みたいな話だ。

 『話の特集』の編集長だった矢崎泰久が永六輔との対談『バカまるだし』(講談社)の中で語っていることによれば、ある日、田中角栄に話を聞きたいというので、田中邸まで行って話をして帰ろうとしたら、早坂秘書から「お車代」を渡されたという。あまりにも重いので、開けてもいいか、というとどうぞ、ということだったので、開けると百万円だったという。そのまま返してきたのだが、こんなジャーナリストを見たことがないと誉められたという。

 という話だけで、僕の場合、「お車代」が付くこともない。


 

●最後に

 いい講演とは観客の心に補助線を与えることである。------金川 欣二

【2000年5月17日初掲】


 ここまで話したら、講演の依頼はないだろうなと思う。

 大体、エッセーで言いたいことはほとんど書いてしまっていて、紙上講演(ネット講演)までしたら、いよいよ何も話すことがなくなった。

 ばっかだなぁ〜。

 ちなみに『カンディード』の老家庭教師パングロス博士は「この最善の世界では、すべてが最良にできている」といい、この世は最高だと言い張る楽天主義者だ。戦争や大地震、疫病など、人を苦しめるあらゆる災難の続発にもかかわらず、パングロス博士は自説を譲らない。そればかりか自分自身も絞首刑で死にかけたり、生きたまま解剖されるなど、さんざんな目にあう。実はボルテールはドイツの哲学者ライプニッツになぞらえて皮肉っている。神様の立場からは「最善」なのかもしれないが、生身の人間には耐え難い不幸や災難に満ちた世界で、人は何をすればいいのか。博士の教えを受けた主人公カンディードは、物語の最後で博士の楽天論を受け流しながら、こう言う。「何はともあれ、私たちの畑を耕さねばなりません」…。


■「ヒマ」で「有名」な「言語学者」
■コミュニケーション能力を高めるために

■スピーチの極意<付録:弁論大会必勝法>
■ウェブライターを目指して

□誰でもできる著作権契約


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