作家はその作品を通じて、自分を発見し、自分を実現する。作品以前において、作家は自分が誰であるかを知らないし、現に何ものでもない。作家は作品を始点にして存在し始める。
------モーリス・ブランショ
難しいことをやさしく
やさしいことを 深く
深いことを 愉快に
愉快なことを まじめに
書くこと
------井上ひさし書く前は細心に、書き出せば大胆に。
文章は感受性人間の慰安にあらず。
------村田喜代子「昔から作家になりたいと思っていたの?」とキリエ【淳平の恋人】が質問した。
「そうだね。というか、ほかの何かになりたいと思ったことがなかった。ほかの選択肢を思いつけなかった」
「要するに夢がかなったんだ」
「どうだろう。僕は優れた作家になりたいと思っていたんだよ」、淳平は両手を広げて、30センチほどの空間を作った。「その間にはかなりの距離があるような気がする」
「誰でも出発点というものはあるのよ。まだ先は長いでしょう。最初から完全なものなんてあり得ないもの」と彼女は言った。
---村上春樹「日々移動する腎臓のかたちをした石」(『東京奇譚集』新潮社)文章を書くことは難しい。でも、文章の方は書かれることを求めているのだ。そういうときにいちばん大事なものは集中力である。その世界に自分を放りこむための集中力である。そしてその集中力をできるだけ長く持続させる力である。そうすれば、ある時点でその辛さはふっと克服できる。それから自分を信じること。自分にはこれをきちんと完成させる力があるんだと信じること。
---村上春樹『遠い太鼓』僕の考える良い文章とは、「ほかの誰とも違うけれど、誰にもよくわかる」文章です。言うは易く、ですが。
---村上春樹『これだけは村上さんに言っておこう』(朝日新聞社)職業的にものを書く人間の多くがおそらくそうであるように、僕は書きながらものを考える。考えたことを文章にするのではなく、文章を作りながらものを 考える。書くという作業を通して思考を形成していく。書き直すことによって、思索を深めていく。
---村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』(文藝春秋)「強い事実」こそ、抑え目に語るほうがいいです。
「それじゃ弱すぎちゃうんだ」としても、そうするほうがいい。
---糸井重里『思い出したら、思い出になった』(東京糸井重里事務所)
☆きちんと書くこと
☆自己表現
☆テーマ
☆文章の違い
☆ネタ
☆タイトル
☆ブリコラージュ
☆インターネット文章読本
☆書く時に大切にしていること
☆簡潔さ
☆レトリック
☆文体
☆バランス感覚
☆締切と推敲
☆誤解と批判
☆記録性
☆悪文
☆結論
★おまけ--入学・就職「作文」
「豊かな講演のための“紙”上講演」「コミュニケーション能力を高めるために」という文章を書いたところ思いもかけず世界中から多くの方々に今度は文章の書き方を書いてくれという依頼が殺到した、ということはまるでなくて悔しい思いをしたので、こちらから書いてしまおうと思ってまとめたのがこの文章である。
書くことをためらっている人々に捧げる。コミュニケーション能力というと会話力だと思われがちであるが、プレゼンテーション能力もあるし、何よりも基本は文章力である。文章は書けないが話の面白い人はただの人気者である。
これで、講演の仕方、コミュニケーションのあり方と共通点の多い三部作になった。だからといってどうってこともないが…。
□ もともと「文科系とマルチメディア」の一部を独立させた文章ですから、そちらを読んだことのある人には無意味だ。
それから、この文章はお笑い系の散文をたしなむ?人には参考になるかもしれないが、文学や論文を目指す人には無価値だ。富岡多恵子は「文章とは、それを読み終えたときに、読む前よりも人格が高まるようなものでなければなりません」と話したが、このエッセイは人格を高めることはありえないので、念のため。
と、わざわざ言わなくても、他の文章から分かっているってぇ…。その通りだが、無意味の中に意味を見つけることができるのが面白いのだ。
いずれにしろ、書くことがなくなっているということだ。
日本語を上手に書きたい、という気持ちは誰でも同じだ。
間違ってはいけないことは文章といっても論文、評論、随筆から案内文などの実用文までいろいろあることだ。もし、僕の多くの文章を分類するとしたら「ジャーナル文」(鷲田小彌太)に相当するかもしれない。これは論文でもエッセーでもない中間的な文章で、不特定多数が読むに耐える文章といえよう。論文と違って自分が前に出てくるし、論拠も独りよがりの部分があるかもしれない。参考文献をずらりと並べることもしない。不特定多数を相手にするということは、非常に知的な人もいれば、無知な人も混じっているということだ。この矛盾を克服するのが難しい。
以上の理由で、ここでは小説の文章論は書かない。というか、書けない。司馬遼太郎は『坂の上の雲』のあとがきに「小説という表現形式はマヨネーズをつくるほどの厳密さもないことである」と書いているが、小説は従来の形式を破ろうとするから定義したとたん、違うものが生まれてくるから凡人には何も書けないのだ。「小説は悟りますと書けませんね。小説というものは迷っている人間が書き、迷っている人間に読んでもらうもの」と講演で語ったのも司馬遼太郎だった。
小説は科学ではないからだ。「因果律」で考えてはいけないと三田誠広は『こころに効く小説の書き方』(光文社)で次のように書いている。
小説を書こうとする多くの人が失敗するのは、現実を見つめているつもりでいて、実は見ているものを既存のパターンにあてはめているだけだからです。
五歳の時に両親が離婚した。だから、自分は性格が暗くなった。
小学校の時にイジメにあった。そのために性格が歪んでしまった。
会社をリストラされた。そのために、生き甲斐がなくなってしまった。
こういう発想は、切り捨てなければなりません。Aという原因があって、Bという結果が起こった、というような当たり前の論理を捨てるところから、小説を書くという作業は始まるのです。
当たり前のことを当たり前に語ったのでは、面白い小説にはなりません。そうではなくて、目の前の現実をしっかりと見つめれば、当たり前ではない何かが、必ず見えてくるはずです。□ ただ、僕は自分の思っていることを、他人が読んでも面白そうなことを分かりやすく書いているつもりである。
タダで文章を公開しているのだから他人のことまで心配しなくて良い、なんて思うのだが、公開するからにはいっぱいの人に読んでもらいたい。「私は…」というのが前面に出た文章では誰もついて来てくれない。控えめの自分が必要である。
□ 上手に、の前にきちんと書くことが大切だ。5W1Hやテニオハがしっかりしてないと意味不明の文章になる。事実についても客観的でなければならない。主観ばかりの独りよがりの文章ではいけない。これらについては本多勝一『日本語の文章作法』(朝日文庫)に詳しいのでそちらに譲る。
「文は人なり」というから文章に心がこもっていなければならない、などとはここでは言わない。心より技術だ。技術を学んでから心をこめないと独りよがりの文章になってしまう。
よく「文は人なり」といわれるが、わたしはこれに反対である。
第一に、文は明らかに人間ではない。文はことばからできているが、人間は肉や骨からできている。
第二に、人間は自分の人格に関係なくどんな文章でも書けるのである。卑しい根性の持ち主がこの世のものとは思えないような崇高な文章を描いたり、神経質な人が無神経な文章をわざと書いたり、人間的にどうかと思うような人が神の立場から書くこともできるのだ。
------土屋賢二『ツチヤの軽はずみ』(文藝春秋)
土屋のは冗談だとしても、例えば僕は非常に頭の回転の速い、知的な人間だとネット上では思われているかもしれないが、ふだんは鈍で間抜けで、うろうろしているタイプである。また、「文は人なり」という考え方に固執していると文章が楽しめなくなる。スポーツを人生と考えると途端にウソ臭くなって楽しめないのと同じである。
□ 文章読本には谷崎潤一郎や三島由紀夫や丸谷才一、井上ひさし、橋本治にいたるまでいっぱいあるからそちらを読んでほしい。実用的なものと文学的なものがあって、どちらに偏りすぎても面白くないところが難しい。
ここでは美文も美女も追わない。僕らなんかに微笑んでくれるはずがないから夢の中で追いかけていた方がいい。ただ、丸谷のように「ちょっと気取って書け」といった方が正しいかもしれない。同じ文章を書くにしてもちょっと工夫すればみんなが読んでくれる文章に仕上がるからである。映画で「シネマ・ヴェリテ」(真実の映画)という運動があったが、ある人をあるがままに撮ってみても真実が映し出せることはあり得ない。構図があるし、アングルがあるし、編集がある。あるがまま何かが映し出されるのではなくて、全て監督の視点で描かれてしまう。
四方田犬彦は「文章を書くときはちょっと背伸びするのが秘訣」とどこかで書いているが、僕らのような素人が背伸びしすぎたら、みっともないことにならないだろうか?
□ 気取って書け、といっても、名文を目指してはいけない。自分で名文だと思ったら、それは独りよがりの駄作である。名文は文章が語るものであって、自分が感動するものではない。自ずから生まれてくるのであって、素人が書こうとして書けるものではない。ただ、文章を意識して書けということだ。
天才をまねてはいけない。有吉玉青は『一語一会』(朝日新聞社)のエッセイで、ヘミングウェイの「キリマンジャロの雪」を原文で読んで、こんな風に書きたいものだと思った。その途端に先生が「ヘミングウェイは天才だから、できるのです。誰も、こんなふうには書けません」と冷水を浴びさせた。「先生のその言葉は、悲観主義でも、諦観の勧めでもない。ただひたすら正しい認識のように、私には思えた。そして天才の所産に素直に感動するところからこそ、次の扉が開くように思ったのである」。
この辺の事情は司馬遼太郎が「日本の文章を作った人々」という講演で話している。
素人と玄人の文章の違いは、精神があるかどうかなのです。【…】
文章は物を表すためだけに、あるいは心を表すためだけにあります。
正直であればいい。それが基礎なんですが、つい格好をつけます。
「どうだ、名文だろう」
と、自己をひけらかしたりするのが私心です。
自己は本来、生まれたては清らかだとします。清らかなものは世を経(ふ)り、世間を渡っているうちに競争心が出てきます。負けず嫌いにもなるでしょうが、文章を書くときにそれを出してはいけません。漱石にも負けず嫌いの気持ちは合ったでしょうが、それを押し殺しての「則天去私」です。文章を書くときでも「則天去私」でいく。そんな注意が、その言葉に込められていたと思うようになったのです。
名文は天才だけのものではないという人もいる。『鍋の中』(黒澤明『八月の狂詩曲』の原作)で芥川賞を取った村田喜代子は『名文を書かない文章講座』(葦書房2000)というのを書いている。村田によれば文章は難しくない。次のことを守ればよいという。
一、文章は声に出して読む。
二、テーマとは他人としゃべりたい事柄に、普遍性を持たせたものである。
三、構成はおしゃべりの筋書きと同じである。どう効果的にしゃべるかだ。
四、名文を書こうという意識を捨てる。テニヲハなど、細かな間違いをあまり気にしない。
五、推敲は自分の耳と、他人の耳を借りる。村田のいうことで全てなのだが、それではエッセイにならないので自分のコツを書いてみようと思う。
□ ここではネットで流せるような文章の書き方、というか心構えを書きたい。というのも、みんな書きたいと思っているのに、躊躇していることが多いからだ。
書き込みなどの文章を読んでいると立派なのに、書けないという。だから、気楽に書いていいよ、ということを書いてみるつもりだ。
言葉は人間の能力のプラス・アルファである(マイナスとも考えられるが…)。それを使わない手はない。21世紀になってホームページも持っていなければ「デジタル・ホームレス」ということになってしまう。
□ ウェブライターとして有利な点がいくつかある(そのまま弱点でもあるが…)。
- 無料である------印刷と違ってどんなに文章やレイアウトに凝っても長くてもタダ。
- パソコンを使う------書けるところから書けるし、紙の無駄にもならない。
- 順に考える必要はない------書き出しが書けないと悩むことはなくて書けるところから書ける。
- 締切がない------じっくり推敲ができる。
- 早い------印刷には校正も含めて長い時間がかかるが、すぐに公開できる。
- すぐに直せる------まずい部分があってもすぐに直せる。
- 不特定多数に時空を超えて読んでもらえる------新聞などは多くの人に読んでもらえるがその日だけで本でも1万人を超えることは無理でまして世界中の人に読んでもらうことは不可能。
- 直接的な反響がある------すぐに反応があって、励みになる。
□ タダの読者ほど気まぐれはいない。面白くなければ文句だけ言って去って行くし、ちょっとでも瑕疵(きず)を見つけると、キングコングの首を取ったように喜ぶ。
タダの観客も怖いが、タダの読者はなまじ文章を書くことが誰でもできるものだから他人に厳しい。お金を返せといいかねない。
「反応」というと格好いいが、気分の悪いメールを送ってくる輩もいる。
□ いずれにしろ、ちゃんと他人が読むに耐える文章を書かなければならない。それは独りよがりの文章ではなくて、他者に開いた文章でなければならないと思う。
自分にしか書けないことを誰が読んでも分かるように書くことである。
何のために人は文章を書くか。これについてはロラン・バルトが「書く理由十か条」(『ロラン・バルト著作集6』みすず)の中で、第一に「快楽の欲求からである。それは言うまでもなく、エロティックな陶酔と関係がないわけではない」と書いている。
僕らのレベルからいえば、まず自己表現である。そういうとすぐに引いていく人がいるが、誰だって文章を書きたいはずだ。それが下手かもしれない、笑われるかもしれない、と思って書けないだけだ。つまり、心の問題だ。
大江健三郎は『小説の経験』(朝日新聞社)の「想像し物語ること」で次のように書いている。
人間とは、誰でもどこかで自己表現をしたいと願っている生きものだとつくづく思います。障害をもっている私の息子も、この十五年ほどの間に、ピアノを教えられるうち、自分で作曲するようになりました。ある人に表現する手段を与え、それをやるように励まし、そして表現されたものを受け止めてやる。そうすれば、自力では自己表現する道が絶たれているような人も、改めて表現を始めるようになる。デイケア・センターに通ってお習字をしている老年の義母を見てもそう思います。
文学のいちばんの基本には、こうしたかたちの、人間とは自己表現したいと願っている生きものだということがまずあると思います。しかもそれを言葉、文字を通じてやる。言葉を書きつけると、それまでは意識にはっきりとはとどめていなかったもの、出来事が、手ごたえのある対象、情景として浮かび上がってくるということがあります。まだどういうかたちでか文章にその書き手の「声」が響きだして、独特の文体をつくりだすことにもなります。このようにして文学が生まれてくるといって、基本的に誤りではないだろうと思います。
つまり、「書く仕事」には「隠し事」はない、ということだ。
ネットに日本で2000万人、外国からのアクセスもあるからほとんど無限に近い人が読む可能性があるのだから、必ずあなたと感性が同じ人がいて、どんな文章でも共鳴してくれるはずだ。万人に認められるような文章をめざしてはいけない(そんな文章が僕や僕の文章を読んでいる人には不可能である)。
ただ、自分が何であるか、何をするのか、自覚していないといけない。自分を知ることが大切だというのはそこである。自分の言葉は書く、話すことが大切だが、どれだけ自分を知っているかにかかっているのである。
文章によって自分の考えを外在化すれば、自分を客観的にみることができる。思想を頭の中でぐるぐる回していても、眼が回るだけだ。文章にして客観的に自分を見る、自分とつきあう、そして自分と戦うことが大切だ。
そうすれば本来の自分と心を通わすことができる。
□ ただ、自己表現といっても、アメリカ人のようにアグレッシブに自分を前面に出していくというのも問題がある。佐藤学の対談集『身体のダイアローグ』(太郎次郎社)で谷川俊太郎は次のように語っている。
詩のことばが作品として成立しているかどうかは、ほどんど直感で判断するしかないんだけれど、ひとつには、そのことばが作者を離れて自立しているかどうか。そのように自立したことばというのは、書いた人間の騒がしさから離れて、たとえどんなに饒舌に書かれていても、ことば自身が静かになってそこに在る。
逆に、たった三行の詩でも、騒がしい詩というのはあります。詩というのは、いわば芸がないと成立しないもので、ほんとうは、芸があって、ことばが自立しているほうが、実際には他者にはよく伝わるはずなんです。「自分はこんなに苦しんでいるだ」ということをいうだけでは、意外に他者には伝わらないものです。
いま、だれもが「オレが、オレが」と自分を表現しようとしていることが、たぶん騒がしさのいちばんの源なんじゃないでしょうか。
じゃあ、騒がしくないことば、沈黙をどこかに秘めたことばとはどういうものかを考えたときに、それは個人に属しているものではなくて、もっと無名性のもの、集合的無意識のようなところから生まれてくるものだと、ぼくは思う。
□ 書くきっかけは色々考えられる。村上春樹は29歳の1978年、ヤクルトが初優勝したのを神宮球場で見て「ヤクルトが優勝したんだ。俺も何かできそうだ。小説を書いてみよう」と思い立って書き始めたのが『風の歌を聴け』だった。これが群像の新人賞をとって、作家になった。早稲田を出てから始めた喫茶店は流行っていて、そのままで一生を終えてもいいかな、と思っていたそうだ(デビュー時の『週刊朝日』には早稲田の演劇の卒論「アメリカ映画における旅の系譜」を出した時に、印南高一(いんなみたかいち)教授が「君は小説が書けるんじゃないかね」ともらした言葉がずっとひっかかっていたともいう)。
もう初優勝という球団はないから、村上のような動機はもてないが、人はほんの小さなことで書き始めることができる。
向田邦子が作家としてデビューするきっかけとなったのはエッセイ集『父の詫び状』である。向田の父親は保険会社に勤務し、仙台支店長を務めた。母も父と暮らし、向田は東京の祖母宅から学校に通った。冬を仙台で過ごしたとき。父の客が酔って戻し、玄関を汚した。朝、母に代わって凍りついたものを掃除したが、家族にこんなことをさせる父や黙って耐える母に腹が立ったとか。起きてきた父は無言のまま、面倒な掃除が終わるのを見ていたそうだ。数日後に東京に戻るときも父は駅で「じゃあ」と言っただけ。ところが祖母宅に父の手紙が届いていた。巻紙に筆でしっかり勉強をと書き、最後に「此の度は格別の御働き」と、その一行だけ朱色で傍線が引かれていた。そして、これが「父の詫び状だった」。日本人は丁寧に話したり、手紙を書いたりすることが苦手だ。でも、こんな小さなきっかけで父親と交流が深められたり、更に作家として大成するきっかけをもらったりするものなのだ。
□ 手紙はラブレターであれ、借金の申込であれ、きっかけははっきりしている。ただ、短いが、難しいものだ。樋口一葉はお金を稼ぐために『通俗書簡文』という手紙の書き方の実用書を書いた。肺結核の死の床での執筆で、生前に刊行された唯一の本だ。年始の文、歌留多会のあした遺失物を返しやる文、猫の子をもらいにやる文、離縁を乞わんという人に、などなど掌編小説さながらのストーリーが展開する(池内紀は『文学の見本帖』みすずで高く評価している)。 同じく、辻仁成の『代筆屋』は若い頃、喫茶店のマスターに頼まれるまま、色々な人の代筆をしてあげた話だが、相手に立場に合わせた見事な手紙集になっている。何しろ、88歳で離婚しようというおばあちゃんのために代筆したり、死んだ子どもの代筆をするというドラマティックな作品になっている。
□ まず書き始めよう。鷲田小彌太は『自分のやりたいことを見つける技術』(ダイヤモンド社)の中でいつまでも創作しない人を批判して次のように書いている。
そういう人に限って、現実の世界でその才能が評価されるのを恐れ、自分はほんとうは小説家になる才能がある、画家になる才能があるという思いこみを抱きつつ、現実には、その世界では勝負せずに、フリーターなどしながら、自分は周りのこいつらとは違うのだと、つまらない幻想だけを抱いて生きているようなことになります。
本当は勉強ができるのだけれど、しないからアホのままでいることを自慢する学生がたまにいるが、勉強をすることが実力なのであって、勉強しないで持っている「潜在能力」などないのである。努力さえすればできる、という人の多くは努力する力を持っていない!
1日10ページ、2000語を目安としているという、スティーブン・キングも『小説作法』(アーティストハウス)で次のように書いている。
創作活動は【…】心霊術の占いや、霊媒の口寄せなどとはわけが違う。配管工事や長距離トラックの運転と同じ肉体労働だ。作家の務めは、毎日朝の九時から昼まで、あるいは、七時から午後三時まで、自分がどこで何をしているか、ミューズに確実に伝えることである。
だから、書き始めよう。
隗より始めよ。隗から書いてみよう。
※「隗」<かい>〔「戦国策(燕策)」にある郭隗(かくかい)の故事。隗が燕の昭王に、賢臣を求めるならまず自分のようなつまらない者を登用せよ、そうすれば賢臣が次々に集まって来るだろうと言ったことから〕
(1)遠大な事をするには、手近なことから始めよ。
(2)転じて、事を始めるには、まず自分自身が着手せよ。
-----『大辞林』(三省堂)
小説家=詩ほど簡潔でなく、戯曲ほど複雑でなく、エッセーほど知的でなく…宣伝文ほど刺激的でなく…政治演説ほど煽動(せんどう)的でもないものを、書いている人種のこと---別役実『当世悪魔の辞典』
鷲田は、書く技術として5つの法則を挙げている。
1.キイワードやキイフレーズを必ず立てる。
2.三分割法で書く。
3.一分割は200文字で書く。
4.作文、感想文は禁物。
5.長文は単文の積み重ねである。以上の5項目である。ここでいう三分割法とは、言いたいことを3つ、「正・反・合」に分けて書くという手法である。
「正:言いたいことをまず言う」
→「反:それに対する反対論拠を書く」
→「合:反対論拠をさらに反駁し、いいたいことにさらなる論拠を与える」というもので難しく言うとテーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼということになる。僕の文章は「正・反」だけで終わることもある。
鷲田は中でもとりわけ重要なのが、キイワード、キイフレーズを立てることだと述べる。僕自身もパラグラフごとに大切な言葉や命題というものを考えている。
□ もちろん、論文の場合には少し様相が違ってくる。論文とレポートの違いは前者が自分で調査・研究・推論した結果であるが、レポートというのは講義や教科書など学習したことの報告にすぎない。
- 新規性------学問的に新しい知見を提供するかどうか?
- 継承性------必要な先行研究をきちんと踏まえているか?
- 実証性------主張の裏付け、根拠を十分に提供しているかどうか?
- 論理性------記述および論旨の展開が正確かどうか?
- 明確性------読みやすく分かりやすく書かれているかどうか?
- 形式性------投稿規定に従って、長さ、構成などが適当か?
論文には「私」や私の主観が出てくるのは避けるべきだし、論拠もなしに「…である」と決めつけることもできない。
読みにくい論文は、論点が整理されていない、肝心のデータが後にある、表現に具体性がとぼしい、事実と意見が入り交じる、などである。論文の要点を一言でいうと“Be relevant!”である。つまり、無関係な事は書かない、必要なことだけ書く、分からないことは書かない、論理的で説得力のある文を整然と書くことである。
山内志朗『ぎりぎり合格への論文マニュアル』(平凡社新書・またの名を「ブタでも書ける論文入門」略して「ブタ論」)と)にこれに関するギャグがあるので、譲る。「時間がなくてできなかった」は禁句で「今後の課題とする」、引用だらけになったら「様々な見解を年代順に整理してみる」という具合である。
キプリングは5W1Hを「6人の召使い」と表現したが、文章によっては欠かせない要素だ。
□ 文章を考える時、ラブレターを考えてみればいい。ラブレターに正解はない。ひたすら相手のことを思って真剣に書くしかない。そして、これで相手を説得できるかどうか、よく見直してほしい。
フランスのバカロレア(大学入学資格を得る国家試験)で、ある年、作文に「夜のセーヌ川を君が散歩していたら、若い女性が飛び込み自殺をしようとしている。これを言葉で引き留めなさい」という問題が出たという。井上ひさしが文章能力という話の中で紹介した逸話で日本の公務員試験も少し学んでほしいと書いていた(『文芸春秋』特別版「言葉の力」2005年)が、説得する文章というのも生きていく上で大切だ。ちなみに、その時の最も短い、端的な解答があって、「結婚してください」だったという。解答者は後に作家で大臣にもなったアンドレ・マルローで、出題者は哲学者のアランだったという話になっている。死のうとしている人間を言葉で止めるというのは最高の瞬間だ。
□ 文章の長さについて。
詩人の荒川洋治が『日記をつける』(岩波アクティブ新書)の中で、作品の長さについて語っている。
作品の長さについては、ぼくは以前からおよそ次のような考えをもっている。四〇〇字詰原稿用紙で「何枚」というとき、次のようなことをこころがけるのだ。
一枚→どう書いても、何も書けない。(週刊誌の一口書評など)
二枚→何も書けないつもりで書くといいものが書ける。(新聞の書評など)
三枚→一話しか入らないのですっきり。起承転結で書く。二枚半あたりで「疲れ」が出てくるので休憩をとる。(短いエッセイなど)
四枚→一話ではもたないので、終わり近くにもうひとつ話を添える。(エッセイなど)
五枚→読む気になった読者は、全文読む枚数。見開きで組まれることが多く、作品の内容が一望できるので、内容がなかったりしたら、はずかしい。原稿に内容があるときはぴったりだが、内容がないときは書かないほうがよい。「書くべきか、書かないか」が五枚。(雑誌の見開きエッセイなど)
六枚→読者をひっぱるには、いくつかの転調と、何度かの休息が必要。(同前)
七枚→短編小説のような長さである。ひとつの世界をつくるので、いくつかの視点が必要。(総合誌のエッセイ・論文など)
この七枚以上になると書くほうもつらいが、読者もつらい。読者は読んだあとに「読まなければよかった」と思うことも多い。二、三枚のものなら、かける迷惑は知れているが、七枚ともなると「責任」が発生する。いわが社会的なものになるのである。これはたいへんなこと。七枚をこえて、たとえば一〇枚以上にもなると、読者は「飛ばし読み」をするから、意外に書くのは楽である。読者を意識しないほうが、むしろいいくらいだ。
というわけでぼくは文章というのは、人に見せるものとしては七枚あたりが限度だと思っている。それ以上長いものは人様に見せるものではない?とも思うのである。
わー!大変だ。僕の文章なんか、ナイル川よりも長い。「社会的な責任」といわれても困る。
長くて嫌だ、という人はお代を返しますから、どうかここで読むのを止めてください。
□ アメリカでは事実と意見の違いを小学校で厳しく教えるそうだ。「ワシントンは米国の初代の大統領である」というのは事実で「ワシントンは米国の最も偉大な大統領である」は意見である。論文は事実だけで意見を導き出さなければならない。エッセイは混在していても構わない。
ちなみに日本人の論文と外国の論文は流れが違う。
○欧米の論文:要旨/まえおき[テーゼ、方法論、結果、結論と論文の意義を強調]→方法論[それまでの方法論と自分の方法論の違いと優位性を明確にする]→結果→結論と論文の意義(明確にする)
○日本の論文:序[論文を書くに至ったいきさつ]→方法論[多くが省略]→結果→結論[多くが省略/論文の意義は読者の判断に任せる]
論文とエッセーの共通点については土屋賢二が『汝みずからを笑え』(文藝春秋)で明確に書いている。
論文とエッセイには共通点もある。どちらも文字を使って書き、会心の出来といえるものが書けず、批判の対象になる、などの点が交通している。だが何といっても最大の共通点は、わたしの場合、どちらも、結果的にロクでもないものになってしまうという点である。
□ 論文と言わないまでも小論文ということがある。原稿用紙5枚までの簡単な文章で需要はこちらの方が大きいだろう。「ほぼ日刊イトイ新聞」の「大人の小論文教室」には小論文の書き方が書いてあって、5大要素があるという。
おとなの小論文5大要素●
1.言いたいことをはっきりさせて。(意見)
2.相手にわかる「理由」を示す。
3.自分が「心から」言えることだけ書き、
4.相手にとっての意味も考える。
5.普段の信頼関係で、自分というメディア力を挙げておく。詳しくは「イトイ新聞」に譲るが、自分が心から思っている意見がなければ文章として面白くない。インテリというのは「ふつうの人が言いそうもないこと」をあえて言うのが社会的な役回りなのである。だから、いつだって意外性が必要だ。
□ エッセーや小説は3種類の文章からできている、と村田喜代子はいう。「地の文」「描写」「セリフ」である。この3つのバランスのいい文章を書けばいい。
「文章の基本点」として地の文に関して村田は次のような注意をしている。
一、観念語、哲学用語など生硬な言葉を文中に使わないこと(×「私の心の空間に虚無の風が流れ込んだ」)。
二、同じ言葉を使わない(×「私の故郷は西瓜の産地で、歩くと青い西瓜がやたら目につく。私の父は西瓜が好きで…」)。
三、形容詞を多用しない(×「目にしみるような赤い血のような、どす黒くさえ見える色をした大きな椿が、人の首のように重そうにうなだれて、寂しげに立っている」)。
宮本輝は描写と説明を厳しく区別しなければならないと書いている。同じように直木賞受賞の奥田英朗は「丸く線を引いて、円だと示すのが説明。丸の余白を塗りつぶして、円と認識させるのが描写です」 と語っている。同時に「安全地帯にいて書いても笑ってもらえない。ユーモアとは、どれだけ自分をさらけ出すか」ともいう。
形容詞について。「虎」の異名を取ったフランスの政治家で、首相も務めたジョルジュ・クレマンソーには新聞記者の経歴がある。「ラ・ジュスティス」紙で主筆をしていた時、新人記者から記事を書くうえでの心得を聞かれた。「簡単なことだ。短い句で書けばいい。動詞がひとつ、主格がひとつ、それから…」。少し考えて、つづけた。「もしも形容詞が使いたくなったら、おれのところへ聞きに来い」と言ったという。文章は形容詞から腐るという。読者を驚かせ、心を揺り動かす事実ならば、その事実を淡々とつづればよく、余計な飾り言葉は要らない。「形容詞無用の事実を拾え」という取材の教えでもある。
しつこく言うが、名文を追う必要はない。それは使い古された言い回しだったり、独りよがりの、訳の分からない文章にすぎないのかもしれない。逆に、日本語を客観的にみることも大切だということである。
□ ハンブルグに住んで創作活動をしている多和田葉子は90年代を代表する文学は、と聞かれて作者が母国語以外の言語で書いた作品と話している。
たとえば、母国語で書く文章は、危ないところを削られてお上品になっているのに対し、外国語で書くと文章に穴があるから、その穴から気持ちが直接飛び出していくことがよくある。また外国語では「巧みな言い回し」などというものに頼らないから、映像をはっきり出すしかない。型にはまったものの見方をうまく引用できないから、何もかも自分の頭で考えないとならない。だから、嫌でも真剣さが出る。滑稽も出る。おかしくて、直接的で、映像の鮮やかな「外国語文学」がわたしは好きだ。
-----「『外国語文学の時代』」『カタコトのうわごと』(青土社)何を書くか?
野口悠紀雄は『「超」文章法』(中公新書)で「知らないことがあった、まず書いてみよ」という。知らないことを書くことも大切だ。でも、最初は自分の趣味から始めるのが一番いい。ネタも多くて書きやすいし、同好の人からの共感も得やすい。
周りのことでもいい。妻との「戦い」を書いている人もいる(僕にはとても真似できない)。会社のことでもいいし、友達のことでもいい。
僕の文章の中では「メメント・モリ」が評判がいい。富山ネタが富山の人に受けるのはネタが身近だということもあるが、これはやっぱり実体験というのが背後にあるからだと思う。どれだけ体験から離れた抽象的な話をしようと、体験には不思議に重みというのか説得力がある。
少しずつテーマを広げていけば、自分自身の興味が広がってきて、新しい自分を発見できるかもしれない。
とりあえず日記から始めるのもいいかもしれない。旅行記なんか一番書きやすいし、同行の友達に読んでもらえるし、同じところを旅した人や、その土地の人に読んでもらえるかもしれない。
「書く物がない」という人は「考えることがない」のと同じだ。一緒に旅行をしていて何も書けない人は何も考えていないのである。書けないけど分かっているというのは分かっていないことの言い訳である。
村上春樹も書いてはじめて考えることができると言う。
□ テーマを考えよう、テーマのない作文はダメだ、と高校の先生は言ったかもしれないが、テーマは後からついてくるものである。
偉大な作家だって、「この作品のテーマは何ですか?」と聞かれたら困ってしまう。だって、数行で語れるくらいのテーマだったら、長い作品は必要がないからだ。
最初から、このテーマについて書こうと思わずに、気ままに書き始めてみよう。書き始めることが先で、テーマは後だ。テーマも書いた時は分からないかも知れないが、後で、自分が書いたものは、まるで違うテーマを、異なった手法で書いていた、なんてことになるかもしれない。絵画のペンチメント(pentimento)みたいに書いた後からにじみ出てくるものだ。
論文でない限り、テーマなど横に置けばいい。“片テーマ”でいい。
僕のホームページだって、言語学周辺のことを気ままに書いているのだが、ある人から「知の脱力系」といわれて、なるほど、自分のテーマはそういうものだったのかと納得したことがあった。後からフーコーなどを知って、似たようなことをしている人がいるものだと感心することもある。
小説や戯曲も恐らく同じだろう。テーマなどに振り回されず、好きなことを書いていく。そのうち、作品じたいが語り始めることがある。ストーリーが勝手に展開することもあって、とりあえず気にしなくていいと思う。
ただ、エッセーでも小説でも戯曲でもプロットは必要であろう。ストーリーとプロットは違う。イギリスの作家、E.M.フォースターは1927年に『小説の諸相』(みすず書房)の中でストーリーとプロットを巧みに区別している。
ストーリーとは出来事が時間順に配列されたもので「王様が死んだ、そして女王様が死んだ」はストーリー。それに対して「王様が死んだ、そして悲しみのあまり女王様が死んだ」はプロット。さらに、「女王様が死んだ。理由は誰にもわからなかった。やがて死因は王様の死を悲しんだためであることがわかった」と書けば、それは推理小説のような「謎を含んだプロット」、すなわちストーリーと遠く離れたものである、と言う。この「実は」というのがプロット(“plot”<仕掛け>という意味と同時に<策略、計画>)で、そういう「したたかな企み」というか、仕掛けがあるから、他人は前へ前へと進んでいってくれる。
禁欲的なノンフィクションにはストーリーだけというのが多いが筆力がないと飽きられる。短い評論の多くはプロットの恒星になっていて、手短に理由が明かされる。つまり、プロットが作品を面白くする<見せ方><仕掛け>なのである。
しかし、フォースターもいうようにプロットというものは「読者に知性と記憶力を要求する」ために、「謎を含んだプロット」を使って謎解きを先送りすると、下手な探偵小説のようにつまらなくなる。
□ ただ、<モチーフ>は大切だ。どうして私はこの作品を書こうとしているか、書き始めたかという動機なのだが、初心忘るべからず、である。<モチーフ>はアンテナを高くして待っていると必ずキャッチすることができるものである。
アンテナとは何か?観察力である。たまたましていた雑談とか、光景とか、読後感が大きく膨らむことがある。
そうしてキャッチした、全く別なものを組み合わせると想像力が刺激されて、新しいものが生まれてくる(かもしれない)。東海林さだおは擬人法を得意とする。太宰治の『富嶽百景』にも秀逸な擬人法がある。
私は、部屋の硝子戸越しに、富士を見ていた。富士は、のっそり黙って立っていた。偉いなあ、と思った。
「いいねえ。富士は、やっぱり、いいとこあるねえ。よくやってるなあ。」富士には、かなわないと思った。念々と動く自分の愛憎が恥ずかしく、富士は、やっぱり偉い、と思った。よくやってる、と思った。
「よくやっていますか。」新田には、私の言葉がおかしかったらしく、聡明に笑っていた。しかし、東海林さだおの文章は何よりも金井美恵子が「繊細なせこさ」と評している観察眼からうまれる。
赤く、丸く、愛くるしく、清楚、そして可憐。
この世のけがれを知らぬげな、鮮紅色の無垢の魂。
“初夏のルビー”と言われる、その張りつめた皮肌は輝きに満ちて、あたりの風景を映さんばかりだ。
丸くて可憐で赤い果実に、突きささるような薄緑色の細くて長い柄。
完結したデザイン。実在するメルヘン。エンゼルの玩具。
気品にあふれ、優しさに満ち、そのたたずまいは宗教的ですらある。【…】
さくらんぼその程のよき大きさよ 荻斉
そうなんですね。さくらんぼがプラムほどの大きさだったら。
カボチャほどの大きさだったら。
あるいは大豆ほどの大きさだったら。
あの薄緑色の柄の果たす役割も大きい。
もし、あの柄がなくて、丸い実だけだったら、さくさんぼの存在価値の四割は損なわれると思う。
しかもです。あの柄の長さ。
あの柄は、もう一センチ長くてもいけないし、五ミリ短くてもいけない。
得も言われぬ絶妙なその長さ。
その上、あの柄は、デザイン的に大働きをしたあと、こんどは食べるときの把手(とって)としても大働きをする。「桜桃、応答す」東海林さだお『鯛ヤキの丸かじり(あれも食いたいこれも食いたい)』
小型のコッペパン風のお腹がタテに切り裂かれていて、そこのところにウニャウニャと焦茶色のヤキソバが押し込まれており、ちょうどまん中へんのところにまっ赤な紅生姜がちょっぴり。
一言でいうと下品。
二言出いうと安っぽくて下等。【…】
ここには美学というものは存在しない。急な客があって、そのへんのガラクタを乱雑に押し入れに押し込んだごとし。【…】
よく考えてみると、この組み合わせはまことにヘンだ。
麺にパン。
ヤキソバはそれだけで一食をまかなえる主食であり、パンもまた主食である。
世帯主と世帯主、本来ならば皿を一つにしてはいけない仲である。
同きんしてはいけない仲なのである。
テーブルの上に、ヤキソバの皿があり、パンの皿があったとする。
この二者を眺めた人は、この二人が抱き合うとはツユ思わないであろう。
ところが二人はヒシと抱き合ってしまったのだ。
いけないことをしてしまうのだ。
同性愛というか、近親相姦というか、そういうことをしてしまうのだ。「ヤキソバパンの悦楽」東海林さだお『昼飯の丸かじり』
<モチーフ>を見つけること。例えば運動会でオッフェンバッハの『天国と地獄』がかかっていたら、何の曲か調べてみよう。オペラの作品で『天国と地獄』が“Orpheus in Der Unterwelt”、つまり、「地獄のオルフェウス」ということが分かったらオルフェウスの話がどんなだったか、黒澤明の『天国と地獄』が外国で“High and Low”だなんてことを思い出そう。オルフェウスの話がいざなみ・いざなぎの話に似ていることからもしかしたら何か関係があるのではと疑ってみよう。すると吉田敦彦と言う人に両者を比較した本があることも分かってくる。「開かずの禁」ということから民話の構造というのを考えてもいいし、地獄を比較してみてもいい。エスキモーに地獄はあるのかしら、なんて……。
そんな風にして広げていけば面白いと思う。その中で気付いた一部を発表すればいいのだ。結論まで出せないかもしれないが、自分で考えたという事が大切だ。論文とちがって、エッセイや小説にはテーマというものがあるようでない。一つのテーマだけが書かれているとしたら、新聞の三行広告と変わらない。一つのテーマを中心として膨らませてあるから面白い、血の通った文章になるのだ。
□ 100人いれば100の見方がある。別の100人があなたの見方を面白いと感じるかもしれない。村田喜代子は「左手」で書くことを奨励している。これは中学生が絵の宿題に悩んでいる時に画家の友人に聞いたら「左手で描かせなさい!」と言った話から来ているが、使い慣れていない手で描くと思いもかけない新鮮な世界が開ける。村田の小説の手法は台所や居間などの日常の空間が変換された視点で描くことである。だから、川本三郎は「デジャ・ヴュ」(“deja vue”で「既視」)ではなくて「ジャメ・ヴュ」(“jamais vue”で「未視」?)の作家だとどこかで書いていた。
(村田はこんな用語は使ってないが)「自動化」というかレールの上を滑るような思考で書くのではなく、「異化」というか思想のお散歩をして路傍の石を慈しむような文章を書くべきである。少しザラザラ感があった方が好きだ。同じことを話すのだって、バスガイドさんみたいに話されると、心地はいいが、何を言ったかすぐに忘れてしまう。
石原千秋は『読者はどこにいるのか』(河出ブックス)で異化の説明を編集者の坂本忠雄から採っている(斎藤美奈子との対談『21世紀文学の創造4』岩波)。純文学と中間小説を「分かつもの」を問われて「純文学は正確さを目ざすものだ」と坂本は考えてきたという。「執筆の動機、主題、表現などの課題を、自分のヴィジョンに照らしてもっとも正確に表わす。類型的なものは極力排す。それを『純』という言葉に惑わされて、純粋化を求めるあまり文学を狭く追いこんでいくと考える必要はない、とぼくは思っています」と言い切り、「中間小説はやはり類型的なんですね」と聞かれて、中間小説たるもの、「むしろ、類型的でないといけない」「そうでないとおおかたの読者には通じない」という。「文章の類型というのは、たとえば」と問われ、「あるものを表現するのにこの一つの表現でいい、と容認されてしまっている言葉を平気で使うということでしょう。ところが純文学というのはそういうふうに使っちゃいけないんですよ。どういうふうに見たか、という自分の言葉をひねり出さなくちゃいけない」という。
この例として石原は異化を多用した漱石の『道草』から「目の下の隈」と呼べばすむのを「大きな落ち込んだ彼女の眼の下を薄黒い半円形の暈(かさ)が、怠(だる)そうな皮で物憂げに染めていた」と書いているのを挙げている。
視点を変えるとか、複眼で視るとか、バランス感覚をつけるとか色々いうが、ちょっと視点をずらすことで物事が立体的になるし、まるで違ってみえてくるはずだ。誰もが思っているが表現できなかったような見方を文章にすれば100人どころか10000人も読みに来てくれる(はずだ)。
□ 村田によれば書くに値する文章とは次の通り。
一、誰もが心に思っている事柄を、再認識させ共感させる。
二、誰もが知りながら心で見過ごしている事柄を、あらためて再認識し実感させる。
三、人に知られていない事柄を書き表して、そこに意味を発見し光を当てる。
テーマについても村田は婚期を逃した三十代の女性のやるせない心境を描いた小説を批判して、こんな話は書き尽くされていてどんなに文章が上手でも視点を変えなければダメだという。親や友達に結婚していると嘘をついて暮らしている女性の話にして「大嘘つきの女を通して、結婚とは何かを逆照射で問い直してみる」ことが必要だという。村田はそんな風にいっていないが、これが<プロット>というものだ。
□ これだけインターネットで文章があふれていてと思うかもしれないが、画像ばかりの内容の乏しいページが多いのである。ウソではない。例えば、西江雅之先生には早稲田などで教え子がいっぱいいて色々と書いていいはずなのに、検索してみると僅かのページしかヒットしない。しかも多くが僕の文章である。
論文でも書く前は先行研究を調べることになっているが、ホームページでも先行のページを探してみればいい。宇多田ヒカルだったら多くの人が色々と書いているだろうが、あなたが書こうとしている<モチーフ>は意外と狙い目かもしれないのである。
つまり、書く<モチーフ>はいっぱい残っているということだ。ちょっと視点をずらすだけで共感できる面白い文章が書けるはずだ。
<モチーフ>と<ストーリー>と<プロット>が同じ作品はつまらない。微妙にずれているから色々な理解、もっといえば誤解が生まれる。何でも描いてしまうのではなく、読者の想像力をかき立てるようにする。僕の場合は、ウソかマコトか分からないように終わる。
テーマがあって、ロジックがあって、プロットがあって、スタイルを作り、ギミック(gimmick笑いなどのトリック)を仕込んで、エピソードでまとめる。
□ 文筆家に「正しくて、おもしろくて、新しいことを、上手に」書くことを要求する丸谷才一は『思考のレッスン』(文藝春秋)の「書き方のコツ」で「文章の最低の資格は、最後まで読ませることである」と書いている。そして「書き出しに挨拶を書くな」「書き始めたら着実に前を進め」「中身が足りなかったら、考え直せ」という。
書き出しに挨拶を書くな【終わりにも】。書き始めたら、前にむかって着実に進め。中身が足りなかったら、考え直せ。そして、パッと終れ。
そこにもう一つ、全体にかかわる心得を付け加えます。それは、「書くに値する内容を持って書く」ということ。
書くに値する内容といっても、別に深刻、荘重、悲壮、天下国家を論じたり人生の哲理を論じたり、重大な事柄である必要はない。ごく軽い笑い話、愉快な話、冗談でもいい。重い軽いは別として、とにかく書くに値すること、人に語るに値すること、それをしっかりと持って書くことが大事なんですね。
何よりも大切なことは「言うべきことを持って書け」という当たり前のことになる。
ちなみに、書き出しについて立花隆は『「知」のソフトウェア』(講談社現代新書)で次のように書いている。
書き出しをうまく発見できないときに試みる価値があるもう一つの方法は、自分が何を書こうとしているのかを人に話してみることである【…】。ただし、このとき重要なのは、話し相手を選ぶことである。
□ 書く癖をつけることだ。
書き続ければうまくなってくるし、それを公開すればもっと上手い文章が書けるようになってくる。
講演についても、コミュニケーション能力についてもネタがないとダメだと書いているが、文章にはもっと多量のネタが必要だ。
もっとも大切なのは素材である。コンテンツである。清水幾太郎は『論文の書き方』(岩波新書)で「部分品がなければ、機械は出来ない」というが、新鮮なネタが大切である。
面白い内容でないと誰も読んでくれない。
他人の知らないことを書けばいいが、全く知らないような事柄には読者は興味を示さない。講演でも学会発表でもそうだが、相手がある程度知っていることでないと誰もついてこない。カラオケのような自己満足的な文章になってはいけないと思う。
塩野七生は「嘘と真実」(『人びとのかたち』新潮社)で次のように書いている。
芸術家というのは、おしゃべりなのだ。だが、それは、自分の思うことを他者に伝えたいという欲求が強いからで、それがなかったら、深山幽谷で一人芸をみがいていればよいのである。黒澤先生もフェリーニも、異口同音に言ったものである。
黒澤「客が入らないようになったら、ボクは映画を作らない」
フェリーニ「自分のやりたいことをやりたいように作るのは、少しもむずかしいことではない。むずかしいのは、やりたいことをやりたいように作りながら、それをコマーシャル・ベースに乗せることだ」
私も、この二人の言葉を座右の銘にしている。スピルバーグ作品ほどの大ヒットである必要はないのだ。しかし、誰も見にこない作品を作って、見にこないのは観客の程度が悪いのだとうそぶくのは、ただ単に傲慢で馬鹿なだけだと思う。【…】
だが、芸術家くらい、枯れてしまっては困る生き方もないので、枯れるということは、クリエーティブな仕事をもつ者にとって、想像力の減少を意味するからである。伝えたい、見てもらいたい、読んでもらいたいという意欲ほど、想像力や創作力をささえるものはないと思う。
売れるものを創るというのは他人に認められることだ。他人が読んで面白い、ということは他人と違う視点をもつということだ。僕の場合は言葉が武器である。経済学が武器の人もいれば、数学が武器の人もあるだろう。
「武器」という言葉が悪ければ、外科医のメスと言いかえてもいい。切れる道具があれば、それで切ってみればいい。なあに、血が出るのは自分じゃないし、うまくいけば知が出てくる。
ジョンソン博士も文化・教養を身につけた人のエッセイは、面白いけれども、本当のエッセイは職業を持った専門家によって、はじめて書かれる」「なぜなら、専門家のエッセーは、読む人の心を逆転させるからだ」と書いているが、専門というメスで、違うものを切ってみればいい。読者に新しい境地に導くだろう。
ただ、ハンマーを持つ人には全てが釘に見えるように「武器」に頼りすぎてはいけない。「武器」で対象を壊してはならない。
□ ネタを増やすためには普段から文章を読んでいないとダメだ。いきなり何もないところから文章が書けたら、天才だ、といいたいが、それは独りよがりの文章になっているだけだ。恩田陸の『三月は深き紅の淵を』の中に次のようなセリフがある。「いいものを読むことは書くことよ。うんといい小説を読むとね、行間の奥の方に、自分がいつか書くはずのもう一つの小説が見えるような気がするってことない?」。
何でもメモを取ろう。
メモというのは庭で園芸をするようなものである。新しい種を植えて水をやって花を咲かせるものだ。時には植え替えたり、雑草をむしったり、彩りのよいように並べ替えたりして育てていく。メモも余白をもたせて書いておく。メモを増やしたり、眺めたり、並べ替えたりしながら文章を引き出していく。そのうち、言葉が言葉を生んで増殖していく。
□ 「高校生のための知的生産」という中でも書いているが、日記は知的生産のための、同時に文章表現の第一歩である。
同じことを、村田喜代子は「日常の文章化」として次のような具体例をあげている。
一、人と会って話題になった事柄を、帰路の電車の中などで再現し、頭の中でまとめてみる。
二、テレビを観ているとき、関連して浮かんだ想念などを夜に風呂に入ったときなどに、思い出してまとめてみる。
三、その他、日常に見聞したことを、わずかな心の暇に頭の中のノートに書き記す。
□ パソコンになってから他人の文章を上手に整理して取っておけるようになった。
僕はずっとカードを使っていたが、最近は使っていない。
今は本や古いカードやパソコンの中の引用やコピーを使って、なるべく色々な本を紹介している。
□ 趣味のことを書く時には、せっかくだから自分の知っていることだけでなく、調べたことも書こう。
調べるのもちょっと視点をずらして、色々と調べてみよう。セレンディピティというか何か見つかるかもしれない。
ネタということはアウトプットの前にインプットが必要であるということだ。
□ 音楽学者の細川周平は自分の身の回りに限定して小説を書く村上春樹を<ミノムシ型>、いろんな場所に行き、いろんな分野で本を書く村上龍を<ゴキブリ型>と分類しているが、ネタのためだといって家族を泣かすのは止めよう。まず、近辺からきちんと書いて、町に出よう!
タイトルは顔みたいなものだから工夫する必要がある。例えば丸谷才一くらいになれば『闊歩する漱石』という本を出すだけで売れるが、無名のウェブライターのインパクトのないタイトルでは誰も読みに来てくれない。まして、gooなど全文検索の検索エンジンで調べてくる場合は同じキーワードで数多くのホームページが並んでいて、その中で埋もれていては誰も読んでくれない。
青山南『ピーターとペーターの狭間で』(ちくま文庫)によれば『ガープの世界』のタイトル“The World according to Garp”を村上春樹は『ガープ的世界の成り立ち』、青山南は『ガープが世界を見れば』、斉藤英治は『ガープ的世界』、そのほかにも『世界、ガープ発』『ガープによる世界』『ガープによる世界解釈』など、色々なタイトルが考えられていたという。村上春樹の小説のタイトルを見ているとどれもうまいなぁと関心する。
なるべく美味しそうなタイトルを考える必要がある。といいながら僕も成功しているとはいえない。「菊と蒲鉾」というタイトルでは誰も読んでくれない。自分のエッセイのタイトルで好きなのは「天職を考える/転職は考えない」である。誤解されて学校を辞めなければならなくなったら困るから「転職は考えない」としっかりいうべきだったし、“Beruf”という「天職」の意味のドイツ語が日本で「転職」雑誌になっていることも面白いと思ったからである。
□ 村田喜代子も「タイトルという苦労」として次のような注意点をあげている。
その一、大きすぎるタイトル(『戦争と平和』『宇宙と人間』だとタイトル負けするし、無味乾燥な観念語に傾くきらいがある)
その二、歳時記から抜いたようなタイトル(『遅桜』『夏の蝶』『秋の蝉』では冒険がない)
その三、考えすぎるタイトル(『されど われらが日々------』『生活に夢を持っていない人々のための童話』『優しいサヨクのための嬉遊曲』など凝りすぎるのはが特殊を承知の作家のみ許される)
また、次のような説明もしている。
その一、内容を明かさないタイトル(「卵が光っていた頃」「五十年のツクシ」など読者に興味を持たせるタイトルにする)
その二、タイトルは最終行の後にくる(読後感が一層深まるような効果を収めるような文章が大切で、タイトルも含めた全ての文章が滞りなくつながる文章は読者の胸に入る)
□ 最後に、僕が考えたコツがある。それは新聞などと同じように二本見出しにしていることだ。「菊と蒲鉾」だと分かりにくいので「富山文化論」という説明的なタイトルも付けている。そうすることで少しでも読者に分かればとおもっているが……力不足で名前倒れになっているエッセーも多い。
アウトプットの前にインプットが必要である、なんて書くと何もないからと引いてしまう人が多いかも知れないが、引く必要はない。
ネットで色々書いている人の多くは既に文章が上手である。心配せずに公開すればいい。
ちょっとだけ秘密をいえば、僕には書いている途中の文章がいくつかあって、色々な考えや、様々な引用が発酵してこないとネットで公開しない。熟成するのを待っていると、僕などは老人になってしまうので、ちょっと若い味のするところで諦めて公開する。公開する直前は体裁を整えるために一気に書き上げるのだが…。
□ 会社のことでも普通の人の知らないギョーカイネタがいっぱいあるはずだ。暴露にならない程度にいろいろ書けるはずだ。
自分が面白いと思って他人が「ヘェー」と思うこと、これが一番の文章のコツである。
特に様々な興味を持ってアクセスしてくる人の多い、インターネットの文章のコツである。
そして、面白いことは何か、毎日書いていて悩むところなのである。
無から何も生まれてはこない。
□ 文章を書くことは料理に似ている。文章も料理も、相手あってこそのものである。相手を忘れてはいけない。では、材料は何か?
レヴィ=ストロースの考えに「ブリコラージュ」(bricolage)というのがある。フランス語で「いろいろな片手間仕事に手を出すこと」だったのだが、「さまざまな目的のためにあり合わせの道具類を用いること」という意味で使われる。材料を取りそろえていると何も始めることができない。「あり合わせ」の材料で「とりあえず」あるもので始めようという哲学だ。身近にあるもので作る家庭料理を京都で「おばんざい」というが、これである。
科学の思考をエンジニアで代表させて、野生の思考を日曜大工で代表させている。エンジニアは全体を見渡して必要なものをあらかじめ準備したり、必要な材料や器具も考案したり、購入してから計画を実行する。日曜大工は手許にあるものを調べて別のところで、別の状況に使えないか考えて別に設計したり、購入したりしない。
レヴィ=ストロースは「野生の思考」が決して野蛮人の思考ではなく、効率を高めるために栽培したり、家畜化する思考とは異なると考えた。野生の思考はやりくりしたり、ごまかしたり、寄り道をしたりする。そして、神話はブリコラージュで構築されていると考えた。
坪内祐三『シブい本』(文藝春秋)によれば、このブリコラージュという言葉はT・S・エリオットがウィリアム・ブレイクについてのエッセーの中で使ったのが最初だという。考えてみれば、全ての文学作品は先行する作品の変奏にすぎない。西欧ではもちろん、その親玉は聖書だ。ブレイクは「旧約聖書と新約聖書は芸術の大いなる体系(Great Mode)である」と書いた。ここからカナダの批評家ノースロップ・フライは『大いなる体系』(法政大学出版局)を書いた。そして、「ある意味で私は聖書を、ブリコラージュによる作品、ブリコラージュの書物として考察しようとしてきた」と書いている。
□ 芸術家もブリコラージュの人とそうでない人に分けることができる。例えばトリュフォーやスピルバーグは前者で黒澤明は後者である。黒澤は自分のイメージに合った風と雲が出るまで(どんなに費用がかかろうと)待つ。スピルバーグは『インディ・ジョーンズ』でハリソン・フォードが下痢で体調が悪いと分かったら、戦わせないであっさりとピストルを出して相手を殺してしまう。
テンベア型(スワヒリ語の「散歩」)の作者とサファリ型(スワヒリ語の「旅行」で目的地に直行)の作者がいる。
僕はあちこち、お散歩しながら、文章を前後させながら書いている。関連図書を全部集めてから書いたりはしない。
同僚だったN先生はほとんど直すこともなくまっすぐ最終章に向かって書いていた。「ながら族」なんて信じられないという人だった。
つまり、自分の論理に固執しないで、どんな論理でも、材料でも自在に使って文章を書くのがブリコラージュなのである。自説に固執すると理屈っぽくなるが、自由に飛躍すると論理的な人間になれる。
現代は明らかに前者の思考の人が多くなっているはずだ。そして、パソコンはブリコラージュ型、テンベア型の人にとって強い味方になる。
□ 梅棹忠夫の『知的生産の技術』(岩波新書)の中で画期的なのは「こざね法」というものだ。川喜多二郎のKJ法も似たようなものだが、これはテーマに関係のある単語や語句や文章を1項目ずつ小さい紙にランダムに書いていく。出尽くしてから関係のありそうな項目をまとめていく。重要なことは分類してはいけないことだ。数枚ずつまとまると論理的に筋が通るような順番に並べてホッチキスで止めていく。これが「こざね」で、上から順に内容を文章に書き下ろしていく。これはいわば、一人ブレーンストーミングみたいなものでバラバラな材料から思いもよらぬ新しい関係が発見できる(かもしれない)。
今ではこれはコンピューター上のカット&ペーストで簡単にできることだ。自分の知っていることを書き出し、並べ、整理していくと「セレンディピティ」が可能になる。
□ 何ごとにも職人の生真面目さというものが大切だ。毎日こつこつ書くことが先決だ。ニーチェは『人間的な、あまりにも人間的な』の中で、小説の書き方を披露している。まず、草案を2ページ以内の長さで明瞭な文章で百ないし、二百作る。毎日、エピソードを書き、もっとも効果的な形式を発見するまで続ける。人間のさまざまなタイプを細部にわたって観察して、詳細に記録する。自分の言葉が相手に与える効果を知るために多くの人と話をし、多くの人の話を聞く。風景画家や風俗画家になったつもりで旅行する、人間の行動の動機について考察する、見事に抽出された文章を抜き書きする…。
神は細部に宿る。大江健三郎も「時代と小説、信仰を持たない者の祈り」(新潮カセット講演)の中で次のように話している。
時代とか状況というものの中に具体的に生きている人間というものを細部から押さえていく。そうやって草稿を書いていくうちに、言葉の力というかイメージの力というかメタファーの力と言ってもいいが、ある瞬間、現実に見ているものとは違うビジョンに向かって小説が離陸する瞬間がある。
□ 公開は後悔だ。すぐに更改したくなって狡獪(こうかい)な人間になってしまう。
僕はβ版の時はなるべく直すようにしている。
他人様からも誤植があるとか、論理が変だとか言われることは少ないのだが、粗(あら)が目立ってきて自分で嫌になってくる。でも、自分の頭の中だけでぐるぐる試行錯誤、思考錯語しているよりはましだ。ネットに出してようやく客観視できる。
ある程度熟したら、眼をつぶって公開してしまおう。公開することによって他人の視点で自分の文章を読むことができる。
とりあえず、という考え方が大切だ。
(と思って、この文章も公開することにした)
ウンベルト・エーコが言っても言わなくてもコトバとは嘘をつく道具である。言葉は本当のことも言うが、ウソもつく。言葉はここにあるものを表現し、ここにないものも表現する。
文学は真実を語るのではなく、虚構である。虚構だから真実を語れるのである。
インターネットのおかげで裸の言葉の力が試される時が来た。何を語るか、どう語るかが問われている。
井上ひさしもいうように作文の秘訣を一言でいえば「自分にしか書けないことを誰にでもわかる文章で書くということだけ」なのである。
自分にしか書けない文章を探るとは、自分を探ることである。
□ 僕は自分の文章がうまい、と思ったことは本当にない。褒められたのは小学校2年生の時の「僕は魚が嫌い」という作文だけで、これは魚は食べにくいから肉の方がおいしくて好きだ、という実に素直な文章だった。
素直な文章で思い出すのは吉本ばななである。ばななの文章(ここでは『うたかた/サンクチュアリ』)を川本三郎がべた褒めしている(『サンデー毎日』1988年9月4日号)。
この作家は悲しいときはまっすぐ悲しいと書く。恋してうれしいときにはうれしいと書く。ともかくひたすら素直でカワイイのだ。私がいちばん驚いた文章は都市の夕暮れの美しさを描写したところ、吉本ばななは余計なことは書かずに一気にこう書いてしまうのだ。「すごい美しさだった」。負けた。この素直さはほとんど過激である。それは少女マンガの純愛の過激さにも似ている。ひとはこんなにも素直になれるのか!
ぼくは小学校以来、褒められたことはないのだが、最近は「文章がうまい、内容がしっかりしている、各エッセイの中身が濃い」(細田均さん)などと書かれることも稀にある。
うまく見えるだけで実際は読みやすいということなのだと理解している。長い文章が多いが読破したという人が結構いる。
よく言われるように「エッセイ」というのは「試み」という意味のフランス語で、モンテーニュが始めたといっていい。これがイギリスに渡ってベイコンの『エッセイ』を成立させ、ラムの『エリア随筆』にまでつらなっていくのだ。哲学者のアドルノは「エッセイというのは哲学の論文よりもはるかに哲学的な時がある」といって、「自分が撮るのは非方法の方法だ」とも言っている。「だからと言って、ちゃらんぽらんに何をやれという意味でもなくて、非方法という方法を使っている」ともいう。
「エッセイ」と「随筆」は異なる。日本はあまりにも主観的な、身辺雑記のような随筆が多すぎる。加藤周一は『日本文化における時間と空間』(岩波)で次のように書いている。
「随筆」には、相当するヨーロッパ語がないばかりではなく、翻訳も少ない。現代の随筆選集というべきものの最初のヨーロッパ語役は、おそらく、Barbara Yoshida-Kraft, Bluten im Wind, Erdman, Tubingenn,1981であろう。編訳者ヨシダ=クラフト氏は、その関東に「随筆」の概念がヨーロッパ語で言う「エッセー」とは全くちがって、「建築的構造」を備えないこと(keine architektonischen Formen)を指摘し、しかしそれこそは「今日まで変わらないニホンのエッセイストたちの基本的態度」である(bis heute unveranderte Grundhaltung des japanischen Essaisten)と言っている。その内容は、つまるところ、「各瞬間における生活」(das Leben in jedem Augenblick)を反映し、それは終りであるとともに新たな始まりであって、止まるところになく変貌してゆくのである(unaufhaltsame Verwandlung)。「随筆」を説明してこの関東論文ほど簡にして要を得、正確にして明快な文章は、国の内外に少ないだろう。《下線はウムラウト》
□ 他人のホームページでの文章を読もうとしても2、3行で読めなくなることが多い。いいことが書いてあるのかもしれないが、読む気力が続かないのだ。
インターネット用の文章というのがあるのだろうか。最後まで読ませるコツがあるのだろうか?
実はある。というか気にしていることがある。
T・S・エリオット、ストラヴィンスキー、ボルヘス、フライ、パスなどが担当したハーバード大のノートン講義を活字にした『カルヴィーノの文学講義 新たな千年紀のための六つのメモ』(朝日新聞社)のイタロ・カルヴィーノによれば、21世紀文学には「軽さ」(Lightness)「速さ」(Quickness)「正確さ」(Exactitude)「視覚性」(Visibility)「多義性」(Multiplicity)(最後に「一貫性」Consistencyも話す予定だった)が必要だと提唱する。これらの文学的価値は、個別に語られているが、お互いが密接に関係をもっている。
「軽さ」は必然的に「速さ」を含み、「正確さ」がそれに安定感と一種の重み(「軽さ」を説明するのに「鳥のように軽くあらねばならぬ、羽のようではなく」というポール・ヴァレリーの言葉を引用している)を与え、その三つの要素が「視覚性」を生み、その結果「多義性」の文学が誕生するという。
ちなみに、カルヴィーノがこれらの文学的価値を備えた文学者としてボルヘスの名前をあげている。蛇足ながらボルヘスは最初そこそこの作家に過ぎなかった。1938年に頭をぶつけて大けがをして、敗血症になって死にかけ、言語能力と正気を失いかけた。ところが『ブリタニカ』にあるように、この経験が「彼の中から最も深い想像力を解き放った」という。
そして僕は日本のボルヘスになりたいと思っていたところだった(←ほんの冗談)。
□ 僕がウェブ用に工夫したことが少しある。実用新案を取りたい。
- 左右の幅を取ることで読みやすくした。ぎっしり詰まっていると情報量が多く見えるが、実に読みにくい。文章にもゆとりを持たせた。
- 段落だけでなく“□”で大きなパラグラフを構成するようにしている。
- 大きな区切りは罫線を引くことにした(ブラウザによってはくっつきすぎになる難点がある)。
- 引用はインデントで下げて、色も変えることにしている。活字だと高くなるが、ウェブだとタダだ。印刷しても読めるように緑色にした。
- 長い文章だと章立てをして冒頭に目次をつけてリンクで飛べるようにした。
- 図表に凝らないようにした。ネット上で重くなってそれだけで読みにくくなることがある。だから、文章も軽くした(ウソ)。
- 文字量が多くなったので自己サイト内の検索ができるようにトップページに検索エンジンをつけた(要望があった)。
- 読者が読んだ5日後に自動的に読者の許に請求書が届くようにした(ら儲かるのだが…)。
□ ウェブから得たページを印刷して読む人もいるが、読む量が増えれば相対的に減ってきて、ディスプレイで読むことになると思う。
ウェブの文章の基本は横書きでスクロールということである。
文字の大きさや色を簡単に変えるのが容易なことも特徴の一つだが、これは醜くするだけなので、僕はあまり使っていない。文章で勝負するのである。
まず、冒頭の文章に注意する。最初の10行で面白くなければ永遠に来ない。ただの読者ほど怖いものはない。
全体が分からないから、途中少しでもつまらなかったら、下の方までスクロールしないで終わってしまう。何とか最後まで引っ張っていかなければならない。
インターネットの文章はツカミをしっかりさせて最後までヒッパレなのである(活字本でもぐいぐいと引っ張っていく本は“page turner”と呼ばれる)。
もちろん、ボケとツッコミをうまく組み合わせる。
何のこっちゃ、「お笑い番組」と同じ構造だ!
□ 流れについて書いておく。これに関しては米原万里『ガセネッタ&シモネッタ』(文藝春秋)の「フンドシチラリ」というエッセーの中で『通訳者のフィールドノート』の徳永晴美さんに聞いているが、これこそ奥義というものである。ただし、文中の「男」を「女」に変えた方が僕らには分かりやすい。
「そうねえ、池を造るようなものなのよ。池の向こう岸を論文のたどり着く最終結論としてだねえ、池のこちら側から対岸にいたる道筋に沿って池の中に飛び石を置いていく。真っ直ぐで等距離なんてつまらないから、遊びを取り入れることを忘れちゃいけないよ。蛇行させたり行きつ戻りつさせたり、間隔もさまざまにしてね。この飛び石が、いわば他人の論文の引用や、具体例。そして男がね、長めのスカートはいてパンツはかないで、ここが肝心なんだよ、パンツはあくまで脱いでだねえ、池のこちら側から向こう岸に向けて飛び石の上をヒョイヒョイと渡っていくわけ。そうすると、水面にチラリチラリと男の本音が映るでしょう。ちゃんとは見えないから、ついよく見ようと身を乗り出してしまうじゃない。そうやって、最後まで読者を引っ張っていく。これが秘訣といえばひけつかなあ」
村上春樹の『スプートニクの恋人』では小説家の卵のすみれに「ぼく」が語る。
君が五月の海辺を描写すると、耳もとで風の音が聞こえて、そこに潮の匂いがする。太陽のかすかな暖かさを両腕に感じることができる。【…】そういう生命のある文章は誰にでも書けるわけじゃないんだ。君の文章には、それ自体が呼吸して動いているような自然な流れと勢いがある。
自分の考えを少しでも的確に書く。これしかないような言葉を選ぶ。
他者に伝わる文章に心がける。相手は自分ではない。独りよがりの文章にならない。熱中すると自分しか見えてこない。
道具としての言葉を愛する。言葉は道具にすぎないが、愛情をこめて使う。
パラグラフ感覚も大切にしている。一つ一つのパラグラフだけでまとまって読める文章というのを工夫している。パラグラフというのは考えの一つのまとまりである。「命題」といいかえてもいい。これを積み上げていくと長いまとまった文章になる。もっと正確にいうとパラグラフの最後にオチを作っておいて次に引っ張るように工夫する。欧米のパラグラフ・ライティングでは一つのパラグラフにはkey sentenceが一つだけ、必ずある。最初にkey sentenceがあり、その後にこれを論証するdetail sentence(s)が続くので日本語とは逆の構成になる。
文章の流れを大切にして編集の目を持つ。一つのパラグラフが終わるとそれに関連した話を続けようと努力する。パラグラフ・ライティングでkey paragraphの後にdetail paragraph(s)が続くのと同じである。キーワードを敷衍(ふえん=「おしなべて広げる」)するようにしている。全体で「起承転結」などというのは考えない。どちらかというと道草しながら目的地に向かっていくような構成にしている(つもりだ)。逆の「結・承・転・提」型のスピード性あるまとめ方も必要だ。推理小説の「倒叙もの」のように最初から犯人を提示して展開するのも面白いかもしれない。 結論+説明+他の例+提言という順序が忙しいビジネス社会にマッチしている。なお、僕の場合は「起承転」で終わっていることも多い。齋藤孝は「3章・3節・3項立て」という構成の方法を取っていて、最初の問題設定と、それを具体的に説明していく展開、そして結論とくるように考えているという。小見出しを先に決めれば後は楽だともいう。
リズム感も欲しい。難しい話ばかりを続けない。『男はつらいよ』みたいに深刻にさせたり、笑わせたり、泣かせたり(というのは僕にはないが)というリズムがあれば一つひとつの要素が生きてくる。タレント教授に見えるが実は立派な仏文学者である篠沢秀夫は『学校では教えない文章術』(青春文庫)で特に日本語のような単調な語尾を持つ言語の場合、文章を書く上で一番注意すべき点は語尾のリズムだという。中村明『作家の文体』(ちくま学芸文庫)によれば、井伏鱒二は志賀直哉の生原稿を手に入れて、語尾の直し方を学んだという。スピード感を出すようにヘミングウェイが立って執筆していたことが知られるが、ゲーテも82歳になるまで午前は立ち机で執筆し、午後はハンマーを持って山野を歩いたのだ。
分かりやすい文章を。英語で“economy of attention”というが読者に負担になるような文章はまずい。長い文やねじれ文もそうだが、「あれ」「それ」といって文脈を遡らせるのもよくない。率直な文章と素直な心が一番いい。一つの目途だが、1センテンスの長さは42、3字が適当という。第2次大戦中、アメリカ政府が軍隊の指示として1センテンスの長さはどの程度が適切かを、調査させた結果、20語以内が理解しやすいという結論になった。日本語の文章心理学の研究では1文が75文字を超えると読みにくく、42、3文字が最も読みやすいという。ルナールも「平明さは文学者の礼儀である」と『日記』に書いている。
もう一つ、論理の階段を少しのぼる。木から書き始めて森を描くことが必要である。シェイクスピアの影響だが僕は大見得を切ることにしている。大見得というのは論理の階段をいっぺんに上まで上がって、ものをいうことである。つまり、夫婦生活の具体的な話をしている時に急に「妻をもらうことは口答えももらうことだ」などと結論じみたことを“ほざく”のである。でも、会話でこれを頻発すると嫌われる。話が先に続かなくなるので注意。
具体的に(Be specific!)。これが大学で教えられたすべてだ。カントは「例えば、と言える人は賢い」と言ったというが、事実に語らせるようにしている。「大きな車のような」という文は「キャデラックのような」とか「ちっとも」は「1ミリも」などと書く。寺山修司は確か「議論は日立の扇風機のように回っているだけでちっとも前に進まなかった」と書いたが、「日立」でも「東芝」でも具体名が必要なレトリックなのである。俳句でも「父と子と西宇和郡のなまこ噛む」(坪内稔典“としのり”)のように作る必要がある。ついでに、一番好きな花は何かと聞かれて石川淳は 「たとえば、コスモス」と答えたが、丸谷才一はこの「たとえば」の語の中に選べなかった他の多くの花への思いやりが感じられるとしている。細部に神は宿らないかもしれないが、真実が宿っている。些末にこだわることでもある。パンの耳やご飯のおこげが好きだということだ。曾野綾子はベトナムのボートピープルだった武永賢に(『日本人が知らない幸福』新潮新書)に次のようなアドバイスをしている。
本を書く際には、風景が目に見えるように具体的な表現をしてください。例えばお母さんの料理について語るときは、お母さんが作ってくれた夕食がおいしい! と書いてはいけません。おいしいか、おいしくないかは、読者がいう言葉です。あなたのお母さんが、どんな材料を使い、どんな味つけをし、どんな色合いの料理か、どんなお皿に盛りつけたのか、を書けば十分です。
語りかけるように書く。文章自体が語りかけるような文章にしている。大切な文章は実際に音読することもある。普段の馬鹿話そのままだといわれる理由なのである。自分にも他人にも誠実であることだ。まるで漱石の『猫』のような饒舌な文体だといわれることもあるが、僕はディスクジョッキーのように読者と会話している文章を書いているつもりだ(コピーライターの土屋耕一は「言文一緒体」と名付けた)。逆にスピーチでは書くように話すことが大切。話が文章になるように心がける。サマセット・モームが晩年、一番うれしかったことは何かと聞かれて「戦場の兵士から、あなたの小説は一度も辞書を引かずに読めたと手紙をもらったとき」だと答えたという。
常套句は使わない。野球記事でも「汗」と「白球」「夏が終わった」「涙」「気負い」「平常心」なんかを取ると、記事の半分は数字の羅列となってしまう。内容がよくても紋切り型の表現では失格。「〜にこだわる」「地球にやさしい〜」なども何ともやりきれない(も常套句)と思う今日この頃(も常套句)。
漢字の使う量も少なく。なるべく少なくしているが、文節の最初は漢字で始まるように工夫している。
引用は10%まで。情報量を増やすために僕はちょっと多めにしている(ま、このホームページは備忘録ということもある)。
言説、などというような難しい言葉は使わない。英語も最小限にする。短い文章にする。ひねった表現は使わない。語尾を大切にする。駄洒落を少なくする(つもりだが減らない)。もちろん、擬態語や体言止めなどは最小限にする(女性はつい多用する傾向がある------ひとりで面白がっている感じになってしまう)。
自分で読んで面白いこと。「面白い」というのは目の前がパッと明るくなる感じを指す古語だが、何か発見があることが大切。幅広い好奇心と鋭い想像力を大切にすること。
最初から完璧を狙ってはいけない。ネットに上げてから少しずつ変更していけばいい。しかし、書いたものには責任をもつこと。
書けなくなったら散歩する。僕は文章に息詰まったら近くを散歩するか、他の先生の研究室に顔を出して雑談をしてくる。カントではないから違う道も通ってみよう。
そして、ジョークを入れて飽きられないように努力している(←努力だよ)。土屋賢一は『汝みずからを笑え』(文藝春秋)の「笑いで乗り切る人間関係」で笑いに次の効用があると書いている。笑いものになっているだけかもしれないが、せめてユーモアで辛いことも乗り切ろう。
- 人間は笑いながら怒ることはできない。
- 笑いを提供する人は警戒する必要がない。
- 笑いは、人間が不幸に立ち向かう武器である。
- 笑いは退屈さから解放してくれる。
内田樹は小田嶋隆の『人はなぜ学歴にこだわるのか』(知恵の森文庫)の解説の冒頭で小田嶋隆について次のように書いている。
この人は天才かも知れないと思ったのは、小田嶋隆(敬称略。すみません、小田嶋先生)の二冊目の単行本『安全太郎の夜』(河出書房新社刊1991年)の中の文章を読んだときのことである。それは「ビール」というタイトルの短いコラムで、こんなふうに終わっていた。
ビールの問題は「きりがない」ことだ。ビールは確かにウイスキーや日本酒に比べればアルコール度数の低い酒だが、逆にいえば、この酒は浴びるほど飲むことによってはじめて酒たり得る酒だ。頭が痛くならないと飲んだ気がしないのだ。ビールに適量はない。飲み足りないか、飲み過ぎるかのどちらかなのだ。(中略)
まとまりのない話ですまない。そう。お察しの通り私はビールを飲みながらこれを書いている。本当にすまない。(「ビール」『安全太郎の夜』56-57頁)
みんなが何となく気づいていながらうまく表わせないことを、独特の切れ味で的確に表現することができれば天才になれるのだ。
女とはなにか?
「女の体の骨は、男の骨にくらべると、短い割に太く、肋骨や歯列などの彎曲の度合も、男にくらべて強いのです」
こういう記述が高校の時の生物の教科書にのっていて、私はこれを読んだ時、わけもなく、ひどく感動しました。これは詩だ! と思った。
なるほど、そういえば確かに女の胸や胴は男のように平たくなくて、なんというか、小さく弱弱しいなりに、一種ふくよかな、丸っこい厚味を持ってるじゃありませんか。歯だってそうです。歯形なんか小さいんだよ。小さくカーヴしてるんだよ。それが女なんだよ。いやあ、なんという正確な、そうして詩的な記述だろう。そうして、まあ、女というものは、なんという、いじらしく、可愛らしく、またデリケートな、上等な存在なんだろう――私は若若しい憧れの溜息をついたのであります。
-----伊丹十三『再び女たちよ!』(文春文庫)「時間がなかったので、長文になりました」と書簡に書いたのは哲学者のパスカルだが、なるほど、便りは長さではない。文章はケチろう。お金と文章はケチなほどいい。何でも書きすぎないように努力しなければならない(このホームページは別)。
モーツァルトが少年時代にヨハン・ショーベルトのソナタを聴きながら学び取った教訓というのがある。「十分に表現するためには、決して表現しすぎないこと。しかもそれでいて完全に表現すること。ただし、ごくわずかの言葉で表現すること」。
文章を書くのに練習も大切だ。
メールなどで練習をすればいい。ただし、メールはプロの作家でも文章が乱れるようになるという。会話体が多くなり、地の文を書けなくなった人がいるのだ。文章を書く能力の低下だけではなくて、評論家の柳田邦男は『壊れる日本人−ケータイ・ネット依存症への告別』(新潮社)で「自分でじっくりと考えて乗り越える道を探したり…自律心を育てたりすることができなくなってしまう」と指摘している。
なるべく簡潔に書くことに務めなければならない。世界で最も短い手紙を書いたのはビクトル・ユーゴーだ。『レ・ミゼラブル』の作家の手紙はただひとこと「?」。あて名のほうが長い。受け取った出版社は文豪に敬意を表して、これまたただひとこと「!」。翻訳すると「印税はまだか」「ご用意できました」という往復書簡だった。日本では南極越冬隊員の夫に出した「あなた」が有名だ。詩文の添削を乞うことを「玉斧(ぎょくふ)を乞う」というが、文章の手直しとは、「添」よりも「削」が本意ということだ。ばっさりオノで切られてオーノー!とならないように。
長文は短文の重なりあったものである。例えば、僕はマニュアル風の文章をいっぱい(例えば「レット・イット・ベビー」)あるが、短い文で何かをまとめて書くという練習をしている。
□ また、新聞記事でも、他人のエッセイでもいいが、半分にまとめるような練習をすればいい。いかに無駄な部分があるか分かってくる。村田喜代子は次の文をどう短くするか推敲してみなさいという(正解?)。
「きのうのよる、えいがのかえりにこうえんのよこをあるいていたら、なかのさくらがいっぱいさいてきれいだった」
僕は原稿用紙2枚なら2枚できちんと書くことが好きだ。最初からできるのではなくて、文章を削ったり、富ませたりしながら規定枚数を消化する。
新聞記事などは升目を見ながら、結論までのバランスを考えて書くことになる。
そんな練習をしたらいいかもしれない。
※「昨日の夜、映画を観た帰り道。公園の横を歩くと、中は桜が真っ白に咲いていた」
□ 簡潔に関連してもう一つ、「スカース」ということも気をつけている。“scaz”というロシア語は魅力的で英語風に“スキャッズ”と読めばジャズの「スキャット」みたいだ(デヴィッド・ロッジ『小説の技巧』理想社)。書いているというより喋っているように感じられる一人称の語りを意味する。語り手は自分を“I”と言い表し、読者に“you”と呼びかける。言葉や構文も口語的で、入念に組み立てて推敲した文章ではなく、思いつくままに喋っているように感じさせるものである。
ヘミングウェイは「現代のアメリカ文学はすべて、マーク・トウェインによる、『ハックルベリー・フィンの冒険』という一冊の本から生まれている」といったそうだが、現代のハックである、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』のホールデンの語りに典型的に見られる。ヨーロッパの文学伝統の束縛から解放されるための手段だったといえる。
ディスクジョッキーのように話すように書く。といっても、話し言葉をそのまま書き言葉にしても文章として耐えられないものになるので、工夫する必要がある。
そうそう、ロッジといえば、『作者を出せ!』(白水社)が面白い。「意識の流れ」で有名なヘンリー・ジェイムズ(HJ)はアメリカからイギリスに帰化した。知的で晦渋な作風のために生前はあまり売れなかったという。経済的苦境を打破するために戯曲を書くことにする。『ガイ・ドンヴィル』の初日、「作者を出せ!」を賞賛と誤解した(?)劇場主に促された舞台に出ていくのだが、そこはすさまじいブーイングの嵐だった…。この屈辱によってHJは再び小説に戻ってゆくのだが、ロッジはこの出来事を中心に行きつ戻りつ描いている。ちなみに、日本では『ねじの回転』(つげ義春の『ねじ式』も影響?)と『デイジー・ミラー』が有名だ。
どんなコミュニケーションにもレトリックは必要だ。レトリックという言葉には筆先の技巧に走る意味合いがまじるが、要するに読者を誘う技術だ。物書きの最低限の素養ともいえる。これにおぼれると始末がわるいが、磨けば職人芸となる。
レトリックというのは言葉のお洒落であり、話の戦略である。何も考えずにしゃべったり、書いたりするのは間違っている。その前に話したり書いたりする順を変えるだけで効果が違う(グッド・ニュース、バッド・ニュースなど)。
相手を批判する時は最初に思い切り誉める。そして、落とす。
相手を誉める時は、最初から誉めない。だんだんとクライマックスに向かっていくように文章を書く。
ただし、他人を批判できるほど自分が立派になっているかどうかは別だし、小林秀雄〔「批評」『考えるヒント』〕の次のような言葉があるのを忘れないでほしい。
そこで、自分の仕事の具体例を顧みると、批評文としてよく書かれてゐるものは、皆他人への讃辞であって、他人への悪口で文を成したものはない事に、はっきりと気附く。そこから率直に発言してみると、批評とは人をほめる特殊の技術だ、と言へさうだ。人をけなすのは批評家の持つ一技術ですらなく、批評精神に全く反する精神的態度である、と言へさうだ。
小林秀雄は同じ文章で、「非難」を否定してはいない。言いたいことは、「批評」は「非難」ではないということであろう。これはそっくりそのままジャーナリズムにも当てはまると感じられる。ジャーナリズムが持つべきは反骨精神ではなく、批評精神である。したがって、前提Bも僕には正しく思えない。
□ レトリックといっても僕らがいきなりシェイクスピアや村上春樹になれるはずがない。いきなり、サリンジャーのように「とにかく、十二月かなんかでさ、魔女の乳首みたいにつめたかったな、特にその丘の野郎のてっぺんがさ」「棒でも飲んだみたいにシャチほこばってる海軍将校」「ハイエナみたいに大笑いする連中」「天井を吹っ飛ばしそうに怒る」(『ライ麦畑でつかまえて』野崎孝訳)とか、村上春樹のように「22歳の春にすみれは生まれてはじめて恋に落ちた。広大な平原をまっすぐ突き進む竜巻のような激しい恋だった」とか「私は地球がマイケル・ジャクソンみたいにくるりと一回転するくらいの時間はぐっすりと眠りたかった」とか「元気だよ。春先のモルダウ河のように」とか「ごてごてとした(下町の)通りがメロンのしわみたいに地表にしばみついていた」とか「(彼女は)きっとゴールデンゲイト橋のワイヤ・ロープのようなブラジャーを使っているのだろう」とか凡人が真似しても初めて白いタキシードを着た田舎者になるだけだ。
三田誠広は『プロを目指す文章術』(PHP)の中で「村上春樹は日本語の達人?」という章を設けていて、次の文について酷評している。
しかし、それでもやはり何かを書くという段になると、いつも絶望的な気分に襲われることになった。僕に書くことのできる領域はあまりにも限られたものだったからだ。例えば象について何かが書けたとしても、象使いについては何も書けないかもしれない。そういうことだ。『風の歌を聴け』そういうことだ、と言われても、どういうことなのか、さっぱりわからない。こういう意味ありげで、しかし実際は何の意味もない表現があまりに多いので、村上春樹の文章は、高野豆腐みたいにスカスカだ、という印象を与える。まあ、以前にも書いたことだが、田舎の駅前のパルコに陳列されている商品を、おシャレだね、と羨望の眼差しで眺めるような人々が村上春樹の人気を支えているのだろう。
それでも、村上春樹は日本語の達人である、とわたしは思う。意味不明の比喩やキザな言い回しをすべて剥ぎ取ってしまえば、村上春樹の文章は読者にやさしい、わかりやすく親しみ深いものだからだ。
□ レトリックは認識だ。ものの見方だ。
「大学は学問の府」「教養の最後の砦」「高校の延長」「象牙の塔」「知性の墓場」「総合レジャーランド」「就職のための予備校」というのでは印象がまるで違ってくる。「時は金なり」というと時間はお金で買えるという考えから生まれていることが分かる。元はギリシャ語の「時は値の高い出費である」から来ているという(14世紀のルネサンス期にアルベルティという人が作ったキャッチフレーズで、世界に広めたのはベンジャミン・フランクリンである)。「春宵一刻値千金」というのも似ているが、これは蘇軾の詩から来ていて、春の宵の大切さを語ったものだ。
何を喩えにするかは文化によって大きく異なる。日本語は身体を使った表現が多いが、英語では動物が多い。例えば、ホッグ(去勢豚)というのがよく登場する。「馬耳東風」「馬の耳に念仏」は英語で「穀物のなかのブタのように聞く」(周りのエサに夢中)である。「よろいの中のホッグ」は立派な服を着てぎこちない動きをする人、「きれいな市場にホッグを連れ込んだ」は面倒な立場になること、「氷の上のホッグ」は自信過剰の喩えで、カーリングが起源だという説がある(『ブルーワー英語故事成語大辞典』大修館書店)。「ホッグワッシュ」はそのホッグのエサとなる残飯のことで、転じてガラクタ、さらにバカ話やたわごとを言うようになった。
ボルトとナットを「雄ネジ」「雌ネジ」というが、そういう認識で日本人は命名した。ウオツカにオレンジ・ジュースを入れたカクテルは飲みやすくてそのまま人事不省になる女性も多いが、“screw driver”という名前で知られる。
いいところだけ取り上げると他が見えなくなってくる。誉めようがない女性には瞳か髪か脚を誉めよう!
今頃、女性から「文章はうまい」といわれているかもしれない。ハックション。
遠藤周作は『十頁だけ呼んでごらんなさい。』(海竜社)という本の中で、次の( )に入る言葉を考える訓練をしようという。
1)夕暮れである。大きな太陽が屋根の向うに( )のように沈んでいく。
2)空は( )のような色を帯びている。
3)豆腐屋のラッパの音が( )のように聞こえる。
4)路を一人の( )のような顔をした主婦が通った。このゲームのルールは(1)普通、誰にも使われている慣用句は使用せず、(2)しかもその名詞にピタリとくるような言葉を、探すことだという。例えば、1)を「燃える火の玉のように」では誰でも使う。獅子文六は『てんやわんや』の中で「大きな熟れた杏のように」と書いたし、阿部知二も「赤くうるんだ硝子玉のように」と書いた。この「ようなゲーム」を周囲を見ながら試していると一月で本の読み方が少し違ってくるし、手紙や日記を書きたくなってくる、という。
人生は「あるがまま」でいいかもしれないが、文章を「あるがまま」にするとボルヘスの小説「学問の厳密さについて」(『創造者』国書刊行会)に出てくる実物大の地図を作る学者になってしまう。詳しい地図を作ろうとすると実物大にならざるを得なって人々はそれを「無用の長物と判断して、無慈悲にも、火輪と厳寒の手にゆだねてしまった」。地図はそこに情報が載っているから有用なのではなく、そこから情報が抜け落ちているからこそ役に立つ。現実の不完全な模倣だから役立つのである。多すぎる情報は無情報に等しい。無差別に押し寄せてくる雑多な情報の中から大切な情報だけを選び、書く力量が重要になる。
赤瀬川原平も「吾輩は比喩である」(『太陽』平凡社1999年9月号「特集・赤瀬川原平の世界」所収)の中で次のように書いている。
この世に人間の意識が生まれてから、世の中は意味の分布図となってあらわれた。意味はそれぞれの電荷を帯びていて、見えない稲妻の回路が綿密に張りめらされている。あるとこ突然走る比喩の稲妻で、その一つの回路が明かされる。それは直感に発するものだけど、それはコンピューターが担いようのないもの、つまりは「生きる」というヴェクトルだろう。
レトリックはフィルターだ。略図だ。
啄木は「雲は天才である」という小説を書いたが、小説にしなくても「雲は天才である」というレトリックだけで充分だ。
□ レトリックを簡単にまとめておく。分け方はいろいろあるが…。
隠喩(metaphor)---「私の愛は燃える火だ」「薔薇に棘あり」=何かが何か別のものであることを言うときに用いられる。 直喩(simile)---「光陰矢の如し」「アキレスはライオンのようだ」=「アキレスはライオンだ」と言わないで、喩える。 提喩(synecdoche)---「ホワイトハウスは経済計画を発表した」=大統領官邸の一つのイメージで合衆国政府の組織全体を代表させることなど。 換喩(metonymy)---「ペンは剣よりも強し」=一つのものの名前がそれに関連した別のものに与えられる時に使われる。 誇張法(hyperbole)---「何万回も注意したろう!」=誰でもがすぐに誇張と分かる表現。 矛盾語法(oxymoron)---「大げさに言うなと、何万回も注意したろう!」「熱い氷」=矛盾したことを言って注意を引く。 皮肉(irony)---「このホームページは実に面白い」=誰もがすぐにウソだと分かる言い方で本人だけが分からなかったりする。 アニミズム(animism)---「怒れる雲」「太陽が笑う」=生命のないものを生命を持っているかのように描写する時に使われる。 「擬人化」(anthropomorphism)---「このコンピューターは私を嫌っている」=アニミズムに似ているが、人間ではないものや動物を人間のように扱う比喩的表現。 矛盾語法が得意なのはシェイクスピアや村上春樹である。誇張法が得意なのは『吾輩』の漱石であり、北杜夫である。『どくとるマンボウ航海記』ではインドのカレーを食べた時に「そのたびに口中はヨウコウロのごとくなり、天井までとびあがらぬために椅子にしがみつき、ビールと水でウガイをしては断末魔の吐息をついた」などと書いている。擬人法が得意なのは何といっても東海林さだおである。
□ レトリックなしの稚拙の美でもいい。野口英世の母・シカは出世した英世に次のような手紙を書いた。
おまイの。しせ【出世】にわ。みなたまけ【げ】ました。わたしもよろこんでをりまする。なかた【中田】のかんのんさまに。さまに【重複】。ねん《で》よこもり【夜籠もり】をいたいsました。べん京【勉強】なぼでもきりかない。…はやくきて【帰って】くたされ。いつ【帰って】くるト おせ【教え】てくたされ。これのへんち【返事】ち【重複】まちてをりまする。
無学で字の書けないシカは月明かりの中で、文字を習い、火鉢の灰をならして書いては消し、消しては書いて練習した末に書いたという。幼稚園児の字さながら、よろけながら田んぼのあぜ道を歩いたよう、と陰口をたたかれるほどたどたどしい字だった。
井上ひさしは『私家版 文章読本』(新潮文庫)で「文章というものは《n個の文と、n−1個の文間で出来あがっている》のである」と書き、「シカの手紙の文間の余白は猪苗代湖ほども深く広い。感動はそこに由来する」と書いている。
ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』でも手術前のレベルの脳に戻ったときの文章が不完全ゆえに感動的である。アルジャーノンというのは一緒に脳手術を受けたシロネズミの名前である。
さよならキニヤン先生ストラウス先生みなさん……
ついしん。どおかニーマーきょーじゅにつたいてくださいひとがわらたり友だちがなくてもきげんをわりくしないでください。ひとにわらわせておけば友だちをつくるのわかんたんです。ぼくわこれから行くところで友だちをいっぱいつくるつもりです。
ついしん。どーかついでがあったらうらにわのアルジャーノンのおはかに花束をそなえてやてください。Good-by Miss Kinnian and Dr Strauss and evreybody. And P.S. please tell Dr Nemur not to be such a grouch when pepul laff at him and he would have more frends. Its easy to make frends if you let pepul laff at you. Im going to have lots of frends where I go.
P.P.S. Please if you get a chanse put some flowrs on Algernons grave in the bak yard....□ ユーモアやジョークを適当に入れないと息がつまる。シェイクスピアはどんな悲劇でもコミック・リリーフを入れてリズムと陰影を生み出している。
また、自分が面白いと思うことはアンダーステイトメント、つまり、ポーカーフェイスのバスター・キートンになって表現しなければならない。一緒に笑うのはプロではない。
□ 「グッドニュース・バッドニュース」(「君は社長になれるよ。会社が残っていればね」とか「日本はブラジルに負けたよ、でもスロバキアのおかげで決勝トーナメントには行けるよ」)タイプなど細かいレトリックについては別に書いていくつもりだ。
子どもたちには会話も文章も大げさにならないようにと、一〇〇万回注意している。それなのに2年生の未蘭の日記を見ると次のように書いてあった。
七月二十五日
いよいよ、ハヤマから帰る日、おばちゃんたちは、みんなかいしゃ。手がみを書いて、帰るじゅんび。ももと、ほたると、マリヤ【姉の飼っている犬】が、げんかんに、きて見ている。車に、のって、さあ出ぱつ。犬たちのほえている音がだんだん聞こえなくなった。帰った時また、行きたいなあと思いました。
「だんだん聞こえなくなった」というのはどう考えても大げさですね(句読点が下手なのは先生の教え方の問題)。
忘れないうちに書いておくが、句読点というのはとても難しい。村上春樹訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(白水社)でホールデンは次のように述懐する。
もし君が作文が得意だったとする。すると誰かが必ずコンマについて何だかんだ言い出すわけだ。そしてストラドレーターというのが実にそういうやつなんだ。こいつ自分の作文が良い点をとれないのは、ただ単にコンマというコンマをでたらめな場所に置くせいだと、君に思わせたいんだよ。
「ゴセイキョヲイタミツツ、シンデオクヤミモウシアゲマス」も句読点を間違ったために起きるジョークだ。
□ 文学のレトリックに関しては例えば『ウンベルト・エーコの文体練習』(新潮文庫)などを読めばいいが、普通の文章ではレトリックにあまりとらわれない方がいい。ただ、詩や小説にも親しんで語感を豊かにすることが重要だ。
(何しろ、とりあえず公開しているのだ…)
他人と違う物語を語りたければ、他人と違う言葉で語りなさい-----スコット・フィッツジェラルド
文体について一言いっておけば、僕には文体はない。でも、「文は人なり」というように、文体は人格そのものなので、あまり気にしないでいいと思う。思う、というか、今さら人格を直せないので、文体も直せないということだ。つまり、生活の中から生まれたものであって、いい加減な人間が立派な文体で書けるはずがない。ただ、「人間的に成長しなければ、文章はうまくならない」という意見はそれを言っちゃ、お終いだ、みたいなところがある。啄木をはじめとする文学者が立派な人間だったかどうか考えればすぐに分かることである。
同じ考えは四方田犬彦の『指が月をさすとき、愚者は指を見る』(ポプラ社)に見られる。凡庸について考えたあげく、次のように書いている。
はっきりいいましょう。個性というのは個人の体臭にすぎないのです。自分の体臭がいやになってくるように、わたしは自分の文章のあちこちに見られる微妙な癖や気取りというものが、たまらなく嫌になってきました。その逆に憧れるようになったのは、いかにして個人の枠を離れて、誰が書いたのかわからず、けっして手の痕跡が残らないような文章を書くかということでした。
ただし、「文は人なり」について内田樹は次のように書いている。
文体なんかどうだっていいじゃないか、中身はウチダがしゃべったことなんだろう、そんなことでいきりたつなよ、と思われる人もおられるだろう。
だが、文体というのはそれほど軽いものではない。
それは読み手にフィジカルに、ダイレクトに「触れる」ものである。
読み手と書き手の「関係」を瞬間的に決定してしまうものである。
だから、ラカンは『エクリ』の冒頭にこう書いた。
Le style c'est l’homme( a` qui l’on s’adresse).
「文は(宛先の)人なり」
文体は、それがどのような人にどのように差し出されているかをあらわに示す。
書き手が読み手に対してどのような種類の距離感や親疎の感覚や敬意や興味を抱いているかを表すのは文体である。
コンテンツではない。
私が講義でもっとも心がけているのは、「どのような語り口でことばを差し出すか」ということである。
適切に文体が選択されていれば、どれほど難解なコンテンツであれ、あるいはどれほど無内容なコンテンツであれ、それは読み手に「届く」。
文体の選択を誤ると、どれほど平明なコンテンツであっても、誰にも届かない。
ほとんどそういうこと「だけ」を書き続けてきた人間が文体にこだわるのは当然のことではあるまいか。つまり、「世界は言語である」という「言語論的転回」以降に生きる僕らは「文体こそ発想である」というべきなのだ。
文体には好みがあって、自分が好きでも、ある人は嫌うかもしれない。僕が好きな文体は向田邦子なのだが、その理由を高島俊男は『メルヘン誕生 向田邦子をさがして』(いそっぷ社)の中で、向田の文章が、歯切れのいい、男の文章だと指摘している。特に「である」が文章に主軸になっていて「『である』はきっぱりと言いきる口調である。いさぎよい感じをうけるのはそのゆえだ」という。なるほど女性では珍しい。
ただ、永井荷風などは「である」を嫌っていた(時代で文体は大きく変化するものだが)。『雨瀟々(あめしょうしょう)』という小説の中で「このであるという文体についてわたしは猶(なお)古人の文を読み返した後など殊に不快の感を禁じ得ないノデアル。わたしはどうかしてこの野卑蕪雑なデアルの文体を排棄しやうと思ひながら多年の陋習達に改むるをよしなく虚しく紅葉一葉の如き文体なきを嘆じてゐる次第であるノデアル」と皮肉っている。
須賀敦子は『トリエステの坂道』(みすず)の中で「好きな作家の文体を、自分にもっとも近いところに引き寄せておいてから、それに守られるようにして文体を練り上げる」と書いている。好きな作家の文章をたくさん写して、自分の文体を練り上げていくのがいいと思う。
僕が嫌いなのは旅の雑誌の紀行文に若い女性がよく書くような、自分だけの感動で終わっているような文章だ。体言止めが多くて、擬態語も多い。便所に書いてあるような相田みつをの人生訓みたいな文章になってはいけない!
敬体、つまり「です・ます調」で書くと女性的で柔らかくなって、賢く見える気がする。だから、常体、つまり「だ・である調」を避けて、雑誌などに書くときは「です・ます調」を使うことがあるのだが、皮肉っぽい文章を書く時に「です・ます調」ではダメなのに、連載の1回目に選択してしまい、後々苦労したことがあった。もちろん、敬体と常体を混交して書くことは許されないのだが、丸谷才一は見事に使いこなしている。
そうそう、「だ・である調」で書いていても、お願いや感謝の言葉など作者が前面に出てくる時には「です・ます調」を取らざるを得なくなる。この手法は「草子地(そうしじ)」といって『源氏物語』にも使われているものだ。
そして、僕の座右の銘は村上春樹の「一に足腰、二に文体」というものである。フットワークの軽い文章を考えなければと思いつつ、難しいとよく言われる。
「文章をかくという作業は、とりもなおさず自分と自分をとりまく事物との距離を確認することである。必要なものは感性ではなく、ものさしだ」(「気分が良くて何が悪い?」1936年)(デレク・ハートフィールド@村上春樹『風の歌を聴け』)
ギリシャ神話の「正義」の女神ディケーは最高神ゼウスと女神テミスの間に生まれた。ディケーの持ち物は秤(はかり)で図像では天秤ばかりが描かれる。さおがあって両端に皿が付いている。女神の秤は二つのものごとの釣り合いを量るための道具だ。「正義」のためには秤が必要だ。
バランスの欠いた文章を書く人がいる。自分の意見だけを前面に出し、他の人のいうことは聞かない。聞かないどころか切り捨てる。そういう人が文章を書くと独りよがりで読んでいて気分の悪い文章になる。その意味で、文章はカラオケに似ている。人が下手なのはすぐに分かるが、自分が下手なのは全然分からない。
批判精神は重要だが、視点が狭ければ読者は共感できないし、作者の視野の狭さを露わにする。
社会生活を送る時もそうだが、文章でもバランス感覚(sense of proportion)が必要だ。自分の意見や人の意見も取り入れ、自分をも客観視して楽しむ。そんな感覚を忘れてはいけないと思う。一般性や普遍性を持った文章を心がける。人間的にもman of balanceでなければならない。
大切なのはものの見方である。海を「絶海」といって人を隔てるものと考えるか、船で人をつなげるものと考えるかによって見方がまるで違う。
鶴見俊輔は文章の理想を誠実さ、明晰さ、分かりやすさとしているが、人も文も誠実さを失ってはいけない。
どんなに激してもバランス感覚を欠いた文章を書くとすぐに後悔することになる。日記が続かないのもバランス感覚を欠いた文章をその時の感情に任せて書くからで、後から読むに耐えない文章だということが分かってくる。母性的な、フェミニンな文章を心がけなければならない。
例えば、林道義さんの文章はバランスを欠いた文章の典型かもしれない。まさに父性的というかマッチョな文章である。パロディで「よろずやの復権」というのを書いたが、わざとバランス不在の文章にしている。パロディなのに本気だと誤解されることも多いが…。
これは文学や演劇や世界の解釈でも同じだ。例えば「ハムレット」をフロイト的に解釈(ローレンス・オリビエ)したり、「リチャード三世」をファシスト(イアン・マッケラン)とするのは面白いがすぐに古びてしまう。あるがままに解釈することは難しい。文章もあまり奇をてらうと古くなる。
アゴタ・クリストフは『悪童日記』(早川文庫)で「感情を定義する言葉は非常に漠然としている。その種の言葉の使用は避け、物象や人間や自分自身の描写、つまり事実の忠実な描写だけにとどめておいたほうがよい」と書いている。つまり、「僕らはリンゴが好きだ」は精確さと客観性に欠けているが、「僕らはリンゴをたくさん食べる」は真実に忠実ということになる。
□ バランス感覚というのはボケとツッコミが一人でできることである。ちょうど「ちびまるこちゃん」のまること吹き出し(テレビではナレーション)の関係だ。
締切がないと文章は書けない。
その前に注文が来ないといけない。僕はすぐに引き受けるほどヒマだが、内田樹のような売れっ子でも注文は断れないという。
今年は仕事をしないぞと心に誓ったのであるが、そうそう簡単に「やです」とは言えないものである。
というのも、この業界では書き手と編集者の人間関係を中心に仕事が進んでゆくので、仕事をお断りするというのは「その仕事はしません」ではなくて、「あなたとは仕事をしません」という属人的な判断として解釈されるからである。
「あんたとは仕事しないよ」と言われたときの編集者の恨みがましいまなざしを見てしまうと、(そのあとの祟りが怖くて)なかなか非人情に徹しきれるものではないのである。うっかり引き受けて、うっかり締切を過ぎてしまう。もっとも有名な人は井上ひさしで、「遅筆堂」を名乗るだけのことはある。2007年の「私はだれでしょう」で遅筆による初日の延期は10回目だという。一回ごとに都内の家一軒分が飛んでいくといっていたが、相手が舞台だけに嘘ではない。しかも、再延期ということになった。
南伸坊の『仙人の壷』(新潮文庫)には道術をもって景帝に仕えたいといっていた仙人がいつまでたっても術を開陳しない話が出てくる。景帝が催促すると、たちまち白い石の羊となり、やがて消えてしまったという。南はこれを「仙人の締切」と名づけ、「締切をズルズル延ばす。というのは、書き手にとって気のもめることでもあるけれども、ある面、奇妙に解放感のともなうことでもあります。つまり、やらなくちゃいけないことがあるのに、やらないでいる、一種の贅沢感」と書いている。
そりゃ、僕だって、「やってしまえばすべてやってしまったことになるなら、早くやってしまうにかぎる」(『マクベス』第1幕第7場)と思っている。でも、「明日やれることは今日やるな」という叫びがどこかから聞こえてきてしまう。そうだ、明日ならもっといい文章が書ける!?
村上春樹は日本の文壇とは距離を置いているが、何よりも生活態度が真面目で締切を破ったことがないし、編集者に書き終えたから早く来ないかというそうだ。三島由紀夫だって11時には家に帰って仕事をしていたという。
旅 7 谷川俊太郎
岩が空と釣り合っている
詩がある
私には書けない沈黙を推敲し
言葉に至る道は無い
言葉を推敲し
この沈黙に至ろう樹の形して
樹は風に鳴っている
そこはどこの風景でもいい見える通りに感ずるなら
すべては美しく耀くだろう
見える通りに書けるなら
時はとどまるだろう村田喜代子は間違いを減らすために「まずは冷却期間を置く」「初稿と異なる書式にしてみる」「他人に読んで聞かせる」ことを提唱しているが、バランスを取り戻すために大事なことである。
口に出して実際に朗読すると、名文は呼吸が乱れない、とラッセルが言ったという。書物も朗読し、耳で文章を読んだと伝えられる。僕のような名文を書けない人間でも声に出してみるとおかしな部分が分かったりするから不思議だ。
梅田卓夫・清水良典【義範ではない】ほかの『新作文宣言』(ちくま学芸文庫)によれば次の通りである。
- 誤字、脱字、かなづかいに注意する。
- 主語、述語の対応を点検する。
- 文はなるべく短くする。
- 一文、または一段落中の同語反復はさける。
- 「が」と「は」の使い分けが正しくおこなわれているか。
- 文尾の「です」「ます」調、「である」「だ」調の混用は原則としてさける。
- 主語を省略しても文意が通じるときは削る。
- 「〜と思う」「〜と考える」などを乱用しない。
- 「そして」「それから」「そこで」など「そ」の音で全文を受け継ぐ接続をさける。
- 「〜して」「〜で」など、「エ」の音で続く部分を少なくする。
□ 昔から「三多」っていうけれど、「多く読む」「多く作る」「多く手直しする」ことも大切だ。
一つだけ注意。僕は論文などで最初に1.5倍くらいの文章を書いて削って規定枚数にするが、削った部分は残しておく。せっかくのデータが別のところで使う可能性もあるからだ。
幸田露伴は『普通文章論』で、実用文を書くのに最も大切なのは「平易」と「明確」だとし、「明確を求めなば簡潔にせよ」と説き、更に「洗練よりほかに簡潔を致しうる道はない。繁きを刈り、重なれりを除いて、物の正味ばかりにするが洗練である」と述べ、文章は「削り去るがよい、削り去るがよい」と説く。
□ ボードレールが初めてテオフィル・ゴーチエ(「フランス語の完全なる魔法使」と称えた)を訪問した時に「君は辞書を読みますかね」と聞かれ、未来の詩人は「私は悦んでそれを読みます」と答えてゴーチエのお気に入りになったという。辞書は引くことも大切だが、読むことも大切だ。
□ ところで、推敲ばかりしていたらいつまでたっても完成しないことになる。
そして、何よりも文章を殺すことがある。ストレートに心に響かない文章になってしまう危険性がある。子どもの文章でも教師の添削が入るとつまらない文章になってしまうが、勢いがそがれてしまうからだ。盛り上がって書いたラブレターはつまらないことが多いが、勢いのないのもやっぱり心を打たないだろう。
だから、漱石は「推敲する暇があったら、次の作品を書く」と考えていた。
多くの作家は自分が書いたものは既に自分の手から離れた別物のように考えている。
内田樹はブログで次のように書いていた。なるほど、タイムマシンで共同作業をしているようなものだ。それにしても、うまいなぁ、文章が。
自分で書いたブログ日記の記事をコピペしているので、べつに「剽窃」とか「盗作」というのではないと思うのだけれど、なぜかかすかな疚しさを感じる。
というのは、そのブログ記事を書いたのは「過去の私」であって、その人の書き物を「私のものです」と言って売り物にするのは、なにか微妙に「いけないこと」のような気がするのである。
「過去の私と現在の私の合作です」ということであれば、まあ、言い訳にはなるが。
長い本の場合、初稿ゲラを直しているときに、「この話はどういうふうに展開するんだろう?」といつもどきどきしながら読んでいる。「なるほど。そう来たか・・・」と感心することもあるし、「ちがうでしょ、それは。論理的に無理筋でしょうが」と噴き出すこともある。そういう箇所はただちに削除されて、別の文章に変わってしまう。
他人の文章を添削しているのとあまり変わらない。
そういう作業が複数回行われた文章は、なんというか「複数の書き手」のアンサンブルのような、不思議な「和音」がある。
「倍音」といってもいい。
村上春樹はまず一気に最後まで書いて、それをもう一度頭から全部書き直すそうである。
同一の書き手が同一の文章を二度書き直すと、そこには「一人でボーカルをオーバーダビングした」ときのようなわずかな「ずれ」が生じる。
同一人物でありながら、二人の書き手のあいだに、呼吸にわずかな遅速の差があり、温度差があり、ピッチのずれがあり、それが「倍音」を作り出す。
この「倍音」が読者にとっては、「とりつく島」なのである。
一人で一気にハイテンションで書くと、あまりに文章がタイトで緻密で「すきま」がなくなってしまうということが起こる。
構成に破綻はなく、文体もみじんの揺るぎもないが、「とりつく島がない」文章というのが現にある。
そういうのはリーダブルな文章とは言えない。
私がいちばん好きな作業は、「何かが降りてきて」憑依状態で書き飛ばした文章を、ふつうの状態のときに添削することである。
それはほとんど「他人の書いた文章」なのだけれど、それを添削する権利は私に属するのである。
これはスリリングで、いささか疚しい経験なのである。ちなみにコピペのレポートのことを外山滋比古は『新エディターシップ』(みすず)で「カクテル・レポート」と呼んでいる(が、二次的創造となるくらいだと認めている)。
村上春樹も「翻訳することと翻訳されること」(芳賀徹編『翻訳と日本文化』山川出版社2000)の中で次のように書いている。
僕は、自分が過去に書いた作品を、よほどのことがなければまず読み返さない。「過去は振り返らない」というといかにもかっこいいけれど、、自分の小説を手に取るのはなんとなく気恥ずかしいし、読み返したってどうせ気に入らないことはわかっているからだ。それよりは前を向いて、次にやることについて考えたい。
僕も雑誌などに文章を書くようになったが、編集者にいろいろと弄られる。でも、恐らく、そちらの方が読者に伝わるのだろうと思って、ほとんど抵抗しない。自分は他者にはなりえない。
□ スランプに陥った時は村上春樹の「チャンドラー方式」(『村上朝日堂 はいほー!』新潮文庫)が有効かもしれない。ハードボイルド作家レイモンド・チャンドラーのやり方だという。まず、文章を書くデスクを定め、そこに筆記用具やパソコンなど文章を書くための道具を揃え、体勢を整えておく。次に、毎日ある時間(例えば、2時間)をそこで過ごす。1行も書けなくてもそこに座っておく。たたボーッとしていても良いが、別のこと(本を読んだり音楽を聴いたり、誰かと話したりなど)はしてはいけない。とにかく書くときと同じくらいの集中力をもって、書きたくなったらいつでも書けるという姿勢をとっておく。そうすれば、1行でも書けなくても、また必ず書けるサイクルが回ってくる。
この方式で重要なのは「書けないときもじっと座って待つ」ということだ。ヘミングウェイのように「戦争が起こるたびに外国に飛び出していったり、アフリカの山にのぼったり、カリブ海でおおかじきを釣ったりして、それを小説のネタにするようなやり方はあまり僕の好むところではない」と書いている。
いずれにしろ、書き終えなければならない。小説家志望で途中まで書いたという人が多いが、ただの甘えである。ジョン・アービングの『ガープの世界』で「ガープは他の者と較べて書くのが速いとか、書く量が多いということではない。ただ、完成ということをつねに念頭において書くようにしている」と描かれている。「人間はなにかを最後までやり、また別のことを始めることによってしか成長しない」「そのいわゆる『最後』とか『始める』というのがたとえ幻想であるにせよ、である」。
□ 締切は守らなければならない。といっても、僕の先生たちは締切を破る理由ばかり考えていた。C先生などは「弟子(僕)が送るのを忘れた」などと言い訳していたが、締切は破っても原稿に穴を開けるな、という原則だった。
村松友視は以前、出版社で野坂昭如の作品の編集を担当した。「野坂さんはいつも、だます、逃げる、遅れる。『2時間後に来てくれ』と言われて出直したら、インターホンをもぎ取ってあった。その労力で書いてくれればいいのに」と語ったことがある。野坂は「締め切りがあるから悪い」と一喝した。
連載の時はさすがに、締切が恨めしくなる。同じ25日締切でも、こちらの忙しさや体調がずいぶんと違うからである。『ひとと月百冊読み、三百枚書く私の方法』を書いている福田和也なんて、化け物だと思う。余談ながら、米原万里は書評を集めた本『打ちのめされるようなすごい本』(文藝春秋)で〈食べるのと歩くのと読むのは、かなり早い。【…】ここ二〇年ほど一日平均七冊を維持してきた〉という。これだけでも打ちのめされる。僕だって7冊読んだ日は何度かあるが…。
ドラマを編集する目で文章を見直そう。
それにしても、吉田兼好は締切も原稿料もなかったのに、よくあれだけの文章を書いたものだと思う。
人は生きているだけで誤解される。自分の意図を見事に読みとったメールをもらうと嬉しいものだが誤解があると書きたくなくなる。
色々な誤解があるが、一番面倒なのは中傷したと誤解されることが一番辛い。
誤解も無駄もない、豪快な文章に努めなければならない。
でも、難しい。読者の勝手な思いこみ(近代読者論では「誤解する権利」などと馬鹿なことをいう)まで面倒見切れない。
ウェブライターと普通のライターとの大きな違いはお金をもらっているかどうか、編集者が介在しているかどうか、活字メディアかデジタルメディアか、訂正が可能か不可能か、などである。
残らないからといって無責任なことは書けない。タダだからと甘えてはいけないだろう。
□ ネットには活字と大きな違いがあって、批判が直接的にすぐに来る。批判は文章だけに関係したものではなく、個人的な中傷も含むことがある。ただの「揚げ足取り」という人種もいる。
口頭の場合はどんな悪口でも一過性であることが多いが、活字の場合は相手の傷つき方が違うし、証拠として残ってしまうためにやっかいだ。
デジタルの場合も活字と同じように気をつけなければならない。
批判も口頭の場合はまだ許せるが、メールで来た場合は実に嫌な思いをする。
それでも批判が来たら真摯に受けとめ、中傷の場合はゴミ箱に捨ててしまおう。脚本家の倉本聰は自作のドラマが批評家から理不尽に酷評されたとき、「ナスの呪い揚げ」を食べるという(『愚者の旅』理論社)。レシピはへたを取って刻み目を入れ、批評家の名前を唱えながら、先のとがった割り箸でくし刺しにする。油のたぎる鍋で揚げ、ショウガ醤油で食べる。心に「よく効く」という。
先日も僕のお笑いエッセー「ムバリ・アフリカ」をとらえて「あなたはこんな後ろ向きの言語学を専攻しているのですか?」というメールが来た。屋根に登ってバイオリンを弾いている人に「アイザック・スターンより下手だ」と批判するようなものだ。「ないものねだり」だ。
批判ではなく誤解だと思うが、難しい。でも、気にしていたら一歩も前に進まない。
エッセイでは「三つのI」が大切だといわれる。
Informative(情報)…「ヘェー」と思わせれば勝ち。「それってホントか」…。 Interesting(興味)…笑わせたり、にやりとさせたり。 Inspiring(感動)…世界観や人生観をちょっとだけでも変える力。 文章で大切にしなければならないのは記録性である。情報性と言ってもいい。誰かがどこかで書いてくれれば、残っていく。ホストがなくなっても、そのうち国会図書館が記録を取って行くようになるだろう。
どんな文章でも僕は情報を入れるようにしている。引用が多いのもそのせいで、そこから僕を超えて、元の作者の方に行ってもらいたいからである。
お見合いの文章を書いても、お見合いに関する映画を調べて書いておく。射水線という廃線になった電車を書くときも、歴史を調べておく。
そんな風に、情報を加えて、駄文には価値がなくても、そちらに少しは価値のあるような文章を心がけている。
□ 作家の井上一馬の『試行錯誤の文章読本』(新潮選書)によれば、彼の文章を書くときの心得として「情報」「共感」「感動(興奮)」の三つの情報の一つ以上を必ず入れるという。
「情報」は読者が知らないことで「へえ〜、信じられない」というような意外なことだ。これがなくて「共感」だけでは物足りなさを感じてしまう。
「共感」というのは「実は私もそう思っていた(が言葉にできなかった)」などというようなことである。僕の場合、子育ての体験とか、同じ世代の人から「共感した」というメールをもらう。読者と共有している情報がなければ、読みづらい。意外性だけでは疲れてしまう。
「感動(興奮)」というのはもちろん、心を打ち、涙を誘う話なのだが、僕には無理だ。僕の場合は「笑い」という要素に落ちつく。
これは講演や講義でも同じで、まったく観衆の知らないようなことばかりだと、情報量が多すぎて疲れる。講習になってしまう。ある程度、観衆の知っていることを話しながら、全く別の視点で捉えて共感を呼ぶとか、笑いでカタルシスを得るとかしないと辛いものがある。読者や観客に「そうそう、あるある、そんなこと」と思わせて最後に「ふーん」と言わせれば最高である。「あるあるふーん」が大切だ。
僕はディスクジョッキーや講演でもしているつもりで軽く書くことにしている。NHKの番組が辛いのはCMの時間がなくて、息抜きできないからである。
民放のように適度に別の話題(放送だとCM)に切り替えながら話さないといけない。そして文章も同じである。
悪文は一見に如かず。見ればすぐ分かる。よい文章の反対で誰でも書けることを自分にしか分からないように書けば悪文となる。岩淵悦太郎の名著『悪文』は「いい文章は書かなくてもよい。悪い文章を書くな」という。
清水幾太郎は『私の文章作法』(中公文庫)で、雑誌などに不親切な文章を書いている大学教授たちを批判して「どんな悪文も真理は真理、判らなければ判らない方が悪いというのでしょうか。相手の気持ちや境遇を何一つ考えない、レトリック抜きの文章に出会うと、腹が立って来ます」と書いている。論文など分かりにくく書けば高尚なものと勘違いしている日本人が多すぎる。
実はねじれ文や曖昧な書き方で文章になっていないなどの文章論ではなくて論理の運び方に問題があることが多い。
『源氏物語』と格闘した人も多いだろうが、あれって主語・目的語の省略、論理・話題の飛躍、時間の停滞・逆行・飛躍という三拍子そろった悪文なのである。悪文ということをきちんと教えないで古典だといって教えるから生徒は苦労する。先生も苦労する。
スティーブン・キングは『小説作法』の中で「悪文のほとんどは不安に根を発している」「文章の極意は、不安と気取りを捨てることである」と書いている。論理がしっかりしないので、メッセージを恐る恐る出しているから相手に伝わらない。言い訳に終始する人もいる(言い訳の文章を野口悠紀雄『「超」文章法』中公新書は「アリバイ文」という)。
悪文として他に次のようなことが考えられる。
一方的な議論になっている。独りよがりの論理になっている。反論をねじ曲げて批判している。感情論に走っている。具体例がない。逆に具体例の羅列に終始。解説であって議論ではない。枝葉末節ばかりで中心のテーマがない。議論が途中からずれて支離滅裂になっている。読者が最後に放り出される。独自の造語に酔いしれている。筆者が勝手に面白がっているだけ。ただのアジテーション。思い出話や自慢話ばかり。下ネタが多い。駄ジャレが多い。文章が長すぎる。
と書きながら心当たりがいっぱいあって心配になってくる。
直してくれと言われて読むと何が書いてあるかまるで分からないことがある。頭が痛くなってきて終いには腹が立ってくる。本人は本当に分かっているのだろうかと思うが、中には自信満々という人もいて困る(文章を読んでもらうというのは押し付けがましい行為なのだが分かってもらえない)。翻訳でも、読んでいて自分は頭の悪い人間だと思うことがあるが、誤訳だったり、悪文だったり…。
或る日の午后研究室で微睡んで(まどろんで)いると編集部から電話が掛かってきて文章について書いて呉れと云われたが、私にはそんな資格はないし、屹度適切で適当な人が余所に居るだろうと一旦御丁寧に御断りしたのだけれど、常日頃富山の御土産として鱒寿司などを戴いたり御世話になって居る(いやぁ、考えてみるとこちらも色々と御世話をして居る事が在る------前の旅行でのあの旅館での些事は我々の小さな思い出に成って居て胸がキュンと鳴って忘れることが出来ない。ムフフ)ことを想起して奮起しようかと動悸がして来てたのだが、動機としては不純かなぁーと逡巡していたのだが、家人が偶々病気になりお金が不如意になって首が回らなく成って来て少しでも火の車から脱出する為に原稿を引き受けようとした処、いよいよ我が方も多事多忙になってきてオイソレとは書けないような耐え難きを耐え忍び難きを忍ぶ様な凄惨な状況になって来て原稿の着手に躊躇している内に月日が流れ流れて斯うして引き受ける羽目に成ってしまったのであるが、私が云いたい事は一つしかないのであって文章の極意というものは自然に任せて誰しもが考えるような事柄をディコンストラクションしてディスクールに対して1矢を報いる事が出来るか否かという様な言説を弄する輩と成っては行けないという事に尽きると言えるかも知れないし言えないかもしれないというポストモダン的なディレンマと戦うことがその1つの忸怩たるところである。ところで、私がこの世でいちばん好きな場所は台所だと思う。台所があり、植物がいて、同じ屋根の下には人がいて…。
世間にお経のような文章をありがたがる風潮が残る限り、悪文は続く。『吾輩は猫である』でも苦沙弥先生のところに天道公平(てんどうこうへい)という男から手紙が届く。訳の分からない手紙なのだが、先生は「打ち返し打ち返し読み直し」「なかなか意味深長だ。何でもよほど哲理を研究した人に違ない。天晴(あっぱれ)な見識だ」といって賞賛する。猫は呆れてこんな風にいう。
この一言(いちごん)でも主人の愚(ぐ)なところはよく分るが、翻(ひるがえ)って考えて見るといささかもっともな点もある。主人は何に寄らずわからぬものをありがたがる癖を有している。これはあながち主人に限った事でもなかろう。分らぬところには馬鹿に出来ないものが潜伏して、測るべからざる辺には何だか気高(けだか)い心持が起るものだ。それだから俗人はわからぬ事をわかったように吹聴(ふいちょう)するにも係(かかわ)らず、学者はわかった事をわからぬように講釈する。大学の講義でもわからん事を喋舌(しゃべ)る人は評判がよくってわかる事を説明する者は人望がないのでもよく知れる。
結論は何か?と聞かれることがある。論文には当たり前だが結論が必要だ。しかし、文学に結論は必ずしも必要ない。むしろ、邪魔である。
結論ばかり気にする人がいる。映画を見ても結末ばかりを気にする人がいる。数学の答えを知りたがって、解法を楽しまない人がいる。しかし、文化というのは結論ではなくて、過程なのだ。文化を探ってどうして?と問うてみても、何も出てこない。
文章にしても、どこかに御大層な基準があるわけではない。論点自体に優劣はない。どんな論点でもいいが、対象を慈しみ、楽しむ文章が大切なのだ。←これって結論?
□ 文章を書くことはある意味では裸になることだ。
エッセイは小説ほど裸にならなくて済む。おかげで風邪を引くこともなくて、とても健康的である。
では、一緒に裸になりましょう。
トルストイは『アンナ・カレーニナ』の冒頭で「幸福な家庭は同じだが、不幸な家庭はさまざまだ」と書いた。教師をしていると「賢い学生は同じだが、馬鹿な学生はさまざまだ」と思いたくなる。文章でいえば、「うまい文章はさまざまだが、悪文は同じだ」と言いたくなる。
面接の際に作文を課されることが多い。この場合の注意を書いておく。感動させることは狙わず、印象に残る文を心がける。採点者は嫌ほど同じ文章に晒されるということを忘れてはいけない。
書き出しは意外性。ちょっと気取って書け! 問題というものは出題者の意図に応えるものであって答えるのではない。題が出されたら、出題者は何を聞こうとしているかちょっと考えてみることだ。 他の人は何を書くだろうか想像してみる。自分がいい出だしだと思っているのは他の人も思っているかもしれない。つまり、みんな同じだと目立たない。出題者が期待しているようなキーワードは必ずどこかに書くべきだが、少なくとも似たような冒頭にならないように工夫する。かといって奇を衒(てら)った文章にはしないように。 思いついたことをメモする。テーマに関して、絶対に落としてはいけない語をチェックする(みんなが書きそうな語は書くだけでサラリと流す)。全体をよく見てメモを分類する。 メモの分類から構成する。なるべく部分から話して全体を語った方がいい。「IT革命は社会を変えるか」という題だといきなり「インターネットは便利だ」という文から始めてはダメだ。「今年80になるおばあちゃんは…」位の意外性で始めて「実は…」とつなげなければならない。 「起承転結」などと書いているヒマはないだろうから「起承結」か「起承転」、「序破急」くらいで全体の構想を考える。文章と時間の割り振りを考えながら書き出す。間違っても中途半端で終わってはいけない。 次のように発展させるのも便利かもしれない。 問題提起:「〜だろうか」 意見提示:「確かに…」「しかし、…」 展開:「なぜなら…」「その背景には…」 結論:「以上、見てきたように…」 具体から抽象へ書く。細部から普遍、特殊から一般につなげる。木から始めて森を描こう(森から木の順ではない)。 漢字が分からなかったら、その漢字を避ける。類義語が出てこない場合は平仮名にする。漢字で間違うと感じが悪い(言うと思っていたでしょ)。 「…と思う」「…である」「…と考える」など同じ言葉が続かないように文体にも工夫する。 与えられた原稿用紙の3分の2以上を埋めるつもりで書けばいいが、短くても間違ってなくて、まとまっていた方がいい。文章も帯も生活もダラダラはいけない。
内田樹がホームページで書いていたが、こうした作文は次のように考えるしかないだろう。
志願者の「志望理由書」と「自己推薦文」を読んで、評価をしてゆく。
こういう書類の書き方はむずかしい。
「可もなく不可もなし」という書き方では志願者が多い試験では、試験官が同じようなものばかり読まされているうちにしだいにいらだってくる。
では、がんがん言いたい放題書けばいいかというと、「そういうのはキライ」という試験官に当たるとおしまいである。
むずかしいものである。
私としては、自分の好きなように書いて、それで合格すれば、その学校とは相性がいいということだし、好きなことを書いたら落とされたというのなら、相性が悪いということで、ご縁がない方がご本人にとってもむしろしあわせだったというふうに考えたらよろしいのではと思う。
<後書き> タダで配布している文のために何もここまで考えて書かなくてもいいのでは、と思う人は自分の文章に反省したことがない人である。もしかしたら、人生にも…。
□ ともかく、この文章はβ版としてずっと書き続けていく予定である。それほど文章は難しい。書いてあることも自分が実行できていることではなくて努力目標だと思ってもらいたい。
でも、もし、これを読んで文章を書く気になる人が一人でも出てきたら嬉しい。
四方田犬彦が『驢馬とスープ』(ポプラ社)で「若き売文家志望者への手紙」というのを書いているが、肝に銘じなければならない。
第一に心がけることは、けっして締め切りに遅れないことであるぞよ。【…】
第二に心がけることは、心に憎しみがあるうちは執筆に向かわないことであるぞよ。【…】
第三に心がけることは、モノを書くとは自分を公に、社会に晒すということであると、知るべきである。ここのところを覚悟しておかないと、ブログで日記を公開するのと、ライターを職業とするのと、重大な違いがわからなくなるぞよ。【…】
どうじゃ、インターネットで匿名で書いているのとは大違いじゃろう。パブリックに、世間に向かって書くというのは、日記の垂れ流しと違うのでござるよ。だから責任の所在を明確にするためにも、モノを書いたときお金を貰うのは当然じゃ。世のなかにヴォランティアとかいうのほど、タチの悪いものはないのじゃ。お金が働いていないから責任意識が弱く、ちょっと面白くないことがあると、平気で持ち場を離れてしまうことがままあるからじゃ。プロというのは、失敗とか途中の逃亡が許されないからプロなのでござるよ。
どうじゃ、これがプロのライターになる、最初の三原則であるぞよ。
締め切り、心の平安、責任意識。どうかな、お若いの。大変であるぞよ。
もしライターになりたいのなら、最低限、この三つは守るべきであるぞよ。
売文家になれたら、その時は知らせてください。なるべくお邪魔します。
でも、せっかくの文章をけなされても全人生をけなしているのではないので間違わないで下さい。もし、文章を誉められたら全人生を誉められていると思って下さい。
#当方、締切厳守・原稿格安#
ウェブより、やっぱり活字メディアで書いた方がいい!
【2000年9月15日】