金川 欣二:マックde記号論(言語学のお散歩)

My foolish wife…「謙遜文化」

「…先生、人気ありますからね。授業はやる気ないけど」
「ああ、私なりにやる気はあるんだけどねえ」
「けど、楽しいっすよ。自由に描けるし、褒めてもらえるし。わからないことは他の先生に聞けばいいし」

-----山崎ナオコーラ『人のセックスを笑うな』


 昔、うちの学校にいた日系ブラジル人のH君は「僕、いろんなことができます」と自慢したことがあった。その中でも「ソロバンが得意です」というので、へえぇ、やっぱりブラジルは違う、と思って「でも、何級なの?」と聞いた。すると「7級」との答えで、7級というのは僕が挫折した級で、ほとんど初歩の段階なのだ。それでも、自慢するところが、やっぱり日本人じゃないなぁと思った。

 日本人はみんな謙遜する。「何もないボロ家で、妻もブスだし、料理もおいしくないけど、遊びに来ない?」という。「五千万かけた新築の家で、美人の妻が、最高の料理をもてなしてくれるからおいで」などとは絶対に言わない。「ボロ家〜」と言われた外国人はそれを信じてくるからビックリしてしまう。

 料理も“We have nothing to eat, but eat the next room.”などと訳の分からないことを言われて、隣の部屋に行くと、食べ物が食べきれないほど並べられていたりする。

 アメリカ人なら「妻が君のために特別な料理を用意しているから来ない?」というところだ。

 ヤクルトの石井一久投手が婚約した時に女子アナだった婚約者・木佐彩子の得意料理は何か聞かれて「そうですね、生野菜ですかね」と言ったのだが、そしてすぐに「まあ、これは冗談ですが」と言ったのに、そこでコメントは切られてしまって、奥さんは可哀想だった。でも、日本人ならいいそうなセリフではある。

 贈り物だってそうだ。「あなたのために苦労して手に入れた」などとは日本で決して言ってはいけない。「つまらないものですが…」と言わなければ、日本人じゃなくなる。ごく最近はすぐに開けても失礼ではなかったが、後でこっそり開けるのがマナーだった。感謝したい時には相手はいなかったりする。永遠に会えない人でもその場では開けなかったものだ。アメリカ人にとってはすぐに開けて感謝されないと、不機嫌になってしまう。無視されたような気になるのだ。それにアメリカでは相手の気持ちに働きかけないといけないものらしくて、必ずカードを添える。日本は何も書かないで意味のない包装を重ねる(わが子たちの世代は違うようで、一生懸命、手紙も書いている)。

 アメリカ人のコミュニケーションは押し付けがましい。「いいでしょ」と言われても実は困る。何かを誘う時でも「絶対いいから」なんていう。日本人は少しでも相手に気が乗らない雰囲気があったら、「まあ、無理だと思うけどね」とか「他にもあったしね」とかいう。アメリカ人の発話スタイルを「誘導型発話」、日本人のは「気配り発話」と呼ぶことがある。

 妻も日本人は「愚妻」という。子どもたちも「豚児」「豚女」とか言って、絶対に誉めない。学校で成績がトップだったとしても、(例外はあるが)「馬鹿息子でして」というのが普通だ。

 「山妻」(さんさい)というのもあるし、「荊妻」(けいさい)というのもある。後者は皇甫謐(こうほひつ)『列女伝』から取られていて、後漢、梁鴻(りようこう)の妻、孟光(もうこう)がいばらのかんざしをさした故事から自分の妻をへりくだっていう言葉だそうだ。

 もっとも最近は「うちの奥さん」という言い方をする人がいて、調べると森本薫が1934年には使っていて他にもいろいろな人が使っているから、定着していることになる。

 小学中学の教育に尽瘁したフランスの一教父が、或時、僕に次のような話をした。

「私の学校の寄宿生は東京に家のあるものが大部分を占めているが、中には地方の者で、東京には近い親戚も心安い知人もない生徒がある。そういう生徒の母なり姉なりが時々上京して寄宿舎に子や弟を訪ねて来る事がある。

 もしこれがフランス人だったらどうだろう、彼らは泣いたり笑ったり抱擁したりして、愛情の限りを尽くして憚らぬだろう。
 
 ところが、日本の婦人はこんな場合にも実に穏やかである。久し振りで子や弟に会うのだから、懐かしさは顔に現れている。しかし、その挙動の端厳な事は全く驚嘆に価する。彼女らは、先ず私に『不束な子供であるが、お蔭様で無事に勉学する事が出来て何より有り難い』と云う。そうして、子や弟に向って、『良く先生の教えを守って、勉強して、からだを大切にしてくれ』と云うようなことを言い聞かせてから、静かに帰って行く。

 日本の婦人のかかる態度に接した時、私はいつも考え込んでしまう。これほどまでに感情の流露を塞ぐのは如何にも自然に背いている。自分は今、かって歴史で読んだスパルタや古ローマの母型をまのあたりに見せられたのではないか、と一種の恐怖に似た戦慄を覚えるが、しかし同時に、世界最強の兵士を育て上げた母や姉はまさにこれだと思うと、偉なる哉、日本と叫ばずにはいられなくなる。」

 僕はこの話しを聞いて、「そういう母型は本場の日本でも今ではどんどん崩壊して行く」と答えた。すると教父は更に、「果して崩壊するだろうか、私にはそうは思わない。一時影を潜めても、日本の存立する限り、時代を隔てて幾度も蘇るだろう。」

 結局外国人にも日本人にも日本人が良く分らないらしいが、、少なくとも僕には、日本人ぐらい―――善くも悪くも―――他の国々の人間と異なる人間はないように思われる。同じ東洋でも、中国人やインド人は遥かにロシア人に似ているし、ロシア人は日本人に似ているよりも遥かに欧米人に似ている。それだから、日本人だけが日本人だと云うことになる。
     -----『辰野隆随筆全集 2 えびやん』(福武書店)

 中には「愚妻」を“My foolish wife”などと訳す人もいるから、よっぽど離婚が近いと思われる。“My wife isn't so beautiful and doesn't cook very well.”などというから、よほどブスで料理も下手かと思われる。

 妻をほめられたら“Thank you. I'm proud of her.”というと平然と返すべきなのだ。

 外国人は平気で相手をハニーとかダーリンとか呼び合う。“I love you.”も日常的だが、日本人は結婚したら決して「好きだ」なんて言わない。言えない。

 米原万里は『心臓に毛が生えている理由』(角川学芸出版)で次のようなジョークを紹介している。

 とあるレストランで、三組のカップルが同じ食卓を加温でいた。アメリカ人の夫が妻に呼びかけた。“Give me the honey, my honey!”(蜂蜜を取ってくれないか、僕の蜂蜜ちゃん)
 イギリス人の夫が妻に呼びかけた。“Give me the sugar, my sugar!”(砂糖を取ってくれないか、僕のお砂糖ちゃん)
 日本人の夫も妻に向かって、「ハムを取ってくれないか……」と言いかけたものの、口をつぐんでしばらく考え込み、それから付け足した。「僕の仔豚ちゃん」

 僕は妻を食べてしまいたいくらい愛している。本当に食べてしまえば良かった…。

 料理がたくさん並んでも“We have nothing to eat. But please eat next room.”(ジョークだからね、使わないでね)とはいわない。“I cooked this for you all day today. I have a ton more in the kitchen.”というのが当たり前。アメリカ人だと自分が作ったクッキーを“You must try my cookies.”というところだ。“must”だって。だから、日本人がプレゼントする時に“worthless gift”なんていうとびっくりしてしまう。

 アメリカには「謙遜」というものがない。「すごいね」といわれて「とんでもない」などというのも英語ではありえない。“No way.”などと言おうものなら心配されてしまう。逆に、アメリカ人が君の能力を誉めたりしても、有頂天にならないように!あちらは誉める文化なのだから。まして、英語力を誉められる間はまだまだ力がついていないということだからね。

 アメリカ人はお世辞を社会の潤滑油と思っている。だから、自慢するし、その自慢を受け入れる。そして、褒めちぎる。子どもについても、「うちの子は最近、何とかと何とかで賞をもらった」なんて平気でいう。成績にしても「こないだ85点も取った」と自慢するし、子どもにも「お前は天才だ。私の誇りだ」などという。

 日本で85点を取ったら、「どうして後15点取れなかったのか?もうちょっとで満点だったのに!」などと責められるのがオチだ。

 教師も誉めるのが得意で、“Good job!”は当たり前で、“Nice work!”“You did an excellent job!”“How smart!”“I'm very proud of you!”“Well done!”“Perfect ten!”“You hit the nail on the head!”などと言って持ち上げる。

 日本人だったら、歯が浮きそうなヨイショをされると鼻白むところだが、アメリカ人はそんなことがないようだ。「ほめ殺し」という言葉があるように、誉められると死んでしまいたい気持ちにさえなる。気がついたら木の上に登っていることも多いのだ。

 アメリカでは誉める方が人間関係がよくなるとされる。日本では強面(こわもて)の厳しいリーダーの方が好まれる傾向にある。「鬼」と呼ばれた方がリーダーとしていいと思われている節さえある。最近は分からないが…。

 日本だって昔からそうだった訳ではない。イザベラ・バードが明治の初め、日光近くで見た光景で「父親も子供を自慢にしています。毎朝6時に12人から14人の男が低い塀に腰をかけ、2歳以下の子供を抱いてあやしたりして、その子の発育のよさと利口さを見せびらかすのを見るのはとても愉快です。この朝の集いの主な話題は子供のことのようです」と描写している(『イザベラ・バードの日本紀行』講談社学術文庫)。「銀も金も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも」と歌った山上憶良の頃から、今でも子どもを大切にする人は多いが、「親ばか」と呼ばれる。英語でなんていうか調べると“ blind parental love”というのがあり、ことわざには“It's a wise father that [who] knows his own child.”というのがあって、普通の親は子どものことを知らないものらしい。

 人は小さい頃から正直者であれ、と教えられる。しかし、「今日の服どう?」と言われて、そのまま「似合わないよ」などと正直に答える人はいない。

 大人になって学ぶことは正直だけでは生きられないということだ。

人の為
と書いて
いつわり
と読むんだ
ねえ

 相田みつを

 アメリカではアグレッシブ(攻撃的)“aggressive”でなければならないとされ、自分も他人も誉め合って生きていかなければならない。これって結構つらいものがある。

 マーク・トウェインは「うまいお世辞があれば、2カ月暮らせる」(I can live for two months on a good compliment.)と言ったくらいだ。

 こうしたのを「礼儀の建前」(Polite Fiction)ということがある。

 愛の場面にだって使える。『恋愛小説家』ではジャック・ニコルソンが行きつけのレストランのウェイトレスのヘレン・ハントにいう。

“Well, my compliment to you is ...you make me want to be a better man.”
「君のおかげで、もう少しましな人間になりたくなった。それが、その…君へのほめ言葉だよ」

 ただ、文化だけの問題ではなく、言語の問題もあるかもしれない。阿川佐和子は『オドオドの頃を過ぎても』(新潮社)の「できないチュッ……」というエッセイの中で、ハワイの知人の医者と父親の阿川弘之と一緒に行った時に「お宅のお嬢さんもスイートですよ」とほめられたら、すかさず、弘之が「ヘェ、どこが。私に対しては、ちいっともスイートじゃないですね」と答えたとうい。食ってかかると…。

「何言ってるんだ、お前なんか、父親似むかって『ハイ』と素直に応じたためしがないじゃないか。いつも、だって、だってと、自分を正当化して、甚だよろしくなお。大体、だれのお陰でこんなぜいたくができると思ってるんだ」

 ドクターの家をお暇するとき、お嬢さんのケイコちゃんから「また来てね」と、ほおにキスをされて、ご機嫌になったはずの父は、またもや私に腹を立て始めた。しかし、あのドクターでも、「子供をしかるときは、感情的になるからやっぱり日本語ですよ。でもほめるときは、英語の方が便利だなあ。日本語じゃ、気恥ずかしくて」とおっしゃっていた。私も「アイム、ソーリー、ダディ、チュッ」なんて父に抱きつけば、父娘の関係は、もう少し改善されるかもしれないが、でもそんな勇気はない。

 いくら誉めるのが得意なアメリカ人だって、見え見えのヨイショは避けるものである。でも、お互いに誉め合って生きている。日本人は、お互いにけなし合って生きているようにも見える。アメリカは褒めて勉強をさせ、日本はけなして勉強をさせるといわれるゆえんである。

 どちらがいいのか分からない。河合隼雄は『ココロの止まり木』(朝日)の中で次のように書いている。

 確かに日本人には、初対面の人に自分の能力や才能などについてあまりしゃべらず、むしろ私は何もできませんので、というような物言いをする人がおおい。その点、アメリカ人は別に威張っているのではなく、自分の能力や才能などについては初対面であってもしっかりと事実を伝え、「正当な評価」をお互いにすることによって、その後の関係のあり方を明確にする、というような感じがある。

 自分のことに関して、事実を事実としていっているので、別に威張っているわけではない、というわけである。

 それに比して日本人には「私はまったく駄目な人間です」とか「何の取りえもない人間です」などと謙遜してみせて、相手が「いやいやあなたは素晴らしい方で」といわざるを得なくして、いうなれば、自分が威張るための誘い水をあちこち打ちまくるようなニセの謙虚人がいるが、これよりはアメリカ人のほうがはっきりしていていい、といえるかもしれない。

 威張る、威張られる関係などより、人間対人間として普通につきあうほうがいい、といえばもっともだが、これも考えると難しいことだ。「僕はどんな人であれ、地位や財産などにかかわらず、人間として会うのだ!」などと大声で威張る人もおられるぐらいだから、人間対人間として会う、というのはあんがい大変なことなのだ。【…】

 威張らずに謙虚に生きようなどと思わず、自分のほんとうに好きで楽しいことを見つけるのがよさそうである。

 一つだけいえることは、日本の子どもたちに「自尊感情」というのが育っていないということだ。古荘純一『日本の子どもの自尊感情はなぜ低いのか』(光文社新書)は次のように指摘している。

 自分を肯定的にとらえる、ということは、人生のさまざまな困難を乗り越えて充実した人生を送るためだけでなく、他人と協調していくためにも必要なことだと言えます。自分を否定的にとらえると、他人のことも否定的にとらえたり、他人からの言動を被害的にとらえたりすることで、関係がうまく成立しなくなってしまうからです。そうなると、コミュニケーションをとることが難しくなってしまいます。【…】

 幼児的な万能感を持っていた子どもたちも、世の中の現実がわかってくるにつれて、自尊感情は低下していくのが普通だとも言えます。そして一回低下しきると、下げ止まって、また、こんな自分でもいいや、という感じであがっていくのが普通のパターンだと考えられていたのですが、いまの日本の子どもの現状では、小学校三、四年生ぐらいから低下しはじめて、中学校、高校、とずっと下がりっぱなし、ということになっていることが、今回の調査で明らかになりました。【…】

 私は、母親(もしくは父親)が、自分の自尊感情が低いことを子どもに投影してしまう(自分自身の、特に子どもの頃のネガティブな思いを自分の子どもに見いだしてしまう)と、子ども自身も自尊感情が保てなくなるのではないか、と思っています。

 アグレッシブだからといってアメリカ人がみんな謙遜しないという訳ではない。ベンジャミン・フランクリンは「謙遜は偉大な人を二倍名誉あるものとする」(Humility makes great men twice honourable.)と言った。

 フランクリンは『フランクリン自伝』(岩波文庫)で述べた「十二徳」は次のようなものだった。そして、謙遜が一番むずかしいと書いていた。

・節制:暴飲暴食を慎む。
・沈黙:他人、もしくは自分にとって有益なこと以外は話さない。
・規律:物はすべて場所を決めて置く。仕事はすべて時を決めて行なう。
・決断:なすべき事を決心する。決心した事はかならず実行する。
・節約:他人や自分にとって有益なものを求め、時間の浪費はしない。
・勤勉:時間を無駄にしない。常に有益な活動に取り組み、不必要な行動はとらない。
・誠実:人に害を及ぼすような嘘はつかない。不正を考えず、正義に徹し、真実を語る。
・正義:他人に害を及ぼすような行為をせず、義務を怠らない。
・中庸:生活のバランスを保ち、憤らず、他人に寛容である。
・清潔:身体や衣服、住居を不潔にしない。
・平静:つまらないこと、避けられない出来事があっても取り乱さない。
・純潔:自尊心や人の信頼を傷つけるような、ふしだらな行ないは絶対にしない。
・謙遜:イエスとソクラテスに見習うこと。

 中国人だって、謙遜はしない。韓国人だって、インド人だって、みんなアグレッシブに自分を前面に出す。

 子どもがバカだというのは日本だけではない。イギリス首相だったチャーチルは息子の嫁パメラがフィアットのジャンニ・アニェッリと不倫し、それが報道された時、「うちのボンクラ息子よりはマシな奴だよ」とアニェッリを評したという。イタリアのマスコミは「第二次世界大戦の敵を討った」と報道した…。

 恐らく、こんなに謙遜するのは日本だけなのかもしれない(ま、そんなことはないはずだが)。いや、日本だけが謙遜して暮らせたということなのだろう。ほとんどが同じ民族、同じ文化で育っているから、「自分は…」と自慢することは必要なかったのだ。

 日米の礼儀の違いについて、僕はよく知っているでしょう、などとは絶対に言えないのである。

 井出祥子らの研究によると、英語の“polite”と日本語の「ていねいな」というのは意味合いが違うという。英語はrespectful, considerate, pleasant, friendlyであるのに対して、日本語は「敬意」「感じがいい」「適切な」「思いやりのある」という概念で表されるという。アメリカ人の考える「ていねい」は親しさ(friendly)に基づいているから、アメリカの店員はきさくで気軽に声をかけてくる。セールストークだって互いに平等だということを前提としている。ところが、日本では「お客さまは神様です」という感じになっていて、客に敬語を使わざるをえなくなっている。


 ここで全く違った話になる。妻自慢というのはやっぱり問題がある。幸い、うちの妻はほめられる部分は皆無である。

 ヘロドトスの『歴史』には次のような話が出てくる。

 小アジアの王国リディアの王のカンダレスは自分の后をこの世で最高の美貌をもった美女だと思っていた。自分の妻が美人となると人に自慢したくなるもので、カンダレス王も彼の腹心の部下であるギュゲスに妻である后の自慢話をしていた。ところが、ギュゲスは思ったように関心を示さない。 カンダレス王はついに「私がいくら話しても、わたしの妻の美しさはお前に伝わらないだろう。人間は耳より目を信じるものだ。そこで、お前に妻の裸がどれほど美しいか見せてやろう」。ギュゲスはこの王の申し出に「女はその衣服と共に羞恥心も脱ぎ捨てるといいます。そのようなお姿を他人に見せることはいかがかと思われます」と言い、断ろうとしたが、断りきれず、とうとう王の言うとおり后の裸を見ることになってしまう。ギュゲスが王の寝室のとびらの陰に隠れ、后が服を脱ぐところを盗み見ることになるのだが、部屋の外へ出る時に、姿を后に見られてしまう。后はすぐにこれが夫の企みであると気づいて、その辱めを受けた報復に出る。翌朝、ギュゲスは后に呼ばれ、「夫を殺してリディア王となってわたしと結婚するか」「さもなくば、ここで死ぬか」と究極の選択を迫られる。カンダレス王は妻に恥をかかせたのと同じ寝室でギュゲスに寝込みを襲われて殺されてしまった。

 ということがあるので、ゆめゆめ自慢はしないのである。

 アラビアでは誰かの奥さんを誉めないものだとされる。相手の持ち物や調度品などをほめると、欲しがっていると受け取られる。間遠っても、奥さんを誉めてはいけない。都会では奥さんを誉めてもかまわないらしいが、特に地方に行って奥さんを誉めると、変な誤解を受けることがあるから注意しなければならない。奥さんの手料理を食べても「奥さんは御料理が上手ですね」とは言ってはいけないそうだ。どうしても誉めたければ「この料理はおいしいですね」と言わねばならないという。特に夫人の美しさを誉めるのは御法度中の御法度だ(まあ、日本でも「奥さん、爆乳ですね」などとは誉めないようなものだ)。また、一部の年配者に物を誉めるとそのものに災厄がふりかかる、という邪視信仰が残っているので気をつけなければならない。

 1803年に作曲されたベートーベンのソナタの中でも最高傑作とされる「クロイツェル・ソナタ」に着想を得て、トルストイは1888年に『クロイツェル・ソナタ』を書いた(マウリツィオ・シャッラ監督の映画にもなっていて空港に設定が変えてある)。

 トルストイの作品は長距離列車で偶然乗り合わせた乗客がヒマをつぶすために、それぞれの結婚観を述べ合う。「愛情にもとづいた結婚だけが真実である」、「いやいや、愛情に永続性などあり得ない」など議論が白熱する中でボーズヌイシェフ公爵という男が「自分は嫉妬のために妻を刺し殺した」と告白する。彼は社会的地位のある地主貴族で、性的欲望…つまり「肉欲こそが人間生活のさまざまな不幸や悲劇のもとである」として、自らの結婚生活と性に関するストイックな考えを披露して、嫉妬にかられて妻を殺すまでの苦悩と、その息詰まる惨劇の瞬間までを告白していく…。

 作品の巻頭に『マタイによる福音書』(5章28節)が引用されているように、トルストイは結婚制度そのものの欺瞞性、夫婦の愛情と憎悪の相対関係を指し示し、根底にある性欲を否定している。

 みだらな思いで他人の妻を見る者は、既にその女を犯したのだ、といったことが福音書に書いてありますが、これは何も他人の妻のことだけを言っているのではありません。まさに、いやなによりもまず、自分の妻のことだと思うべきなのです。…独身時代には禁欲を心がける者がいたとしても、結婚してしまえば誰もが、もはや禁欲は無用だと思うからです。そもそも、新婚夫婦が式の後、両親の許可のもとに二人きりで旅行に出かけるという習慣自体が、みだらな生活の容認の他ならないではありませんか。
   ---『クロイツェル・ソナタ』(望月哲男訳/光文社文庫)

 ということで、自慢するのはやっぱり止めよう。

 下手な文章でごめんなさい。

【2008年6月17日】


 

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