金川 欣二:マックde記号論(言語学のお散歩)


 

ツッコミ力

 


 『世界最速のインディアン』という映画で試合に向かうアンソニー・ホプキンスが“If you don't follow through your dreams, you might as well be a vegetable.”「夢を追わない人間は野菜と同じだ」という。いい話だ。でも、それを聞いた子どもが“What type of vegetable?”「どんな野菜?」と聞くと、“I don't know.......Cabbage.”「分からない…でも、キャベツかな」というと「キャベツ…」と子どもが引いてしまう。

 大切なことは、人の話を聞くことではない(←いつもと書いていることが違うって?これがツッコミ力というものだね)。相手の話を咀嚼して、自分のものにしてしまうことだ。つまり、ツッコミを入れて、再確認することがとても大切だ。

 これを僕は「それってどうなのよ主義」と名づけたい。ええっ、斎藤美奈子が先に言っているって。それってどうなのよ。

 相手の話を鵜呑みにしてはいけない。だいたい、上司は、力のない上司ほど、説教をしたがるものである。説教することで自己満足し、自己弁護も適当に入れることができるから、とても都合がいいのだ。しかも、思いつきで上司は物を言う。ええっ、これも橋本治が書いているって!?

 正岡子規に「桃太郎は桃金太郎は何からぞ」という、ひねた句があるが、確かに子どもがツッコミをいれそうな気がする。飴から生まれる、といっても分からないかもしれない。

 とはいえ、何にでもツッコめばいいというものではない。相手が冗談で言っているのにツッコミを入れる人がいて、興醒めになってしまう。

 ある中国人から奇妙な小咄を聞いた。

「わたしが嫌いな人間のタイプに二つある。一つは偏見を持った人間、もう一つはニグロだ。
     伊丹十三『ヨーロッパ退屈日記』(文春文庫)

 まあ、こんなジョークにツッコミを入れても仕方がないですね。

 ただまあ、会議でツッコミを入れてばかりだと嫌がられることは確かだ。ある時など、僕の上司はパーティで「金川が発言するから会議が長くなる…」と名指して非難したことがあって、しかも翌日、「薬と酒が絡まって、ひどく酔っ払っていて、何を言ったか分からない」と謝ってきたので、わざと含みを残して「気にしていませんよ」と答えておいた。僕としては印象に残る会議を創りたいだけなのに。

 そういえば、昔から授業でツッコミを入れるのが趣味だった。間違いであったり、ダジャレを入れたりした。教育実習生を虐めるのも大好きだった。娘にも教員免許だけは取れ、というのだが、「教師は嫌だ」という。どうして?と聞くと教生のようになりたくないというのだ。お前、もしかして教生、虐めていた?と聞くとこっくり「うん」。

 演劇や落語などでもツッコミを入れる人がいる。くだらないダジャレなど先に言われてしまう。矢野誠一の『昭和の藝人 千夜一夜』(文春新書)に出てくるが、四代目柳亭痴楽が「だくだく」を演じた時の話が笑える。家財を売り、家の壁に立派な家具の絵を描いた八五郎の家に入った泥棒、帰るのもつまらないと「棚を開けたつもり、金を盗んだつもり」。気づいた八五郎も「やりをとったつもり、エイッと泥棒を突いたつもり」。すると、この噺を泥棒の「血がだくだくっと出たつもり」でサゲると、客の一人から「ああ、面白い落語を聞いたつもり」のヤジが飛んだという。立ち上がった痴楽は「いやな客を思いっ切りはり倒したつもり」…。

  世の中、賢い人がいて、『つっこみ力』という本が既に出ているやないけ、とツッコミを入れてくる人もいるかもしれない。「大体、〜力いうたら、斎藤孝やろ」とも言われそうだ。

 確かに『つっこみ力』(ちくま新書)という本が出ていて、著者はパオロ・マッツァリーノで、キャッチコピーは“愛と勇気とお笑いと”である。“人は正しいことには、必ずしも納得しない。面白いと思ったときに反応を示すものだ”ということをテーマとし、論理力や批判力・メディアリテラシーなどの正しさを追求する能力ではなく、「つっこみ力」をつけることにより、世の中を正しい方向ではなく、面白い方向に持って行こうとする姿勢が大切だとしている。

 人は正しさだけでは興味を持ってくれません。人はその正しさを面白いと感じた時にのみ、反応してくれるのです。....大衆にこびる必要はありませんが、ウケを狙いにいくことは、大切です。「正しさ」にこだわり続けるかぎり、論理力もメディアリテラシーも、つねに敗れ去る運命にあるのです。いままでも、これからも。

 著者は『反社会学講座』で有名な、匿名の社会学者である。この社会学というのが怪しい学問で、大学で教わった時に何も理解できなかった思い出がある。怪奇さだけで印象に残っている。この本は2006年夏に家政法経学院大(!?)で行われた講演ということになっている。

 学問なんてのは誰にでもできるものなんだ、イバるほどのものじゃないよ、というのが私の主張なんですが、そのためには、わかりやすく説明しなきゃいけません。でも、わかりやすく説明できない人にかぎって、わかりやすく説明する人が人気を博すと、批判するんです。わかりやすい嫉妬です。

 「つっこみ力」というのは、要するに「メディア・リテラシー」という外来語は堅苦しい言葉で概念が伝わらない、と新たに造語したものである。批判や正しさの吟味よりもおもしろさと分かりやすさに重点を置いたのが「つっこみ力」なのである。

 ボケ役は、ときにわかりづらいボケをかますことがあります。そのわかりづらいボケをすかさず拾って、客にわかるように伝え、盛り上がることができるかどうかが、いいツッコミ役の条件です。

 昔、アナウンサーに「先生はグルメですか?」と聞かれて、「赤ワインも白ワインも区別がつきません」とボケたのだが、「そうなんですか」で会話が終わった。ここは「色で区別ができるでしょ」と正しく引き取ってもらいたかったのだ。

 本の帯にある「愛と勇気とお笑いと。」の「愛」「勇気」「お笑い」は「つっこみ力」を構成する三つの柱だという。そして、「愛とは、わかりやすさである」と明言している。そりゃそうだ。誰かを愛しているなら、どうしても説得しなければならない。タレントが結婚した時に「プロポーズの言葉は?」と聞くのは、どういう言葉で愛を伝えたか、みんな知りたいからである。

 本当に大切に思っている人から、どんな研究してるのかと聞かれたら、必死になってわかりやすく説明しようとするはずですよね。少なくとも、必死に伝える努力をしますよね。恋人にわかりやすく説明しようとする気持ちが、愛なんです。

 したり顔でコメンテーターが発言する時に、「お前に貧乏人のことが分かるか!」とツッコミを入れることである(スーパーで買い物をしたこともなさそうな人が価格をうんぬんすることなんてザラである)。

 オシャレ眼鏡のおっさんが出てきて、放射能の害について語る時に、「お前、ほんとかよ、ホントだったら、現場で指揮しろよ」などとツッコミを入れるのがメディア・リテラシーなのである。

 大学生の時に初めて大阪に行って、大阪の女の子の話し方にすっかり魅せられた。ボケとツッコミが文化として確立されていて、会話が弾むのである。悩みが少ないのではと思ったが、これは統計を調べるしかない。

 今でも、大阪には「ノリツッコミ」というのがあって、例えば、「この電話使ってください」とキュウリを出すと、とりあえずキュウリで会話を始めて、「何でやねん」とツッコミを入れるのである。

 そうそう、大阪の人に手で作ったピストルを向けて「バン!」というと、ほとんどの人が倒れてくれる。これを「ケンミンSHOW」で紹介していたのだが、川上未映子が芥川賞をとった時に、別の朝番組でみのもんたが同じことをやったら、さすが大阪人、やってくれました。

 ツッコミを入れる時には話全体をつかんで、更に上の方から、言語学では「メタ」でものがいえなくてはならない。

 相手の言葉に単純に相づちを打ってはいかないのだ。鬱病になる人の中には「こんな風にいわれた」といって、その言葉を勝手に解釈しまくって、ビョーキになってしまう人がいる。その場で、具体的にきちんと聞く態度を持っていれば問題はなかったのだ。悩まなくてすんだのだ。ほとんどの場合、相手は軽い気持で、「あなたは○×みたいね」と言ったのであって、次に会った時には忘れているくらいのものだ。言われて「私は○×なんだ」とずっと悩むよりは、その場で「○×ってどういうことなの?」と聞いてしまえばいいのだ。

 具体的にはどうツッコミを入れるか?

○感覚的な言葉を具体化する…「夢を追わない人間は野菜と同じだ」といわれたら…。「がんばろうね」に「うん、がんばろう」ではいけない。「大変だ」という発言に対しては「大変、ってどういう意味?」「何がどう大変なの?」とツッコミを入れる。

○形容詞、副詞を具体化する…「面白かった」「感動した」といわれたら「どの辺りが?」と聞く。「早く」と言われたら「何時間で?何日で?」と尋ねてみる。「かなり増えた」と言われたら、「かなりって、どのくらい?」と詳らかにする。

 ツッコミばかりだと嫌な人間に思われることもあるかもしれない。「具体的に」とばかり言っていたら煩がられるかもしれない。それを避けるために、僕自身は「日記(などに)にちゃんと書いておきたいから、きちんと教えて」というようにしている。

 ツッコミ力とは具体を積み上げることである。漠然としていることを明確に理解することである。

 何となく分かったような顔をしないことなのである。

 つまり、他人の話を鵜呑みにしてはいけない、ということなのだ。

 ということは、この話も聞いてはいけない、ということだ。


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