何語が楽か? 「…お祖父さんはな、ラテン語の絶対奪格が最後まで分からずじまいだった。つまり、頭が悪かったんだな、君のお祖父さんという人は。ところが、君のお父さんは、その壁ぎわの向こうの机にいつも坐っていたんだが…、ま、似たり寄ったりというところだった。しかしだ、わしの考えで、これだけは絶対だと思うんだが、ね…コリー君や…君は…あーム…三人のうちではズバ抜けて頭が悪いよ!」
ゴーッと起こる哄笑。
-----ヒルトン『チップス先生さようなら』「日本語を勉強して、何が一番難しかった?」とときどき聞かれる。
のみこむのに苦労した日本語は、佃煮にするほどあった。例えば、「以後」と「以降」と「以来」を一体どう使い分けたらよいのか。また、難しい四字熟語を一生懸命覚えても、「適度」に、いや「適当」に、いな「適切」に使えるようになるのに、さらに一進一退、試行錯誤の月日を要した。ただ、「一番難しかった」とくると、ぼくの頭にまっすぐ浮かぶのは「月極」だ。
-----アーサー・ビナード「ゲッキョク株式会社」『日々の非常口』(朝日新聞社)
`Perhaps it doesn't understand English,' thought Alice; `I daresay it's a French mouse, come over with William the Conqueror.' (For, with all her knowledge of history, Alice had no very clear notion how long ago anything had happened.) So she began again: `Ou est ma chatte?' which was the first sentence in her French lesson-book. The Mouse gave a sudden leap out of the water, and seemed to quiver all over with fright. `Oh, I beg your pardon!' cried Alice hastily, afraid that she had hurt the poor animal's feelings. `I quite forgot you didn't like cats.' 「たぶん英語がわかんないんだわ」とアリスは思った。「きっとフランスのネズミなので。征服王ウィリアムと一緒に渡ってきたのよ」
(つまりほら、アリスの持ってる歴史の知識を全部あわせても、それがどれくらい昔の起きたことなのかまでは、あんまりよくわかってなかったんだな)
ともあれ、彼女はフランス語でやり直すことにした。
「ワタシノ猫ハ、ドコデスカ?」
これはフランス語の教科書のいちばん最初に出てくる文だったんだけど、とたんにネズミは水からすっ飛びあがった。どうやらおびえてぶるぶる震えてるみたいだった。
「あらやだ、ごめんなさい!」
アリスは急いで叫んだ。あわれな生きものの気持ちを傷つけてしまったとおもってね。
「すっかり忘れてたのよ。あなたが猫を好きじゃないってこと」【村山由佳訳】
毎年、「教官、何語が楽?」という質問を受ける。
本校では昔から第二外国語というものがあって、ドイツ語やフランス語も開講されていたことがあった。現在では国際流通でハングル、中国、ロシア語を選ばなければならないし、他の学科でもロシア語か中国語か迷う人がいる。
どの言語が楽か、ここで結論を出そう。
はっきり言おう。どの言語も難しい。
だから、やさしい言語などはない。
□ と、これだけで終わる訳にはいかないので、ハングル・中国・ロシア語について少し考えてみたい。
まず、発音からである。
母音に関してはどの言語も難しくない。
子音に関してロシア語は英語ができれば大体、発音できる。軟音、硬音というのがあるが、あまり気にしなくていい。
中国語、ハングルは日本語にない有気音、無気音というものがある。その代わり、どちらにも日本語や英語のような有声音、無声音(簡単にいうと濁音、清音の分類に近い)がない。だから、彼らは日本語の濁音が苦手だ。しかし、サンスクリット語などは有声有気音、無声有気音、有声無気音、無声無気音と4つの音が揃っていて、もっと難しいかもしれない。でも、発音に関してはもっと難しい音を必要とする言語がいっぱいある。
ハングルには濃音(喉頭化音)という難しい発音がある。
舌打ち音とか放出音とか難しい子音や母音の数の多い言語もある中で、三つの言語はどれも楽なはずだ。
とはいえ、発音で一番難しいのは中国語である。音調が難しい。音調で意味が違う言語を音調言語というが、アジアに多い。「四声」というものがあることは知っているだろうが、同じ“ma”でも「媽」(母親)「麻」「馬」「罵」(呪う)
で音調が違う。しかも、言葉が重なっていくと音調が微妙に違ってくるから、まあとても難しい。
ただ、音調は六つも八つもある言語があるから、まだいい方だと諦めることができる。
中国語は発音ができなければマスターしたとはいえない。昔、中国へ行った時に一年間学んだ中国語がまったく通じず、メマイしたことがある。その代わり、筆談はよく通じた。「妻」のことを「愛人」といったり、「トイレットペーパー」のことを「手紙」といったりする「偽りの友」に注意すれば誤解が生じることも少ない。
□ 文字はどうだろうか?
日本人にはどの言語も簡単である。
一番科学的に作られているのがハングル(訓民正音)で、これは十五世紀に世宗という王様が制定して作った新しい文字からである。漢字の原理(一文字一音節)とアルファベットの原理(一字母一音)という二つの原理を合わせて作ってある。もともとの意味は「偉大なる文字」ということであり、「訓民正音」ともいう。
ロシア文字は印刷工がロシアに運ぶとき、落としてしまってめちゃくちゃになったというジョークがあるが、キリル文字系でつまり、ギリシャ語と同じ原理で作られている。ギリシャ語は数学で使っているから知っているはずだ。“С”が“S”なのは下のにょろにょろが省略されたからである。“Π”が“P”、“Ρ”が“R”音を表すことはちょっと考えれば分かるはずだ。数学で「パイ」とか「ロー」とか習っているはずだ。そういえば、昔のソ連はCCCP(エセセセール)と言った。ソビエトのC、ロシアのPが出てきていると思ってくれればいい。
中国語は漢字文化圏の日本人にとっては易しい。戦後、簡体字と呼ばれる文字になったが、戸惑うくらい、省略されている。馴れると楽になるので、言偏(ごんべん)を使うことが多い僕はメモ書きを簡体字で書いている。まるで大学紛争の時の立て看みたいだと言われたこともある。
□ 文法について。
三つの言語は類型(タイプ)が異なる。類型というのは「…が、の、に、を」という文法的な関係をどのようにして表すかで典型的に表れる。
日本語は「…が、の、に、を」を変化しない名詞に助詞というものを付けることで解決している。英語は5文型と呼ばれる語順で示す。
ハングルは日本語やトルコ語と同様で、膠着語(agglutinative language)と呼ばれる。膠(にかわ)のようにどんどん言葉がくっついていくから名付けられたのだが、「食べる」が「(納豆を)食べさせられませんでしたか?」というように変化していく。思考パターンが似ているので、最初はとっつきにくいが、とても親しみやすい言語になっていく。ちなみに「言語同盟」(Sprachbund)という用語があって近隣の言語は系統が違っていても似てくるといわれる。
中国語は孤立語(isolating language)と呼ばれ、英語やチベット語と同じ類型になる。文法的な関係を語順で示している。漢文を教わっているから中国語の語順は分かるはずだ。その語順も英語と似たようなもので、「是」がBE動詞だと考えれば、他は(とりあえず)簡単である。
ロシア語は屈折語(inflectional language)と呼ばれる。名詞や形容詞や動詞などが変化する。日本人にとってはこの変化が難しい。難しいが、いったん、覚えてしまうと楽になる。インド・ヨーロッパ語族やセム・ハム語族(アラビア語やヘブライ語)などが屈折語に該当する。ロシア語は格が多い言語だが、フィンランド語にもなると14も格があり、井上ひさし『吉里吉里人』にはファインランド語学習者は「すくなくとも週に二回専門精神医の診断を受け」なければならないと書いてあるくらいだ。
もう一つ、包合語(incorporating language)というタイプが言語にはあって、アイヌ語やイヌイット(エスキモー)語やアメリカインディアン語がこれに相当する。「一語一文」といわれるくらい一文が切れ目なく続いて分析が難しい言葉である。
系統という言葉を使ったが、日本語はどの言語から枝分かれしてきたか、未だに不明である。
英語はドイツ語と同じゲルマン語に所属するが、ギリシャ語やラテン語からの借用が多く、フランス語の影響も受けている(“Il va sans dire que〜”から“It goes without saying that〜”「〜は言うまでもない」という表現が生まれた)ので、英語が得意な人はフランス語を学ぶ方が、同じ系統のドイツ語よりも楽だ。
□ もう一つ、親近感や接触度によっても違う。中国語は漢字を通して日本人には一番なじみがある。今の若者ならアメリカの英語が一番親しみやすいし、言葉も多い。どちらも日本語に入っている語彙の量が違う。
外国語を学ぶ時にはどれだけ、自分に親近感を持たせるかが大切だ。ロシア語を学ぶ学生が少なくなっているが、昔はみんなよく読んだものだった。
留学したら、外国語に接触せざるを得ないので、最も有益な手段だが、何の目的で留学しているか、よく考えて学ばないと、日本人でも外国人でもない、ただのエイリアンになってしまう。
□ もちろん、学習者の意欲や動機によって左右されるのはいうまでもない。美人の外国人と結婚して、言葉を学ばない男はいないだろう。職業にも関係があり、TOEICなど職場で習得を課されたら学ぶしかない。自発的に学ぶのと強制されて学ぶのとは大いに違う。
□ ところで、言葉が難しいかどうかという議論は学習者の母語が何語かによって大きく左右される。日本人とアメリカ人では楽な言語というのがまるで違う。いわゆる「言語的距離」というものがあるからである。
起源が同じだからといって習得しやすいということにはならない。それはドイツ語と英語が同じゲルマン語であるのにお互いに学ぶのは簡単ではないことから分かる。英語を母語とする人は恐らくフランス語の方が楽だろう。語彙がフランス経由で入っているからである。
また、初心者向けに楽なのと、ある程度覚えてしまえば楽なのとは違う。とっつき易さと奥の深さとは別のものである。例えば、英語はとっつきやすい言語ではあるが、イディオムや例外が多くて、奥が深い言語の一つである。
日本人が英語を不得意とするのも言語の構造的な側面がある(同じ膠着語でも韓国人で英語が得意な人が多いが…)ので英語教育の貧困を嘆いてばかりはいられない。
□ まとめると言語習得の難易度という絶対的な評価は下せないことになる。
難易度が変化する理由は次のとおり。
1) 学習者の母語
2) 習得言語の講座や資料の量
3) 学習者と習得言語の接触度
4) 学習者の動機づけ
別表は語学参考書の会社・大学書林がまとめたものである。違う部分もあれば、同じ部分もある。アメリカ人にとっては日本語が、日本人にとっては英語が苦手で、アラビア語はどちらにも難しい。
言語の相対的難易度
米国人に易しい 米国人に少し難しい 米国人に難しい 米国人に大変難しい 日本人に易しい スワヒリ語 インドネシア語
マレー語トルコ語 ハングル 日本人に少し難しい #イタリア語
#ポルトガル語
#スペイン語ベトナム語 中国語 日本人に難しい #フランス語
#ドイツ語#ギリシャ語 #チェコ語
タイ語
ハンガリー語日本人に大変難しい #ヒンディ語
#ウルドゥ語#ロシア語 アラビア語
(#英語)
(日本語)#インド・ヨーロッパ語族
なお、BARRY R. CHISWICK &PAUL W. MILLER の“Linguistic Distance: A Quantitative Measure of the Distance Between English and Other Languages”ではアメリカ人にとって日本語は韓国語や広東語と並んで、もっとも遠い言語となっている。
□ 英語は世界の言語の中では楽な言語に入れられるのが普通だ。孤立語だし、発音もそんなに難しくはない。難しいのは早口でアクセントのない音は弱く発音されて聞きづらいのと、イディオムが多くて覚えることが多いせいである。これは馴れるしかないが、結構難しくて結局、どの言語も同じ難しさということになってしまう。
どの言語が楽か、というと結論はそれぞれに易しい部分もあるし、難しい部分もある、というしかない。何しろ、人が一生をかけて学ぶものなのだから、一年やそこらでマスターできるものではないのだ。
ただ、スターリンの母語であったグルジア語は極めて難解だったことが知られている。グルジア人の子供が口げんかするのは、早くても中学生になってからだといわれている。なるほど。
□ 日本語は難しいといいながら、日本人が英語を学ぶのは難しいとはあまり言われない。アメリカ人が日本語を学ぶ時と同じ困難を日本人は英語に感じるはずなのだが、「努力」の一言で無言にさせられてしまう。アメリカ人がフランス語やドイツ語を学ぶ時も日本語と同じような困難を感じるはずだという人もいるが、言語体系は違っていても、同じキリスト教の文化で、ギリシャ・ラテン語からの借用語も共有しているから、困難さはずいぶんと違う。それなのに、日本人だけが「努力」が足りないとされる。
□ 実は日本語は難しいといわれるが、日本語で難しいのは文字である。しかし、いったんマスターしてしまうと漢字ほど楽な文字はない。アメリカの子どもがアルファベットを学んでも絵本が読めないのと違って、日本の子どもは「あいうえお」を学べば、その日から絵本が読めるようになる。
幸いに日本人は漢字をマスターしてしまっているから楽だ。
漢字に興味を持って日本語を学ぶ外国人も多い。『いちげんさん』を日本語で書いたデビット・ゾペティは漢字の解読を一種の内面的冒険だという。自己流の語呂合わせにはじまって、漢字を覚えることをとても楽しんでいるようだ。例えば、次のように。
〈漢字ベスト5〉
1「波」: 水の皮、地球を覆う水の皮はなみ
2「儚」: 人の夢ははかない
3「騒」: 馬をまたむしするとさわぐ
4「怒」: 女がまた心に頼ればいかる
5「嬉」: 女が喜ぶのはやっぱりうれしい外国語習得のコツについては次のように語っている。
・まず、その言葉が好きでなければ上達しない。
・その言葉に対して純粋な好奇心を持つ。
・机上の勉強では無理。その国へ行って、感情移入して、人を愛したり、疎外感を感じた りといろいろな体験をして初めて自分のものになる。スイス出身のゾペティはドイツ語、フランス語、イタリア語、英語を自然に身につけて、日本語だけは唯一学習したという。
語学というのはタイプの違う言語をいくつか学ぶことによってずいぶんと楽になるものだ。
アジア・アフリカの人々が三つも四つも言語ができるのをうらやましがる人もいるが、そうしないと生きていけないからである。大学教育がその国の言語で行えるのは限られた国でしか可能ではない。その意味で日本人は恵まれている。
アメリカ人やイギリス人はどこでも英語が通じるので、外国語を学んだり、外国に関心を持つことが少なくなっている。ケンブリッジ大学でも外国語の授業をなくそうかという話も出たくらいだ。独善主義に陥った時に国力は落ちる。人間も落ちていく。
その意味で、第二外国語を学べる本校の学生たちは幸いである。不得意だと色々な手立てて奨励される日本社会は幸せだ。
人類学者の川田順三は「ことばの多重化=活性化−−アフリカの体験から」(三浦信孝編『多言語主義とは何か』藤原書店)で「文化の三角測量」ならぬ、「言語の三角測量」を提唱している。これは「東」「西」に「南」を加えた3つの言語を使用することによって、「通じすぎて衰微しかけた言語(母語)に、意味伝達の緊張感を与えて活性化する」ことができるという。文化も言語も「あれかこれか」の二項対立の図式ではなく、視点を3つにすることによって対象が浮かび上がってくるのである。実際、英語ではない第二外国語を学ぶことによって、日本語も英語も相対化され、「メタ言語能力」というものが形成されることは間違いない。
色々な機会を利用して、外国語を勉強しよう。
The Field Marshal talks all languages except Japanese. If any Japanese ladies or gentlemen in the audience wants to ask questions they'll 'ave to turn 'em into some other language first. 「…パフタップスキー元帥は、日本語のほかなら、どの国のことばでもお話しになれます。御見物のかたがたのうち、日本人の紳士淑女諸君が御質問をお出しになりたい場合には、まえもって、ほかの国のことばにおなおし願わねばなりません。…」ロフティング『ドリトル先生のサーカス』【井伏鱒二訳】 【富山商船高専『信天翁 第28号』2001年3月発行】
<おまけ・外国語習得術>
英語以外の外国語習得については千野栄一『外国語習得法』(岩波新書)やピーター・フランクル『ピーター流らくらく外国語習得術』(岩波ジュニア新書)などを参考にしてほしい。ハンガリー人であるピーターはヨーロッパの言語はもちろん、日本語だけではなく、中国語などもマスターしているというい。
語学習得のコツをピーターは次のようにまとめている。
まず、短期間いま勉強している言語に集中するということ。すべてのチャンスを用いてその国の人と話をすること。その言語で独りごとをいうこと。その言語で書かれている本、とりわけ最初のうちは戯曲や探偵小説など、やさしく書かれている文章を読むこと。そのさい、わからない単語は必ず辞書を引いて、自分の単語帳に書くことを通して単語を覚えること。また、単語を丸暗記するのではなく、諺や詩などを覚えること。さらに、教科書は複数使うこと。なるべく早いうちから、英英辞典などその国の言語で書かれている辞書を使うこと。語学教室はいいクラスを積極的に選ぶこと。達成しやすい目標をたてること。
この他に忘れてはいけないことは日本語が大切なこと、集中力を高めること、対訳本を使うことなどが大切である。
□ ピーターの本を読むと恋人ができることで新しい言語を増やしているという感じもある。
日本人はシャイなので、なかなかそのまま受け止めることもできないだろうが、離婚する度に、新しい言語を習得していった言語学者もいる。言語学者に離婚が多いのはそのせいかとも思う(←思うな!)。
結婚は異文化の出会いであると同時に外国語との出会いでもありうる。
<補足・ハングル>
「ハングル」というのは「文字」の体系である。「文字」というのは「言語」を表記する記号にすぎず、したがって「ハングル語」などという「言語」はどこにもない。
なぜ「ハングル語」などという不思議なことばが日本でつかわれているのか。それは朝鮮半島が不幸にして南北に分断され、北は「朝鮮」南は「韓国」というふうに国名が違っているからで、「朝鮮語」というと北を、「韓国語」というと南のことを連想する。前から語学講座をNHKで設けてほしいといわれていたが、名称が決まらずに困っていた。だから、その政治的ややこしさを回避するために共通の「表記法」としての「ハングル」なら中立的だろう、という思惑が働いた。 これを姑息だと非難する人もあるが、名前を捨てて実を取ったと考えた方がいい。
「朝鮮語」ということばをつかうと政治問題になるのではないか、という一見思慮深そうにみえる判断はまちがっている。論より証拠、日本にはかなりの数の外国語大学があるが、そこで学科名になっているのはたった一校をのぞいてすべて「朝鮮語」である。国立国語研究所ではさまざまな言語研究をおこなっているが、そこでも「朝鮮語」と表記している。
もちろん奇妙なことである。日本語で歌を歌う人に漢字仮名交じり語ですかというようなものだ。
「ハングル語」などという奇妙な用法はどこにもない。だいいち、日本にいる韓国の友人たちからは「ハングル語」ってなあに?といわれる。こういうおろかな語法はやめたほうがいい。
政治的にめんどうなことになるといけない、というので遠慮することを「事なかれ主義」という。その事なかれ主義がアナウンサー氏の語法にまでおよんでいる。なによりもわたしがおそれるのはこどもたちだけでなく、いまの日本人のあいだに「ハングル語」という「言語」が存在している、というまちがった認識がうまれることだ。
「朝鮮語」というのは軽蔑的なひびきがあるから使用しない、という意見をきいたこともある。朝鮮語の専門家で文化功労賞をもらった河野六郎先生は一貫して「朝鮮語」だった。
NHKでは最近、「コリアン語」といっているが「コリア語」でいいとも思う。翻訳調だがこれもひとつの見識だ。永井道雄は文部大臣時代に「高麗語」といおうではないか、と主張していた。不愉快に思う人がたくさんいるなら再検討するのもよいだろう。
米原万里が糸井重里と話している部分を張り付けておく(リンクが切れると困るので---ごめんなさい)。米原万里『心臓に毛が生えている理由』(角川学芸出版)の池内紀との対談でも同じ主旨の発言をしている。
【米原】 つまり、客観的に一つの体系を、自分の国の言葉を持ってないんです。だから、もう一つの体系をやるときにゼロからやらなくちゃいけないんですね。
でも、ひとつの体系をきちんと把握していれば、次の体系を身につけるのは、はるかに楽になるはずなんです。だから、母国語でそれをやる方がいいんです。母国語を、きちんとやった方がいいんです。
‥‥と、私は思うんですけど、まあ、それはそれとして。とにかく50か国の子供たち、ロシア語を半年後にはみんな自由にしゃべれるように、また、書いたり読んだりできるようになるんですね。
ただ、おもしろいことに、ロシア語と親戚関係にあるスラブ語の、例えばチェコ語とかポーランド語、そういう国から来た子は、大体2〜3カ月でロシア語ができるようになります。近いから。
スラブ系ではなくても、同じインド・ヨーロッパ語族、フランスとかドイツから来た子は4〜5カ月かかる。で、日本なんて遠いじゃないですか。言葉としての親戚関係は全然ない言葉ですね。
アラブとか、モンゴルとか、朝鮮とか、そういうところから来た子はやっぱり6カ月ぐらいかかる。時間がかかる。
【糸井】 でも、2カ月しか違わないですね。
【米原】 まぁ、そうです。でも、大きいですよ、子供にとっての時間というのは。ただ、身につけたロシア語を見ると、言語的に離れた国のほうが、完璧に身につけるの。
【糸井】 え?それはどういう‥‥?
【米原】 私も電話で話すとロシア人に間違えられる。これは自慢じゃなくて、日本人はみんなそうです。モンゴル人とか、離れている子はみんなそうなの。言葉の選択とか、文法とか教科書では明示されない言葉の相性とか、いろいろ細かい文章化されない規則がありますでしょう?そういったものも正確に身につけるんですよ。それからイントネーションとか発音なども完璧に、本国人と変わらないものを。
ところが、とても近い言葉を母国語にして、実際にロシアで生活してゆくような子、この子たちは永遠に自分の国のなまりを引きずったまま、ロシア語を、しゃべるんですよ。
その後もそのままロシアに留学して、大学へ行って出て、大人になってロシア語で生活してるのに、自国語なまりそのまま丸出し。何年やっても。
【糸井】 何かわかる気がしますね。
【米原】 結局、よくわかったのは、本人が努力家だとかまじめだとかというのとはまったく関係なく、脳には省エネ装置がついてるの、サボり装置が。だから、自分が既に持っている言葉のパターンがあって、それが似ているロシア語があったとすると、新しいものを身につけないで、もう既に持っているもので間にあわせようとします。
【糸井】 そうできているんだ?
【米原】 だから、近隣国の子は、覚えが早いんです。ところが、日本語みたいに離れていると、使える引きだしがないんですよ。だから、最初のまっさらから身につけなくてはいけないから、そうすると完璧に身につくんですよ。
【糸井】 そうだ。
【米原】 だから、何かに関して、すごく習熟が遅い子とかいるじゃないですか。それは別に言葉に限らず、そういう子って、逆に完璧に身につく可能性があるんですよね。
【糸井】 ということは、回り道をした方がいい、
ともいえますねえ。
【米原】 そう。だから、すごく器用で、すごく早く身につける子というのは、優秀ではあるんだけれども、表面的だったりするんですよ、身につき方がね。言葉については本当に私自身の体験で、これは確信を持っていえますね。
【糸井】 一番遠い語族だったからよかったと。
【米原】 遠いから、うまくなる。