「世界とは言語が見る夢である」---ヴィトゲンシュタイン
四六判上製
1,680円
ISBN4-88293-292-X
06/2
装幀・五島聡
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下のコピーは僕が作ったものではありません。(^ ^; 『正しい言葉』なんて存在しない! 現代思想から文学・辞書・方言・ダジャレ・翻訳まで、多彩なテーマを網羅、「笑う言語学者」としてネットでも有名な著者の爆笑必至・オモシロ日本語論。日本語ブームにとどめをさす一冊! |
「正しい日本語」と銘打った本や番組が溢れている。あなたの日本語は間違っている、と脅迫されて、不安感に駆られる人も多いだろう。
こんな状況を笑い飛ばすのが本書だ。七回転べば起きるのも七回なのに「七転び八起き」だし、トウモロコシはトウもモロコシも両方「唐」のことだ。言葉はそもそも理不尽なモノで、そこに「規範」や「正しさ」を求めても意味がない。それよりは、味わい深い「おいしい日本語」を目指そう、というのが趣向だ。
驚くべきは著者の膨大な知識と絶妙のウィット。現代思想から落語、翻訳、ダジャレまで、様々な用例が笑いを誘い、私たちを「正しい日本語」の呪縛から解放してくれる。言葉との付き合い方が変わる一冊だ。 (300字紹介文)
『おいしい日本語』(出版芸術社)が出版されました。いまいち分かりにくいという人がきっといると思うので、もう一度、書いてあることを簡単にまとめておきます。というか、マスコミ用のプレスシートも兼ねて作っています。企画は2年ほど前で、日本語ブームに乗ろうと思って出版したのではありませんが、結果的にそうなってしまいました。
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「正しさ」というのを言語学では問いません。「レット・イット・ビー」、つまり「あるがままに」言語を調べるのが言語学です。ですから、今流行っているクイズ番組のように、「正解」を求めません。方言で言ったら×になるという番組があるのですが、方言のどこがいけないのでしょうか。「標準語」だって、東京の山の手の方言でしかなくて、ちょっと前の江戸っ子の言葉を残している訳でもなく、いつの間にか山の手に集まった人たちの「方言」をありがたがっているだけです。下町の言葉はヒとシの区別がつきません。ロンドンでも下町になるとH音が発音できません。「訛っている」のですが、「訛る」ということ自体、どこかに基準があるように思えますが、基準などないのです。
方言をバカにするような番組に国語学者が出ていていいのかと思いますが、こんな番組を作れるくらい、方言に対する意識が違ってきたのかもしれません。市民大学で方言を教えていた時、僕より年上の人がみんな方言コンプレックスを持っていたのに驚いたことがありますが、そんな人は見ない番組だと思われているのでしょう。
方言は大切です。村上龍『文学的エッセイ集』(シングルカット社)の「日本語で小説を書くということ」の中で村上は次のように書いていますが、方言はリアリティなのです。
方言は重要です。最近知ったことですが、札幌では援助交際している女子高生の比率が東京の何倍も多いそうです。それは、札幌で方言が希薄なことが原因の一つにあげられています。【…】その二人がテレクラで知り合う。テレクラの電話では中年男の訛り【この場合、宮城弁】が女子高生に伝わらなかった。二人はファミレスで合います。交渉がまとまりかけて、ふとしたときに中年男が宮城弁を使った。女子高生はきっとおばあちゃんを思い出す。そこで、何かが露出してしまうのです。宮城弁がわにしてしまうものを、無視することができる場所で援助交際は成立するのです。露わになるものは、リアリティです。自分が属してきた、あるいは属している社会のコミュニケーションのリアリティ。
言語に「正しさ」を求めていくのはタマネギの皮をむいていくようなもので、最後には何も残りません。というのも、言葉というのは言語によって「恣意的」(arbitrary)に内容の対する形式が決まっているもので、内容と形式の間に何らの必然性がある訳ではありません。「馬」のことを「ウマ」というか、「マー」というか「ホース」というか「シュヴァル」というか、というのは誰かが決めた訳ではなく、いつの間にか決まってしまったものなのです。ですから、必然というのはありません。小さい頃から気になっている表現で「スイッチを入れる」というのがあります。「切る」のは分かるのですが、どうして「入れる」ことになるのか今でも分かりません。こんな表現をおかしいと言い始めたらキリがないと思います。
似たようなものに「タブー」があります。「タブー」の多くはその因果関係についての合理的な説明がつきません。遡ろうとしても何も分からなくなるのが常で、どうして発生したかなんて説明はできません。ただただ、これはしてはならない、という形で残っています。ただ、「タブー」には一つの役割があると思えます。それは、タブーを共にする者どうしが、タブーを共有することでその集団を強化する---連帯感を深めるという社会的な効果を担っているのです。今の若者の言葉が「まちがっている」という人はそれだけで「大人」という集団を形成し、強化するために問題視しているのです。
園バスに流行りの言葉満ちる秋「おっぱっぴー」と子が降りてくる---俵万智 ドイツの哲学者フッサールは「伝統とは起源の忘却である」といいました。つまり、起源をたどっていくと、まるで違うものに行き着いてしまうことはよくあることなのです。
ある日の「タモリのジャポニカロゴス」でこんな問題が出たことがあります。
肉まんの反対語は次のうちどれ? A:アンパン、B:豚まん、C:ピロシキ
答えはピロシキだということでした。ピロシキ(=油で揚げる)←→肉まん(=油で揚げない)だから。「生地で包む肉や野菜を詰めた料理」という共通点で考え、肉まん、あんまん、ピザまん、カレーまんは同類のもの。肉まんと豚まんは同じものとして、油で揚げないピロシキが正解だという。金田一秀穂はじっちゃんを泣かせる気か!?反対語というのは言語学でも難しい概念の一つで、対偶だって反対ということになります。つまり、妹の反対は姉かもしれないし、弟かもしれないし、対偶の兄が正反対として正解かもしれない。どこに注目するかで答えは変わるはず(論理学では「ヘンペルのカラス」が有名)。そんなことも分からないで問題を作るな!といいたくなります。
太宰治が反対語で遊んでいるのを知らなかったら、『人間失格』です。このあと、段々怖い話になっていくのですが…。
またもう一つ、これに似た遊戯を当時、自分は発明していました。それは、対義語(アントニム)の当てっこでした。黒のアント(対義語(アントニム)の略)は、白。けれども、白のアントは、赤。赤のアントは、黒。
「花のアントは?」
と自分が問うと、堀木は口を曲げて考え、
「ええっと、花月という料理屋があったから、月だ」
「いや、それはアントになっていない。むしろ、同義語(シノニム)だ。星と菫(すみれ)だって、シノニムじゃないか。アントでない」
「わかった、それはね、蜂(はち)だ」
「ハチ?」
「牡丹(ぼたん)に、……蟻(あり)か?」
「なあんだ、それは画題(モチイフ)だ。ごまかしちゃいけない」
「わかった! 花にむら雲、……」
「月にむら雲だろう」
「そう、そう。花に風。風だ。花のアントは、風」
「まずいなあ、それは浪花節(なにわぶし)の文句じゃないか。おさとが知れるぜ」
「いや、琵琶(びわ)だ」
「なおいけない。花のアントはね、……およそこの世で最も花らしくないもの、それをこそ挙げるべきだ」
「だから、その、……待てよ、なあんだ、女か」
「ついでに、女のシノニムは?」
「臓物」
「君は、どうも、詩(ポエジイ)を知らんね。それじゃあ、臓物のアントは?」
「牛乳」
「これは、ちょっとうまいな。その調子でもう一つ。恥。オントのアント」
「恥知らずさ。流行漫画家上司幾太」
「堀木正雄は?」
この辺から二人だんだん笑えなくなって、焼酎の酔い特有の、あのガラスの破片が頭に充満しているような、陰鬱な気分になって来たのでした。ついでに、マザー・テレサは「愛の反対は憎しみではありません。愛の反対にあるものは無関心なのです」と語っていますね。
言葉は対照的ではない。つまり、“How old are you?”という言い方があっても、“How young are you?”はない。“The bridge is 30-meter-long”というが“The bridge is 30-meter-short.”とはいわないのです。princeに対してprincess, actorに対してactressと長くなるのが普通で(bride花嫁、bridegroom花婿だけが例外)あります。これらに対して今さら文句をいってもしようがないことなのです。
□ 古い形を調べていけば何かが分かるかもしれない、というのは誰でも持つ感情ですが、最初から必然性がないのですから、「正しさ」を求めることはできません。語源にしても同じです。インドやヨーロッパのほとんどの言語はルーツが同じ「印欧語」というものに属しています。ここからどのように変化していったかはたどれるのですが、最初の形は学者によって大いに違っています。いつか「正しさ」が分かる、ということもないようです。それほど、言葉は複雑に変化しています。新しくなっています。「あたらし」ではなくて「あらたし」の方が古いといっても、誰にも通じません。今、ここでどのように使われているかが問題なのです。語源的に迫ってきたら「奥様」「ご主人」なんて言葉も使えません。「お前」は尊敬した言い方になってしまいます。
母親を「ママ」というのは日本人としておかしいという人がいます。でも、「おかあさん」という言い方が定着したのは明治末期の国定教科書からで、それまでは「かかさま」「かあちゃん」「かか」「おっかあ」などと揺れがありました。ですから、「おかあさん」というのは抵抗があったと言われています。
別に敬語を使うな、ということではありません。「言葉は文化の華、敬語は言葉の華」ということがありますが、きちんと使えた方がいいに決まっています。ただ、「きちんと」ということが曖昧だし、人間関係が複雑になっているので、容易ではなく、あまり気にしすぎてコミュニケーションをおろそかにすることはよくない、と言いたいのです。
「ら抜き」や「さ入れ」も同じです。言葉が定着するにはそれなりの理由(一つとは限りません)があります。
「一個上」というのも本に書いていますが、同じようなものです。「一個の人間」という言い方は武者小路実篤でさえ使っています。内田百
は落ちた雷の数え方を考えて、適当な言葉がないのはおかしいと言った。結局、棒状になって落ちるのだから一本、二本がよかろうとしているが、現代の感覚だと一発、二発かもしれない。
例えば、最近出た梶原しげる『そんな言い方ないだろう』(新潮新書)には次のようなことが書かれています。
長い間刑務所に入っていて出所した人に記者が、「○○さんは十年以上獄中の方に入られていたんですが……」もちろんこれは「獄中にいた」または「刑務所に入っていた」が正解です。
畳語的だし、「方」を使うのも嫌な感じがして、もっともだと思うのですが、本人を前にして「監獄にいた」「刑務所に…」なんて言えますか?この場合は間違う方が正解だと思います。
「〜からお預かりします」という言い方も確かに奇妙で、『続弾・問題な日本語』(大修館)には次のように書いてあります(「問題な」としたのは面白いが「続弾」って…)。
「千円からお預かりします」は、「まず千円から、仮にお預かりします」という気持ちで言っていると思われますが、表現としては誤りです。
「千円(を)お預かりします」は、代金を受け取る前の表現としては問題ありませんが、代金をそのままレジに入れたり、代金ちょうど受け取ったりするような、「預かる」段階のない場面で言うと、不適切な表現になります。
結局どうしろというのか分かりませんが、理由はどうあれ、必要があるから定着しているのです。言葉には役割(機能)というものがあって、それぞれに役割があるから「間違っている」とされても、広く使われているのです。ある物体も座ればテーブルだし、腰掛ければ椅子になる、というのが基本的な考えです。「いいテーブル」も「悪い椅子」もありません。はじめから「テーブル」というものが与えられている訳ではないのです。ただ、本の中にも書いていますが、3本脚のテーブルも椅子も機能的ではあるけれど、不安定なので4本とか5本とか余計なものをつけます。これが「余剰性」というもので、自然言語と人工言語を分ける大きな違いとなっています。挨拶も余剰なものですが、社会生活を営むときにはやっぱり必要ですね。一人じゃ生きられませんから。
『続弾・問題な日本語』には次のようなことも書いてあるのですが、「お疲れ様でございました」と若い人に言われたら、一体、何ごとがあったのかと思ってしまいます。
「御苦労様」は、目上の人が目下の人をねぎらうときに言うのが適切です。目上の人には、「お疲れ様」を丁寧に言った「お疲れ様でした」「お疲れ様でございました」などと言うのが適切でしょう。
若者が多用する言葉の一つに「というか」というのがありますね。これだって、相手の発言を完全に否定せず、別の考えを提示していると考えれば、相手への心配り、自分の心の繊細さを伝えていると思えば、日本的な、すばらしい表現だともいえるのです。
外来語を使うのは間違っているという人が相変わらずたくさんいます。「ホテル」は外来語だから「宿屋」といえ、というのですが、「ホテル」と「宿屋」では意味がまるで違います。「ホテル」と「旅館」も違いますし、「旅館」だって中国からの立派な外来語です。「ホテル」と「ペンション」も違います。ハワイへ行くと「コンドミニアム」というところに泊まることがありますが、これは「集合住宅群」であって間違いだという人もいるかもしれませんが、明らかに「ホテル」の一種で「ホテル」ではありません。つまり、言葉というのは箱に入った風船のようにいくらでも詰め込むことができるのです。そして、新しい風船が入ったとたんに、今まであったものの価値(意味)が違ってくるのです。それだけ柔軟なものなのです。それで「乱れる」ようなヤワなものではないのです。言語は。
新しい言葉の分だけ、それだけ新しい概念が必要となってきているのです。「セクハラ」というのも「ドメスティック・バイオレンス」というのも気づいてはいたが、意識されなかったことを言葉できちんと認識できるようにしたから定着したのです。「セクシュアル・ハラスメント」を「セクハラ」と略した段階で日本語の概念の一つとして機能しているのです。
ヴィトゲンシュタインもいうように「言葉の意味というのは言語におけるその使い方」なのです。言葉を分解して「意味素性」というものを考えて、説明しようとした人もいましたが、無理です。「独身」というのは「成人」「独身」「未婚」という意味素性で考えてみても、何も説明はできません。つまり、若い女性が「だれか独身の人はいないかしら?」といっても、その中には年寄りやホモは入らないし、フリーターもアル中もヤクザも入りません。「独身」という言葉の意味一つとっても簡単に定義できないものなのです。
「進歩的」という言葉だって、こんな風に使われます。しかもこれは鎮魂の歌の冒頭なのです。
「花の名」 茨木のり子 (『鎮魂歌』童話屋)
「浜松はとても進歩的ですよ」
「と申しますと?」
「全裸になっちまうんです 浜松のストリップ そりゃ進歩的です」
なるほどそういう使い方もあるわけか 進歩的!
【…】ピカソの絵を見て「抽象的で分からない」という人に「抽象ってどういう意味?」と聞いたらきっと説明できないでしょう。だが、正しく使っていることは間違いありません。人は「意味」を知らなくても言葉を「正しく」使えているのです。また、ある時点で、ある場所での使い方であって、過去にどうだったかというのは意味がありません。言葉の価値というのは他の言葉との関係によって生まれてくるのですから。
美徳そのものが悪徳に転ずるも用法次第、行動次第で悪徳もまた名誉をうる。(ロミオとジュリエット) 森羅万象、というか世界の切り取り方が文化によって、そしてその基盤になっている言語によって恣意的でバラバラなのです。兄弟姉妹を4つに分割するか、欧米語の多くのように男/女とするか、インドネシア語のように年上/年下(兄姉“kakak”/弟妹“adik ”)とするかは言語によって違っています。当たり前だと思っていると、翻訳する時にとまどってしまうのです。どちらがいいか優劣はありません。フランス語で「八百屋」は“Quatre saison”(四季を売る店)といいますが、日本語の「八百もの品を売る店」というのも味わい深い言い方です。
「正しさ」を求めない言語学者は「だらしない」というかもしれませんが、この「だらしない」だって、「しだらない」から来ていて「ふしだら」にその原形を残しています。といって、今さら、「君の日本語はしだらないよ」という訳にはいきません。言葉は通じなければ意味がないのですから、自分がどんなに「正しさ」を基に話していると思っても、自閉的な言語を語っているだけのことになります。ちょうど、究極の駄ジャレを求めて、ついには誰にも分からない駄ジャレをいうようなものです。その意味で言語は人間を超えた「制度」として働いています。人間が作ったものなのに、人間を超えてしまっているのです。ここに大きな矛盾があると思います。
「正しい言葉」を目指すと人間は疎外されることになります。自分の言葉を大切にしなければならないのに、「正しい言葉」という、ありえない規範で言葉を縛ってしまうのです。そして、言葉に裏切られてしまいます。そうではなくて、今使っている言葉を豊かに使うことが大切なのです。人間が作った言葉が逆に人間に刃向かってくる。これはまさに「疎外」としか言いようがあり得ません。資本主義の論理もそうですが、こんな皮肉なことはありません。
『星の王子さま』で王子さまは「あの頃、何も分からなかったんだ。あの花の言うことではなくて、することで判断しなければならなかったんだ」といいます。言葉によって惑わされてしまうのが人間です。行為で判断することができず、記号で判断してしまうのです。
誤解は誰だって避けたいと思うでしょう。ただ、誤解がない社会というのがあったらおかしいのです。一つしか正解のない世界になって進歩はなくなります。誤解があると思うから、言葉は面白いのであって、誤解がないと思ってしまったら、相手を理解出来ないときに相手を全く認めなくなってしまいます。誤解がなかったら、ジョークの一つも生まれてはきません。だから、誤解は必要なのです。
野口惠子『かなり気がかりな日本語』(集英社新書)というようには心配していないのですが、次の部分に関しては同意してしまいます。そのためにも誤解ということがあるのをいつも意識しなければならないということです。
現実の口頭コミュニケーションにおける正しく美しい日本語の条件とは、相手に誤解を与えないことと、相手に不快感や不信感を抱かせないことに尽きるのではないかと思う。相手に誤解を与えないためには、現代の日本人が共通理解事項としているところの日本語の文法、語彙、音韻などの体系を無視するわけにはいかない。
もちろん、「美しい日本語」というのも虚構です。竹西寛子は『言葉を恃(たの)む』(岩波)の故郷広島での講演で「美しい日本語という言い方は、私はしたくないんです。誰かがある時使った言葉が美しかったのであって、誰かがある時使った言葉が醜ければ、日本語が美しいとは言えないです」といい、さらに「日本語は美しいという考えを、私はまず捨てたいと思います」と宣言している。その上で、言葉を粗末にすることは生き方も粗末にすることだと語っています。
多和田葉子は『エクソフォニー―母語の外に出る旅』(岩波)で学んだ言葉である外国語は母語である日本語よりもコントロールができて(振り回されない)、好き嫌いもはっきりしているといいます。そして、次のように書いています。
もちろん、わたしの書くドイツ語は、ドイツ人の書くドイツ語とは違う。ちょっと抜けている、つまずきそうな、変なドイツ語なのだろうと自分では思っている。だからこそ書くかいがあるのではないかと思う。私は<美しい日本語>をしんじないので、もちろん、<美しいドイツ語>も信じない。そういう国粋主義的な発想を離れて、これからも日本語が母国語ではないのに日本語で小説を書く小説家がふえてくれればいいと思う。
フランス語が美しいという人も多いが、ドイツ語だって美しいし、中国語だって美しいのです。オスカー・ワイルドは「真面目が肝心」(The Importance of Being Earnest)という戯曲(日本では宝塚のEarnest in Loveで有名)にはこんな台詞が出てくる。
Lady Bracknell【…】French songs I cannot possibly allow. People always seem to think that they are improper, and either look shocked, which is vulgar, or laugh, which is worse. But German sounds a thoroughly respectable language, and indeed, 【…】 ブラックネル卿夫人 【…】みなさん、フランス語というと、すぐみだらな内容を想像して、ぎくりとしてみせたりニタニタ笑ったり、どっちにしても困りものです。それにひきかえ、ドイツ語は、音の響きからして気品がある、ほんとよ。【…】 『おいしい日本語』の中で強調したかったことは、無色透明無味乾燥だと思える言葉やその他のメディアが決してそうではないということです。言葉自体がそうですし、「正しい」言葉を記述した辞典も透明性に欠けています。翻訳だって単行本になってしまうと一つの権威として働きますが、危うい部分がいっぱいあります。マスメディアだって、中立の立場を貫くことなどできなないし、自分たちのメディアだけが「正しさ」を備えていると思うのは誤解にすぎません。そうでなければ、メディアの傲慢というものです。こちらの方はメディア・リテラシー論に譲りますが、いずれにしろ、人間を囲んでいる環境が既に埃にまみれている、透明な眼鏡で見ていると思っていてもサングラスをかけているのと同じだということを知ってもらいたいと思います。
「正しい日本語」とか「美しい日本語」というのは幻想でしかなく、それを説こうという人はイデオロギーを語っているにすぎないのです。「国語」というのは明治期に作られたイデオロギーだったのですよ。
石原千秋は『国語教科書の中の「日本」』(ちくま新書)の中で喝破しています。
もちろん、「真理」というのも眉にツバをつけて見るべきもので、絶対の真理といわれたら、それは科学ではなくて、宗教だと思ってください。
正しい考えというのもないだろう。パスカルは『パンセ』で次のようにいう。つまり、自分の考え、なんてものはないのだ。
ある著者たちは、自分の著作について話す時、「私の本、私の注解、私の物語、等々」と言う。 そう言う彼らは、一戸を構え、いつも「拙宅では」を口にする町人臭がぷんぷんしている。彼らは むしろ「われわれの本、われわれの注解、われわれの物語、等々」と言うほうがよかろう。 というのは、普通の場合、そこには彼ら自身のものよりも他人のもののほうが、よけいはいっている からである。
その意味で、『おいしい日本語』は言語学のポストモダンを狙っています。つまり、「正しさ」というものには揺らぎがあるということです。言葉の中にも揺れや揺らぎがあって、「正しさ」から遠く離れているように…。
そうそう、「大人のための…」としているのは、新解さんのところでイヤらしいところがあるためというよりは、子どもが屁理屈をいって「正しい日本語なんかないんだよ」と言い出さないためです。今現在の規範は(正しいかどうか別にして)ちゃんと学ばないとダメだよ、という気持ちが入っています。
ちなみに「美しい日本語」というのも幻想です。すぐ後に出た安野光雅画伯と『国家の品格』の藤原正彦の『世にも美しい日本語入門』(ちくまプリマー新書)という本が出ました。二人が言葉の美しさにこだわるのは「美しい日本語に触れないと、美しく繊細な情緒が育たない」からだといいます。ひらがな、かたかな、漢字を自在に使いこなす日本人は世界一言葉に敏感な国民に違いないが、現在、小中学校の国語の時間が減らされて十分な教育ができないため「それに伴って思考力も落ちていく。情緒力も落ちていく」ことに危機感を抱いているのです。この点では全く賛成です。「美的感受性を自分の手でつかむためには、何と言っても本を読むことが大切」で古典文学をどんどん読ませる。ルビをふることで難しい漢字にも慣れさせる。声に出して読ませれば五七五七七の快いリズムが心の中に刻まれる。そして「当座はその意味はわからなくても、記憶の中に沈殿して、大人になってわかってくる」といいます。これにも大賛成です。ただ、何をもって美しいというかどうかは別の次元だということです。欧米でも詩を朗読する教育はよく行われていますし、たくさんの詩歌を覚える教育がされています。日本語を大切にするという意味でいいことだと思います。ただ、どの日本語が「美しい」かについては議論があるところです。俵万智の歌はいいなぁと僕は思うのだけれど、そうではない年寄りも多いのです。五七調の詩が好きな人もいるだろうけれど、僕はそんなに好きではないし…。
出版後で読んだのですが、島田雅彦も『妄想人生』(毎日新聞社)で次のように書いていました。まるで、僕の結論みたいです。
…いくら文豪や日本語学者が、これこそおくゆかしい日本語だといって啓蒙しても、老人の郷愁をそそるだけではないのか。それに見合う様式が消えてしまったのだから、若い者には通じない。平易だが、さまざまなニュアンスが絡まった表現を共有しうるコミュニケーション文化をつくることが必要不可欠と思える。
□ メタで物事を考えることができるから言語学は有利なのです。さらにその上のメタ・メタで考えることもできます。メタ・メタのジョークは次のような小咄みたいなものです。
「世の中、ヒマな人がいるねぇ、いちんち中、釣りをしてぼぉーっとしているのがいたよ」
「どうして一日だって分かった?」
「そいつをずっと見ていた」だから、言語学とか記号論は日常性批判です。「見えてる」といってもちっとも見えてないことを指摘するのです。「群盲象を撫づ」なのです。
現代思想がよく分かっていないのではないかという批判もあるかもしれません。確かに分かっていません。バルトやフーコーの本が出ると買うけれど、何一つ分からず、解説書を買えばもっと分からなくなり、アポリアに入ってしまうのです。アポリアって何だって?と思うとまた分からなくなってアリストテレスが論理的どうたら難点こうたらという話になってしまい、哲学素人は道をなくしてしまうのである。
しかし、そんなことを言ってばかりもいられないので、目をつむって道を飛び降りることにした。だって、現代思想の多くがソシュール以降の現代言語学に寄っていて、ルーツの言語学を学べば、現代思想も分かるかもしれないからです。
それに、現代思想はマルカム・ブラドベリの『超哲学者マンソンジュ氏』(平凡社)も述懐しているように、難しいものは難しいのです。
構造主義とディコンストラクションの内容を知るのは困難である。完全にマスターするとなるともはやほとんど不可能である。これは驚くべきことではない。現代にあって思想は複雑であるほかなく、歴史は難解たることを避けられず、テクノロジーもまたしかり、しかもその晦渋さは、日々に増す一方である。
「正しさ」がないとしたら路頭に迷ってしまうのではないか、という人もいますが、言語というのはそんなものです。クイズの正解も「制度」の一つとして、なるほど、今、言葉に関してこんなことに「正しさ」を求めているのか、という意味で意義があると思います。ソシュールの始めた記号論は客観的事実を求めるのではなくて、言説やそのありようを調べる学問だからです。
だから、この本は「正しい」とか「間違っている」という基準でとまどうよりも日本語のおいしさを楽しみ、コミュニケーションを豊かにしていこうという提案なのです。
村上春樹も『ダンス、ダンス、ダンス』で語っています。
我々はみんな架空の世界で架空の空気を吸って生きていた。でもとにかく、何か喋ろう。自分について何か喋ることから全てが始まる。それがまず第一歩なのだ。
誤解のところでも書いていますが、たくさんの「誤解」を生み出せる作品の方が豊かな作品だといえるのです。シェイクスピアはこの400年間にさまざまな「読み」というか「誤解」を生み出しました。最近では「オリエンタリズム」から読み解くこともできます。その一つひとつはとても興味深いものがあります。ですから、読解の「正しさ」などというものはないのです。もし、求めるとしたら、“plausibility”(妥当性、もっともらしさ)だと思います。この言葉は“applause”(拍手喝采する)から来ていることから僕は「喝采性」とでも訳すべきだと思いますが、読んだ人みんながスタンディング・オベーション(ラテン語の“ovatio”「歓喜」から)してくれるような「読み」がおいしいということです。
だから、『正しい日本語』とせずに、『おいしい日本語』としたのです。つまり、「正しさ」を言葉に求めることはできないし、「美しさ」というものも定義が難しいとしたら、「おいしい日本語」を求めればいいのではないか、ということでタイトルをつけました。糸井重里以前だったら、「うまい日本語」としたかもしれませんが、上手・下手ということではなくて、おいしさを感じることで言葉に対する味わいが拡がってくれればいいなと思ったのです。適当に、いい加減に書いていますが、言語学の基本的な考えはキチンと伝わるはずです。
理解しあうのはとても大事なことです。理解は誤解の総体に過ぎないと言う人もいますし、ぼくもそれはそれで大変面白い見解だと思うのですが、残念ながら今のところぼくらには愉快な回り道をしているような時間の余裕はありません。最短距離で相互理解に達することができれば、それがいちばんです。ですから、いくらでも質問してください。
-----「かえるくん、東京を救う」『神の子どもたちはみな踊る』(新潮社)「正しさ」を求めるから言葉の壁が立ちはだかります。「理想」というのは言葉でしかないのに、人間が勝手に作った壁です。「いい日本語」というヌエのようなものを追っていては言葉の森で迷うばかりです。そうではなくて、いっそ料理しておいしくいただいてしまおう、というのがこの本の主旨なのです。
「正しい日本語」がなかったら困る、という人もいると思いますが、正しさなどない、というところから、言葉を反省して、大切に使っていけばいいのではないかと思います。
すべての言葉は仮の名にすぎない
混沌を生きる勇気を失うとき
私たちは死を超えてゆくことができない---『谷川俊太郎の問う言葉答える言葉』 そうそう、この本は女子大の図書館によく入っていて、最初とまどったのだけど、料理本と間違えられていることに気づきました。どんな形でも蔵書されたら、いつか誰かが読むかもしれません。清水義範の『蕎麦ときしめん』も書店で料理の棚に置かれていたというし…。そうそう、清水の『国語入試問題必勝法』は参考書の棚にあったという。
一貫性に欠けているという批判もあると思います。最初に断っているように言語学概論をめざした訳ではありません。エマソン(Ralph Waldo Emerson)の言葉(“Self-Reliance”)に“A foolish consistency is the hobgoblin of little minds, adored by little statesmen and philosophers and divines. ”(愚かな一貫性というのはちっぽけな政治家や哲学者や神によって崇められるだけの小心者の幽霊にすぎない)といいました。言葉には一貫性などありませんし、僕の本にもありません。言語学は「ないものはない」学問なのです。
フランシス・ベーコン(Francis Bacon)は1620年に出した『ノヴム・オルガヌム』(Novum Organum)で哲学を3つのタイプに分けました。クモ型とアリ型とハチ型です。クモ型というのは自分の体からクモの糸を次々に出して網を作りますが、同じように自分の原理・原則を中心にして、すべての観念をひねり出し、推理の網を張り巡らせるもの、つまり、演繹的手法ですね。アリ型というのはひたすら地上を這い回って餌を集めるアリのように、個々の事実ばかりを集め、データをたくさん集めればいつか判断できると考える、帰納的手法を指します。ハチ型というのは花から花へ移動しながら餌を集めてくるものです。材料を集めてくるが、そのまま使わず、ハチの巣のように自分の力で形を変えるのです。精神の生み出した原理や観念に頼ることも、観察から得た個々の事実だけに固執することもせず、変化させて、理性の中に蓄えることこそが大切だとベーコンは考えたようです。僕の本は明らかにハチ型で、一貫性を持たず、ある話から別の話へと飛んでいきます。
『おいしい日本語』の中で書いたことは既に僕が教わった多くの先生方や言語に関する先達が既にどこかで書いておられて、自分の自身の考えがないように思えてきます。つまり、言語学や記号論によって日常性を批判すると、自分自身が消えてなくなってしまうような気がします。
では、『おいしい日本語』に価値がないかというと、そうした諸先生方の話をまとめることで、言葉に対する見方をどう変えれるか(変えられるか)という点でのみ、存在理由があると思います。
口幅ったい言い方をすれば、ソシュールの『一般言語学講義』も今まであった学説をうまくまとめただけです。自説は何かと問われてもソシュールは特にないよ、と言ったに違いありません。それでもインパクトがあったので、ソシュールをまったく離れたところで、「誤解」から革命を生んだと考えることができます。
ソシュールの天才(『講義』とは別に天才であったことは間違いありません)とは無縁の、三流学者の僕が、「いい加減」にまとめた本として、暖かく(温かく?)読んでいただければ幸いです。
グルーチョ・マルクスのいうように「この本を手に取った時から机の上に置く時まで、私は笑いの発作を押さえきれなかった。いずれは中に書いてあることも読んでみようと思う」(From the moment I picked it<the book> until I laid it down, Iwas convulsed with laughter. Some day I intend reading it.)というくらいの気持ちで読んでほしい。
妄言多謝。
文章という不完全な容器に盛ることができるのは不完全な記憶や不完全な想いでしかないのだ。
-----村上春樹『ノルウェイの森』
【初掲:2006年2月20日発売日】
※間違いがあれば、何でもご指摘ください。「いい加減」な部分が必ずあることをお詫びします。版が新しくなれば責任を持って直します。
勝手ですが、ご質問はご遠慮ください。最初は親切に答えられても限度があります。
語源や用法については『日本国語大辞典』(小学館)でまず調べてください。大学生は大学の先生に聞いてください。大学院生は自分で考えてください。何よりも、僕が知っているほとんどのことはホームページに書いてありますから、そちらを読んでください。よくある質問に対する答はこちらです。(^^;