|
明けましておめでとうございます。
と、まだ新年にもなっていないのに書いてしまうと、ツッコミを入れてくる人が必ずいます。年賀状なども年を越してから出すのが正しい、といって元旦に着く賀状には目もくれない人がいます。
それはそれでいいのです。今のように年末に賀状を用意することは戦後のことで、そんなに古いことではないのです。それに今のような賀状交換という行為自体が一般化するのも明治以降のことなのです。昔は書き初めをする1月2日に書いて出したものだったのです。
年賀状を出すことも韓国や中国など限られた国のことですし、中国などは旧正月の方を大切にします。
欧米はもちろん、年賀状がなくてクリスマス・カードですませます。しかも、近年は「クリスマス」という言葉さえ使えなくなってきています。キリスト教徒でない人に配慮したもので、「メリークリスマス」はPC(政治的に正しい)ではないとされます。ブッシュ大統領だって2004年から年末休暇の前に国民に対して「ハッピーホリデーズ」というようになりました。
日本人は年末にクリスマスを祝って、正月にお寺やお宮に行くのはおかしいという人もいますが、八百万の神様のいる国としてむしろ、誇りにしていきたいと思います。『ローマ人の歴史』を書いた塩野七生によれば、古代のローマの最盛期には30万の神様がいたといいます。「夫婦喧嘩」の神様や「融和」の神様までいました。「お客様は神様です」とたかだかお金を払うだけの人まで神様にしてしまう日本と同じで、すごい人は誰でも神様に列してしまい、あげく、よその民族の神様も受け容れてしまうから、どんどん増殖したといいます。多神教の神は人々の生き方を縛りません。保護を与えてくれるだけなのです。人間の社会の在り方、生き方を決める「法」はあくまで人間が決めるべきもの、というのが古代ローマ人の考え方だったようです。おかげでローマ帝国は長く続いたのです。ブッシュとビン・ラディンの戦争のように原理主義どうしが醜く争うのは一神教が一つの原因になっていると思います。
自分に子どもができてから赤と緑の「クリスマス」カラーで街が明るくなり、音楽にあふれ、子どもたちがサンタさんをわくわくして待っていることが楽しめるようになりました。雪が降ったクリスマスには朝早くからサンタさんの「足跡」を庭につけたりもしました。
鉛色の空の下、寒い北陸に住んでいると、なくてはならない行事です。ヨーロッパでも宗教と冬至の民間行事が一体化してクリスマスになったとされます。暗い冬をすごすための生活の知恵だったのです。
歴史学を変革したフィリップ・アリエスは『<子供>の誕生』(みすず書房)の中で、17世紀のオランダ人画家ステーンが描いた「聖ニコラ祭」を取り上げています。おもちゃの人形を大きく大事そうに抱えた幼女が中心となり、周りに母や父、兄弟が取り囲んでいます。つまり、今のクリスマスの原型なのです。そして、こうした聖ニコラ祭がヨーロッパ(のオランダを含む北部)で誕生したのはこの頃だったのです。それまでの聖ニコラ祭は騒々しくて、破廉恥な共同体の祝祭であったとさえ言われています。それが、子どもを中心に凝縮した家族の、ほのぼのとしたお祭りに変質して行ったのです。つまり、新たな子ども(子ども観)を生みだしたのです。その意味で「聖ニコラ祭」は近代的な学校制度の誕生、美術への子供の登場、子供服などを生み、ヨーロッパ「近代」の誕生に歴史的なモニュメントになっていきます。この時代の「まなざし」が小さな大人だった子供を発見していくことになるのです。
それまで「小さな大人」でしかなかった子供を発見するということは子供の中に大人とは異質の性格を発見したことになりました。ものの見方、考え方、感じ方が違うということに気づいたのです。これがルソーの『エミール』などを生みだし、「子供の自然」を主張することになっていきます。そして、これは「子供」の発見であるとともに「人間」の発見でもあるということになりました。だから、レヴィ=ストロースは
「人類学の創始者ルソー」(山口昌男編『未開と文明 現代人の思想 15』平凡社)というようにルソーを現代人類学の生みの親と位置づけたのでした。□ クリスマスのパリはギャラリー・ラファイエットやプランタンなどのデパートがクリスマス・イルミネーションで輝きます。人がいっぱい集まっているのに、クリスマスには閉店しています。
それに比べたら、日本は宗教色もほとんどなく、心から楽しめます。これについても日本人は宗教心がない、と批判する人がいます。入国カードの宗教欄にも「NO」と書いたら無宗教=悪魔と考えられるからBuddhaと書くように指導する人がいます。でも、お正月にはお詣りをしなければ気がすまないという日本人の心性こそまさに宗教心なのです。
その意味で、日本の宗教はどれも「ユーザー主導型」といえますし、戒律の厳しい西欧の宗教は「メーカー主導型」といえます。
□ 年賀状だってそうです。虚礼だと言って嫌う人もいますが、年賀状が一通も届かない正月なんて想像したくもありません。うちでも喪中欠礼をした年がありましたが、知らずに(間に合わず?)届いた年賀状にとても励まされたことを思い出します。
まど・みちおさんの詩(まど・みちお全詩集)に團伊玖磨さんが作曲した「やぎさんゆうびん」という歌がありますね。白山羊さんから届いた手紙を黒山羊さんが食べてしまい、用件を尋ねる手紙を白山羊さんがまたまた食べてしまい…と永遠に手紙が続いていくナンセンスな話なのですが、考えてみるとこの手紙の交換のおかげで、山羊さんたちの友情はずっと連なっていくのです。
若い人たちの意味のないメールも同じようにつながりを示すためには必要不可欠なものになっているようです。
そして、年賀状もあなたのことを忘れていないよ、という意思表示になっているのです。
経済というのはお金の交換です。結婚というのは家族の交換です。そして、社会というのは言葉の交換からできています。お互いに言葉をかけあうから前向きに歩いていけるのです。
おせち料理で「黒豆」を食べるのは「まめに(健康で勤勉に)」働けるよう、「昆布」を食べるのは「(よろ)こぶ」につながるから、などというのは駄洒落でナンセンスなことかもしれません。
でも、そうやって食事を共にして、互いに言葉を再確認し合うことで、今年もまた、心機一転明るく生きていこうと思えるのです。言霊を楽しむことができるのは言葉を自由に操る人間だけで、しかも、その中に魂まで感じてしまうのは多神教の日本人の特権です。
年賀状を年内に出せなくて正月からキマリの悪い気分でいる人がいるかもしれませんが、幸い、「戻り年賀」という言葉があります。相手からもらってから出すことですが、この言葉を知ると自分だけ取り残された気持ちから解放されると思います。
「明けたら」何が「めでたい」のか、とツッコミを入れる人もいるでしょうが、「目出度い」という気持ちが家族を「愛でたい」という、新たな決意のあらわれになるのです。
ということで、少し早いかもしれませんが…。
明けましておめでとうございます。
※おせち料理の駄洒落は例えば、次の通りです。
●こぶ巻き…「喜ぶ」に通じるから“こぶ”巻き。昆布は“ひろめ”とも言われたので世間に名が広まる=立身出世との願い。
●栗きんとん…「金団」と書き、その色から財産、富を得る縁起物とされる。見た目からも金塊を連想し、商売繁盛、金運をもたらす縁起の良いものとして、おせち料理の口取りに使われるという説がある。
●黒豆…マメに(こつこつと)働くことができるように、という意味。
●数の子…たくさんの魚の卵が集まったものだから、子孫がたくさんできて栄えるように、という意味。「カド」というのはニシンを表す方言。
●ごまめ…田作りは「ごまめ」とも呼ぶが、「五万米」と当て字をして縁起を担ぐ。
●錦(にしき)たまご…卵の白味と黄味をわけて、ニ色でつくった料理の二色(ニシキ)とおめでたく豪華な錦との語呂合わせ。
●里芋(さといも)…里芋は子芋がいっぱいつきます。子宝にめぐまれるように、との願いが入っている。
●八つ頭(やつがしら)…サトイモと似た芋で、頭になるようにと言うことで「人の上に立つ」の意味。※おりしも、2008年の賀状は大根を食べるネズミでした。大根もネズミも目出度いのですが、この場合は「だいこ・食う・ネズミ」ということで「大黒ネズミ」というめでたさになっていました。ネズミは大黒天の使いなのですが、駄洒落が好きなのですね。日本人は。
※もちろん、書けなかったが、宗教の違いのジョークというと次のが好きだ。
交差点で2台の車が正面衝突した。運転していたのはアメリカ人のキリスト教の牧師とアラブ人のイスラム教の聖職者であった。車は2台とも大破していたが、奇跡的にも2人にはケガはなかった。牧師が聖職者にいった。
「これだけの事故なのにお互いケガ1つないとは、まさに神の思し召しですな」
「なんですと?」
「私たちは宗教はちがうといえども、神に仕える身としては同じ。これは、それゆえに神がおこしてくれた奇跡でしょう」
「なるほど。そうかもしれませんね」
聖職者はその言葉にたいへん感動して、胸がいっぱいになった。牧師は車からワインを取り出した。
「奇跡といえば、このワインのビンが割れなかったのも神のご意思。ここは2人でこの良き日を祝して祝杯をあげませんかな?」
「しかし、私の宗教では飲酒は禁じられておりまして」
「しかし、一口くらいはよろしいのではないですか?」
聖職者ははじめは固辞していたが、牧師があまりに勧めるので一口だけ飲むことにした。牧師がビンから杯に注いでくれたワインは、芳醇な香りのするおいしいワインだった。続いて聖職者が牧師に返杯しようとすると、牧師はさっさと杯をしまい、ワインのビンにフタをしてしまった。聖職者が聞いた。
「おや?あなたは飲まれないのですか?」
牧師が答えた。
「ええ。警察の取調べが終わるまではね」