「指が月をさすとき、愚者は指を見る」
The devil can cite Scripture for his purpose.
(悪魔だって自分の目的のためには聖書を引用できる)
シェイクスピア『ベニスの商人』"Life is like a finger, pointing to the Moon. If you look at the finger... you will miss all the heavenly glory."
(人生は月を指す指のようなものだ。指を見てしまうと、天の輝きを見失うだろう)
ブルース・リー『燃えよドラゴン』
中国の諺に「指が月をさすとき、愚者は指を見る」という言葉がある。出典は『成語林』(旺文社)によれば、「首楞厳経(しゅりょうごんきょう)」(楞厳教と略されることもある)だそうだ。
月を指せば指を認む。「月」を仏法に、「指」を教理にたとえて、道理を教えても文字や言葉のはしばしにこだわって、本質を理解しようとしないたとえ。
ここから四方田犬彦は『指が月をさすとき、愚者は指を見る』(ポプラ社)という本を書いている。ただし、作者不明だとしていて、音楽家の高橋悠治から聞いたという。
そういえば、山田邦子がバスガイドの格好をして、バスガイド口調で「右手をご覧くださ〜い。右手に見えますのが、中指でございまぁーす」というギャグがあった。
うちでは、背中に抱っこされた子どもが「ママ、チュキ」と言った時に、ママは「私もよ」などと答えていたが、指の先には煌々とお月様が輝いていた…ということがあった。
□ 世の中には「揚げ足取り」という種類の人がたくさんいて、人がせっかく広大な夢を持って臨んだことをいとも簡単につぶしてしまう。そういうことが続くと、全てがなあなあの妥協案になってしまう。文章も事務的になってしまう。ところが、更に上がいて、事務的に書いた文章にもツッコミを入れる人がいる。
東京都の石原慎太郎知事の「懐刀」とされた浜渦武生・副知事がそうだったようだ。都庁第1本庁舎6階にあった浜渦副知事の執務室には都の局長、部長ら幹部が「お手紙」を手に日参していた。お手紙とは、各部局が今後進めようとしている施策の要点をA4判用紙にまとめたもの。副知事本人ではなく秘書がお手紙を受け取り、返事も秘書から届く。「○」とあれば了解。「×」だと練り直しだった。結局、失脚せざるを得なくなったのだが、失脚しないで、頑張っている手合いも多いことだと思う。
悪意がなくても、揚げ足を取られることがある。ある崇高な(ウソだが)理論を説こうと思っているのに、その前提となる教養がまるでない学生などである。学生でなくても、世間にはいっぱいいて、結局「訳の分からないおじさん」にされるのがオチだ。ジョークを言ってもその土台がないから通じない、なんて悲しいこともあるが、「親父ギャグ」と一蹴されるだけだ。
□ 四方田は「指が月をさしたとき、思わず指を見てしまう人というのは、本当に愚かなのでしょうか」というように、愚者を責めようとしてこの言葉を引用したのではない。
芭蕉の有名な俳句に「稲妻に悟らぬ人の尊さよ」というのがあります。激しい稲光りを眺めているうちに、たいていの人間は、人間の生命なんてこの稲光りのようにはかなくも虚しいものだと覚悟してしまい、それでもってつい人生の奥義とやらをわかったつもりになって、人に吹聴してしまうものなのです。ところがなかには臍曲がりとうのか、鈍いというのか、変わった御仁がいて、「へへえ、稲妻なんて、金物を外して避けて通れば、なんてこたあねえよ」とばかりに、いっこうに悟らないままでいたりします。こういう人こそ実は希少価値なのです。もしこんな人物が本当に悟りを開くことができたとしたら、その人こそ誰にも真似のできない、深い悟りを開いたことになるだろうというのが、芭蕉の考えたことでした。【…】
記号を読み取るということは、本当はそういうことなのです。それが指しているものがわかればいいというものではありません。乱世を生き抜くためには、いったい誰が、どのような意図をもって、「月を見よ」と命じているのか、その真意を指の後ろがわについている腕や着物から判断するだけの才覚が、必要とされるのです。
【…】いったい誰がそれをいったのか、わたしは今日の今日まで知らないのです。ちなみにこの諺はブルース・リーの『燃えよドラゴン』にも、イランの映画監督マクマルバフのエッセイにも登場しています。
これは、さきほどの教訓に矛盾しているって?
そうかもしれません。けれども、今となっては正体がわからなくなった、この諺の真の作者を探索することよりも、それが指し示していることを理解することのほうが、このさい必要なのではないでしょうか。
確かに!ヒトラーだって「平和」について熱く語ったことがある。ブッシュだってイラクの「平和」、世界の「平和」について熱く語っているところだ。日本では小泉首相が「自民党をぶっこわす」と恐ろしいことを語り、圧勝につなげた。
□ 2005年の自民の歴史的大勝のすぐ後、タイアップ広告の事件があった。
アガリクス商品の広告をめぐる「史輝出版」と健康食品会社「ミサワ化学」が薬事法違反で捜査を受けた。
問題の書籍は『即効性アガリクスで末期ガン消滅!』『徹底検証!末期ガンに一番効くアガリクスは何か』の2冊で、がん患者や家族ら約70人が、ミサワ化学が販売するアガリクスの加工食品を飲んで「2カ月でガンが消えた」「抗がん剤の副作用が止まった」「『余命3カ月』の父が1年たっても健在」などと「証言」していた。本の帯には「ガン抑止率100%!」と書いてあった。
1冊につき70万円の報酬で体験談を書いたライターは「以前出版された本を参考にしたり、図書館でがんの症例を調べたりして書いた」などと供述。出版前の編集会議では、今回逮捕された史輝出版元取締役でミサワ化学社長が「アガリクスが売れる本を書け」などと文章に商品名を盛り込むことなどを具体的に、ライターに直接指示していたとみられる。 監修者の名誉教授は、警視庁の調べに「アガリクスの販売促進のための本だとは分かっていた。薬事法違反との認識もあったが、本に名前が出ることで有名になると思った」などと話し、監修料として20万〜30万円を受け取っていたことを認めているという。 ライターと監修者の2人を薬事法違反容疑で書類送検することになった。
監修料が少ないことにも驚くが、この程度の話に騙される方も悪い。別にこの会社でなくても、「この薬で痩せた」「この食品が効く」というチラシが毎週のように入ってくる。
豊田商事事件の後、同じような詐欺事件が続いていて、その度に「消費者を守れ」といわれるが、かまびすしく騒がれているにもかかわらず金儲けの手だてがあって、自分だけが得をすると信じている人が多いのにも驚く。ニュースを見て何を学んでいるのだろう。
今でも時々、マンション経営の話が研究室にかかってくる。「そんな先生、辞められましたよ」と言ったら、夕方、家にかかってきて「ほら、同じ声だ。同じ人でしょ」という不気味な電話がかかってきたことがあった。そんなに儲かる話なら、自己資本だけで儲ければもっと儲かるはずだ。
テレビ・ショッピングというものがある。すべて宣伝の番組を流していいのか強い疑念を持つが、この中で「限定○△本」というのがある。「○△本×価格」で儲けが出るものか少し考えてみれば、分かるはずだが、限定とされると慌てて電話をする人が絶えない。こんなウソがまかり通ることにも憤りを感じるが、人気番組なのだそうだ。
思い出したが、中学生の頃、『アメリカーナ』(『ブリタニカ』の模倣!)という百科事典のセールスが家に来たことがあった。これさえ買えば英語の力がつく、といわれて、母は無理してでも買おうと思ったようだった。セールスマンが持っていた資料というのが、すべて内部資料というか、新聞に載せた宣伝内容をそのままコピーしたものだった。第三者が誉めているなら分かるが、手前味噌にも程があると、中学生の僕でも思った。何よりも、翻訳なしの英語の百科事典が家にあっても、中学生に読めるはずもなく、読める位だったら、既に英語力は十分についていることになると思った。何とか必死の思いで断ったのだが、その後、多くの古本屋で積まれているのを見た。そして、それさえも(場所を食うので)なくなっていった。もし、あの時、買っていたら、高いお金を払って英語力がついてないというトラウマに陥ったことだと思うと寒気がしてくる。1
□ 最近よく、テレビでのヤラセが問題になる。ヤラセではなくて、「過剰な演出」などともされる。騙す目的で行ったのか、演出の延長なのか、実はそんなに明確には分けられない。
フランスで移民の若者たちによる暴動が起きた時も、衝撃映像とともに「フランス内戦」「パリ炎上」という活字が踊っていた。政府報道官は「燃える車を近くからズームで撮れば、画面全体を炎が覆う」と映像にも批判を向けていた。
保険のCMで象が子象を鼻で助けるシーンが使われていたが、実は2つの別々な象の映像をつなぎ合わせたものだという。これはヤラセなのか、過剰な演出なのか、ただの演出なのか?
NHKのディレクターだった吉田直哉は『森羅映像』(文藝春秋)の中でヤラセについて書いている。ドキュメンタリーにはどれだけヤラセがあるか、とうるさく聞かれて、ヤラセの反対語は「盗み撮り」だといい、それよりもましだと反論する。記者たちが「それじゃぜんぶ、現実そのまま、ありのままじゃないんだ」とつぶやくと「ありのまま、って何です? ありのままを文章に、記事にできますか? 写真にできますか?」と反論している。
ヒトラーはメディアの意義を熟知していて、自分の演説の時には暗い高所から話し、スポットライトを当てるようにしていた。そして、大きな嘘を単純化して何度も繰り返した。その手法は今でも多くのメディアが使っているところだ。『わが闘争』によればこうだ。
「宣伝はすべて大衆的であるべきであり、その知的水準は、宣伝が目ざすものの中で最低級のものがわかる程度にすべきである」
「宣伝は短く制限し、これをたえず繰返すべきである」小泉純一郎のようなワンフレーズ政治などというもののあって、一つだけを繰り返すだけで大衆はついていくのだ。
ヒトラーは映画の意義を知っていたから、レニ・リーフェンシュタールにニュルンベルグ大会を撮影した『意志の勝利』やベルリン五輪を映した『美の祭典』などを撮らせた。そしてナチス党員を増やしていった。日本では今でも女性議員とか新人議員などの話題で演出している党がある。
最も危険なのは善意からの演出かもしれない。知らず知らずに美談を作りあげる人も多いのである。問題はそれが無邪気な善意から生まれていて、責任を誰も取らないなんてこともありえる。
こうした操作を記号論では「イデオロギー的」なテキスト操作ということがある。難しく考えることはない。エイゼンシュタインの『戦艦ポチョムキン』を見るまでもなく、政治家と豚を交互に映すのは政治家を豚だと決めつけることになる。ただ、そんな単純なモンタージュ(編集)は複雑な現代ではありえないが…。
そして、ライブドアがフジテレビを買収し、楽天がTBSを統合しようという事件が起きた。金がある方が何でも買えるのは分かるが、今まで報道というものを真剣に考えてきた人々と、情報の信頼性に裏打ちのないネットの社会とが融合するとは思えない。
□ 大衆はそんなに愚かだろうか?
思い出すのは指揮者の岩城宏之がネスカフェのCMに出ていた時に、「毎日、あれだけコーヒーを飲んでいて大丈夫ですか?」と何度も聞かれたと書いていた。1回撮っただけのCMなのに何度も飲んでいると誤解する感性というのは一体?
今も細木数子がでしゃばっている。ライブドア株は5倍に上がると話していたというが、風説の流布ではないだろうか?どんな女だったか知らない人が多いが、何度もテレビに出るようになると、それだけで「有名」になってしまう。デヴィ夫人だって似たようなものかもしれない。
そういう僕もテレビに毎週出るようになったら、「何でも知っている」と思われるのだから笑える。学力はテレビに出る前も後も変わらないし、番組に出ているだけで、スタッフが色々と準備をしていることが分からないようだ。
□ 「メディア・リテラシー」という言葉がある。「コンピューター・リテラシー」という言葉から連想すると、メディアを作ることだと思えなくはないが、メディアを批判的に見る視点のことを指す。流布されている定義や基本概念は次のようである。
「メディア・リテラシーとは、市民がメディアを社会的文脈でクリティカルに分析し、評価し、メディアにアクセスし、多様な形態でコミュニケーションを創りだす力をさす。また、そのような力の獲得をめざす取り組みもメディア・リテラシーという」基本概念(『Study Guide メディア・リテラシー【入門編】』より )
- メディアはすべて構成されている。
- メディアは「現実」を構成する。
- オーディアンスがメディアを解釈し、意味をつくりだす。
- メディアは商業的意味をもつ。
- メディアはものの考え方(イデオロギー)や価値観を伝えている。
- メディアは社会的、政治的意味をもつ。
- メディアは独自の様式、芸術性、技法、きまり/約束事(convention)をもつ。
- クリティカルにメディアを読むことは、創造性を高め、多様な形態でコミュニケーションをつくりだすことへとつながる。
20世紀はメディアそのものが問われた時代だった。ピカソは絵というメディアは何か別のもの、神話であれ、宗教であれ、自然であれ、人物であれ、それらを描く(入れる)メディアということに異議を唱えた。つまり、「絵」そのものというのは何かを真剣に考えた。そのあげく、キュビズムに達したのだ。
メディアというのは無色透明ではない。21世紀にポストモダンに生きる我々に必要なのは自分が入っている金魚鉢を外から見ようとする意識のことである。誰も金魚鉢を外から見ることなどできない。「中世」の人々は自分たちが「中世」に生きているとは思っていなかった。どこかの文部大臣が「従軍慰安婦はいなかった」といったが、そこにいる人は誰も自分たちが「従軍慰安婦」にいるとは思っていなかったのだ。ただ、「地獄」にいることだけは知っていた。その場にいても、何が起こっているのか、当事者にも分からないのである。
新聞も、ラジオも、テレビも、ネットも、何もかも「偏向」している。内閣支持率が産経、読売、毎日、朝日でそれぞれ異なるのはよく知られているが、「偏向」していないという某局だって怪しい。意識的であろうと、なかろうと誰だって、どんな組織だって「偏向」しているのである。ところが、僕らはメディアによって加工された現実を、忠実な「現実の鏡」として見る傾向が強いのである。だって、テレビで「見た」んだもの!?
井上ひさしは丸谷才一との対談(『おっとりと論じよう』文藝春秋)でNHKの「偏向」問題について次のように語っている。
でも、僕もNHKの専属ライターでしたからよく知っていますが、毎回自民党をケアしなければいけないし、自民党に目を着けられたディレクターは飛ばされたり番組も終わったりします。「ひょっこりひょうたん島」なんて、自民党をはばかって終わらされたようなものですよ。だから情けないですね。でも、いい番組を作っていれば国民が必ず守りますから。
「偏向」などと大げさなレベルだけではない。マスコミを鵜呑みにするとトンデモないことになる。西原理恵子は『怒濤の虫』(毎日新聞社)の「活字は読むな、読むなら信じるな」でバラしているが、雑誌の記事で「100人に聞きました」なんてアンケートを全部一人で答えていたという。そして、述懐している。
でも、書くほうに回って思ったけど、活字ってゆうのは、とにかく人目を引かなきゃダメ、ってゆうか、売れない。だから、どんどん、どんどん、刺激的で、やらしい方向にいっちゃう、とゆうのは事実。そうゆうワケで、女子大生は全員売春していて、OLはみんな上司と不倫している。信じちゃダメですよー。(いまどき、そんなバカいねーか)
統計学者ダレル・ハフの『統計でウソをつく法』(講談社ブルーバックス)が典型だ。19世紀に米国とスペインが戦火を交えた米西戦争の間、米国海軍の死亡率は千人につき9人の割合だった。同じ期間、ニューヨーク市における死亡率は千人につき16人であった。そこで、海軍の徴募官は二つの数字を基に「海軍に入隊するほうが安全だ」と宣伝した…。海軍の分母が壮健な者ばかりであるのに対し、ニューヨーク市の分母には病人も高齢者もいるから正しい比較とはいえないのである。
まあ、「統計とはビキニの水着のようなものだ」、そのこころは「見えない所に物事の核心がある」ということがあるから、数字には気をつけなければならない。
内田樹は小さい頃から取っていた朝日新聞を毎日に変えることにしたという。僕も同時期に止めたいと新聞取り扱い店に話したのだけれど、毎日新聞は購読者数が少ないので迷惑になりそうでそのままにしている。内田はホームページで次のように書いている。
先週、NHKから電話取材のオッファーがあったときに記者のS田くんと1時間くらい話し込んでしまったが、そのときに「メディアに対する不信」をメディア自身が払拭する努力を怠っているのではないか、ということを申し上げた。
朝日新聞は今回のNHK放送事件、捏造記事事件などでメディアへの信頼性を深く損なったけれど、それ以上に自己正当化の言を口走って「自己批判・自己点検」する能力のなさを露呈したことが致命的であったと思う。
おそらく朝日は現有の800万読者のうち200万くらいをこの2,3年のあいだで失うのではないか、という予測を話した。
もちろん当のNHKの受信料もがた減りしていて、信頼回復の見込みもない。
「朝日・岩波・NHK」は戦後日本の「良識」のセンターラインを形成してきたはずのメディアであるが、それらがいずれも機能不全に陥ってる。
岩波は別に不祥事を起こしたわけではないが、『世界』の発行部数は悲惨な数字となっている。
60年代には『世界』と『朝日ジャーナル』は「ちょっと知的な高校生」の必須アイテムであった。
私は過去十年間『世界』を読んでいる高校生に会ったことがない。
以前、高橋源一郎さんが岩波の編集者に「『世界』がぜんぜん売れないんですけど、何かいい企画はないですか?」と尋ねられたことがあるそうである。
高橋さんはしばらく考えてから、こう答えた。
「『世界の罪』というのはどう?戦後論壇で『世界』が世論をミスリードした事例すべてについて、詳細な自己点検と自己批判をして『申し訳ないことをしました』って謝罪するの。これなら毎月20万部は売れるんじゃない?」
もちろん編集者は取り合わなかった。
だが、さすがタカハシさん、これはばらしい企画である。
人間知性の信頼性は「おのれの誤りを他人に指摘されるより前に発見すること」に優先的にリソースを注ぐということ、ただそれだけによって担保されている。【…】私はメディアの復活に対しては、基本的には楽観的である。
『唐茄子屋政談』の若旦那がわずか一日の「唐茄子売り」経験で真人間に戻ったように、「まっとうな商売を一からやり直そう」と決断しさえすれば、朝日だってNHKだって岩波だって、また「メディアの王道」を粛々と歩み始めることができる。
私はそう信じている。
だから私は、当今はやりの「メディア叩き」には加担する気がない。
一度腐りかけたシステムを「まっとう」な道に戻すことの方が、すべてを壊して新しいものを作るよりずっと困難な仕事であり、ずっと人間的な仕事だと私には思われるからである。
でも、そのためにはみなさんには「唐茄子売り」をやって頂かないとダメなんだけれど、果たしてメディアの方々にはそれがどういう「ふるまい」を意味するのかがわかるだろうか?言葉のよりどころにする辞書だって、決して無色透明ではない。「偏向」していない百科事典などもありえない。もし、それを謳っていたとしたら、それこそ「偏向」の始まりなのだ。
それをきちんと認識していれば、この文章だって、どういう気持ちで書かれているか分かるようなものだ。
そうなのだ。「指が月をさすとき、愚者は指を見る」とは誰が何のために書いたかを確認するための言葉だったのだ。
□ 教師は学生にメディア・リテラシーを教えなければならない。ところが、実際には教科書を金科玉条のように扱って、「正解は何か」と教えている。
僕の文章でもいいのだが、ロバート・スコールズの『テクストの読みと教え方』(岩波)から紹介しよう。
われわれが今学生たちに【…】与えることができるものはなんだろうか。それは、彼らが自分たちの世界を了解し、個人としてまた集団的属性としてもっている利害を知り、あらゆる種類のメディアのあらゆる種類のテクストが行っている操作を見抜き、自分の見解を適切に表現するための、知識と技能である。【…】現代は操作の時代で、学生たちはあらゆるマス・コミュニケーション手段によってひっきりなしに攻撃されており、それに抵抗する為には強い批評的能力が切実に要求される。こうした時代にあってわれわれのなしうる最悪のことは、学生たちの中にテクストを崇拝する態度を養うことだ。【…】今必要なのは慎重な態度、分かったと思うまえによくよく考え、何か見落としやすい点や、人には分からないように話題にされていることはないかと目を光らせる態度、結局批評的であり、つねに問うことをやめず、懐疑的な態度である。
と、こうやって偉い学者の引用を金科玉条のごとく響かせるのは教師がすべき態度ではない。(^_^;)
□ 四方田犬彦の東京教育大学附属駒場高校時代、それは学園紛争の時代であったが、を活写した『ハイスクール1968』で「友人」とされた鈴木晶がホームページの日記で次のように書いていた。う〜ん、真実とは本当に難しいものだ。
2004年3月3日(水)
【…】
四方田犬彦の『ハイスクール1968』(新潮社)が送られてきた。高校時代の回想録である。とくにバリケード封鎖の前後のことが克明に書かれている。彼と私は中学高校ずっといっしょだから、当然ながら私も登場する。
あまり愉快な本ではない。四方田が大法螺吹きであることは、業界では知らぬ者はない。私も慣れている。
彼と私はともに由良君美門下生であるが、学生時代に、あるとき四方田から「相談ごとがある」と言って呼び出された。何かと思ったら、「由良先生に、おれが鈴木に剣道を教えてやった、と言ってしまったので、そういうことにしておいてくれ。頼む」というのだ。別にかまわないよ、と答えた。私は剣道部の部長だった。彼もたしかに一時剣道部に所属していたのだが、運動神経ゼロなので、ぼかすか打たれているばかりだったため、一ヶ月くらいでやめてしまった。
万事がそういう調子。
「私は生まれる前から映画をみていた」とか書いているけど、中学1年のときに映画に連れていってやったのは、この私である。
同級生に取材して書いたにもかかわらず、その同級生たちのことをわるく書き、自分だけは憂いを帯びた哲学的な高校生として描いているのだから、まったく呆れる。本人を知っている人なら、「また始まった」で済むのだが、知らない読者は信じてしまうのだろうなあ。
昨年、文芸誌「新潮」に掲載されたが、その後、2年先輩の矢作俊彦から新潮社に「でたらめを書くな」と抗議があり、彼に関する部分は全部削除したそうだ。同級生だった金子勝も怒っているらしい。
小説なら許せるが、あたかも実録のように書いているから、たちがわるい。ほとんど嘘なのに。しかし、もし小説家だったら、自分がいかにカッコイイ高校生だったかを世間にアピールしたくて、こんなものを書いたりはしない。そんな小説家は見たことがない。こういうものを書く神経が、私には理解できない。
私自身も登場人物のひとりとして、まったく事実無根のことを書かれているのだが、友達だし、まあいいや。笑ってすまそう。実は、この後日談があって、四方田は由良君美との交流を描いた『先生とわたし』(新潮社)を出した。由良との出会いからゼミの様子が克明に描かれていて、由良と袂を分かった事情についても詳しく書いてある。デリダの仏文にメマイしていた当時の僕自身を振り返れば、何と早熟で、何と新しいことを学んでいたのかと感心させられるが、後半で由良がアルコール依存になってしまい、訳の分からないことを言い出す部分などはここまで書いていいのか、と思うような話になっている。もちろん、鈴木はその記述に満足する訳もなく、ブログで次のように書いていた。う〜ん、真実とは本当に難しいものだ。
2007年3月5日(月)
1週間ほど前、朝日新聞の文芸時評(2月26日)で、加藤典洋が四方田犬彦の長編評論「先生とわたし」(新潮)を評していた。
四方田の評論は、読んでいないが(読む気がしない)、読まずとも、内容に関しておおよその予想はつく。その評論は「学生時代の恩師である高名な英文学者との交流」を描いたものだそうだ。
その恩師が由良君美先生であることは、読まずともわかる。私もまた由良先生の「不肖の弟子」のひとりであるから。もっとも、私は文字通り末席を汚していただけで、清水次郎長一家ではないが、私の上座には大政・小政みたいな、富山太佳夫、高山宏といったすごい人たちがいた。四方田は、まあ味噌っかすであった。
私は秋山さと子先生の「秘蔵っ子」でもあって、由良先生は秋山先生に対しては頭が上がらないところがあったおかげで、私は由良先生からは大事にされた。言い換えれば、それほど親しくならなかったということでもあるが。
加藤さんは「400字詰め原稿用紙400枚を一気に読ませる筆力には感嘆する。面白く読んだ」ともちあげておいて、「欧米の最新の文学思潮に通じ、高踏な趣味人であった恩師が、やがて心身のバランスを崩し、弟子に嫉妬をおぼえ、関係を破綻させていくという背景に、著者自身が、恩師の年齢に近づくにつれ、気づいてきた、と独白されるその物語には、もの悲しいね、という感想が湧く。欧米の最新思潮に通じる学者にとっての老年は、それほどまでに貧しいものなのか」と、四方田に共感を示すような感想を素直に書き記した後、「内田樹が一昨年だったか『先生はえらい』という本を書いた。たとえどんな人士であろうと先生は『えらい』」という、じつにまともな指摘をしたあと、最後に、「弟子の『えらさ』ばかり伝わってくるのが、この卓抜な評伝の弱点である」と断じている。たいへん控えめで上品な言いまわしだが、私から見ると、これはまさしく「一刀両断」である。
四方田犬彦を少しでも知っている人なら、この評価に深くうなずくことであろう。そう、彼は自分がいかに偉いかを書きたいがためにものを書く物書きなのである。自分が「えらい」ことを示すために、わざわざ恩師の評伝を書くような人間なのだ。
【…】恩師について書くのなら、それはオマージュでなくては「意味がない」。一方的にならないように、同じく弟子であった超人・高山宏の書評を紹介しておく。
【…】東大入学を果たした四方田青年は、駒場キャンパス1970年代に伝説として残る「由良ゼミ」に難関突破して入る。まずはこの時の講義ノートを改めてめくりながら、四十代、脂の乗り始めた若き天才英文学者の年毎に新たなゼミの、びっくりするように斬新なテーマの紹介と、ゼミの様子を述べる冒頭に、同世代の脱領域・脱構築(両語とも由良氏発明の訳語だ)をキーワードに、ひょっとしたら沈殿する人文・社会科学に面白そうな明日が開けるかとワクワクしていた気分を多少とも知る団塊と、団塊直下の世代は、結構胸を熱くするかもしれない。構造主義的民話・物語分析があり、マニエリスムがあり、かと思えば気の利いた学生が調達してきたフィルムの実写を伴うドイツ表現主義映画の分析あり、つげ義春ほかの漫画の記号論的分析あり、学生の発表を悠然とダンヒルをくゆらせながら聴く美男ダンディ由良君美(きみよし)の姿が、まるで眼前にホーフツする。エルンスト・ブロッホを読み、ミルチャ・エリアーデを講じるこのゼミとは、つまるところ、1960年代後半から約十年強続いた「学問の陳立ての再編」(由良氏自身の言葉)の大きな――しかし改革を迫られていた大学が巧妙にやり過ごした――うねりの余りにも見事な縮図であることを、このどきどきする百何十ページかをめくりながら改めて再認識した。【…】
良き弟子へのこの良き師の一発の鉄拳で袂別が訪れる。外国へ出たことがなく、客観的に自分と日本を見る展望を持ち損ねた師が老いを迎えて、新時代の潮流に身をさらし、英語もイタリア語も韓国事情も自由自在という弟子に「嫉妬」という物語では、わかりすぎて少々艶消しで、師弟というものをめぐる山折哲雄の深い思索への目配りが救いだ。由良の弟子の一人として、複雑な思いではあるが、よくぞ書いてくれました。「さながら悪魔祓いのように」、と四方田は記している。
※それにしてもマスコミというのは非情なものか?ホリエモンこと堀江貴文が出てきた時は大騒ぎをして、「時代の寵児」とまつり立て、クイズ番組にまで出させてタレントのように扱って、警察が強制捜査をしたら手のひらを返すように、悪人として扱う。なんてことだろう。もちろん、ジェットコースターと同じようにそのギャップが面白いのだけど、自分たちだけを埒外にして楽しむのはどうだろう。
ライブドア事件は尾を引き、民主党の永田寿康衆院議員はライブドア前社長の堀江貴文被告が武部自民党幹事長の二男へ3000万円送金と電子メールで指示したと指摘した問題に関連してこれが「ガセネタ」ということが分かり、議員辞職することになった。ソースをもっと確認しなければならなかったということだ。
江戸の川柳にも「太鼓持ち揚げての末の太鼓持ち」というのがある。
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